2011/10/14
「サンカ(山窩)とゴシェン その2」
日・ユの神話には確かに共通点が存在するが、世界的な視点からはどうなのだろうか。
豊穣の神と太陽神にまつわる伝説などでは、豊穣神が毎年、春に蘇り秋に殺される。
そしてまた春に復活するのだが、それを迎えに妻であり母である太陽神が冥界へと下るのだという。その太陽神が冥界へ行っている間は、世界は暗闇に閉ざされ家畜は子を産まず人々は困窮する。そこへ冥界から帰った太陽神と豊穣神が登場し、世界は光と安寧を取り戻すというものだ。この神話などは天の岩戸神話を彷彿とさせる。
ファラオの命を脅かすとして子供を皆殺しにされそうになった時に、神の助けによりユダヤの子供が救われたとする伝説に基づくとされる『過ぎ越しの祭り』(PASSOVER)も、その発端は遠くユダヤ以前に存在するものの様であり、それが形を変えて日本では『蘇民将来』の祭りとなっている。色んな神様や神話があるもんだなあ〜(汗)
アメノウズメって知っていました?
Gerizim山で過越(PASSOVER)のため野営するサマリア人。過越しのいけにえを屠ることができるのは,あなたの神,主が与えられる町のうちのどこででもよいのではなく,ただ,あなたの神,主がその名を置くために選ばれる場所でなければならない。(申命記第16章5〜6節)
過越し祭りの前日,食事の準備が完了するとサマリア人は紀元前120年に滅びたサマリアの最も聖なる寺院のあるGerizim山の岩場に集合する。写真で立っている高位の祭司が以下を述べる。「これから述べる掟と法は,あなたの先祖の神,主があなたに与えて得させられる土地で,あなたたちが地上に生きている限り忠実に守るべきものである.................」(申命記:礼拝の場所・第12章1〜6節参照)
The Master saith,Where is the guestchamber,where I shall eat the passover with my disciples?.パレスティナのアラブ人村では二階がゲストルームになっている。聖書の時代,このような部屋は一つの社交であった。ペトロとヨハネは二階で食事の用意をした。「すると,席が整って用意の出来た二階の広間を見せてくれるから,そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」弟子たちは出かけて都に行ってみると,イエスが言われた通りだったので,過越の食事を準備した。夕方になるとイエスは12人と一緒にそこに行かれた。マルコ14章15〜17節。
BLOOD UPON THE LINTEL.出入り口の上の横木は血で塗られる。「これが主の過越(すぎこし)である。その夜,わたしはエジプトの国を巡り,人であれ,家畜であれ,エジプトの国のすべての初子を撃つ。また,エジプトのすべての神々に裁きを行なう。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は,あなたたちの徴(しるし)となる。血を見たならば,わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき,滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。(出エジプト記第12章11〜13章)
過越祭(Passover)の食事はいつも定められている。「そしてその夜,肉を火で焼いて食べる。また,酵母を入れないパンを苦菜(Bitter herbs)を添えて食べる。(出エジプト記第12章8節)
主の過越祭りである。いそいで食べよう。「肉は生で食べたり,煮て食べてはならない。必ず,頭も四肢も内臓も切り離さず火で焼かねばならない。それを翌朝まで残しておいてはならない。(出エジプト記第12章9〜10節)
聖書ものがたり・申命記参照
管理人はキリスト教徒ではないのですがブログをはじめたきっかけは何も知らない自分が恥ずかしかったからです。藤沢のルーテル教会で幼児洗礼は受けましたがまったく教会や聖書には無縁でした。しかし,洗礼を受けたときの記憶は残っているのですがその後何回もあった絶体絶命の時,何者かが背後で押してくれたことは多々あったのでした。
日本に既存していたその文化は、恐らくはユダヤ民族という概念が誕生する以前に遡る時代の話しである。
その証拠に私達にはユダヤに見られる『神との契約』の記憶が無く、選民意識も存在しない。『神との契約』という衝撃的な出来事が起こっていたならば、ユダヤ民族に見られる様に決して忘れることなど出来ないであろうからだ。
中世あたりから『神州日本』的な考えは存在するが、それは恐らくは『元寇』辺りから一般的になったものだろう。そして帝国政府が戦争遂行の為にそれを利用し、最後は
『神風特別攻撃隊』なる理不尽な攻撃の大儀名分として大日本帝国とともに絶命した。
偽書とされる幾つかの古文書では、視点が政治的な主流に逆らっている為に内容の如何に係わらず一切認められていない。
そこでは世界的に活躍する私達の祖先の姿が活写されていたりするが、アカデミズムからは一笑にふされ、顧みられることはない。
正史的な解釈からは当然であろうが、その正史として唯一認められている『記紀』にしても多くの矛盾と欺瞞に満ちているであろうことは否めない。
日本神話では妻のことを妹というが、ユダヤでもやはり同じである。またソロモンが契約の箱をダビデの町から神殿に移した時に雲が神殿に満ちたという。
その時にソロモンが述べた誓いと、スサノオが詠んだとされる和歌『八雲たつ出雲やえがきつまごみに やえがきつくるそのやえがきを』が殆ど同じ意味だという。
研究者の中にはヤクモとイズモはヤコブとエドムであると指摘する人もいるらしい。
『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)には何と1〜2万年前の亜氷期の記憶が記されている。この時期に温暖だった気候が寒冷化し、平均気温が低下したのだが、このことは山の幸で十分に暮らしていけたものが、農耕による食料生産の必要に迫られたことを意味している
ディテールは異なるが、山本建造氏も乗鞍岳(のりくらだけ)付近に生活していた人々が気候の寒冷化により平地(現在の岐阜県・高山市付近)に移住したという説を発表されている。
山本氏の場合は乗鞍山麓に居住していた人々が原日本人だとされていて、飛騨から出雲や奈良へ人々が遣わされ、外国からの脅威に備えていたのだとされている。
しかし平地に降りて農耕が必要となれば、武力以上に権力を握る武器となるものがある。農耕技術がそれだが、九州に渡来して日向に拠点を築いていた日向族にとって日本を支配する絶好のチャンスが到来することになった。
この日向族は恐らくはヨセフ族であり、増長した彼らは自らを天から下ったもの天孫族と呼称するようになる。高千穂に降臨した天孫とは日向族であったが、彼らの覇権を目指す闘争は未だに全国に広がる様なものではなく、九州の一地方での戦いでしかなかった。後に東征して近畿地方で天下の覇権争いを繰り広げた相手は、皮肉にも後に同じユダヤ系渡来氏族といわれる人々であった。
結局は日向族が勝利したが、日向族もナガスネヒコも自分達が後世には同じ部族としてひと括りにされるとは知る由も無かった。
この闘いの後に近畿に勢力を築いた日向族は、ワカミケヌ(神武)の時代に最盛期を迎える。そして神武は彼の詠んだ和歌のなかで、自身の妻を妹と表現している。
これはユダヤ独特の表現であり、日向族とはその昔、僅かの種籾を携えて日本に渡来してきたユダヤ系の人々であった証拠でもある。
そして神武を先頭に日向族の東進が始まる、古代史に有名な神武の東征である。
しかし、これには異説も存在する。山本建造氏は岐阜県の飛騨地方にある『位山』に神武の墓があり、神武の本当の名は『サヌ』であり、その昔は地元の古老が嫁にその経緯を語って聞かせたという。
山本説によると神武は東進した大和でニギハヤヒと対峙するが、やがて神武とニギハヤヒはお互いの先祖が同じであり、かつては陸路と海路に分かれて出発した同じ一族の同胞であると判明する。更に出発前に先祖同士が交わした約束により、ニバハヤヒは都を神武に譲ったとされている。
つまり、ここでも渡来人が既に大和に居住していた可能性が示されている。しかも先祖同士の約束をちゃんと履行する律儀さは、多分に日本人らしさを示している様に感じさせる。
ユダヤ系渡来人である日向族が、同じくユダヤ系とされるナガスネヒコとアビヒコの兄弟が支配するヤマタイ国を撃破し得たのは、ひとえに剣の力だけではなかった。
ヤマタイ国の指導者である二人の名前にはヒコが付くが、水上氏によればヒクソスと呼ばれる民に由来するものらしい。ヒクソスとは500年以上もエジプトを支配し、契約を交わしてエジプトを出て行った民族とされ、ヒク=王・ソス=牧人という意味であるらしい。
日向族(ひゅうがぞく)ってな〜に?
だが、古代史研究家の水上涼氏が家紋を研究したところ、イスラエル12支族の全てが日本に渡来していることが判明し、著書『ユダヤ人と日本人の秘密』(日本文芸社)の中で詳細に解説している。
とすれば、「出雲族」と「日向族」の対立は、イスラエルの「10支族」と「2支族」の対立とも無関係とは思えない。
イスラエル共和国の再建まで、ユダヤ人は国を持たない放浪の民と言われてきたが、実は古代日本列島に民族移動し、世界で最も古い歴史を持つ「日本」という国の建国者だったのだろうか……引用はここから
ヒクソスと出エジプト記
ヒクソスの学術的解説(Wiki)
聖書ものがたり・出エジプト記
名前にヒコを付けるのは、その流れを汲む人々であるとの説があった。つまりナガスネヒコ、アビヒコは渡来人の支配者だったと思われる。
このヒクソスはエジプトを脱出後、ユダアと呼ばれる国にエルサレムという町を造ったと伝えられている。このヒクソスとはエブス人のことで、中国の神話時代に活躍した夷と呼ばれる人々がそれで、日本では彼らをエビスと呼んでいた。
これは古代日本とエジプトとに交流があった証かも知れないのだ。
エブス人
「創世記」10章15-18節では、長男シドン、ヘト、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アキル人、シニ人、アルワド人、ツェマリ人、ハマト人の11の氏族を総称して「カナン人の諸氏族」と呼んでいる。そのカナン(現パレスティナ)人はいち早くゴシェンに住んでいたセム族であったかどうかの記述はどこにもない。
その日,主はアブラハムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで,カイン人,ケナズ人,カドモニ人,へト人,ぺリジ人,レファイム人,アモリ人,カナン人,ギルガン人,エブス人の土地を与える」<創世記・Genesis15:18>
天照大神は孫のににぎのみことにいった:お前にこの瑞穂の国を与える(古事記)
ニニギノミコト
聖書ものがたり・創世記
えびす様
さて気候が寒冷化したが故に、狩猟と採集で生活の糧を得ていた日向周辺の国々はたちまち窮地に瀕した。
一方では小勢力ながら農耕を糧としていたワカミケヌ(神武)達は、それほど困ることもなかったのである。そして日向族の前に多くの国々が膝を屈したのである。
このことは全く経済力の差であり、力ばかりが戦の勝敗を決定するものではないと日向族に実感させたことであろう。
それは東征を目指した神武が、突然に熊野川を遡り当時としては貴重な辰砂をわざわざ求めていることでも判る。この辰砂は朱の原料となるもので、後には大陸への貴重な輸出品として政権の経済を支える物のひとつである。
神武達は飢えに苦しむ集落へ稲作を教え、見返りには法外な指導料を取り力を蓄え、時には武力で制圧し、時に政略結婚などの懐柔策を用いて、その勢力を伸ばして行った。
出雲の伝承では神武は七人いたというが、恐らくは七代はオーバーにしても複数代に渡ってこの東征が成し遂げられたものであろうと推察される。伝承を信じればその何代かの日向族の長が、神武という一人の人格に統合されて現代に伝わっているに違いない。
それはまた日向族の偉大さを誇張する為に、後世に成って『神武』という偉大な人物が捏造されたという可能性をも示してはいないだろうか。
日本では古来、支配権を握った勝者が、歴史を自分達の都合に合わせて改ざんすることが、当然の如くに行われていた。それは、多分にユダヤ的な行為でもあり、日本史の中では後世の政権も常に同じことを平気で行ってきた。
現代では有名な豊臣秀吉も、江戸時代には庶民から忘れ去られていた。無論、豊臣から政権を奪った徳川の政治的な方針により抹消されていたからだ。
それが復活したのは、やはり明治新政府の政治的な狙いによる。それは徳川前政権を、悪者に仕立てたいが為の方策のひとつだった。
前に挙げた『記紀』(管理人注:日本書紀と古事記の略称)もその例に漏れず、勝者となった日向族の都合に合わせて編纂されたものであろう。
記紀に関しては「景教と弘法大師空海」参照
だとすれば古事記のイザナギとイザナミのシーンも、自分達の習慣・風俗に合わせて記述したに違いないから、日向族はユダヤ系渡来民と考えられるのである。
そして敗者の側の記録は一切が異端として認められず、闇へと葬り去られる。
『東日流外三郡誌』もまた、このような敗者の記録であり、密かに伝えられた歴史書のひとつであるのだ。
このような捏造の繰り返しが今日の日本史を歪め、矛盾と誤謬に満ちたものにしてしまったのだ。
統一協会の大学教授が物凄い勢いで急増しています。奨学金を出してもらったからでしょうか。
だがどちらにしろ、ユダヤ系の渡来人と思われる勢力が日本の中心に腰を据えたことに変りはなく、彼らはやがて大王や大君と呼称していた王権を『天皇』という、より尊大な呼び名に変更したのだった。
そして彼らが拠点とした近畿地方一帯が、つい400年前まで日本の中心として繁栄し政治・文化の中心であった。
祇園祭はイスラエルのシオンからきたもの
祇園祭は、古代イスラエルのシオン祭りがルーツであるとも言われており、どちらも疫病を払うもので、7月1日から1ケ月間祭りは続き、ノアの箱舟がアララト山に漂着した7月17日にクライマックスを迎えます。 これは、シルクロードの果てから、新羅経由でやってきた最強の渡来人で、実質的に日本をつくりあげた秦氏が、古代イスラエル文化を日本に伝えたものと考えられます。
平安京をつくったのは桓武天皇ですが、その技術・資金の大半は全て秦氏のものであり、祇園祭を主催する八坂神社をつくったのは秦氏であります。 というか、日本の神社は八坂神社に限らず、秦氏によってつくられたものです。
日本書記など理解された上級者はこの小林恵子(やすこ)さんの本はいいと思います。1978年の論文「天武天皇の年齢と出自について」(東アジアの古代文化16号)をまとめた内容で.......泉湧寺が天武系の天皇を祀っていないことが明るみに出ている。なぜ天武系は皇統から排除されるのか。それは天武と天智が本当は兄弟ではないというだけではなく,百済王の系譜を引く天智に対して,天武は森羅系渡来人だったから,という。「日本の正体」99〜に詳しく出ている。しかしながら日本書紀は縄文系が古事記は森羅・ユダヤ系渡来人が書いたものと思われるが立場によって変わってくる。藤ノ木古墳を調べてみるといいだろう。朝鮮王朝との関係を。
フルベッキが中心になって起こした明治維新が実は南朝革命であったことを知る人は少ない。鹿島昇は,光明天皇が暗殺されたと見た上で,明治天皇が光明天皇の皇子(睦仁)ではなかった可能性を述べている。明治天皇の孫を称する中丸薫さんがあるテレビで明治天皇は南朝.....と発言して騒然としたことがあったらしい。鹿島昇の説はつまり鎖国維持を主張する光明天皇に続いて明治天皇も殺されたという説である。なぜ薩長とその勢力に与した公家たちが,そんなリスクを冒したかというと,明治維新の目的が,実は南朝革命だったからだという。
古代社会でも最も有名な帰化人といえば『秦氏』であろう。聖徳太子の側近に秦河勝(はたのかわかつ)が居り、この人が宮廷での雅楽を世襲してきた東儀家の遠祖といわれている。河勝は渡来人であり、秦の苗字が示すように秦氏の出身であろう。
秦氏は雅楽、絹織物、土木、農耕などの技術を持っており、その技術を背景に巨大な富を蓄え政治的にも影響力を及ぼすようになった。
その秦氏が主導して作り上げたのが平安京であるという。これはヘブライ語のイールシャローム(エルサレム)を日本語にすると平安京となるのだそうだ。そればかりでなく、何とエルサレムの付近にはキネレット湖があり、これは琵琶の意味だそうでエルサレムという街の名とキネレットという湖の名をそのまま写したのが平安京と琵琶湖だといえよう。
政治の中枢が江戸に移ってからも、経済の中心として命脈を保ち続けたことは奇跡的な出来事といえるのかも知れない。
その理由として私的には、やはりユダヤ以前から続く大きな文化的なベースが存在し、それがユダヤに残った伝統的なものと重なったことにより更に強化されたからだと考える。(引き続き了解をいただいたここの管理人様の記事を解説・編集・要約しています)
よくメールを戴く読者からの転載です。
こんにちは、Tatsujin様 XXです。
その岐阜県の高山市民のことですが、数年前に行なわれたミトコンドリアDNA検査で、市民の50%以上が、いわゆる「縄文人」と言われる人々だということが判明しています。
きわめて特徴的な分布を示していたと当時のニュースで見た覚えがあります。
おそらく、中部(に限らずですが)の山岳地方の人々の中には、いわゆる「まつろわぬ民」として追いやられて定住した人々(生活としては狩猟、炭焼き、マタギ、などなど)が多数いたのではないかと推察します。
それでは失礼します。
まつろわぬ民ってな〜に?
「まつろわぬ民」であった日本東部の民・蝦夷(えみし、えびす、えぞ)がヤマト王権・朝廷により東北地方へと追いやられながらも守り続けた伝承とする説が唱えられている。
蝦夷は統一国家に抵抗していた。
蝦夷征伐
卑弥呼の正体
ヒクソスから帰来した渡来人
2CHは玉石混交ですね。
この世には決して知ってはならない文字がある。
1 ■サンカについてのサイト
ついさっき、サンカについてのサイトを訪問したら、再開していたので、是非このサイト「熊野ライフ」掲示板参照をー
http://www.kumanolife.com/blobee/bbs.cgi?ffpnDw3YMcHVA
サンカくらいが天然痘患者を受け入れる集団だったように、包容力のある平和的な集団だった。
そして唯一サンカを受け入れたのが被差別部落だった点や、その生業を考えると元々の列島先住民生き残り集団に様々な流れ者が流入した集団なのではと思う。
上記BBSより
佐治芳彦著:謎の神代文字
こういう本を採り上げるについて、先に一言書いておいたほうがいいだろう。
こういう本とは、ぼくが仮に「アダムスキー本」とよんでいるもので、超古代史もの、UFOもの、偽史伝もの、予言ものなどをいう。巷間ではしばしば「カルト本」などともいわれる。だいたい見当はつくだろう。
ぼくの知っているかぎり、このような本、たとえばヴェリコフスキーの『衝突する宇宙』、チャチワードの『失われたムー大陸』、デニケンの古代遺跡をめぐる一連著作、日本でいうなら吾郷清彦の『古事記以前の書』や古田武彦の『邪馬台国はなかった』、最近よく売れた本の例でいえばグラハム・ハンコックの『神々の指紋』といった本を、これまでまったく読んだことも覗いたこともない読書人やメディア関係者というのは、まずいない。誰もが一度や二度は手にとっている。本棚の片隅に眠っているばあいも多いことだろう。
それにもかかわらず、このような本が一般的なメディアで書評の対象になるということは、ほとんどない。書評どころか、知識人たちのエッセイに登場することもない。理由はただひとつ、「いかがわしい」からである。
しかし、「いかがわしい」というだけなら、世界の全刊行書籍のうちのおそらく半分以上はいかがわしい。
日本の「アダムスキー本」の多くは、必ずやどこかで日本の古代史にかかわっている。
これを「日本の超古代」などいう。この言葉、ちょっと“いかがわしい”ので、最近は「日本の古史古伝」とよぶことになっているが、この古史古伝をめぐる仮説が、やはり書評はおろか、まったく歴史研究の一部とさえみなされていない。
実は、この手の“超古代仮説”が無視されてきたのは、もともとは明治以降の古代史ブームに関係があった。
いくつか原因があるが、ひとつだけ言及しておく。
明治以降に西洋思想が流れこんだとき、この内容をうけて日本の原始古代史にあてはめた一連の比較文化研究ともいうべきものの大半が流産してしまった。
これには、バイロン研究者としては有名な木村鷹太郎が日本神話とギリシア神話の類似に着目して書いた荒唐無稽きわまりない『世界的研究における日本太古史』(明治45年)、無政府主義者で大杉栄らの友人だった石川三四郎が記紀神話のルーツをヒッタイト神話やユダヤ神話に求めた『古事記神話の新研究』(大正10年)、あるいは小谷部全一郎がジンギスカン=義経説につづいて打ち鳴らした『日本及日本国民之起源』(昭和4年)などがある。まだまだいろいろあった。
いずれも今日ではまったく認められていないが、当時はたいていがベストセラーで、そこそこ学者たちも巻きこまれていた。けれども、その内容の多くは外国語を先駆して読めた学者たちの、あまりにも牽強付会な推理ばかりだった。
ようするに海外事情に暗い日本人に、日本のルーツを国際化するためかのような眉唾な話をふんだんに取りこんだのである。これでは長持ちするはずはなかった。
それでもまだ、この手の話は荒唐無稽でも、痛快なところもあった。ところがここに決定的な“事件”が加わった。
茨城で教派神道系の宗教法人皇祖皇太神宮天津を主宰していた竹内巨麿が発表した「天津教古文書」が、学界からの猛攻撃をうけてしまったことだ。
これがいわゆる「竹内文書」である。
謳い文句によると、神代文字で綴られていた文書を武内宿禰の孫といわれる平群真鳥が武烈天皇期に勅命をうけて漢字まじりで翻訳したという文書なのだが、当時の三上参次・黒板勝美らの史学者の頂点いる学者たちの逆鱗にふれたばかりか、竹内巨麿がその発表内容で不敬罪で起訴され、さらに岩波の「思想」が昭和11年に狩野亨吉をして「天津教古文書の批判」を書かせ、木端微塵に粉砕してしまった。そういう“事件”だった。
なにしろ日本の古史古伝には日本神話がかかわっている。安易なあてはめは、良くも悪くも警戒されたのだ。以来、この手の本はなかなか浮上してこなくなる。
こうして長らく、偽史伝を扱うこと自体がタブー視されてしまったのである。ぼくは偽書や偽史もまたひとつの史書史料であるとおもっているけれど、学界はそういうことを「でっちあげ」として絶対に許さなくなっていった。
それでも昭和30年代の邪馬台国ブームをきっかけに、古史古伝書に言及するタブーは少しずつ破られてきた。が、ちょうどそのころに欧米の「失われた大陸ブーム」やUFOブームが浮上し、さらにはヒッピー・ムーブメントに付随したオカルト・ブームが重なってきた。
あるいはそれまでに、偽史偽書をめぐる本格的研究があってもよかったかもしれないのに、その日はオカルト・ブームによってまたまた遠のいてしまったのである。まあ、いろいろ不幸が重なったわけだ。
で、本書のことになる。
この本は日本の古史古伝に関しての案内である。むろん著者の言いたい仮説は書いてあり、本書にとりあげた古史古伝をいずれも認めたいという切実なものなのだが、その言い分をむりやり通すという態度は見せていない。
したがって本書は比較的よくできた日本の偽史偽伝のガイドブックとして読める。偽史や偽書というものが日本でどのように扱われてきたかについてのサポート・レポートにもなっている。そういう意味では珍しい本なのだ。著者についてはぼくは知らないのだが。
ここで古史古伝というのは、“超古代史研究家”の吾郷清彦による定義づけによめもので、本書もそれが基本的に援用されている。それによると、次のようになっている。
『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』が古典三書、それに『先代旧事本紀』(旧事紀)を加えて古典四書、別して「竹内文書」「九鬼文書」「宮下文書」を古史三書とし、さらに別の範疇として「上記」(うえつふみ)、「秀真伝」(ほつまつたえ)、「三笠紀」を古伝三書というらしい。
これがこの“斯界”の研究者たちの“常識”になっている。むろん“斯界”では通用しているが、一般的には、つまり歴史学界では認められていない。それはともかく、ごくかんたんに1行解説をすると、次のようになる。
★「神代文字」で書かれたとみられる古史古伝
上記=頼朝の妾腹の子の豊後守護代・大友能直が関与したというので「大友文書」ともいう。その宗像本といわれる写本を明治初年に幸松葉枝尺が筆写し、それをさらに抄訳した吉良義風の『上記鈔譯』が明治10年に出た。最近になって吉田八郎『上つ記』、吾郷清彦『ウエツフミ全訳』が刊行された。
秀真伝=平田篤胤が『神字日文伝』(文政2年)の巻末に「疑字篇」に示した出雲に伝わるホツマ文字にあたる文書を、昭和41年に松本善之助が“発見”し、さらに宇和島の小笠原家で完本が見出されたというもの。この完本のもとは近江三尾神社の神宝を天保14年に小笠原通当が『神代巻秀真政伝紀』12巻として著したものだったという。
三笠記=「秀真伝」同様、宇和島小笠原家で松本善之助が“発見”したもので、「神載山書記」ともいう。やはりホツマ文字で綴られていた。
カタカムナ文書=上津文字で綴られたとみられているが、どうもこれがカタカムナ文書だと特定できている文書はないようにおもわれる。斯界では楢崎皐月による『カタカムナのウタヒ』を基本資料にしている。
★一部に「神代文字」が出てくる古史古伝
九鬼文書=九鬼家伝来の文書を九鬼隆治が、元大本教幹部の三浦一郎を通して『九鬼文書の研究』(昭和16年)として一部公開したもの。春日文字が見られるという。
竹内文書=上記にふれたように、昭和10年以前に天津教の竹内巨麿によって公表された。
宮下文書=富士文書・徐福文書ともいう。三輪義熈が30年をかけて『神皇紀』(大正11年)として翻訳刊行したといわれるもの。
物部文書=岩手の小保内樺之介が陳述したという『天津祝詞の太祝詞の解説』にもとづく文書。阿比留草文字で綴られたといわれる。
東日流外三郡誌=つがるそとさんぐんし。津軽の『市浦村史資料編』の中に収録されている。昭和50年に公開されたばかりで、かなり話題になった。寛政年間に編纂されたものだが、ナガスネヒコ(長髄彦)、アラハバキ(荒吐王)を主人公とする物語は興奮すべきものをもっている。
だいたいこんなふうになっている。異論も異説もあるが、ともかくこういう見取図だ。
では、これをどう読むかということだが、これらの内容には、さすがにしばしば腰を抜かすものが少なくない。“疑わしい”あるいは“いかがわしい”といえば、いくつもそう見える。しかし、そこをどう見るか、である。
たとえば「お筆先」をどう見るか。新井白石や頼山陽や徳富蘇峰の記述をどう見るか。秩父困民党蜂起や東京ローズや松川事件をめぐる記述をどう見るか。もっとグローバルにいえば、マタイ伝やカバラ文献をどう見るか。アヘン戦争やイラン・コントラ問題や天安門事件をどう見るか。そういうことにかかわってくる。
それらはある意味ではそれなりの編集が時間をかけてされてきたことによって、歴史の確固たる文献になってきた。あるいは教典になってきた。あるいは、なりつつある。
けれども、ここにあがった古史古伝の多くは、未整理であり、他人の手も時間の手もほとんど加わっていない。それに、楔形文字や線文字Bのように、学者たちが解読しようともしない文字で綴られていると主張しすぎている。
おそらくはそういった理由がいろいろ動いて、これらには何かを訴えるところも少なくはないにもかかわらず、これらは一介の民間史伝者の“よまいごと”として片付けられてきた宿命の裡にあるわけなのであろう。そのため、実は一度は目をむけた人が多いにもかわらず、公然と放置されてきたのだった。
が、ともかくも本書のようなものに一度くらいは目を通すことを勧めたい。どんな感想をもつかは各自に覗いてもらう以外はないが……。
とくに本書は、これらの古史古伝文書の成立の経緯とそれに対する批判も案内しているので、この手の本のガイダンスとして読むことを勧めたい。
著者は古代史研究家で、『謎の竹内文書』『謎の東日流外三郡誌』(いずれも徳間書店)がある。なお、明治期に日本の偽史がさかんに書かれた背景と事情については、長山靖生の『偽史冒険世界』というすこぶる興味深い本があるので、そちらを覗かれたい。
参考¶これらの文献の入手はけっこう難しい。絶版もの、版元がつぶれたものを含めて、かつては比較的書店で入手しやすかったものだけをあげておく。
吾郷清彦『古事記以前の書』(大陸書房)、同『日本超古代秘史資料』(新人物往来社)、同『ウエツフミ全訳』(霞ヶ関書房)、同『日本神代文字研究原典』(新人物往来社)、同『日本超古代秘史研究原典』(新人物往来社)、鳥居礼『秀真伝』全2巻(八幡書店)、三浦一郎『九鬼文書の研究』(八幡書店)、田中勝也『上記研究』(八幡書店)、『東日流外三郡誌』全6巻(八幡書店)、宮崎小八郎『神代の文字』(霞ヶ関書房)、松本善之助『ホツマツタヘ』(毎日新聞社)、池田満『ホツマ辞典』(展望社)、鈴木貞一『先古代日本の謎』(大陸書房)、相馬竜夫『日本古代文字の謎を解く』(新人物往来社)、吉田信啓『神字日文考』(中央アート出版社)、長山靖生『偽史冒険世界』(筑摩書房)など。
拍手より
サンカ(山窩)とゴシェン その2
2011/10/17 16:29
何時もありがとうございます。
山窩とジプシー
山窩が里に下りて来て、籠やその他手作り品を売ったりしていましたが、ジプシーも籠や花籠などを売り歩きました。
そして、山窩は他の仲間に情報を伝える手段として様々な記号を使っていました。
例えば「この家はケチだ」「この家は気前がいい」「この家では近々婚礼がある」等々、また危険な村では「逃げろなど」、ところが、インド発祥といわれるジプシーが用いていた記号も山窩とマッタク同じなのです。
両者には何かしらの関係があるのか。
話は違いますが、源氏の紋章であるササリンドウ(笹竜胆)の紋章も古代インドに存在していました。
錬金術と中世ヨーロッパ諸国の法律
最初に錬金術に成功したのはソロモン王だといわれます。
中世ヨーロッパでは、多くの国が錬金術を行う者は国家に対する反逆(死刑)である、としています。だがここで間違えないで貰いたいのは、錬金術を研究する者は死刑であるといっているのではありません。錬金術によって、実際に金を作りだしている者を国家に対する反逆であるといっているのです。
従って、金が欲しくて錬金術師を歓迎すると呼びかける国もあったようです。
大英博物館には、錬金術が実際に存在した証拠の品があると聞き及んでおります。1キロの銀のメダルの半分が金になっているモノと、小銃の弾丸。
放射能
死海文書発見よりもずっと以前の一九二〇年頃に、バチカンは死海周辺に調査隊を派遣しています。これは、どうやら古代の核戦争の確認だったとも思われます。また、そうではなかったのかも知れません。しかし、調査隊はここで強い放射能を検出しています。
一九二〇年のこの当時、ガイガー・カウンターを何処から手に入れたのか、どのような理由でガイガーカウンターを装備していたのか。そして、この時点で放射能を検出したのが本当なら、それを確かめるのが目的だったのか。
調査隊は死海の周辺で、動物の生殖能力を失わせるに足りるだけの放射能を検出したようです。調査の目的は何だったのか、この当時に、放射能を検出したとなれば、最初から放射能がそこに存在することを知っていなければ、この時点での放射能検出はあり得ないと思われます。日本に原爆が落とされたそのずっと以前ですからね。
今では、その近くのシナイ半島付近には、低軌道の衛星からの観測で、原爆の跡であろう傷痕(地質の色の違い)が確認出来るようです。これは、周囲の地質から見ても自然には絶対に起こり得ないことといわれます。
邪馬壹国は日本には存在しない。
我が国の国立歴史民俗博物館は、
「――私たちは中国遼寧省の『遼西』とよぶ地域において、朝鮮式銅戈の祖型を確認しました。いまのところ、遼西で朝鮮式銅戈の祖型と考える資料は三点あります。いずれも戦国中期頃の銅戈で、@は喀左県梁家営子(かくさんけんりようかえいし)、
Aは建昌県孤山子(けんしようけんこざんし)遺跡、Bは葫盧島傘金溝(ころとうさんきんこう)から出土しています」以下略。これは何を意味するのか。
『周書』百済伝や、また『梁書』百済伝、『三国志魏書〜烏丸鮮卑東夷伝』夫余の条。資料となるものは他にもあります。が、これらの文献から明らかなのは、例えば『明史』巻第三太祖には、「高麗李成桂幽其主瑶而自立以国人表来請命詔聴之更其国号曰朝鮮」とあります。
訳すと、
「高麗の李成桂その主瑶を幽して自立す。国人、表を以て来り命を請う。詔(みことのり)して之を聴き、その国号を更めて朝鮮という」
要は、明の皇帝が李成桂に与えた国号が「朝鮮」だと書いてあり、今現在の場所に在る南北朝鮮は、ずっと昔は別の場所に在った。つまり今の場所を朝鮮と呼びたいと明の皇帝に申し出た。これが十四世紀の終盤の出来事。
中国の正史、二十四書の内の三国志を書いた陳寿のいう、邪馬壹国への船出の場所としての楽浪郡も、当然だが現在とは別の場所に在った。今の遼東半島です。
従って、国立歴史民俗博物館が朝鮮式銅戈の祖型を遼西から発見したのも当然だといえる。
『梁書』百済伝
「その国は、もと句麗と遼東の東にあった。晋の世に、句麗はすでに遼東を侵略した。百済もまた、遼西と晋平の二郡の地を占拠して、自ら百済郡を置いた」とある。
以上他にも文献はありますが、要するに、邪馬壹国へ船出したとする場所は、現在の遼東半島であって、陳寿が記載する距離としては日本に届かない。
つまり邪馬壹国は日本に存在しない。だから幾ら捜しても絶対に? 見付からないように思うのですが……。
玄米と海草をよく噛んで……
この処、マッタク金には縁がなくて、送金もままならず。数年前迄は、私もジャガーに乗っていたのに、今では、トホホ。
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投稿者:tatsujin
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訳すと、
「高麗の李成桂その主瑶を幽して自立す。国人、表を以て来り命を請う。詔(みことのり)して之を聴き、その国号を更めて朝鮮という」
要は、明の皇帝が李成桂に与えた国号が「朝鮮」だと書いてあり、今現在の場所に在る南北朝鮮は、ずっと昔は別の場所に在った。つまり今の場所を朝鮮と呼びたいと明の皇帝に申し出た。これが十四世紀の終盤の出来事。
中国の正史、二十四書の内の三国志を書いた陳寿のいう、邪馬壹国への船出の場所としての楽浪郡も、当然だが現在とは別の場所に在った。今の遼東半島です。
従って、国立歴史民俗博物館が朝鮮式銅戈の祖型を遼西から発見したのも当然だといえる。
『梁書』百済伝
「その国は、もと句麗と遼東の東にあった。晋の世に、句麗はすでに遼東を侵略した。百済もまた、遼西と晋平の二郡の地を占拠して、自ら百済郡を置いた」とある。
以上他にも文献はありますが、要するに、邪馬壹国へ船出したとする場所は、現在の遼東半島であって、陳寿が記載する距離としては日本に届かない。
つまり邪馬壹国は日本に存在しない。だから幾ら捜しても絶対に? 見付からないように思うのですが……。
玄米と海草をよく噛んで……
この処、マッタク金には縁がなくて、送金もままならず。数年前迄は、私もジャガーに乗っていたのに、今では、トホホ。
投稿者:tatsujin
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放射能
死海文書発見よりもずっと以前の一九二〇年頃に、バチカンは死海周辺に調査隊を派遣しています。これは、どうやら古代の核戦争の確認だったとも思われます。また、そうではなかったのかも知れません。しかし、調査隊はここで強い放射能を検出しています。
一九二〇年のこの当時、ガイガー・カウンターを何処から手に入れたのか、どのような理由でガイガーカウンターを装備していたのか。そして、この時点で放射能を検出したのが本当なら、それを確かめるのが目的だったのか。
調査隊は死海の周辺で、動物の生殖能力を失わせるに足りるだけの放射能を検出したようです。調査の目的は何だったのか、この当時に、放射能を検出したとなれば、最初から放射能がそこに存在することを知っていなければ、この時点での放射能検出はあり得ないと思われます。日本に原爆が落とされたそのずっと以前ですからね。
今では、その近くのシナイ半島付近には、低軌道の衛星からの観測で、原爆の跡であろう傷痕(地質の色の違い)が確認出来るようです。これは、周囲の地質から見ても自然には絶対に起こり得ないことといわれます。
邪馬壹国は日本には存在しない。
我が国の国立歴史民俗博物館は、
「――私たちは中国遼寧省の『遼西』とよぶ地域において、朝鮮式銅戈の祖型を確認しました。いまのところ、遼西で朝鮮式銅戈の祖型と考える資料は三点あります。いずれも戦国中期頃の銅戈で、@は喀左県梁家営子(かくさんけんりようかえいし)、
Aは建昌県孤山子(けんしようけんこざんし)遺跡、Bは葫盧島傘金溝(ころとうさんきんこう)から出土しています」以下略。これは何を意味するのか。
『周書』百済伝や、また『梁書』百済伝、『三国志魏書〜烏丸鮮卑東夷伝』夫余の条。資料となるものは他にもあります。が、これらの文献から明らかなのは、例えば『明史』巻第三太祖には、「高麗李成桂幽其主瑶而自立以国人表来請命詔聴之更其国号曰朝鮮」とあります。
投稿者:tatsujin
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サンカ(山窩)とゴシェン その2
2011/10/17 16:29
何時もありがとうございます。
山窩とジプシー
山窩が里に下りて来て、籠やその他手作り品を売ったりしていましたが、ジプシーも籠や花籠などを売り歩きました。
そして、山窩は他の仲間に情報を伝える手段として様々な記号を使っていました。
例えば「この家はケチだ」「この家は気前がいい」「この家では近々婚礼がある」等々、また危険な村では「逃げろなど」、ところが、インド発祥といわれるジプシーが用いていた記号も山窩とマッタク同じなのです。
両者には何かしらの関係があるのか。
話は違いますが、源氏の紋章であるササリンドウ(笹竜胆)の紋章も古代インドに存在していました。
錬金術と中世ヨーロッパ諸国の法律
最初に錬金術に成功したのはソロモン王だといわれます。
中世ヨーロッパでは、多くの国が錬金術を行う者は国家に対する反逆(死刑)である、としています。だがここで間違えないで貰いたいのは、錬金術を研究する者は死刑であるといっているのではありません。錬金術によって、実際に金を作りだしている者を国家に対する反逆であるといっているのです。
従って、金が欲しくて錬金術師を歓迎すると呼びかける国もあったようです。
大英博物館には、錬金術が実際に存在した証拠の品があると聞き及んでおります。1キロの銀のメダルの半分が金になっているモノと、小銃の弾丸。
投稿者:tatsujin
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サンカ(山窩)とゴシェン その2
2011/10/17 9:52
いつも有難うございます。「佐治芳彦」さんの本は読みやすく、サンカや神代文字などの内容をわかりやすく書かれていて、理解力の弱い自分でも充分理解できました。管理人様が書かれるサイトの内容がなぜか自分が調べていくものとリンクしていくので長男とも「不思議だなあ」と話しています。これから寒くなりますので体調とあとご身辺にはくれぐれもご注意くださいます様。 XX