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No66147 の記事


■66147 / )  世界構造(下)/フェザリーヌの魔法の正体
□投稿者/ Townmemory -(2011/10/25(Tue) 13:39:12)
http://blog.goo.ne.jp/grandmasterkey/
    「世界構造(下)/フェザリーヌの魔法の正体」

         ☆

     今回の内容、伝わるかどうかかなり不安なのですが、なんとか工夫して書いてみます。
     前回 no66120 の続きです。前回の内容を頭に入れないと絶対理解できないようにできています。


    ●フェザリーヌと八城十八

     さて。図1をさらに大きく広げた、図2を示します。


    オリジナルサイズ
    (図2・見た現実をそのまま書き写した「偽書」)


     図の内容を説明します。

     中央に引いた横一本線は、図1と同様、「幻想と実体をへだてる境界線(鏡)」です。
     境界線の上側が幻想側。下側が実体側です。
     中央に横並びになっているタマゴ型と四角囲みも、図1と同様に「幻想側の事件」「実体側の事件」「その世界に存在する文書」です。
     たた違うのは、項目をEp5まで増やしたことと、「ひぐらしの世界」を付け足しました。(Ep5までしかないのは、スペースの関係であって、深い意味はありません)

     そして、幻想側にフェザリーヌという人物がいる。
     実体側に八城十八という人物がいる。

     フェザリーヌと八城は「同一人物である」というのが、ポイントになります。

     いわば、鏡の前に立った1人の人物のようなもの。
     鏡の前に立つ私が実在なのか、鏡の向こうに立つ私が実在なのか。それは決定できないというパラドクス。
     そのパラドクスのはざまに、ひとりであるはずの人物がふたり存在しちゃっているという考え方をしてみて下さい。
     どっちが本物なのか、といった問いは意味をなしません。

     その「意味をなさない」ことを、縁寿は鋭く読み取り、「あんたがフェザリーヌなの? フェザリーヌがあんたなの?」という素晴らしい的確な名言を残しています。こういう縁寿の頭の良さがわたしは大好きだな……。


    ●「小説ひぐらしのく頃に」を書いたのは八城十八

     さてさて。
     以下のお話、図を見ながら、矢印を追いながら読み進めてみて下さい。


     これら一連のゲーム、幻想側に、フェザリーヌというすごい特権的なキャラクターがいて、高いところから、すべての世界のすべての内容を見下ろすことができます。
     この人は、全部の世界が、順繰りに発生しては次の世界に移行する、そして別の物語が語られる……それを全部あますとこなく見ることができる立場なのです。

     ところで、
     フェザリーヌという人は、どうやら「ひぐらし」というゲームの関係者でもあるっぽいです。
     ということは、「ひぐらし」の内容を、この人は全部見ました。最初から最後まで、細かい事情も含め、あますところなく見ることができました(ということにします)。

     フェザリーヌと八城十八は、同一人物です。

     ということは、八城十八はひぐらしの全エピソード全内容を知っています。全部知っているということは、ひぐらしの内容を、ひとつ残らず、すべてあまさず書くことができます。
     八城十八は「ひぐらし」の内容を書くことができるので、「小説ひぐらしのく頃に」は、うみねこの世界に存在することができます。
    (実際に存在しています)

     そう……「うみねこ」の中で、ときどきひょいと話題にのぼる「小説ひぐらしのく頃に」を書いたのは、フェザリーヌとしてひぐらしゲームを見てきた八城十八(幾子)さんであるだろう、というふうに考えるのです。筆名くらいは別だったかもしれないですけどね。


     ……という内容を示すのが、図でフェザリーヌからひぐらしに向けて引いた「見る」の矢印。それと八城十八からEp1〜3に引いた「書く」(ひぐらし小説化)の矢印です。

    (べつに「ベルンカステルの実体側存在(鏡の存在)」が書いたというのでもかまわない・論旨は変わらない、のですが、説明としてわかりやすいので、「八城十八が書いた」として話を続けます)


    ●フェザリーヌは、全ての世界を上から見ていた

     さてさてさて。

     ひぐらしの内容を「見た」ので、小説ひぐらしを「書く」ことができたフェザリーヌ八城さん。
    (フェザリーヌ八城って書くと、なんか頭の悪そうな大家が建てたマンションみたいですけれども(^^;))

     フェザリーヌ八城十八さんは、ひぐらしと同様に、例えば、「Ep3」という世界で起こった事件も、高いところから偉そうにふんぞり返って、観覧することができました。
    (フェザリーヌがEp3を「見た」とする矢印を参照)

     Ep3を観覧することができましたので、Ep3の内容を、あますとこなく知ってます。

     知っていますので、その内容を、PCでぱちぱちと書きだして、文書にして、インターネットに放流することができます。
    (Ep4へ向けて、「Ep3偽書を書く」という矢印を参照)

     こうして、Ep4世界の「存在する文書」欄に、「Ep3偽書」が存在することになりました。

     例えば、
     Ep4の世界八城十八さんがいます。
     彼女はフェザリーヌでもあるのですから、Ep3世界の顛末を頭からおしりまで通覧した存在です。
     ですから、Ep4世界の八城十八は、Ep3世界で起こった事件の内容をこと細かに書いて「偽書」として発表することができます。

     例えば、
     Ep5の世界八城十八さんがいます。
     彼女はフェザリーヌの目を通して、Ep3世界とEp4世界の顛末をまるっと通覧した存在です。
     ですから、Ep5世界の八城十八は、Ep3とEp4の事件をそのまんま書き写して「偽書」として発表することができます。

     Ep6の世界に存在する八城十八さんは、同様にして、Ep3とEp4とEp5の偽書をネットに放流することができ、

    「……End of the golden witch。読ませてもらいました。……人の親族を、よくも好き放題に殺せるものです。」
    (Episode6)

     というイヤミを縁寿から言われることができます。

     そう。フェザリーヌと八城十八は、同一人物なので、フェザリーヌが高いところからお釈迦様気取りで観覧した各世界の物語を、八城十八は知ることができます。
     知ったのなら、そのまま書き写せば良い。
     八城十八は、「別の世界で本当にあったこと」を、まるで自分が考えついたかのような顔で、ネットに発表することができます。


     八城十八は、小説家でした。
     つまり、「書く」存在。
     フェザリーヌは、「観劇の魔女」でした。
     つまり、「見る」存在。

     見る者と書く者が同一人物として重なったとき、このようなサイクル構造が発生するわけです。「観劇の魔女」とは、「見る」という機能を負った存在であることを強く示すための称号であろう、と言えます。

         *

     ところで、ちょっとだけ残念なことに……。
     Ep3の世界にいる八城十八さんからみて、「Ep4の世界」というものは、まだ発生していません。
    前回の内容を参照して下さい。Ep3の世界が終わることではじめて、Ep4の世界が生まれるのでした)
     だから、Ep3世界の八城十八さんは、Ep4やEp5の偽書を書いて発表することが、できません。……たぶん。八城十八まわりの描写でも、そういう偽書を書いた形跡はないです。彼女に書けるのは、もう閉じてるゲーム盤の中身だけです。


    ●Ep3世界にEp3偽書を放流できない

     補足として。

     今までのお話では、「Ep3の偽書を、Ep4に放流する」という想定をとっています。

     Ep3世界の八城十八が、Ep3偽書をネットに発表してもよさそうな気がしますね。
     そう捉えても、かまわないとは思うのですが、わたしはそうではないことにしています。

     というのは。

     Ep3世界の中にいる八城十八にとっては、Ep3の物語は、まだ続いている(終わっていない)。少なくとも八城十八はそう認識しているはずだからです。
     Ep3世界の八城十八は、Ep3の事件が終わったあとも、その世界に居続けます。
     1986年に事件が起こって、それからずーっと時が経って、十年なり二十年なり五十年なりしたあとに、「新たな証拠」が見つかり、つまり「新たな真実」が発生して、せっかく書いたEp3偽書が無効になってしまう可能性がゼロではないからです。

     新たな証拠に基づく、新たな真実。それが古い真実を書き換えてしまう……。つまり、八城十八は、「後期クイーン問題」(竜騎士さん用語としての)によって負けてしまう可能性があるので、Ep3世界ではEp3偽書を発表することができないのです。たぶん。

     Ep3世界でEp3偽書を発表するということは、つまり「正解を書く」ということですからね。
     正解を書いたのに、何か後になって、新証拠っぽく見える変なものが発見され、みんなが「これ新証拠じゃん!」といって信じ込み「伊藤幾九郎偽書ってだめじゃん」っていうことになったら、くやしくて歯ぎしりが止まりません。

     でも、Ep4の世界でEp3偽書を発表するのなら、その危険はありません。だって、「もともと(その世界では)起こってもいないこと」を書いているのですからね。八城十八の偽書というのは、「全然真実ではないけど、なんか異常にそれっぽくてリアルで無視できない」というポジションのものなわけです。


     でも、単純にこういう理解でも良いです。こっちのほうがスマートで、構造的ですてき。

    「Ep3の世界では、Ep3の内容とEp4の内容がメッセージボトルとして発見されるので、Ep3偽書を発表しても、“単なるメッセージボトルのコピー”と見なされてしまう」

    前回を参照して下さい)


    ●「最初の二粒の種」はベアトリーチェの魔法の素

     そしてもうひとつ重要なこと。
     Ep1とEp2は、絶対に八城十八の偽書であってはならない。


     なぜなら。
     Ep1の世界に、「Ep1を描いたメッセージボトルと、Ep2を描いたメッセージボトル」が存在しているがために、Ep1世界から分岐したEp2世界が発生できるのです。
    (そうでしたね? しつこいですが、前回をごらんください)
     だから、この2つの物語を書いたのはベアトリーチェでなければならない。

     オリジナルの第一世界であるEp1世界に、メッセージボトルという形で、二つの真相が提示される。
     どちらか片方が真相だ。
     ……なら、もう一方の扱いはいったいどうなるんだ?

     ということになったとき、生きた猫と死んだ猫。エヴェレット解釈によって、「もう一方が真相である別世界」がジェネレートされる。

     そのようにして、常に「ひとつの世界に、二つの真相」がメッセージボトルで提示されるので、「もうひとつの世界」が常に派生していく。
     もうひとつの世界からは、さらにもうひとつの世界が生まれる。

     そのようにして、「無限」に世界が誕生していく。
     無限の魔女……。

     このようにして「無限に」世界が派生していくことが、「魔女ベアトリーチェの魔法体系」であるのだから、それを生みだした「最初の二粒の種」は、ベアトリーチェが書き上げたものでなければなりません。
    (でなかったらこれは魔女フェザリーヌの魔法体系になってしまう)

     最初の世界で、世界分岐を行なうための最初の物語2つ。これはベアトリーチェが書いたものでなければなりません。八城十八作であってはなりません。
     ですから、Ep1に投下された、「Ep1を描いたメッセージボトルと、Ep2を描いたメッセージボトル」の内容は、絶対にベアトリーチェ本人の作なのです。


     だから、Ep6ではこのように書かれる。

     特に、伊藤幾九郎の最初の偽書、「Banquet of the golden witch」は、九羽鳥庵で右代宮絵羽が難を逃れるまでを全て描いており、(…以下略)
    (Episode6・強調部引用者による)

     BanquetはEp3のサブタイトルです。八城十八は、Ep3から偽書を書き始めたのです。


    ●「これは真実だ」と、本人が言っている

     そういったように、考えた場合――

    「Ep3やEp4は私が書いた偽書である」と、Ep6の八城十八は言っている。
     けれどもそれにもかかわらず、Ep3やEp4や、それ以後の物語全部を、単なる創作ではなく、「事実として起こったこと」と言うことができる。

     Ep3や4や5が、八城十八によって「書かれたもの」だからといって、「じゃあそれらには実態がぜんぜんないのかよ、なんだ」なんて、思うことは、ぜんぜんないのです。


     というか、わたしははなっから、このような考え方をしていたので、かなりたくさんの人がそうでない別の考え方をしていることに、ビックリしました。

     だって、八城十八本人が、「これらは私が書いたものだけど、真実だよ」って言ってましたしね。

    「昇華? ふっ、愚かしい。そんなもの、私の作品には必要ありません。」
    「……なぜなら、あなたの作品は偽書ではなく、真実だから…?」
    「えぇ。真実なのですから、昇華など不要。」
    (Episode6)

     そう、実在することをそのまま書いているのだから、昇華など必要なくこれは真実。単にそれだけ。セリフの裏を読む必要もなく、そのまんま受け取れば良い。


    ●ターンテーブル再び。「語られたものと真実であるもの」

     あと、もうひとつ。

     これまでの話の流れだと、
    「フェザリーヌが世界を“見て”、八城十八がそれを“書いて”いるのだから、フェザリーヌが主で、八城十八が従だ」
     という認識ができそうに思えます。

     でも、違います。
    (とわたしは思います)


     こういう考え方をしたいんだ。


     フェザリーヌは、「ひぐらし」の世界や、「うみねこ」のさまざまなEp世界を“見る”ことができる。
     どうして“見る”ことができるのか。

     なぜならそれは、「ひぐらし」の世界や、「うみねこ」の各Ep世界が実際に“存在する”からだ。

     存在するから、それを“見る”ことができる。

     では……。

    「ひぐらし」の世界や、「うみねこ」の各Ep世界は、何故、どうして“存在している”のだろうか。

     これらの世界が存在できている理由。
     こう考えたいのです。

     それは、八城十八が、そういう世界を“書いた”からだ。

     そういう世界を八城十八が“書いた”から、フェザリーヌは、その書かれた、そういう世界を“見る”ことができる。

     では、どうして八城十八は、そういう世界を“書く”ことができるのか。
     もちろん、フェザリーヌがそういう世界を“見た”からだ。
     どうしてフェザリーヌは“見る”ことができる?
     八城十八が、“書いた”から。
     どうして“書く”ことが……?
     どうして“見る”ことが……?

     くるくる回ってる。

     幻想側が主で、実体側が従だと思えた。でも、実体側が主で幻想が従かもしれない。
     鏡の前に立つ自分と、鏡の向こうの自分。
     こっちの自分が本物だと思えた。でも、向こうにいるほうが本物かもしれない。

     図2にあるように、横に一本、線を引いた、幻想と実体の境界線。

     その境界線を軸にして、炉ばたのヤキトリみたいに、あるいは竹ひご工作の水車みたいに、くるくる、くるくる、どっちが主体でどっちが影なのか、永遠に決まらずに回転しつづける。

     フェザリーヌと八城十八。どちらが本体でどちらが影なのか。

     フェザリーヌが事実を見て、それを八城十八に伝えて書かせているのなら、いわばフェザリーヌが作者で、八城十八が読者です。
     しかし、八城十八が物語を書き、作中にフェザリーヌという自分の分身を置いて、彼女に物語を“見せて”いるのなら、八城十八が作者で、フェザリーヌが読者です。

     上位世界にフェザリーヌという超人がいて、下位世界に八城十八という分身を置いたのかもしれない。
     現実世界に八城十八という常人がいて、想像力の中に、フェザリーヌという自分の分身を置いたのかもしれない。


     それはぐるぐる回っていて、
     一方だと思ったら他方で、他方だと思ったら一方で。

     だから、フェザリーヌと八城十八とどっちが本体なのかという問いの答えは、「決定できない」。箱の中の猫がそうであるように、真偽を決して見分けられない。

     いったい、どの位置に事件のオリジナルがあるのか。
     その答えは、
    「この無限の回転の中の、どこか」
     としかいえない。


     位置は観測不能。


     これもまた――「語られたものと真実であるもの」。その無限回転の一側面です。

    (「語られたものと真実であるもの」については、以下のエントリに詳しいです)
     Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上)
     Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下)
     Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上)
     Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中)
     Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下)


    ●フェザリーヌの魔法体系

     そして。
     もう一度くりかえしますが。

     フェザリーヌが見たものを、八城十八は書ける。八城十八が書いたものを、フェザリーヌは見ることができる。フェザリーヌが見たものは、八城十八が書くことができる。八城十八が書いたものを、フェザリーヌは見ることができる。

     ぐるんぐるん回転し、
     そうしていつのまにか、

    「八城十八がその事件を書いたから、そういうドラマが存在する」のか、
    「フェザリーヌがそういうドラマを見た以上、その事件は存在する」のか、

     それが回転の中であいまいになり、もう、決してわからなくなる。

     フェザリーヌと八城十八が両方存在することで、
    「これは実際あったことを、フェザリーヌが見たの?」
    「それとも八城十八が、実際あったことのように書いたの?」

     その問いに、絶対に答えられない状況が生まれる。

     まるで箱の中の猫みたいに、決して真偽が確定できない。「どっちかなんだけど、どっちでもある」としかいいようのない状態が生まれる。「書いたものなんだけど実際にあったことなんだよ」という一見むちゃくちゃなことが成り立っちゃう。

     さて、そこで思いだす。
     フェザリーヌは、

    「書いたことを本当にしてしまう魔女」

     ではなかったか。

    「見たことを書いたのか」
    「書いたものを見たのか」


     その2つがミキサーの中で高速回転し、均質にまざりあい、完全に分離不能状態に陥ったとき、

    「書いたことは、そのまま本当になる」

     としかいいようのない状態が生まれるのです。


     つまりこの構造こそが、魔女フェザリーヌの、「書いたことを本当にしてしまう」魔法体系の正体です。
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