2010/11/19
「ダンテ神曲ものがたり その27」
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1. かって気ままな散文:[原文は"parole sciolte"でラテン語の"oratio soluta"、すなわちunbound speech「規則のない言葉」である。Musaは注解していないが、”the simplest kind of prose”と訳している。「散文」”prose”は、固定された数ないしは規則によって規制される「詩」に対して用いられる。イタリア語で「散文」は、"prosa"であるが、ダンテはこの単語を使ってはいない。『俗語論』でダンテは、詩節stanzaにおける詩行を束として括られた固定された長さの薪に比較している(2.5、2.8)。山川は『絆なき言(ことば)』と訳していて、注に『平仄押韻の制限なき言すなわち散文』としている。中山は『解かれし詞(ことば)』として注は同じ。Durlingはラテン語を踏襲して"unbound words"である。Mandelbaumは、原文どおり”untrammeled words”、Sayersは”words unshackled from the rhymes”と訳している]
7-12. もしも誰かが、昔むかしにプーリアの運命的な土地で:第9番目のボルジアで姿を現すであろう大変な数の、手足を切り取られてばらばらにされた亡霊を紹介するのに、ダンテは、イタリア半島の南東地域のプーリア州で起こった多くの血の戦いへの言及を順番に「積んでいく」のである。その一続きの一番目は、プーリア人の「ローマ人の手で命の血を流され」(9)にあるが、サムニウム人sannita, Samnite[イタリア中南部のサムニウム地方に住んだ古代民族の人]とローマ人との間の長い戦い(343-290B.C.)[サムニウム戦争guerre sannitiche]である。次は、「金の指輪のとてつもない略奪に終始したかの戦争の長い年月の間に再び流されたのである」(10-11)で、第二次ポエニ戦争the Second Punic War【資料28-1参照】、すなわちハンニバルHannibalのローマに対して戦った軍隊"legióne"[ローマ史で「レギオン」。古代ローマで騎兵の付属する3,000〜6,000人の歩兵軍団]である(218-201B.C.)。リビウスLìvio, Livyが、カニーCanne, Cannae(カンナエ、ここでハンニバルが216B.C.にローマ軍を打ち破った)の戦いの後に、カルタゴ軍が死んだローマ人の指から3ブッシェル(約100リットル)の指輪を集めたと書いている[矢内原によれば、ローマ人歩兵4万何千人、騎兵2万何千人の合計7万人以上が殺された]。
9.ローマ人の手で命の血を流され:[ここの「ローマ人」は原文では"Troiani"で、トロイア人であるが、アイネイアースとその従者の子孫としてのローマ人である。イタリア半島を支配するためのローマ人とラテン民族との全ての戦いに関しては、その最も血なまぐさい戦いの一つがサムニウム戦争(280B.C.)であり、それはギリシアの報酬目当てのピュロスPirro, Pyrrhusを巻き込んだ(第12章135参照)。訳としては、Musa以外はすべて「トロイア人」である]
11. 再び流されたのである:[主語は9行目の「彼ら」であり、「プーリアの人々」であるが、9行目は原住民のサムニウム人で、11行目では彼らを滅ぼしたローマ人である]
13. ロベルト・グイスカルドに立ち向かった時に:11世紀においてロベルト・ギスカルドRuberto Guiscardo(c1015-85)は、ノルマン人の貴族の冒険家で、南イタリアの大部分の支配を得てプーリア州Pugliaとカラーブリア州Calabriaの、教会における行政長官gonfaloniereだけでなく公爵となった(1059)。次の20年の間に彼は南イタリアの教会のために教会分離を企てるギリシア人ならびにサラセン人と戦った。後に彼は東部において教会のために戦い、グレゴリウス7世Gregoryに対して包囲攻撃を起こし、70歳で死んだが、それでもなお交戦状態を約束された。ダンテは彼を火星天に信仰のための兵士と共に置いている(天国編第18章48行)。
15-18. その上にはいまだ堆く積まれた別の者らの骨が/チェプランに:プーリアにおける血なまぐさい闘いと第9のボルジアの間のさらなる比較である。1266年にアンジュー家のカルロがシチリア王マンフレッドManfredの軍隊に対して行軍した。マンフレッドは南へ導く道を封鎖したが、チェプラーノ(チェプラン)Cepranoで道が裏切り者の擁護者によって断念された。カルロはその時邪魔されずに行進しベネヴェントBenevenutoでシチリア軍を負かし、マンフレッドを殺した。実際は、その時、その闘いはチェプラーノでされていなく、ベネヴェントにおいてである。
長たらしい戦いの連続の最後の例はアンジュー家のカルロとマンフレッドの従者との間の戦争行為の続編である。1268年タリアコッツォでの戦いでカルロが将軍アラルド(エラール・ド・ヴァルリErard de Valery)の助言を採用してその会戦に勝利を納めた。アラルドの作戦は力よりもむしろ機知の一つであったが(ある「隠された」予備軍が最後の瞬間に戦闘に参加したが、その時マンフレッドの甥であるコルラディーノConradino(コンラッドConrad)が勝った様に思っていたのである)、それが「年老いたアラルド」が戦闘無しに打破したと言われることは厳密にはあり得ない[Durling:マンフレッドの敗北の後、ギベリン党の根拠がフレデリックの正統の孫であるコルラディーノによって擁護されたが、彼はタリアコッツォTagliacozzoでアンジュー家のカルロに滅ぼされた。そこはナポリの北西(ローマの東)の険しいアブルッツィAbbruzzi州の町である。この戦いは大変血なまぐさいものであったが、コルラディーノがフランスの将軍アラルドによって騙されたのであった。アラルドはしたがって「武器無しに」すなわち、策略によって勝利したのであった]。
22-24. どの酒樽も樽板か箍が弾けたとしても:[Durling:砕ける容器のイメージに注目のこと。この章で、ダンテは繰り返して、有名な、戦いの歓喜の詩人ベルトラン(ベルトラム・ダル・ボルニオBertram dal Bornio)を真似ている。ベルトランの"Bem plai lo gais temps de pascor"(「十分に満足せり我陽気な復活祭の時によりて」)における、裂けてもぎ取られた肉体と防備設備に関する、"qan vei fortz chastels assetgatz/ els barris rotz et esforndratz"(「我包囲されし頑丈なる城並びに破れ裂かれた外壁を見るならば」)を参照。ベルトランの言葉自体は古フランス語の身振りの歌、特に「ローランの歌」【資料28-2参照】で確立された、衝撃的戦闘で維持された残忍な負傷に関する常套語をまねている。それをダンテがおそらくは13世紀のベネチア版押韻詩の中で読んだ のであろう]
25-27. その者の脚の間にはその者のはらわたが漏れ出していました:[マホメットMäomettoの吊り下がった腸は悪の溝(マーレボルジア)それ自体の暗示である。「糞に変えるそのきたならしい袋」とは胃袋のことである]
31. 見よ如何にマホメットが醜くされ引き裂かれているかを:マホメットは、マホメット教(イスラム教)の創始者で、およそ570年にメッカで生まれ632年に死んだ。彼の刑罰は、股から口まで切り開かれていて、アリーAliとの互いに補足的な刑罰とともに、二人がキリスト教会とイスラム主義との間の大きな「シスマ」scisma(教会分裂・分離)の創始者であったというダンテの信念をはっきり示している。ダンテの同時代人の多くは、マホメットが本来はキリスト教者であり教皇になろうと欲した一人の枢機卿であったと考えていた。
32. 我の前には、泣いて悲しんでおるが、アリーが歩いておる:アリーAli(600頃〜61)はマホメットの最初の弟子で、教祖の娘ファティーマFatimaと結婚した。マホメットが632年に死に、アリーは656年に「カリファ」kalifa(アラビア語で「後継者」)を引き受けた[シーア派を分派した]。
35. 紛争と分裂:[「紛争」は原文では"scàndalo"で、キリスト教でいわゆる躓く石からきた言葉で、「(不道徳行為によって引き起こされる)憤激、反感」である。現代英語でのスキャンダルscandalではなく、イタリア古語としての「不和、紛争、騒ぎ」である。また「分裂」は"scisma"だが、ずばり(キリスト教での)教会分離、分裂である]
35. 種蒔き人達:[Durling:「種蒔き」の隠喩はマタイによる福音書13.24-30, 36-43における毒麦の例え話から由来している【資料28-3参照】]
44. 汝が懺悔したときに汝に伝えられし宣告:すなわち、ミーノースの前で懺悔したことをいう。第5章8行参照。
56-60. ドルチーノ修道士に告げよ:ドルチーノ修道士fra Dolcinは、修道士でないにもかかわらず、彼の名前がそれとなく知らせていると思えるように、1305年教皇クレメンス5世によって、異端者(異教徒)として禁止された宗教一派の指導者であった。ドルチーノの派は、使徒会といい、使徒時代の「質素への宗教の回帰」を伝道した。彼等の信条の中には財産の共同と婦人の共有があった。クレメンス5世がその信者仲間の根絶を命じた時、ドルチーノと従者達はノヴァーラNovara近くの丘に隠れて、そこで彼等は餓死が彼等を征服するまで1年以上もの間教皇軍に抵抗した。ドルチーノとその相手であるトレントのマルグリットMargaretは1307年火刑柱で火炙りにされた。マホメットのドルチーノへの関心は、結婚と婦人に関する二人の同一の視点から生じているかも知れない[ドルーチェは糧食が尽きまた雪に閉じ込められて降参をしたが、火炙りにされたのは1307年であるから、1300年という煉獄のこの場面では、まだ生きているのである]。
73. メディチーナのピエールを思い起こせ:この罪人の生涯については明らかにされている事が何もないけれども、我々は彼の故郷がボローニャ近くのポー渓谷(ヴェルチェッリVercelliとマルカーボMarcaboの町の間に横たわる「穏やかな平原」、74)にある町メディチーナMedicinaであることを知っている。初期の注釈者ベンヴェヌートBenvenuto da Imolaに拠れば、メディチーナのピエールPier da MedicinaはポレンタPolenta家とマラテスタMalatesta家の間の反目のけしかけ人(扇動者)であった。
74-90. グイード閣下に告げかつアンジョレッロに告げよ:カッセロのグイードGuido del CasseroとカリニャーノのアンジョレッロAngiolello di Carignanoは、ファーノFano(アドリア海に面した小さな町でリミニの近く)の指導的市民で、マラテスティーノMalatestino(片方の目だけて判断したその「裏切り者」、85)によって、リミニとファーノの間にあるカットーリカCattolicaという海岸に面した町から遠く離れた船上で逢うために招待された。そこで1312年から1317年までのリミニの公爵であるマラテスティーノが、彼がファーノの支配を得ようとするために、彼等を船外へと抛り込むことを命じた。すでに死んでしまっているので、マラテスティーノの裏切りの二人の犠牲者は、カットーリカ近くのファカーラの岬を過ぎる船を掠奪するこの恐ろしい破壊的な暴風「ファカーラの風」(90)から逃れようと祈らねばならないことがなかったのであろう。
87. 自分の目を決して与えはしないと願う国:リミニ。クリオはリミニを決して見たくなかったと望んでいた(97-102参照)。
92-93. 誰が/そのつらい視力で満足するのですか?:巡礼者は、ピエールが、リミニに対して「自分の目を決して与えはしないと願う」「誰か」(86-87)について早い時期に言ったことに触れているのである。
97-102. この男は、逃亡中に、カエサルの疑いを全て掻き消し:カイウス・スクリボニウス・クリオCaius Scribonius Curioはアドリア海に注ぐルビコン川Rubicone近くの都市リミニを決して見たくなかったと望んでいる。かつてはポンペイウス下のローマの護民官であったクリオは、カエサル側に亡命した。そしてローマの指揮官がルビコン川を越えるのを躊躇した時、クリオは、超えてローマに凱旋するよう彼を納得させたのである。当時ルビコン川はガリアGaulと共和制ローマとの国境を成していた。カエサルのそこを超える決心はローマ市民戦争を早めた[前49年1月カエサルが軍隊を率いて自分の任地の属州とイタリアの境をなすこの川を越えたのは共和制ローマの伝統を踏みにじるもので、ここにポンペイウスとの内乱の火ぶたがきられた。古代にもことわざとなっていた<骰子(さい)は投げられた>という文句(メナンドロスの句)を口にして、川を越えたと言われている(98)。ルビコン川は諸説があるが現在のフューミチーノ川Fiumicinoが有力である。クリオの説得でカエサルとローマが裂かれたのであるから、彼は舌を抜かれ続ける罰を被っている]。
106-108. お前は、疑いもなく、またモスカを覚えておるだろう:モスカMosca は、彼については巡礼者が初期にチャッコCiaccoに尋ねた事があるが(第5章80行)、フィレンツェのランベルティ家Lambertiの一員であった。彼の助言(「何をしようが済んでしまいやす」107)はフィレンツェを反目するゲルフ党とギベリンに分割する原因となった。伝承としては、ブオンデルモンティ家のブオンデルモンテBuondelmonte de' Buondelmontiがアミーデイ家のランベルトゥッキオLambertuccio degli Amideiの娘と婚約した。しかしながら、ドナーティ家のアルドゥルーダArdrudaが娘を彼に申し入れ婚約破棄の場合には違約金を払う事を約束した。ブオンデルモンテは受け入れ、したがって激怒したオデリーゴOderigoは、仕返しを要求した。力のあるウベルティ家Ubertiは、モスカの扇動で、ブオンデルモンテが殺されるべきだと宣言した(そして殺された)、何故なら仕返しの寛大なかたち(例えば、たたくこと)は最も厳しいかたち(殺害)のように多くは憎悪を蒙るのである。
107. 何をしようが済んでしまいやす:[原文は"Capo ha cosa fatta"で、逐語訳では「頭は出来上がった事実を持っている」であろうか。Durling:字義的には「済んでしまった事は頭(終わり)である」だが、短く言えば「彼を殺せ」である。(イタリア語のcapoは英語ではheadで、英語のcapはイタリア語ではberrettoであるが、英語のcapには「帽子(覆い)をかぶせる」という動詞がある]
108. 不和の種::[原文は"mal seme"で「悪の種」だが、Musaは"the seed of discord"(「不和の種」)と訳した。山川以下日本語訳は「禍の種」としている(野上は「悪の種」)。Durling:(上記の)モスカの言葉は、問題の結果よりもむしろ、束縛を解かれた暴力である。原文の頭"capo"は恥の結末ではなく、分離・分割の始まりである。ことばとしては種(比喩的に「根源」)である]
109. そしてあなたの一族全ての死の:[Durling:巡礼者がモスカの助言に帽子をかぶせている(cap)のである。そして結末に呼びかけ、すなわち帽子は彼の血縁にかぶせられているのである。実際、ランベルティ家の影響力はすぐに弱まった。1258年彼等は暴力のためにフィレンツェから放逐された]
112-42. しかしわたしはその群集をじっと見ようと残りました:[Durling:不和の種蒔き人の最後の例証はボルン家のベルトランである。その詩行に対するほのめかし(隠喩)はこの章にとって一種の副題材を供給してきている。マホメットとの面談の次にくるが、これはこのボルジアにあっては最も長いものだが、それは特別に顕著な(人目を引く)結末を与えている]
116. その良心とは良き仲間がその純粋無垢の胸当の下に:[Durling:それ自身を純粋だと分かるのは良心である、すなわち潔白な(非難するところのない)ことである。ダンテは中世の武器の術語(専門語)に対する聖パウロの「正義の胸当」を適用している(Eph.6.14:『では、真理を帯にし、正義を胸当にして立て。』、Is.59.17:『かれは、正義を胸にあて、/すくいのかぶとを、頭にかぶり、/服のように、仇うちをまとい、/マントのように、熱心で身をつつまれた。』)。
119-26. とある身体で頭が無く:[Durling:マホメットの負傷の晒(さら)しのように、ベルトランの自分の頭をぶら下げている様はキリスト教殉教者の一様式をもじっている。頭足類動物は、打ち首にされると自身の頭をぶら下げて自身の埋葬場所へと歩いていく(たとえば、聖ミニアートで、その教会はフィレンツェの上に座っている;煉獄編第12章注解101参照)
121-22. それはそれの厳格な頭をその髪で掴んでいました:[Durling:古典叙事詩において、高く持ち上げられた厳格な頭は勝利のしぐさである(『アエネーイス』9.466参照:「彼等はエウリュアルスとニーススの頭を槍に突き刺しさえした――それはなんという光景だったか!――そして彼等の後に続いて叫びながら行進した」(David West: A New Prose Translation, 1990)、もちろんのこと、メドゥーサの頭を持っているペルセウスも参照:【ギリシア神話】ペルセウスはゴルゴーンのひとりメドゥーサの頭を切り落としてアテーナーにささげた]
123. ああ!:[原文は"Oh me!"で"ohimè!"すなわち、「(苦悩、失望、絶望を表し、常に感嘆符を伴う)ああ、悲しいかな、あわれ」である]
134-36. 知れ我はボルンのベルトランなる、それは:プロヴァンスのトルバドゥールtroubadour(吟遊詩人)の偉大な一人であるボルンのベルトランBertran de Bornは12世紀の後半に生存している。当時の政治家(策士)における彼の関連事は彼の詩に再現されていて、ほとんどもっぱら政治的な性格である。彼は地獄のここではヘンリー王子(「若き王」135)の、父イングランド王ヘンリー2世に対する反抗を引き起こしたとして(罰を)受けている。
137-38. よこしまな扇動を持ったアキトーフェルも:ダンテはボルンのベルトランの悪意ある助言とアキトーフェルAchitofelのそれとを比べている。かつてダビデDavidの護官(顧問)であったアキトーフェルはアブサロムAbsalom, Absaloneの、父であり王であるダビデに対する反抗を扇動した。サムエル記第2巻USamuel、15-17参照。
142. 我の中にお前は完全なる応報を見ようぞ!:ベルトランの打ち首姿は、ダンテの地獄編におけるわざで、おそらく神の報いの法、すなわち、応報をもっとも良く説明している。いわば、それは旧約聖書の神の報復の形態:「目には目を、歯には歯を」と全く一致している。ベルトランの応報は、ベルトランの詩に張りつけられているプロバンスの"vida"(伝記)における一節によってダンテに思い付かせてきたのかもしれない。かつてヘンリー王にとっては彼が必要とするよりも多くの知力を持っていることが誇りであったが、彼は後に「若き王」の死後ならびに彼自身のヘンリーによる収監の後にこの誇りを思いつかされたのである。この「伝記」の中で我々は「ヘンリー王が彼を捕虜にした時彼は彼に彼の機知の全てがその時必要ではなかったのかどうか尋ねた。するとベルトランが彼は若き王が死んだ時に彼の機知全てを失ったと答えた」ということを読んでいる。この章では、もちろん、ベルトランの「機知」が彼の肉体から物理的に離されている。
ベルトランの最も有名は詩は、事実、若きヘンリーの死に関する哀悼の歌(planh)であった。その最初のスタンザ(連)が、戦いの惨状の積み重ねと共に、この章のはじまりの比喩的描写を十分連想させてきている:
もしすべての悲しみや苦しみや悲嘆が
そしてすべての痛みや傷や悩みが
それはこの世の惨めな男どもの知るところなるが、
一塊にされなば、それはただとある軽き事のみに見えようぞ
かの若きイギリス王の死と比べなば。
そこでダンテが言う:
もしも誰かが、昔むかしにプーリアの運命的な土地で
悲しんだ負傷者の全てに再会したとしても。
彼らはまずローマ人の手で命の血を流され、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その景色は
この厭わしい第九の溝の血塗られた光景と比較するものが何もあるまい。
ダンテはベルトランの詩を十分に知っていて、その『俗語論』(U, ii, 9)において、ベルトランは戦闘詩の模範であったと断言している:
・・・・・・それ故に、此れらの三つのもの、すなわち安寧と、愛と、および徳とが、最も尊く扱われるべき最大のもの、即ちそれ自らにおいて最大のものであるとみえる、換言すれば、武勇、愛の点火意志の指揮のごとき、これである。そして若し善く考慮せんか、わたし達は輝く人々が、全く此れらの主題について俗語にて詩作したのを発見する。すなわちベルトゥラン・ドゥ・ボルンは武を、アルナウ・ダニエルは愛を、ヂラワ・ドゥ・ボルネユは正義を、ピストイアのチノは愛を、かれの友は正義をうたった。
・・・・・・
然しながら、未だ嘗て武について詩作した如何なる伊太利亜人をも見ない。斯くこの点にまで至って、わたし達は最も高き俗語において歌はるべきものの何であるかを識る。(中山昌樹訳)
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