2011/10/5
「時近ければない その23」
原始キリスト教世界
モンタノスとその一派
[解説]
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モンタノス主義(Montanism)は、2世紀中頃(157頃)小アジアのプリュギアでモンタノス(Montanos, -170頃)によって始められた運動。聖霊が教会に急速にそそがれることを待望し、すでにその最初の顕現を見たと主張する。モンタノス自身も2人の女預言者プリスカ(Prisca)〔本文ではPriscilla〕およびマクシミッラ(Maximilla)とともに熱狂的言辞をもって、天のエルサレムがプリュギアのペプザ付近に下り、世界の終末が起こると預言した。
この運動はアフリカに移るに及んで急速に禁欲主義的傾向を帯びるに至り、再婚や迫害時の逃亡を厳禁し、厳しい断食を勧めたりした。アフリカのカルタゴではテルトゥリアヌスがこの運動に加わり(207頃)多くの同調者を得、プリュギアを越えてローマ、ガリア一帯に広まっていった。
しかし創説者と女預言者たちが死に、世界の終末も到来しないため、ようやくその勢いも衰え、一方またアポリナリオス、ミルティアデス(Miltiades)、ロードー(Rhodo)等の正統主義者たちが激しく攻撃し、公式にもアジア会議(200以前)と教皇ゼフィリヌスによって非難された。
この運動におけるある要素(熱狂主義や預言など)は原始キリスト教にも見られるものであり、近代においては、この運動を教会の組織化、世俗化をとどめ原初の状態にもどそうとする熱意のあらわれとして理解することも多い(ハルナック等)。しかしこの運動は、キリスト教史に絶えず現れる黙示主義的グループの、ごく初期の一例として理解するのが最も妥当であろう。
(『キリスト教大事典』)
point.gifMontanism.
[底本]
TLG 1771
MONTANUS et MONTANISTAE Theol.
(A.D. 2: Phrygius (Montanus))
1 1
1771 001
Oracula, ed. P. de Labriolle, La crise montaniste. Paris: Leroux, 1913: 37-38, 43, 45-46, 60-61, 68-69, 71, 73, 86-87, 95-97. (Q: 755: Orac.)
*〔〕は訳者の補足。
『託宣(Oracula)』
1.〔Ephiphanius, Panarion, II_page233〕
さらにまた、同じモンタノスが付け加えて、次のように言っている。<われは主なる神、人間界に降る全能者>。
2.〔Ephiphanius, Panarion, II_page234, 235〕
それから再び、哀れな小人モンタノスが主張する。すなわち、<天使(angelos)にもあらず、年長者(presbys)にもあらず、われは主なる父-神として到来せり>。
3a.〔出典不明〕
すなわちモンタノスは、と彼は主張する、こう述べた、と。<われは父(Pater)なり、また息子(Hyios)にして援助者(Parakletos)なり>。
3b.〔出典不明〕
第一に、彼が言ったということ。<われは父(Pater)なり、われは息子(Hyios)なり、われはまた援助者(Parakletos)>。
4.〔Ephiphanius, Panarion, II_page232〕
このモンタノス――みずからを預言者(prophetes)なりと宣明する者、そしてまた、自分によって惑わされた人たちを惑わした者は、神的な書物を基にむちゃくちゃの説明をする。すなわち、彼は自分のいわゆる『預言(propheteia)』なるものの中で言う。<人間を超えて救うかたをあなたは何と言うか? というのは、義しいかたは>と彼は主張する、<太陽の百倍以上に輝くであろうが、救われることになっているあなたがたの内なる小さき人たちは、月の百倍以上に輝くであろうから>。
5.〔Ephiphanius, Panarion, II_page224〕
モンタノスはすぐに主張するのである、<見よ、人間は竪琴のごとく、わたしも撥のごとく躍動する。人間は寝(やす)むが、わたしも目を覚ましている。見よ、主は、人間どもの心〔臓〕には無縁にして、人間どもに心臓を与えるかた>。
10.〔出典不明〕
モンタノスの讃歌より
<クリストスは、自然本性も
活動力(energeia)もひとつ持っておられる
受肉の前にも、受肉の後にも
それは、似つかわしくないこと(anomoia)や異なったこと(diaphora)をして、
違った者(diaphoros)に
ならないため。>
11.〔Ephiphanius, Panarion, II_page222〕
すなわち、彼らの間でマクシミッラと言われる女預言者の主張によれば、彼女は主張する、<わたしの後に預言者はもはや存在せず、終末(synteleia)がくる>。
12.〔Eusebius, Historia ecclesiastica, V. chap. 17〕
『アステリオス・オルバノスを駁す』という同じ書の中にあるが、マクシミッラを通しての霊(pneuma)に、断じてこう言わせてはならぬ、「<わたしはオオカミのように羊の群の中から〔にせ預言者として(マタイ7_15)〕追い立てられる。わたしはオオカミにあらず。わたしは言葉(rhema)であり、霊(pneuma)であり、力(dynamis)である>」。
13.〔Ephiphanius, Panarion, II_page235〕
プリュギアにおいてそういうふうに呼ばれているそういう人たちの間で、マクシミッラ本人なら、はたしてただちに何と言うか、おお、クリストスの子どもたちよ、お聞きなさい。<あなたがたが聞くのはわたしからではなく、あなたがたはクリストスから聞くのです>。
14.〔Ephiphanius, Panarion, II_page237〕
すると、マクシミッラ本人――信奉(parakolouthia)と教え(didaskalia)の知恵(gnosis)が、再びこう主張するであろう、わたしの述べていることが馬鹿げた話になるように、――<主がわたしを遣わされたのは、この労苦(ponos)と約束(epangelia)と決まり(syntheke)の選択者(hairetistes)として、告知者(menytes)として、解釈者(hermeneutes)として、神の知恵(gnosis)を学び知るよう強制された者、悦ぶとともに拒む者としてである>。
17.〔Ephiphanius, Panarion, II_page242〕
これら、プリュギア人たちの一派にしろ、プリスキッリア派にしろ、彼らが主張するのは、ペプウザ村に、キュインティッラかプリスキッラか、わたしははっきり言うことができないが、とにかく彼女らの一人が、先に述べたとおり、ペプウザ村に眠っているが、クリストスが彼女のところへ到来したというのである、彼女がだまされて言っているところによればだが。<女の姿で、と彼女は主張している、白い長袍で身繕いして、クリストスはわたしのところにおいでになり、わたしの中に知恵を授け、この場所が聖なる地であること、そしてこのようにエルサレムが天より降下することをわたしに明かされたのである>。
それゆえ、彼らの主張では、この地にいたるまでも、女たちのみならず、男たちまでもが、かの地で秘儀を受ける、――彼女たちないし彼らは、逗留して、クリストスにまみえるためである。
18.
再び、今度は、古の預言者たちを中傷しようとして主張するのである、――彼ら〔古の預言者たち〕は、〔彼?彼女?の〕主張では、今でもフェニキア地方やパレスティナ地方の人たちに馴染みの仕方で預言すると。〔けれども、それが〕ユダヤ人たちやキリスト教徒たちの言葉と異なっているのか、それとも、預言者たちの特徴という点で、ユダヤふうに預言しているのかは、明らかにしないのである。
さらにまた、フェニキアやパレスティナの占い師たちの仕方を、ケルソス(Kelsos)は、聞き知った者、よくよく理解した者として、明らかにしようと公言しているから、それではいざ、われわれはそれにも留意しよう。まず初めに、預言の才には種々あると彼は言うのであるが、それを提示しない。それは、もちろん〔提示すべきものを〕持っていないからで、贅言を弄して虚言するのである。それでも彼は、この地方の人たちは最も完全であると主張する、――見てみよう。多くの人たちが、と彼は主張する、それも無名の人たちがきわめて易々と、偶然の原因で、神殿内においても神殿の外においても、ある人たちは耕作しながら、もろもろの都市や兵営地に通いながら、いかにも予知者のように興奮すると。しかし、こう言うのは誰にとってもたやすいことであるし、またおなじみのことでもある。「<われは神、あるいは神の子、あるいは神的な霊(Pneuma theion)である。われは来たれり。すでに世(kosmos)は滅び、あなたがたも、おお、人間どもよ、その不正(adikiai)ゆえに失せるがよい。されどわれは救おう。そして、天の力(ouraniou dynamis)の後、われが再び出現するのをあなたがたは眼にしよう。浄福なるかな、今わたしを礼拝するものは、他の人たちすべてには、もろもろの都市であれ、土地であれ、永遠の火を投げつけよう。そして、おのが贖罪を知らぬ人間どもは、むなしく後悔にくれ、嘆息するのみ。されど、わたしを信じる永遠の人たちは、わたしが守ろう>」。さらに、これに続けて彼は主張する。同じことをくどくど言って、不可知なこと、気違いじみたこと、まったくもって不明なことを次々と付け加えるのだが、それに対する決着の方は、こころ(nous)あるひとは一人もいないから、見つけ出すことができない。なぜなら、無知な者や詐欺師に対してなら誰にでも、好きなように言いつくろえるかも知れないが、言われたことを何ひとつわがものとしなかったのか、不分明なままだからである。
だから、彼は、批判に対して応酬しようとすれば、もろもろの預言をただ言説によって表明すべきであったのである。発言者が万能の神であると公言する場合であれ、神の息子〔と公言する場合〕であれ、発言者が聖なる霊(Pneuma)であると信じる場合であれ。そうしてこそ、はじめて、論争になり、述べられたことをひっくり返したり、もろもろのあやまちからの改心や、かつてあったことの証拠や、将来のことの予知をもたらす言説は、神がかったものではないことを示し得たはずであるのに……
『覚知者(Gnosticus)』
"t".
覚知者
ないし
覚知の有資格者に寄せて
1.
修行者たち(praktikoi)は修行の言葉を思考するだろうが、覚知者たちは覚知される事柄(gnotika)を見るであろう。
2.
魂の情動的部分のみを無心として所有する者は、修行者(prktikos)である。
3.
覚知者は、不浄な事柄には塩の言葉を、清浄な事柄には光の〔言葉を〕、堅持する者である。
4.
外部からわたしたちに結果する覚知は、言葉によって質料を示唆しようとする。しかし、神の恩寵によって内生する〔覚知〕は、ひとりでに、事象(これを理性が凝視する)を精神に現前させ、その〔事象の〕言葉を提示する。そして、第一の〔覚知〕に敵対するのが迷妄(plane)、第二の〔覚知〕に〔反対するのが〕怒りと気性である。<また、これらに付き従うものらもある>。
5.
覚知者にとっては、すべての徳が道を開いて進む。しかしそれら〔の諸徳〕を凌駕するのが、怒りを知らないこと(aorgesia)である。なぜなら、覚知に触れながら、怒りへとやすやすと動く人は、自分の両眼を鉄の留め針で刺し貫く人に似ているから。
6.
覚知者は、へりくだることによって安全たるべし、へりくだりが状態(hexis)となれば、われを失うことは決してない、そして、あらゆる徳を等しく常にまっすぐにするよう努めよ。〔諸徳が〕相互に、またそれ自身においても、内包し合うために。理性はより劣った〔徳〕によって裏切られるよう生まれついているがゆえに。???
7. 欠番
8.
覚知者にとって、不正される者に対してであれ、不正する者に対してであれ、裁判を求めることは恥ずべきことである。不正される者に対しては、堪えがたいゆえに、不正する者に対しては、不正したのだから。???
9.
覚知は、心に秘めておけば、それに与る者に、いかにすれば守護されるか、また、より大きく前進できるかを、教える。
10.-12. 欠番
13.
修道者たちや在俗の者たちにとって、正しい〔神の国の〕市民生活について対話すること、また、自然的あるいは神学的(theologike)〔生活〕の教説がいかほどあるのかを詳しく明瞭にすること、は義しい。これら〔の教説〕なくして、誰ひとり「主」を見ることはできない〔のだから〕。
14. 欠番
15.
時宜と生活と行動の言葉と律法を覚知せよ、各人にとって有益な事柄をやすやすと言うことができるために。
16.-20. 欠番
21.
けなされるべき面々の言葉を、比喩的に語ってはならず、そこに何か霊的なものを求めてもいけない、ただし、計画を通して「神」が活動しておられない場合は別である。例えば、バラム注5)やカヤパ注6)においてのように。それは、前者は創世に関して、後者はわたしたちの「救主」の死に関して予言するためである。
22.
覚知者は陰気な顔をしてはならぬし、近寄りがたい者であってもならない。一方は、出来事の言葉を知らぬ者のすることであるから。他方は、あらゆる人間は救われ、真理の開悟にいたることを望む者のすることではないから。
23. 欠番
24.
あなた自身に心を傾けなさい、――利得のためとか歓喜心(eupathein)のために、あるいはやがて来る栄誉ゆえに、何らかの禁句を云って、神域の囲いから投げ出されることの決してないように。それはあたかも、神殿の中にいるハトの子を自分で売り渡すようなもの。
25.-26. 欠番
27.
神について不用意に語ってはならない、断じて神性を限定してもならない。 なぜなら、生じたものらや構成物には、限界がないのだから。
28.
……〔欠損〕……
……というのは、悪を歩む者は悪を憎み、放棄の試みが内生すると……
29.
教授者たちをして、あなたに常に次のことを言わしめよ。「愛する者よ、上にのぼりなさい。なぜなら、あなたがのぼっているのに、聞く者たちによって再び引きずり降ろされることは、恥ずべきことだから」。
30.
愛銭家(philargyros)とは、金銭を持っているひとではなくて、それに執着するひとのことである。なぜなら、家令(oikonomos)は思量的財布(balantion logikos)と言われるのだから。
31.
老人たちは気性を、若者たちは胃を、支配するよう呼びかけなさい。なぜなら、前者には霊魂的な〔ダイモーン?〕たちが、後者には、たいてい、身体的なダイモーンたちが、挑戦するからである。
32.
そしる者たちの口からあなたの耳を塞げなさい。そうして、大多数の人たちに誹謗されても、驚いてはいけない。なぜなら、この誘惑者こそダイモーンたちに由来するのだから。覚知者は憎しみや遺恨から自由であるばかりでなく、望んでもならないのだから。
33.
「主」をとおして人間どもを癒しているひとは、自分自身を治療していることに、おそらく、気づいていないだろう。なぜなら、覚知者が手当てする薬は、富裕者はできるかぎり、自分自身は必然的に、〔これを覚知者は〕癒すからである。
34.-35. 欠番
36.
裁きに関するより高い言葉は、やすやすと軽蔑を生むからして、在俗者たちや若者たちに気づかれてはならない。なぜなら、無知の有罪判決を受けるであろう思量的魂の心痛(odyne)を知らないからである。
37.
聖パウロスは、身体をいじめぬいてこれを奴隷とした。だから、あなたの生活における生き方をゆるがせにしてはならず、ふとった身体で不動心(apatheia)を低くして、それ〔不動心〕を侮辱してはならない。
38.
食べ物や着物のことを思いわずらうな、むしろ、レビ人アベネールのことを記憶しなさい。彼は「主」の櫃を受け取り、貧乏人から富裕者、不名誉な者から有名な者となった。
39.-40. 欠番
41.
あらゆる前提(protasis)ないし類(genos)は、述語となるものとか、種差とか、種とか、固有性とか、付帯性とか、あるいはそれらから構成されたものを有する。しかし、聖なる「三位一体」においては、上述のものらを何ひとつとることができない。不可説なることは、沈黙に跪拝せしめよ。
42.
覚知者の誘惑者は、理性に関する虚偽なる把握(hypolepsis pseudes)である。現有するものを現有しないもののごとく、現有しないものを現有するもののごとく、現有するものが過去にあったようには現有しないと〔把握するところの〕。
43. 欠番
44.
観想そのものにも、四つの徳があると、義人グレーゴリオスからわたしたちは学んだ。それはすなわち知慮(phronesis)、勇気(andreia)、慎み(sophrosyne)、そして正義(dikaiosyune)である。彼が言うには、知慮の働きは、叡智的・聖的諸力を、言葉なしに観想することであるという。というのは、これら〔の言葉〕は、知恵によってのみ明らかにされると彼は伝授していたから。また、勇気の〔働き〕は、闘っているときも諸々の真実を持ちこたえ、非有(ta me onta)に陥らないことである。第1の農夫から種を受け取って、後から種蒔く者を追い出すことは、慎みの固有の〔働き〕であると彼は答えた。また、正義とは、今度は、各人に言葉をふさわしい仕方で引き渡す。すなわち、あることどもは暗く〔めくらめっぽうに〕述べ伝え、あることどもは謎をかけて暗示し、さらにいくつかのことは、より純真な人たちの益になるよう表明して。
45.
真理の柱は、カッパドキアのバシレイオスである。彼の主張では、人間に由来する覚知は、近似の専念(melete)や鍛錬(gymnasia)が強化する。しかし「神」の恩寵によって内生する〔覚知〕は、正義、怒りのないこと(aorgesia)、憐れみが〔強化する〕。また、前者〔の覚知〕は、情動的な人たちもこれを受けることが可能である。しかし第二の〔覚知〕を受けられるのは、無心の人たちのみである。この人たちは、祈りのときにも、自分たちを照らす光輝――理性のみずからの光輝を観想する。
カッパドキアのパシレイオス
46.
アイギュプトス人たちの聖なる光り輝くもの(phoster)はアタナシオス〔330頃-379〕である。彼の主張では、モーウセースは卓を〔幕屋の〕北側の方に置くよう下知したという〔出エジプト26_35〕。覚知者たちは、自分たちに逆らって吹くものが誰かを覚知せよ、そして、あらゆる誘惑者に対して、気高く持ちこたえよ、そして、願望をいだいて近づいてくる者たちを養え。
47.
トムイス人たちの教会の御使いサラピオーンが言った、――理性は霊的覚知を飲むと、最終的に浄化され、愛は、気性の炎症を起こした患部を治療する。しかし、もろもろの邪悪な欲望を乗り切ってしっかり立つのは、節制(enkrateia)である。
48.
先慮(pronoia)や、あなた自身に対する裁きに関する言葉を常に鍛錬せよと、偉大な覚知した教師ディデュモスは主張する、それらの〔言葉の〕資料を記憶に保持するよう努めよと。なぜなら、ほとんどすべての人たちが、それに躓くから。また、裁きに関する言葉は、身体や飾りの違いの中にあなたは見出すであろう。先慮に関する〔言葉〕は、悪や無知に起因する性格の中に〔あなたはこれを見出すが、この言葉が〕徳へ、あるいは、覚知へと、あなたがたを導く。
49. 欠番
50.
原型(archetypon)を見つめて、諸々の似像(eikon)を書くようわたしはいつも努めた。成就したことの何ひとつも漏らさず、失った〔似像〕を獲得するために。
歴史に見る奇跡
砂漠に水湧きて その1
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