2010/11/19
「ダンテ神曲ものがたり その28」
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9. 二十二哩:[第9ボルジアの周囲が22ミリオ(22マイル≒35km)で、第30章86によると第10ボルジアはその半分である。ダンテの地獄はすり鉢状であるが、特に地球の大きさとの関連を与えたものではない。イタリア語で”miglio”は「かなりな距離」または「1千」を意味するラテン語の”mille”から派生したが、その複数形”milliarium”の短縮形”mil”が古英語に派生し、現代英語の”mile”である。しかし現代英語の”mil”は「千分の一」を意味する]
10. かつすでに月は我らの足元であるぞ:太陽は、その時、ちょうど真上であり、それがエルサレムにおける真昼であることをほのめかしている[Durling:この月が満月から2日過ぎているから(20.127「してこの月昨夜すでに満ち足りておった」)、エルサレムでの時間は土曜日の午後早くである。ベルギリウスの二人を許容する時間の限界に対する言及は他の世界への訪問者が24時間以内に(この旅行は金曜日の夕暮に始まった:2.1「日が暮れゆき、黒ずみゆく様子は」)完了されなければならないという広く流布されていた民間伝承と明らかな関係がある。すなわち、あと4、5時間しか、この時には、残っていないのである(34.96参照:「すでに太陽が三時課中央に到着しておる」、三時課中央とは午前7時30分である)。図式的には、もちろんの事、煉獄の山の裾野への到着は復活祭の朝に間に合わなければならない]。
13-21. もしもあなたがわたしの探していたものを:[Durling:巡礼者が自分は親類の一人を捜すためにのろのろ歩いていたのだと主張しているのである(ベルギリウスが27行でこの親類を特定する)]
27-35. われは叫ばれたその者の名を聞いたが、ベルロのジェリである:ベルロのジェリはダンテの父の最初のいとこであった。彼が、1260年にギベリン党の手にかかった傷の為に1269年に補償がなされた者の中にいたことと、彼がサケッティ家と血縁不和に巻き込まれていたことを除いては彼についてはほとんど知らされていない。彼を殺したのはおそらくサケッティ家の一人であった。殺害のための親族によるあだ討ちは当時義務を負わされていると考えられていた。そしてはっきりとしていることは、ジェリの殺害者が1300年にはアリギエーリ家によってまだあだが報いられていなかったことである。
29-30. アルタフォルテの領主:ボルンのベルトランである。28章130-42行、注解142参照[ベルトランがジェリの名を呼んだのであるが、巡礼者はその声に気を取られて、ジェリが去って行くのを見ていないのである]。
36. わたしは大いに哀れを感じているのです:[ベルギリウスはダンテに24行で「前向きに考えよ」と言い、復讐のことをこれ以上考えるなと示唆しているようであるが、ダンテ自身は、ジェリが復讐できていないことを告げようとしてダンテを指差したのに、ダンテが気が付かず無視した結果となり哀れを感じている]
40. 悪の溝の最後の回廊に立つようになると:第28から30章は一構成単位の全ての部分であるように思われ、おそらく詐欺師達が、巡礼者の行くところより深いところをお互いに切り離す事がより難しくなってきていることをほのめかしているのである。9番目と10番目のボルジアの間を埋めるものは懲罰における類似を含み(手足を切り離されていること、病気にかかっていること、そして身体と心を醜くされていること)、そして9番目のボルジアが第29章で繰り越されている事実である(実際に10番目のボルジアはここ40行目で始まる)[「回廊」”chiostra”は修道院の中庭を囲む回廊でもある]。
47-49. マレンマ、ヴァルディキアーナそれにサルデーニア:ヴァルディキアーナとマレンマはトスカーナ州における湿地帯である。サルデーニアの沼地(湿地)と共にマラリアや他の病気を引き起こす事で有名であった。ダンテはマレンマを25章19行で、沼地に出没した蛇と関連付けて引き合いに出した。この「病院」のイメージは第10のボルジアでの病気にかかった亡霊達を導いている[この地方には様々な宗教団体の病院が建てられた。ここでは、詩人ダンテが巡礼者ダンテと読者の両方に話し掛けている]。
55-63. ──そこは威厳のある神の僕:[ここも詩人ダンテの付加説明である]
58-66. 私はそれらの全てがアイギーナ島で死ぬような苦しみを味わっているのではないかと思う:この第10のボルジアの受苦者との比較はサロニコス湾Saronikos KólposにアエギーナEgina, Aegina[【ギリシア神話】アイギーナ]という島に関係がある[現代ギリシア語ではエイナ”Aíyina”]。ユーノーJuno[【ギリシア神話】ヘーラー]がこの島にのろい(疾病)を送り、それがアイアコスAeacus以外の住民を全て殺した。アイアコスはユーピテルJupiter[ゼウス]にその島が再び住めるように祈った、そしてユーピテルが蟻を人間に変えることでそうしたのである【資料29-1、29-2、29-3参照】。オビディウスOvid『変身物語』Z、523参照。
67-139
悪の溝(マーレボルジア)の最後として、この地獄の最大の部分で(悪の溝は第18章で始まった)、ダンテは文体に凝る人としてこれまでの旅の多くを要約している。ここでは、例えば、我々はマーレブランケ(悪の爪一族)によって支配された訴訟教唆の罪を犯した人達のボルジア(21,22章)としての異様なおかしさの再来を持つのである。すなわち、我々がベルギリウスの錬金術師達に対する所見(88-89)の中に「病的な」おかしみと呼べるであろうものがあり、カポッキオの言葉(125-32)にはあからさまな皮肉としての喜劇的要素があり、また訴訟教唆人達のボルジアにおける「料理する」描写が彼の言葉(128-29)とグリフォリーノとカポッキオの光景(74)の中に繰り返されているのである。旅の頂点からこの地点への要素(成り立ち)としてのこの章における圧縮の例は他にもベルギリウスがする旅の目的の要約にある(94-96)。偽善者達のボルジアの非常にゆっくりとした(largo)動きはここでもまた見られ(70-71)、ダンテが偽善者達のために用いてきた回廊での修道士との比較もまた目立っている(40-42)。この要約する手法は次の章でも続けられる。たとえば、偽造者達の静止と擬人達の速度に注意のこと、また、ヴィーナのピエルの静止がラーノとヤーコポの狂わんばかりの疾走と対照を成している自殺者の森(第13章)における情景と比較するとよい。
74. 平鍋のように火に対して背に背を支え:[矢内原注:「二つの鍋を並べて熱すると鍋が鍋にもたれて熱するのです。病人で熱病を患っておりますからそれでいっそうこの譬えが適切です」]
75. 痂皮だらけでした:[「かさぶた」という語句が3回でてくるが、原文ではそれぞれ異なっている。75行目は”macolati”で”maculare”、すなわち”macula”(「染み、よごれ、あざ」)が残っている状態を言い、日本語の「かさぶた(痂皮)」(英語では”crust”、外傷やできものが治るにつれ、その上にできる皮状の塊)に近い。82行目は”scabbia”で「疥癬(かいせん)」(または「皮癬(ひぜん)」、英語で”scab”、皮膚の柔らかい間や下腹部に多発する伝染性の皮膚病)、85行目は”dismagliare”で「編目をほどく」という意味であるが、Musaは”scrape off your scabs”、Mandelbaumは”strip yourself”、Sayersは”trim thy coat”と訳している。Musaは3回とも”scab”を使って訳しており、拙訳においても「かさぶた」を共通に用いた。矢内原は「痂(かさぶた)をおとすときに簡単に落ちる痂もあるし、それからひっぱってとる時もありますから、それで(指を)釘抜きにすると言った(86行:「指をやっとこのように」)。おもしろい言葉ですが気持ちが悪い」と評している]
109-117. 「俺はアレッツォ出身でさ」と彼等の一人が答えました:多くの注釈者たちはこの者をアレッツォのグリフォリーノGriffolino da Arezzoだと特定している。その物語はグリフォリーノがシエナのアルベルトAlberto da Sienaに舞い上がり方を教えてやると信じ込ませたというものである。アルベルトは彼に十分な支払いをしたが、詐欺に気が付いて、彼がグリフォリーノを魔術師だとシエナの司教に告発したところ、その司教は彼を焼き殺したのであった。「そいつの子供だったがね」の言い回しは、司教に当てはまり、彼がアルベルトの父ないしはその保護者のいずれかであったことを意味するかもしれない。
122. シエナ人のように愚かな人物:フィレンツェ人はライバルであるシエナの人々をたくさんの物笑いの種の標的とした。
124-26. すると同時に耳を傾けていたもう一人のライ病患者が:カポッキオ(後ろの方の注解136参照)はシエナ人の馬鹿さ加減に関してここでいくつかの皮肉的な話題を持ち出している。ストリッカ(おそらくはシエナのサリンベーニ家出のジョバンニ家のストリッカStricca di Giovannni dei Salimbeni)は間違いなく浪費家として有名であった。昔の注釈者達は彼がシエナの若者の集まりで無頓着に財産を浪費した「浪費家達の社交界」(ブリガータbrigata:遊び仲間、130行参照)の一員であったと信じている。第13章115-21行と比較のこと。
127-29. そしてニッコロも、こいつは調味料として:サリンベーニ家のニッコロNiccolò de' Salimbeniは「浪費家達の社交界」の会員でおそらくストリッカの兄弟であった。彼はシエナに丁子(クローブ)の使いみちを紹介したが、当時はとても高価な香辛料であった。何人かの初期の注釈者は彼が燃え立っている丁子床できじ肉をあぶったと主張している(燻製のようなものか)。いずれにしてもカポッキオはシエナ人の愚かさのほかの例の様にニッコロの無頓着な浪費に触れているのである。この「えり抜きの庭」はシエナそのもので、そこではいかなる社交界の習慣も、たとえどんなに馬鹿げていようとも、受け入れられていたのであろう。
131. そこではカッチャがそいつの森とぶどう園を浪費したんでさ:アスキアーノのカッチャCaccia d' Ascianoは「浪費家の社交界」の会員で、相続財産をむだづかいした。
132. そしてアッバリアート(愚鈍野郎)が卓越した機知を見せびらかしたんでさ!:アッバリアートAbbagliatoはフォルカッキエリのバルトロメオBartolomeo dei Folcacchieriという名の人物だと特定されてきたが[原語の意味から「愚鈍野郎」と訳した]、1300年にシエナで営業所を開設していた。彼はこの「社交界」の会員であった。
136. そこでお前さんはカポッキオの亡霊を見てそれと知る事になりますやろ:カポッキオCapocchioは1293年にシエナで錬金術のために生きながらに燃やされたある人物の名前(またはニックネーム:「とんがり頭」の意味)である。明らかにダンテは彼を知っていた。初期の注釈者によれば、それは彼らの学生時代のことであった。
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