2011/10/6
「時近ければなり その27」
神社に潜む謎の勢力とは?
2006年7月20日の日本経済新聞のスクープにより、昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示していたことを示す第一級の歴史資料が見つかりました。本論の主旨はその約1年前に書かれたものですが、この歴史資料の発見により、ほぼ実証されたと考えています。1988年当時の宮内庁長官富田朝彦氏のメモが見つかったもので、そこには昭和天皇が靖国神社に参拝されない理由が以下のとおりに明確に書かれていました。
「私は、或る時に、A級戦犯が合祀され、その上、松岡、白取までもが。筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」
「松平の子の今の宮司がどう考えたのか。易々と。松平は平和に強い考があったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから、私はあれ以来参拝をしていない。それが私の心だ」
この報道のバックグラウンドの解説資料として本論文は最適かと思います。長文ですが、検索でこられた方は是非お読みください。
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本論の主旨
私はA級戦犯の合祀(ごうし)は、わが国が自ら改めるべしと考えます。それは他国に指摘されるまでもなく、わが国の本来あるべき姿、そして自国の歴史と如何に真摯(しんし)に向き合うか、を考えればおのずと明らかになることだと考えます。他国の歴史認識を批判するためには、まず自国の歴史を正確に認識することよりはじめなければ、全く説得力がありません。A級戦犯合祀は、戦後に起こった第二の「統帥権違反」でした。そこには無責任・無自覚から来る保守主義からの逸脱、不明朗な動機とプロセスがあります。過去、政治家がその判断を避けてきたことがまことに遺憾です。私たち日本人が今直視すべき問題として、発言させていただきます。
1. 靖国神社の起源
2. 誰が靖国神社に祀られているのか?
3. A級戦犯認定への法プロセス
4. A級戦犯とは誰か?
5. なぜA級戦犯が合祀されることになったのか?
6. A級戦犯合祀をすすめた「靖国」イデオロギー
7. A級戦犯合祀がもたらした代償
8. さいごに 私の個人的体験
1. 靖国神社の起源
靖国神社は、明治2(1869)年に明治天皇(管理人注:すり替えられたニセ天皇)の思し召しによって、戊辰戦争で斃(たお)れた人たちを祀るために創建されました。「本神社は、明治天皇の思し召しに基づき、嘉永6年以降、国事に殉ぜられた人々を奉斎し、永らくそのみたまを奉慰し、その御名を万代に顕彰(けんしょう)するため、明治2年6月29日に創立された神社である。」と社憲に設立目的を明記しています。当初は「東京招魂社」と呼ばれましたが、明治12年に「靖国神社」と改称されて今日に至っています。
靖国神社の前身である東京招魂社の献策を行ったのは大村益次郎。大村は戊辰戦争や函館の戦いなどの全作戦を監督した近代日本陸軍のまぎれもない創設者です。靖国にある大村益次郎銅像は、東京三大銅像の一つであるとともに、わが国の西洋式銅像第1号です。
大村の出身の長州藩では、幕末の動乱に倒れた英魂を弔うための招魂祭を、すでに行っていました。益次郎とその後継者が長州と近代日本陸軍による明治建国を、東京に刻印しようと考えたことは当然の成り行きでした。今も目に見えないところで、その漆黒の政治潮流は顕微せずに、深く流れています。
その後靖国に、嘉永6(1853)年にアメリカの海将ペリーが軍艦4隻を引き連れ浦賀に来航した時以降の、国内の戦乱に殉じた人たちを合わせ祀ることになりました。明治10年の西南戦争後、内戦が終わった後はおもに「外国との戦争で日本の国を守るために戦死した天皇直属の人々を祀る神社」となりました。
明治期の日本は、西洋諸国に伍(ご)するために、近代化を進め国民という概念を作り出す必要に迫られました。そのために、天皇を中心とする国民的・宗教的な求心力を作る国家的な要請があったことが靖国の背景にあると考えられます。その権威をたかめるために天皇を宗主とする国家神道をつくり、建国にまつわる出来事や人物を神として崇める風習が必要とされたのです。その意味で靖国神社は非常に近代国家的な宗教といえるでしょう。
因みに、靖国神社が発表している「靖国神社御祭神戦役・事変別柱数」によると同神社に祀られている人々は:明治維新7,751。西南戦争6,971。日清戦争13,619。台湾征討1,130。北清事変1,256。日露戦争88,429。第一次世界大戦4,850。済南事変185。満洲事変17,175。支那事変191,218。大東亜戦争2,133,760。合計2,466,344柱(平成12年10月17日現在)となっています。
2.誰が靖国神社に祀られているのか?
この起源からして、「戦時に天皇に命をささげた(戦死)かどうか」が靖国神社への合祀の大事な条件となっていることがわかります。
幕末に倒れた尊王の志士たち、吉田松陰(寅次郎)・橋本左内や坂本竜馬・高杉晋作・頼三樹三郎・真木和泉守・清川八郎・中岡慎太郎は、明治国家建設の礎を築いたことを顕彰され、1887(明治20)年ごろから合祀されています。
もともとは天皇直属の部下を祀るものであったのが、戦後その範囲は、国民の期待にこたえて広がっていきます。合祀者の中には、軍の命令でその場を離れることができず亡くなった人も含まれるようになりました。
例えば、沖縄戦で戦没した「ひめゆり部隊」「白梅部隊」など7女学校部隊の女子学生や、沖縄から疎開先の鹿児島に向かう途中に撃沈され死亡した「対馬丸」の小学生や従軍看護婦、それに敗戦直後の1945(昭和20)年8月20日、進攻してきたソ連軍の動向を日本に打電し続け、自決殉職した樺太(現サハリン)真岡(まおか)の女子電話交換手らの陸軍軍属(軍隊における非軍人)も含まれます。
旧陸海軍では、軍に所属する文官と文官待遇者のほか、技師・給仕も1955年から1960年代にかけて合祀の対象となりました。(その他満州開拓団員や防空活動従事中の警防団員らも。現在女性祭神は5万7,000余柱)。
一方、天皇に刃向かった新鮮組はもちろん、維新の元勲(げんくん)・西南戦争の西郷隆盛や江藤新平、あるいは戊辰(ぼしん)戦争での徳川方(会津白虎隊)など国賊・反政府の烙印を押された人々は、合祀の対象から外されています。
明治の元勲で靖国神社に祭られていない最大の大物に「維新の三傑」の大久保利通がいます。大久保の明治建国に対する貢献は尋常ではありません。軍事的に見ても、幕末の王政復古クーデターの主要首謀者の一人であり、江藤新平らが中心となった佐賀の乱では自ら赴いて江藤らを処罰します。初代内務卿として実権を握り、徴兵令を行い、西南戦争を指揮しました。
なぜ大久保が靖国に祀られていないのか。それは西南戦争の翌年、平和になったあと東京で暗殺されたため、戦死者とはならなかったためです。戦死かどうかが、祀られる基準であったことが、このことでよくわかります。
また事故死者が祀られていない著名な例に、「八甲田山死の行軍」があります。1902年、青森第五聯隊210人が八甲田山中で雪中行軍の演習中に遭難し、199人が死亡するという史上類を見ない大惨事が起こりました。この遭難事件の死者を靖国神社に合祀する議論が事件直後から政府内に起こります。陸軍には合祀への強い意向があり、陸軍人事局長中岡黙少将を委員長とする「歩兵第五聯隊遭難ニ関スル取調委員会」は合祀の意見書を提出します。しかしこれは政府により否決されました。
この取調委員会にかかれた反対意見をいくつか紹介しますが、靖国神社のもともとの性格を表しており、興味深いです。(「八甲田山雪中行軍遭難事件と靖国神社合祀のフォークロア」丸山康明)
「合祀者の選択について、一時の感情に流されるべきではない。靖国神社は永遠に国民が尊敬を発揮させる必要があり、したがって合祀者の取捨選択は慎重にしなければならない。もし一時の感情に支配され、あるいは心情に傾いて取捨を誤ったならば、神社の尊厳を害し、現在思うように賑わっていない神社の将来をますます不振の状況に陥らせることは火を見るよりもあきらかである」
「靖国神社はもともと国難に殉じた者を祀るために設置されたのであり、平時の職務中に死亡した将校以下を合祀するために設置されたのではない。靖国神社に合祀し国家が祭事を挙行するのは、皇室および国家に対する忠勇義烈の精神を後世に伝え国民が永遠に称え後進者を奨励するためである。平時の職務中に死亡したものを合祀するとすれば枚挙に暇がなく、すでに戦死し国難に殉じた人々と玉石混合の恐れがあり、先祀の神霊は喜んで凍死者たちを迎えず、神の威徳を汚すことになる」
新田次郎がこの実話を書くときに資料を提供した「小笠原弧酒」という人は、遭難事件の死者をあらためて靖国に合祀しようと試み、署名活動を行います(1981−82年)
この署名嘆願に対する靖国神社の返答は次のようなものでした。
「拝復、明治35年1月の青森歩兵聯隊将兵の八甲田山遭難者合祀嘆願の件につきましては、去る昭和56年5月15日に御来社のお申越しのありました際にご返答申し上げました如く、本件につきましては当神社御壮健以来の趣旨・方針により御要望に添い難いことを重ねてご回答申し上げます。ご心中は重々お察し申し上げますが、本件は当時国家陸軍当局に於いて審議をつくされたものであり、事変・戦争に直接関係のない遭難死・即ち戦歿者として国家が認定せず、合祀対象外とされたものとご理解くださいますよう、先ずは右御返信申し上げます。
昭和62年3月17日靖国神社社務所
小笠原弧酒殿」
また戦死者のなかでも、「屠卒(とそつ=牛や豚などの屠刹{とさつ}を職業とする雑兵)はこの限りにあらず」として、被差別部落の人々は当初排除されています。これは、もともと招魂社という風習は長州藩のものであり、明治維新前の戦死者についての合祀をするさいに、奇兵隊における被差別部落民のへの差別を引き継がざるを得なかったという側面があるようです。
高杉晋作が下関挙兵のときの軍隊編成の心積もりを書いた「討奸檄」の一部を紹介します。(「長州藩明治維新史研究」小林茂 未来社)
「全体初癸亥(文久三年)之事、藩主攘夷之事を謀るや、生謂らく今日之国勢に当り、肉食之士人等皆事に堪へず、故に藩主に乞ひ、親兵を編せんと欲せば、務めて門閥の習弊を矯め、暫く穢多之者を除之外、士庶を不問、俸を厚くして専ら強健之者を募り、其兵を駆するや、賞罰を厳明にせば、縦へ凶剣無頼之徒と雖も、之が用をなさざるという事なし」
意外なことに、偉くても戦死者でない乃木大将や東郷元帥は靖国神社には祀られていません。彼らは軍神として、それぞれ乃木神社(乃木坂:大正十二年十一月一日鎮座祭)、東郷神社(神宮前:昭和15年5月27日(海軍記念日)鎮座祭)に祀られています。
靖国神社に於いて祀られることができなかった戦死者の重要な国家設備として、千鳥ヶ淵戦没者墓苑があります。靖国神社に祭られる戦没者は、基本的に遺骨を遺族に引き渡せるものに限られるのに対し(納骨可能)、この墓苑は、遺族に引き渡すことができない戦没者の遺骨を納めるために、国が設けた施設です。
現在、約34万8,000柱の御遺骨が納骨されています。海外戦没者の遺骨は昭和28年ごろから政府によって本格的収集が始まりました。収集された遺骨の大部分は氏名の判別が困難で、遺族に引き渡すことが不可能だったので、これらの遺骨を祀るために墓苑を皇居や靖国神社に近い千鳥が淵に作ったものです。したがって、一部の諸外国のように、全戦没者の象徴として一部の遺骨を祀る「無名戦士の墓」という位置づけはされていません。
ちなみに、どうやって戦死者の個人名がわかるかというと、旧日本陸軍の将校以下の兵士は、戦死傷時の身元確認のため、長さ45ミリ、幅33ミリの小判型の認識票が支給されていました。この認識票が回収されると、厚生労働省が保管する『留守名簿』との照合が行われます。留守名簿とは、旧陸軍兵士の所属部隊、編入年月日、本籍、氏名、留守家族の住所、続き柄などを記載した資料で、復員兵や不明兵士の身元確認と軍人恩給などの有資格判定をするために使われてきました。(この名簿は内外地のほとんどの部隊ごとに作成されましたが、終戦間近の混乱期は作成されなかった兵士もいるようです。)
つまり、この認識票が回収されない将校未満の戦死者は靖国神社に祀られず、千鳥が淵に祀られることになります。逆に言えば、認識票さえ回収されれば遺骨は誰のものであっても靖国に祀られる。現実的にはそういうことになります。
靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑の関係は不明確であり、靖国神社は将来的に戦没者追悼の中心の座が動くことを危惧しました。昭和31年遺族会副会長逢沢寛氏と、官房副長官砂田重政氏(戦争犠牲者援護会々長)は次のような覚書を取り交しています。
1.仮称無名戦没者の墓は信仰的に靖国神社を二分化するものでなく、現在市ヶ谷納骨室に安置せる八万余柱の御遺骨及び今後海外より収納する所謂引取人の無き御遺骨収納の墓であること。
2.本墓の建設により、八百万遺族の憂慮している靖国神社の尊厳と将来の維持、及び精神的、経済的悪影響の波及しないような措置をすること。
就ては、例えば国際慣行による我国訪問の外国代表者等に対し、我国政府関係者が公式招待又は案内等をなさざること。
3.靖国神社の尊厳護持について、来る通常国会の会期中に政府をして、精神的、経済的措置をなさしむること。
4.本墓の地域は靖国神社の外苑の気持で取扱いし、将来法的措置を講ずること。
いわずもがなのことですが、靖国には太平洋戦争の最大の犠牲者というべき沖縄戦や空襲、原爆などで死んだ民間人は祀られていません。
彼らのためには全国戦没者追悼式が昭和38年以降、毎年開かれています。これは日中戦争以降の戦争による310万にもおよぶ死没者を広くー軍人軍属、準軍属、外地において非命に倒れた者、内地における戦災死没者、公務中の死亡の者あるいは平和条約による拘禁中の死亡者を包括的に全国戦没者という全体概念でとらえ、追悼しています。たとえば東京空襲は判明しているだけでも669回ありました。こういった空襲、艦砲射撃、機銃掃射等により死亡した日本人は約50万人以上と言われています。
この追悼式は一回目は昭和27年に新宿御苑で開かれ、その後昭和38年になって制度化されました。昭和52年以降、8月15日の全国戦没者追悼式へのわずかな一般戦災死没者の遺族代表の参列(昨年は160人)措置がとられるようになりました。
式は宗教的儀式を伴わない形で行われ、天皇皇后両陛下、内閣総理大臣、衆参両院議長、最高裁長官、遺族代表、国会議員などが列席いたします。
これ以外に、終戦直後、昭和22年に結成された全国戦災都市連盟の提唱のもと、昭和27年に空爆犠牲者の慰霊協会(東京都と99市、13町の113戦災都市で構成)が結成されています。兵庫県姫路市の手柄山中央公園に「太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔」という800坪の慰霊塔が設立され、8月15日のささやかな慰霊式には、ときおり総務大臣や総務政務官が、参列しているようです。
3.A級戦犯認定への法プロセス
第2次世界大戦の惨禍により、ニュールンベルク裁判ならびに極東国際軍事裁判(東京裁判)で確立した、A、B、C級の犯罪が戦争犯罪と認識されるに至りました。
ドイツが敗戦したあと連合国は、ポツダム宣言の第10項および、戦勝国による「ロンドン協定」などを受けて、まずニュールンベルグ国際軍事裁判所条例がつくられ、ドイツの戦争犯罪を裁くことになりました。
ニュールンベルグ裁判のアメリカ首席検事ジャクソンは,きわめて率直にこの軍事裁判の超法規的な性格をこう語っています。
「しかしながら、憲章を解釈するに当たって、国際軍事法廷としてのこの組織のユニークな緊急的性格を看過すべきではない。それは、署名国の国内法の司法的機構の一部ではない。ドイツは無条件降伏したが、講和条約は署名されてもおらず、合意されてもいない。
連合国は、敵であるドイツの政治・軍事組織が崩壊しているにもかかわらず、依然として、技術的には、ドイツと戦争状態にある。国際法廷として、当法廷は、連合国の戦争遂行努力の継続である。国際法廷として、当法廷は、各国の司法・憲法制度の精密な審理手順に拘束されない」
日本は下記の条項を旨とするポツダム宣言の受諾を決め、1945年8月14日に無条件降伏を行いました。
1.軍国主義の除去、2.日本国領土の占領、3.カイロ宣言の条項の履行、および本州、北海道、九州、四国および連合国が決定する諸小島への日本の主権の制限、4.日本国軍隊の完全な武装解除、5.戦争犯罪人に対する厳重な処罰、ならびに民主主義の確立、6.賠償の実施と平和産業の確保
日本側の受諾の条件は、「国体の護持」でしたが、それに返答したアメリカは「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」と宣言の内容を繰り返しました。国体がどうなるか曖昧なまま、日本は14日の御前会議であらためて宣言受諾を決定いたしました。
(ちなみにこれが「非無条件降伏であったという意見」は、1)カイロ宣言では国家が無条件降伏を行う主体とされたのにたいして、2)ポツダム宣言では日本軍の無条件降伏が行われたものの、国家としては無条件降伏ではない、という議論によるものです。これはつまり国家と軍隊の行為を区別し、それぞれが行う無条件降伏ごとに違いがあるという考えに基づいています。しかし、日本以外の主権国家でこの議論が通じるであろう国を、寡聞にして知りません。この意見は、戦前の日本に特有な統帥権の独立、つまり日本軍が国家の意思を離れた常在的クーデター国家であった、という特殊事情を勘案した極めてローカルな議論だと思います。)
1945年(昭和20年)9月6日には、連合国側から「連合国最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers=SCAP)の権限に関するマッカーサー元帥への通達」がありました。その第1項で「天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての貴官に従属する。貴官は、貴官の使命を実行するため貴官が適当と認めるところに従って貴官の権限を行使する。われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない。」とされました。
1945年12月、モスクワに集まった米、英、ソ、三カ国会議で、ドイツのナチス残党同様、日本のA級戦犯を国際軍事裁判にかけて処断することを決定しました。無条件降伏を定めた1946年(昭和21年)1月19日の降伏文書をうけて、マッカーサーは「判・検事の任免権」および「減刑権」をふくむ、最高指揮権を掌握し、極東国際軍事裁判を統轄することとなりました。
当初マッカーサーは東京裁判にはほとんど興味が無く、真珠湾をだまし討ちした東条一味に復讐することと、自分のフィリピンの敗北の相手への復讐についてのみ、熱心であったとされます。例えば第14軍司令官として比島作戦を指揮した本間雅晴中将は、知英派で陸軍きっての文人将軍として知られています。本間中将は「バターン死の行進」の責任者として、裁判開始後わずか2ヶ月で処刑されています。(BC級戦犯はA級に先立って裁判が行われました)マッカーサー元帥は、本間中将の裁判の判事や検事に、彼の部下を指名して行わしめました。(後でこれはリンチ(私刑)にも等しい処刑と批判されました。)
しかし次第に東京裁判は、非常に重要な政治的意義を持っていることがわかってきました。
政体が完全に崩壊・消滅したドイツと違い、日本は無条件降伏はしたものの、天皇を含む統治機構は残っており、日本を統治するためには、天皇制度と統治機構の存続とその活用が、必要不可欠だということがわかってきました。
しかし国際政治的、国際感情には戦争に対する責任を明確にする必要が生じます。マッカーサーにとって、身をもって感じ、守ろうと考えた天皇制維持を戦勝国に納得させることが、彼にとり死活的に重要となりました。「平和に対する罪」と「人道に対する罪」を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)が召集される前に、マッカーサーのスタッフと日本の官僚は日米の共同作業として天皇を戦争犯罪の巻き添えにしないよう、戦犯リストに載った人に天皇を守る為に、どんなに些細であっても戦争責任を天皇に負わせることのないよう、協力を要請しました。そして戦犯たちは、とりわけ裁判の当初には喜んでその使命に従ったのです。
ちなみに、これを象徴的な贖罪と意味づけるため、東京裁判のA級戦犯28被告は昭和21年4月29日、すなわち昭和天皇の誕生日を期して起訴されました。しかも東条以下7戦犯が絞首刑に処せられたのは、昭和23年12月23日、すなわち皇太子殿下(現天皇陛下)の誕生日です。この手法は、かなりアメリカ的(鷹揚なようで執念深い)です。この事実はA級戦犯後、天皇家の参拝が行われなかった大きな理由のひとつだと思います。
これらのプロセスが法的・道義的に正しいものだったのか、の議論はわかれています。裁判の正統性や判断の法的根拠の少なさへの批判は、とくにわが国でよく聞かれます。たとえば戦勝国が裁判官を務めたこと。裁判官の方針はあらかじめ決められ、弁護は形式的だったこと。勝者の戦争犯罪が取り上げられないこと。アメリカによる広島・長崎への原爆投下こそ「人道に対する罪」だ、という批判があります。ウエッブ裁判長は「この裁判は日本を裁く裁判で、連合国軍の行為とは無関係である。」と明言いたしました。
偽証罪の適応がなかったこと。罪刑法定主義・法の不遡及が保証されなかったことなど。裁判を構成する国内法的な配慮は、この裁判にはありませんでした。しかし、日本自体が(とりわけ天皇制度や国体を護持したままで)自ら戦犯を裁くということがありえたのだろうか。
ドイツと日本は、世界史のなかでもきわめてまれな無条件降伏を受諾しました。そして第二次世界大戦という体験は、空前絶後であり、再現性もほぼありえません。
「無条件降伏」をした国は、戦勝国によりいかに不公正な処分を受けたとしても、それを受け入れなければなりません。そのときに四の五のいって、それを覆す権利も度胸も能力も(ようするにたとえばゲリラ戦をもう一度開始するなど)なにもかも、もうこの二国には残っていませんでした。それが徹底的な戦敗国の宿命です。国を無条件降伏というこの上ない屈辱に導いた国家指導者の無能ぶりは、裁かれるまでもなく、万死に値します。
国際法は万国公法としての形成以来、そのときの最大勢力の列強(主として海軍国)によって作られるものでした。この100年の歴史でいえば、その列強は2つの大戦時を除いて具体的にはほぼ英米を中心とする数国(フランス、イタリア、日本、ロシア、中国、第一次と第二次とで組み合わせが違う)を意味します。戦後は米ソ二国が冷戦状態にあり、非常に複雑な状況が生じました。ソビエト連邦の崩壊後、世界の軍事均衡はアメリカに大きく傾き、国連主義とアメリカ主権主義との国際法の解釈をめぐる争いがみられています。
法秩序や法執行能力の確立した近代国家における国内法と違い、国際法は法的効力をともなう慣習の積み重ねです。よく「事後法だった」という批判がありますが、この批判が正当なものかどうか議論は分かれており、私は否定的です。たとえば、国連安全保障理事会によって設置される国際戦犯法廷によって、カンボジアのポルポト政権に対する戦犯法廷が開かれようとしていますが、これはジェノサイド(大虐殺)事件からほぼ30年たったあとのことです。「国際戦犯が無時効」であるというのは、第二次世界大戦後、南米他に逃亡したナチ戦犯の追求時以降の慣習です。
国際法について若干の言及を行っておきます。
国際法がスタートした、近代初頭から第一次世界大戦までは「侵略」という概念はありませんでした。近代以前、文明の低い地域は無主地とみなされ、欧米の帝国主義国がこれを戦争により先占して植民地にするのは自由。いったん植民地化したら住民をジェノサイド(大量虐殺)するのも、国際法上合法でした。
第一次世界大戦の惨禍があまりにも大きかったので、1929年、それまで侵略を重ねていた列強諸国は、「戦争ノ抛棄(ほうき)ニ関スル条約(パリ不戦条約、ブリアン=ケロッグ条約)」を定め、それ以降の侵略を停止します。(「これでも国家と呼べるのか」小室直樹クレスト社)この条約は、第一次世界大戦の惨禍後に国際間の紛争をなくすために定められたものです。というのもそれまでの侵略戦争は、戦後処理として伝統的に領土割譲と賠償金により解決を図ってきました。しかし、この解決法のもとでさらに悲惨な第二次世界大戦は起こったのです。
パリ不戦条約に調印はしたものの、遅れて列強に参加し属国や植民地に乏しい、日本、ドイツ、イタリアにとっては、歴史的な不公正と感じられるものでした。日本やドイツの侵略行為は、国際法を実質的に支配した当時のアメリカ、イギリス、フランスなどの戦勝国により同条約(侵略戦争の禁止)への違反行為とされました。
ケロッグ長官は自衛戦争を行う権利を留保し、侵略戦争と自衛戦争の区別がなされるようになりました。戦争終結前から、侵略戦争の禁止は欧米、とくにアングロサクソン列強では国際確信=「法的効力をともなう国際慣習」とみなされたのですが、確信犯のドイツとは違い、日本軍部はそのことの意味を理解していなかったか、無視しました。「満州事変」と「北支事変」がそれにあたります。その後の戦争の拡大は、資源エネルギー確保の困難さとあいまって、もはや取り返しがつかない自衛戦争の側面がある可能性が高いと思われますが、この2事変に限っては、侵略戦争という内外の批判に抗弁することは難しいと思われます。
次に、罪刑法定主義による東京裁判批判も私には疑問です。というのは罪刑法定主義は特に大陸法を採用した近代国家において、個人の人権が国家に蹂躙されないために制定された法精神であり、慣習法の排除を含みます。「人類未曾有の惨禍が起こった第二次世界大戦直後の国際慣習法」とは、議論の土台がまったく違います。人類は残念なことにそのような事態を想定しておりませんでした。
その言論は、敗戦国日本が、「私はうら悲しい一個人で、列強の横暴により人権を無視された」という被害者意識からの意見主張のように私には聞こえます。もし「東京裁判を認めない」ことに対する国際的な確信を得たいならば、それを仲間内で発言せず、世界に届く発言とし、国際司法裁判所などで東京裁判の戦犯の名誉回復を行うべしです。でなければ国際的には「愚痴」でしかありません。
たとえば長い歴史のあとに名誉回復と賠償を勝ち得た人々に、第二次世界大戦中に捕虜収容所に強制連行された日系アメリカ人の例があります。
イタリア系およびドイツ系アメリカ人などの白人系人種に対しては強制収用が行われなかったため、黄色人種である日系アメリカ人に対するあからさまな人種差別政策の汚点として戦後、特に公民権運動が活発になった1960年代以降、アメリカでは大きな問題として取り上げられるようになりました。
終戦後40年以上経った1988年に、ロナルド・レーガン大統領(当時)は「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)に署名。「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対して、議会は国を代表して謝罪する」として、強制収容された日系アメリカ人に謝罪し、1人当たり20,000ドルの損害賠償を行った。特に第442連隊戦闘団に対しては、「諸君はファシズムと人種差別という二つの敵と闘い、その両方に勝利した」と言及し讃えました。これが法的な名誉回復であり、謝罪の意味です。
ドイツと日本は、今後恐らく二度と生じない未曾有の世界大戦を起こし、無条件降伏を受諾したわけで、この裁判は歴史的に特異なものにならずをえず、後世の評価を待つしかありません。次の同様な法廷の開催は第三次世界大戦が起きたときになるでしょう。そのときには今回の教訓を生かし、もうちょっとまともな裁判になるのかもしれません。しかしそもそもこの法廷は世界的な大戦の再現を防ぐために行われたものでした。
次にA級戦犯は外国ではなく日本が独自に裁くべきものだ、という意見もよくきかれます。これも天皇陛下が退位せずにこれまでの統治機構を温存したままで行うことは無理だったと考えます。(もし日本が天皇制を廃止し革命政権が樹立していれば、人民裁判のような形で、現実味を帯びた可能性はありえます。)
実際に戦後すぐの東久邇内閣は、戦犯の自主裁判を検討いたしました。ひとつには間接統治ながら裁判能力をもつ政権が残っていること。(ドイツの場合完全に政体が消滅し占領軍による軍政でしたのではるかに難しかったと思います)また、日本側でまず処罰しておけば、そのうえで裁判が実施されても苛酷な量刑は免れるのでは、と考えられたからです。
しかしこの閣議決定に対して大反対したのは昭和天皇です。(以下児島襄の「日本占領」より。)
「敵側の所謂戦争犯罪人、殊に所謂責任者は何れも嘗ては只管忠誠を尽くしたる人々なるに、之を天皇の名に於いて処断するは不忍ところなる故、再考の余地は無きや」
木戸幸一侯爵も反対でした。
「どうしてあんな考えが出たのか、僕にはフにおちなかったな。天皇の名で戦争をして、こんどは天皇の名で指導者を裁くというのは、当時の機構では不可能だ。それに、やるとなれば、どうせなんだかんだと一種の国民裁判になる。共産主義者もでてくるだろうし、そんなお互いに血で血を洗うような裁判を天皇の名でやるというのは、賛成できないね」
結局重光外相がこの閣議決定を、GHQのサザランド中将にもうしいれましたが、簡単に言うと、「A級(政治犯)、B級(軍司令官などの責任者)は君たちには無理だろう。C級(俘虜虐待など)についても、大いに疑問である」といわれました。
その後東久邇内閣は「真珠湾を忘れてほしい」失言を行うなど、時代の変化にまったくついていけないことがあきらかとなり、総辞職しました。
次に幣原内閣において、進歩党提出の「戦争責任に対する決議案」(ようするに議員たるものは静かに過去の行動を反省し深く自粛自戒すべきだ)を可決し、わずかに蝋山政道ら十人の代議士の辞任を行いました。
日本人自らの戦犯追及がありえるかを見ていたホイットニー准将はこれに呆れ、「いまや、最高司令官の直接命令がなければ、日本国民は諸指令が求めるいかなる屋内清掃の措置をとることもなさそうである」と「追放令」で述べて、日本人による戦犯追及の話は(もとよりなかったのでしょうが)消滅いたしました。
4.A級戦犯とは誰か?
A級、B級、C級の戦争犯罪は、次のようなものです。
1)A級(平和に対する罪)
宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争、若は国際法、条約、協定又は誓約に違反せる戦争の計画、準備、開始、又は遂行、若は右諸行為の何れかを達成する為めの共通の計画又は共同謀議への参加。
2)B級(通例の戦争犯罪)
戦争の法規又は慣例の違反。
3)C級(人道に対する罪)
戦前又は戦時中為されたる殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其の他の非人道的行為、若は犯行地の国内法違反たると否とを問はず、本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として又は之に関連して為されたる政治的又は人種的理由に基く迫害行為。
A級戦犯は実は、GHQが作成したA級戦犯容疑者というリストの中から選ばれました。戦犯容疑者は主として日本が軍国主義化していく昭和初頭の実力者、軍人、政治家、外交家、右翼思想家、経済人から選ばれました。約110人程度が候補にあがったようです。戦犯容疑者には、フィリピンの軍政に関わった軍人など、明らかにダクラス・マッカーサーが私怨により人選したと思われる人たちも含まれています。中国やイギリスの意見も勿論反映されています。
A級戦犯容疑者のなかで戦後も権力を保持した有名人の例として児玉誉志夫、笹川良一、正力松太郎、らがいます。児玉誉志夫は、終戦当時は白面の一青年。児玉機関として大陸で活躍し、戦時利得30億円の資産をあげましたが、そのことは一般の日本国民は知りませんでした。つまり連合軍は、戦犯追及について相当詳細な調査をしたことが伺えます。
A級戦犯で終身禁固に処せられたけれども、政治復権した人物の例に賀屋興宣がいます。彼は、昭和33年に自由民主党から衆議院議員に立候補、当選します。昭和38年には池田内閣で法相になりました。同じく戦争時の外務大臣であり禁固7年の刑を受けた重光葵も、その後政界に復帰し、改進党総裁になりました。
重光葵は巣鴨プリズンで書いた「重光葵日記」の著者としても有名です。彼は同僚のA級戦犯らの身近な生活態度を、次のように遠慮なく辛辣に描いています。
「日本人の非社会性は、巣鴨(プリズン)では遺憾なく陳列されている。この点では、日本人として考えさせられることが多い。水やパンの事だけではない。何をしても人を押しのけて我勝ちで、風呂に入るのもそうだ。共同に使う清い上がり湯に自分の手拭を突っ込む位は平気で、共同風呂の中で鬚をそったり、石鹸のついた頭を洗ったりして、監視兵に叱られる。無作法に我勝ちに他を押しのけて行く遣り方は、軍人ほどひどい。軍隊生活では斯様に教えてあるのかも知れぬ。廊下でもどこでも、タバコの吸殻を捨てる。ツバキは到る処に吐く。遊歩の時に半裸体になって妙な服装をするのはまだしも、庭の一隅に代り代り行って直ぐ小便をやる。監視兵の顔は、軽蔑の表情にみたされる。こちらは平気である。別に心から無作法と云う訳ではない。結局、日常生活、習慣の上に社会性がないと云う訳である。7、80になって最早や如何することも出来ぬ。然し、更に若いものも大同小異である」
これらの戦犯容疑者の中で、最終的に東京裁判の中でA級戦犯に指定された人々は以下の28名です。
荒木貞夫、板垣征四郎、梅津美治郎、大川周明、大島浩、岡敬純、賀屋興宣、木戸幸一、木村兵太郎、小磯国昭、佐藤賢了、重光葵、嶋田繁太郎、白鳥敏夫、鈴木貞一、東郷茂徳、東条英機、土肥原賢二、永野修身、橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、星野直樹、松井石根、松岡洋右、南次郎、武藤章
このうち大川周明は精神異常が認められ訴追免除となり、永野修身と松岡洋右は判決前に病死しているため、結局A級戦犯として判決をうけた者は25名となっています。これらの中で、靖国神社が昭和時代の受難者として合祀しているのは「昭和受難者」と呼ばれる以下の14名です。
1)死刑判決により絞首刑
東條英機 板垣征四郎 木村兵太郎 土肥原賢二 松井石根 武藤章 広田弘毅
2)終身刑により服役中に獄中で死亡
梅津美治郎 小磯国昭 平沼騏一郎 白鳥敏夫
3)禁固20年により服役中に獄中で死亡
東郷茂徳
4)その他、判決前に病のため病院にて死亡
永野修身 松岡洋右
5.なぜA級戦犯が「昭和受難者」として合祀されることになったのか?
当初の靖国神社の起源を考えると、戦死者ではないA級戦犯が合祀されたことは、奇異なことに感じられます。
この合祀に至る経緯には、まず終戦後に起こった「戦犯に鞭を打つな」という強い国内世論がありました。この名誉回復運動でもっとも熱心だった政治家に、当時社会党の堤ツルヨ衆議院議員がいます。堤代議士は『戦犯の遺族は国家の補償も受けられないでいる。しかも、しかも、その英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえない!」と熱弁をふるいました。昭和27年4月28日に発効した対日講和条約(サンフランシスコ講和条約)第11条によって、それ以後も引き続いて服役しなければならない1224名の「戦犯」に対して国民の強い同情が集まりました。戦争未亡人や遺族が参加し、早期釈放を求める一大国民運動が同年7月から起こります。この国民運動には、最終的には約4000万人の署名が集まります。昭和28年8月、遺族援護法が改正され、旧敵国の軍事裁判で有罪とされた人は、日本の国内法では罪人と見なさない。という判断基準が明確に示されました。そして遺族に対し年金と弔慰金が支給される事となりました。自由党・改進党・右派、左派社会党。与野党を挙げた次のような全会一致の可決でした。
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衆議院本会議(昭和28年8月3日)
〈決議文〉
8月15日9度目の終戦記念日を迎えんとする今日、しかも独立後すでに15箇月を経過したが、国民の悲願である戦争犯罪による受刑者の全面赦免を見るに至らないことは、もはや国民の感情に堪えがたいものがあり、国際友好の上より誠に遺憾とするところである。しかしながら講和条約発効以来戦犯処理の推移を顧みるに、中国は昨年8月日華条約発効と同時に全員赦免を断行し、フランスは本年六月初めに大減刑を実行してほとんど全員を釈放し、次いで今回フィリピン共和国はキリノ大統領の英断によって、去る22日朝横浜ふ頭に全員を迎え得たことは、同慶の至りである。且又、来る8月8日には濠州マヌス島より165名全部を迎えることは衷心欣快に堪えないと同時に濠州政府に対して深甚の謝意を表するものである。かくて戦犯問題解決の途上に横たわっていた最大の障害が完全に取り除かれ、事態は最終段階に突入したものと認められる秋に際会したので、この機を逸することなく、この際友好適切な処置が講じられなければ受刑者の心境は憂慮すべき事態に立ち至るやも計りがたきを憂えるものである。われわれは、この際関係各国に対して、わが国の完全独立のためにも、将又世界平和、国際親交のためにも、すみやかに問題の全面的解決を計るべきことを喫緊の要事と確信するものである。よって政府は、全面赦免の実施を促進するため、強力にして適切且つ急速な措置を要望する。
右決議する。
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この政治的事実は、A級戦犯者が国民から許され、その後も政財界の大物として威力をふるったことを説明します。彼らは渾身の力と影響力を駆使して、自らもほぼその立場にあったA級戦犯者の復権(昭和受難者として)に尽力しました。
これ以降、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」および「恩給法」の改正が重ねられはじめました。「戦犯」の遺族も戦没者の遺族と同様に遺族年金・弔意金・扶助料などが支給され、さらに受刑者本人に対する恩給も支給されるようになっていきます。そこにはA級とB・C級の区別はなく、また、国内法の犯罪者とはみなさず、恩給権の消滅や選挙権・被選挙権の剥奪もありません。刑死者は「法務死」と呼称されるようになりました。
昭和31年4月19日、遺族援護行政を所管する厚生省引揚援護局長は「靖国神社合祀事務に関する協力について」と題する通知を発し、都道府県に対して合祀事務に協力するよう指示をいたしました。祭神の選考は厚生省・都道府県が行ない、祭神の合祀は靖国神社が行なうという官民一体の共同作業となりました、祭神選考は「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」に原則的に依拠していることとなります。そして、先の大戦が総力戦であったことで法の適用対象が拡大し、それによって祭神の範囲も拡大。例えば、徴用された船舶の乗組員・警防団員・国民義勇隊員などが含まれるようになります。
こうして「戦犯者」も「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」が適用されたことで、靖国神社の祭神選考の対象となり、昭和34年3月10日付「日本国との平和条約第11条関係合祀者祭神名票送付について」(引揚援護局長通知)によって送付された祭神名票に基づいて最初の「戦犯」合祀がなされました。
靖国への合祀までの事務的な流れをみると、(1)厚生省(引揚援護局)が、保管されている戦没者カードと靖国神社による「合祀基準」とを照合・選別して所定の「祭神名票」に書きこみを行い、(2)それを靖国神社へ送付する。(3)神社側は「霊璽簿」にそれを写し、さらに「索引簿」を作成した上で遺族に通知する。(4)年2回の例大祭の前夜に合祀の儀式を行うとなっています。
これらの経緯により靖国神社は、1959(昭和34)年4月に最初の「戦犯」の合祀を行ないました。そして次第にそれを拡大し、1978(昭和53)年10月には、密かにその理由は、「53年の援護法改正で、いわゆる戦犯刑死者と遺族は(遺族年金などで)一般戦没者と同様の処遇を受けられるようになりました。戦犯刑死の方々は法的に復権され、靖国神社は当然合祀する責務を負った」(靖国神社機関紙)ということとなりました。一方これに対して厚生労働省は、「国は遺族援護のために戦犯刑死者を公務死と認定したのであり、靖国のいう『復権』とは関係ない。合祀は神社が決めることだ」と反論しています。
昭和41年2月8日付「靖国神社未合祀戦争裁判関係死没者に関する祭神名票について」(引揚援護局調査課長通知)によってA級戦犯に祭神名票が送付され、昭和46年の崇敬者総代会で了承され、昭和53年秋季例大祭前日の霊璽奉安祭で合祀されています。このことが一般に知られたのは、翌54年4月19日の新聞報道によってです。
「A級戦犯」として、東条英機元首相,板垣征四郎陸軍大将、土井原(どいはら)賢二陸軍大将、松井石根(いわね)陸軍大将、木村兵太郎陸軍大将、武藤章陸軍中将、広田弘毅〈こうき〉元首相ら7人と、獄中で死亡した5人及び平沼騏一郎元首相ら未決で病死した2人の計14人が合祀されました。
6.A級戦犯合祀をすすめた「靖国」イデオロギー
こうして国と靖国神社の共謀により、着実に戦犯の合祀が進んできたのですが、歴史学者の秦郁彦は、これには「厚生省引揚援護局」の旧軍人グループと、靖国神社宮司松平永芳の役割が大きかった、と主張しています。
「引揚援護局」は形式上は厚生省の一部局でしたが、局長のみがキャリアで入れ替わり、実質面を旧軍人グループ、しかも東京裁判史観否定派のイデオロギーを代弁する勢力に牛耳られている部署でした。中心となったのは、戦後20年間にわたり課長、局次長を歴任した美山要蔵元陸軍大佐、板垣徹元中佐、大野克一元中佐らで、部下には元将校、下士官、戦争未亡人が集まり、省内でも別格の職場でした。美山元大佐は東条英機首相兼陸相の直系といわれ、かつて靖国を所管した陸軍省の副官でした。つまり、東京裁判を否定する旧陸軍出身者のイデオローグの一人でした。彼らは1959年のBC級戦犯の合祀がすんなりと通ってしまったことに味を占め、A級戦犯も、と意気込みました。
注目すべきなのはこの中の「合祀基準」です。これは、戦前では陸軍が、戦後は靖国神社が審査し、天皇に裁可を貰い決定に至る、という形を取ってきました。本来靖国神社のなりたちからいって、合祀の基準をかえるためには、天皇の了解を取り付けなければならなかったのです。しかし戦後、その了解は限りなくあいまいになります。
1966年引揚援護局はA級戦犯の「祭神票」を靖国神社に送り付けました。しかしこの当時の宮司筑波藤麿は、山科宮家から臣籍降下した元皇族であり、東大国史学科に学び欧米にも留学した広い視野を持つ歴史家でした。筑波は、これまでの経緯と天皇家や宮内庁内の空気を熟知していたので、それに配慮し、合祀を差し止めていました。筑波宮司に対して強い介入を行っていたのが、宮司の選出権をもつ合祀諮問機関の「靖国崇敬者総代会」です。総代は10人でしたが、青木一男元大東亜相、賀屋興宣元蔵相などの、東条内閣の閣僚で、3−10年の拘置ないし服役の後釈放されたA級戦犯が加わっていました。
青木氏は、「合祀しないと東京裁判の結果を認めることになる」「戦争責任者として合祀しないとなると神社の社会的責任は重いぞ」と迫りました。事態が急変したのは、その筑波宮司が急逝し、後任の宮司に東京裁判否定派の松平永芳が就いてからのことです。
この松平永芳は幕末の福井藩主、松平春獄の孫にあたる軍人でした。彼の強烈な天皇観は、平泉澄東大教授からの影響が大きいといわれています。それは単なる天皇崇拝ではなく「現天皇が天皇制本来の伝統にてらし過ちを犯したと判断されるべきときには、死をもって諫言すべきだ」という思想でした。平泉本人は、この奥義を人に伝えるときには、極めて慎重であり、信頼関係のある人間に一対一でしか伝えなかったとされていますが、それが奥義というものの本質であり、然るべく影響力を生じました。人間魚雷「回天」の創始者・黒木博司海軍少佐、昭和天皇が終戦の「聖断」をくだしたときに、クーデターないし叛乱によって徹底抗戦を貫こうとした陸軍中堅将校団の多くは、平泉史観の直系でした。
このクーデター(宮城事件)についてのいくつかの証言をあげておきます。
「(宮城事件の参加者は)天皇裕人はああ仰せられても(無条件降伏の受諾)、私どもではそれでは天皇制は滅ぶと考えた。それで、一時天皇裕人の意図に反しても、皇祖皇宗以来うちたてられた国体の本義を守ることが、大きな意味では本当の忠節と考えた。」(終戦史録 五ー一二六 大井篤海軍大佐)
「クーデターによって、聖慮の変更を促するとは、いわゆる君側の奸が聖明をおおっているから、それをとり除かんとする考え方であり、その考え方のそこには、H教授の日本歴史観が流れていたことは否定できない。八・一五事件に関係した畑中少佐は、H教授の所説を盲信した一人である。その彼がH教授のお教えだと前置きし聖断が下っても、それが君側の奸によってなされた場合には、たとえその聖断に逆うとも君側の奸をとり除くことは立派な忠義であるとて、阿南さんの説得につとめた場面を、私は今でもなお記憶している。H教授にたいする尊敬は、中、少佐級だけではなかった。阿南さん自身もまた、教授に深い尊敬と大きな好意とをよせていた。」(終戦史録 五ー九七ー九八)
「(天皇と木戸の無条件降伏受諾の意思を伝えられた八月十三日最高戦争指導者会議にて)そのときとくに村瀬法制局長官は出席を求められ、主としてサブゼクト・ツーと政体の二点につき説明を求められた。長官は詳しく弁明し、差支えなきむねを述べたが、阿南陸相より、或る博士はこれでは国体危うしといっているがと反問あり、これに対しさらに釈明し、一同はそうですかと憂色をたたえ、うなずくばかりであった。」(終戦史録 五ー二七)
平泉は昭和23年に公職追放の対象となった後は、泉寺白山神社の宮司となり、歴史の研究・著述と後進の指導に専念する傍ら、銀座に研究室を開設し昭和59年に没するまで右派の国史学者・イデオローグとして影響力を持ち続けました。断っておきますが、これほどの影響力を持ちえたということは、彼の思想は別として、知性、信念、人格、清新さ、教養など格別な人物だったということです。彼は皇道派、統制派などとかく分裂しがちな日本の右翼思想のバランスをとる思想的なシンボルであり、また戦時中は従軍司祭としての役割を果たしました。同門の人々の多くは戦後、保安隊、自衛隊、警察、、国史家、神道などに従事し、思想的な共同体を保ってきました。
しかしその皇国思想について批判をすれば、自家撞着的であり、外の社会に対して閉じられた価値観を追求し、正統の核をもたず、つねにあいまいで宗教的・政治的な色彩を持ちます。天皇を守り立てるように装いつつ、テロを辞さず、天皇をも制御できる政治権力をわが身にまとおうという隠された思想的権力欲が、背景にあると思います。つまり、天皇主権説によって国体をたてに「国家機構内部における軍や官僚的要素の絶対的地位を確保しよう」とする心理です。
この皇国思想にとって天敵となったのは、東京帝大名誉教授・貴族院議員である美濃部達吉らが唱えた「天皇機関説」です。天皇機関説は「統治権は法人である国家に属し、天皇はその最高機関として統治権を行使する」「国勢に対する批判の自由や行政権・司法権も法律にもとづく法治主義によっておこなうべし」というリベラルな、立憲君主制度の基礎になる考え方です。昭和10年2月の貴族院本会議において美濃部は、「緩慢なる謀反であり、明らかなる反逆になる」として「学匪」と非難されます。
この天皇機関説について、天皇陛下は一連の排撃運動をやりすぎと強く憂慮されていました。侍従武官長であった本庄繁陸軍大将の「本庄日記・至秘鈔」によれば、「軍部にて機関説を排撃しつつ、しかもかくの如き自分の意志に悖る事を勝手に為すは、即ち朕を機関説扱と為すものにあらざるなきや」と排斥運動を痛烈に批判されています。
ここでもっとも巧妙に権力を把握したのは東条ら「統制派」と呼ばれ、「皇道派」と対立した陸軍首脳部の大勢です。統制派は、結局、皇道派の過激なテロリズムとクーデターの恐怖を利用しながら、一方天皇機関説も不敬として否定し、その両方の否定の中空に、自らの統制権を浸潤させる戦略に成功しました。この昔の民話でいうと泣いた赤鬼(皇道派)と、青鬼(統制派)の結託を成立させることが、平泉の役割となりました。
平泉の信じた皇国思想の原型は、江戸中期の朱子学者山崎闇斎の興した、日本神道と朱子学を結びつけた「崎門学派」にあります。この皇国思想は、明治天皇を擁(よう)して維新回天(いしんかいてん=明治革命)を成し遂げた長州の過激な攘夷イデオロギーを作り出しました。それは明治革命を起こした原動力となった思想です。日本の歴史の正統性として、天皇制が途切れることなく継続していること、外国に占領されていないこと、の二点を発見し、「中つ国(正しい国)は(中国ではなく)日本である」と主張し、尊皇攘夷の強烈な気風をつくり、日本を革命に導きました。しかし明治以降の近代化への成功のなかでその思想は、自らを変質させ清新さを失いなっていきます。日中戦争と日露戦争で、膨張しながら旧陸軍組織の皇道派へ、そして姿を変えながら今の靖国イデオロギーへと、 続いたように思います。
注目すべきことは、このイデオロギーそのものが、思想的な優越をめぐって中国との対立を作り出し、敗戦と東京裁判を否定する深層心理となっていることです。
1978年松平は宮司預かりとなっていたA級戦犯合祀を行うことを決意し、合祀者名簿を天皇のもとへ持って行きます。その事情を彼の口から語ってもらいましょう。
「就任した早々であるが、前宮司から預ったこの課題は解決しなければならないということで、思い切って合祀申し上げたわけであります。その根拠は明白です。すでに講和条約が発効した翌二十八年の議会で、援護法が一部改正され、いわゆる戦犯者も全部一般戦没者と全く同じようにお取扱いいたしますから、すぐ手続しなさい、ということを厚生省が遺族のところへ通知しているんです。いわゆる戦犯、役所では「法務死亡者」といいますが、その遺族達は終戦後、一切の糧道を絶たれていたんです。財産も凍結されていたんです。家を売ってなんとかしようとしても家の売りようがなかった。実は私の家内の父親(醍醐中将)が戦犯で銃殺になって死んでおります。家内の弟がまだ学生でしたから、私が実家の母親の面倒も見ていたのです。それで、役所からくる書類などにも目を通し、こと戦犯に関しては普通の方よりもよく知っていたわけです。そこで私は、いつまでも「戦犯」とか「法務死亡」なんていうことを言うべきでないから、さっき申上げた「幕末殉難者」とか「維新殉難者」という従来から当社の記録に使っていた言葉にあわせて、「昭和殉難者」ということにし、靖国神社の記録では戦犯とか法務死亡という言葉を一切使わないで、昭和殉難者とすべしという通達をだしたのです。」(松平永芳宮司の語るA級戦犯合祀と中曽根参拝)
それを受け取った徳川侍従次長は、天皇の意向に基づき「相当の憂慮」を表明しました。特におかしいと思われたのは病気でなくなった、永野修身、松岡洋右らの合祀です。しかし松平はそれを無視し、独断で合祀を強行してしまいました。徳川らの側近たちの不満の表明は天皇の意を汲んでなされたことは、間違いありません。「昭和天皇独白録」は戦時指導者に関する辛口評で読者を驚かせましたが、なかでも松岡については「恐らくはヒトラーにでも買収されたのではないか」とまで酷評を加えています。そもそも松岡は戦死ではなく裁判中に病死した人間ですが、これまで平時の病死者・暗殺者・事故死者が合祀されることはありませんでした。恣意もここにきわまれりということだと思います。
松平に対する天皇側近による批評を次に加えておきます。
●『入江相政日記』によると、松平宮司は、宮内廳に、徳仁親王[浩宮]が「御成年におなりになつたのだから靖國神社に御參拜になるべきだ」と言つて來たり、徳仁親王[浩宮]のオックスフォード留學に反對するといふ「馬鹿なこと」を言つて來たりしたといふ。また、松平永芳宮司は、新發現の『高松宮(宣仁親王)日記』を如何にすべきかといふ喜久子妃の相談に對しては、之を燒却すべきとの意見を述べてをり(高松宮妃喜久子『菊と葵のものがたり』中央公論社、一九九八年十一月、四八頁)、歴史に對する認識に於ても著しく缺けてゐる人物であつたことが窺はれる(『入江相政日記』昭和五十五年五月三十日、昭和五十八年三月十四日)。
●昭和天皇の侍從長を勤めた徳川義寛氏は、この極東軍事裁判A級戰犯合祀について、「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と、松平永芳宮司の措置を批判的に語つてゐる(「昭和天皇と50年・徳川前侍従長の証言」(『朝日新聞』一九九五年八月十九日)
7.A級戦犯合祀がもたらした代償
合祀にかんする「ご内意」を伝えられても、松平はA級合祀を強行します。平泉史観の面目躍如です。しかしこの強行は高価な代償を神社にもたらしました。強い違和感、不快感をもたれた昭和天皇はその後、靖国神社にいかないことを決めました。
1975年11月を最後に中断、今日まで30年間、天皇による参拝は再開されませんでした。1986年の8月15日に昭和天皇はその思いを「このとしのこの日にもまた靖国のみやしろのことうれひはふかし」とお詠みになりました。A級戦犯が合祀されるかぎり、天皇陛下が靖国神社をたずねないという不幸な伝統は、今も、これからも永遠に続くことでしょう。
参考までに、皇室の伝統行事の継承に非常に熱心とされる今上天皇は平成9年、「よくないことばかりが起こる」といって、岩清水八幡宮にお参りしています。八幡神社の総本山のひとつである同神宮は京都御所の鬼門にあります。伊勢の神宮に次ぐ国家第二の宗廟として、天皇・上皇の行幸・御事は円融天皇(第64代)の御参拝以来、現在までに実に250余度にも及んでいます。
自由民主党は靖国神社の国営化を内容とする「靖国神社法案」を国会に69年から4年連続で提出しましたが、4回にわたる審議未了を経て74年に廃案となりました。これを機に靖国勢力は方向を転換し、「首相・閣僚らの公式参拝」による同神社の公的復権を当面の目標に変えました。これが致命的に重要な意義をもつことになりました。なぜなら、A級戦犯合祀という自らの傲慢な過ちにより、天皇家による参拝停止という創建の正統性を完全に失ってしまったからです。この事態にはなはだ困惑した靖国神社は、首相による公式参拝によりその過ちを糊塗するため、日本遺族会などを通じて活発な政治運動を進めるようになりました。
梅原猛国際日本文化研究センタ−顧問は、次のように靖国のイデオロギーを鋭く批判しています。
「靖国神社は今でも戦争について何の反省もしていないところを見ると、その霊性は昔の超国家主義を棄ててはいないのだろう。」「してみると、昭和53年、ここに東条首相などの霊が合祀された時、靖国の霊たちはその霊を喜んで迎え、東条首相の霊を首霊にしたに違いない。おそらく靖国神社には今でも東条首相の「鬼畜米英一億玉砕」という甲高い絶叫が響いているのであろう。こういう神社に参って、小泉首相が「もう二度と戦争は起こしません」といえば、東条首相らの霊は「何をいってる、この臆病者めが」と一喝するに違いない。」
これは梅原氏の妄想でしょうか。それを皆さんに考えていただくために、2001年8月に靖国神社社務所が発行したパンフレットの一文をご紹介させていただきます。
「大東亜戦争が終わった時、戦争の責任を一身に背負って自ら命をたった方々もいます。さらに、戦後、日本と戦った連合軍(アメリカ、イギリス、オランダ、中国など)の形ばかりの裁判によって一方的に「戦争犯罪人」というぬれぎぬを着せられ、むざんにも生命をたたれた1068人の方々・・・・靖国神社ではこれらの人々を「昭和受難者」とお呼びしていますが、神さまとしてお祀りされています」
次に紹介するのはA級戦犯合祀を強行した松平宮司の東京裁判観です。
「私は(宮司を)お受けするということを最終的に決心する前に、いわゆる東京裁判を否定しなければ日本の精神復興はできないと思うから、いわゆるA級戦犯者の方々も祀るべきだという意見を申し上げた。それに対して石田先生は、これは国際法その他から考えて祀ってしかるべきものだと思うと明言されました」(靖国神社宮司松平永芳新人物往来社)
近代的な立憲君主を目指された昭和天皇は、超国家主義を主張する人々を嫌悪されていました。昭和天皇は、自ら危機に至る過程に関わり、自分の意志が曲げられて、国が間違った方向に行ってしまったこと、また何者がそれに関わったかを、はっきりと認識していました。天皇は、昭和の戦争の時代に、首尾一貫平和を希求していました。
藤田尚徳の「侍従長の回想」には昭和天皇が戦後すぐに藤田に明かした心境がつぎのようにつづられています。
「申すまでもないが、戦争はしてはならないものだ。こんどの戦争についても、どうかして戦争を避けようとして、私はおよそ考えられるだけは考え尽くした。打てる手はことごとく打ってみた。しかし、私の力の及ぶ限りのあらゆる努力も、ついに効をみず、戦争に突入してしまったことは、実に残念なことであった。ところで戦争に関して、この頃一般で申すそうだが、この戦争は私が止めさせたので終わった。それが出来たぐらいなら、なぜ開戦前に戦争を阻止しなかったのかという議論であるが、なるほどこの疑問には一応の筋は立っているようにみえる。如何にも尤もに見える。しかし、そうは出来なかった・・(以下略)」
もとより天皇がこのように語ったことが真実かどうか、天皇が本当にそのときにそう思っていたのかどうか、知るよしもないですが、侍従長の回顧録にこう出ている限り、天皇の戦争に対する政治的、法律的責任、そして歴史的責任はこの発言に集約されています。
「天皇の平和希求の意向をことごとくないがしろにして戦争の旗を振り、国を危うきに至らしめた者たちと、その旗のもと軍の命令に従って死地に赴いた英霊とが、同じ場所で同じように顕彰されていいものであろうか。」
このA級戦犯合祀への私の最大の疑義は、昭和天皇はこの合祀を受け入れ難く、そのために打てる手は打っていたはずなのに残念、と考えうる点につきます。
公式参拝、すなわち首相が天皇の代わりに行くという政治行為を、政治家は自ずからどう考えているのか。ちなみに、かつて戦犯の疑いで巣鴨プリズンに拘留された、長州閥の出身である岸信介元首相が率いた旧岸派(その後福田派→安部派→森派)に属する人々は、前森首相、現小泉首相、石原慎太郎東京都知事、安部自民党幹事長代理など派閥ごと、戦争責任を曖昧にする綿々とした文化を持っている、という興味深い指摘があります。
8.最後に
最後に少しだけ私の個人的体験を話します。この体験のため私は戦犯問題への違和感を持ち続けてきました。
1996年のことです。私は当時勤めていた会社の社長の依頼で、旧陸軍関係者(神社関係者を含む)を前に講演をいたしました。
その年、ちょうど「動詞型生活者の誕生」という原稿を書き上げたばかりだったのです。
その会は旧陸軍関係者ばかり数十人が集まっており、私のみるところ全員が70歳以上でした。
私の父は「学徒兵」で戦艦大和にのっておりました学徒兵でしたので、そのエピソードを交え最初は親近感を感じながらの話をしておりました。
しかし途中からいきなり様子が変わったのです。私はこう話しました。
「日本は今3回目の敗戦を迎えています。最初は黒船で来たペリー提督。日本は不平等条約をむすばされ、その改訂にものすごく苦労いたしました。次の敗戦はもちろん第二次世界大戦。マッカーサー将軍が厚木に降りたってGHQによる日本統治、そして国体の改革が進められました。今は目に見えませんけれども、私は第三の敗戦だと思っております。インターネットの普及や直接金融の進展、そして情報開示という課題に、形はついていっても実質がついていかない。その課題がこれから経済敗戦というかいたちであきらかになり、私たちはもう一度人心を入れ替えて初心から出直さなければならない。ということになるのだと思います・・・・・・」
ものすごく冷たい雰囲気のまま私は講壇を降りました。
さっと手が上がります。
「質問。あなたは先ほど敗戦と言ったが、日本は今まで一度も外国に負けたことなんかないんですよ。なにを言っているんですか。」80歳近い人の感情的な発言です。
私はあぜん!とし、そしてややムキになって反論をいたしました。
「連合軍総司令部民政局局長だったコートニー・ホイットニー中将という方がいらっしゃいます。連合軍当局が作った憲法素案を日本の閣僚に手渡したときに、彼は「マッカーサー将軍はこれ以外のものを容認しないだろう」と述べて、日本側に15分の検討の時間をあたえ、隣のベランダに退いたそうです。ちょうどそのとき、家屋すれすれに一機の爆撃機が衝撃音を残して家を揺さぶって飛びさりました。検討時間が過ぎて彼はその部屋に入ってきてこういったそうです。
「アトミック・サンシャイン(原子力的な日光)のなかでもう一度考えてみますか?・・・・・」
その直後に日本代表はあっさりとその素案を受け入れました。これがいったい敗戦でなければ、敗戦というのは一体なんなのですか??」
その方はまったく反論されず、氷のような沈黙が支配しました。
その後の歓談である人が寄ってきました。
「吉田さん、あなたのいったことは正しい。しかし彼はそれを受け入れない一生を過ごしてきたのです。私と彼と、あなたには同じに見えるが違うんです。私は70台前半。彼は70代後半。当時の大尉とか少佐です。彼らの方が数年年上です。私たちの世代が特攻に選ばれて出撃する少年兵で、そのときに彼は特攻兵を選ぶ教官側に立場にいたのです。自分が命じて部下が死ぬという状況の罪悪感を、彼は選ばない生き方をした。生きながらえるためにはそうするしかなかったのかもしれません。だから彼には敗戦自体が受け付けられないものになっているのです。だから・・・・彼にああいう言い方をしてはいけないんですよ。彼の先は・・・・まあ私の老い先もそうですけれども、そんなに長くないんですから、そおっとしておいてあげてくださいよ」
はげしい怒りと申し訳なさの入り交じった困惑を感じながら、私はその場を去りました。そうか。この人たちには敗戦はなかったんだ。彼らは再び戦って、勝とうとさえ思っている。
おなじ日本人ですら歴史を共有することがむずかしいのであれば、外国の人との間においてそれはどんなに困難なことであろう、と帰る車のなかで私は思いました。(
原文はここから)
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