子ども虐待死事件の構造論

第二章 名古屋発・森島勇樹君虐待死事件

この事件は、彩被告の遠隔操作による虐待死事件か?

件文{責任主体Aが責任準体Bを家に呼び込んだために、公的機関・児相Dの介入も空しく、愛児Cは虐待の末に殺された}

1 森島彩被告の超越者ぶり
2 少年の暴力と彩被告の二面性(面従腹背?)
3 母親彩被告の責任論
4 少年の責任論
5 児童相談所の責任論


         
事件の本質を照らす責任問題
ネジレていた愛人関係
森島彩被告のある「主導」説
債権者」という怪物

「責任回避」というジャパニーズ・スタンス

写真は上から順に、塗装工小林保徳さん(当時四十歳)の次男一斗君(当時四歳)と三男隼人君(当時三歳)。自称会社員の下山明宏容疑者(当時三十九歳)が同居先の小林さんの幼い兄弟を惨殺した末に、遺体を橋の上から下の思川に放り込んでいる。当局が調べてみると、過去に被虐待の件で、幼い兄弟は児童相談所が一時保護した後の事件であったため、児相の対応が大問題になった。この事件は「栃木の誘拐殺人事件」としてインターネットの掲示板でも話題になる。これも依存者が自立者の征服を謀った末の誘拐殺人事件という構造的見方(?)は成立すると思うが、どうだろうか。04年9月15日付けの中日の新聞記事より




写真のイラストは、大久保直樹氏。実を言うと、森島被告は手錠を掛けられたまま廷内に入ってくるとき、傍聴席の最前列に陣取った私と目があうや、にこっとしたことがある。この話に関しては、「お前の顔が面白いからさ」という有名な笑い話の落ちもあるから、そう受け取っているが心に余裕があるというか、拘置所では味わえなかった束の間の開放感を楽しんでいる感じは伝わってくると思う。イラストの顔の表情は、やはり、緊張顔?第一回公判の翌日の中日の新聞記事より





彩被告の超越者ぶり 事件の本質を照らし出す責任問題

 勇樹君の虐待死事件に限らず、すべての子ども虐待死事件は、誰が殺したかではなく、その死にたいして誰が責任を負うべきなのか、を問うべきだと考えている。実行犯逮捕の重要性は述べるまでもないが、この後にはじまる責任主体の追及の仕事を自身に課してみた。

 アプローチ法としては、児童を愛護すべき立場にある両・親(リョウ・オヤ)の関係を、共通の「構造的関係」に置き換え、主犯格と従犯格に分類する方法で、分類に成功すれば、主犯格は自動的に「責任主体」へと繰り上がる。
 「構造的関係」と書くといささか物々しくなるが、共通の「構造」を持つ両・親の関係をいう。通常、両者は経済的自立者と依存者のカップルだが、自立者が必ずしも主導的な立場を独占しているのではなく、次章で取り上げる大阪発・大迫雄起君監禁致死事件では、依存者の川口道子被告が終始、主導していた。
 ここで注意されたいのは、子ども虐待死事件の場合、主導者が死亡事件を「主導」するのではなく、「誘発」させるという特徴を有すること。「誘発」、つまり、彼が非彼を主導し、非彼が子ども虐待死事件を誤って惹き起こすことをいう(=「主導」の意味がネジレて、「誘発」に転化する)。
 主導的立場に身をおく者の特徴的な性格は、怠け者。川口被告は大迫智枝被告から雄起君の世話を任せられているのに、炊事・洗濯は怠けていた。この場合、怠け者だから怠けるのは当たり前と考えがちだが、ここではそれが俗事だから自らの手を汚すことを嫌って、
積極的に「怠けている」という見方を採用している。
 と、ここまでくると、「主導者」を指して「超越者」と呼ぶことは何の支障もないのではなかろうか。
 川口被告の超越者ぶりは、前章でも書いている。問題は、森島彩被告はどうか、という点に絞るならば、被告もまた「超越者」といえる一面をもっている。
 次の引用は、毎日新聞の記事だが、「かばった」と彩被告のしつけ怠慢を半ば打ち消している。

《彩被告は、保育園から「お兄ちゃん」の存在を問われ、「
私がしてこなかったしつけを、代わりにしてくれている」とかばった。「(お兄ちゃんは)とても可愛いのよ」。保護者仲間にはそう語った(毎日03/11/12

 その点は自身、前章の傍聴メモで書き留めている。

《−−子どものしつけに対しては?
親の方がちゃんとやれよ、といったことがある」

 私自身は久しく見落としていたが、上の少年の言葉を真に受けるならば、事実がどうであれ、「呆れるほどしつけていなかった」という言外の意味が聞こえてこないだろうか。
 他には、次のような「急速に子育てへの意欲をなくし」たという新聞記事もある。

《・・・だが、森島被告は今年七月以降、急速に子育てへの意欲をなくし、転落していく。勤め先でアルバイトをしていた高校三年の男子生徒(18)と親密になったころだ。
 七月十六日、保育園が勇樹ちゃんの体に初めてあざを発見。・・・高校生が自宅に入り浸る間、勇樹ちゃんがボールを手に、夜の公園で独りぼっちの時を過ごしたことも
(中日新聞「救えなかった命」01/11/11)

 上の記事自体には問題はないが、読む方としては、ひねりを加える必要がある。というのは、通常、育児としつけはセットになっていると考えられているため、混同しがちだが、育てることとしつけることはあくまでも別の事柄と受け留めた上で、その子育てさえ「意欲をなくし」たと理解すべきだろう。
 もし彩被告のしつけサボが事実で、一方で、しつけは俗事ゆえに自らの手を汚すことを嫌った(積極的怠慢)とすれば、被告もまた「超越者」というイメージが浮き上がってこよう。
 公判で証言台に立った保育園の担任の話によると、園児の行動を記録したノートの中に「お母さんの後ろに隠れても、ダメダメ」という勇樹君の言葉を書き残している。これは少年から暴行を受けた時、勇樹君が彩被告に母親としてのシェルターの働きを期待して逃げ込んだところ、全く機能していないことを明示している。
 勇樹君の言葉は、その時の彩被告の超然としたさまを伝えてはいないだろうか。

 
 ところで、森島彩被告の積極的サボが明らかになり「超越的」だったとしても、それをもって子ども虐待死事件の「責任主体」とすることはできない。なぜなら、「責任」という以上は、その死亡事件での因果関係の証明問題が避けて通れないからだ。
 通常の「責任主体」とは、帰責事由のあることをいうが、構造論の立場からは「誘発」、言い換えると、「解発誘因」の責を問う必要があると思っている。

 下は、アウトラインの代わりとして、園児虐待死事件のポイントを表に示した。

年月日
7月ごろ

7月16日
8月 6日


8月 8日
8月16日
9月9日
9月10日
9月10日
9月18日
9月26日
10月11日
10月17日

10月18日夜
10月19日朝
 同日午後


10月20日
10月21日

10月29日

彩被告は、高三男子と同棲を始める。(中)
この頃、夜の公園でひとりで遊ぶ勇樹君の姿が目撃されるようになる。(中)
保育園が初めて、勇樹君の体にアザを発見。(中)
バイト先の店内で突然、高三男子は彩被告を蹴って、クビに。(中)
この頃、被告が男に向かって、「出て行け」と大声を出すことも。が、次第に無抵抗に。(中11・11)
「埼玉のおじいちゃんのところへ行く」と、地下鉄御器所駅で、勇樹君を保護。
「おかずをこぼした」「手を洗わない」等の些細な理由で、虐待を始める。
彩被告蹴られて、腰の骨を折る。(中)
保育園の園長、福祉課に園児虐待の件で相談。同課、児童相談所に連絡。(中)
腰を骨折した彩被告は、勇樹君を児童養護施設に一時預ける。(中)
児相の職員2人、保育園を訪れる。「少年を家に入れないように指導を」という指示を出す(中)
児相、保育園に電話で二度目の接触。(中)
児相、保育園に電話で三度目の接触。園長の答え「母子関係はうまく言っている。あざは確認されていない」。(中)
被告は勇樹君を自宅に残して高校生とカラオケに興じる。(中)
トイレの前で「邪魔」と勇樹君蹴られる。止めに入った彩被告も蹴られ、肋骨を折る。
高三男子の暴力を受けて勇樹君の容体がおかしくなり、彩被告が119番通報する。救急隊員の運んだ病院の医師の連絡で警察が来、二日後に、二人を逮捕。逮捕容疑は、高三男子が傷害致死罪、彩被告は同ほう助罪である。
高校生、高校のテスト(中間試験)を受ける。(中)
高校生逮捕。「今のはうそ」「それ違う」と昭和署の調べにのらりくらりと供述。調べが進むにつれ、ようやく反省の態度を見せ始めたという。(中)
県教委は、全県立高校に対し、「命の大切さ」の指導を求める通知をする

 事件を読む際のキーワードとして、下の六種を挙げる。ただし、「事件が明るみに」は除く。

事件が明るみに この園児虐待死事件は、平成15年10月19日の午後四時ごろ、母親の119番通報で駆けつけた救急隊員が勇樹君を名古屋赤十字病院に運び(搬送時にはすでに心停止状態だったという)、病院の医師からの連絡であろうか、駆けつけた捜査官の取調べで、園児の森島勇樹君(4)の虐待死事件が明るみになる。事件の二日後に容疑者として逮捕されたのは、飲食店の店長の母親である森島彩(当時38)とその店の元アルバイトの高校3年生の男子(当時18)。
両・親のネジレた関係 この二人の容疑者は、当時同棲していたが、童貞を奪われたとの理由で慰謝料を請求するなどその愛人関係は、はじめからネジレていた。 
潜在的火種 バイト先で少年は突然、店長の彩被告を足蹴にし、この理由でクビになるのが03年の8月6日。この時に彩被告の懇願で自主退職扱いになり、少年は退職金をもらっている。この退職金の一部がパソコンの購入代金に充てられたと考えているが、少年専用の玩具を買うために「貸して」とでもいったのだろう。04年6月15日の名古屋地方裁の公判に証言台に立った少年は、「十万円を貸した」と自分が債権者の立場であることを明らかにする。
 余談だが、普通の父親ならばこういう時、パソコンが欲しければ退職金をもらったのだからその金で買え、と突き放すだろうし、母親は知恵が働くから、方便で「貸してね」位のことは口にすると思うが、どうだろうか。
■育児サボとしつけサボが伝えられる 前述の通り。 
■自殺の真似 ・・・昨年七月頃から同せいを始めた。少年は勇樹ちゃんが食べ物をこぼしたりすると、軽く平手でたたくように。同年八月には暴行の頻度が増し、被告は二回ほど止めたことも。しかし、勇樹ちゃんが通う保育園長の「少年を家の中に入れないよう」という注意を聞き入れず、少年が別れようとした際は、手首を切るマネをするなど、自分から逃げられないようにした。
(中日。日付は不明。第一回公判の翌日)
■園長と児相の職員のアドバイス 上にある園長の「注意」は、実をいうと、児童相談所の職員のアドバイスにしたがっている。03年11月13日付けの中日新聞には、園児の被虐待の件で、園長は社会福祉事務所を訪れ(相談ではない、と園長は公判で否定)、その通報を受けた児相の職員が一週間後に保育園を訪れるのだから、この時点でやる気のないことが読み取れる。「とりあえず家に来ないように指導を」と、いかにも専門家風を装った適切な助言を行い、「次に勇樹ちゃんにあざや傷が見つかったら、ぜひ知らせて」と伝えて園を去ったという。
■園長の彩被告への信頼感 相談所は八日後の同二十六日、電話で保育園に様子を尋ねた。・・・十月十七日、保育園に電話で三度目の接触。園長の答えは「母子関係はうまくいっている。あざは確認されていない」。職員は肝心の高校生のことを尋ねず、安堵の声とともに受話器を置いた。勇樹ちゃんの死は、そのわずか二日後。職員は「あざが見つかれば、すぐに母親に会うつもりだった」と悔やむ。・・・
(救えなかった命・男児虐待死の裏側/甘い認識 介入なく/保育園に対応丸投げ)

少年の暴力と彩被告の二面性(面従腹背?)
ネジレていた愛人関係

     
{A・−−・−−・C (Aは始点格、Bは動点格、Cは終点格    :関係式は、母親の彩被告Aと愛児の勇樹君Cは死を機に、親子の関係は断絶・逸脱したが、中間点であるバタラーBを介することで、線的意味が劇的に回復することを示す。式の持つ意味は、AはAと一体関係にあるBを、C点まで運んだ。この場合のゴールCとは、虐殺された勇樹君の死である。)
結論1:プログラムに書き込まれた、セットされた死である。
結論2:ヘルプ機能が作動しなかったことによる、システマチックな死である。
結論3:プログラムすら読まれることもなかった、二重の死である。母親と組織がかりの多重の死・・・。

 昨年の六月十五日の名古屋地裁の公判で、傷害致死の罪に問われている高3の少年が証言台に立った。そこで、殺された勇樹君の母親の彩被告に対して、少年がパソコン代金として貸した金十万円の他に、強制わいせつや軟禁などで精神的損害をこうむったとして、慰謝料も含めて合計金額三百万円を請求していることを証言した。少年の慰謝料等の請求は、アホらしくて聞いておれないものだが、しかし、なぜそんなことをいうのか、と改めて問い直してみた時、少年の本当の姿を垣間見たような気がした。
 まずは、新聞記事を引用する。

《少年からは「(彩被告が関係を強要したことに対して)三百万円の慰謝料を払え」と再三の要求があり、支払えないため結局は同居状態を続けた、とも証言した。(「いらいらぶっけた」名古屋の園児虐待死/母が少年の暴行証言−中日04/4/23)


 見られるように、彩被告は請求があっても「支払えない」との理由で、「同居状態を続けた」とまるで無法者の理不尽な要求に屈せざるをえない弱い立場の女性の役を演じている。が、一方では、「彩被告は、少年のいらいらの理由として、自分の家に帰りたくても帰れなかったことなどを挙げ『少年が帰るのを何度か引き留めたことがあった』と述べた」
(前掲紙)とあるように、「同居」はむしろ彩被告の欲求するものであり、少年の欲求ではないことがわかる。同じように、セックスも彩被告は好みこそすれど、少年の方は、一度として好ましきものとして体験しえなかったのではないか。

《暴行がエスカレートし彩被告も腰の骨を折るほどの暴行を受けるようになり「家から出て行って」と十回ほど頼んだものの、少年から「本当に出て行ってもいいの」と聞かれ「出ていってほしくない」と答えたという。
(前掲紙)

 上にある「腰」への少年の攻撃は、「子宮」への打撃を狙ったものか。男の側から見ると非常識極まりないものだが、「この子宮が悪い」と懲らしめたい気持ちから出たとすれば気持ちは理解できても、「暴力」は別の話。女性の生殖機能のダメージを狙う所に、少年の人間性に対して強い疑いを持ってしまう。仮に、生を呪う気持ちの表れと考えられるならば、その矛先が勇樹君に向けられた可能性も否定できない。
 記事にある暴行は、九月九日に起きたもので、治療に専念するためであろう。勇樹君のショートスティを昭和区の社会福祉事務所に申し込んでいる。保育園の園長もその翌日の十日には福祉課に、「児童虐待」を報告している。「申し込みの内容は、虐待の通報とともに相談所に伝えられた。だが、職員は『風呂場で滑って転んだ』との母親の説明をうのみにし、密室で常態化した暴力を見逃してしまった」
(救えなかった命−中日03/11/13)とあるように、二つの点が繋がって線になれずにいることから、児相の職員には情報処理能力がまるでないことが読み取れる。

 少年の彩被告に対する暴行は、調べることのできた範囲内では6件を数えるに過ぎない。高1の時、彩被告からキスされた時に撲った
(04/6/15の公判で少年が証言)のが最初で、高2の間は暴行はなく(同公判)、高3の時のアルバイト先で、当時の店長の彩被告に暴力を揮い、即クビに。そして、先の引用にあるような腰への暴力に、勇樹君が殺された当日に脇腹をけられて肋骨を折られ、午後にも勇樹君への暴力を止めようとして彩被告は肩を殴られている。この他に、「『仕事で遅くなる』と連絡した際などに、暴力を振るうようになった」(讀賣03/10/23)という例もある。
 実際には、彩被告への暴力は高3になった時点で日常化している可能性が高く、その数は集計できないのではないか。暴力の動機も、これと特定できないものばかりである。
 それでも動機として考えられるものとして、次の四種を挙げてみた。

  A 彩被告の暴力容認の態度を受けて、安易に暴行を行っているもの。
  B 性的羞恥心や嫌悪感から起こるもの。
  C 甘えからくるもの。
  D 勇樹君への暴行を制止した際に、彩被告に加えられるもの。

 上のAとCは、表裏一体の関係にあり、いわゆる「日常的コウゲキ」として暴力の大半を占めていると考えられる。時に勇樹君、時に彩被告と無差別に暴力を揮っていた可能性が強い。
 Bの嫌悪感が、慰謝料の口実として利用された可能性がある。
 Dに関しては、彩被告は自分に非があったり、立場が不利となると考えられるケースに限り、暴行を制止しょうとしたのではないか。勇樹君が亡くなった事件の日の朝、もし目立った外傷が見つかれば母親としての保護責任が問われると思ってのことであろう、これには保育園からのアドバイスが関係しており、「少年はもう家にはいない」と思わせている(この点は、
未確認)のであろうから、ここで傷を負わせたのでは、自分の立場がなくなると判断したとしてもおかしくはない。午後のケースでは、シェークの件は自分に非があると思って止めに入ったのではないか。
 と、書いてきて局面を左右するような大きな問題が噴出してきたので、問題点の整理を行う。

  A 「少年を家の中に入れないように」という園長の注意を聞いて、彩被告は自らの保護者責任を問われ出したと思ったかどうか。
  B 児相が保育園に電話で三度目の接触を試みた十月十七日。園長は「母子関係はうまく言っている。あざは確認されていない」と答えているが、その時点で「少年はもう家の中にはいない」と彩被告から聞いていたかどうか。
  C 勇樹君が死亡する直前の午後の買い物で、なぜ少年の分のシェークを彩被告は買わなかったのか?

 今挙げた三つの問題点は、いずれも「少年が勇樹君を殺した」という単独犯行説を転覆させる可能性を秘めている。「単独犯行説」に関しては、検察側も不採用の立場から「ほう助」の罪を彩被告に着せてはいるが、あくまでも「傍観的」且つ「従犯的」な位置づけに留まり、被告の「主導」的な犯行性はハナから度外視しているといえる。
 これは一つの推理だが、もし「シェーク」の件が故意に買わなかったとすれば、この勇樹君虐待死事件は別の読み方ができるようになる。

3 母親彩被告の責任論 森島彩被告のある「主導」説

 05年1月17日の論告求刑の記事は、その一字一句が心に引っ掛かった。しばらく経ってみると、森島彩被告の母性を裁く内容であることに気付いた。
 今、その全文を
新聞記事から引用する。

 名古屋市昭和区で2003年十月、保育園児森島勇樹ちゃん=当時(四つ)=母親の交際相手の少年に虐待されて死亡した事件で、傷害致死ほう助の罪に問われた母親の森島彩被告(29)の論告求刑公判が十七日、名古屋地裁であった。検察側は「少年の暴行に目をつぶって容認した。(勇樹ちゃんの)生命身体の安全より、少年との交際を優先させた」などとして懲役三年六月を求刑した。森島被告は「少年の暴行の止めに入った」と無罪を主張しているが、検察側は論告で「『やめてよ』」と言いながら少年の肘をつかんだことはあったが、以後は傍観しており、その結果、少年の暴行が容易になった」と指摘した。また、事件の背景として森島被告が周囲の忠告を聞き入れず、自己の欲求のまま少年との交際を続けた点を強調し「自己中心的な性格により、(森島被告自身が)少年を巻き込んで事件を発生させたと言える」と非難。「母親としての自覚の欠如が著しく(勇樹ちゃんの)肉体、精神的苦痛は甚大だった」と述べた。
 公判は弁護側が次回(一月二十四日)に最終弁論を行い、結審の予定。
 弁護側は、暴行時に少年を二度制止している▽勇樹ちゃんの死亡は起訴事実となっている午後三時過ぎの暴行でなく、当日朝の暴行がきっかけとなったと考えられ、その際制止して暴行を止めているーなどと主張する
(母親に3年6月求刑/昭和の四歳児虐待死公判「少年の暴行容認」中日05/1/17夕・全文・中日)

 判決は、あの日の初期報道に見られた予断をそのまま採用しているとも思った。

 事件当日の朝、ドンという音ともに目覚めると、勇樹君がトイレのドアまで少年に蹴られて跳んだか倒れている。すぐに駆けつけ「やめて」といって覆いかぶさると、彩被告は脇腹を蹴られて、肋骨を折っている。新聞には「母親は傍観」という見出しの活字が躍ったが、この意味するものが「見殺し」である限り、見出しは正確ではない。
 二度目の暴行をその日の午後に受けている。少年の欲しい物を母親と二人で近くのコンビニで買い求め、帰宅した後だった。このときに受けた暴行で、勇樹君の容態が急変する。きっかけは、勇樹君が買ったもの(シェーク)で自分にないことで腹を立てたと傍聴席で聞いた。
 この時の彩被告は「傍観」していたと、検事側は批判しているわけだが、幸か不幸か、この間の記憶が欠落している。調書には、記憶にないことを取られ、一部を想起して「三十分ではなく五分位」と法廷では答えている。
 暴行が三十分間続いたとすれば、撲ったり蹴ったりの嵐の中の暴行シーンを連想させるが、五分間だったとしても、その間の暴行が嵐のように続いた風でもない。仮に、三分間ぐらいは連続的だとしても、突然、散発的なものに変わった可能性もでてくる。

 十月の公判だったろうか。証言台に立った彩被告は、気鋭の検察官から次のような一連の尋問を受けている。

 −−横になって倒れている勇樹君の腹にDさん(法廷では、実名)は、足を乗せていましたね。
 −−はい。
 −−右足と左足のどちらの足ですか。
 −−右足だったと思います。
 −−その足は体重を乗せていましたか。どうですか。
 −−憶えておりません。 

 検察官の質問に対して、彩被告はひとつひとつキャッチのサインとして俯き、そのままじいっと考え込み、そうしてふと顔を上げ、気丈に答える姿が今でも目蓋の奥に焼き付いている。
 その心証をもって、彩被告を裁くのであれば、無罪の判決が出てもおかしくはない。
 九月は、弁護士による被告尋問だった。
 八月には、鑑定医が証言台に立った。

 鑑定は致命傷がどの時間帯の暴行であるか特定できていなかった。朝の暴行とも午後の暴行ともいずれかに決めがたく、その両方を含むものだった。鑑定医の判断が正しいとすれば、朝の暴行こそ傷害致死行為と判断されることになる。そうだとすれば、その時の彩被告は止めに入っており、「母親の傍観=見殺し」説は成り立たなくなる。
 では、検察側の主張するように午後の暴行が傷害致死行為と認めたと仮定して、その時の彩被告は傍観していたから「母親は傍観=見殺し」説が成立すると思っているのであるならば、検察側の大きな誤認であろう。
 彩被告がこの間の記憶を喪失するということは、そこに繰り広げられたシーンがあまりに正視するに耐えられないものであったから、記憶は(良心のチェックを受けて)抹消されたと考えるべきである。
 次に引用する記事は別の事件のものだが、殺害の最中の被告の記憶を生々しく伝えている。

 ・・・ひざまずく母親を長女が足蹴にした。小柄な父(ママ)が静止しょうとしたが、反対に襲いかかられた。
その後の記憶がはっきりしない。割れた灰皿の横で、頭から血を流している長女の首に電気コードを巻いていた。・・・「名古屋・28歳長女殺害の夫婦」中日新聞06・5・13

 上の記事にある記憶喪失は、良心のチェックを受けて消されたのではなく、ある衝動の突出によって良心は後退せざるをえなくなったからと考えている。喧嘩の最中に起きやすい記憶の喪失症状である。
 こういう例もある。豊川市の鬼母こと○○は、証言台に立つと健忘症がひどくなるみたいで、検察から質問されると長考状態に陥り、そのまま質問の内容を忘れてしまうのか、数分後にする言葉はいつも、「分かりません」であった。過去にもこれに似た症例を見ている。法廷の空気に呑まれやすい女性特有の健忘症状であろう。依存っぽい幼児期への人格の退行が観察できるはず。
 これは私の一推理だが、少年は一時的に荒れ狂ったが、直ぐに静まった。
 勇樹君の腹の上に足を乗せたまま、彩被告の方に向けた顔は、こう語っていたはずだ。

「さあどうする。勇樹を助けに来るならば、お前を殺す」
 鬼気の迫る男の顔を見て、彩被告は助けに行きたくても、足はすくんで一歩も動けなかったことだろう。それを見て、少年は致命的な一撃を勇樹君の腹部に加えたのではないのだろうか。こうして、四歳の園児は虫けらみたいに殺された・・・。

 この推理が外れているとすれば、その暴行によって愛児の死が予見できたからである。
 ・・・やはり、この点が気になっている。
 なぜ彩被告は、少年の分のシェークを買わなかったかである。
 次にひっかってくるのが、保育園の園長に対して「家には少年は居ない」と報告したかどうかである。
 もし、「居ない」と報告したのであれば、園長の態度は腑に落ちる。
 一方の彩被告は、母親としての立場がなくなる。というのは、十九日の朝、「邪魔」という理由で勇樹君が蹴飛ばされたことで痣が残れば、うそが見破られ、自らの保護者責任が問われることになるからだ。これを
回避する方法があるとすれば、あれしかないことになる。
 と、これを書くことは、私自身辛い。辛いけど、単なる推理と最初に断った上で述べる。

 つまり、少年の分のシェークを買わずに、少年のいる部屋に戻れば、怒ることは火を見るよりも明らかではないか。そして、怒り狂った少年に彩被告が「制止」という刺激をあたえると、少年の怒りがさらに激しさを増すことも目に見えている。それでなくても怒りの最中にあった。カラオケに出かけての帰りの、昨夜来の怒りを朝には爆発させている。火に油を注ぐようなものではないか。
 完璧・・・ともいえる筋書きだ。後は「記憶を喪失した」「いっぱい会いたい」などと、バカな女を演じていればいい。
 検察側は、少年の供述から、腹の上に「足を乗せた」確信犯的な暴行の様子について把握していたと考えられる。しかし、彩被告をただ傍観していたというのは、おかしいのではないか。

 マスターソン・・・も境界例患者の人格の豹変ぶりと、その著しい「見捨てられ感情」に着目した。マスターソンによれば境界例患者の母親は、不安定で耐え難い欠如の感覚から、原初的な母子融合の幻想にしがみついている。そして、その融合の筋書きにあった仕方で振る舞うよう、子ども圧迫しつつ操作する。子どもが独自の自己を生きることをあきらめて自分の好みのイメージにかなったしがみつきをすることに対しては愛情の報酬(Reword)を与える。しかし子どもが自発的で独自な自己を示すと、それを「みすてられ」と感じてしまい、とっさに愛情を撤去(Withdraw)する仕草をしてしまう。(内藤朝雄著「いじめの社会理論」188P-柏書房)

 引用にある「母子融合」幻想は、否定的にみているが、「撤去」に引っ掛けて言えば、母一人子一人の家庭では、子どもは健気な考えから大好きな母親を護ってやろうと思い、しばしば
親越えを試みる。
 「親越え」に関しては、具体的なことは何一ついえぬ段階にあるが、彩被告はそれを嫌ったと思う。それだけではなく、手に余る自主的な行動(保育園での掟破りの行動例が報告されている)には、将来的な不安を覚えたであろうから、少年の存在を必要とし、しつけを一任した。

 そうやって自らの手は汚さず、「責任回避」という砦の中に、わが身を預けえたと思ったから、わが子の変死という異常事態が起きても、一貫性のあるその態度を持って「無罪」を言い張っている気がしてならない。

4 高三男子の責任論
「債権者」という怪物
 バタラーたる少年を仮主語とした場合、文「少年Aは、勇樹君Bを虐殺した」が完成する。これを関係式に置き換えると、「A・−−・B−−・C」(C=虐殺)   :式の意味は、「点Aが一体関係にある動点Bをゴールの点Cまで運んだ」。つまり、主語格が虐殺したの意味が劇的に復活してくる。
結論1:少年が衝動に駆られて虐殺したことは事実だが、あくまでも責任準体に留まる。
結論2:「すべての責任は僕にある」との証言は、児童福祉法によって護られると読んでのことと、考えるべき。
結論3:この男も又、「責任回避」システムの作動による、システマチックな犠牲者である。
 バタラーたる少年を絶対主語とした場合、文「少年Aは自らの少年Aを使って、勇樹君Bを虐殺した」が完成する。これを関係式に置き換えると、「A・−−・A ・−−・B−−・C」(C=虐殺)   :式の意味は、「主点格Aが一体関係にある準点格Aを使って、動点格Bをゴールの終点格Cまで運んだ」。つまり、準体格ではなく、責任本体格が虐殺したの意味が復活してくる。 結論1:少年は、どこにでもいるフツーの少年である。
結論2:少年は、もう一人の少年と同居している。
結論3:真犯人は、もう一人の少年である。




 あの日、公判の場で若い検察官は、反対尋問のために後半に登場してきた。
 その前に行われた弁護士の証人尋問は証人の口に蓋でもするようなやさしい気配りが読み取れた。この優しさに溢れた尋問に、少年は気力の萎えた・弱々しい声で応えていた。それでなくても、法で護られているとの空気は伝わっていた。法廷内では少年の居場所は衝立で仕切られている。見えないはずの少年が声を通して−−この唯一のパイプを通じて、繊細な感じの少年のイメージが立ち上がろうとしていたかもしれない。
 この気鋭の検察官の矢継ぎ早の尋問によって、法廷内の空気が一変した。
 空気の変質は、少年が自らの正体を明かしたことと無関係ではない。裁きの場へと首を引きずり回される代わりに志願して、己の赤裸々の姿を公衆の前に晒し出したような気がした。

 −−やめてと言われた時、どういう気持ちになりますか?
「森島さんに対して腹が立つ。絶対に暴力はやめないぞという気持ちになる」

 と、少年は委細かまわず、暴力の最中の自縛自縄の心理状態に陥ることを白状する。
 こういう心理は、飼い犬の行動を通して観察できる。賢い犬は飼い主の命令を二進法として聞き分ける。お食事の前に、「お座り」といえば、前脚を立てたまま尻を地面につける。その姿勢を保ちながら解除を意味する次の命令を待っているものだ。この命令系統が突然、狂う時がある。散歩の途中に猫の姿を見つけると犬は突然走り出そうとする。そこで「止まれ」といえば、犬の動きは一瞬鈍るが、動きを止めないので、もう一度「止まれ」というと、そのまま突っ走ってしまう。この理由は、狩りが犬の「仕事」と思っているからで、仕事をして御主人が喜ばないわけがないと考えてのことであろう。待機も仕事のうち、という考え方は、人間にも受け入れがたい観念のひとつであるから、犬が聴く耳を持たぬのは当たり前といえるかも。
 上にあるような少年の心理状態は、実を言うと、喧嘩している最中の男の心理状態でもある。十七の少年が四歳の幼児を相手にして闘争本能を剥き出しにすることが考えにくいのならば、仕事の意識に縛られているということにするか。
 それにしても疑問に思うのは、300万もの金を彩被告に請求していたことである。

 −−被告人に金を払えと催促。その根拠は?
「貸し金。パソコンを買う時、十万円貸した。他に、損害賠償、強制わいせつ、軟禁、児童福祉法違反、慰謝料。これは精神的損害をこうむったことに対する請求。・・・合計して300万円」

 と、少年は検察官から問われて、淀みなく答えた。
 一方の、少年よりははるかに法律に明るいはずの検察官は、その請求そのものを否定も肯定もせず、次の尋問へと移った。

 −−慰謝料の額は、・・・50万、80万、300万と増えていったのですね。
「はい」

 少年はフツーという元々の鞘に納まるように「ハイ」と答えた。自分が境界例の一人(この場合は、正常と異常)であることを少年はまだ自覚できずにいるようだ。異常な観念をそのまま表白する位だから。
 数字の膨張は、自己の肥大化と関係があるのだろうか。
 詩人にとって最初の詩行は、神様からのプレゼントである。いい詩とは、詩自らの自動運動によって展開されてくるものをいう。詩に限らず、突然に襲い掛かる観念も一過性とはいえ、それ自らが増殖するかのように自動運動を展開させてこそ、天の恵みは実を結ぶと思っている。この意味でいえば、少年は詩人のように数字のイメージを膨らませていったのかもしれない。そして、詩人が詩を書くことで詩人であることを表明するように、少年は数字を膨張させるだけでは飽き足らず、数字のイメージにふさわしいように、自己を債権者に仕立て上げたのではないのだろうか。

 −−債権者?

 少年はおそらく、法律に則って自己イメージを合法的に完成させたと思っているかもしれないが、実際は、内なる怪物を育てていたことに気付かないでいる。それも見境なしに人を殺してしまう怪物をである。

       *     *       Ψ      *       *

もう一つの恐竜絶滅伝説 今述べたような少年が怪物に化ける例は、吸血鬼や狼男の話の類でいずれも絵空事と考える人が多いと思われるが、現代の生物学はこの常識を覆しつつあることを知るべきである。
 数ヶ月前であったか、タレントのビート・たけしが主演の科学ドキ番で、白亜紀に栄えた恐竜の巨体はもうひとつの脳−−背脳によってコントロールされていたという説の紹介を行っていた。詳しいことは忘れているが、そのくせ、踏み込み不足という不満だけはしっかりと記憶している。
 実をいうと、この背脳説を前々から唱えていた詩人がいる。下関の松村俊幸である。シックスセンスの持ち主というか、とにかく常人にはない異才を持っており、知人が亡くなると、その人の霊が風船玉みたいにぱちっと割れる音が耳のそばで聞こえるといった話をよくする。昔は霊をヒトタマといっていたのだから、死亡するとはタマが割れることだと、私は単純に理解している。
 その松村が04年の春に『恐竜の遺伝子?? わが東洋』(私家版)という奇妙なタイトルの処女詩集を出している。氏には失礼な言い方になるかもしれないが、詩集というよりは詩的イメージを武器にした奇譚集と私は解している。 

 実際、詩集の表紙には、左の画像にあるように「譚詩集」としてある。

 松村の詩集は、生物学的なロマンを奏でる長大詩篇を連ねる。

 ・・・小さな頭が動きを素早くする・・・情報を背の脳に伝えつつ 

 問題の詩行はそこで途切れ、すぐに復活する。

 頭を俊敏に動かし続けても 網膜像と反射神経の反撃だけで
 全身のバランス・思考・判断回路を背の脳に任せてあるので
 めまいも酔いもない

 と、驚くべきことに、運動神経を司る脳が頭にあり、思考や判断を司る脳が背にあると説いているではないか(構造的な生物学的ねじれ?)。
 こういう生物学的奇説集を体験談的な奇譚集とし、さらに「詩集」と称するところに、松村の詩への強い拘わりというか、多重の「構造的な転換」を楽々とやってみせるところに、相も変わらぬ芸人魂を見る想いがする。

 ところで、松村はなぜか恐竜は絶滅したとは言わない。この理由として、氏は自らの先祖が恐竜と信じているからだと考えている。一方、恐竜絶滅説は巷間に溢れている。と言っても、私が知っているのは「隕石衝突」説に「昆虫大発生」説にNHKの科学ドキ番の「奢れる者久しからず」式の「進化ストップ」説や亀みたいな「進化の袋小路」説位である。
 このように述べてきた関係で、もうひとつの仮説を立てるとするならば、恐竜の二つの脳は競って進化を遂げたため、統制が取れなくなって自滅したとの考え方である。
 恐竜に限らず、生物は皆二種(陰と陽)の脳をもっており、この両脳を競わせ発達させることで脳そのものや臓器などを進化させたのではないか。この考え方を採用するならば、この両脳の名残が人間をして「怪物」に化けさせたとしても何ら不思議ではない。
 「怪物」、言い換えると、「ジャンピング機能」をもった、もう一つのヒトの顔である。

 最後に付け加えたいことは、近未来を襲うかもしれない両脳の恐怖である。恐竜が両脳ゆえに絶滅したと考えられるならば、人類は自らが作った電脳によって滅ぼされると考えるのが妥当というものではないだろうか

児童相談所の責任論

 「責任回避」というジャパニーズ・スタンス
結論1通報と同時に、児相には帰責事由が発生する。
結論2帰責事由が発生した場合、児相は(後に起きた児童虐待死事件等の)因果関係を打ち消す反証の義務を背負う。
結論3児相は、説明責任を回避している。
註 この場合の「因果関係」の「因」とは、「解発誘因」もしくは「主導サボ」をいう。

 日本人の暴力は、「責任回避」というジャパニーズ・スタンスを確立した後に、ようようと始まる。
 地元のワルは、まず「お前が悪い」と責任の所在を相手に認めさせてから、サンドバッグのように殴り始める。喧嘩する時もそうだ。いわゆる「スジを通して」からはじめる。
 DVのバタラーも例外ではない。まずルールを決め、違反した罰として暴力を揮う。そうやってセクシャル・パートナーに学習させると、以後は、自由に暴力を揮い、{殴られたのは「お前が悪いからだ」という論法を通す。
 児童虐待もそうだ。加害者と被害者の間で、「責任回避」と「自己責任」が平行関係をキープしたまま、いじめを行っていることはみやすい。そうやって被害者の側が「変死」を遂げると同時に、責任の「自己化」が繰り上がり、その結果として、加害者自らが「自己責任」を背負わされる仕組みなのだ。

 大企業では、どうだろうか。
 ゼネコンを例に挙げると、監督は現場で自らの手を汚すことはしない。ただそこに立って眺めているだけである。なぜ眺めているだけかというと、彼が手を汚した工事に万が一トラブルが起きたとき、元請としての主体的な責任を取らされるからである。
 次に、末端に位置する会社はどうかというと、信じがたいことが現に起きている。
 これは聞いた話だが、校内のアスベスト撤去工事において、工事スタッフが逃げて、工事の主軸に日替わりの日雇い労務者をあてているというのだ。アスベスト専用の防塵マスクは、無論、支給しない。つまり、人間の「使い捨て」みたいなことをやっているのだ。
 今述べたようなことを責任の「自己化」といいうるならば、事例は数え切れない。
 たとえば、会社のスコップをなくすと、社長は職長にたいして「管理できなかったお前が悪い」と云って、給与から天引きすると告げたりしている。又、ある現場では,測量士の資格を持たぬ土工にレベルも用意させ、測量を一任している。これは、書くまでもなく、測量ミスがもとで起きる工事トラブルの責任を土工個人にかぶせるためのものだ。
 今、現場にあるゼネコンの倉庫の中は、スコップなどの道具は一つも見当たらず、ガランとしていることをば付け加えたい。要するに、「
積極的サボ」に代表される「超越」的な立場と「責任回避」は、紙一重の関係にあるのだ。
 

 本題の児童相談所だが、まずは問題点を表に示したので、下の表を参照されたい。

その時の森島母子の動き 児相の動きなど

保育園などのの指示・報告など 児相の対応上問題点

9/10 福祉課より児相に児童虐待の通報あり。
保育園、福祉課に児童虐待の件を報告。
9/11 彩被告、少年からけられて腰の骨を折る。勇樹君を預けるために
福祉課にショートステイを申し込む。
福祉課より森島被告のショートステイ申込の通報あり。




申込を受けて、福祉課は児相に通報する




この間の勇樹君の行動観察の報告がない。ということは、初期活動として、情報集めを行っていないことがわかる。




9/18 勇樹君もショートステイを終えて登園。


保育園に児相の職員二名が訪れる。



保育園、児相の介入の動きをけん制する。


保育園は、勇樹ちゃんが施設にしばらく預けられていたこと。彩被告が骨折していたことなど知らなかったのだろうか。児相はこの二点は把握しているはずだ。それとも、事前に情報を集めずに、現場で指示を出したのかな。つまり、はじめに指示ありきか。
9/26 勇樹君は県外の祖父母宅に預けられ、戻ってきて二日目に登園。 保育所に、電話で打診。



保育園、目立った外傷はないと児相に報告。


保育園は、勇樹君が祖父母に預けられたことを児相に報告しなかったのか。



10/7 警察に相談。母親に被害届けを出すように助言を受ける。

この間の間隔があきすぎていると思っていたら、警察への相談を一回とカウントしている感じ。はじめは週イチの対応。次に、十日に一度で計算が合う。ということは、危険の要素が除去されつつあると読んだか。
10/17
保育園に、電話で打診。
保育園、目立った外傷はないと報告。 保育園の報告を受けて、児相は「除去された」と読みきった可能性がある。
10/19 勇樹君、出血性ショックで死亡。 予想外の最悪の展開に、児相の職員は顔面蒼白?

 児相の電話での打診には、二度とも園長が応じている。

 表からは、はじめに対策費を計上し、もって現場へといった様子が伝わってくるが、どうだろうか。
 他に、表に書けなかった問題で、児相の対応を挙げる。

 昭和署によると、勇樹ちゃんの通う保育園では、七月中旬と八月下旬に、勇樹ちゃんの顔や背中などに虐待の跡のようなあざを見つけ、児童相談所に通報していた
(ママ)。児童相談所で調査の結果、交際相手の少年が暴行を加えていた疑いがあるとして、今月七日、同署に相談。同署では児童相談所に、母親に被害届けを出させるようにアドバイスしていた。(讀賣「四歳男児が不審死/昭和区 虐待の可能性、捜査」)

 引用にある「通報」先は、正確には、園長から報告を受けた「福祉課」である。
 見られるように、児相は児相で、少年の暴行の件で警察署に相談しているわけだが、どういうわけか「母親に被害届けを出させるように」というアドバイスを捻りつぶしている。その結果、先に出した「少年を家の中に入れないように指導を」という指示に執着していた様子がみえてくる。
 この指示の中身は、「原因物質が特定できているのだから、その原因物質を除去すればその病気は治る」という対症療法的な考えに基づいていることは明らかだ。薬物療法ならまだしも、相手は「物質」ではなく生の人間なんだから、勘違いもはなはだしいといえる。
 この問題は、実を言うと、二つある。一つは、今述べたような、医者でもなければ専門家でもない、児相の職員が勝手に「児童虐待」用の処方箋を作り、この薬を煎じて飲ませれば患者の病気はすぐに治りますよ、とノー天気な指示を出した点にある。
 もう一つは、「指導を」と対応を投げ出しいている点である。この点を突いてのことだと思うが、「
保育園に対応丸投げ」(中日、11/13)と書いた記者の目は確かであるそれも、園長がきっぱりと断ったことから、得意の鼻がへし折られたか、その後も自らの出した指示に固執することで、予防線を張ったなという印象は消えずにいる。

 もう一点を挙げれば、樵(キコリ)がいないこと。そのくせ、森は見えている関係者ばかりいること。
 たとえば、昭和区役所の松尾道夫民生課長のコメントを載せた記事があるので、引用を試みる。

 ・・・松尾課長は「行政が家庭内へ立ち入り可能なような強制権を持つ法改正が急務。『プライバシー』が大きな壁となっており、児相は『弱い立場』から脱却する必要がある」
(家族の幻「DV被害者の心理、認識を」毎日03/11/14)

 読んでみて、ピントのずれたコメントだ思うのは、私だけであろうか。というのは、「プライバシー」が壁という場合、大阪・岸和田の中三虐待事件のケースには当てはまるかもしれないが、名古屋の昭和区のケースでは、むしろ保育園のブライバシー守秘が壁になっており、「家庭内」云々という議論にまで児相は踏み込んでいないからだ。だから、そういうコメントは、それにふさわしいまで場所まで足を運んでから、そこでコメントすべきではなかろうか。
 引用は、もう一つの問題を抱えている。というのは、虐待親は「自己責任」で子のしつけを行っているのに対し、児童相談所などの公的機関は、「責任回避」という日本的立場から抜け出そうとしないからだ。この問題こそ、構造的なネジレと思うのだが、この構造が見えないまま法改正をしてなんの意味があるというのだ。もしやるのであれば、「責任主体」への罰則規定を盛り込むことだ。これこそ虐待防止法の抜本的改革につながると私は信じている。

 これは蛇足ともいえるものだが、 児童相談所の職員がはじめて保育園を訪れた九月十八日は、ショートステイが終わり、勇樹君が再び登園をはじめた日になる。「目立った外傷がない」のは当たり前といえる。次の同月二十六日に電話で様子を尋ねている。この時も「県外の祖父母に預けられた勇樹ちゃんが再び登園した二日後」
(中日03/11/13)であるから、「目立った外傷がない」のが当たり前といえる。だから、九月二十七日から勇樹君の亡くなる十月中旬までの間、保育園側は主だった外傷が観察できなかったわけだから、この期間が不思議といえば不思議である。

 最後に、この事件は「超越者」たちによって仕組まれた虐待死事件と総括する。
 暴力の末に勇樹君を虐殺した少年は、裡なる「超越者」をリーダとし、自らの本体を俗体化させた上での暴走行為と推定。マニアだから「マニー」と中学生の時にあだ名された少年は、犯行は自分ではない、もう一人の自分と心のどこかで思っていると、私はにらんでいる。
 彩被告は、すでに述べたように、保護者責任を「回避」する必要から(事件を誘発させたり)「(傍観という)積極的サボ」等を演じたと推定。
 児相の「超越者」ぶりは、「主導サボ」に代表される。対応上の問題点として識者らが指摘するのは、専門家に相談しなかったことと自らの目で見届けなかったことの二点である。このサボが民の事への介入を俗事と考え、自らの手を汚すことを嫌ったものであるとするならば、サボに「ポジ」の意味が加わる結果、児相の「超越」性が明らかになる。と同時に、「責任回避」というジャパニーズ・スタンスも鮮明になる。

 この事件は元々、児相の介入によって急展開を遂げ、園児虐待死事件が惹き起こされた可能性が高いのだ。園児虐待の通報は、単なる「通報」扱いの意味に留まるのではなく、後に死亡事件として発展した場合は、社会的な責任としての「帰責事由」が児相には生じると、私は頑なに信じている。かといって、死亡事件の責を児相に帰すべき因果関係の証明は、民の側に負託されるものではなく、児相自らが原因の一つと考えられる「解発因」の可能性等を打ち消すために、反証の義務を背負うべきと考えている。
 超越的な公的機関を建て直すには、この手の解体的な荒療治が必要なのではなかろうか。

■関連記事1 今回の事件で、児童相談所は保育園から報告を受けた九月十一日、緊急会議を開き、対応を検討した。しかし、勇樹ちゃんに目立った外傷が見当たらず、一時保護などの緊急性はないと判断、チームの結成は見送った。市児童福祉センターの金子修身課長は「次に大きなけがが見つかれば、家庭に介入する予定で、準備は進めていた。保育園と母親との信頼関係を重視した」と釈明し、母親とも会っていなかった/サポートチームの構成団体の一つとして登録されている「子ども虐待防止ネットワーク・あいち(CADNA)の岩城正光理事長は「現場が危機感を覚えれば、そのケースに合わせた対応をすべきだ。このままでは情報が寄せられても前へ進まない」と指摘している/一方、松原武久市長は「一連の虐待事件後、支援体制を整備していたが、結果としてあと一歩、積極的な対応ができていない。職員の洞察力のなさにいらだちを覚える」と、無念さをにじませた。(虐待防止新制度「サポートチーム」児童相談所結成せずー讀賣03/10/23)
■関連記事2 児童相談所がある名古屋市児童福祉センターの池内徹所長は二十一日夜会見し、「必要な対応をしてきたが、結果的に子どもが暴力により死亡したことを厳粛に受け止めている」と話した。センターでは、九月十一日に虐待の報告を受け、すぐに児童福祉司を訪問させたが、勇樹ちゃんには目立った外傷はなかったという。また、児童相談所は、保育園から森島容疑者に、交際中の少年を家庭に来させないように指導することを申し合わせていた。池内所長は「保育園と母親の信頼関係を大事にし、母親とは会わなかったが、直接会って必要な指導をすべきだったと思う」と語った。(たびたび体にあざー讀賣03/10/22)


       

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