2010/11/19
「ダンテ神曲ものがたり その26」
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1-6. 喜べ、フィレンツェ。おまえがそんなにも偉大であるからには:ダンテのフィレンツェに対する毒舌はまた、泥棒達のいるこのボルジアにおけるその市民のうちの5人の存在に示唆されて、芸術的な役割を担っている。翼を広げている大きな鳥のように描写されて、この誇り高きフィレンツェの都市(まち)はルシフェル(34章46-48行)を、さらに近くでは、船の櫂が翼のようであるウリッセースの「狂気なる飛翔」(125行)を予示している。しかしルシフェルが神に打ち負かされて地獄の深みへと投げ落とされたように、ウリッセースもまた彼が「<別人>の願い」(141)と引き合いに出したとある力によって海の深みへと投げ込まれた。この呪いとはいつの日かフィレンツェもまた、その現行針路に固執することで、破壊されるであろうということである。
7-9. しかしもし早朝の夢がいかほどかの真実であれば:古代および中世の人々の伝承によれば、人が夜明け前の早朝の時間帯に見る夢は真実となるであろうとされていた。
ダンテの夢占いはフィレンツェの差し迫っている争いに関係していていろんな点で明らかにされることができる。それはプラートPlato出身のカルディナール・ニッコロCardinal Niccolòによってその都市に置かれた呪いを引き合いに出すべきであろう。彼は敵対している政治的派閥争いを和解させるために教皇ベネディクトゥス11世Benedict XIによって派遣されたが(1304年)、任務に失敗して、その都市にのろいを被せることを決めたのである[大火災が発生]。また我々は1309年のプラートからの黒党の追放へのほのめかしを心に抱いているのかもしれない。しかしながら、「他の町が」(9)の句で与えられているように、プラートがフィレンツェの規範に服従する全ての小さなトスカーナ州の町(すぐさまにその主人に歯向かうであろう)を仄めかすためだとここでは包括的な意味に解釈されるべきであることはもっともなことである。
19-24. 私はわたしがその時嘆いたのを知っている、そして今再び:[Durling:これらの行は、著述の瞬間における嘆きをこの旅(明らかにこの場合においては事実懺悔である)において経験した嘆きに明確に関連させていて、ちょっと前に同一視してきている罪に対する詩人の特別な関連性を指摘しているように思われる。22行における空間の動きの隠喩(メタファー)はウリッセースの最後の航海をすでに暗に包含していて、なにか拘束されない才能に関連づけるものを持っているに違いない。ここでの「才能」は原語では"ingegno"であるが、Musaは2章7行では"genius"、ここでは"talent"と訳している。Durlingはどちらにおいても"wit"を用いていて、『ダンテによって正式に用いられる"ingegno"は実践ないしは知識によって習得されるものに対する本来備わっている(先天的な)精神の優秀性に適用される』と注解している(2:7-8)。天国編22:1-9参照。「幸運の星」:ダンテの誕生における星の感応力(星から霊液として流れ出て、人の性格・運命に影響を及ぼすと考えられている神秘的な力)。天国編22章112-114参照:「おお輝かしい星座よ!おお強大な星々よ/どんなものであれ私のものであるかも知れぬ才能すべての/源である神聖な力で満ち溢れたれ」。「それ以上の何かしら」は神の恩寵である][矢内原注:ダンテは自分の才能について少なからぬ自信をもっておりました。一つには大なる才能をもっておりながら彼の境遇が世に入れられず、世から排斥せられ、各地を流浪する境遇によって彼はますます自己の才能を自覚したことでしょう。しかしそういう事情がなくてもダンテはすこぶる自分の与えられた天賦の才能についての自信が強い人であったようです。自信というものと傲慢というものとは本当に紙一重であり、自分が神から才能を与えられておる、神から選ばれて或る特殊の使命を与えられておる、自分の立場は正しいといった強い自覚をもちますと、それは何人にも屈しない自信となって現われますが、その人の敵はそれを目して傲慢というのです。彼は傲慢である、彼はこんな欠点があるじゃないか、と言って欠点を数え上げて彼を排斥する材料とするのです。何が正しい自信と傲慢とを区別するかといえば、その目的でありましょう。つまり自分の利益を計るために自己の才能を誇るときには、それがいかに小さな誇りであっても傲慢であり、その賜物を神から貰ったのに、自分自身が自分の力で得たように思って、自分のものだから自分のために使うんだという考えに基づいたときには、少しの高ぶりでも傲慢です。これに反して自分の才能は神から与えられたものだから神のために使うんだ、自分のために使わないという立場をとってゆくときには、どんなに大きい自信をもっても、、つまり世界全体がまちがっていて自分一人が正しいというような自信をもったとしても、それは傲慢ではなくて、謙遜であるのです(「土曜学校講義5」みすず書房、p.523)]
34-39. 熊によって復讐を成し遂げられた者がその出発に際し:預言者エリシア(エリゼオ)Elisèo, Elishaは火の凱旋車に乗って天に運ばれているエリヤを見た。別の場合にエリシアが、神のみ名において、彼をあざけっている子供の群れを呪ったとき、二匹の熊が森から現れて彼等を貪り食ったのである(【聖】列王記下U, 9-12, 23-24)【資料26-1, 26-2参照】[Durling:この章での重要なモチーフ(主調)に注意のこと:火、つむじかぜ(旋風)、馬/車、洗う波、そして炎の中のエリアを見るという疑問(「集会の書」48.1と比較のこと:『その時、預言者エリアは、炎のように立ちあがり、/その言葉は、松灯(たいまつ)のように燃えた。』、同48.9:『そして、炎の渦のうちに、/火の馬のひく火の車にのって、あなたは天に運び去られた。』)。ダンテの比喩に事実上含まれているのは、預言者の主題の背景に対する適切さである。エリセウス/エリシア(エリゼオ)はダンテの高祖父の兄弟の名である(天国編15:136、ダンテの預言者としての使命に含まれる別の背景)]
40-42. そのようにそれぞれの炎がその深い裂け目の:[Durling:この比喩の基礎はエリアが炎によって隠されていることである。「盗み」のメタファー(隠喩)は48行(「それぞれが燃やされる刑罰に包まれているのである」)と関連して議論されよう]
48. それぞれが燃やされる刑罰に包まれているのである:[Durling:別の言葉に言い換えると、それぞれの罪人を隠しているその炎はその者の中にある炎の外面化(具体化)である。知性の火、彼の助言を誘発する悪意の火、そして彼の美辞麗句の力の火(口の中の火)である。「包まれる」の原語"incassare"(「はめ込む」の意味)(22:18では「そこで暮らしている」と訳した)は42行「包み込んでいる」の原語である"involvere"(「巻き込む」の意味、英語で"steal away"「忍び込む」)と似て、前置詞"in"と組み合わされているのである。これはラテン語から派生し、ベルギリウスによってトロイアの炎上を描写するのに繰り返し使われている。英語では"steal away"に対して"swathe"(包む)と訳している。「盗み」の派生語:「盗む」「隠す」「包み隠す」「包み込む」「包む」「忍び込む」「隠れる」]
52-54. あの、先で二つに分けられた炎の中にいるのは誰ですか?:ここでは巡礼者の注目が、一つの分かれた炎によって捕らえられている。19章におけるニコラウス3世の脚を打っている炎に対するように(79-81)。ダンテはこの炎をエテオクレースとポリュネイケース(オイディプースOedipusとイオカステーJocastaの息子達であり、テーバイThebesの王位を争って、テーバイ攻略の七人の長として知られた主な戦いの原因となった。14:68-69参照)の火葬の積みまきから起こる炎と比較している。この二人の兄弟はただ一度の格闘で相まみえお互いを殺害した。彼等はこの積みまきに一緒に置かれたが、彼等の大きな相互の憎悪のために、その炎が裂かれたのである。
55-57. 中では、ウリッセースとディオメーデースが:ウリッセース(オデュッセウス)は、ラーエルテースLaertesの息子で、トロイア戦争での中心人物であった。彼の功績がホメーロスHomer、クレータ島のディクテュスDictys、その他によって物語れているけれども、ダンテによってここに示された彼の最後の航海の物語(90-142行)は文学および歴史上の先例はない。この物語は、ダンテの創案であって、「神曲」においては珍しいものである。
ディオメーデースDiomede, Diomedesは、テューデウスTydeusとデーイピュレーDeipyleの息子で、アルゴスArgosを統治した。彼はトロイア戦争における主要なギリシアの人物であってしばしば英雄的行為でウリッセースと結び付けられた。
原文では56-57行は、"・・・・・・, e così insieme/a la vendetta vanno come a l'ira."である[逐語訳をすると「そしてかようにあり/刑罰が怒りの如く行くなり」]。多くの注釈者たちは、この行をウリッセースとディオメーデースが、生存中彼等が怒りで同行した(釣り合った)went together in anger(彼等が共に戦った?)ように、今刑罰"vendetta"に向けて同行していることを意味すると解釈している。しかし、並列構文"a la vendetta"(刑罰)、"a l'ira"(怒り)(両方ともが現在形の動詞"vannno"(動詞"andare"(行く)の現在形)に依存している)の理由で、またウリッセースおよびディオメーデースと、エテオクレースおよびポリュネイケース(53行)との間にダンテが創造する比喩の理由で、この炎の中にいるこれらの二人の人物が今怒っていると信じる。すなわち、彼等が地上で罪においては密接な仲間であって、地獄においては「お互いに怒りに」耐えているために、それは彼等の刑罰の一部なのである。罪でかつて結びついた者等によって耐えられる刑罰における「共同性」(「共に」)はパウロとフランチェスカの場合(第5章)でも仄めかされてきている。
58-60. かつ彼等は一つの炎の中でかの馬の待ち伏せを嘆いており:トロイア人は、街の城壁の外に放置された巨大な木製の馬を、ギリシアの降伏の徴(しるし)だと思い違いをして信じた。彼等は大きな喜びの真っ只中でそれを街の門を通して運んだ。その夜遅くその馬に隠れていたギリシアの兵士達が抜け出て街を掠奪した。このトロイア陥落が、ローマ帝国の心臓となるであろうイタリアの海岸での新しい国の建設のためのアイネイアースとその従者たち(「偉大な種」)の旅の原因となったのである。第1章(73-75)および2章(13-21)参照。
61. デーイダメイアの嘆き:テティスThetisは息子アキレウスAchillesを、少女に変装させて、スキューロスScyros島のリュコメーデースLccomedesの宮廷に連れて行った。それで彼はトロイア戦争において戦う必要がなくなったのである。その場所でアキレウスは王の娘デーイダメイアDeidamiaをそそのかし、彼女は彼に子どもを産んだが、彼は後に彼女を捨てて立ち去った。ウリッセース(ディオメーデースDiomedといっしょに彼を探しに来ていた)に激励されて戦争に参加したのである。アキレウスの女装はある「策略」trickによって見破られた:リュコメーデースの娘への贈物を持ってきたとして、ウリッセースがそれらの間に盾とやりをこっそり持ち込んだ。するとアキレウスはその二つの武器に過度の興味を明らかにして彼の本当の性をうっかり表してしまったのである[アポロドーロス「ギリシア神話」では、喇叭を用いて見破ったとある。【資料26-3参照】]。
63. さらにそこで彼等はパラディオンの罰を受けておる:神聖なパラディオンは、女神パラス・アテーナーPallas Athenaの像であるが、いつまでも要塞で存在するようにとトロイアの完全な状態を保証した。ウリッセースとディオメーデースはそれを盗みアルゴスへ持ち出した、そのためにトロイア人に変わってギリシア人のために勝利を確実なものにしたのである。
64-69. もし彼等が話すことができますれば:[Durling:続く70行が、ベルギリウスが巡礼者の言葉に、偉大なホメロスふうの人物が話すのを聞きたいとする見上げた(賞賛に値する)熱望だけを見ていると暗示している。しかしながら、人は巡礼者の<熱望で>その炎へ<傾いている>ことと、墜落を防止するためのより早い必要性との間の類似(比較)に注意する必要がある]
75. 汝の言葉に耳を傾けることはあるまいが:誰もがいまだに、巡礼者がこの二人のギリシア人勇士へ話しかけることを許すためのベルギリウスの抵抗に対して納得できる説明を提供していない。おそらくベルギリウスは、彼が彼らと同様のギリシア・ローマの古典時代を思い浮かべたために自身が話すほうがよりふさわしいと感じたのである(27章注解33参照:こんどは彼が巡礼者に対してイタリア人のグイードに話しかけることをしきりに勧めるのである:「汝その者に話しかけよ、この者イタリア人である」)。
80. もしわれ汝等からわれが生きた時に受くべき価値があったとすれば:[Durling:「アエネーイス」においてアイネイアースに対するディードーの言葉の模倣である:「もし我が汝の全ての賞賛を受けるに足ったとすらば、さもなくば我のいかなるものも汝に喜ばしくあらじ」]
90-92. 我/キルケーより帆を揚げた時:トロイアからイタケー島へ戻る航海の途中ウリッセースUlyssesは太陽神の娘キルケーCirceによって1年以上引きとめられた。彼女はウリッセースの部下をイノシシswine(豚)に変えた魔女であった。
92-93. 我をガエタに閉じ込めたりしかど:南イタリアの海岸でナポリの北西に当時ガエタGaetaと呼ばれた岬がある(現在その地点にガエータGaetaという町がある)。アイネイアースがその地で死んだ彼の乳母を称えて名づけた。「アイネーイス」7.1、オビディウス「変身物語」14.441参照。
94-96. 息子の愛しさでなく:世界の知識の探求のためにウリッセースは、彼の息子テーレマコスTelemachusに対する愛情、父ラーエルテースLaertesへの敬意、そして愛情の深い妻ペーネロペーPenelopeの愛を傍らに置いている。すなわち彼は"pietas"(la、忠敬、敬信)という古代の概念に対して罪を犯したのであった[イタリア語の"pieta"は「哀れみ、敬虔、敬愛の情」であり、また「ピエタ像」(イエスの遺体を抱いて悲しむマリア像)を指す。ここでは「畏敬の念」と訳した]。
97. 燃えるような:[Durling:原文では"ardore"、「炎、激しい熱気、激しい情熱」である。これはこの章を支配している火のイメージとして重要な実例であり、主な解釈上の論争点は今彼を包むのと同一の火でありうるのかまたは彼の中にその発端があるのかどうかである]
97-99. 世の中を知り:[Durling:ダンテは、「オデュッセイア」の始まりに対するホラティウスHoraceの引用を適用している:「多くの民の町を見、またその人々の心情をも識った」【資料26-4参照】]
101-2. 唯の一隻を共にし:[Durling:Macareusの説明ではウリッセースがキルケーの居住地に到着したとき彼はほとんどの部下と一隻を除く全ての船を失っていた(ベルギリウスによって組み立てられたアエネイアースとウリッセースとの間の対照の主な要素はアエネイアースが完全な艦隊と多くの従者に随行されていることである)
103-5. 我両岸に、遥かスペインを:[Durling:別の言葉で言えば、彼は地中海の北側と南側の海岸の全てを見たのである。この含蓄は彼が地中海全域を就航したということである。どの街の名も挙げられていず(とはいっても、110-11行を比較)、またどの「人の声と価値」も言及されていない]
107. ヘーラクレースが標柱を建てた:ジブラルタルGibraltar海峡は、古代においてヘーラクレースの柱として引き合いに出されてきた。その二つの「柱」は北アフリカ海岸にあるアビラAbyla山とヨーロッパ側のカルペCalpe山である。もとは一つの山であったが、人の住む世界の最も遠い到達点であり、そこを超えて誰も危険を犯して進むのを許されない所を意図するためにヘーラクレースによって分割されたのである。
110-11. 右方に我セビーリアを眺めつつ、かつ通りすぎた:別の言葉で言えばウリッセースがジブラルタル海峡を通りすぎて現在大西洋にいるのである。セウタCeutaはジブラルタルの対岸北アフリカにある町である。この通過においてセビーリアSevilleはおそらく、ちょうど人の住む世界の果てのように、イベリアIberian半島を指摘している。
125. 我らはわれらが櫂をかの狂気なる飛翔のため翼にし:ウリッセースの過去の活動として地獄における現在の判断力に注意のこと。(27章の最終注解参照)
130-31. 五度にわたり我らは月の輝きが:航海をはじめてから5ヶ月が過ぎ去っている。
133. その時そこにとある山の姿が現われた、遠くにあり:ダンテの時代にあって南半球はほとんど海水で満たされていると信じられていた。ウリッセースと彼の部下が遠くから見たこの山は煉獄の山であり、南半球の海から立ち上がっていて、エルサレムの対極である。この山の成り立ちとしては第34章112-26を参照のこと。
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ベルギリウスが第11章で示している地獄の第8連環において懲らしめられている罪の一覧(単純な詐欺の罪)においては、二つの分類が不明確に残されていて、「汚物のようなもの」(10:60)という言い方でまとめられた。この一覧で明確にされた罪が彼等のそれぞれの溝(ボルジア)(そして全ての注釈者たちが彼等の定位置化として同意している)に割り当てられるとき、2つのボルジアが空位のまま残されている。すなわち第8と第9のボルジアであるが、そこは「汚物のような」罪が懲らしめられているボルジアであるはずである。第9のボルジアで懲らしめられている詐欺の明確な種類(多様性)に関して言えば、我々が第28章で会う時に、「中傷的申し立てと教会分裂の種蒔き人」として、明白に特定化される罪人達がいる。この章に関しては、全ての学者が、ウリッセースとディオメーデースが懲らしめられている罪は詐欺的な勧告(助言)の罪であると当然のことのように決めかかってきているが、ここで彼等に関して言われていることのためではなく、次の章でモンテフェルトロのグイードに関して言われているためである。すなわち、黒いケルビム(智天子)が、グイードの魂を要求して、言う。「そいつは、その者がした誤った助言のために、我が他の従者どもに合流して下りねばならないのだ」。グイードが同一のボルジアに居て、ウリッセースとディオメーデースと同様な懲罰を受けているからには、批評家達は彼等が同一の罪を犯してきていると(唯一論理的に)明白に推定してきている。すなわち彼等もまた、彼等が共通に分配を受けている罪は詐欺的勧告に違いないと決めてかかるのである。
しかしウリッセースとディオメーデースに関して言えば、彼等の罪は明確に言及され、そして記録された「詐欺的勧告」のいかなる行為もこの3つの実例のどこにも包含されないのである。もし彼等2人がこの罪で地獄に居ないのならば、その時は、黒いケルビムの言葉に替わってグイードがどちらでもないことを追求せねばならない(27章最終注解参照)(管理人注:27章は見つかりません)。
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