2010/11/19
「ダンテ神曲ものがたり その25」
この記事はまだ途中です。
2. 握りこぶしをイチジクの実にしてそれらを高く揚げ:このわいせつなしぐさはイタリアと日本ではいまでも流布している。このしぐさは手を第一(人差し指)と第二の指(薬指)の間に挿入された親指で握りこぶしを形作ってされるものである。その意味は"Up yours!"、"Fuck you!"である[「イチジク」の原語は"fico"で、(男性の)性器を意味し、英語では「女握り」(2本の指の間から親指をのぞかせる下品なしぐさ)の意で借用され、また翻訳借用して"fig"という。また(女性の)性器は”fica”で”ficaia”は「イチジクの木」である]。
10-12.ピストイアよ、ああ、ピストイア。何故に決心せざるや?:ピストイアは想定されるにカティリナCatiline(15章61-78参照)の敗残兵によって建設され、初めは悪事を為す者と山賊等で構成された。土着のヴァンニ・フッチが前章(100-17)において破壊したと同様の方法で、ダンテがそれ自身を破壊しようとしてピストイアに呼びかけていることに注意せよ[Musaはここでも、前章88行「毒ののろい」について触れていない。原語は"tante pestilenzie"(many pestilences)だが、Musaは"great a plague of venom"(「毒ののろい」)と訳している。Durlingによると、ルカヌスがファルサリアで(Pharsalia 9.614, 723, 844)、カトーの部下を攻撃したリビアの蛇に対して"pestis"という語を繰り返し使っている。これはペスト"peste"であるが、「有害なもの」であり、"pestilenza"も同様である。英語も同様で"pestilence"は疫病、特に腺ペスト(bubonic plague)を指す。そしてDurlingは、"Pistoia"の名がカティリナの「有害な」"pestilencial"反抗においてその起源を反映するために敵によってしばしば述べられたと言う(ヴィラーニ「年代記」Villani, Chronicle, 1.32を参照)。また、ダンテは、前章88行において、蛇ないしは泥棒を「有害なもの」"pestilence"と関連付けた。11行の「自身を燃やす」誘いはヴァンニ・フッチの犠牲(100-102)を反響している]
15.テーバイの高い壁から落ちた者でさえそうではありませんでした:カパネウスCapaneusのことで、ダンテは彼を第7連環(14章63)において冒涜者達の中に置いた。ヴァンニ・フッチと同様に、カパネウスは地獄においてさえ神に対する冒涜と反抗を続けている。
19-20.私が考えるに湿地帯(マレンマ)のすべてでも:マレンマはトスカーナ沿岸の湿地帯で蛇が出没した。13章注解8-9、29章注解47-49参照。
25-33.あのものはカークスなり:ケンタウルス(半人半獣)のカークスCacusは、ウエルカーヌス Vulcano, Vulcan(【ローマ神話】火と火事の神)の息子である。それは火を吐く怪獣で、アヴェンティヌス山Aventine近くの洞窟に住んでその地域の住人を略奪した。しかしヘラクレスErucule, Herculesから何頭かの牛を盗んだとき、後者がカークスの洞窟へ赴き彼を殺した。「兄弟達」(28)とは第7連環(第11章)の第1輪環における守護者としてのケンタウルスである。【資料25-1参照】
43チャンファはどこへ行ってしまったんだ?」とそいつが尋ねました:チャンファCianfaはフィレンツェのドナーティ家Donatiの一員であった。彼は50行で一匹の大蛇の姿をして現れる。
45.わたしが唇に指をあてました:[日本でも「シー」として流布している、沈黙を楽しむための簡素で調和の取れたしぐさである]
46-48.さてもし、わが読者よ:[Durling:地獄編における6回目の読者への応対である(8:94-96, 9:61-63, 16:127-30, 20:19-22, 22:118, 25:46-48, そして7回目が34:22-24)、再度出来事の疑わしさと語り部の信頼性を強調している]
58. どのキヅタもかつていかなる木にも生えたことが無く:[キヅタellera(=edera), ivyとはウコギ科キヅタ属Hederaの常緑のよじのぼり植物の総称。特にセイヨウキヅタ。五角形の濃緑色の葉は厚く表面につやがある]【資料25-2参照】
68.おお、アニェールよ!:アニェールがフィレンツェ人である(ヴァンニ・フッチを除いて、この章での泥棒は皆フィレンツェ人である)という指摘の他には、おそらくブルネッレスキ家Brunelleschiの一人であるが、ほかには何も知られていない。
86.正しく胚芽が種を受け取る場所に:へそ。
94-102.ルカヌスをしてこの瞬間から続けて黙らせしめよ:ファルサリア(9:763, 790)においてルカヌスはサベッルスSabellusとナシディウスNasidiusによって経験された肉体の変形physical transformationについて語っている。二人ともにカトー軍の兵士で、蛇に噛まれて、めいめいに灰に変わるのであり(ヴァンニ・フッチの変身metamorphosis、24:100-17と比較せよ)、形のないかたまりformless massに変わるのである。オビディウスOvidは(変身物語Metamorphoses W, 576で)いかにカドモスCadmusが蛇の形を得、またいかにアレトゥーサArethusaが泉になるかを(同X, 572)詳しく話している。
これらのむしろ高慢な詩行においてダンテは彼の芸術(技術)の優越性を宣言している。少なくともこの場合においては、ルカヌスとオビディウスの芸術に対して。彼等のは「一方向の」変形であった(「両方の形態が、一つの為に、すでに実体を取り替えていて、/相対しては決して入れ替えてはいなかったのであって」102-3)。ダンテの変形は相互的なreciprocalものであろうし(「完全なる対照変換」103)、それゆえにこそその独自性uniquenessが存しているのである[「取り替える」と「入れ替える」の原語は"mutare"(交換する)と"trasmutare"(変形する、変容する)である。Musaの英語では"exchange"と"interchange"である]。
116.男が隠している一部分:[Durling:ペニスのこと、2行目の「イチジク」に関連する。修辞的迂言法(遠まわしの言い方)として隠されている。この「隠し」は堕落後のアダムとイブによるイチジクの葉の前垂れの使用で始まった(創世記3.7)]
118.それぞれからの煙は他方を渦巻き:[Durling:24章51「風の中の煙」、竜の炎(24)などと比較のこと。泥棒達によって必要とされた隠匿性を寓意している]
121-35.:[次第に乱れて行くこれらの詩行は、語り部である詩人ダンテが「対照変換」の描写に対して、「そしてその/不思議をして全てが私を許してくれる、もしも私の筆が不十分だとしても」と言い訳までしていて、およそ詩的ではない。129行目まではなんとか巡礼者の語りを守っているが、130行以降は詩人ダンテのまるでなぐり書きのようである。意味ももうひとつ分からなく、説明不可能な言葉も登場する。しかし77-78行の「この/醜悪な絵」をまざまざと文体に持ち込んでいるのはダンテの成せる技であろう。強いて注釈の無いほうがいいのかもしれない]
140-41.ブォーゾをして:この、新しく蛇を形どったブォーゾの正体は、不確かである。ある批評家はアバーティ家のブォーゾBuoso degli Abatiと考え、他はブォーゾ・ドナーティBuoso Donatiと考えている(30章44行参照)。
142.このようにわたしが七番目の船底で見たことは:ダンテは、「船底」にあるもの(原語は"zavorra"で、(船に安定を与え喫水を深くするための)バラスト、底荷)として七番目のボルジアの住人を引き合いに出して、次章でのウリッセース(オデュッセウス、ユリシーズ)Ulyssesの船の比喩的描写を設定しているのである。
143.取り替えと入れ替えを含んでいるのである:[103行「完全なる対照変換」の長い説明の結句である]
145-51
この時点で巡礼者の目が当惑しその気持ちが呆然としたことは単に彼が目撃してきた騒動という言葉で容易く理解されうるものである。彼は24-25章において泥棒達によって経験された3タイプの変身を見てきたのである。最初は、とある罪人(ヴァンニ・フッチ)が首の付け根を一匹の大蛇に攻撃されて、燃えて灰となり、そして灰の山から自身を再形させるのである。さらに分かりにくいのは次の変形であり、別の罪人が六本足の大蛇(それは罪人と一緒に二人が一つの恐ろしい被造物に成長するように融合するのである)に攻撃されるときに引き起こされる。最後は、攻撃している大蛇が、さらにもっとわかりにくい方法で、変身して再び形を取り戻すのである。この蛇は一人の男になりそして男は一匹の蛇になるのである。これらの変身に包含された象徴的意義に関しては、Musaはドロシー・セイヤーDorothy Sayerの解釈に同意している:『この章において我々は泥棒達が、自他のものを区別しなく、彼等の形態(形姿)または個性をどうして呼び寄せられないかが分かる』
しかし最後の二つの変身に包含された同一証明の問題を提起された巡礼者の当惑にはいまだ大きな理由がある。我々は不死鳥の誕生と死を模倣したのはヴァンニ・フッチであることを前もって語られている。この章で仄めかされた(言及された)5人の罪人のうちの3人によって演じられた役割を確立するには注意深い読解と再読(かつなんらかの推測)を必要とする。チャンファ、ブォーゾと「あなたを嘆かしめた者」(フランシスコ・カヴァルカンティ、注解151参照)である。チャンファの名前は35行で現れている3人の泥棒によって名を挙げられていて、彼らはチャンファの消息を絶ったことに驚いている様子である(「チャンファはどこへ行ってしまったんだ?」43)。しかしもしチャンファが消息を絶ってしまっているとしたら我々はそれが一つの途方も無い形態へと融合するためにアニェールを攻撃する六本足の大蛇にまさしく変形させられたためであると推定せねばならない(「おお、アニェールよ!もしお前がいかに変わっていくかを見られたらのう!」68)。蛇が男になり反対に男が蛇になることによる次の変身の後で話される「ブォーゾをして/四つん這いになって谷を走らせよ、そのようにわしがしてきたのだ」(140-41)という言葉から、我々はブォーゾもまた巡礼者によって見られた3人のうちのひとりであったに違いないと学ぶのである。最終的には、その語り手自体がこの章の最終行でそれとなく言われているフランシスコ・カヴァルカンティであったに違いないのである。確かに読者に捧げられた同一証明のぼんやりした提示は、変身自体で与えられた同一証明の動揺を高めるためにダンテの側における技巧を凝らした仕掛けを示しているのである。
148.一人が確かにプッチョ・シャンカートであり:プッチョ・シャンカートPuccio Sciancato(最初の3人のフィレンツェの泥棒のうちで新しい姿を引き受けない唯一のもの)はガリガイ家Galigaiの一員でギベリン党の支持者であった。彼は1268年にフィレンツェから追放された。
151.もう一人は、あなたを嘆かしめた者だ、ガヴィッレよ:フランシスコ・カヴァルカンティは、グェルチョとして知られ、アルノー渓谷にあるフィレンツェ近くの小さな町であるガヴィッレの住人によって殺害された。このカヴァルカンティ家は彼の死に復讐して多くの大衆を殺した。このようにして、彼はガヴィッレの嘆かせる理由であった。
1
※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。