2011/3/4
「龍神雲現る」
初めての方は左の目次にカーソルをのせクリックすると記事を読むことができます。またアップ後に多々加筆することがあります。
神はいにしえからわたしの王であって、救を世の中に行われた。あなたはみ力をもって海をわかち、水の上の龍の頭を砕かれた。あなたはレビヤタンの頭をくだき、これを野の獣に与えてえじきとされた。(詩篇74章)
その日、主は堅く大いなる強いつるぎで逃げるへびレビヤタン、曲がりくねるへびレビヤタンを罰し、また海におる龍を殺される。(イザヤ書27章)
主に逆らう悪人は災いだ。彼らはその手の業に応じて報いを受ける。(イザヤ書3章11節=3月11日)岩手が地盤の小沢一郎はこれで平成20年度以来地震攻撃を受けるのが二回目である。主とは東インド会社の末裔である米国のこと(ご本尊は英国)。その主にノーと言ったのですからね。(これは仮説です)シオンのプロトコールその1を読むといいだろう。政治家は豚小屋の番人である,と。小沢一郎は全てから身を引き闇の世界があることを知るべきだろう。海兵隊なんていらないと言ったらしいがあんたは莫迦か!!
著者:カレル・ヴァン・ウォルフレン。
誰が小沢一郎を殺すのか。
カバラでは11と22は聖なる数字で単数化できないがあえて単数化すると3+11=14=5=額に五芒星を有すバフォメットという悪魔。
毎日浮かれてアチャラカテレビを見ている人には関係ないのですがね。
ファティマ第三の預言
聖書のリヴァイアサンは龍と解釈していいだろう。メーソンロッジの最上階で33位階のグランドマスターしか入れない部屋で大理石の龍は突然立ち上がり鼻から煙を吐く。カーテンの裏にはイルミナティがいて指示を出す仕組みだ。ここではアヤワスカの幻想儀式が続く。
3月4日午後5時30分。ウッドデッキからの前方に龍神3体が現れ西の方に消えていった。何か悪い前兆か。
これは写すのに手間取っている瞬間に姿を変えた(頭を砕かれた?)。
龍神が去った後の赤い空。
そして日没。
岩永天佑『告発の書』に見られるように猟奇殺人は日本の龍脈,あるいは,子午線の切断を狙ったものであることを忘れてはならない。これを実行しているのはカルト集団である。管理人は「HOLY BIBLE FREEMASONRY」という書物を持っている。いずれ紹介しよう。時の終わりが来る前に。その時使用されるのは中性子爆弾とHAARPであろう。阻止出来るのは各個人の勇気と美しい心しかない。
OSSの極秘文書
映画2012年とは?
新潟県長岡市で行われた「超臨界流体」とはCO2を地中深く水分を含む帯水層に閉じ込める実験。かねてから管理人は懸念していたがやったのはまたあの企業か??不動テトラ(コード1813)を念入りに仕込んでいたのもこの連中か?直近で融資残が300万株も増えているのはどういう意味でしょう。仕手相場になっても規制は入らない??トーシローは手出し無用。
3月11日物凄いHaarp Fluxgate Magnetometerの揺れ。本来のハープの意味は拙稿聖書ものがたり・サミュエル記参照
「巨大地震は水素核融合で起きる」の著者山本寛さんの解説。プレートテクトニクス理論は間違い!!
ウエゲナーの大陸移動説なんて小学生でも知っている。
巨大地震は水素核融合で起きる。
↑「現代地震学」は間違っている
山本氏の【仮説】では、水が地中深くに送り込まれると鉄などの金属に触れて原子状の水素が発生し、これが核融合反応を起こして爆発的なエネルギーを放出する、これが地震であるとなっています。ゆえに、長岡で行ったような液化炭酸ガスを地中に注入することは人工地震を起こすようなもので大変危険であるというのです。
「そもそも、一枚の金属でもない岩石に巨大な歪エネルギーを蓄えることができると仮定すること自体、非常に無理な仮説だと言えるのではなかろうか。
地震予知に巨費を投じながら地震予知の技術が進歩しないのは、このような間違った仮説を前提にしているためではないだろうか。」(22ページ)
地震を起こす兵器は存在する。
国民の魂を救おうとするならば,大衆教育の水準を高めて,それを受けた者が,少なくとも,営利主義とプロパガンダの低級な形態にひっかからないようにすることが,唯一の方法である。<歴史の研究著者:アーノルド・トインビー>
プロパガンダ七つの情報操作
全体の教育水準をあげなければ儀式殺人はなくならない。つまり今のような大学入試をもう一回すると2/3が入れ替わってしまうような知識のコントロール教育では駄目なのです。政治家が駄目なのではないのです。政治家が本当に国民のためになることを言うと落選させてしまうあなたたちが悪いのです。だから彼らは選挙の際名前の連呼しかしなくなった。
ダイアナ妃の事件はアブラハムにまで遡れば理解できる。バランサー(X−DAYまでのつなぎ役)のデヴィッド・アイクはダイアナ妃が英国王室全員がトカゲ(PINDAR)に変身したのを偶然見てしまったので殺されたと書いています。彼は大変危険な人物であることは元イルミナティ11位階のシスコ・ウイラー女史から聞きました。ドデイ・アルファイドはアブラハムの女奴隷ハガルの子,つまりイシュマエル(アラブ人の祖)でダイアナ妃はサラの子の白人の血を引く血流であった。
イシュマエルの祖先に関しては聖書ものがたり・ヨシュア記参照
PINDARは、地球のイルミナティのリーダーで、PINNACLE of the DRACO(龍座:犬座)を縮めて表した言葉。龍というより巨大なトカゲ,というのがイルミナティの世界の解釈。つまりデヴィッド・アイクはイルミナティの代弁者として自らは安全地帯にいるのです。
天空の蛇
天空の蛇(この本は買っておいた方がいいでしょう。いずれ紹介します。)
出版社/著者からの内容紹介
禁じられたエジプト学
エジプトの建造物は、見る者にたとえようのない感動を与える。それは、ギリシャ以前の文明では使われていなかったはずの円周率(π)や黄金分割(φ)、そしてさまざまなシンボルを駆使した成果だった。古代エジプトには、わたしたちよりもはるかに高度な知識が伝えられており、 民衆には秘密にされていたという。しかし、ルクソール神殿をはじめとする建造物や芸術作品の中に、「シンボル」という形で残されていた!著者、ジョン・アンソニー・ウェストは、アルザス出身の研究者シュヴァレ・ド・ルービッチの「シンボル主義」によるピラミッドテキスト(ヒエログリフ)の解釈法を伝授し、古代エジプトの「聖なる科学」の世界へと読者をいざなう。また、豊富な図と写真、そして主流派エジプト学者の意見も数多く収録し、客観的な観察に基づく科学的なアプローチによって、グラハム・ハンコックが自著『神々の指紋』『創世の守護神』でも引用した「スフィンクス建造年代の謎」も解き明かしていく。
エジプト学会に衝撃を与え、グラハム・ハンコック(『神々の指紋』)やコリン・ウィルソン(『アトランティスの遺産』)を導いた問題作!
内容(「BOOK」データベースより)
エジプト学者たちは主張してきた。「古代エジプトは自己中心的な王=ファラオが支配しており、彼らの遺跡に見られる壁画やレリーフは、彼らの虚栄心を表しているにすぎない」しかし、そこには、私たちの文明が持つよりもはるかに高度な知識が「シンボル」という形で残されている!著者は、アルザス出身の研究者シュヴァレ・ド・ルービッチの「シンボル主義」によるピラミッドテキスト(ヒエログリフ)の解釈法を伝授し、古代エジプトの「聖なる科学」の世界へと読者をいざなう。また、豊富な図と写真、そして主流派エジプト学者の意見も数多く収録し、客観的な観察に基づく科学的なアプローチによって、「スフィンクス建造年代の謎」も解き明かしていく。
ピラミッド幾何学
上は古代エジプトのヒエログラフ(聖刻文字)で五芒星の原型。メンデスの山羊でありバフォメットである。以下はここから....
「一」
一は「絶対」あるいは「統一体」を意味する。
これは、人間には永久に把握できないものである。
この統一体が意識を持つと、「極性のあるエネルギー」が生まれる。
それが即ち、「二」である。
「二」
二は「極性」を意味する。
現代数学のように、「一」が「ふたつ」あるものと考えず、「一」の「ふたつの側面」と考えればよいだろう。これが「分割」の概念である(point3を参照)。
この「極性」を用いると、宇宙の「根源的な対立」や、自然の「根源的不一致」を「否定/肯定」「能動/受動」「男性/女性」「イエス/ノー」といった名前で表現できる。
point3.☆「分割」って?☆
エジプト数学は「分割」という考え方が基本となっている。これは受精卵をモデルにするとイメージしやすいかもしれない。受精した卵子を「一」と見立てて、最初の分裂でそれは「二」になるが、全体はあくまで「一」のままである。以後、受精卵が分裂(分割)を繰り返すように「一」から様々な「数」が生まれてくる、という発想である。
【補足:エジプトの有名なテキストにこんな一文がある。
「私は一だ。そして二になり、四になり、八になる。そこで私は再び一になる」】
「三」
ふたつの「極性」間には必ず関係が生まれる。この「関係」が即ち三である。
日常生活に当てはめれば、男女間の「愛」もしくは「欲望」や、ナトリウムと塩素が化学反応を起こす際の「親和力」などが三に相当する。三位一体を用いた神話では、「精霊」がつまり三を意味している。
「四」
四は「物質」を意味する。
三までは云わば形而上学的な概念である。これを説明・観測するために「物質」という第四の原理が必要となる。例えば「地/土」「水」「火」「風/空気」といったいわゆる四元素は、物質の四つの機能的役割やその原理を説明するために象徴(シンボル)として用いられた。
「五」
五は「創造」を意味する。
上記四までで説明された「物質」が今度は、「いかにして」存在するに至ったかの説明である。
ピタゴラス学派にとって「五」は「愛」を意味するが、これは「生命の創造=男女の結合」とも読める。
また、創造という意味で「五」が理解されていたが故に、五線星形や五角形は神秘的な組織等で神聖なシンボルとされてきている。
「六」
六は「時間」と「空間」を意味する。
これは五項目で説明できた「創造」が、現実に状況として起こるために必要な枠組みである。
エジプトでは、立方体(正六面体)は「空間の現実化」のシンボルとして利用された。
「七」
七は「生成」もしくは「成長」を意味する。
六までで、「創造」に必要な「空間」も「時間」も説明できた。今度はその「時間」の矢、つまり時間の「向き」の説明である。そして、調和音階が七音に分節できるように、古代エジプト人は、現象は七段階で完結する傾向があると考えた。
「八」
八は、「七」までで表現された現象が複雑に入り組んだ、我々の「世界」を意味する。
「九」
古代エジプトでは、九という数に大きな重要性を与えている。
「九」はきわめて複雑で、正確に言葉で表現することは事実上不可能。
芦生の森は行ってみたい。
フリーメーソンのオカルト知識の模範は?
龍に出会った・龍国日本
龍を探して時空の旅
↑「龍」の起源を探っても、「六芒星」の起源を探っても、シリウス星に行き着くのです。「龍」について、調べに調べた結果、「龍」とは何かを、一言で表すなら「六芒星」と結論付けたいです,と。
注:小学生でも知っているマタイによる福音書第2章で「占星術の学者たちが東の方からエルサレムにやって来た......」とある通りこれは人類の太陽崇拝を意味している。いわゆる天体という12星座である。太陽が天体の12黄道を回ることは春分点歳差運動である。「東の方から」とは東方の星で最も輝く犬座の SIRIUS(シリウス)を指している。この星は12月24日にオリオン座の三つの星と直線(これが十字架)に並び,この三つの星は「三人の王」あるいは「三人の賢者」と呼ばれている。三人の王とシリウスは12月25日の太陽の昇る位置を指している。だから三人の王が東方の輝く星に誘導され太陽の誕生(日の出)を訪れる。
龍の系譜
上の原文はhttp://members.jcom.home.ne.jp/mukutama/dragon/dragon.htmですがすでに消去されたか不明ですが興味深い文章なので過去記事から転載しましょう。
『1. 竜の肖像
皆さんは「竜」と聞いて、一体どんなものを想像するでしょうか。鱗に覆われた長い胴体に、申し訳程度の四肢がついた、所謂「竜神様」でしょうか。それとも、トカゲの王様のような巨体に、コウモリに似た翼を有す、所謂「ドラゴン」でしょうか。
いずれも「竜」には変わりありません。しかし、これほど違う形状をしたものが一括りに「竜」とされていることに疑問は持ちませんか?それじゃあまるで、ワニと蛇を「鱗があるし、噛み付くから同じ動物である!」と断言するようなものです。
では、何故同じ扱いをうけているのでしょうか。
それは変に「似ているから」です。
おっと、「おいおい、さっき言ったことと矛盾しているじゃないか」という叱責の言葉はまだ胸にしまっておいて下さい。そう、「竜」は似ているのです。その姿に差異はあるものの、大体において強く、恐ろしいものとして民衆に畏怖されていたのです。しかし、先述した様に、同一の生物ではありません。「竜神様」と「ドラゴン」には、形状もさることながら、性質においてもかなりの隔たりがあるのです。その境界として、東洋と西洋という考え方があります。例えば、日本の「竜神様」とギリシャ神話の「ドラゴン」。どうです?全然似ていませんね。
冒頭にも書きましたが、前者は「鱗に覆われた長い胴体に、申し訳程度の四肢がついている神様」なのです。それに対し、後者は「トカゲの王様のような巨体に、コウモリに似た翼を有す悪者」に過ぎないのです。
これでもう気が付きましたね。そう、東洋では「竜」を強大な力を持った「神」として崇める傾向がありますが、西洋ではどんなに強くとも「悪者」として退治されてしまうのです。
それは、単に同時多発的に発生した伝説が、偶然相対する方向に進んだだけに過ぎないのでしょうか?それにしては共通点が多すぎます。鱗。牙。そして、力。むしろ、そこには世界的なつながりを見出せはしないでしょうか。そもそも、後代に下ってから東洋に「ドラゴン」という概念が輸入された時、「龍」と訳された事がそれを雄弁に物語っています。
もし、東洋に「龍」がいなかったら、「ドラゴン」は「ドラゴン」として定着していた筈なのですから。そう、密教におけるヒンドゥー教の神々の様に。しかし、たとえ共通の根を持つとしても、何故これほどに違ってしまったのでしょう。それには、竜と神の関係、宗教の伝播と侵攻、蛇神信仰について考えなければならないでしょう。では、それらの見地から「竜」を考察してみましょう。
2.竜と神々
宗教は人間に欠かせないものでした。どんな世界にも神はいたのです。そして、神は世界の支配者でした。
呪術と科学は現在において対立項となってしまいましたが、昔は呪術イコール科学というのが世界の基本原則でした。信仰の手段は、信者にとって何よりも確実な自然支配の方法だったのです。
それが内輪だけなら問題はありませんでした。しかし、民族というのは生活範囲を広めたがるというどうしようもない悪癖を持っているようです。そして、文化圏を広める事は他の民族、他の文化、そして他の宗教に接することに他なりません。その結果行われるのは戦争です。私達は戦争で引き起こされる土地の略奪や虐殺などの物質的な侵攻に目が行きがちですが、その深部では敗戦国の精神世界さえも否定していることを忘れてはなりません。
では、それを踏まえて西洋と東洋の具体的な例を挙げてみましょう。西洋ではキリスト教、つまり唯一神信仰が盛んです。それは、何を意味するのでしょうか。
唯一神とは文字通り唯一絶対の神の事であり、彼が支配する世界には他の神々など必要ありません。いや、必要無いというより許されないのです。
この宗教の魅力は、その絶対性にあったと考えられます。相対的な善悪など必要無い。彼に過ちなど無い。唯一無二の存在。そんな強靭なものには、自然に人が集まってしまうものなのでしょう。
あるのは彼に対しての己の立場のみ。それが善か悪かは別として、全ては下位なのです。
そう、それは土着の神々にも当て嵌まります。
シイナの母、玉依美園女史もその事に言及していますが、キリスト教はその歴史的な変遷において、数々の土着の神々を悪魔と見なしてきました。
例えば、バフォメットという悪魔(額に五芒星を有す擬人化した山羊という、べたな悪魔さんです)はマホメットから来ているのだそうです。その堕とされた神の代表格が、西洋の蛇神達です。
古代ギリシャでは蛇は家の守り神でした(それが洞窟で宝物を守護しているドラゴンに通ずるのですね)。しかし、唯一神が侵攻してくると同時に、排斥された彼等は悪の担い手であるドラゴンに変化させられてしまったのです。多分、擬人化させて悪魔にしてしまうにはあまりにも象徴的だったのでしょう。
それに何よりも、キリスト教は元から蛇に深いつながりがあるのです。
例えばレヴィヤタン(某ゲームではリヴァイアサンとして有名ですね)。そう、「なるたる」にも登場してきた――とは言っても、名前だけですが――あの竜です。レヴィヤタンは旧約聖書に出てくるドラゴンですが、神にその頭部を叩き砕かれ、動物の餌にされてしまった哀れな竜です。ここにはもう、西洋のドラゴンとしての要素が見られます。それは、暗に唯一神の絶対性を説いているとても寓意的なお話なのです。
では、それらを考慮に入れながら、視点を東洋に移してみましょう。東洋においては、唯一神は存在しませんでした。その代わり、沢山の神々が世界を支配していました。代表的なものと言えば、世界宗教の一つである仏教でしょう。
僕は今の所お坊さんになる予定はありませんし、その気も無いので、一体どのくらい仏様――正確には菩薩様やら明王様やら山ほどいるのですが、分類不能なので十把一からげで仏様とします――がいるのか想像も出来ませんが、まあ沢山います。
ここで注意しておかなければならないのは、大体において多神教と言うのは一神教より柔軟である、という事です。たとえ戦争を経たとしても、多神教はその神の多さゆえ土着の神を排斥せず、そのまま吸収合併してしまう事が多々あるのです(敵として排除してしまうより、共同戦線を張った方が楽ですからね)。
それに、多神教の神々は他の宗教の神を殺せるほど強くはないのです。何故なら、彼等は確かに神には変わりありませんが、唯一神の様に一人で何もかも――そう、悪魔でさえも――作ったという訳ではないのですから。その為、土着の神として信仰されていた蛇神は、そっくりそのまま仏教に採り入れられました。これが竜神様の正体です。
以上の事から、神に対しての竜の位置が確認できたと思います。それでは次の段階として、宗教の歴史の変遷から竜を読み解いてみましょう。
3.宗教の伝播と侵攻
西洋の精神世界の叩き台になっているのは、無論キリスト教であり、しいてはその起源となったユダヤ教です。そして、そのユダヤ教を作ったのは他でもない、ユダヤ人達です。
ユダヤ教の大本が一体なんなのかは掴めませんが、竜に関しては中々興味深い事が分かっています。どうやら、黎明期のユダヤ教は退治される対象としてのドラゴンを他の宗教から拝借したようなのです。いや、拝借というより、起源となったという方が正しいでしょうか。旧約聖書のレヴィヤタン殺し、その原型はメソポタミアに君臨したバビロニアの神話まで辿ることが出来るのです。
バビロニアの創世記、「エヌマ・エリシュ」にはティアマト(春沢氏のコンテンツとしてお馴染みですね)という名のドラゴンが登場します。神マルドゥクはティアマトを真っ二つに切り裂き、それぞれ天と地に創造しました。そして、残りで山や川、そして人間を創りました。どうです?キリスト教の「創世記」に酷似していますね。
しかし、似ているのはそれだけではありません。竜の性質としてもよく似ています。レヴィヤタンは神に退治される悪竜ですが、ティアマトもまた悪の象徴として神に殺されるのです。
しかし、悪には悪である理由が必ず存在します。そう、レヴィヤタンもただ殺されたのではありません。唯一神に歯向かった為に殺されたのです。そして、彼に盾突くことは悪以外の何物でもありません。では、ティアマトはどこが悪だったのでしょうか?それは多分に為政者の思惑が含まれているのです。
王は神の直系であり、神の為した功績は王の偉大さの証明に過ぎません。そして、神は竜を倒したのです。つまり、信仰の面からも民衆を支配する事が王には必要であった為に、竜殺しの神が創造されたのです。
しかし、バビロニアの神は唯一神ではありません。絶対に悪と言える確証が敵役には必要でした。その結果、ティアマトに水の属性が賦与されました。
え、どうしてかって?理由は簡単です。チグリス川とユーフラテス川の氾濫があったからです。民衆を淘汰し、作物に甚大な被害をもたらす洪水の象徴化は、最も手っ取り早く悪を証明する方法だったのでしょう。それに加え、氾濫を起こすドラゴンの退治というのは、バビロニアの王の重要な仕事である灌漑事業を暗喩しています。そんなことまでしても、王家というのは権威を欲しがったのです。
しかし、ここでまた疑問が浮かび上がってきます。彼等は何故竜である必要があるのでしょう?別に人型の悪神でも構わないのではないでしょうか?そこでは俄かに宗教に内在する問題がクローズアップされてきます。
つまり、ドラゴンすらも宗教の侵攻から創られた存在なのです。人類初の文化、メソポタミア文明の担い手シュメール人は当時メソポタミアに定住していた民族を侵略しました。その民族の詳細は分かりませんが、彼等は大地母神と蛇神を信仰していたそうです。そして行われるのは神話の改竄です。
その後、シュメール人もアッカド人に侵略されましたが、神話に関しては生き残る事が出来ました。それら歴史的事実を経由して、ティアマトはドラゴンになったのです。
ティアマトの上半身は女性であると言われますが、それは土着の大地母神の否定にもつながるのではないだろうかと僕は考えます。
では、話をキリスト教に戻しましょう。
作者であるユダヤ人は苦難の歴史を築いてきました。どこにも定住することの出来ない哀れな人種。それが彼等です。まさに、「さまよえるユダヤ人」だったのです。それが後に選民思想につながるわけですが、ある時期に不本意ながら腰を下ろすことの出来た期間がありました。それは、前五九七年から前五三八年までの間の出来事でした。そう、ユダヤ人がバビロニアの軍門に降った歴史的事件、「バビロン捕囚」です。
ここで注意しておかなければならないのは、「創世記」の成立は前五百年前後のバビロン捕囚後であるということです。つまり、「創世記」の世界創造の方法は、バビロニアのティアマト殺しを土台にしたものだったのではないでしょうか。いくら捕虜の身だとしても、神話くらいは教えてもらったでしょう。
それを裏付けるように、ティアマトという言葉と「創世記」に出てくる世界創造の中でも重要な単語、「淵(テホーム)」が同根のものだったのではないかと比較言語の研究では言われているそうです。
新約聖書の「ヨハネ黙示録」に見られる竜殺し、赤い竜をミカエルが殺すという物語もこの枠を超えるものではありません。そう、キリスト教に見られるドラゴン――ヤーウェに叩き殺されるレヴィヤタンや、ミカエルに屠られる赤い竜――は他の宗教から伝播統合したものだったのです。
余談ですが、キリスト教に関係の深い竜(蛇?)に、ウロボロスという少々風変わりな怪物がいます。ウロボロスは自分の尾を噛む円環として描かれ、(そう、アフタヌーン十一月号、もしくは単行本二巻百十一ページの龍です)主にグノーシス派によって崇拝されたそうです(と言うことは、クリス・カーター制作総指揮の某テレビドラマシリーズの“組織”はグノーシス派?)。
グノーシス派というのは、初期キリスト教の中でも異端の派で、知によって救済を求める信仰を確立しました。つまり、初期キリスト教は知恵の実を食べさせてくれた蛇の信仰を捨てきれず、神と蛇を同一視していた節があるのです。そして、後に永遠の象徴として錬金術に採り入れられました。
知による救済、そこには錬金術と呼ばれる科学との思想的結合点を見出すことが出来るのでしょうか。
4.原初の蛇神信仰
古代において、蛇神は豊饒神でした。その理由は諸説あり、豊饒祈願と男根の関係のレトリックであるとか、蛇に対する先天的な嫌悪感が信仰を生み出し、呪術と習合されていった等がありますが、どれも心理学的な要素が強くなり過ぎているような気がします。
しかし、他に妥当と思える理由説明が見つからない以上、案外当たっているのかもしれません。個人的には単純に水神信仰の一環として、蛇が拡大視されたのではないだろうかと考えていますが、それでは同時多発的な竜の発生の説明がつかないのも事実です。では、敢えて上に挙げたような方法から竜の謎を紐解いて見ましょう。
前者の男根崇拝と豊饒祈願は、もう説明の必要が無いくらい普及した考え方ですね。世界各地に見られる奇祭、珍祭と呼ばれるものは、大体において性的所作を含んだものですが、そこには誕生と豊饒の類似性から生まれたものだと考えられています。勿論日本にも見ることのできる風習です。皆さんの地元でもそういう行事があったのではないでしょうか。
話が逸れましたが、つまりは豊饒祈願の精神がシンボルとしての蛇につながったということです。その意味において、大地母神信仰とも通じます。何と言っても、男性だけでは子供は作れませんからね。
確かにそう言われると、シュメール人の侵略を受けた古代メソポタミアの民が蛇神と大地母神の両方を信仰していた事実ともつながりますし、女性の上半身を有す蛇神(インド仏教のナーガ神やギリシャのエキドナ、ラミア)の信仰に説得力を持たせる事が出来ます。
しかし、全世界的に見られる蛇神信仰が全て大地母神を伴っていると考えるのは無茶と言うものでしょう。特に、女性の半身を持つ蛇は大体において堕とされた神であるという事実が、後発の宗教に虐げられた大地母神の嘆きを表しているような気がします。
しかし、例に挙げたインド仏教(ちなみに、現在の仏教と古代のインド仏教は別物とします)のナーガは、他宗教の排斥にもあっていないのに、以上の特性を持ちました。その説明としては、かなり有用ではないでしょうか。
他にも脱皮と農耕の季節的な関係、冬眠と復活の関係などがありますが、少々便宜的過ぎるような気がします。
では、第二に蛇の生理的嫌悪感と信仰について考えてみましょう。蛇を見て「可愛い」と思う人。哀しい事ですが、あなたの趣味は一般的に見て変わっていると言わざるを得ないでしょう(一般論についての説明は避けます。したくも無いのでここは御容赦を。え、僕ですか?否定はしません)。
時代と地位が揃っていれば、「蟲愛ずる姫」になっていたところでしょうね。そういう方を除いて、蛇というのはあまり良いとは言えない感情を誘発する動物です。
しかし、恐怖の感情というものは、えてして畏怖、敬いに掏り替わるものです。例えば虎。只の猫科の動物なのに、中国には沢山の絵や像がありますね。そもそも、中国の龍というのは、九つの恐ろしい動物の要素から構成されているという考え方があり、それは「九似」と呼ばれています。それを箇条書きにしてみました。
1、 角(鹿)
2、 頭(駱駝)
3、 眼(鬼)
4、 項(蛇)
5、 腹(蛟)
6、 鱗(鯉)
7、 爪(鷹)
8、 手(虎)
9、 耳(牛)
これらが龍を作り上げたのだそうです。では、一つ一つを取り上げて説明してみましょう。
まず鹿。鹿が怖いかどうかは議論が必要ですが、麒麟という架空の動物が示してくれる様に、神性を帯びていたのは事実でしょう。
二番目に駱駝。これも難しい問題です。実物を見た事の無い僕にとって、あの惚けた顔をした動物はどう見ても怖くなさそうな気がします。しかし、怖い怖くないは別として、駱駝は砂漠に必要不可欠です。民衆に必要とされる動物というのは、やはり神性を得るのではないでしょうか。それは、九番の牛にも当て嵌まるでしょう。
三番目に鬼。鬼と言っても日本的なそれではなく、中国的な鬼(魂や精霊)ですが、どっちにしろ目は怖いです。これは単純に恐怖からきているものと考えられます。
そう言う意味では蛇、鷹、そして虎も同じと言えるでしょう(まあ、龍と鬼は密接な関係にあるともいわれていますが、そこらへんになるともう把握できません。ご容赦下さい)。蛟は四足を持つ蛇に似た架空の爬虫類ですが、龍の一歩前段階の生物とも言われています。まあ、そこから採用されたのでしょう。
最後に鯉。怖くないですね。どう考えても。
確かにご当地ではめでたい動物ですが、何故爬虫類ではなく鯉なのでしょう。しかし、魚類と考えれば、納得できなくも無いでしょう。中国では、龍は雨を降らせてくれる神様です。水という属性を証明するには、魚類を出すのが一番手っ取り早かったのでしょう。それに、龍は鱗蟲の最高位の動物と考えられていました。鱗蟲とは文字通り鱗のある動物を分類する方法の一つで、その中には蛇、魚、蟹等が含まれます。多分、そういう事情から採られたのでしょう。
このように、中国の龍、しいては日本の龍も沢山の動物から創られた、いわばキメラのような生物ですが、それがアジアの龍の共通認識ではありません。
例えば、前述したインド仏教のナーガの様な竜は、ずばりコブラが原型です。もう、他に例えようが無いくらいコブラです。ヒンドゥー教全盛となってしまった現インドでは、その姿を見る事は出来ませんが、今だ古代インド仏教を奉ずるカンボジアでは、仏様とコブラは重要な関係にあります。何故そのズレが生じたのでしょう。それは、こう考えられないでしょうか。
先天的恐怖や豊饒祈願から蛇神信仰――特にコブラ――がインドに誕生した。そのため、ナーガのような竜が生まれた。一方中国でも蛇神信仰が生まれたが、インドとは違い恐怖の対象が多数存在した。そして、九似の観点からまるで合成獣のような龍が生まれた。
そう考えてみると納得できなくもありませんが、それはあくまで東洋での話です。西洋ではどうだったのでしょう。
個人的には沢山いたほうが楽しそうですが、やはり一箇所から伝播したと考えた方が妥当でしょう。キリスト教や農耕技術の伝来と共に土着の大地母神否定が広まり、排斥された神はイメージとしての竜になっていきました。
例えば、ギリシャ神話のメデューサやエキドナ。美園女史の言う通り、大地母神は蛇の属性を加えられる事によって悪鬼となります(ちなみに火を吐くというのは、偏に毒性に誇張だと思います。アジアの様な農耕文化の薄い、即ち水神信仰の薄い西洋では、蛇の毒性のみに注目されたのではないでしょうか。狩猟民族としての本能が、名ハンターである毒蛇を敬うまでに至らせたのです)。
そして、キリスト教の叩き台になったのはシュメール人の興した文明です。人類初の都市文明は、見えないところで西側世界を支配していたのです。
5.日本の龍
日本の龍の原型も蛇神信仰に求めることが出来ます。
しかし、蛇神信仰自体が中国産のものということも考えられるので、その起源については言及しません。ただ、農耕技術と呪術の伝来は切っても切れない関係にあるので、やはり中国から輸入されたのだと考えるべきでしょう。
個人的には、古代呪術と中国産の蛇神信仰が結びついたものと考えています(しかし、農耕文化の伝来が何時のものかは、考古学の分野でも研究の最中なので、推測の域を出ませんが)。なぜなら、日本の竜もアジアのそれと大差ないからです。
しかし、龍達だってただ崇められていた訳ではありません。時には息の根を止められる事だってありました。そう、日本でも竜殺しの神話を見る事が出来るのです。皆さんもご存知の「古事記」「日本書紀」に見られる八俣大蛇退治がそれです。話の概要はこうです。
高天が原から追放させられた須佐之男が、出雲で泣いている足名椎(おじいさん)と手名椎(おばあさん)、そして櫛名田比売に出会い、事情を聞いた後、八俣大蛇を例の手法で殺す。
まあ、本当は色々あるのですが、必要な部分だけを取り出してみました。ここでは、龍の神性は考慮されず、あっさりと殺されてしまいます。いくら須佐之男が「荒ぶる神」だと言っても、それはないんじゃないでしょうか。あまりにも情けなさすぎます。しかし、八俣大蛇には神の血ではなく、西洋の竜の血が流れているとしたらどうでしょう。どうやら、この神話にも為政者の政治的な策略が絡んでいるようです。では、歴史的な部分から彼の正体を暴いてみましょう。
「古事記」は七一二年、「日本書紀」は七二〇年に編まれた物語です。バビロニアや聖書と比べてみてください。国定神話のくせに、結構遅くに成立していますね(そもそも、成立年が分かっているだけでも凄い事ですからね)。
話の概略はとてつもなく長くなってしまうのでここでは割愛しますが、一言でいうと天皇の日本支配に至る歴史です。そして、記紀が編まれた八世紀前半と言えば、大和王朝の支配する時代です。しかし、大和王朝といえども、土着の支配者だった訳ではありません。その昔、大和の地を征服していたのは三輪山に住む三輪氏だと言われています。彼等を大和王朝は追い出したのです。
しかし、それだけでは支配者として十分ではありません。そう、西洋の様に精神面を支配する事が目下の課題だったのです。つまり、天皇の神性、正当性を証明する一手段として作られたのが記紀なのです。何と言っても、わざわざ二つも国定神話を作ったことがそれを証明していますね(「古事記」は神話っぽ過ぎたのです。そのため、リアリストな中国人にはウケませんでした。そして作られたのが、「日本書紀」なのです)。そう、八俣大蛇退治は新たな征服者の淘汰の隠喩だったのです。
しかし、それでは出雲の国の出来事であるということの説明が出来ません。その理由がない訳ではありませんが、(本国出雲の「出雲国風土記」には八俣大蛇退治がないのです。記紀では建国の起源である筈なのにです)やはり多少なりの歴史的事実も含まれているのでしょう。古代越の国――縄文時代の大国。蛇神を信仰していた――の没落と出雲の国の台頭。その歴史を縦糸、大和の建国を横糸にして、八俣大蛇退治が作られたのではないでしょうか。「出雲国風土記」に八俣大蛇がいないのは、別に国家の正当性を求める必要が無かったからでしょう(西洋から別の神話として伝わったという説もありますが、夢が無いので割愛します)。
しかし、ここでもまた疑問が湧き上がってきます。何故首と尾が八本なのでしょう。切りが悪いじゃないですか。しかし、昔の人はそう思わなかったかもしれません。「八」、それは中々興味深い数字なのです。
例えば、「君が代」の歌詞には「千代に八千代に〜」とありますが、悠久であることに祈るのに「八」を使っていますね。それに、須佐之男が櫛名田と結ばれ、出雲の須賀に城を造る時に「や雲立つ 出雲八重垣 妻隠みに 八重垣作る その八重垣を」と詠っています。八重に囲まれたように頑丈な城を造りたかったのでしょう。それほど「八」という数には人気があったのです。それを竜に使わない手は無いでしょう。「八」が付属されただけで、神懸り的な権威と強さが付くのですから。
と、ここまでで日本の竜の説明をしてきたわけですが、今度はそれとはちょっと違ったアプローチをしてみようと思います。もっと密接でたくさんいる竜達。数は一億三千万匹くらいでしょうか。そう、我々日本人です。
「そんな訳ないだろ」と思う方も多いでしょうが事実です。何と言っても「古事記」に書いてあるのですからね。ストーリーはこうです。
天照大神の子孫である山幸(ヤマサチ)が竜宮城のような所に行って、豊玉昆比売(トヨタマヒメ)と結婚し帰ってくるのですが、「覗いてはいけない」と言われた出産の光景を見てしまう。すると、トヨタマヒメはワニになっていて、約束を破ったとして海に帰ってしまう。そして、生まれた子供は日子波限建鵜葺草葺不合命(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)と名づけられた。
そして、このフキアエズノミコトの子供は神武天皇です。そう、日本人は竜の末裔だったのです。
ここで注意しておきたいのが、神武天皇の母、つまりフキアエズノミコトの奥さんの名前です。彼女はトヨタマヒメの妹で(彼女も竜です)、その名を玉依昆比売(タマヨリヒメ)といいます。
そう、「玉依」の名が出ているのです!これは偶然の一致なのでしょうか。それにしては出来過ぎています。
そう言われてみれば、美園女史の同僚に「火神さん」という方がいましたね。火の神と言えばカグツチでしょう。そして、カグツチを十挙剣で斬り殺したイザナギの指の隙間から生まれたのは暗淤如美(クラオカミ)の神と暗御津羽(クラミツハ)の神です。この二人も竜だと言われます。
「玉依」と「火神」。この二つの姓は、それが竜と深い関係にある血族である事を示しているのではないでしょうか。それとも、それは只の邪推なのでしょうか。
<1999.03.27 追記>
全国的に分布している民話である蛇の婿入り話の典型、三輪山の伝説にも活玉依昆売という「玉依」の名を見ることが出来た。やはり、シイナの血族はそういうことに関わりが深いのだろうか。
6.世界の竜
ここまで西洋と東洋の一部、そして日本の竜について語ってきたわけですが、竜の生息地はそれだけに留まりません。竜は全世界的に存在するのです。それでは、これまで挙げてきた竜とは別の地域に棲み、別の背景を持つ竜達を紹介していきましょう。
<北欧の竜>
北欧神話で有名な彼の地にも竜は棲息しています。大海に巨大な身を潜ませるミドガルズオルム。世界樹ユグドラシルの根を飽きることなく齧りつづけるニッズヘグ。彼等は西洋世界の例に漏れず、悪役として神話に出演していますが、ただ退治されたわけではありません。ミドガルズオルムは雷神トールとの再三の抗争にも耐え、神々の黄昏ではとうとうトールと相打ちになっています。そして、ニッズヘグはというと……特に何もせず根を齧っているだけですが、さっさと殺されないあたりを見ると、そこそこ強い竜だったのではないでしょうか(ちなみに、ユグドラシルを枯れさせない様に懸命に働いている女神があのウルド、ベルダンディ、スクルドの三姉妹です)。
北欧神話の素地になったのは、ケルト人とゲルマン人の古き神話体系と言われますが、原典「古エッダ」が編まれたのは十世紀頃と真新しいです。つまり、確固とした拠り所のない古来の伝説が、強靭な後発の宗教に歪められる時間がたっぷりあったということです。やはり、北欧神話の竜達もキリスト教の流入によって生み出された、もしくは変容させられたものではないでしょうか。例えば、先に挙げたニッズヘグですが、彼はいつも鷲と反目しあっています。そして、キリスト教では蛇はサタン、鷲はキリストの象徴であると言われています。一方、唯一神もトールのように雷を司り、その力で堕天使長ルシファーを地獄へと追いやっています。そして、ルシファーとサタンは同一であるとも言われています。やはり、キリスト教は西側世界を席巻していたのでしょう。さすが世界宗教の一つと呼ばれるだけの事はある、ということなのでしょうか。
<アメリカ大陸の竜>
アメリカ大陸。それは、新大陸と呼ばれ、アジア、ヨーロッパとは異なった文化体系を持つ大陸です。しかし、「欧米」と呼ばれていることからも分かるように、北米、南米ともに、致命的なほど他国の文化的侵略を受けてしまいました。そんな中、決して目立つことなく、しかし確実に生き延びてきた生物がいます。それが竜です。そう、太平洋、大西洋と物理的な隔絶の深いこの大陸にも彼等は誕生し、独自の進化を続けていたのです。その代表格と言えば、アステカ文明のケツァルコアトルでしょう。ケツァルコアトル(翼ある蛇)はその文字通り、有翼の蛇として描かれます。しかし、その神秘的な姿とは対照的に、中々の好人物(?)と言えるでしょう。これでもほんの一部ですが、人間達に暦法や天文学、そして主食であるトウモロコシの栽培法を教えたりしています(まあ、人間自体を作ったのも彼なのですが)。しかし、そんな彼にもおっちょこちょいな部分があるようで、酔っ払った勢いで淫行に耽ってしまい、宿敵であるテスカトリポカに追放させられてしまいました。しかし、博愛精神に満ち溢れる彼は天へと昇り、金星となって人々を見守っているのです。
以上から、彼は東洋的な性質を持っている竜であるということが窺えます。しかし、それもある意味当然なことなのかもしれません。彼は唯一神の洗礼を受けることなく、スペイン人に抹殺されてしまったのですから。そういう意味では、他民族の侵攻を受けながらも、本来の姿を残したまま存在できた稀有な竜と言えるでしょう。 そうそう、彼によく似た竜として、アメリカインディアンのホピ族に信仰されているパロロコングがいます。そう、「なるたる」に出てきた(?)あのパロロコングです。彼もどちらかといったら東洋的な性質を有していると言えます。しかし、彼等はどうやって生まれてきたのでしょう?やはり、先天的な嫌悪感、恐怖感から生まれたのでしょうか。それとも、アジアからの移民と共に伝わって来たのでしょうか。それについては、まだ議論を必要としていますが、どちらにしても溢れんばかりのロマンが底に流れているとは思いませんか?
7.結論
以上で、竜についての解説は終わりです。では、それらを踏まえた上で、改めて竜の概念を纏めてみましょう。
・ 現段階では「悪」と「聖」に分化してしまったが、根は同種の存在であった。
・ 畏怖と敬いの存在。
・ 人間の精神世界の深部に巣食っている。
どうでしょう。これに似た存在が現代にも存在していますね。そう、「神」です。八百万も唯一神も仏様も時と場所によってその姿を変えてきたように、竜も神々と似たような進化を遂げてきたのです。むしろ、神と竜は同義であると言っても構わないでしょう。そして、神とは元をただせば自然への畏怖に他なりません。人間は竜という存在を創ることによって、自然を支配しようとしたのです(無論、その中には他民族の侵攻、宗教等、未知のものに対する恐怖も含まれています)。
鶏か卵かのパラドックスを例にとるまでもなく、生命の誕生は人類にとって永遠の謎です。その謎を解くための創世神話。それには竜が深く関わっています。進化の過程で得た知能。そして、人間の最大の発明である火。それすらも竜のもたらしたものなのです。そして、今流行りの終末思想。悲観的に生きれば良いというものではありませんが、恐ろしき竜が静かにその時を待っているのです。
現代に生きる私達は、以上の事象の尤もと思われる理由を知っています。たとえそこにロマンはあっても、夢はありません。だから科学を捨てろと言う訳ではありません。先駆者が新たな学問の分野を切り開いてきた様に、古代の人々もその知的好奇心を彼等なりのやり方で満たしていたということです。それを読み解く事は、人間の根源的な精神世界を理解する事でもあります。その鍵としての存在である竜。私達はもう少し彼等と真面目に取り組む必要があるのかもしれません。
8.「なるたる」に於ける竜
さて、やっと本題にたどり着きました。ここまでは、現実の竜を理解するためのひとつの解法について説明してきましたが、その式がそのまま「なるたる」にあてはまる筈がありません。何故なら、「竜の子」は世界に実在してしまっているのです。
では、彼等を理解する解は、どこに存在しているのでしょう?そう、「なるたる」内にその答えは隠れているのです。しかし、作品自体まだ終わっていませんから、はっきりとした答えを出す事は出来ないでしょう。
ですが、冒頭にも書いた通り、足掻く事に意味が無いわけではないのです。では、ここからは、皆さんの意見や個人的見解を元に、なるたるに於ける竜について考えていきましょう。
まず、「竜の子」について今の時点で分かっている事を箇条書きにしてみました。
1. 形を変えることが出来る……エン・ソフの変形。
2. 名前は不確定……「竜の子」と「竜骸」。
3. 物を創り出す事が出来る……ハイヌゥエレのバルカン砲。
ホシ丸の鉄柱。
4. 偶然ではなく、必然から発生……小森の発言(「竜の子に好かれそう」)。
シイナと明の会話(「使命?」)。
こんなところでしょうか。さて、それでは、一つ一つに解釈を加えていきましょう。
まず、1番。これはむしろ、形自体が確定されていないと言うべきでしょうか。例えば、「竜の子」プッシュダガーの形状と、それの所有者である小森の嗜好の関連性は、それを暗に示しているかのようです。まだ作中には出ていませんが(?)、高野の「竜の子」も同じ様な理由からさとみに嫌われていると考えられます(彼は中々のセンスの持ち主のようです。可愛らしい小物や、女物の服を好んで着たりしていますし)。まあ、二人の関係にも、なにかしらそういったものがあるのかもしれませんが。
しかし、そうするとシイナ、明、そして須藤の「竜の子」の形状の類似性が気になります。それについて、僕は「まだ成長段階ではないのか」と意見しましたが、小森達のリーダー的存在である須藤の「竜の子」も同じような形態をしている事から、それは過ちであると考えられます。
それに対し、工藤さんは「基本形態なのでは?」と意見をしていますが、彼等がただの塊であるという小森の発言や、形而下で捉える事の出来ない存在であるということから、彼等には基本形態そのものが無いと考えられないでしょうか。認識論の世界になってしまいますが、少なくとも何等かの形で知覚する事が出来れば、「基本形態」というある種の面に即した回答を得ることが出来るでしょう。
しかし、はたして形而上の存在に「基本形態」というものが成立するのでしょうか。それに、エン・ソフの「やっとわたしの聲が届きました……」という発言から鑑みると、エン・ソフはリンクする前から明を知っていたことになり、どの瞬間に於いて(墜落後か、明とリンクした際か、それとも明という存在を何かが知覚した瞬間か)あの形状が決定したかが不明になってしまい、何が基本形態かと言う問題も複雑怪奇なものになってしまいます。
では、「竜の子」の形状は、一体何をモチーフにしたものなのか。それはやはり、深層心理によるものなのでしょうか。工藤さんも、後にこう訂正していますが、須藤の言動も甘えたいという欲求の反動形成とするのならば、あの形状も納得できるでしょう。それに、何よりもシイナに間接的に抱かれている明の言葉を重視すれば、それもありえるのではないでしょうか。
しかし、ホシ丸は他の「竜の子」とは一線を画している様なので、何とも言えません。ホシ丸は、何か別の存在であると考えた方が良いのかもしれません。ミケノオスさんは、その理由を「星そのものだからではないか」と言っています。それを念頭に置くと、あの形状も、名前に関する伏線も納得することが出来るでしょう。それは、中々鋭い意見なのかもしれませんね。
では、二番。名前の表すものについて考えていきましょう。まず、先述した様に、「竜の子」には「竜骸」という別の呼び名があります。どうやら、各々が勝手に呼んでいる訳であって、正式名称があるわけではないようですが、そう呼ばれるからには何等かの理由がありそうです。まあ、単行本を紐解いていただければ直ぐに答えは見つかるのですが、敢えてここに記してみました。
「あなたの頭の中の語彙にぴったり該当するものがありませんが……
妖怪……妖精……悪魔……化物……鬼……竜
人間が形而下で捉えられない存在に便宜上つけた名前……
器……殻……未完成なもの
死体……骸……終わったもの」
そう、エン・ソフが明にはじめて接触した時に語った言葉です。ここから何が汲み取れるのでしょうか。
まず、『妖精〜竜』。これは、「竜の子」達が竜に限らず、あらゆる人外のものである可能性を示唆しています。宮子巽副局長も「全てに可能性を残すべきでしょう」と言っていますね。
そして、『器〜終わったもの』というのは、正に「竜の子」と「竜骸」とを端的に表しています。つまり、それを聞いた人達(須藤であったり鶴丸であったり)が各々命名したと考えられないでしょうか。つまり、この前口上を経て、人はそれとリンクできるということではないでしょうか。
しかし、いくつもの説明の中から、敢えて「竜」を使用したのは何故でしょう。
「竜」、その名と、空を遊弋しているそれと、どちらが早く存在したかは、そのうち作品上で明らかにされるでしょうが、それをめぐる物語には期待を禁じ得ません。
しかし、それがどんな物語であったとしても、第三の特徴である「物質の生成」は謎に満ちています。それがどういった原理によるのかはまだ分かりませんが、幾つかのヒントは出されています。
例えば、ホシ丸が蚊を吸収してしまうシーンと、鉄柱を生成するシーンとの関連性。これはどう考えても、「蚊などを材料にして鉄柱を作り出した」としか思えません。もし、蚊を材料に鉄柱を作る事が出来るのならば、ほぼどんな物でも材料になるのではないでしょうか。もしかしたら、蚊が原材料ではないのかもしれませんが、いつどんなところでホシ丸が何を吸収していたかなど不毛な詮索に過ぎないので、ここでは追求しません。
しかし、そうすると、創られる側の条件が問題になってきます。小森を貫いたシーンから考えると、どうやらリンク者が認識したものに限られてくるようですが、だからと言って認識した物なら無差別に創る事が出来るわけでもないようです。
そこで浮かんでくるのは、「黒の子供会」内での高野の「さとみも作動原理憶えろよ」という台詞です。「作動原理を憶える」。この場合、この表現は少々おかしくないでしょうか。普通なら「使い方」とか「使用法」とくる筈です。しかし、「作動原理」としている。何故か。
その答えは、第十八話の須藤の「竜の子」が行動をもって明かしてくれています。そう、「竜の子」があの小銃を生成していますね。つまり、作動原理を憶えなければ、銃のような高度な武器を使う事が出来ないのではないでしょうか。事実、須藤自身「護身用」と言っているのに、わざわざ不死身の「竜の子」に持たせることはないでしょう。明は「竜の子」を五感の延長と形容しています。では、記憶もトレースできるのではないでしょうか?それは、穿ち過ぎと言うものでしょうか。
そして、最後の特徴であり、最大の疑問、なぜ「竜の子」はシイナ達にもたらされたのでしょうか。
シイナの言によると、「使命」があるそうですが、本人でさえまだ分からないところを見ると、明かされるのはまだ先のようです。しかし、小森の選民思想、須藤の「地球を守る人」という発言からすると、その「使命」という言葉に偽りはなさそうです。たとえそれが人類にとって危険なものであってもです。そして、「竜は現身に関与しない」という小森の発言がそれを裏付けています。
では、一体どんな思想に「竜」は惹かれるのでしょうか。増えすぎた人類の間引き?過激自然保護団体?まだ答えは出ていませんが、多分そこに「なるたる」の主要なテーマが隠されているのでしょう。
以上で、「龍の系譜」は終わりです。結局、何が何だかと言う結論になってしまいましたが、少しは「竜」について整頓できたと思います。では、「なるたる」がこれからも優良な作品として突っ走ってくれる事を祈りながら、筆を下ろしたいと思います。
龍蛇神イナンナ?
管理人注:『キリスト教は,シリア社会に属していた人々を先祖とする民俗からきたものである。シリア世界の一半を形づくっていたイランは,ミトラ教を提供した。イシス崇拝は,エジプト世界の征服された北半分から来たものである。アナトリアの大母神キュペレの崇拝は,多分,当時,宗教を除く他のすべての社会的活動の面において,死滅してからすでに久しい時を経ていた,ヒッタイト(Hittite)社会からもたらされたものとみなされる〜〜〜もっとも,この大母神の究極の起源を探ってゆくと,アナトリアのペシヌス(ガラテア地方の都市)でキュベレーとなり,ヒエラポリス(シリアの北部の町)でシリア女神De Dea Syraとなり,あるいはまた,遠く離れた北海やバルト海の聖なる島の森の中で,ゲルマン語を話す人々に崇拝される地母神となる以前に,元来シュメール世界においてイシュタルの名で知られていた女神であることが判明する』(Study of Historyサマヴェル縮小版より)
リヴァイアサン(ルシファー研究室より)
前200年頃『ヨブ記』第41章(日本聖書協会訳『聖書』iconより)
あなたはつり針でわにをつり出すことができるのか。糸でその舌を押さえることができるのか。
この部分の欽定英訳は「Canst thou draw out leviathan with an hook? or his tongue with a cord which thou lettest down?」で、この日本語訳では「わに」とされている部分が、「leviathan」にあたる。このあと、「leviathan」の詳細な描写が続き、それによると、口から火花を出したり、鼻から煙を出したり、心臓は石のように硬く、その身を動かす時は勇者も恐れをなし、剣も槍も矢も通用しない、誇り高ぶる者の王だという。かなり「ドラゴン」的な存在だ。
前200年頃『詩篇』第74章(日本聖書協会訳『聖書』iconより)
神はいにしえからわたしの王であって、救を世の中に行われた。あなたはみ力をもって海をわかち、水の上の龍の頭を砕かれた。あなたはレビヤタンの頭をくだき、これを野の獣に与えてえじきとされた。
そんなレビヤタンも、YHVHによってスレイされる。多くの研究家はこれを、バアルが龍ヤムを倒したドラゴンスレイヤー伝説を取り入れたものだろうと考えている。
前200年頃『イザヤ書』第27章(日本聖書協会訳『聖書』iconより)
その日、主は堅く大いなる強いつるぎで逃げるへびレビヤタン、曲がりくねるへびレビヤタンを罰し、また海におる龍を殺される。
同じく、YHVHがレビヤタンをスレイした記事。ここでは、YHVHが剣を持っているところが興味深い。
1世紀頃『第四エズラ書』(関根正雄訳『旧約聖書外典』下巻icon/講談社文芸文庫)
そののち、あなたは二つの生きものを生かしておかれました。その一つはベヘモートと名づけ、他の一つをレビアタンと名づけられたのです。あなたはこの二つを別々のところにはなしておかれました。なぜなら水があつまったあの第七の区域は、これら二つの生きものをいっしょに入れておくことができなかったからです。あなたはベヘモートには第三日目に水の干あがった土地、つまり多くの山のある陸地を住みかとして与え、一方レビヤタンには第七の区域、水のある場所をお与えになりました。あなたはあなたのよしとされる人が、よしとされる時に食べるためにこれらの生き物を生かしておられたのです。
『シリア語バルク黙示録』では五日目だったのが、ここでは三日目になっている。同じように食料になるんだな。
以下省略
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