2011/7/5
「啓蒙主義と魔術 その6」
三菱フリーメーソン説B
さて次の章に移る前に、高橋是清が募集した第2回4分利付英貨公債がその後どうなったか見ておこう。
この第2回4分利付英貨公債が昭和5年5月に、5分半利付英貨公債ならびに5分半利付米貨公債に借り換えられたことはすでに述べた。
満州事変勃発以来終戦に到るまで、新規外債の募集は行われなかった。
日本は国際資本市場から隔絶するに到ったから、例え、募集の意志があったにしても、実現不可能な情勢におかれたのである。
言い換えれば、満州事変勃発時点で日本の敗戦への道筋は決定していたということになる。
戦争に負けるであろう国に金を貸す程、英米銀行家もお人好しではあるまい。
したがって、政府外債としてはこの昭和5年5月の5分半利付英貨公債ならびに5分半利付米貨公債、また、民間債としては、昭和6年7月、台湾電力株式会社5分半利付米貨公債の発行が最後であった。
昭和16年(1941)12月太平洋戦争突発当時における外貨債の未償還額は、国債においては米貨債1億5265万ドル余、英貨債7714万ポンド、仏貨債8934万フランであった。
これに地方債および社債の分を合わすと、米貨債2億8334万ドル、英貨債8844万ポンド、仏貨債3億3716万フランであった。これを、仏貨債は除いて、米・英貨債だけについて、当時の為替相場により換算すると、約27億円に上っていた。
しかし、このうち約半額の13億6000万円は日本人所有のものであって、他の半額13億4000万円が連合国人所有のものと推定された。
昭和18年(1943)年1月、第81議会に外貨債処理法が提出され、2月25日両院を通過して、3月15日公布施行された。
この処理法に基づいて、外貨債は大部分、昭和18年9月15日をもって邦貨債に借り換えられるか、または政府においてその元利払義務を承継し、したがって、物上担保等原契約の効力は抹殺されることになった。
かくて、邦貨国債に借り換えられた外貨国債の額は、米貨債は1億3100万ドルで、その未償還額の85.9%、英貨債は2500余万ポンドで、その未償還額の33.1%にあたり、邦貨換算計7億400余万円が3分半利国庫債券に借り換えられたのである。
外貨地方債および社債も、国債同様に、邦貨地方債および社債に借り換え、また、発行者またはその承継者手持ちの自己債については消却されたのであるが、借換または消却されなかったものは、一括して政府において元利払義務を承継した。
終戦時の昭和20年8月末の累計国債残高は1233億円(日華事変、太平洋戦争中の発行高は1059億円)、昭和20年までは1439億7188余万円である。
うち内国債は1399億2446余円、国債総額に占める割合は97.2%、外国債は8億8742万余円、0.6%である。
内国債がいかに巨額な数字であるかは、当時の国民所得が900億円であることからも窺い知ることが出来る。
ではこの内国債は終戦後、どのように処理されたのであろうか。
結論を簡単に述べると、戦後インフレ−ションによって、累積債務は目減りしたのである。
昭和20年度末から昭和26年度末の間に政府債務総額は3.24倍に増加しているが、物価はおよそ30倍になっている。
したがって、昭和26年度末残高の実質値は、昭和20年度残高の11%の大きさに減少している。
内国債だけについてみると、6.3%に過ぎない。
結局、政府は債務者利得を獲得し、国債保有層は大きな損失をこうむった。
戦後インフレ−ションは零細な個人保有層に大きな打撃を与えた。
もちろん、金融機関も債権者損失を被った。
国債の大量保有がインフレ下の金融機関の浮沈の一因をなしたのである。
外貨債については、元本、利子共、支払時期を繰り延べて支払うことで、昭和27年9月26日にアメリカとイギリスの債権者代表との間で協定の調印をみた。
4分利付仏貨公債については、元利払いと平行して、500フラン証券一枚につき9496フランで買い入れをおこなうこととして、昭和31年7月27日、日仏間で締結をみた。
英米仏ユダヤ金融財閥はやはりただ者ではなかった。貸した金はきちんと取り立てているのだ。
それでは、彼らは何故日本に金を貸すことをしたのであろうか。商売のためか。
そうではない。
この資金は日本政治のコントロ−ルに使われたのである。
外貨債として、国債、地方債の他に社債がある。
台湾電力、大同電力、東邦電力、信越電力、日本電力、東京電灯等、電力会社に外資が入っているのだ。
このことの意味するところは何か。
普通、電力と聞けば電灯をつけることぐらいしか思い浮かばないかも知れないが、電気は工業動力としても使われるのである。
そしてこの時期に工業の発展を支えたのは、戦争であった。
つまり日本の電力事業は、戦争とともに発達したのである。
逆にいえば、重化学工業や電力事業を急発展させるためには、戦争という非常事態が必要だったわけである。
これは、兵器の進歩についても当てはまる。
第2次世界大戦がなければ、原爆など開発出来なかったに違いないからだ。
英米両国が日本の電力会社に金を貸したのも、日本に戦争の準備をさせるためであったのだ。
この金は電力会社の人事も左右した。
「当時財界の問題になっていた東京電灯株式会社の整理が行悩みとなり、6月15日払いの同社外債利払いについて、来日中のアメリカ、ガランチー・トラスト商会のウオーカーから、はなはだ悲観的な通信があった。同社取締役会長にしてモルガン商会の首席パートナーたるラモント(当時ロンドン滞在中)から、右社債の利払が不能なときは新起債の所作もむずかしいから、その利払確保に対し政府の責任ある言明を求めるという照会がきた。井上蔵相は、ただちに東電当局その他関係方面の意見を徴したところ、利払送金の実施はもとより、将来の会社経営の人的方面についても、蔵相は、ウオーカーから承認を得た案にまとまり、また配当率についても、双方譲歩的な具体案が進められるに至ったことを知った。以上のほか、会社整理案関係方面から得た印象によって、井上蔵相は、関係者が会社経営の改善、配当率の引下げ、将来に対する資金調達策につき全力を傾注していたので、その整理案の実現確実なりと認め、したがって社債の利払等にも支障をきたすことのないことを確信し、その旨ラモントの覚え書に対する回答文を送った。その結果、ウオーカーならびにラモントの満足を得、ようやく問題は解決の運びに至って、発行の所作を再開しえた」(『国債』)
この時東電に外資を導入するのに便宜を与えた人物が、三井の池田成彬であった。
国債や地方債への外資の導入も同様に、英米による日本政界のコントロ−ルに寄与したであろうことは、想像に難くないのである。
連邦準備制度
これまでの話で、太平洋戦争は某財閥とその手先である政治家が結託して引き起こしたものであったことがお分かりになったと思う。
そしてその財閥や政治家に海外から指令を下していたのが、英米ユダヤ金融財閥であった。
彼らは日本の外債を引き受け、日本に金解禁を強要し、大恐慌を引き起こして日本を未曾有の不景気の中に投げ込んだ。
そして愚かな軍人を煽って、日本を地獄の戦争へと駆り立てていったのだ。
彼らは顔の見えない透明人間ではない。日本の外債を引き受けた銀行名は分かっている。
パース銀行、香港上海銀行、横浜正金銀行、ロスチャイルド商会、ロスチルド商会、ウェストミンスター銀行、ベアリング・ブラザーズ商会、モルガン・グレンフェル商会、シュレーダー商会、J・P・モルガン商会、クーン・レーブ商会、ナショナル・シティー商会、ファースト・ナショナル銀行である。
これらの銀行を動かしている人物を探ることで、戦争犯罪人の名前を明らかにすることが出来る。
その前に、ある重要な事実について述べなければならない。
英米ユダヤ金融財閥は海外にいて日本政治・経済を遠隔操作するだけではなくて、日本国内に自らのエージェントをしっかり送り込んでいたのである。
1931年に満州事変が勃発したが、その翌年にジョゼフ・グリューが駐日アメリカ大使として着任している。
そして満州事変勃発の年に、ロンドンから駐日イギリス大使として着任したのが、フランシス・リンドレーであった。
リンドレーは日露戦争の日本勝利の翌年に当たる1906年に東京へ来た経歴がある。
シフやロスチャイルドが日本に大金を貸し付けたので、その返済の裏交渉に走りまわるため、表向きはイギリスの外交官として2年間も滞在していた。
そして1931年から34年まで、今度はグリューと欧米連合を組む形で、正式の大使として活動した。
満州事変直後に、日本はアメリカからモルガン家の一族グリュー大使を迎え、イギリスからロスチャイルド家の一族リンドレー大使を迎えていたが、その両人とも、「モルガン・グレンフェル」の代理人であったのだ。
それでは、日露戦争時の第1回6分利付英貨公債1000万ポンドの半分、500万ポンドを引き受けて高橋是清を喜ばせたクーン・レーブ商会の首席代表者シフとは何者であろうか。
クーン・レーブ商会の創設者は、サミュエル・クーンとソロモン・レーブである。
この両家のファミリー・ネームを組み合わせてクーン・レーブ商会となった。
また、クーン家の娘イーダと、レーブ家の息子モリスが結婚して一族となっている。
このソロモン・レーブの娘テレサと結婚したのが、ユダヤ人ジェイコブ・ヘンリー・シフであった。
シフはロスチャイルドの本家フランクフルトで1847年に生を受けた。
シフ一族は早くから金融業を営んでいた。
ロスチャイルド家の初代マイヤ−・アムシェルがまだ40代の頃、引っ越した家が「緑の楯」と呼ばれる建物で、内部が二つの区画に分かれていた。
その一方に「赤い楯」ロスチャイルド家が移り住んだ時、もう一方の隣家には、扉に「舟」の絵を掲げたユダヤ人家族が住んでいた。
舟をドイツ語でシフと言うが、この家族がジェイコブ・シフの祖先であった。
フランクフルトのゲットー以来、ロスチャイルド家とシフ家ほど親密な家族はなかったという。
シフは18歳の時アメリカへ移住し、クーン・レーブ一族となってからは、鉄道事業で商会を成長させ、パートナー(重役)としてオットー・カーン、ワーバーグ銀行のポール・ワーバーグ、フェリックス・ワーバーグらを迎えて、国際投資銀行としての地歩を築いていった。
さてこの辺でシフの系図を描いてみよう。
シフはワーバーグ家と姻戚関係にあるだけでなく、ワーバーグ家を通じてルーズヴェルト大統領やアスター家と繋がっていたのだ。
この系図にあるワーバーグ一族のポール・ワーバーグが、アメリカの中央銀行である連邦準備制度を創設した人物である。
彼は1902年にアメリカに移住し、クーン・レーブ商会に入っている。
その兄弟のフェリックス・ワーバーグも1894年にアメリカに移住してクーン・レーブに加わっている。
ポール・ワーバーグは、クーン・レーブ商会の故ソロモン・レーブの娘、ニーナ・レーブと結婚した。
フェリックス・ワーバーグは、ジェイコブ・シフの娘、フリーダ・シフと結婚した。
1918年12月12日のワーバーグに関する合衆国海軍諜報部報告は次の通りである。
「ポール・ワーバーグ…ニューヨーク市。ドイツ人、1911年市民権獲得。1912年ドイツ皇帝から受勲。連邦準備制度理事会の副議長。レーニンとトロツキーのためにドイツから供給された巨額の資金をとり扱う。ドイツのスパイ網の指導者である兄弟をもつ」
この兄弟とはマックス・ワーバーグのことである。
マックスはドイツ諜報機関の代表としてレーニンの列車が国境を通過し、ロシアでボルシェヴィキ革命を実行することを認可した。
マックスは、ヴェルサイユ講和会議(1919)でドイツの代表を務め、1924年から1933年までドイツ帝国銀行の監査役になっていたが、ユダヤ人ゆえに1938年アメリカに移住した。
ポール・ワーバーグは1931年に上院銀行通貨委員会で、自分の経歴について次のように述べた。
「私はクーン・レーブ商会の一員です。ドイツのハンブルクで生まれ、銀行業務の教育を受け、ロンドンとパリで銀行業を学び、世界中を歩いたのちに、1902年にこの国に来ました。1907年の恐慌のなかで私が最初に提案したことは、『公的な手形交換所を設立する』ということでした。オールドリッチ計画は銀行業の基本的なルールとなるいくつかの条項を含んでいます。諸君のこの計画(オーウェン−グラス法案)の目的も同じはずです。それは、準備金の集中、商業信用の流通、そして弾力的な紙幣発行の実現です」
ここに述べられている、1907年の恐慌が通貨改革が不可欠であるという世論を形成したのだ。
しかしこの1907年の恐慌は、1873年と1893年の恐慌と同じように、仕組まれたものであった。
ニッカボッカー銀行とアメリカン・トラスト・カンパニーが支払不能の状態にあるという噂が、1907年のパニックの発端となった。
モルガンがこのパニックに勢いをつけたのである。
噂を広め、その結果、ライバルの銀行を潰し、モルガンの勢力下にある諸銀行の優越性を強化するために、1907年秋の不安定な状況を利用したのだ。
1907年のパニックが与えた教訓は、合衆国は中央銀行組織を本当に必要としているというものであった。
モルガンの演出でパニックが起きた1907年には、ポール・ワーバーグはほとんど毎日、「銀行改革」の必要性について書いたり、講演をしていた。
ワーバーグはこの「銀行改革」を促進するさいに、モルガンの上院における踏み台役として知られるネルソン・オールドリッチに支持された。
オールドリッチの娘アビーは、ジョン・D・ロックフェラーJr.と結婚した。
1907年のパニック後、オールドリッチは国家通貨委員の長に任命された。
オールドリッチとその仲間は、銀行制度についての技術的な知識は何も持っていなかったにもかかわらず、中央銀行制度を研究するため約2年にわたる海外旅行を行い、ヨーロッパの中央銀行のオーナーとの飲食に30万ドルの税金を使った。
この委員会がヨーロッパから戻った後、2年近くの間、公式の会合はまったくもたれなかった。
記録によれば、委員会は審議会として機能したことはなかったことを示している。
唯一の「会議」はジキル島で開かれた秘密会合であり、この会議は委員会のどの刊行物にも記録されていない。
1910年11月22日、国家通貨委員会の委員長であるネルソン・オールドリッチ上院議員に率いられた金融業者の代表団が、ニュージャージー州ホーボーケンの駅から秘密の目的地・ジョージア州ジキル島に向けて列車で出発した。
オールドリッチ上院議員の同伴者は、彼の個人秘書のシェルトン、財務次官補であり国家通貨委員会の特別補佐官でもあったA・ピアット・アンドリュー、ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークの頭取フランク・ヴァンダーリップ、J・P・モルガン商会の上席パートナー(共同経営者)であると同時に、一般的にはモルガンの個人的な使者と見られていたヘンリー・P・デーヴィソン、モルガン−デノミネイテッド・ファースト・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨークの頭取チャールズ・D・ノートンであった。
J・P・モルガンの上官代理としても知られるベンジャミン・ストロングと、クーン・レーブ商会に年棒50万ドルのパートナーとして入社したポール・ワーバーグの二人は、列車が駅を出発する直前に一行に加わった。
このジキル島の秘密会議で、中央銀行設立が決定された。
肝心なのは、ポール・ワーバーグが仲間に伝えたように「中央銀行」という名称を避けることであった。
アメリカでは、国民を苦しめてきた中央銀行に反対する長い闘争の伝統があった。
そのため彼は「連邦準備制度」という名称に決定したが、これは、国民に中央銀行でないと思わせて欺くためであった。
ジキル島の会議後、通貨委員会とオールドリッチ法案に関する報告書が完成した。
ワーバーグは法案を連邦準備制度と名づけることを提案した。
しかしオールドリッチは、自分の名前のついていない法案が提出されれば、疑いが生じるといって、オールドリッチ法案とするよう主張した。
しかしオールドリッチ法案は議会で投票に付されることはなかった。
共和党は1910年に下院の統制力を失い、続いて1912年には上院と自党の大統領を失ってしまったからである。
そのため、新しい戦略が工夫されなければならなかった。
さて、オールドリッチ法案はウォール街工作と同一視され、民主党員が強力に反対することが予想されるために国会を通過させることが困難であった。
一方、民主党の議会に支持された民主党の候補者が大統領に当選すれば、中央銀行計画を通過させることが出来ると予想された。
このためのチャンスは、1912年の大統領選挙の時にやってきた。
現職のウィリアム・ハワード・タフトは人気のある大統領であった。
そしてタフトの共和党は、両院の共和党多数派を通じて政権をしっかりと握っていた。
一方、ニュージャージー州知事の民主党候補者ウッドロー・ウィルソンは、まったくの無名であった。
タフトが再選されることは確実視されていた。
ところが突然、共和党の元大統領セオドア・ルーズヴェルトが大統領に立候補すると発表したのである。
ルーズヴェルトはタフトの票に大きく食い込んだ。
その結果、タフトの敗北は避けがたいものとなり、ウィルソンが勝利した。
しかしこの選挙は結局のところ、茶番に過ぎなかった。
共和党、民主党両党とも綱領には通貨改革法案を含んでいた。
後にウォール街計画として糾弾されたオールドリッチ法案を、民主党は連邦準備法と書き改めていた。
どちらの政党も、これらの法案が名前以外はほとんど同一であることを国民に知らせようとはしなかった。
オールドリッチ法案が全国的な恨みと反対を喚起した後に、連邦準備法をまとめた人物はポール・ワーバーグであった。
そしてこれら二つの計画の黒幕は、ロンドンのアルフレッド・ロスチャイルド男爵であった。
銀行家たちはこれら3人すべてに資金協力していたので、誰が大統領になっても良かったのだ。
後に議会の証言で、クーン・レーブ商会では、フェリックス・ワーバーグはタフトを、ポール・ワーバーグとジェイコブ・シフはウィルソンを、そしてオットー・カーンはルーズヴェルトをそれぞれ支援していたことが明らかになった。
銀行家たちはタフトを見捨て、ルーズヴェルトを民主党勝利の道具として利用した。
ルーズヴェルトの背後には、モルガンの代理人フランク・マンシーとジョージ・パーキンスが控えていた。
彼らはルーズヴェルトのスポンサーとなり、ルーズヴェルトの話を前もって調べあげ、ウォール街の人々の援助を引き出して、反タフト運動という仕事を全部引き受けたのである。
パーキンスとJ・P・モルガン社こそ、革新政党の実体であり、他はすべてその飾りだった。
ルーズヴェルトの選挙資金の大半は、このモルガンの二人の代理人によって作られたのである。
一方、民主党の候補者ウッドロー・ウィルソンも、また同様にモルガンの「所有物」だった。
ニュージャージー州知事であり、前のプリンストン大学総長のウッドロー・ウィルソンは、オールドリッチ法案のスポークスマンとして積極的に協力させられた。
1907年の恐慌の時、ウィルソンは次のように言明した。
「わが国の出来事を手掛けてもらうために、J・P・モルガンのような6〜7人の大衆的な精神をもった人々からなる委員会を任命していたら、このような全ての混乱は回避できたであろう」
J・P・モルガンのような大金持ちが大衆的な精神をもっているとは、正に驚くべき発言である。
ウィルソンは大統領候補に指名される前まで、約20年間、ウォール街の裏道を蠢いていたという。
このウィルソンをかげで操ったのが、エドワード・マンデル・ハウス大佐であった。
ハウス大佐はアメリカ南部に住むイギリス金融利権代表者の息子であり、イギリスで教育を受けた。
もともとはオランダの出身であったが、彼の祖先はイギリスに300年間住み、後に彼の父がテキサスに定住した。
そこで彼の父は南北戦争のあいだ密航船で財を成した。
ロスチャイルド家を含む英国の有力なコネクションに対して綿やその他の禁輸品を輸送し、包囲されていたテキサス人たちに商品を持ち帰った。
ハウスの父は、テキサスの不安定な状況を信頼せず、密航船から上がった利益をすべてロンドンのベアリング商会(アヘン貿易の主要マーチャント・バンク)に金として慎重に預けた。
そして南北戦争の終了時には、テキサスで最も富裕な人間の一人となっていた。
彼は、仕事仲間にならって、息子を「マンデル」と名づけた。
「大佐」とはハウスが名誉職として用いた名前であって、彼は一度も兵役についたことはなかった。
彼は多くの歴史家によって、ウィルソン在任中、合衆国の真の大統領と記された人物である。
ウィルソンが大統領になる前の1911年にハウスはテキサスの故郷に戻り、『統治者フィリップ・ドルー』という本を書いた。
体裁は小説であるが、実際には将来の合衆国政府に対する詳細な計画であり、「カール・マルクスによって描かれた社会主義を成立させるもの」であった。
この「小説」は、累進所得税、過剰利益税、失業保険、社会保障、そして弾力的な通貨制度の導入を予言していた。
『統治者フィリップ・ドルー』の中で概観されている機関の一つは、連邦準備制度である。
シフ家、ワーバーグ家、カーン家、ロックフェラー家およびモルガン家はハウスを信頼していた。
連邦準備法がついに一定の形となるにあたって、ハウスはホワイトハウスと金融家たちの間の仲介役であった。
ハウスは8年間にわたって大統領の最も親しい相談役になった。
後に彼はフランクリン・D・ルーズヴェルト政権においても影響力を持ち続けた。
ルーズヴェルト政権は実際にはウィルソン政権の継続であり、ほとんど同じ人事のまま、舞台裏からハウスに政権を指導してもらっていた。
連邦準備法の真の目的を国民に隠蔽するために、オールドリッチ法案の作成者たち、すなわち元上院議員ネルソン・オールドリッチとナショナル・シティ・バンク頭取のフランク・ヴァンダーリップは、連邦準備法案に対して激しい非難の声をあげた。
しかし連邦準備法の内容はオールドリッチ法案とまったく同じものであった。
連邦準備法が国民のための法であるという幻想を大衆に与えるために、銀行家たちは悪役であるオールドリッチとファンダーリップに、連邦準備法案を非難させたのである。つまり、猿芝居を演じさせたわけだ。
これから20年ほどしてファンダーリップは、「さて、連邦準備計画がオールドリッチの名前をもっていたとき、その計画は崩れたけれど、その中にはその後実現した本質的なものはすべて含まれていた」と告白している。
グラス法案(最終的な連邦準備法の下院版)は、287対85で1913年9月18日に下院を通過した。
1913年12月19日、上院は54対34の票数で上院版を可決した。
下院版と上院版には40以上もの調整されるべき重要な相違点が残されたままになっており、議会両院の法案に対する反対派は、両院協議会の調整案が整うまでには相当の期間が費やされるものと信じていた。
議員たちは、調整案は翌年まで提案されないであろうことを確信し、例年のクリスマス休会のためにワシントンを離れる準備をしていた。そこで協議員たちは、たった一日で法案の40の争点すべてを均してしまい、即座に投票に持ち込んだ。
1913年12月22日の月曜日、法案は下院282対60、上院43対23で可決したのであった。
クリスマス前の一週間は重要な法律を議決すべきではないというのが長年の政治的慣例であった。
しかしこの伝統は、合衆国国民に対して連邦準備法という犯罪を行うために無作法に破壊されたのである。
後にこれは「クリスマスの大虐殺」として知られるようになる。
採決後、有名な飛行士の父であるチャールズ・A・リンドバーグSr.は、議会で次のように述べている。
「本法は地球上で最も巨大なトラストを創設する。大統領が本法に署名したとたん、金融権力による見えざる政府が合法化されるであろう。これは偽装したオールドリッチ法案である・・トラストがインフレーションを欲するときはいつでも、新法がインフレーションを起こすだろう」
連邦準備法はマネー・トラストに対する民主主義の勝利として賞賛され、そして現在でも依然として賞賛され続けている。
しかし、真実はその逆であった。連邦準備法において彼らは、通貨を発行し、その価値を統制する憲法上の権利を国民からもぎ取り、自分たちのために確保したのだ。
連邦準備ができあがれば、景気と恐慌の循環はもはやないだろうという保証がなされた。
その舞台裏で国際的な銀行家たちのために中央銀行計画を貫徹した人々は、「いまや恒久的な成長と、前進する福祉があるのみだ」と約束したものである。
しかし、チャールズ・A・リンドバーグSr.議員は辛辣にも、「今からは恐慌が科学的に作りだされるようになった」と宣言した。
中央銀行を利用してインフレとデフレを交互に作りだして、国民の大きな利得を押さえるという方法は、いまや国際的な銀行家たちの手によって精密科学にまで仕上げられているのだ。
ウィルソンは1913年12月23日に連邦準備法に署名した。
ウィルソンによる連邦準備法の署名は、彼の親密な友人ハウス大佐とポール・ワーバーグの長年にわたる共謀の頂点を示していた。
ウィルソン政権においてハウスが知り合った連中の一人に、海軍副長官のフランクリン・D・ルーズヴェルトがいた。
1920年代の共和党の亀裂の後、ルーズヴェルトはウィルソンが遂行できなかった『統治者フィリップ・ドルー』の目的を果たした。
後のルーズヴェルトの業績には、社会保障計画、過剰利益税、累進所得税率の90%までの引き上げの法制化が含まれていた。
ワーバーグは、「中央銀行」という名はどうしても避けなければならないと強調した。
そこで、州の様々な行政区に4つ(その後に12になる)の部局を持った地区準備制度計画が採決された。
特権を与えられた12の都市は、金融の中心地として途方もなく重要となるので、所在地の選定には多くの政治運動が作用した。
ニューヨークがアメリカの金融市場であったので、ニューヨーク連邦準備銀行が12の地区銀行制度の本源となった。
リッチモンドが次の選定地であった。
これは、連邦準備法のために政治的功績のあった二人のヴァージニア人、カーター・グラスとウッドロー・ウィルソンへの見返りであった。
委員会によるその他の選定地は、ボストン、フィラデルフィア、クリーヴランド、シカゴ、セントルイス、アトランタ、ダラス、ミネアポリス、カンザスシティ、そしてサンフランシスコであった。
この選定の結果、これらの全ての都市は後に重要な「金融地区」として発展した。
モルガン所有のバンカーズ・トラストの頭取ベンジャミン・ストロングがニューヨーク連邦準備銀行の初代総裁として選出された。
ストロングのもとで、準備制度はイングランド銀行及びフランス銀行との連動関係を確立した。
ベンジャミン・ストロングは、1928年の突然の死までニューヨーク連邦準備銀行総裁の地位を維持した。
ストロングの死去は、1929年から1931年までの大恐慌を引き起こすことになった連邦準備銀行の総裁たちとヨーロッパの中央銀行の指導者たちの間の秘密会議に関する議会調査の期間中であった。
ストロングはバンカーズ・トラストの頭取の娘と結婚した。彼はまた、最初のジキル島グループのメンバーでもあった。そのために彼は、制度全体を支配するニューヨーク連邦準備銀行総裁として、連邦準備制度の中で最高の地位を与えられた。
ウィルソンが連邦準備制度理事に選んだ人物は、プリンストン大学の評議員で、インターナショナル・ハーベスターなどの企業の重役トーマス・D・ジョーンズであった。
それ以外の理事は、ロックフェラーのシカゴ大学とモルガンのハーバード大学出身のエコノミストで内務副長官をつとめるアドルフ・C・ミラー、以前に財務副長官として8年間務めたことのあるチャールズ・S・ハムリン、ルーズヴェルト家の親戚でクーン・レーブ商会のために多くの鉄道を乗っ取った鉄道経営者のF・A・デラノ、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・アトランタの頭取W・P・Gハーディング、及びクーン・レーブ商会のポール・ワーバーグであった。
では、連邦準備銀行の株式を所有しているのは誰であろうか。
その前に一言述べて置かなければならないが、連邦準備銀行は民間の株主によって所有されているので「連邦」ではなく、準備金を所有する代わりに通貨を創造する目的を持っていたので「準備」でもなかった。
ちなみに日本の中央銀行である日銀は特殊法人である。出資証券のうち、55%が大蔵大臣の所有で、45%が民間(金融機関、法人、個人)の所有である。出資者の議決権はない。
従って日銀の金融政策を動かしているのは日銀総裁と大蔵大臣ということになる。
連邦準備銀行は日銀と異なり、100%民間の所有なのである。
最初の12地区の連邦準備銀行の株式は、それぞれの地区の国法銀行(連邦政府の認可を受けた商業銀行)が購入した。
ニューヨーク連邦準備銀行が金利を設定し公開市場操作を指揮することによって合衆国の通貨の日々の供給と価格をコントロールしたので、制度全体の真の支配者はニューヨーク連邦準備銀行の株主である。
ニューヨーク連邦準備銀行は20万3053株を発行し、1914年5月19日に通貨監督官が登録したように、大手のニューヨーク市の銀行が発行株数の過半数を取得した。
ロックフェラーが支配するナショナル・シティ・バンクは3万株で、他の銀行と比較して最大の株数を取得した。
J・P・モルガンのファースト・ナショナル・バンクは1万5000株を取得した。
この二つの銀行が1955年に合併したとき、単独でニューヨーク連邦準備銀行の4分の1近くを所有し、制度全体をコントロールした。
チェース・ナショナル・バンクは6000株を取得した。
後のマリーン・ミッドランド・バンクであるマリーン・ナショナル・バンク・オブ・バッファローは6000株を取得した。
この銀行は、ナイアガラ電力会社とその他の大企業を支配していたシェールコフ一族が所有していた。
ニューヨーク市のナショナル・バンク・オブ・コマースは2万1000株を取得した。
これらの同業者連は近年になって合併したり統合したので、コントロールはさらに集中している。
ナショナル・バンク・オブ・コマースは現在のモルガン・ギャランティ・トラストである。
リーマン・ブラザーズはクーン・レーブ商会と合併し、ファースト・ナショナル・バンクはナショナル・シティ・バンクと合併した。
その他の11の連邦準備地区では、同一の株主がこれらの銀行の株式を間接的に所有するか、もしくは支配している。
その他の株式はそれらの地区の主要産業を所有または支配している主要一族によって所有されている。
だがこのアメリカの大銀行も、実はロンドンのコントロールを受けていたのだ。
イギリスは第二次世界大戦後に広大な植民地を失ったので、政治的、軍事的な力は衰えた。
しかし、それに反して金融的な力は成長したのである。
あらゆる角度から見て、ロンドンは世界の指導的な金融センターである。
合衆国の10大銀行持株会社は特定の銀行の手中にしっかりと握られ、そのすべてはロンドンに支店を持っている。
それは、J・P・モルガン商会、ブラウン・ブラザーズ・ハリマン、ワーバーグ、クーン・レーブそしてJ・ヘンリー・シュローダーである。
これらすべては、主に金価格の操作を通して国際金融市場をコントロールするロスチャイルド家と密接な関係を維持している。
世界の金価格は毎日、N・M・ロスチャイルド商会のロンドン事務所で決定されている。
ロンドン・コネクションの証明として、J・P・モルガン商会を取り上げてみよう。
J・P・モルガン商会はジョージ・ピーボディ商会としてスタートした。
マサチューセッツ州のサウス・ダンヴァースに生まれたジョージ・ピーボディ(1795〜1869)は、1814年にジョージタウンDCでピーボディ・リグス商会として事業を開始し、衣類の卸売りとジョージタウン奴隷市場の運営を行った。
1815年、供給源に近づくためボルチモアに移り、そこで1815年から1835年までピーボディ・アンド・リグスとして営業した。
ピーボディは徐々にロンドンに源を発する業務に係わるようになり、1835年にジョージ・ピーボディ商会をロンドンに開設した。
ボルチモアの会社であるブラウン・ブラザーズを通じて、ピーボディはロンドンのビジネスにうまく参入した。
アイルランド生まれのアレクサンダー・ブラウンは1801年にボルチモアに移り、合衆国最古の銀行として知られ、いまも営業しているブラウン・ブラザーズ・ハリマン・オブ・ニューヨーク、ブラウン・シップレイ・アンド・カンパニー・オブ・ロンドン及びアレックス・ブラウン・アンド・サン・オブ・ボルチモアを設立した。
元合衆国大統領ジョージ・ブッシュの父、プレスコット・ブッシュは長年にわたってコネチカット州選出の上院議員であり、重役であったコロンビア・ブロードキャスティング・システム(CBS)の金融のまとめ役であり、ブラウン・ブラザーズ・ハリマンのパートナー(重役)でもあった。
ブラウン家は投機事業の資金をロンドン・シティーからウォール街へ送り込み、アメリカで行われた全ての事業が、ロンドンによって支配されていた。
この「ブラウン・シップレイ社」の重役室に席を占めて君臨したのが、モルガン・グレンフェルの創立者エドワード・グレンフェルであった。
ブラウン・シップレイ社は、1970年代に投資銀行メリル・リンチに買収される形を取りながら、現在は世界一のマーチャント・バンカーとして全米に君臨している。
イングランド銀行総裁を務めたモンタギュー・ノーマン(1871〜1950)がブラウン・シップレイ・アンド・カンパニーのパートナーであった。
ブラウン・シップレイの役員の一人がイングランド銀行の理事を兼務するというのが非公式の了解事項であった。
ロンドンでネイサン・マイヤー・ロスチャイルド男爵(1777〜1836)の支援を受けたピーボディは、商売人として非常に成功した。
彼のアメリカの代理店は、J・P・モルガンの父親であるジュニアス・S・モルガン(1813〜1890)が代表を務めるビーブ・モルガン商会というボストンの会社であった。
ピーボディは結婚しなかったので、後継者がいなかった。
ピーボディは、1854年にジョージ・ピーボディ商会のパートナーとしてロンドンで自分と一緒にやらないかとモルガンを説得した。
ジュニアス・S・モルガンはN・M・ロスチャイルド商会との内密な関係の継続に同意し、まもなく合衆国への大規模な鉄道用の鉄の輸送によって会社の活動を拡大した。
1864年に引退し、会社をモルガンの手に残すことにしたピーボディは、社名をジュニアス・S・モルガン商会へと変更することを認めた。
モルガンの会社はそれ以来常にロンドンからの指示を受けるようになった。
1857年の恐慌で、絶望的になったアメリカの投資家が証券を市場に投げ売りすると、現金を持っていたピーボディとモルガンは実質的な価値を持つ債券を大量に購入し、市場が正気に戻った時に高値で売り抜けた。
その背後にはネイサン・マイヤー・ロスチャイルド男爵がいた。
ヨーロッパのロスチャイルド家は合衆国ではJ・P・モルガン商会の陰に隠れて匿名で操作することを選んだ。
J・P・モルガンは、最初の合衆国の金融恐慌の真っ只中の1837年に生まれた。
この恐慌はロスチャイルド家によって引き起こされた。
1890年に初代のモルガンがリヴィエラでの馬車の事故で亡くなると、J・P・モルガンが企業の頂点に立った。
1864年から1871年までロンドン企業のアメリカ代理店としての業務をダブニー・モルガン商会で行ったのち、モルガンは1871年にフィラデルフィアのアンソニー・ドレクセルを新しいパートナーとして迎え入れ、ドレクセル・モルガン商会として1895年まで業務を行った。
ドレクセルはその年に亡くなり、モルガンはアメリカの支店の名前をJ・P・モルガン商会に変更した。
次に、ロックフェラー所有のナショナル・シティ・バンクについて見ていこう。
ナショナル・シティ・バンクはファースト・ナショナル・バンク、ナショナル・バンク・オブ・コマースとともに、ニューヨーク連邦準備銀行の大半の株式を購入した。
1800年代の初期、シティ・バンクと関連した最も有名な人物はモーゼス・テイラー(1806〜1882)であった。
テイラーの父は、ジョン・ジェイコブ・アスター(1763〜1848、ドイツ生まれの毛皮商人・資本家)が購入者であるという事実を隠しながらアスター家の利益のために不動産を買う秘密代理人であった。
アスターはマンハッタンの将来性のある価値の高い多数の不動産を買うことに成功した。
アスター家の富も、イギリスの対中国アヘン貿易で築かれたという。
テイラーは南北戦争中に富を増やし続け、晩年に若いジェームズ・スティルマンが彼の子分となった。
1882年にモーゼス・テイラーは亡くなり、7000万ドルを残した。
彼の義理の息子パーシー・パインが跡目を継いでシティ・バンクの頭取となり、その時点でシティ・バンクはナショナル・シティ・バンクと改称した。
パインは身体障害者であったために、銀行業務を十分に果たすことが出来なかった。
ジョン・D・ロックフェラー(1839〜1937、石油王)の兄弟であるウィリアム・ロックフェラーは、1891年に、ジェームズ・スティルマンに業務を任せるようパインを説得した。
そしてその直後にナショナル・シティ・バンクはロックフェラーのものとなった。
ウィリアム・ロックフェラーの息子のウィリアムは、ジェームズ・スティルマンの娘エルシーと結婚し、ロックフェラーの別の息子のパーシーはスティルマンの別の娘イザベルと結婚した。
ジェームズ・スティルマンもまたイギリスとのコネクションを持っていた。
彼の父ドン・カルロス・スティルマンは、南北戦争時にイギリスの代理人及び密航者としてテキサス州ブラウンズビルにやってきた。
ニューヨークにおける銀行コネクションを通じて、ドン・カルロスは息子を銀行の見習いとして働かせることができた。
1914年のニューヨーク連邦準備銀行の大株主ファースト・ナショナル・バンクは、銀行の設立者ジョージ・F・ベイカー(1840〜1931、ブッシュ政権時代の国務長官・首席補佐官の祖父)と、彼の息子G・F・ベイカー・ジュニアが、銀行の全株式のうちの25%を所有していたが、重役室のモルガン家の代表団ゆえに、一般的にはモルガンの銀行として知られていた。
テキサスのベーカー一族は鉄道王ロヴェット家とパートナーとなり、テキサスにやってきたブラウン兄弟の一族と結婚して勢力を増した。このベーカー・ロヴェット・オフィス創立者の孫がベーカー国務長官である。
ジョージ・ベイカー・ジュニアの娘エディス・ブレヴォート・ベイカーは、ジェイコブ・シフの孫であるジョン・M・シフと1934年に結婚した。
ジョン・M・シフは現在リーマン・ブラザーズ−クーン・レーブ商会の名誉会長である。
1914年のニューヨーク連邦準備銀行の大株主の一つは、ナショナル・バンク・オブ・コマースである。
J・P・モルガンはまた、ナショナル・バンク・オブ・コマースの株を持つエクイタブル生命保険会社とミューチュアル生命保険会社の支配的株主になることによって、ナショナル・バンク・オブ・コマースの株を所有した。
連邦準備制度理事会の議長であるポール・ワーバーグもまた、ナショナル・バンク・オブ・コマースの株を所有していた。
この銀行は、ロンドンのジュニアス・S・モルガン商会の子会社、ロンドンのN・M・ロスチャイルド商会、及びロスチャイルド家の筆頭代理店として知られるクーン・レーブ商会によってコントロールされていた。
ロンドン・コネクションがアメリカに中央銀行を設立して最初に手掛けた重要な仕事が、第一次世界大戦の遂行であった。
連邦準備銀行は、外国為替を規制し、金融力を集中して、アメリカの金資源の節約に大きく貢献した。
もし戦時下において、以前のような分散した旧式の銀行制度だった場合には、世界大戦のための資金調達も出来なかったし、参戦することも出来なかっただろう。
第一次世界大戦へのアメリカの参戦後、ウッドロー・ウィルソンは合衆国の政治を彼の選挙の支持者であるポール・ワーバーグ、バーナード・バルーク及びユージーン・マイヤーの三頭政治へと転換した。
バルークは戦時産業調整委員会の委員長に任命された。
ユージーン・マイヤーは戦時金融公社の会長に任命され、戦時資金を調達する公債計画の責任者となった。
ポール・ワーバーグは連邦準備制度理事会の副議長であった。
ユダヤ人ユージーン・マイヤーの父は、パリのラザール・フレールとロンドンのラザール・ブラザーズのパートナーの一人であった。
ユージーン・マイヤーは後に初代「世界銀行」総裁になった。また、アメリカの首都を制する新聞「ワシントン・ポスト」のオーナーとしてよりよく知られていた。
第二次世界大戦直後に発足した世界の金融体制は、ヨーロッパを本拠地とするIMF(国際通貨基金)と、アメリカを本拠地とするこのユージーン・マイヤーの世界銀行(国際復興開発銀行)の二大メカニズムを柱として運営されてきた。
ユージーン・マイヤーの曾祖父ザドック・カーンはフランスのパリでグラン・ラビ(大指導者)となった大人物であった。
ユージーン・マイヤーの娘は、「ワシントン・ポスト」の社主として全世界の政治家に大きな影響力を及ぼしてきたキャサリン・グラハムである。
日本の首相人事は、「グラハム女史が首を縦に振らなければ認められない」と噂されるほど、わが国では彼女の威光が恐れられてきた。
天皇家の内情も、キャサリン・グラハムには筒抜けであったという。
ユダヤ財閥によるメディア支配に話を移すと、ロスチャイルド家は、ヨーロッパのあらゆるニュースの配信をコントロールしていたロンドンを拠点とするロイターズ・インターナショナル・ニューズ・エージェンシーとフランスのハヴァス、ドイツのヴォルフの支配権を買い取っている。
CBSはワシントン・ポスト紙、アライド・ケミカル社、ウェルズ・ファーゴ銀行と関連を持っている。
ブラウン・ブラザーズ・ハリマンがCBSを、ユージーン・マイヤー一族(ラザール・フレール)がアライド・ケミカル社とワシントン・ポスト紙を、そしてクーン・レーブ商会がウェルズ・ファーゴ銀行を支配している。
さて、ここに1711年のフランクフルトのゲットーの地図がある。
ユダヤ教会のシナゴーグを中心にして、ロスチャイルド家、シフ家、カーン家、バルーク家が隣近所に暮らしていたことが分かる。
オットー・カーン一族はやがてフランクフルトの南60キロのマンハイムに移り、オットー・カーンはドイツ銀行で修行を積んでからアメリカへ渡った。
カーンはクーン・レーブ商会に入ってパートナーとなり、アメリカ大陸の鉄道事業で巨財を成した。
オットー・カーンの長女モードは後年のイギリスMI5の人事部長、ジョン・マリオネットと結婚している。
マリオネットはフリーメーソンであった。
ユージーン・マイヤーの曾祖父ザドック・カーンは、このカーン一族である。
シフ家は一時ロスチャイルド家の隣に住んでいたが、1711年の地図では、カーン家から通りを挟んで4軒目の所にあった。
一族のジェイコブ・ヘンリー・シフはクーン・レーブ商会のパートナーとして活動した。
高橋是清が日露戦争の外債をシフに引き受けてもらった時に、クーン・レーブ商会にはオットー・カーンもいたのだ。
バルーク家もラビを生み出すユダヤ人指導者のファミリーだった。
バーナード・バルークは第二次世界大戦後、国連の原子力委員会のアメリカの首席代表を務めた。
彼は全米一のウラン採掘業者グッゲンハイム財閥の代理人として働くウォール街の投機業者であった。
しかしそれにしても、ウィルソン政権の中心人物の多くが同じフランクフルトのゲットー出身だったことには驚かされる。
これを単なる偶然として済ますことは出来ないであろう。
話を第一次世界大戦に戻すと、ポール・ワーバーグが連邦準備制度理事会で活動している時に、対戦国のドイツではポール・ワーバーグの兄弟のマックス・ワーバーグがドイツ諜報部の代表として仕えていた。
ワーバーグ家と同じくジェイコブ・シフもまた、第一次世界大戦中のドイツにフィリップ・シフとルートヴィヒ・シフという二人の兄弟がフランクフルト−アム−マインにいた。
彼らもまたドイツ政府の銀行家として活動していたのである。
ワーバーグ家とシフ家の兄弟たちは、アメリカとドイツに分かれてそれぞれの政府を金融面で支援していたのだ!
第一次世界大戦が国際的銀行家によって引き起こされた謀略であったことがよく分かる話だ。
第一次世界大戦はアメリカ全体に繁栄をもたらした。
労働者たちには高給が支払われ、農家の生産物にはかつて経験したことのないほど高い価格が支払われた。
この二つのグループは国債に資金を投ずることなく巨額のドルを現金で蓄えた。
その資金は、合衆国の通貨と信用をコントロールしていたウォール街のグループの手の届かないところにあり、これを奪うために1920年から21年の農業不況が引き起こされたのだ。
資金の多くは、連邦準備制度のいかなる影響も拒否した中西部と西部の小さな田舎の銀行に預金されており、その地域の農家と牧場経営者たちは、自分たちの資金の管理を国際金融家グループに委ねる理由などなかった。
連邦準備制度はこれらの小規模な田舎の銀行を破壊し、戦時中に農家に支払われた資金を奪い返し、彼らを破滅させようともくろんだ。
当時、1919年と1920年のアメリカとヨーロッパでは、インフレーションが放置されていた。
ヨーロッパにおけるインフレの目的は、アメリカ国民から連合国が借り入れた戦時債務の大部分を相殺するためであり、アメリカにおけるインフレの目的は、生産に対する高い賃金やボーナスという形で労働者に分配されていた余剰資金を呼び戻すことであった。
物価が高くなればなるほど、労働者の資産価値は下落し、彼らに資金の不当な流出を課す。
一方、地価と工業製品の価値の上昇のため、資本家はインフレによって裕福となる。
労働者は相対的に貧しくなる。
これが資本家がインフレを引き起こす理由である。
労働者や農民などの消費者から資産を収奪するためである。
しかし、農家はより自給自足的だったので、別の扱いが必要だった。
連邦農業貸付委員会が設立され、蓄積した資金を土地に投資して長期に貸し付けるよう農家に奨励した。
当時、非常に裕福だった農家は生産拡大のために耕地面積を広げ、農業機械を買い増した。
そのためには農地を担保にした抵当貸付の増大が必要であり、農家は設備投資資金も借り入れなければならなかった。
農家の負債残高は増大した。
それでも、1915年から19年にかけて1.4倍になった負債残高の上昇は、農家純所得の伸びをはるかに下回っていた。
だが、戦争の終結とともに事態は一変し、農産物価格は直ちに下落し始めた。
戦争中の増産努力によって農産物の供給が急増したところへ、ヨーロッパの需要が消滅したのである。
そして、1920年に発生した突然の信用と通貨の収縮によって農家は破産してしまった。
1920年4月、5月、6月、そして7月には、製造業者や商業従事者には大幅な与信の拡大が許された。
これは、アメリカの農家を破産させようと意図した信用収縮の潮流を彼らに乗り切らせようとするものだった。
そしてこの期間、農家には与信がすべて拒否された。
農業及び家畜手形に対する金利は7%に引き上げられた。
連邦準備制度理事会の目的は、連邦準備制度の支配を拒絶した州法銀行及び共同土地出資銀行を破滅させることにあった。
この農家に対するデフレーション政策は、故意に犯された犯罪だった。
1921年には農家純所得は前年より57%も下落し、10年前の水準に逆戻りした。
農産物市況の急落と負債利子支払いの急上昇がその原因だった。
21年は戦後の反動不況から実質GNPも減少した。国中が不況に陥った。
中でも困窮した農家は、負債残高を増加させていった。
農家の負債と利子支払いがピークに達したのは23年だった。
市況の低迷と金利負担の重圧という典型的な農業不況のパターンが続いた。
全盛時代にはアメリカの農家は年間純所得のほぼ1年分の負債残高しか持たなかったが、21年には3年分の純所得に匹敵する負債を抱えることになった。
デフレによって資本家も損失を被るが、中小金融機関、企業を倒産させ市場支配を強化することができる。
これが資本家がデフレを引き起こす理由である。
インフレによって労働者、農民から資産を収奪し、デフレによって市場支配を強める。
従って、インフレとデフレは交互に引き起こされねばならないのである。
そしてインフレとデフレを交互に作りだす技術は、国際的銀行家たちによって精密科学にまで仕上げられているのだ。
第一次世界大戦後、アメリカは122億ドルに及ぶ対ヨーロッパ債権を獲得し、全世界の貨幣用の金の半ば以上を集中した。
イギリスにかわって世界経済の主導権を握ったアメリカは、大戦で疲弊したヨーロッパ諸国の財政を整理し、通貨を安定させて、ヨーロッパ経済の復興をはかることを先決と考えた。
1917年9月、アメリカは第一次世界大戦に参加するとともに、金の輸出を禁止していた。
アメリカは戦争が終わると、1919年6月には、早くも金本位へ復帰している。
金本位の祖国イギリスでも、第一次大戦が勃発すると、変則的事態が発生した。
1914年、イギリスはイングランド銀行券の発行高を金保有量によって規制していたピール条例(1844年制定)を停止し、事実上の不換紙幣制度へ移行したのである。
ついで、1916年には、「帝国防衛法」を公布し、金の輸出をできるかぎり禁止して、金本位制は事実上、停止された。
1925年5月、イギリス議会は金本位制法を可決し、大英帝国は金本位制に復帰した。
オランダ、オーストリア、蘭領インド(インドネシア)、南ア連邦の各国も、次々と金解禁に踏み切った。
イギリスの金本位制復帰を支援するため、ニューヨーク連邦準備銀行は大英帝国に対して2億ドルの金の貸付を行うことを取り決めた。
全ての交渉は、ニューヨーク連邦準備銀行総裁のベンジャミン・ストロングとイングランド銀行総裁のモンタギュー・ノーマンとの間で行われた。
第一次世界大戦直後、密接な協力関係がイングランド銀行とニューヨーク連邦準備銀行との間に出来上がった。
この関係は、イングランド銀行のモンタギュー・ノーマンとニューヨーク連邦準備銀行の総裁ベンジャミン・ストロングとの間に1928年まで存在した誠心誠意の関係に基づくものであった。
ニューヨーク連邦準備銀行の公定歩合政策は、しばしばイングランド銀行を支えたいとする願いに導かれていた。
ロンドンとニューヨークの間には、公定歩合を設定する際に緊密な協調関係があった。
1925年イギリスが戦前の平価で金本位制に復帰(旧平価解禁)したのは、戦後の疲弊と貿易収支の赤字が続く中で自国通貨を切り上げるという、無謀な決断だった。
資金はイギリスからアメリカへ逃避先を求めて動いた。
しかし、イギリス、フランス、ドイツの中央銀行は、この金の移動をアメリカの高金利のなせる技と解釈し、揃ってワシントンを訪れ、アメリカの金利引下げを要請した。
ニューヨーク連邦準備銀行総裁のベンジャミン・ストロングは、公定歩合の引き下げに踏み切った。
イギリスが金本位制に復帰した時、アメリカはイギリス経済を救おうとして低金利と金融緩和の政策を取り続けた。
この政策は、一面で景気を刺激する効果を持ったが、反面で株価の上昇を招き、異常な株式投機熱を煽る結果を招いた。
ここでイングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマンについて軽く触れて置こう。
ベンジャミン・ストロングとモンタギュー・ノーマンの間の関係は、20世紀最大の秘密の一つであった。
ベンジャミン・ストロングはニューヨークのバンカーズ・トラストの頭取の娘と結婚し、後にその頭取となった。
ストロングは1914年にモルガン及びクーン・レーブ商会の共同推薦でニューヨーク連邦準備銀行の総裁になった。
モンタギュー・ノーマンは、母方の祖父と父方の祖父の両方がイングランド銀行の総裁となった歴史上唯一の人物である。
彼の父はブラウン・ブラザーズ(現在のブラウン・ブラザーズ・ハリマン)のロンドン支店であるブラウン・シップレイ商会で働いていた。
モンタギュー・ノーマン(1871年〜1950年)は、ブラウン・ブラザーズで働くために1894年にニューヨークにやって来た。
そこで彼は、ブラウン・ブラザーズのデラノ家とジェームズ・マーコーの助けを得た。
彼はイギリスに戻り、1907年にイングランド銀行の役員に指名された。
モンタギュー・ノーマンは1916年から1944年までイングランド銀行の総裁であった。
この間、彼は1929年の大恐慌と世界的な景気後退を引き起こした中央銀行会議に出席した。
1925年から28年までのニューヨーク金融市場におけるストロングの低金利政策は、ニューヨークの金利をロンドンの金利より低く維持するというノーマンとの合意を満たすものであった。
ニューヨークの低金利政策は、1920年代後半のとてつもない投機の絶頂を伴って拡大しているアメリカのにわか景気を煽ったのだ。
1927年7月、ヨーロッパで三大中央銀行総裁の会議が開かれた。
イングランド銀行のモンタギュー・ノーマン、ニューヨーク連邦準備銀行のベンジャミン・ストロング、そしてドイツ帝国銀行のヤルマール・シャハト博士の会議は、当時の世界の最高級クラブの会議といわれた。
この秘密会議は、合衆国が所有する金をヨーロッパに取り戻し、ヨーロッパ大陸の各国を金本位制に復帰させるための最良の方法を議論するために開かれた。
合衆国における銀行金利の引き下げによって7億2500万ドル相当の金を輸出させ、そのことでフランスとヨーロッパを安定させてフランスを金本位制へ導くためであった。
1928年6月、フランスのポアンカレー内閣は金本位へ復帰した。
1928年末から29年秋にかけて、アメリカ政府は、金利を引き上げる措置を講じた。
その結果、こんどは外国資金が証券投資と高い利子率を目的に流入しはじめ、株式ブームに拍車をかけることになった。
1922年から1929年までの間に、連邦準備は通貨の供給を62%膨張させた(インフレ政策)。
新しい通貨はすべて、証券取引相場を法外につり上げるために使われた。
マスメディアは証券取引で急速に財を成したというセンセーショナルな話を一般に広めはじめた。
誘惑的な新聞報道によって、一般人が投機へそそのかされた。
1928年から29年秋にかけての株式ブームは、実際の経済活動を反映しない極めて不健全な基礎の上に、狂乱の花を咲かせた。
ホテルのボーイやレストランのウェイトレスまでが株に手を出す始末であった。
そして、バブルが弾けた。
「すべてが済んだ時、ニューヨークの金融業者たちは相場師にコール=ローン(短期貸出金)の弁済を要求しはじめた。これは、相場師とその顧客が自分らの借金を解消できるようにするためには、今や株を取引所に投げ込まなければならなくなったことを意味している。これはもちろん、取引所の崩壊をもたらし、全国の銀行を片っ端から倒産させることとなった。上部の寡頭制には属していなかった銀行には、このとき相場師の弁済要求が特に強く突きつけられた。これによってこれらの銀行の弁済手段は急速につき果て、その結果、閉鎖されなければならなくなったのである。連邦準備は、弾力性のある通貨を堅持するよう法律によって義務づけられているにもかかわらず、これらの銀行には助け船を意識的に出さなかった」(ウィリアム・ブライアン著『合衆国の未解決の財政的、政治的諸問題』)
「翌10月29日の火曜日はさらに壊滅的だった。『早朝、ニューヨーク市外の銀行と事業会社が1億5000万ドルのコールローン(ブローカーズ・ローンの別名)を引き上げ、ウォール街は立会い開始を待たずしてパニックに陥っていた』。取引開始後30分で通常の一日分の商い、300万株が取引された。コールローンを引き上げられた証券業者は銀行に助けを求めたが、銀行も株価暴落によって大きな痛手を被っていた」(林敏彦著『大恐慌のアメリカ』岩波新書)
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