2011/7/4
「欧米から見た日本 その2」
M・C・ペリー『日本遠征記』
土屋喬夫・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』岩波文庫青422, 1948.
M・C・ペリー (Matthew Calbraith Perry, 1794~1858) は米国の海軍軍人で、艦隊を率いて1853(嘉永6)年7月浦賀に来航し、翌1854(嘉永7)年神奈川で日米和親条約を締結した。ペリーが蒸気船ミシシッピ号を率いてノフォークを出航したのは1852年11月24日で、翌1853年5月に上海でサスケハナ号に乗り換え旗艦とした。ペリー艦隊は5月26日に那覇に入港し、ここを基地に沖縄本島と小笠原諸島を探査した。7月2日、蒸気船サスケハナ号・ミシシッピ号および帆船プリマス号・サラトガの四隻は浦賀沖に停泊し、浦賀奉行所との交渉に入った。7月14日、ペリーは乗員約300人を従えて浦賀に上陸し、フィルモア大統領の親書を戸田伊豆守・井戸石見守に手渡した。7月17日、艦隊は江戸湾を去り那覇に向った。ペリーは琉球に交易所と石炭貯蔵所を開設させた後、香港に戻った。
1854年1月、蒸気船サスケハナ号・ミシシッピ号・ボーハタン号に帆船四隻を加えたペリー艦隊は香港を出航し、琉球を経由して2月13日に江戸湾に入った。3月8日、ペリーは約500名を率いて横浜に上陸し、林大学頭を筆頭とする日本側代表と条約締結の交渉に入った。3月31日、横浜で日米和親条約への署名が行なわれた。ペリーは開港場に指定された下田と箱館を調査した後、香港に戻った。
『日本遠征記 (Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China and Japan etc.) 』は、ペリーおよび士官数名の通信や日記に基づき、ペリーの監修の下にフランシス・L・ホークスが編纂したもので、1856年に議会の特殊刊行物として数十冊が刊行された。
日本人は極めて勤勉で器用な人民であり、或る製造業について見ると、如何なる國民もそれを凌駕し得ないのである。 (1巻, p. 141)
彼等は外國人によつて齎された改良を觀察するのが極めて早く、忽ち自らそれを會得し、非常な巧みさと精確さとを以てそれを模するのである。金属に彫刻するのは甚だ巧みであり、金属の肖像を鑄ることもできる。 (1巻, p. 142)
木材及び竹材加工に於て、彼等に優る國民はない。彼等は又世界に優るものなき一つの技術を有してゐる。それは木材製品の漆塗りの技術である。他の諸國民は多年に亙つて、この技術に於て彼らと形を比べようと試みたが成功しなかつた。 (1巻, p. 143)
彼等は磁器を製作してゐるのだし、また或る人の語るところによれば支那人よりももつと立派に製作することができると云ふ。兎に角、吾々が見た日本磁器の見本は甚だ織巧美麗である。但し或る筆者の語るところによると、最良質の粘土が盡きたために、現在では嘗てのやうに立派に製造することができないと云ふ。 (1巻, p. 144)
彼等は絹をつくる。そのうちの最良品は支那の絹よりも上等である。……木綿織物もつくられてゐるが、その製造にはさまで熟練してゐない。 (1巻, p. 145)
必要にして、且つ交通の多い處には、屡々石で立派な橋をつくつてゐるが、トンネルをつくる技術を知らないやうである。土木工學上の或る原理を知つてゐてそれを適用してはゐるが、工兵學の原理を少しも知らない。……彼等は數學、機械學及び三角法を幾らか知つてゐる。このやうにして彼等は同國の甚だ立派な地圖をつくつたのであつた。 (1巻, p. 152)
日本人は、活潑な氣性を有する多くの他の人民と同様に、珍奇なものに對する強い好奇心を有して居り、屡々はむしろ瞞着されるのも辭さないのである。 (1巻, p. 154)
だが迷信が障害となつてゐる。死人に觸れることは汚れとされてゐるのである。このやうな研究をしないのだから、内科醫及び外科醫の知識もつまり不完全であることが明らかである。 (1巻, p. 157)
藥品は大抵動植物であり、化學の知識は非常に乏しくて鑛物藥品を用ひようとしない。けれども醫用植物學については非常に意を用ひて研究して居り、彼らの療法は一般に有效であると云はれてゐる。 (1巻, p. 158)
普通教育制度に似たものもあるやうである。何故ならばメイランが、あらゆる階級の男女兒童は差別なく初等學校に通學せしめられると述べてゐるからである。それが國家によつて維持されてゐるものかどうかについては語つてゐない。その學校で生徒等は全部讀み書きを教はり、自國の歴史についての知識をすこし手ほどきされるのである。かやうにして、最も貧しい農夫の子供にも大抵は學問が出來る仕組なのである。 (1巻, p. 162)
日本音樂の中には、ヨーロッパ人とアメリカ人との耳に適ふやうなものがない。但し序に一言すれば、日本人は音樂を熱烈に愛してゐる。 (1巻, p. 163)
すでに述べたやうに彼等は解剖學を全く知らない。従て彼等は彫刻家でもないし又肖像畫家でもない。彼等は遠近法を知らないので風景を描くことができない。然し一つの物體を表現する際の細部の正確さ、物の本質を眞實に把握する點では、彼等に及ぶものがない。彼らの不完全なのは構圖である。 (1巻, p. 164)
彼らが藝術としての建築を知つてゐると云ふことはできない。但し甚だ巧みに石を彫つてそれを配置するのである。寶石造りも上手ではない。 (1巻, p. 165)
これ等の日本役人は、何時もの通り、その好奇心を多少控へ目に表はしてゐたが、しかも、汽船の構造及びその装備に關するもの全部に對して、理解深い關心を示した。蒸気機關が動いてゐる間、彼等はあらゆる部分を詳細に檢査したが、恐怖の表情をせず、又その機械について全く無智な人々から期待されるやうな驚愕を少しも表はさなかつた。 (3巻, p. 13)
日本人は何時でも、異常な好奇心を示した。それを滿足させるためには、合衆國から持つて來た珍しい仕掛の色々な品物、種々の機械装置、巧妙珍奇な色々の發明品が、充分な機會を與へてくれた。彼等は、彼等にとつて驚くべき程不思議に見えるあらゆる物を、極めて詳細に檢査する事だけに滿足しないで、士官や水兵につきまとひ、あらゆる機會を捕へては衣服の各部分を檢査したのである。 (3巻, p. 202)
疑もなく日本人は、支那人と同じく、非常に模倣的な、適合性のある、素直な人民であつて、これ等の特性のうちに、假令高級な文明の比較的高尚な原理や、比較的良好な生活ではなくとも、外國の風俗習慣が比較的容易に輸入されることを約束されてゐるのが見出されるだらう。 (3巻, p. 203)
一言もつて云へば、日本人の饗應は、非常に鄭重なものではあつたが、料理の技倆について好ましからざる印象を與へたに過ぎなかつた。琉球人は明かに、日本人よりもよい生活をしてゐた。 (3巻, p. 246)
二人の夫人は何時までも慇懃で、玩具の頸振り人形のやうに絶えず頭を下げた。彼女等は絶えず賓客に微笑をもつて挨拶してゐたが、微笑をしない方がよかつたらうと思ふ。唇を動かす毎に嫌な黒齒と色の褪せた齦が露れたからである。町長婦人はひどく鄭重で、自分の赤ん坊をつれてきたほど善良な性質であつた。賓客達はその赤ん坊をできるだけ可愛がらなければならないと感じた。但しその顔は垢だらけであり、一體にきたならしい様子だつたので、止むを得ず抱いたり頬ずりしたりして可愛がつたが、それは全く苦痛な努力であつた。 (4巻, pp. 14-15)
下流の人民は例外なしに、豊に滿足して居り、過勞もしてゐないやうだつた。貧乏人のゐる様子も見えたが、乞食のゐる證據はなかつた。人口過剰なヨーロッパ諸地方の多くの處と同じく、女達が耕作勞働に從事してゐるのも屡々見え、人口稠密なこの帝国では誰でも勤勉であり、誰をでも忙しく働かせる必要があることを示してゐた。最下流の階級さへも、氣持ちのよい服装をまとひ、簡素な木綿の衣服をきてゐた。 (4巻, pp. 15-16)
日本の社會には、他の東洋諸國民に勝る日本人民の美點を明かに示してゐる一特質がある。それは女が伴侶と認められてゐて、單なる奴隷として待遇されてはゐないことである。女の地位が、キリスト教法規の影響下にある諸國に於けると同様な高さではないことは確だが、日本の母、妻及び娘は、支那の女のやうに家畜でも家内奴隷でもなく、トルコの妾房[ハーレム]に於ける女のやうに浮氣な淫樂のために買ひ入れられるものでもない。一夫多妻制の存在しないと云ふ事實は、日本人があらゆる東洋諸國民のうちでは最も道偲・任△蝓∪・・気譴討陲誑¬韻任△襪箸い嫋,譴親胆C鮓修呂甲・靴て団Г任△襦」 (4巻, pp. 16-17)
既婚婦人が常に厭わしい黒齒をしてゐることを除けば、日本婦人の容姿は惡くない。若い娘はよい姿をして、どちらかと云へば美しく、立居振舞は大いに活潑であり、自主的である。それは彼女等が比較的高い尊敬をうけてゐるために生ずる品位の自覺から來るものである。 (4巻, p. 17)
吾々は、日本造船者の方法又は技倆に何等特異なものを見なかつた。下繪を畫き雛型をつくるための科學的法則を有するか否か、船の排水量を確かめるための科學的法則を有するか否かは疑はしく、又法律が全部の船舶を一つの型及び大きさに制限して居るから、恐らくそれらを必要としないであらう。 (4巻, p. 120)
實際的及び機械的技術に於いて日本人は非常な巧緻を示してゐる。そして彼等の道具の粗末さ、機械に對する知識の不完全を考慮するとき、彼等の手工上の技術の完全なことはすばらしいもののやうである。日本の手工業者は世界に於ける如何なる手工業者にも劣らず練達であつて、人民の發明力をもつと自由に發達させるならば日本人は最も成功してゐる工業國民[マニュファクチャ−リング・ネーションズ]に何時までも劣つてはゐないことだらう。他の國民の物質的進歩の成果を學ぶ彼等の好奇心、それを自らの使用にあてる敏速さによつて、これ等人民を他國民との交通から孤立せしめてゐる政府の排外政策の程度が少ないならば、彼等は間もなく最も惠まれたる國々の水準にまで達するだらう。日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、将來の機械工業の成功を目指す競争に加はるだらう。 (4巻, pp. 127-128)
遠征隊の士官達が持ち歸つた繪入りの書物や繪畫のうち数個が今吾々の前にあるが、日本人のそれに示してゐる美術の性質をよく調べると、この注目すべき人民は他の非常に多くの點に於けると同じく美術にも驚くべき發達を示してゐることが著しく眼につく。 (4巻, p. 133)
すでに述べたやうに汽船の機關が日本人の間に烈しい興味をよび起した。彼等の好奇心は飽くことを知らないやうであり、又日本の畫家達は機會ある毎に絶えず機械の諸部分を描き、その構造と運動の原理とを知らうとしてゐた。艦隊の二囘目訪問の際ジョーンズ氏は、機關全體を正しい釣合で畫いた完全な繪畫を日本人がもつてゐるのを見た。機械の数個の部分も適當に描かれてゐて他國で描かれてもこれ以上はできないほど正確で立派な繪圖であつたと彼は語つてゐる。 (4巻, pp. 136-137)
日本の宗教は偶像崇拜であるから、多數の彫刻をもつてゐる。從つて石造や金属像や木像が寺院や祠や路傍に澤山ある。これ等の彫像の千篇一律の手法には一般に大いに手工業上の熟練さが現はれてゐるが、いづれも藝術的作品と云ふことはできない。 (4巻, p. 139)
低い周圍の家屋に比較してやゝ立派な諸所の寺院や門以外には、アメリカ人に對して日本建築の高い理想を印象づけた建築を見なかつた。この藝術部門中の最も立派な見本は、幾つかの石の堤道と石橋であつた。それらのものは屡々簡単にして雄渾なローマ式アーチを土臺にして設けられてゐるのであつて、その設計や疊石法は、他の國の最も科學的にして藝術的な構造のものにも匹敵する。 (4巻, p. 139)
教育は同帝國到る所に普及して居り、又日本の婦人は支那の婦人とは異つて男と同じく知識が進歩してゐるし、女性獨特の藝事にも熟達してゐるばかりでなく、日本固有の文學にもよく通じてゐることも屡々である。 (4巻, p. 140)
地震によつて生じた災禍にも拘はらず、日本人の特性たる反撥力が表はれてゐた。その特性はよく彼等の精力を證するものであつた。彼等は落膽せず、不幸に泣かず、男らしく仕事にとりかゝり、意氣阻喪することも殆どないやうであつた。 (4巻, p. 240)
黒船来航とアジア戦略
ペリーの浦賀来航
ペリー来航と日本の開国
唐人お吉
ペリーロード(YOUTUBE)
日本に君臨するもの:メーソン日本ロッジ幹部の証言
ペリー提督は1853年に4隻の艦隊を率いて浦賀に来航し、友好通商条約の締結を求めました。艦隊の内2隻が蒸気船で、それまで帆船しか見たことのない日本人を仰天させ、「黒船来襲」と大騒ぎになったものです。この時ペリーは、要求だけ突きつけて一旦引き上げ、翌1854年春に再び来訪し、日米和親条約の締結にこぎつけました。
この二回に渡る来航時、ペリーが「礼砲」と称して幕府を威嚇したとか、船上でメーソンの儀式や会合が行われた等、さまざまなエピソードが伝えられています。
当時の徳川幕府は、海外諸勢力との交流や交易は長崎でしか認めていませんでした。海外からすれば、明らかな規制です。ペリーの主張は、
「アメリカはそのような規制は受け入れない」
というものです。開国要求とは、まさしく「規制緩和」だったのです。アメリカからの最初の規制緩和要求がメーソン結社員の手で行われたというのは、実に象徴的な出来事といえます。ペリーを日本に遣わした当時の大統領フィルモアがメーソン結社員であるというのは初耳ですが、そうであるとすれば日本と米国メーソンとの因縁は実に深いということになりますね。
ペリーは、「日本との通商条約締結」「蒸気船の燃料である石炭や食料の補給」「遭難船員の保護」を求めるフィルモア大統領の親書を携えて来航した。当時のアメリカは、イギリス・フランス・オランダ・ロシア等、他の列強同様、アジア進出を目指して虎視眈々としていた。 とりわけその最終標的を中国に置いていたことは、各種文献・資料からも明らかである。
そのアメリカにとって、日本は中国への足場として地政学上、極めて重要な位置にあった。来日前、ペリーはメキシコとの間で起こった米墨戦争で将軍として戦い勝利した後、メキシコにいた支倉常長の遣欧施設がメキシコに遣した日本人子孫から、地政学上の日本情報を収集していた。
当時、ペリーは琉球(沖縄)を経由して上海に滞留し、翌年も沖縄を経由して再訪している。アメリカの対アジア戦略上、沖縄はまさしくキイストーンであり、それは現在に至っても変わっていない。
日米和親条約(神奈川条約)は、1858年の日米修好通商条約へ発展する。他の列強もアメリカに刺激され、1854年10月のイギリスを皮切りに、56年までにロシア、オランダが日米和親条約と同様の条約を締結した。
アメリカは通商条約により、日本の五つの港でアメリカ人がアメリカの法律の下で居住できる権利を獲得、交易についてもアメリカ側が決めた関税による最恵国待遇を受けることが出来るようになった。勿論、他の列強もこれに習うことになる。
「1859年、ハリス(米国初代領事のタウンゼント・ハリス)は公使として江戸の公爵館に住むことになった。時を移さず、イギリス・フランス・オランダ・ロシアが江戸に代表部を開いた。列強は手を組んで行動した。彼らは新たに獲得した『条約上の権利』が侵された場合には砲艦の存在をちらつかせ、日本が不満や反抗の色を露にしようものなら懲罰行動に出た。この時期から19世紀末までの日本はいわば半植民地だった。欧米列強の代表達は、貿易の全てを管理し、税率と価格を決め、沿岸通行を独占し、日本の金を吸い取り、99年間の租借権と治外法権に守られて日本に住んでいたのだ。列強は、自分達の植民地と中国で享受する特権的立場を日本にも持ち込んだ。この期間、ほぼ45年間に亘って、日本は欧米列強の直接『指導』のもとで『改革され、再教育された』のだ」
ハリス『日本滞在期』
ハリス(坂田精一訳)『日本滞在期』岩波文庫赤759-761, 1953.
タウンゼンド・ハリス (Townsend Harris, 1804-1878) は米国の外交官で、1856(安政3)年に初代駐日総領事として下田に赴任し、1858(安政5)年幕府と日米修好通商条約を締結した。1853年、上海にいたハリスはペリー艦隊への同行を希望したが拒絶された。ハリスは駐日総領事を希望して帰国して運動し、ピアス大統領はペリーにも相談し、ハリスを派遣することとした。1855年10月17日、ハリスは単身ニューヨークを出航し、インドでオランダ語通訳のヒュースケンと合流した。1856年5月にタイとの条約を締結した後、8月21日に下田に到着した。
和親条約の英文では、総領事の駐在は一方の国が必要と認めれば派遣できるとなっていたが、日本文では両国が必要と認めた場合にのみ可能となっていた。そこで日本側は駐在を拒否しようとしたが、ハリスはこれを押し切って9月3日に柿崎の玉泉寺に入った。1857年6月17日、ハリスはアメリカ人の居住権、長崎での薪水食糧等の供給、領事旅行権等を内容とする下田条約を下田奉行との間で締結した。11月、ハリスは下田を発ち江戸の蕃書調所に入った。12月7日、ハリスとヒュースケンは江戸城で将軍家定に謁見した。1857年2月、ハリスは病を得て下田で静養した。7月23日、ミシシッピ号が下田に入港し、英仏がインドと中国を屈服させたことを伝えた。ハリスはこれをタネに条約締結を迫った。日米修好通商条約は1858年7月29日、ボーハタン号上で調印された。
又或る時ヒュースケン君が温泉へゆき、眞裸の男三人が湯槽に入っているのを見た。彼が見ていると、一人の十四歳ぐらいの若い女が入ってきて、平氣で着物を脱ぎ、「まる裸」となって、二十歳ぐらいの若い男の直ぐそばの湯の中に身を横たえた。このような男女の混浴は女性の貞操にとって危檢ではないかと、私は副奉行に聞いてみた。彼は、往々そのようなこともあると答えた。そこで私は、處女であると思われている女と結婚して、床入りの時そうでないことを知ったときには、男の方はどうするかと問うた。副奉行は、「どうにも」と答えた。 (中巻, p. 161)
さて話題は、いつもの日本式のものへ移った。この人たちの淫奔さは、信じられないほどである。要件がすむや否や、彼らが敢て談ずる一つの、そして唯一の話題がやってくる。 (中巻, p. 168)
私は、日本人のように飲食や衣服について、ほんとうに儉約で簡素な人間が、世界のどこにもあることを知らない。寶石は何人にも見うけられない。黄金は主として、彼らの刀劍の飾りに用いられている。ある特殊の場合は、金絲の入った錦織が緋や黄色のものとともに用いられるが、そんなことは滅多にない。それらは例外であって、法則ではない。着物の色は黒か灰色である。貴人のものだけが絹布で、その他すべての者の布は木綿である。日本人は至って欲望の少ない國民である。 (中巻, p. 196)
なんとかして眞實が囘避され得るかぎり、決して日本人は眞實を語りはしないと私は考える。率直に眞實な囘答をすればよいときでも、日本人は虚偽をいうことを好む。 (中巻, p. 239)
私は、どんな種類の美術品をも精巧に作るという點について、日本人の習性を買いかぶってきたと思う。彼らの政府の特性は、富と奢侈のために品物を作る腕前をふるうことを、禁じているように見える。奢侈禁止法は、形、色彩、材料と、すべての衣類の着換時を嚴しく取締っている。それだから、家具の贅澤なぞは、日本では知られていない。この國では、大名の邸宅の家具ですら、アメリカの謹直で堅實な職工の家に見られるものの半分の値打ちもないといって憚らない。純朴と質素は、この國の重要な格律となっている。それは最もおどろくべき方法によって實施されている。官憲の取締によって、日本人のあらゆる行為を抑壓しようとすることが、絶えざる仕事となっている。 (中巻, p. 247)
見物人の數が増してきた。彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない――これが恐らく人民の本當の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開國して外國の影響をうけさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の國におけるよりも、より多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と滿足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。 (下巻, p. 26)
私は、スチーム(蒸氣)の利用によって世界の情勢が一變したことを語った。日本は鎖國政策を抛棄せねばならなくなるだろう。日本の國民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な國家となるであろう。 (下巻, p. 87)
下田ハリスの足湯
M. C. Perry, Narrative of the Expedition of an American Squadron.
Matthew Calbraith Perry (1794~1858) was the Commodore of the U.S. Navy who opened Japan by concluding the Convention of Kanagawa in 1854. The U.S. squadron of four battleships entered Edo bay in July, 1853. Perry landed at Uraga, handed in the letter from the U.S. president Millard Fillmore to the representatives of Japan, and returned to Hong Kong. In February 1854, Perry’s squadron of seven battleships appeared again in Edo bay. On March 31, the Convention of Kanagawa was concluded in Yokohama. Perry returned to Hong Kong after exploring Shimoda and Hakodate. Extractions are based on the site of the University of Hong Kong.
Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan
The University of Hong Kong, E-BOOK@HKU LIBRARY
http://ebook.lib.hku.hk/CTWE/B36599566/
THE Japanese are an exceedingly industrious and ingenious people, and in certain manufactures are surpassed by no nation. (p. 63)
They are exceedingly quick in observing any improvement brought in among them by foreigners, soon make themselves masters of it, and copy it with great skill and exactness. They are very expert in carving metal, and can cast metal statues. (p. 63)
No people work better than they can in wood and bamboo, and they possess one art in which they excel the world. This is in lacquering wood work. Other nations have attempted for years,- but without success, to equal them in this department. (p. 63)
This they make, and some say in greater perfection than the Chinese can. At any rate, specimens we have seen of Japanese porcelain are very delicate and beautiful; though some writers tell us, that, owing to the exhaustion of the best clay, they cannot now manufacture such as they once could. (p. 64)
They make silk, the best of which is superior to that of China. ... They have but small skill in producing cotton fabrics, though such are made. (p. 65)
Where necessary and practicable on their roads, the Japanese make good bridges, often of stone; but they do not seem to have arrived at the art of tunnel-making. ... They know something of mathematics, mechanics, and trigonometry. Thus, they have constructed very good maps of their country; (p. 68)
The Japanese, like many other people of lively temperaments, have a passion for things that are strange and odd, and rather prefer sometimes to be galled. (p. 69)
But superstition is in the way. To come into contact with death is deemed pollution. Without such examinations, it is obvious that the knowledge of the physician and surgeon must be but imperfect at best. (p. 71)
Their drugs are mostly animal and vegetable; they are too little acquainted with chemistry to venture upon mineral remedies. They study medical botany, however, with great attention, and their remedies are said to be generally efficatious. (p. 71)
There would seem to be something like a common school system, for Meylan states that children of both sexes and of all ranks are invariably sent to rudimentary schools; whether supported by the State or not he does not say. Here the pupils are all taught to read and write, and are initiated into some knowledge of the history of their own country. Thus much the meanest peasant child is expected to learn. (pp. 73-74)
The Japanese music, of which, by the way, the natives are passionately fond, has nothing in it to recommend it to the ears of Europeans or Americans. (p. 74)
Of anatomy, as we have already said, they know nothing, and consequently are no sculptors; neither are they portrait painters. They are ignorant of perspective, and, therefore, cannot paint a landscape; but in the representation of a single object, their accuracy of detail and truthful adherence to nature cannot be surpassed. Their deficiency is in composition. (p. 75)
They cannot be said to understand architecture as an art, though they cut stone and lay it skilfully enough; nor have they any skill in the work of the lapidary. (p. 75)
These Japanese officials, evincing as they always did a certain reserved curiosity, yet showed an intelligent interest in the structure of the steamer and all that pertained to its appointments. While the engines were in motion they minutely inspected every part, but exhibited no fear, nor any of that startled surprise that would be expected of those who were entirely ignorant of their mechanism. (pp. 306-307)
The Japanese always evinced an inordinate curiosity, for the gratification of which the various articles of strange fabric, and the pieces of mechanism, of ingenious and novel invention, brought from the United States, gave them a full opportunity. They were not satisfied with the minutest examination of all things, so surprisingly wonderful as they appeared to them, but followed the officers and men about and seized upon every occasion to examine each part of their dress. (p. 416)
The Japanese are, undoubtedly, like the Chinese, a very imitative, adaptative, and compliant people; and in these characteristics may be discovered a promise of the comparatively easy introduction of foreign customs and habits, if not of the nobler principles and better life of a higher civilization. (p. 417)
To dispose of the subject in one word, the entertainments of the Japanese, generally, while full of hospitality, left but an unfavorable impression of their skill in cookery. The Lew Chewans evidently excelled them in good living. (p. 443)
The two ladies were unceasingly courteous, and kept bowing their heads, like a bobbing toy mandarin. The smiles with which they perseveringly greeted the guests might have been better dispensed with, as every movement of their lips exposed their horrid black teeth and decayed gums. The mayoress was uncommonly polite, and was good natured enough to bring in her baby, which her guests felt bound to make the most of, though its dirty face and general untidy appearance made it quite a painful effort to bestow the necessary caresses. (p. 461)
The inferior people, almost without exception, seemed thriving and contented, and not overworked. There were signs of poverty, but no evidence of public beggary. The women, in common with many in various parts of over-populated Europe, were frequently seen engaged in the field labors, showing the general industry and the necessity of keeping every hand busy in the populous Empire. The lowest classes even were comfortably clad, being dressed in coarse cotton garments, ... (p. 461)
There is one feature in the society of Japan, by which the superiority of the people, to all other oriental nations, is clearly manifest. Woman is recognized as a companion, and not merely treated as a slave. Her position is certainly not as elevated as in those countries under the influence of the Christian dispensation, but the mother, wife, and daughter of Japan, are neither the chattels and household drudges of China, nor the purchased objects of the capricious lust of the harems of Turkey. The fact of the non-existence of polygamy, is a distinctive feature, which pre-eminently characterizes the Japanese, as the most moral and refined of all eastern nations. (p. 462)
The Japanese women, always excepting the disgusting black teeth of those who are married, are not ill-looking. The young girls are well formed and rather pretty, and have much of that vivacity and self-reliance in manners, which come from a consciousness of dignity, derived from the comparatively high regard in which they are held. (p. 462)
Simoda shows an advanced state of civilization, much, beyond our own boasted progress in the attention of its constructors to the cleanliness and healthfulness of the place. There are not only gutters, but sewers, which drain the refuse water and filth directly into the sea or the small stream which divides the town. (p. 467)
The people have all the characteristic courtesy and reserved but pleasing manners of the Japanese. A scene at one of the public baths, where the sexes mingled indiscriminately, unconscious of their nudity, was not calculated to impress the Americans with a very favorable opinion of the morals of the inhabitants. This may not be a universal practice throughout Japan, and indeed is said by the Japanese near us not to be; but the Japanese people of the inferior ranks are undoubtedly, notwithstanding their moral superiority to most oriental nations, a lewd people. Apart from the bathing scenes, there was enough in the popular literature, with its obscene pictorial illustrations, to prove a licentiousness of taste and practice among a certain class of the population, that was not only disgustingly intrusive, but disgracefully indicative of foul corruption. (p. 469)
Hakodadi, like all the Japanese towns, is remarkably clean, the streets being suitably constructed for draining, and kept, by constant sprinkling and sweeping, in a neat and healthful condition. (p. 507)
"We saw nothing remarkable in the manner or workmanship of the Japanese shipbuilder's. It is doubtful whether they have any scientific rules for drafting or modelling, or for ascertaining the displacement of water by their vessels; nor perhaps has it been necessary, as the law confined them all to one model and size." (pp. 521-522)
In the practical and mechanical arts, the Japanese show great dexterity; and when the rudeness of their tools and their imperfect knowledge of machinery are considered, the perfection of their manual skill appears marvellous. Their handicraftsmen are as expert as any in the world, and, with a freer development of the inventive powers of the people, the Japanese would not remain long behind the most successful manufacturing nations. Their curiosity to learn the results of the material progress of other people, and their readiness in adapting them to their own uses; would soon, under a less exclusive policy of government, which isolates them from national communion, raise them to a level with the most favored countries. Once possessed of the acquisitions of the past and present of the civilized world, the Japanese would enter as powerful competitors in the race for mechanical success in the future. (p. 525)
In examining into the character of art exhibited by the Japanese in the illustrated books and pictures brought home by the officers of the expedition, of which several specimens are now before us, the same surprising advancement of this remarkable people, as they have shown in so many other respects, is strikingly observable. (p. 527)
On the first visit of the squadron to Japan, as we have stated, intense interest was excited among the natives by the engines of the steamers. Their curiosity seemed insatiable, and the Japanese artists were constantly employed, -when they had opportunity, in making drawings of parts of the machinery, and seeking to understand its construction and the principles of its action. On the second visit of the squadron, Mr. Jones saw, in the hands of a Japanese, a perfect drawing, in true proportion, of the whole engine, with its several parts in place, which he says was as correct and good as could have been made anywhere. (p. 529)
There is great scope for sculpture in the image-worship of the religion of the Japanese, and, accordingly, statues of stone, metal and wood, abound in the temples, shrines, and by the waysides. The mechanical execution of these generally exhibits much manual skill, but none of them are to be named as works of art. (p. 530)
With the exception of a temple or a gateway here and there, which, in comparison with the surrounding low houses, appeared somewhat imposing, there were no buildings seen which impressed the Americans with a high idea of Japanese architecture. The most creditable specimens of this branch of art are found in some of the stone causeways and bridges which are often built upon single bold Roman arches, and in design and masonry are equal to the most scientific and artistic structures anywhere. (p. 530)
Education is diffused throughout the Empire, and the women of Japan, unlike those of China, share in the intellectual advancement of the men, and are not only skilled in the accomplishments peculiar to their sex, but are frequently well versed in their native literature. (p. 531)
Notwithstanding the calamities caused by the earthquake, there was shown a resiliency, in the Japanese character, which spoke well for their energy. They did not sit down and weep over their misfortunes, but, like men, went to work, seemingly but little dispirited. (p. 589)
日本野蛮論
欧米から見た朝鮮
DNAが語る日本人のルーツ
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