2011/10/7
「時近ければなり その29」
人はなぜ、ジグソーパズルをするのだろう?
数多くのヒントを基に全体像を想像し、構築する。
完成した・・そのときの歓喜が人々を魅了するのだ。
思考とはそうしたもので、誰が誉めてくれるわけでもない。
このとき誰かに正解を教わったら・・・こんなにくだらないことはない。
正解を求める力こそ・・求道心にも似た・・真理を求める心なのだ。
簡単に正解を与えられて満足する、一般人にはならないほうがいい。
真実は・・・どんな答えであれ・・・あなたの出した答えこそが・・・正解なのだから。真実は言語では表せないのですからね。ウラジミール・ジャン・ケラビッチはその著「死」の中でいっている「自分の裸体を悟り善と悪の区別を意識し,同様に歳をとってゆく人間は知らないことを何か習うのではなく,新しい次元の中で,新しい照明のもと 悲しい真理を発見する」としてもそういう真理を求める求道心は大事だ。
<−嘘と真実についてー>
古寺巡礼で知られる和辻哲郎はその著「懐疑と信仰」の中でいう。『まことに生はその深さを感ずる者にとっては無限に深い。しかしそれを感じない者にとっては極めて平凡な殆ど注意を引くにも足りない茶飯事である。この感じ方の相違はやがて人生の評価全体の相違を引き起こす。前者が熱情と興奮とを以って守る所の生活は,後者によって冷ややかに嘲笑せられ,前者が無頓着に捨て去ろうとする栄誉や財産は後者によって血の値を以って尊重せられる。かくて全然相反する二種の人間生活が我々の間に可能なのである』と。
人生長いようで短い,短いようで長い。当たり前のことがなかなか分からない。生きるために食べるのか,食べるために生きるのか。同じようで違う。
午後4時にどう時間を使うのか?午後4時に老夫婦がゴルフ場で穏やかにプレーをする。若者が愛犬を連れてゴルフをする。とりあえずお茶にしましょうか。
古代のイデオロギー
『「メソポタミア」 古代ギリシア語で「二つの大河の間」を意味するこの地は、現在のイラクと北シリアに位置している。チグリスとユーフラテスの河の恵みの他には、殆ど何の資源も無く、乾燥した土漠が広がる。
この地を含む西アジアには150万年近く前から人間が住み、半遊牧民生活を営みながら、狩猟・漁労・採集を行っていた。氷河期が終わって、しばらくの間は山々から流れ出す雪解け水のおかげで、両河はまとまったとてつもなく大きな1本の河川であった。やがて長い時間をかけてゆっくりと水が引くと広大な土地には、豊かな土壌となる泥が残された。この泥の恵みにより「肥沃な三日月地帯」と呼ばれるこの地域には豊富な穀物が自生していた。その食料に惹かれて人々が集まり、小さな家族集団から村落を形成し始める。彼らが定住をはじめたのは、だいたい1万5千年ほど前のことである。
西アジアにはアラビア語でテル (tell) と呼ばれる独特な遺跡が多い。この地域の住居は一般に日乾煉瓦や泥壁でできているため、それが廃屋となったり建て替えのために壊されたりした際に、建材が崩れ落ちて泥が堆積する。日乾煉瓦とは水で濡らしてかたちを整えた泥を、天日で2日ほど乾燥させただけのものであり、刻んだ麦を混ぜると強度は増すが、再び水に濡れてしまえばまた簡単に泥へと戻ってしまう。次の住人は、崩れた後を整地してその上に再び泥で建物を建てる。これを長期にわたって繰り返すと、古墳のような丘が形成される。それを「テル」というのである。要するに、テルとは人々が同じ場所に住み続けた結果としてできた人工の丘のことで、数千年間にわたって居住されたテルには、面積が数十ヘクタール、高さが40-50mに達するものもある。それらのテルには現在も人が住んでいることも少なくない。同じところに長期にわたって人々が住んだ大きな理由の一つは、水場の確保のためだと考えられている。乾燥地では水の得られるところが限られている為に、同じ水源が長期にわたって利用されることが多々あるのだ。また、テル居住には洪水を避けうるという利点もある。メソポタミアの下流地域は海抜1メートルに満たない低地であり、聖書の洪水伝説にもあるように、初期農耕民が居住地に選んだ平野部は雨季に水没することがしばしばあった。

キシュにおけるノアの洪水の発掘作業によって伝説ではなく本当に起こったことが裏づけされた。
1956年5月、東京大学の江上波夫教授率いる「イラク・イラン遺跡調査団」が史料1に示した地図の47にあるテル・サラサート(アラビア語で「3つの丘」を意味する)の発掘を行った。丘は全部で5丘あり、調査団は1・2・5号丘において延べ5回に渡り、調査した。
左写真はテル・サラサートの遠景である。 発掘では、規模の大きい1号丘よりは2号・5号丘の方が詳細に調査されている。2号丘は高さ8m、100mx60mの小さめのテルであり、16層が確認された。それらは、原ハッスーナ期 (前6500-6000年頃)、ウバイド期(前6500-3700年頃) 、ウルク期(前4000-3500年頃) のほぼ居住層である。原ハッスーナ期の建物は泥壁で作られていたが、ウバイド期以降のものは日乾煉瓦作り であり、ウルク期の層には神殿らしき建物もみられた。
また5号丘は、高さが3mほど、直径は50mに満たない規模がとても小さいテルである。ニネヴェ5期 (前3000年頃) の穀物倉と土器焼き窯が発掘され、穀物倉は短辺が6.5m、長辺が18mに達する大きなもので、内部には麦が備蓄されていた。左写真の右奥に見られる円筒状の煉瓦に囲まれている遺構や中央部の円形の遺構も同様に倉庫であったと考えられている。
2号丘からは土器の破片が頻繁に出土した。容器のかたちや描かれる装飾は、流行と文化的影響によりめまぐるしく変化したために年代や地域を特定しやすい。史料2は粗製で分厚い土器である。口縁部は欠けている。強度を増すために大量の切りわらを混ぜた粘土で作られており、表面も粗く、装飾は見られない。胴が角張って龍骨形 (キャリネーション)をなしている。器表は赤褐色であるが、割れ口をみると芯は黒色に近い。すなわち、火力が弱く充分に焼成されなかったのであろう。龍骨部にはかすかに織物の圧痕が見られる。製作時に偶然ついたものであろうが、当時の織物技術を知る上でも貴重な資料となっている。この土器は、器形や表面の状態からみて煮炊き用に使用されたのではなく、貯蔵用容器であったと考えられる。発掘では、中から嬰児の遺体が見つかったそうだ。棺桶に転用されていたのである。 同じ2号丘、ウバイド期の層からは、生活に使用された土器が多数発掘されている。(史料3)胎土は明るいベージュであり、幾何学的で簡素な装飾が粘土質の塗料や金属酸化物によって施されている。
←史料3:彩文壷 ウバイド期 高さ 10.8cm 口径 8.7cm
ウバイド3期(前4700年ころ)以前の彩文土器には、まだ轆轤が使用されておらず、粘土紐を巻き上げて土器を作成していた。轆轤の出現は前4500年ころである。装飾は幾何学的な文様に、自然から借用したモチーフを組み合わせたものが多いが、植物や動物の特定が困難なほどにデフォルメされているものもある。
前4000年ころにスーサのアクロポリス共同墓地から出土した史料4の土器は、使われた粘土がかすかに緑がかった透明で「coquille d'oeuf(卵の殻色)」と称されるほどにきめが細かいうえ、高温で薄く丈夫に充分に焼成されたものである。 装飾は3つの段にわかれ、上段には帯状に並んだ数十羽の水鳥類、中段は長い胴体を持つ猟犬が疾走・休息している図、下段は3つの枠に囲まれていて逆三角形の胴体を持つ3頭の山羊がその巨大な角の中に矢印(植物か?)を含む円を包み込んでいる。遺体には通常、器形の深い杯・内側を装飾した鉢・細首で胴部がキャリネーションになった壷が添えられていたが、同時期に出土する中でも、もっとも杯に細かな装飾がされている。
ウバイド期の最終段階では、彩文土器は姿を消し始め、前時代の比にもならない画一化された土器製品が作られた。最初はおそらくあまり質のよくない粘土を上澄みを取らない生の状態で、素手により成形されたと思われ、装飾も粗く更に図式化され簡素なものになった。伝統的な彩文土器は、やがて轆轤を使用した大量生産の無文土器に取って代わられたのである。一見、文明が後進したかに思えるこの現象は、実は新しく分業が生まれた事を指し示していると思う。全面的に食料生産に費やされていた時間を、それ以外に使う事が出来る文明としての余裕がこのころから生まれてきたのだろう。それは農耕の発達過程からも見て取る事が出来る。
人が大麦や小麦を主体に植物の生産を管理する農耕が始めたのは大体前9500年ころ、前7500年ころには山羊や羊、割と丈夫な動物である牛などを家畜化する事もはじめた。しだいに周囲の自然環境に依存する事をやめ、狩猟から牧畜へ、採集から農耕へと非常にゆっくりとしたプロセスで移行していったとされる。
北部丘陵地帯に居住していたころ、自然に依存していた人々にとって自然は大いなる恵みをもたらすと同時に大いなる脅威でもあった。そこで豊満な容姿の女性像が多産を示唆した豊穣を願う地母神的な象徴的な表現として、家具や建材に刻み込まれたり、守りとして使用されていた。(史料5)しかし、男性像はまったく発掘されていなく、組み合わせで見つかる雄牛像(史料6)がその代わりを果たしていたものと考えられている。共同体ごとにその表現方法は多様に異なり、壁画や土器のブラクニア装飾、テラコッタによる小像や彫刻のように丸石に刻みこまれたものなどと様々であるが、豊満な女性像と雄牛の組み合わせでアナトリアからイラン西部にかけて広く発掘されている。およそ前10000年〜前9500年の間にユーフラテスの中流で生じたこの組み合わせは、特定可能な神をして表現されるまでは至っていないが、共同体内部で安定を図ろうとしている象徴的存在であると見られている。
座って両手で乳房を抱える裸体の女性像、極端に図式化された顔は鼻を表す一つまみの粘土により暗示されている。胸・腰・腿といった身体の細部が強調され量感が過度に誇張されている。 古い地層を持つテロー(史料1の42、ギルス)からは動物像の出土がずば抜けて多く、その中でも特出して雄牛像が発掘されている。南部湿地帯では羊の飼育が不可能なため家畜として牛が非常に重要な位置を占めていた。脚と鼻面がずんぐりとした円筒形で粘土による手作りの像である。 前4千年紀に人格神が出現するまで女性像と雄牛像がメソポタミア社会の造形表現で優位性を保っていた。
↑史料6:瘤のある雄牛の小像 テラコッタ、褐色の彩文 高さ5.9cm、長さ10cm ウバイド末期(4期)、前4700〜前4200年頃
←史料5:裸婦小像 テラコッタ、褐色の彩文 高さ8.3cm、長さ6.2cm メソポタミアあるいはシリア北部 ハラフ期、前6000〜前5100年頃
史料5、6ともに ルーヴル美術館蔵
北部の丘陵地では、雨量が充分にあり種さえまけば麦が自然に育ち天水農耕が可能だった。麦が収穫できない不作の年には周辺の森林から木の実などを採取し、他の食糧を利用する事ができたと推測されている。しかし、河川が長く伸び蛇行するメソポタミアの南部の沖積平野に定着していった人々には、降雨量が年間100mm以下であるこの半湿地帯を耕地に変える必要性があった。周囲には森もなく食糧を手に入れる為には農耕以外の選択肢が存在しないからだ。
かくして条件が恵まれていた北部には生まれなかった新しい発想が南で生まれた。運河を掘って大河から水を引く大規模な「灌漑」がはじまったのである。この技術のおかげで、主にシュメール人が入植したメソポタミアの南部では莫大な収穫を得る事ができるようになった。ちなみに中世ヨーロッパの技術で1粒の種子は約5倍の収穫になったという例があるが、前2,370年頃のシュメール人の都市ラガシュでは76.1倍にもなったという記録が粘土版に残されている。これは機械や農薬を多用した現在の技術と比較してもけっして引けをとらないそうである。 豊かな農耕を象徴するかのように、頻繁に使用された円筒印章には様々な形で小麦が刻まれている。
史料9:ビールを飲むシュメール人の円筒印章 → ウル王墓 初期王朝時代 前2600年頃 大英博物館蔵
バグダットの南東約350kmに位置するウル(史料1の46)は、前5千年紀のウバイド期から前1c中葉の新バビロニア時代のころ居住されていた。現在はユーフラテスの西岸およそ30kmほどのところに位置しているが、かつては河岸にあり緑豊かな土地であったと推測される。首都として使用されたのは 初期王朝時代の前2900-前2334とウル第三王朝の時代である前2112-前2004の間である。1922-34の間にイギリス人レナード・ウーリーの指揮により大英博物館とペンシルヴァニア大学が共同で調査をしている。ウルは周壁の役割を果たす運河に囲まれており、南北1030m、東西690mの卵型をしている。

中央部には1913年ドイツの古代学者コルデバイにより発掘された「ジッグラト(聖塔)」が存在している。各地でジッグラトと確認できるものの中でも現在最古のものであり、基部の土台が61m×41m、現在の高さが15mになる。もとは50mほどあったと考えられ聖書に描かれるバベルの塔の最有力候補である。

ウルの守護神である月の神ナンナルとその妻ニンガルを祀る壁によって区切られた聖域内に建設されている。日乾煉瓦で組み上げられた壁の表面に焼成煉瓦を瀝青で張付けられている。現存するのは2層しかないが、もとは3層であり、頂上には天空に向かって開いている月の神ナンナルの神殿がある。天上の神が降臨して王とウルの民に信託を述べるという考えのもとである。全体的に様々な色で飾られており、神殿部は青色の彩色煉瓦で装飾されていたらしい。(新バビロニア時代にはもはや確認できなかったらしい。)頂上からはエア(天帝)の神殿、ナンナルの神殿、王宮・王墓、住宅地などウルの遺構全体を見渡すことができる。
特記すべきことに、この都市には最大3万4千人が暮らしていたと言われるが、そのすべてが食糧生産活動に関わらない神官・書記などの支配層や、宝石や貴金属、木材などの加工技術者であった。これはかつてない都市の在り方である。巨大な共同体はウルの他にも点在していたと考えられているが、この時期以前と同時代に第一次産業と関係ない人々が集まって出来た集合体の存在はウルだけしか確認されていない。商業や交易によって様々な物資が行き交う巨大な取引所のようなものであった。
大規模な交易ネットワークはレナード・ウーリーが発見したウルの王墓によって確認することができる。シュメールでは、居住空間の真下に墓を作る傾向がありこの墓も王宮のすぐ横の遺構に位置している。現在16基が発掘されており、まだ未発掘の基もあるらしい。この墓からは「ウルの秘宝」と呼ばれる様々な装飾品が発掘された。その多用さと繊細さには目をみはるものが多々ある。元来シュメールには地下資源が瀝青しかない。肥沃な泥・水・太陽、それがすべてである。にも関わらず先に延べた「灌漑」という技術によって生活に多大な余剰=富を産み出した。彼らはその余剰食料を持って各地に散らばり壮大な交易を行ったのである。(史料11) ウガリト・ビブロスからはレバノン杉、タウロス山脈からは金、銅はオマーン半島やキプロスから、紅玉髄はインダスから、中でも当時アフガニスタン最北のバダクシャン渓谷の鉱脈からしか産出が確認できないラピス・ラズリも多量に交易されているのが発掘品などからわかる。ウル・アフガニスタン間は3000kmもあるのにだ。時に略奪により入手される事もあったらしいが、多くはメソポタミア産の穀物・織物・装飾品などと正当に取り引きされた。交通手段は川や海上の場合は船、陸上の場合はロバが使用されていた。
この世の春を謳歌しているような富を抱えたシュメール人の背後にも衰退の影は忍び寄っていた。 古代メソポタミアのおよそ50万枚にもおよぶ粘土板の研究を長年丹念に行っている京都大学の前川和也教授によると、前2350-前2100年ころラガシュから出土した粘土板からそれが読み取れるそうだ。粘土板に書かれた内容のうち、もっとも多いのは農地に関する税金や収穫量などの経済文書の記録である。ラガシュの粘土板は150年間に麦類の収穫高が4割おちこんでいることを表しているそうだ。麦類の中でもシュメール初期に全体の収穫高の2割を占めていた小麦の生産が、末期にはたったの2パーセントに減少してしまった。この時期大麦生産高のが大部分をしめる。収穫高全体の減少の上、小麦は殆ど獲れなくなったに等しい。前川教授はこの理由を乾燥地帯に特有な自然現象である「塩害」であるという。小麦は塩に非常に弱く、麦類の中では大麦は比較的強い。
雨のほとんど降らない南メソポタミアでは灌漑して水を引かなければ耕地にはならない。だからこそ「灌漑」技術が生まれた。だが、一旦大地に水が撒かれると、水分は強力な日射しによって急速に蒸発してしまう。その力に呼応して地中の塩分が地面に向かって上昇してしまうのだ。これが「塩害」である。もともと南部は海抜がとても低いため、洪水になり海面が上昇すると海に呑み込まれてしまう土地であり、地下水位も高いため、地面の塩分含有量も多大である。実際現在でも塩を特産にしている村が存在している。塩害を未然に食い止めるためには「常に大地の世話をし続ける事」以外に解決策はないという。灌漑用水の排水を常に整備し、水が耕地に溜まらないように、土地をいつも耕し続けなければ、塩害からは逃れられない。富におごり、余剰食糧に安堵し農村から人間が次々と去っていった結果なのだろうか。土から離れて人間は生きられないのかもしれない。
シュメール人の興亡を簡単に調べてみたのだが、その精神文化の高さに驚かされる事が多々あった。シュメール都市出土の粘土板の情報は多種を極め、数学は平方根・立方根・円周率・ピタゴラスの定理、医学は解剖・何百もある病気に対する薬の処方・肝臓部の手術、占星術も天体の運行や金星の動向表など数え上げればきりがないほどである。都市や重要人物の住居の建設にはまず図面が引かれた。度量衡も統一され、単位も確立されていた。生活も豊かで遊びにあふれ、様々な楽器やゲーム、ビールを楽しんだり、ファッションに凝ったりとまるで現在の私たちのように、人生を本当に謳歌しているようにみえる。だが、シュメール時代の末期にバグダットの80km北、現在のサッマラの南に東西50kmにわたりメソポタミアにおける「万里の長城」を築いた。外敵の侵入を防ぐためであるとされてはいるが、誰が侵入してきたのかは不明だ。彼らが滅亡寸前になにを見たのか?四海に知れ渡るほどの叡智を持ってしても滅びを止められなかったのは何故なのか?シュメール人とは誰だったのか?』
『キリスト教は,シリア社会に属していた人々を先祖とする民俗からきたものである。シリア世界の一半を形づくっていたイランは,ミトラ教を提供した。イシス崇拝は,エジプト世界の征服された北半分から来たものである。アナトリアの大母神キュペレの崇拝は,多分,当時,宗教を除く他のすべての社会的活動の面において,死滅してからすでに久しい時を経ていた,ヒッタイト(Hittite)社会からもたらされたものとみなされる〜〜〜もっとも,この大母神の究極の起源を探ってゆくと,アナトリアのペシヌス(ガラテア地方の都市)でキュベレーとなり,ヒエラポリス(シリアの北部の町)でシリア女神De Dea Syraとなり,あるいはまた,遠く離れた北海やバルト海の聖なる島の森の中で,ゲルマン語を話す人々に崇拝される地母神となる以前に,元来シュメール世界においてイシュタルの名で知られていた女神であることが判明する』(Study of Historyサマヴェル縮小版より)
テパイのアモン=ラーにしろ,バビロンのマルドゥク=ベルにしろ,さらにまたオリュンポスのゼウスにしろ,その変幻自在の仮面の下から,"唯一のまことの神”の相貌をのぞかせたことは一度もない。またシリア社会の世界国家においてすら,その相貌から"唯一まことの神”の存在と性質とが人類に明らかになった神は,アカイメネス朝の神であったゾロアスター教のアフラマズダ(AHURMAZDA)ではなかった。それは,アカイメネス朝の支配下にあった,微々たる小民族ユダヤ人の神ヤーウエであった。旧約聖書の中のヤーウエは土地に帰属せしめられた地方神であると同時に紀元前14世紀に,エジプトの新帝国の領土であったパレスティナに侵入した蛮族戦闘団体の守護神として,エフライムおよびユダヤの山岳地帯に持ち込まれたのちに,特定の地方の土と,特定の地方共同体の人々の心の中に根をおろした神である。ヤーウエの崇拝者に対する戒めとして,「あなたはわたしのほかに,なにものをも神としてはならない」(出エジプト記第20章3節)と命ずる”ねたむ神”でもある。
さよならキャピタリズム
中学生でも分かる「マルコポーロの東方見聞録」
新世界秩序入門
ビッグリンカーたちの宴
次の記事ではイシス崇拝,キュベレ崇拝を書こう。

214
※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。