この記事はまだ途中です。後でまとめて肉付けを行います。
8-9. アナスタシウス御座す、教皇なり:アナスタシウス二世は、496~498年の教皇で、何世紀もの間一般に異端者だと信じられていた。理由は、想像だが、アカキウスAcacius(または、アカナキウス)の異論に追随したテサロニカThessalonicaの執事であるフォティヌスPhotinusが宗教団体を所有するのを許したためである。この異論はキリストの神としての誕生を否定し、キリストは死を免れない人間として生まれたと主張した。このようにアナスタシウス二世は異端者の教義にその信を示したと想像する。しかしながら、この教皇がダンテの確からしい出典によるとビザンチン皇帝アナスタシウス一世(491-518)と混同されていると、証明されてきている。アナスタシウス皇帝がフォティヌスによってその異端者の教義を受け入れるように納得させられたのである[矢内原注:神に背く異端は地獄に入れられるべきものであるとダンテは主張するのであり、誰と誰が異端者であるときめつけるのが、おそらくダンテの趣旨ではないでしょう。もっともダンテは非常にパーソナルな人で、異端者一般を地獄に入れることで満足しなかったでしょう。それで具体的な人を入れたのですが、その人選が当を得たか当を得なかったは、またおのずから別個の問題となるのです]。
14-15.時間を無駄にしない方法を何か:いかに巡礼者が勉強に熱心な学生になろうとしていることに注意のこと。地獄編は大いに行為に存する。教会の教義は学生=巡礼者に直面する現実的な眺望によって通常最初に示されている。しかし彼がいかなる新しい学生も最初に使わねばならない方法である例示によって(すなわち行為によって)、もっともっと学ぶならば、彼は彼の教師たち(主としてベルギリウス、ベアトリーチェ、聖ベルナール)からさらなる哲学的で神学的な教義を耳にし始めるのである。この教義の重要さは煉獄編で増加し天国編に至ってさらに大きくなる。
17.さらに三つの小円:[Musaはthree more circlesと訳しているが、Danteはtre cerchietti(三つの小円)としていて、いままでの連環であるcerchio(円、輪)に対しての小円である。そしてMusaはまた、Danteのdi grado in grado(段々と)も無視して、単にconcentrically arranged(同心円に配されておる)と表現している。Durlingの訳:"are three smaller circles descending step by step, like those you are leaving."が直訳に近い。日本でも、平川は「下へ行くにつれて段階をなしてすぼまっている」と訳している。地獄は漏斗状であり、上から見ると同心円であり、中心すなわち下へ行くに連れて円が小さくなっていき、断面的に見ると段々状である]【資料11-1参照】
22-27. 全ての悪意はその目的として非道を持ち:[矢内原注:いままで通ってきたディテ(ディース)城外のいろいろのサークルは放縦の罪である。すなわち自分の本能を適当にコントロールしなかった罪です。ところがこれから下の罪は「邪悪」すなわち悪意malizia, malice(狡猾、策略、姦計)です。意思の邪悪です。それは「障害」(「非道」)ingiuria, injury(侮辱、無礼、破壊)を目的としておるものである。今までは理性をもって本能を適当にコントロールしなかった罪ですが、これからは悪意のある罪である。それゆえにいっそう重い。意思の邪悪のうちにまた二種類ある。それは暴力と欺瞞(詐欺)で、どちらが重いといえば欺瞞の方が重いのです。なぜといえば暴力は動物と共通で動物的な面がありますが、欺瞞は純然たる意思の罪であり、動物にはない人間特有の罪悪であるから、いよいよ神を喜ばさない]
23.暴力によりまたは詐欺により:「暴力」Violence, forzaと「詐欺」Fraud, frode(不正行為、詐欺、欺瞞の意思)との差異はキケロCicero, Ciceroneの『義務論』De Officiis T, 13.から取っている[「暴力」は「力ずくで……すること」、「詐欺」は「だまして……すること」]。
28. それらの連環の最初:[下地獄の第1番目の連環であるが、上地獄から数えると第7連環である]
29.三つの人格:[ここで「人格」と訳したのは英語のpersonであるが、イタリア語ではpersonaであり、日本語でもペルソナで通じているが、神学での位格である【資料11-2参照】]。
50.ソドムとカオルサの両方:ソドムSodoma, Sodomは、もちろん、その不倫邪悪な行為[男色sodomia]のために神により滅ぼされた聖書にある都市(創世記18-19)である。カオルサCahors, Caorsaはフランス南部の都市で中世においては高利貸の繁栄した中心地として広く知られた。この罪のためカオルサがあまりにも有名なのでカオルサ人Caorsinoが中世における「高利貸し」と同義語になっていた。ダンテはこの都市の名を男色者達sodomiti, Sodomitesと高利貸し達usuraio, Usurersをほのめかすために用いている。彼等は第7連環の最も小さな輪環において懲らしめられているのである[矢内原注:男色を行ったり、高利貸しをしたりすることは、神の自然と神の恩恵をなみする(蔑する:ないがしろにする)ものである。神に属するものに対して暴を加えるものである。こういう行為をなすもの、並びに心の中で神をなみすることを自分の心で語るもの、こういうものは第3の円に入れられている]。
65.地球の中心に、ディースの王座をかこんで:ここではその名はルシフェルLuciferに起因する。第8章68行参照[矢内原注:ディースは城の名ですが同時に地獄の王ルシフェルの名であり、地獄の魔王ルシフェルが座っている。これは最小の環、地獄の底すなわち宇宙の中心といわれております。そこでは裏切り者が永遠の罰を受ける。ディース城内には3つのサークルがある。第1は暴行者、第2は自然の愛情を裏切るもの、第3は特殊な信任関係を裏切るものがおかれている。弟子が先生を裏切ったり友だちが友だちを裏切る罪が一番重い。キリストを売ったイスカリオテのユダが一番その底に入れられているのです。これは(人の心の真実を徹底して愛した)じつにダンテらしい解釈であり、そしてまた深い正しい解釈ですね。罪の中の一番深い罪が特殊の信任を裏切ることです。]。
70-75.しかし泥だらけの沼地に居た者:ダンテがベルギリウスに問うている罪人達は不節制の罪を犯したもの達である。ベルギリウスの答え(76-90)は不節制の者達は彼等の罪が、悪意を伴っていなく、神に対する攻撃性が少ないために比較的軽い罰を被っているというものである。
79-84.汝はいかにして汝の倫理学が解いたかを忘れてしまっているのか?:ベルギリウスは、アリストテレスAristotle, Aristotelesの『ニコマコス倫理学』Ethica Nicomacheaに言及して、どのように完全に巡礼者がこの作品を学んだかを理解しているために、「汝の倫理学」と言っているのである(101行の「汝の物理学」への言及に注意のこと)。不節制と悪意の間に現れたここでの差異がアリストテレス(第7巻、第8章)を土台としている一方、地獄編における罪の包括的な分類classificationがそうではないことが明らかにされるべきである。ダンテのものは二重の体系twofold systemであり、主な分割divisionsは以下のように図解されるかもしれない。
しかしながら、アリストテレスは三重の分類threefold classificationを持つ。不節制(放縦)incontenenza、悪意malizia、獣性matta bestialiadeであり(第7巻、第1章)、第三のカテゴリーは、多くの学者のものがこれを彼により言及された再分割の一つと結び付けようと試みているにもかかわらず、ベルギリウスによって示された輪郭と対応しない。アリストテレスによって表現された三つの罪に関するベルギリウスの言及は主に、ギリシアの哲学者の作品を紹介し、彼が不節制と悪意との間の彼の差異を引用したい的確な書物を指摘するための手段である。というわけは、三重の関連threefold referenceは『ニコマコス倫理学』Nicomachean Ethicsの第7巻の最初の行に見出されるのである。
ベルギリウスが前地獄における、リンボ(古聖所)における、そして第6連環における罪人達について全然言及していないことは注目するべきである。そしてまたこの章で呈示された体系にこれらの罪を合わせるのも相応しくない。臆病者たちthe Pusillanimous、未受洗者たちthe Unbaptized、そして異端者たちthe Hereticsは不節制と悪意とのどちらでもない罪を犯したのである。この後者の二つのグループを私たちは罪多き行為よりもむしろ誤った信仰として処置しなければならない。そして前者のグループに対しては懲らしめられているふりをすることは失敗するようなものである。そしてダンテは、彼が割り当ててきた地理的な位置選定the geographical locationによって、彼の道徳体系moral systemで彼等の居場所の接面的な自然界the tangential natureを指し示してきているのである。はじめの2グループは厳密な意味での地獄に居るのではないのである。異端者たちは、不節制の罪とディースの門の中だが深淵の一番上にある悪意のそれとの間で、ある種の人間でない国No-Man's-Landのようなところに居るのである(下線は訳者)。
91.濛々たる光景:[漠然とした観念のこと]
92-93. この喜びはわたしのものとなります:[矢内原注:これはおもしろい言葉です。疑惑がいつまでも疑惑であれば嬉しいわけはないのですが、先生──ベルギリウスが解いて下さる。そして十分な答えを与えてくださる。わたしの目を健やかにしてくださるから、疑惑をもつこともわたしにはうれしい。疑惑をもつことによってわれわれはよりいっそう明らかな知識を得ます。それで疑惑も知識に劣らずわたしに嬉しいのです]
97-100.哲学が:[アリストテレスの哲学は自然の法則に従って自然が動いていることを「一度ならず」指摘している。その一番の根本は「知恵」と「技術」(「その美しきできばえ」)であり、宇宙万物を創造せられたその創造と進化の法則、すなわち自然法則である]
101-105.而してもし汝が汝の物理学をよく心当たるならば:アリストテレスの物理学Physics(第2巻、第2部)は技術が自然を模しているという教義にかかわっている。技術ないしは人工は人が自然を利用するという意味で自然の子であり、したがって神の孫である。高利貸しは、第7連環の第3輪環にいるが、人工に対して不法な力の行使をすることで、実際は、神に対して暴力を働いているのである(下線は英語ではどちらもviolence)[これは、アリストテレスが文学の世界でいう「ミーメーシス」である]。
108.創世記をその始まりの近くに:人間は繁栄するつもりならば自然と人工の両方に頼るべきである。この原則は創世記(iii, 17, 19)に述べられていて、そこには人間が働き、ひたいに汗して糧を得るように定められている:
男にむかっておおせられた。「あなたは、その妻のいうことをきいて、私が食べるなと禁じておいた木の実を食べたので、/地は、あなたのゆえにのろわれよ!/あなたは、苦労して[地から]かてを取るだろう、/いのちのつづくかぎり。/地は、あなたのために、いばらとあざみをはやし、/あなたは、野の草を食べねばならない。/ひたいに汗して、/あなたは、かてを得るだろう、土にかえるまで。/あなたは、土から取られたものだから。/あなたは、ちりであり、/ちりにかえらねばならないものだから」(ドン・ボスコ社版聖書1978)
113-15.うお座が地平線を超えかすかに光り:ベルギリウスは、いつものように、星座を引き合いに出して時を呈示している。彼はダンテが説明できない(星座は地獄からは視覚的でない)いかなる定められた瞬間でも彼らの位置を知っているということである。うお座Piscesは、大熊座Gran Carroすなわち北斗七星the Wain
が天空の北西の四分円弧(北西の風Coroの吹く場所)に完全に横たわっている間に、ちょうど地平線に現れるのである。うお座の後の黄道十二宮はおひつじ座である。第1章から私たちは太陽が通説ではおひつじ座にのぼっていることを知っている。黄道十二宮それぞれはおよそ2時間をカバーする。よって日の出まではかれこれ2時間に違いないのである[イタリア語の"carro"にせよ、英語の"wain"にせよ、どちらも「馬車」であるが、「カルロ大帝の馬車」のことである。うしかい座の主星アルクトゥールArcturusがラテン語Arturus(=Arthur)と混同され、更にアーサーArthur王がカルロ大帝(シャルルマーニュ)Charlesと結びついた]
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