この記事はまだ途中です。後でまとめて肉付けを行います。
4-10.廃虚のようにトレントの麓は地滑りによって見捨てられました:第7連環に至る断崖を下るこの道はここではとある大きな地滑りになぞらえられている。それはマルコの地滑りSlavini di Marcoで、北イタリアのトレント近くである。その出来事は、883年頃に起こり、アディジェ川をその流れからそらしたのである(6)。地獄編においてこの険しくて、粉々に砕かれた地帯は、キリストがそこに降臨する直前に地獄を揺り動かした地震によって引き起こされたのである。
12-21.そこにはクレータ島の面汚しが長々と横たわっているのです:暴力の罪はまた獣性(残忍性)の罪であり、この連環での熟練した監督はミーノータウロスMinotauroとして知られる半人半牛(牛頭人身)である[”tauro”は「雄牛」なので、「ミーノースの雄牛」の意味である]。「クレータ島の面汚し」”l’infamia di Creti”と呼ばれるその創造物は自然に対する暴力行為の結果である(この連環の第3輪環で懲らしめられている)。パーシパエーは、クレータ島のミーノースMinosse王の妻で、牡牛に対して自然の理に反した欲望を抱き、彼女は木製の牝牛に忍び込んでその牡牛と交わりを持つことで満たしたのである。クレータ島の迷宮ラビュリントスは、ダイダロスが設計したもので、ミーノータウロスの住処であった。彼は最後にはアリアドネー(パーシパエーの人間の娘で、この獣の異父姉弟のようなものである)の助け(糸玉、20行)でテーセウス(アテナイの君主、17行)によって殺害された。第9章で復讐の三女神として半人、半獣の怪物の(中断したが)続けられた出現に注意すること。【資料12-1参照】[矢内原注:ベルギリウスの『アエネーイス』6.24-26にある。それからダンテが材料を得ておるのです。それからのちにケンタウロスが出てきます。これはギリシア神話によく出てくるものですが、これは体が馬で胸から上が人間です。ミーノータウロスもケンタウロスも半人半獣の怪物です。どうしてこういうものをここにここにあげたかというと、地獄の第7連環を守る番人としておいたのです。ブルータルな獣的な欲、その欲によって孕んだ暴力──乱暴な力が第7環で罰せられている。すなわち人の暴力が罰せられている。乱暴をすることの根本は人間でありながら獣を愛する──獣と交わる。神を愛せずして獣的な欲望をもつことにあるということです。これもじつにおもしろい。また深い観察です。乱暴している人をみますとたいてい獣的です。ブルータルです。酒を呑んで乱暴している人などをみると、聖霊の御霊に酔うておれば人を愛して人と睦びしたしむのですが、神に反した獣的な肉欲の奴隷になって乱暴をすることがわかります。崖がけわしいのに、しかも崖の端にミーノータウロスがねそべっていたものだから、ダンテはたいへん驚いた]
17. アテナイの君主:[テーセウスのこと。ミーノース王が毎年7人ずつの若者をアテネに課して、ミーノータウロスの餌食にしていたので、アテネの王アイゲウスの子テーセウスはまず王女アリアドネーの歓心をかい、その助けで糸をからだに結び迷宮に入って怪物を殺した【資料12-1B参照】]
20. おまえの姉妹が与えた糸玉:[アリアドネー。【資料12-1B、12-2参照】]
30.岩が足下の重みに慣れないままに:第8章27-30行を比較せよ。
35-36.地獄の下へと降った時のことである:ベルギリウスの地獄への最近の降下の根拠に関しては、第9章23-30行を参照のこと。
34-45
「その方」(39)とはキリストであり、冥府の征服the Harrowing of Hellにおいて、天国に選べし魂を移されたのである(第4章49-63参照)。優れた地滑りthe great landslideは、その由来がベルギリウスによって述べられているが、詩人たちが第7連環に降下するために利用する手段である。適切に、第9章における天使の降下(キリストの降下に類似させている)の後に記述されている。地球上でのキリストの一生、その地獄への降下、そしてキリストの復活は人類を罪と死から救済するために神の恩寵により得られたのである。そしてここでも、第9章と同様、巡礼者ダンテ(全ての人類)は、神と救済に訴えて、基本的には神の恩寵によって引き起こされる奇跡によって旅の継続を助けられるのである。地震の記述は地獄編のこの部分で冥府の征服に関する最新のものであり、第8章で始まった天使の到来の劇的事件にぴったり合っている。
41-43.かくてわれ宇宙が/愛を感服したと思えた:エムペドクレスEmpedoclesの教義によれば、憎悪は、初期の調和harmony(例えば、原初の混沌)を破壊することで、全ての事物の創造を引き起こし、そして愛は、これらの異質の要素を再統一することで、宇宙における調和concordを再構築する(第4章、注解138行参照)。ベルギリウスはキリストの地獄への降下を彼が想像した唯一の言葉で、すなわち、異教徒の哲学の言葉で言い表しているのである[矢内原注:エムペドクレスの説によると、世界は愛と憎悪という反対のエレメントの結合によってバランスが保たれている。ところがキリストが十字架にかかりたもうて死なれたので愛が勝ったのです。愛は同じ類のものを結び合わす力です。愛が憎悪に勝ったものだから同類のものが集まろうとした。そのために異なった類の間の結合がバランスを失って、ここに渾沌を生じた。それがエムペドクレスの説です。キリストが十字架にかかられたとき、その愛によって世界に渾沌が生じた。そこで地震が起こったり岩が裂けたりした(「土曜学校講義5」)]。
47-48.近寄れば汝/血の川を望めよう:プレゲトーンFlegetonta, Phlegethonは、ベルギリウスふうの火の川であり、血をたぎらせていて、ここでは隣人に対する暴力(第11章34-39参照)を犯した亡霊が懲らしめられているのである。これらは殺人者であり暴君である。すなわち一生において暴力的行為を通して熱い血を流せしめた男達が、いまは流れ、煮えたぎる血の中に自身を沈めさせているのである。【資料12-6参照】
55-56.ケンタウロスどもがやってきました、/縦一列に馳駆し、弓を携え:ミーノータウルスと同様、殺人者と暴君を監視するケンタウロス”centauro”は人獣(半人半馬)で、馬の駆け方(ギャロップ)をしており、暴力と獣性の罪にもってこいである。初期の評論家の何人かはこれらを、イタリアを越えて群れを成してきていた、外国人傭兵を思い浮かべて考えた[”centauro”はラテン語の”centuria”とおなじ語源のことばで、「百名の兵士からなる部隊」の意味である]。
65.ケイローンに:ケンタウロスの首領として古代の詩人によって思い描かれたケイローンCheiron, Chironは特にその知識で注目された。神話において彼はサートゥルヌスSaturno, Saturn(一時的に妻の気と怒りを避けるために馬に変身した)とピリュラーPhilyraとの子であった。ケイローンは特に医学で有名で、アキレウスAchilleus, Achelle(71)、アスクレーピオスAsklepios, Aesculapius、ヘーラクレースHerakles, Herculesの家庭教師と思われていた。地獄編で彼は思慮深い姿として思い浮かべられている。そして彼がケンタウロスの首領であるからして、ベルギリウスが話し掛けるのは当然なことなのである。
67-69. あの者がネッソスなり:このケンタウロスは二入の旅人に最初に話しかけている。彼は後に(98-99行で)二人を案内するようにケイローンに指名される。そして彼がそのようにし、途中でいろいろな罪人達を指摘するのである。ベルギリウスは、ネッソスが熱望した、ヘーラクレースの妻デーイアネイラDeianeira, Deianira, Dejanirsを引き合いに出している。彼女を奪おうとして、ネッソスがヘーラクレースに射られたのであるが、死ぬ時に彼は血に染まった衣服をデーイアネイラに与えたのであった、曰くそれがヘーラクレースの愛を大事にしまおうとしたのである。デーイアネイラはそれをその死の原因である夫に渡し、その結果この気も狂わんばかりの婦人が首を吊ったのであった。【資料12-7参照】
69. 而して、その血で、それ自身の復讐心で出来ておる:[野上注:ネッソスは死に臨んで、自分の血染めの衣服をデーイアネイラに与え、その衣服をまとえば男の心はけっして他に移らないと欺いた。その後ヘーラクレースの心が他の女に移るとの噂を聞き、彼女はその衣服を着せると、毒が全身に廻ってオエタ山上で死んだ(オヴィディウス『変身物語』9.10)。【資料12-7参照】]
70. その胸をじっと見詰めておるが:[矢内原注:ケイローンはケンタウロスのなかで最も正しい(偉大なる)ものであり、また学問のできたものである。「胸を見詰める」はうつむいてものを熟考している形で、ロダンの彫刻の中にものを考えている男の像がありますが、ああいう姿勢を連想します]
72.最後はポロスである。酒飲みの天罰で知られておる:ポロスFolo, Pholosに関してはあまり知られていないが、ペイリトゥースPirithous, PeirithusとヒッポダメイアHippodamia, Hippodameiaの婚姻の間に、酔っ払ったケンタウロスがラピテースLapith人婦人を犯そうとした時、ポロスはその花嫁自身を犯そうと試みたのである。[【ギリシア神話】「テーセウスは、ペイリトゥースがケンタウロスに対して戦った時に、ペイリトゥースの味方をした。というのは、ペイリトゥースがヒッポダメイアに求婚した時に、ケンタウロスたちを、彼女の親族であるというので馳走した。しかし酒に慣れていなかった彼らは、鯨飲して酔い、花嫁が連れてこられた時に、彼女を犯そうと試みた。しかしペイリトゥースはテーセウスとともに武具に身をかためて闘い、テーセウスは彼らの多くを殺した」(アポロドードス「ギリシア神話」摘要第1章21、岩波文庫、高津春繁訳)【資料12-8参照】]
73. 彼らは何千もの数で溝を巡り馳せ駆け:[「馳せ駆け」は原文では”andare”(=go)であるが、Musaは”gallop”と訳している。現代イタリア語では”galoppare”であるが、ダンテの時代にはなかったかも知れないし、ダンテが使わなかったのかもしれない。「ギャロップ」とは、四足が同時に地面を離れる最も速い駆け方である。【資料12-3参照】]
75. 向こう見ずな:[この連環では暴力の罪の度合いが定められており、血の川での深さが定められているのであるが、自分の罪のあてがわれている深さよりも高く抜き出そうとしている魂がいる]
77.その矢筈で:やはず(筈、矢筈)は、矢の先のつるを受けるところ。
82. これは死んでいる者の脚が為し得べきことではないぞ!:第8章27-30行、本章29-30行を比較のこと。生きる者の重みに注視している。
84. その獣の二つの本質が合わさった地点:[ケンタウロスは上は人間で下が馬であるので、その境目をいうが、ちょうどそこがベルギリウスの目の高さである]
88.ある魂が来られて、ハレルヤを歌いやめ:ベアトリーチェのこと。第2章53-74行参照。できれば、第2章を再読されたい。
98. ネッソスに言うには:[ヘーラクレースとデーイアネイラがエウエーノス河を渡ろうとしていると、ネッソスが渡し守だと言ってヘーラクレースを騙し、デーイアネイラを奪って犯そうとしたのである。そのことを知っているケイローンは思案をしつつも(「じっと」見ながら)ダンテを渡らせる命令をネッソスにするのである【資料12-7参照】]
107-108.ここにはアレクサンドロスと攻撃的なディオニシウスが立っておる:前者はおそらくアレクサンドロスAlessandro, Alexander大王(紀元前356-23年)であり、オロシウスOrosius(ダンテの古代史の主な情報源)により残虐で暴力的な人間として常に引き合いに出されている。しかし多くの現代の学者はこの人物がテッサリーアThessalyのフェラエPheraeの暴君(紀元前4世紀頃)tyrant(ギリシア史で僭王:非合法な手段で政権を握った独裁者)と信じているが、その際だった残虐さはキケロCiceroとValerium Maximusによって記録されている。これらの著者の両方ともがフェラエのアレクサンドロスをシラクーザSyracuseの僭王ディオニシウスDionysiusと繋げていて、ここで意味するのは、大変な残虐さで知られているディオニシウス一世(シラクーザの僭王)かもしれない。または、彼の息子であるディオニシウス二世の可能性もあり、彼は父を継いで367年に僭王となり彼もまた大変な残虐ぶりであった(「人名地名一覧」参照)。
110.アッツォリーノ:アッツォリーノAzzolinoまたは古代ローマのエッツォリーノ三世EzzolinoV da Romana(1194-1259)は、ギベリン党の首領でトレヴィーソTrevisoの境界地域Marchの暴君であった。彼はよく知られている残虐で「悪魔の息子」と呼ばれたように野蛮な残虐行為を犯した。
111-14. エステのオピッツォであり、其奴は、これは真実だが、/お前の世の自分の義理の息子に殺されたのである:エステのオピッツォOpizzo da EstiまたはオビッツォObizzo d'Estiは、フェラーラFerraraとアンコーナAncona境界地域の侯爵であった(1264-93)。彼は残虐な暴君で、自分の息子アッツォAzzoに殺されたと言われている、がしかし、この話はおそらくは真実でない。ダンテは義理の息子stepson(イタリア語でfigliastro:継子)という語をその殺人者として用いたが、もしかするとその罪の自然の理に反した本質を示すために、もしかするとアッツォの母親が夫に対して不誠実で、他の男の息子を産んだということを暗示するためである(この場合「義理の息子」は「私生子」bastardを意味する)。
113-14. そこでわたしはベルギリウスの方へ向きました、しかしその人が言いました/「今は彼に教えさせよ、われに振り向くなかれ」:巡礼者がネッソスのオビッツォ殺人の理由を聞いてベルギリウスに向き直った時、おそらくは「義理の息子」への言及に驚いた様子を示したのであって、その時彼はアッツォ、すなわち息子が殺人者だと考えていたのである。
巡礼者ダンテは、言葉を浪費せぬようベルギリウスに注意されていて(第10章参照)、そして第11章で彼の教育の必要の重要性を誠実に守ってきたのであり、第12章のここでは完全に黙しているのである。彼が学んできているのはさらに事実に基づいて気づくことでありさらに進歩的な人がするであろう質問しかしないことであって、なぜなら彼は彼がはじめの章でベルギリウスを質問攻めにして以来多くを学んできているのである。更に、彼は(第10章で)ベルギリウスが彼の話さなかった質問でさえも知っていることを学んできている。そしてそれゆえネッソスが詩人たちを案内し始めた時には、ダンテは話さないが単に驚きをもってベルギリウスに向き直ったのであり、すると彼が話されない質問に原文での字義通りの「彼をして汝の第一とせよ、われは第二なり」(114行)と答えたのである。Musa以外はすべて字義通りに訳している。原文では«Questi ti sia or primo, e io secondo».である。また、Musaは「ベルギリウスの方へ」to Virgilとしいるが、原文ではal poeta(a il poeta)で、to the poetである。これもMusaのみであるが、なんら注釈はしていない【資料12-3B参照】[矢内原注:ここの道案内はケンタウロスの一人であるネッソスを第1の案内とし、私(ベルギリウス)を第2の道案内としろ、とこう言った。血の川を渡るときにどうしてベルギリウスが第2の位置に下ってケンタウロスが第1の道案内になったかはよくわからないのですね。それはあるいは人を殺すということは最も動物的な本能であり、理性の働きからもっとも遠いものであるから、それで理性を代表するベルギリウスよりも半分動物であるケンタウロスの方がこの場所の、すなわち人殺しの罰せられている道案内としてはふさわしいということであるかもしれない]。
119-20. 神の扶持にあって、/いまだテムズ川に血を流している心臓を壊したのだ:1272年にヴィテルボViterboの教会での盛式ミサ中に(「神の扶持にあって」)、モンテフォートMontefortのガイGuy(アンジュー家AnjouのカルロCharlesの使者の一人)が、エドワード一世EdwardT(英国王)の手になる父の死に復讐するために、王の従兄弟であるヘンリーHenry王子(コーンワルCornwallの伯爵リチャードRichardの息子)を刺して殺したのである。13世紀の年代記編者であるGiovanni Villaniによると、ヘンリーの心臓が「ロンドン橋の上にある円柱の上に黄金の盃」の中に置かれたのである。そしてそれはいまだにテムズ川の上に血を流しているのである(Cronica Z, 34)。この流れ滴る血はその殺人がいまだに復讐されてきていないことを意味している。
124-26.その川の血がゆっくりと減り始め:罪人達は彼等の罪の重さと釣り合ってその川に沈められている。暴君は、その暴力の罪が人およびその財産の両方に向けられているので、殺人者(その罪は人のみに向けられている)よりも深く沈められているのである。この川は最も浅くなって詩人たちが渡る場所となる。この浅瀬から、その連環の両方向に、次第に深くなっているのである。
134.アッティラに対して、その者地球のたたりとして知られておる:アッティラAttilaは、フンHun族の王(318-272B.C.)で、その暴君的残虐さにより「神のたたり」the "scourge of God"(原文でFlagellum Dei)と呼ばれた。彼は452年にイタリアのほとんどを征服したが、ローマに近づいた時大教皇レオが彼に会いに赴き彼を説得して退却させた。
135. ピュロスとセクストゥスに対して:最初の名はおそらく古代ギリシアのエピロスEpirus王のピュロスPirros, Pyrrhus(紀元前318-272年)で、ローマ人と彼等が最終的に彼を滅ぼすまでに紀元前280年と276年の間に三度戦った。何人かの注釈者は(ボッカチオのように)ダンテがエピロス王の有名な先祖、アキレウスの子ピュロスに関心を持っているという理論を好意を持って見ている。【ギリシア神話】「またオデュセウスは殺された者の親族によって訴えられ、エーペイロス沿岸の島々の王ネオプトレモスを審判官としたが、」(摘要7,40)とあるエーペイロスはエピロスで、ネオプトレモスがピュロスの最初の名である。
「セクストゥス」Sesto, SextusはおそらくポンペイウスPompey将軍の下の息子であろう(二人いた)。カエサルCaesar殺害後彼は海賊行為に戻り、アフリカからの穀物の供給を打ち切ることでローマに飢饉状態を引き起こした。彼はルカヌスLucanによって彼の父に対して恥ずべき(行動)だと咎められている(ファルサリアPharsaliaX, 420-22)。少しばかりの注釈者はダンテが、タルクイニウス・スペルブスTarquinius Superbus(傲慢王Taruquinius the Proud、最後のエトルリア系ローマ王)の息子でその従兄弟の妻のルクレーティアLucretia(彼の妹)を強姦し死の原因となったセクストゥスに因んでいるとしている。第4章注解127-29参照。
137-38.コルネットのリニエールとリニエール・パッツォからで、/それらの戦場は道でありそこで彼等が強奪したのだ:二人の追いはぎはダンテの時代において有名である。後者は、権力者の領主であったが、特に聖職を盗むことを楽しみにしたことで破門させられた。
139.それから彼は翻り浅瀬を再び渡りました:プレゲトーンPhlegethonを渡る巡礼者の卓越した速度は読者がこの地点でこの川がすでに横切られていると認める時に明らかになる、けれども横断の言及はなにも為されていないのある。
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