2010/11/19
「ダンテ神曲ものがたり その32」
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13-14. 先ず始めにお前は俺様がウゴリーノ伯爵だったと知るべきで:ゲラールデスカ家のウゴリーノUgorino della Gherardescaは、ドノラティコDonoraticoの伯爵で、政治的関係がギベリン党である貴族のトスカーナ一族に属していた。1275年に彼は、ゲルフ党にピサでの政権を取らせるために、義理の息子ジョヴァンニ・ヴィスコンティGiovanni Viscontiと共謀した。この破壊行為のために国外追放されたけれども、ウゴリーノ(ニーノ)・ヴィスコンティはその町のゲルフ党政権を譲り受けた。3年後(1288年)彼はヴィスコンティからピサを解放するためにウバルディーニ家のルッジェリ大司教と(悪事を)たくらんだ。しかしルッジェリが別に計画を持っていて、そしてギベリン党の助けをかりて、彼は町の支配を握って、ウゴリーノを、彼の息子や孫と共に、「餓えの塔」(23)に閉じ込めたのである。この二人は確かにちょうどアンテノーラAntenoraとトロメアTolomeaとの境界に居たのかもしれない、なぜならウゴリーノは彼の国を裏切ったために(アンテノーラにて)懲らしめられており、そしてルッジェリは彼の仲間であるウゴリーノを裏切ったために(トロメアにて)懲らしめられているのである[矢内原注:ここのウゴリーノ伯爵の物語は、その残酷な叙述において『地獄編』の中でも最も有名な部分であり、第5章のフランチェスカの恋物語があり、その美しさと両方相対して文学的に最も有名なところであるのです。フランチェスカも絶望的な悲しみを持っているし、ウゴリーノも絶望的な憂いをもっているのです。それを語りかつ泣いている──涙をもって語るということが地獄的なのです。フランチェスカの場合はこの世的には美しい、いじらしい、いとおしい乙女の恋心であり、ウゴリーノの場合はもう百戦錬磨の古つわものの深い復讐心です。両方ともシンプル。単純で生一本である点において共通であり、そこが私どもの同情をひくところですが、勇士の復讐心にせよ、乙女の恋心にせよ、その行き着く先は希望のないところに行く。ダンテがいかに私どもの同情心をひいても、要するにフランチェスカもウゴリーノもインフェルノ地獄に閉じ込められているのです。その点を見失い、ただ文学的に深い作品であるとか、人の心をよく穿ったとか感心するだけでは、ダンテの精神を掬まないものだろうと思うのです][なお、矢内原によれば、『神曲』においては極少数の例外を除き、一般に霊魂は己が名のみを語る場合には現在動詞を用い、称号を言う場合には過去動詞を用いるが、名というものは永久的で永続的なものであるから現在で書き、称号とかは永続しないものであるから過去の動詞で書いて区別した]。
25. 俺様は過ぎ去る月のまたその後の月を眺めていた:1288年の6月に監禁され、彼らは1289年の2月についに餓死したのである。
28-36. 俺様はここにいるこの者が領主かつ猟師として:ウゴリーノの夢は実に予言的であった。この「領主かつ猟師」(28)は大司教ルッジェリであり、彼は、ピサのギベリン党一族(「グァランディをシスモンディやランフランキと共に」33)と民衆(「やせこけた牝犬」31)を率いて、ウゴリーノとその子孫(「狼とその子供等」29)[二人の息子ガッドGaddoとウグィッチョーネUguiccioneと二人の孫アンセルムッチョAbselmuccioとブリガータBrigata]を追い詰めてついに彼らを殺すのである。「山の上に」(すなわち、ピサとルッカの間にあるサン・ジュリアーノ山San Giulianoに:「その山はピサ人からルッカの景色を遮っておる」)の言い回しはおそらくは彼らが閉じ込められた高い塔[グァランディ家の塔、現在修道院または大聖堂がある]を暗示すると思われる。
50. 彼らは泣いた、そして小さなアンセルムッチョが言った:アンセルムッチョはウゴリーノの孫のうちの小さい方であった。公文書によれは、彼は当時15歳であったに違いない。
72. 第五の日と同様に第六の日が過ぎ去った:[Durling:中世の読者はキリストの死が週の六日目に起こった事実を警告してきたであろう]
74. 二日間俺様は彼らの名前を呼びつづけた:[Durling:注釈者たちは天地創造の七日間との皮肉的な類似を見てきている。安息日後の日に起こったキリストの復活との否定的な類似もまたある(中世では8という数は広く洗礼と復活に結び付けられた)]
75. それから餓えが悲しみよりも大きい力強さを証明したのだ:この行でウゴリーノが人食いの行為を告白しているのであろうと、または単にその死の原因を物語っているのであろうとダンテは読者の想像力に任せている。彼が我々に第一の可能性の立場で考えるままにさせていることは否めない。そのうえ、彼はウゴリーノがルッジェリの頭蓋骨を噛み砕くように上演することを決めているのである[矢内原注:一つは断食が憂いよりも強くなって腹が減ったから子供たち肉を食ったという説。他はそうでなくてウゴリーノ自身が死んだ──悲しみ(憂い)では死ぬことができなかったが、断食が強くなって死んだという説。あとの説の方がいいでしょう。この五人の死んだあと、その塔から五つの死骸を外に出して葬ったということが伝わっておるそうですから、死骸を食うことはよけいな想像でしょう]。
79-90
ダンテはピサ人を、ウゴリーノ伯爵が受けるに値するために彼を罰したためではなく、彼の4人の幼い子供を殺したために痛烈にののしっている。彼はアルノー河口からそう遠くは離れていないティレニア海Tirrenoにあるカプライア島Capraiaとゴルゴーナ島Gorgonaの島々を呼び寄せ、アルノー川を塞き止めて、それによってピサを水浸しにしてその悪い住民達を殺そうとしている(82-84)。「再生したるテーバイ人」(88)としてピサ人を照会させることで、ダンテはギリシアの都市の歴史的特徴をなす恐ろしくて憤慨させる事件を呼び覚ましている。テーバイに関する以前の言及については、14:69; 20:59; 25:15; 30:22; 32:11を参照のこと。
79-80. 「そうです」の響きが聞こえる/公正な土地:「そうです」は原語では”sì”で、イタリアでダンテの時代においては「はい」を意味する言葉によって言語地域をそれとなく知らせるのが慣わしてあった。第18章61行および注解と比較せよ[「そうです」の響きが聞こえる公正な土地とはイタリアのことで、ピサがイタリア人にとって非常に恥であると述べている]。
88. おお新しく生まれたテーバイ人よ:[矢内原注:テーバイはギリシアの町で、いろいろ残酷なことが行われた町です。新しきテーバイというのはピサをさし、残酷な行為をしたピサということですが、ピサはテーバイ人の造った植民地であるという伝説があった]
89-90. ブリガータよ、ウグィッチョーネよ/そして他のわが歌のうたうやさしき二人の名よ:ブリガータBrigataはウゴリーノの2番目の孫でウグィッチョーネUguiccioneは彼の4番目の息子である。「他の二人」(90)に関しては、前述した(注解50、58)。ダンテは、「彼らの生まれた年月」と述べることで、歴史的事実を離れている――それはアンセルムッチョ以外のすべてが成人した者であると語っているのである。
91-93. わたしたちは先へと移動し、そこは凍った水が:ウェルギリウスと巡礼者は今嘆きの川(コキュトス)の3番目の区域に入っている。そこはプトレマイオスPtolemyに因んでトロメアTolomeaと呼ばれている。彼はエリコJerichoの首領であったが、義父のシモンSimonとその息子の二人を食事中に殺した(マカベア前書16:11-17参照【資料33-1参照】)。またはおそらくはコキュトスのこの地域はプトレマイオス12世に因んでつけられた。彼はエジプト王で、ポンペイウスPompeyがその領地に迎え入れられたが殺害された。トロメアでは客を殺した者等が凝らしめられている。
105. わたしはどのような熱もこれらの底には届くことができないと思うのです:風は、ダンテの時代の科学によれば、熱の変化する温度によって作られる。したがって、コキュトスは、完全に氷閉されているので、あらゆる熱がない。次の章で巡礼者はルシフェルの巨大な翼がその風の原因であると自身で分かるであろう。34:46-51参照。
117. 力ずくでこの氷の下に落とされよう!:巡礼者は、彼の旅が彼を実際に氷の下へと連れて行くだろうことに十分に気付いていて、その裏切り者の亡霊に対して注意深く彼の裏切りの約束を述べ、そしてうまく彼を騙すのである(149-50)。
118. 私は修道士アルベリゴで:快楽騎士団(注解23:103-108参照)修道士の一人、マンフレッド家一族のウゴリーノ家のアルベリゴAlberigo di Ugolino dei ManfrediはファエンツァFaenza生まれであった。1285年、家族不和の最中に、アルベリゴは彼の主要な敵対者である、マンフレッドManfred(近親者)とアルベルゲットAlberghetto(マンフレッドの息子)を、仲直りの客として晩餐に招いた。その食事の一品のある時に、アルベリゴは、前もって手はずを取り決めていた合図を使って、果物を要求した、その合図で彼の部下が晩餐の客たちを殺したのである。その「果物」の描写に続けて、アルベリゴは「ここではナツメヤシが私の与えたイチジクの代わりに私に奉仕させられているのだ」(120)と皮肉を込めて云う事で彼の忘れられない苦悶に心を痛めているのである。それは(ナツメヤシがイチジクよりもうんと価値があったということで)彼が自分の取り分よりもずうっと損害を受けていると言うべきである。
124-35. このトロメアという地域は大いに特殊である:教会の教義によれば、ある条件下で生きている人が、裏切り行為によって、死ぬ前に彼の魂の所有を失うことがある(「アトロポスがそれを遣わす前にここに落ちることがしばしば起こるのだ」126)。その時、地上では、悪魔なるものがその自然死まで彼の身体に宿るのである。
134. 冬を過ごしている亡霊なるものは:[Durling:原文は”vernare”で「冬を過ごす、冬眠する」であるが、しかし、”vernare”が「(鳥たちの慣わしで)春に歌う」意味もまたありうるので、この言い回しはさらに痛烈な(軽蔑を含んだ)ものであるかもさえ知れない。歯をカチカチ鳴らす「コウノトリの叫び声」(32:36)に関係があるかも知れない]
141. ジェノヴァ市民よ:[地獄偏におけるイタリアの都市への公然の非難の最後である。地獄偏で頻繁に登場する都市は、マントバ(第20章)、プラート(25:1-3)、ヴェニス(21章)、ロマーニャのさまざまの都市(27章)である。悪の溝での非難:18:58-63(ボローニャ)、21:37-42(ルッカ)、25:10-15(ピストイア)、29:121-32(シエナ)。悪の溝を越えたところでは:33:79-90(ピサ)、33:151-57(ジェノヴァ)、そして煉獄編で6:127-51(フィレンツェ)である。聖書にはユダヤの町を批判した個所がある【資料33-2参照】]
137-47. そいつはオーリア家のブランカ様だ:ジェノヴァの著名な駐在官であるオーリア家のブランカBranca D’Oriaは彼の義父ミケル・ザンケMichel Zancheを、食事を共にしようと誘って殺した。彼の裏切り行為は1275年に起こされたけれども、ブランカは(または少なくとも彼の地上での身体は)1325年までには死んでいなかった。アルベリゴはダンテに、ブランカの魂が彼の裏切り行為を実行した近親者とともに、ミケル・ザンケの魂が訴訟教唆人の溝に到着する前でさえ(142-47)、ここトロメアに落ちているのだと告げているのである。
150. その者に卑劣なのが寛大な報いだったのです:[原文は”e cortesia fu lui esser villano”「しかし彼を無礼にする故の親切な行為であった」である。Durlingは「彼を無作法に扱うことが礼儀だったのです」と訳している。野上は『トロメアには反逆者が住んでいるので、反逆的行為が正しい行為なのである、それゆえ残酷に取り扱うことが、親切に取り扱うことになるのだ。それでダンテは目から氷の覆いをとってやらなかった』と注釈している]
154. なんとなればロマーニャの最も野卑な魂と共に:アルベリゴ修道士のこと。ファエンツァは、彼の故郷だが、ロマーニャ(現在はエミリアと呼ばれている)の区域にあった。
155. わたしが汝の世人を見つけたのだ、その者の所業かくのごとくありて:オーリア家のブランカのこと。
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