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第3章 再形成されるものとしての社会
 
 ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、社会なるものは、「動的」なものと捉えられなければならない。すなわち、社会とは、個々人による自己相互作用の営みに媒介された社会的相互作用を通じて、形成・形成されるものと捉えられなければならない。これが、ブルーマーのシンボリック相互作用論における「動的社会」観の内実であった。前章の議論で明らかにされたのは、このうちの前者の内実、すなわち社会の「形成」のメカニズムであった。本章は、後者の内実、すなわち、何故に社会は「形成」されるものと捉えられなければならないのか、その論理的必然性を、自己相互作用概念との確固たる結びつきのもとに解明することを、その目的としている。
 さて、前章までの議論で明らかになったのは、ジョイント・アクションが未だ成立していない状況から、人々の社会的相互作用(シンボリックな相互作用)を通じて、「共通の定義」が形成され、その「定義」に基づいて、ある一定の形態のジョイント・アクションが成立し、そうしたジョイント・アクションが共通の定義に支えられることによって、固定化され規則化されてゆくそのプロセスであった。すなわち、明らかにされたのは、社会の形成メカニズムと、形成された社会の規則性・安定性・再起性を説くブルーマーの立場であった。とはいえ、他方でブルーマーは、「ジョイント・アクションの経歴は、多くの不確定の可能性にも開かれているものと捉えられなければならない」(Blumer,1966=1969a,p.71=1991年、92頁)とか、「不確定性や偶然性や変容が、ジョイント・アクションという過程の本質的な部分」(Blumer,1966=1969a,p.72=1991年、92頁)であると認識されなければならないと述べている。すなわち、「ひとつの社会を構成するさまざまなジョイント・アクションが、固定化され確立された経路に沿うよう設定されているとする想定は、全く根拠のない仮説である」(Blumer,1966=1969a,p.72=1991年、93頁)というのが、ブルーマーが本来「社会」というものに対して抱いているものの見方である。こうした観点に立つならば、必然的にジョイント・アクションとは「ひとつの完全な状態から別の完全な状態へと急に変化するものではなく、いつでも不完全な状態を保ちつつ発展を続けるもの」と捉えられなければならないことになる(Blumer,1966=1969a,p.77=1991年、99頁)。すなわち、社会(ジョイント・アクション)とは、絶えず変容を経験するもの、したがって、たとえ固定化されたジョイント・アクションであっても、常に変容への可能性を持つものと捉えなければならないと、ブルーマーは考えていることになる。
 さて、本章の如上の目的に照らした場合、本章でなされなければならない作業は、そうした固定化されたジョイント・アクションであっても、他のジョイント・アクションと同じく、常に変容への可能性を持っているものであることを(つまりそうした構造化が危ういところで一時的に成立しているものであることを)明らかにすることである。無論、上記にも述べたように、そうした作業は、ブルーマーの自己相互作用概念との確固たる結びつきのもとに行われなければならない。本論の目的を図示するならば、以下の図式において、「→→」の部分が、理論上絶えず起こり得るものと捉えられなければならない、その理由を明らかにすることである。
 
ジョイント・アクションの成立→その固定化→→その変容(ないしは解体)→また別の新たなジョイント・アクションの成立1)
                       
 何故にジョイント・アクションの経歴は、多くの不確定の可能性にも開かれていると考えなくてはならないのか。何故に不確定性や偶然性や予期せぬ変容が、ジョイント・アクションという過程の重要な部分として認識されなければならないのか。こうしたことを自己相互作用概念との確固たる結びつきのもとに明らかにすると言うことは、すなわち、自己相互作用概念との確固たる結びつきのもとに、ジョイント・アクションの規則性・安定性・再起性が維持され続けるということが、事実上不可能なことである、ということを明らかにすることを意味する。換言するならば、そうした状態が維持され続ける可能性が存在し得ないということを、自己相互作用概念との確固たる結びつきのもとに明らかにすることに他ならない。
 前章において明らかにされたように、ブルーマーのシンボリック相互作用論において「共通の定義」とは、「有意味シンボル」のことを指していた。したがって、共通の定義が維持されている状態とは、有意味シンボルが維持されている状態であると言える。ではそうした有意味シンボルが維持されている状態とは如何なる状態であったか。先に明らかにしたように、それは、相互作用に参与している個々人が、そこで用いられている身振りに対して、各々の自己相互作用の過程を通じて、同じ意味を付与している状態であった。別言するならば、相互作用に参与している個々人が、各々、互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」という二つの観点を、「考慮の考慮」を通じて、適切に把握している状態を指していた。こうした状態を指してブルーマーは「ある身振りを呈示している人間が、その身振りが向けられている他者と同じように自分の身振りを見ている」状態であると表現している(Blumer,1993,p.179)。こうした状態が維持され続けるためには、身振りを呈示している人間は、その身振りが向けられている他者を、ある一定の見方でその身振りを見ている他者として(ないしはこれこれの観点を持っている者として)解釈・定義し、かつそうした解釈・定義が妥当なものであり続けなければならない。さらに正確に言えば、そこで身振りを呈示している人間が想定した他者のある一定の見方が、実際にその他者が採用しているある一定の見方と正確に合致し続けなければならないこととなる。とはいえ、そうしたことを事実上不可能にする特性が、他者にはある。
 本論第1章で明らかにされた知見をここで要約的に再構成することとしよう。
 人間は、その人間にとって外的領域に存在する「現実の世界」(world of reality)のなかに住んでいる。そうした現実の世界のある一定の部分を、人間が、ある一定の「パースペクティブ」(perspective)にしたがって知覚(すなわち、自己相互作用を通じて解釈・定義、ないしはその一定の部分に「意味」を付与)したものが、その人間にとっての「対象」(object)に他ならない。人間にとっての「世界」(world)とは、こうした「対象」からのみ構成されるものと、ブルーマーにおいては捉えられていた。すなわち、現実の世界とは一方では、それに対峙する人間によって意味を付与され「対象」として加工される(すなわち解釈・定義される)存在として捉えられていた。とはいえ、他方で現実の世界は、そうした人間による解釈・定義に対して、いつでも「語り返し」(talk back)する可能性を持った存在としても捉えられていた。またそうした「語り返し」を契機として、人間は、自らの解釈・定義の妥当性の如何を知ることとなり、既存の解釈・定義を修正することとなる。さらに言えば、そうした語り返しが生じる可能性がいつでもあるが故に、人間と現実の世界との関係は、絶えず形成されてゆく可能性を持つことになる。すなわち、ある時点において、人間が現実の世界に対して行った、ある一定の解釈・定義が、妥当なものとしてそこで永遠に固定化され続ける、ということは事実上不可能なことと捉えられなければならないことになる。別言するならば、人間にとって現実の世界とは、決して、そのありのままの姿を捉えることができない、不可視的な存在であり続けるものと捉えられなければならない。
 さて、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、ある個人にとっての他者という存在もまた、そうした特性を持つ「現実の世界」の領域に存在するものと捉えられている。人間が、現実の世界より、ある一定のパースペクティブにより切り取ったものが「対象」であり、そうした「対象」は便宜上「物的対象」、「社会的対象」、「抽象的対象」の三つに大別され、そのなかのひとつ「社会的対象」の範疇に他者という存在が含まれていたことからも、そのことは理解されよう。すなわち、人間は、現実の世界に対峙しているのと同じように、「他我(alters)に対して〔も〕対峙している」(Blumer,1962=1969a,p.81=1991年、105頁)のである。したがって、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、ある個人にとっての他者という存在もまた、いつでもその個人によるその他者に対する解釈・定義に対して「語り返し」する可能性を持った存在と捉えられなければならないのであり、またそうした語り返しを契機として、個人は、自らの解釈・定義の妥当性の如何を知り、その結果として既存の解釈・定義を修正することになる、と捉えられなければならない。また同様に、そうした語り返しが生じる可能性がいつでもあるが故に、その個人と他者との関係は、絶えず形成されてゆくものとなる。すなわち、ある時点において、その個人が、その他者に対して行ったある一定の解釈・定義が、妥当なものとしてそこで永遠に固定化され続ける、ということは事実上不可能なことと捉えられなければならない。それ故、ある個人にとって他者という存在もまた、決してそのありのままの姿を捉えることができない、不可視的な存在であり続けるものと捉えられなければならないことになる。またそれ故に、人間の行為とは、それを見る他者から見て、本質的には「予測不可能なもの」(unpredictable)(Meltzer et al.,1975,p.61)と捉えられなければならない。社会的相互作用に参与する個々人を、互いに相手が不可視的な存在となっているものと捉えなければならない、とするこの認識は、ストラウスらにも見られる。その点についてストラウスらは、以下のように述べている。
 「人間がおかれている状態とは次のように描写し得よう。すなわち、人間は、しばしば、お互いに、本当のところ相手が何者であるのか完全にはわからないまま(without full surety of knowing one another's true identity)行為している」(Glaser and Strauss,1965,p.13=1988年、13頁)。
 以上ここまでの議論を踏まえるならば、次のように結論づけることができる。すなわち、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、「共通の定義」なるものが永久に維持され続けるということは、事実上不可能なことと捉えなければならない。何故なら、共通の定義が維持され続けるためには、身振りを呈示している人間は、その身振りが向けられている他者を、ある一定の見方でその身振りを見ている他者として、「自己相互作用」を通じて、解釈・定義し、かつそうした解釈・定義が妥当なものであり続けなければならないが、解釈・定義されるその他者には、いつでもそうした解釈・定義に対して語り返しする可能性がある、という特性があり(他者の「不可視」性)、それ故、そうした解釈・定義が修正されなければならない可能性がいつでも存在していることになるからである。
 ブルーマーは、1966年の論考において「集団生活〔=『ジョイント・アクション』〕の確立されたパターンは、同一の解釈図式が絶えず用いられ続けることによってのみ、存在し維持される。そして、そうした同一の解釈図式の使用は、他者たちによる〔同形式の〕定義活動(the defining acts)により、確認され続けることによってのみ、維持される」(Blumer,1966=1969a,pp.66-67=1991年、85−86頁)と述べているが、上記の議論を踏まえるならば、社会的相互作用において、ある個人が、自分が相互作用を営んでいる他者に対して解釈・定義を行うに際して、同一の解釈図式を繰り返し用い続けることは不可能なことと捉えられなければならない。すなわち、個人が対峙している他者の「不可視」性により、その個人が同一の解釈図式を絶えず使用し続けることは不可能なこととまず捉えられなければならない。また他者たちが同形式の定義活動を行い続けることもまた、同じく不可能なことと捉えられなければならない。なぜなら、その個人という存在もまた、その他者たちから見れば、まさしく「不可視」性を有した他者に他ならないからである。それ故に、社会的相互作用に従事する個々人は、めいめい、絶えず「再定義」を、すなわち既存の解釈図式の修正を余儀なくされることとなる。人間間の社会的相互作用においては、こうした再定義が頻発する故に、人間の社会は、絶えず形成・形成を経験するという意味で「動的」な性格をもつこととなる。そのことについてブルーマーは、以下のように述べている。
 「集団生活の既に確立されたパターンというものは、単にひとりでに維持されているのではなく、何度も繰り返される確認という定義(recurrent affirmative definition)によって、その持続性を保障されているのである。このことを認識することはきわめて重要である。こうしたパターンを維持している解釈が、他者からの定義が変化することによって、浸食されたり崩されたりすれば、そうしたパターンはすぐにも崩壊し得る。このように解釈は、他者による定義活動に依存している。また同時に、こうした事実によって、何故にシンボリックな相互作用が、集団生活を構成するジョイント・アクションの形態をきわめて顕著に変化させるのか、が説明される。集団生活の流れのなかでは、参与者たちが互いの行為を定義している無数の時点が存在する。・・・・〔そしてこの〕再定義が、人間間の相互作用に形成的な性格(formative character)を与えるのであり、さまざまな時点において、新たな対象、新たな認識、新たな関係、新たな行動様式を生み出すのである」 (Blumer,1966=1969a,p.67=1991年、86頁)。
 以上、本章における議論からも明らかになったように、ブルーマーのシンボリック相互作用論の立場からすれば、「共通の定義」が永久に維持され続けるということは事実上不可能なことと捉えなければならないのである。またそれ故に、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、ジョイント・アクションなるものは、それが固定化されているものであれ、未だ固定化されていないものであれ、本来的に形成への可能性をいつでも持っているものと把握されなければならないのであり、そうしたジョイント・アクションから構成される「社会」もまた、等しく、形成への可能性をいつでも持つものと把握されなければならないことになる。
 
 以上、本章においてわれわれが描き出した、ブルーマーのシンボリック相互作用論のパースペクティブから見た「形成されるものとしての社会」という社会観は、従来のわが国のシンボリック相互作用論理解が捉えてきた社会観とは、やや趣を異にしている。
 わが国におけるこれまでの主流の解釈(例えば、船津、1976年;田中、1971年;村井、1974年)は、皆川も言うように、シンボリック相互作用論の描く人間観を、道徳的な主張を盛り込んだものと捉えてきた。すなわち、「日本における従来のシンボリック・インタラクショニズム〔=シンボリック相互作用論〕解釈は、この『行為者主義』の背景に倫理的道徳的な観念を置き、この社会学を、『近代的自我』の『社会に拘束されない自由な人間の主体性』を理論的に保障し、パーソンズ社会学に対抗して社会学理論におけるこの意味での人間主体性の復権を唱えるもの」と考えてきた(皆川、1989年、81頁)。例えば、皆川によって「これまでの主流の解釈」の一人とされている船津 衛は、そのシンボリック相互作用論理解において、「人間」を、個人を抑圧する(とされている)「管理社会」に対抗し、そうした「社会」を改革しようとする存在として捉えている。そうした「人間」が船津の言う「主体的人間」であった。この点について船津は、以下のように説明している。
 「シンボリック相互作用論が、今日のアメリカ合衆国において、急速に頭をもちあげてきた原因は、何よりも、アメリカ社会の現実に求められる。現代のアメリカ社会は、社会矛盾が激化し、管理社会化の傾向は一層進行し、人間疎外は深刻化し、そして世代や男女間、また人種間の対立が顕在化してきている。シンボリック相互作用論は、これらの問題を、ある程度、意識し、自覚し、反映しているものである。そして、また、それは、このような社会の情勢に対し、抵抗したり、あるいは逃れようとする人々の行動を問題とするものとなっている。脱組織現象、逸脱行動、精神異常、・・・・内容的にはいわば、『与えられた役割期待を、必ずしもそのまま取得せず、それから離れ、それを変更し、さらにそれとまったく異なることを行なう』人間と社会の現象である。シンボリック相互作用論は、それらを、『解釈過程』を通じての人間の主体性の問題として取り扱っていることになる。加えてさらに、シンボリック相互作用論は、このような社会を変革し、それに代わる新しい社会のあり方を求めるものと、その社会観において共通するものをもっている。・・・・シンボリック相互作用論は、激化する矛盾・対立、深まり拡がる阻害の現実を克服せんとする人々の主体性を問題とするものである」(船津、1976年、19−20頁)。
 こうした船津のシンボリック相互作用論理解は、シンボリック相互作用論を「『矛盾と頽廃と混乱にみちた実体』としての既成社会に背を向けて、個人を基盤としながらもうひとつの社会を構築」せんとする人々の意欲と行動に、その理論内容が見合うものと捉える田中の見解2)を典拠とするものであった3)。すなわち、これまでの理解は、社会の形成の必然性を、社会を「変革」しようとする個人の「主体的」意図によって説明しようとしてきた、と言える。とはいえ、本章で明らかにされた基本的思考を踏まえ、さらに「シカゴ学派シンボリックインタラクショニストたち〔ブルーマー、ヒューズ、ストラウス〕が示す道徳的主張を盛り込んだ社会学への反感」(皆川、1989年、81頁)を見るとき、わが国の従来の主流解釈が妥当性を欠くことが理解される。
 本章で明らかにされたように、ブルーマーのシンボリック相互作用論からするならば、「社会」とは、個々人が余儀なくされる不断の再定義の結果として変化してしまうものと捉えられているのであって、意図的に変化させられるもの、ないしは変化させられるべきものと捉えられているわけではない。こうした見解は、ストラウスらの議論とも符合する。以下のストラウスらの描写を見ても分かるように、シンボリック相互作用論のパースペクティブからするならば、「社会」(相互作用)とは、むしろ、意図的な変化を困難にするものと捉えられなければならない。すなわち、社会に参与する個々人にとって、その社会がどのように変化してゆくのかをいつでも正確に予期することは(ましてやそうした予期に基づいてその社会を統御することなど)きわめて困難なことと捉えられなければならない。
 「・・・・相互作用とは、通常、静態的なもの(static)でもなければ、単に反復されて行くというものでもない。ミードにおいて、行為とは、しばしば行為者自身にとっても予期できないほどに、終わり無く展開して行くもの(open ended)なのである。・・・・手短に言うならば、相互作用とは、いつでも変化の可能性に開かれているものであり(tend to go somewhere)、しかも、相互作用がどのように変化して行くのかを、相互作用者がいつでも疑いの余地無く把握出来るわけではない」(Glaser and Strauss,1964,p.674)。
 ストラウスらによれば、シンボリック相互作用論のパースペクティブからするならば、「相互作用は、変化、発展し、決して静止状態にとどまらない」ものと捉えられなければならないのである(Glaser and Strauss,1965,p.11=1988年、11頁)。