この記事はまだ途中です。後でまとめて肉づけを行います。
11-12.彼等がヨシャパテよりここへ戻りたるならば:旧約聖書ヨエル書Joel (V,2,12)によれば、ヨシャパテIosafatの谷は、エルサレムJerusalemとオリーブ山の間に位置し、最後の審判の場所とされている。その時に魂と肉体が再結合され来世のために天国または地獄へと戻されるのである。
14-15.エピクロスとその弟子達を満たしており:エピクロスEpicuros, Epicuroはギリシアの哲学者で紀元前306年に生まれアテナイAthenaiで哲学の学派(後に命名)を設立した。エピクロス主義者達の哲学は最高善はこの世の快楽であるとし、徳の実践により成し遂げられるとした。ダンテの時代ではエピクロス主義者達は彼等がこの世の快楽を賞賛し、魂の不滅と来世を否定したために異端者とみなされた。エピクロスは異教徒であるにもかかわらず異端者達の中に居るのであるが、なぜなら彼が魂の不滅、すなわち古代人にさえ知られている真実を否定したからである[矢内原注:エピクロスという人は非常に道徳的な生活を送った人であり、彼の哲学もいわゆる享楽主義ではないのです。快楽が人生の幸福であることを彼が説きました。しかしエピクロスのいう快楽は平静な心、心が乱されないことなのです。人はいかにして心を乱されない状態で生活することができるか──その方法を彼が考えたのです。心の平静を失わせしめる原因は恐怖である、だから恐怖を除くことが人生を幸福に送るために必要なのだ。その恐怖はどういうところから起こるか考えてみると、恐怖の最大の原因は死後の生活という考えである。神とか死とか死後の審きとか、そういう考えが人を恐れしめておる。しかるに神というものはないんだ。エピクロスは当時の自然科学の世界観に従い、世の中に実在しておるものは物質しかないのであり、したがって人間の生命などというものはこの世限りで、この世に生きている間は生命があるが、死んでしまえばそれで人間はおしまいだ。死後の生命とか死後の審きとか考えるから恐怖に襲われるのである。神とか神の審きとか死後の生命とかを除けば、人は心に平静を得る。そしてくだらないことに心を使わないようにして、いわゆる達人の心境に到達することをエピクロスは理想としたのです。ただ彼のエピゴーネン──彼の俗流どもの中に、現世主義の享楽主義になり──生命というものはこの世しかないのだからこの世を愉快に送るということが目的だというので、飲んだり食ったり快楽をほしいままにすることが人生であると考えた者がおりました。これはエピクロスの教えからは分かれておるのですが、このためにエピクロスは不当に汚名をきせられ、今日まで多くの人から誤解せられてきたのです。ダンテがエピクロスとその徒を地獄の第6環の中に入れたのは、彼の無神論──その来世否定論、霊魂の不滅を否定した彼の主張──のゆえです。これをディース城壁の内側においたのは、その罪が重いからです]。
16-18.汝がいましがたした質問について言えば:ダンテの質問は7-8行である。「汝のわれに隠しておる望み」に関しては、多くの批評家はファリナータが異端者の中に居るかどうかを知りたい望みであると信じている。しかしその黙せる望みがその亡霊達の知識の大きさ、すなわち、彼等は未来を予知できるがどの程度現在を知っているかどうかを知りたい望みであるということがむしろ確実に推定される。この「望み」は、第6章におけるチャッコの予言に始まったに違いないが、近いうちにカヴァルカンテの前でのダンテの沈黙の根拠となろうし、ファリナータによって満足させられるであろう(100-108行)。
21. 一度以上:[第3章76-81参照]
22-27.おお、トスカーナ人よ、わし等の燃え上がる街を通って:ダンテを友人のトスカーナ人と認めると、彼に一瞬ためらいをもつ。ファリナータ(Manente di Jacopo degli Uberti)はフィレンツェの古くて尊敬された家柄の出で、ギベリン党(彼は1239年その首領になった)側でコミューンの政治的生命に積極的な役割を果たした。彼はダンテの生まれる1年前の1264年に没した[ファリナータはゲルフ党に追われフィレンツェを出たが、のちシエナの市民と連合して1260年の9月にモンタベルティの戦いでゲルフ党を破ってフィレンツェに帰ってきた]。
42.その者が尋ねました、「ならば誰が貴様の先祖であったのか?」:ファリナータの極度に誇り高き性質がこれらの行に投影されている。この堂々たる侮り切った亡霊によって気づかされる第一の事柄は巡礼者の話し方の格調の高さ(23行)であり、そして「なかば蔑むようにして」した、彼への最初の質問は彼の血統に関したものである(42)。彼の傲慢さはまた彼がカヴァルカンテの中断を完全に無視し(52-72)そして何事も起こらなかったかのように会話を再開する(77)時に明白である。なおその上に、ダンテが「墓を分かっている人の名」(117)を彼に尋ねると、彼は二人の名前しか与えていない、それは皇帝と枢機卿であり、すなわちその血統が彼の裁可に見合うのである。このような傲慢さはファリナータの異端にとっては標準としてのきざしがあり、智力に富める誇りである。ファリナータは生存中大変自己中心的で(彼の「わし」の語勢に注意)かつ自信家だったので彼は宗教の信実を軽蔑していたのである。カヴァルカンテもまた、彼の息子が巡礼者と同伴していないというその驚愕、「もし偉大なる精霊がおり/この盲目の監獄を通っておまえを連れてきているのであれば」(58-59)において一種の誇りを表すであろう[「誰が貴様の」をゴチックで印刷したが、原文では特に表記の強調はなく、ムサの意図である(ムサはイタリック体で表記している)]。
48-51.わしは一度ならず二度も彼等を追い散らしたのである:巡礼者の祖先が(他のゲルフ党員達と共に)二度(1248と1260年)(他のギベリン党員と共に)ファリナータとその縁者によって街から追われたが(ファリナータの言葉「追い散らす」を「追い出す」に訂正することで明かされる、巡礼者の行為の評価に注意)、彼等は両方の敗北の後に(1251、1267年)戻った。ダンテのおしゃべり、「術計というものに貴方の部下達が必ずしも修得していなかったのです!」は、決してフレンツェに戻らなかったというウベルティ家Uberti (ファリナータが所属)と他のギベリン党員の放逐を引いている。
53.一人の亡霊が現れました、しかしちょうどあご先の低さで:この亡霊はカヴァルカンティ家のカヴァルカンテCavalcante de' Cavalcantiで、重要なフィレンツェ家の一員でグイード・カヴァルカンティGuido Cavalcantiの父である。(ボッカチオが、彼の「神曲」注解で、その父も息子も有名なエピクロス主義者であったと述べている。)カヴァルカンテの息子グイードは、1255年頃生まれ、当時の主要な詩人の一人でダンテの「最初の友人」であった(ダンテが「新生」で述べている)。有名な思想家でもあったグイードは、高度な哲学詩を修練しダンテ自身の詩に影響を与えた。カヴァルカンティ家はゲルフ党員で、そしてギベリン党員ファリナータの娘ベアトリーチェに対するグイードの婚姻がよく知られていて(上記22-27、42参照)、それは両党の間でのしばしの平和を保証したのである。グイードは1300年8月に没した。
62-63.そのお方を、おそらくは、あなたのグイードが軽蔑していました:ある注解者は、これら2行の構文法について異なる解釈を試みていて(ベルギリウスが巡礼者を導いていることを、グイードが「彼女に対して」おそらく軽蔑していたとこの行を意味付けるために)、グイードが軽蔑したのはベアトリーチェであると信じている。しかしながら、もっとも信じられるのは、グイードの態度の対象がベルギリウスであることだ。私(Musa)は、近代の批評家に同意しているが、次のような通常呈示されている理由によるのではない。それはグイードの誇りが理性の導きに従おうとしなかったようなこと、またはベルギリウスを古典主義ないしは宗教心の象徴として軽蔑していたかもしれないようなことである。最初の仮説は特にばかばかしいものである。グイード・カヴァルカンティが熱烈に愛した以上には誰も人類の理性を愛さなかったのである。おそらくは、グイードが、懐疑論者として、理性の終局の目的を果たすために理性を容認することには拒絶したと言われているに違いない(時勢の教えに従えば)。それは人を神へと導くのである。【資料10-1参照】
68-72.おまえは何と言ったのだ?それが何していたと?それは生きてはおらぬのか?:過去形「いた」の使用は不明瞭で、巡礼者の言葉を聞いて、息子が今死んでいると取った父親の誤解の原因となっている。カヴァルカンテの落胆した叫び声につづいた(68-69)巡礼者の沈黙は、彼が老人の質問で当惑されたことによる。それは、非難された魂が未来を洞察することができるけれども、彼等は現在の知識を持っていないということを、巡礼者がいまだ承知していないことである。そしてこの沈黙がカヴァルカンテの息子が死んでいるという思い込みを強めているのである。
ダンテの過去形「した」の使用と彼のすぐ次の沈黙からのカヴァルカンテの誤解は第10章の審美的な構造の一部分であり、それは中断と誤解に基礎を置く。ファリナータが巡礼者とベルギリウスの会話を中断し(22)、カヴァルカンテがファリナータと巡礼者を中断し(52)そして後者の言葉を誤解するのである。このような構造は自己中心的なものとダンテが異端者達の代表をまもっていたことの理解の欠如を指摘している。
79-81.しかしだがここに君臨している女王の顔が:ヘカテーHekateまたは、プロセルピナProserpinaは、月の神で、冥界の女王である(9章44行と比較)[ローマ神話で「月」は、天ではディアーナDiana(ギリシア神話ではアルテミスArtemis, Artemide)、地ではルナLunaと呼ばれ、地獄でプロセルピナ(ギリシア神話ではペルセポネーPersephone)と呼ばれている]。ファリナータはダンテが50ヶ月を経て流刑から帰国する術計のいかに難しいかを知るだろうと予言をしている。ダンテは最初1302年の1月にフィレンツェから流刑された。ファリナータの予言後の50番目の月は(この詩の創造上の時間要素からして、1300年の3月に起こっているが)1304年5月であった。この時までにダンテは、他の流刑人たちと共に、再三再四フィレンツェへの帰国を企ててきた。そしてプラートPratoの枢機卿ニコロNiccoloが、流刑人たちの帰国を交渉するためベネディクトゥス十一世Benedictによりフィレンツェに送られ、その任務に失敗したのが1304年4月であった。
82.而してわしが、貴様がもう一度その甘い世を知るかもしれぬことを望むとしてだが:ファリナータの人物(役)の横柄なおもむきは、その要求の前口上(83-84)を含めて、この形式に明らかである。
84. その作るすべての法律においてわし等一族にかくも酷あるのか?:ウベルティ家Ubertiは、ファリナータの一族で、ヴィラーニVillaniによると、ギベリン党の多くがフィレンツェに戻るのを許可された時、1280年の特赦を含むギベリン党に譲歩した全ての特赦から締め出されたのである。
85-86.大虐殺と無用の殺生が:ペルティ山Montapertiの丘は、シェーナSiena近くの小さな流れのアルビア川Arbiaの左岸にあり、フィレンツェのゲルフ党とギベリン党との猛烈な戦いの舞台であった(1260年9月4日)。そこではゲルフ党が敗北した。その時ファリナータはギベリン党の主導者であった。
87. いまそのような法律がわたしたちの議会から生まれる:[原文は、”tal orazion fa far nel nostro tempio”で「わたしたちの大聖堂において祈りをしたもの」である。Musaはかなりの意訳をしている。この「大聖堂」は聖ヨハネ会堂であるが、当時フィレンツェの市民が議場として使用していて、そこで法律を制定した。しかし「祈り」からは、大虐殺をしたウベルティ一族が帰れないように祈ったという意味も読み取れる]
88-93. それはわしではない・・・しかしわし・・・それはわしなのだ:反証を挙げることで、ファリナータは、彼がモンタペルティでの戦いにおいては単なるギベリン党員に過ぎなかったこと、彼が戦うべき正当な理由があったことを陳述している。しかしモンタペルティでの勝利後のエンポリEmpoliでの議会で、ギベリン党員がフィレンツェの破壊を計画しようとした時、ファリナータはその計画に反対した唯一のギベリン党員であった。彼は誇らしげに後者の行動の信が彼一人のものであることを指摘している。が、また一方では、彼はモンタペルティでの殺戮の非難を全て引き受けようとしていない。
100-108. ここに降りてわしらは欠点のある視覚を持つ者のようである:巡礼者の、亡霊たちの現在の知識に対する力量を知りたいという望み(96行の「結び目」)に答えて、ファリナータが、彼らは過去と未来の事柄の完璧な知識を持っているが、彼らは現在を知らないと説いている(もちろん、地獄での新参者、「よそ者」(104)によってもたらされた時事の知らせは別である)。この知識でさえ審判の日の後は彼等から打ち消され、その時には全てが確実不変で永久のものとなり、未来の出来事への扉が永遠に閉ざされる時には(108)、彼等の過去の記憶は消されるのである。その後はもはやいかなる過去も、現在も、未来もないのであろう。
119-120.フェデリーコ二世がここにそして枢機卿が:この皇帝フェデリーコ二世(1194-1250)は彼がエピクロス主義者だと俗に信じられていたために異端者達の連環に居る。
オッタビアーノOttaviano枢機卿(ウバルディーニ家Ubaldini)は、ギベリン党員で、ロンバルディLombardyとロマーニャRomagnaにおいて死ぬ(1273年)までローマ教皇の使節であった。彼は、「もし私が魂を持つならば、私はそれをギベリン党のためになくしてしまっているのだ」と言ったと報告されている。ダンテをしてこの枢機卿を異端者として咎めせしめたこの言葉に含蓄された魂の不道徳さに関してはおそらくは疑わしいものである。
129-32.その人が一本の指を挙げられました:挙げられた指は生徒を諭す先生としてのベルギリウスの役割をほのめかしているのかもしれない。あるいは彼がベアトリーチェを指し「上げて」いるのかもしれない。彼女に対しては「そのかたの眼は全てを見ており」(131)としている。しかしながら、事実そうでないから、ベアトリーチェは巡礼者に対する未来の出来事の進行のとばりを下げるその人ではないであろう。その役目は「天国編」第17章において彼の祖先であるカッキグイーダCacciguidaに譲られるであろう。
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