この記事はまだ途中です。後でまとめて肉付けを行います。
1.わたしの顔にあるおくびょうの色が:極度の恐れが巡礼者を青ざめさせているのである。
3. すぐさまその人自身の顔色を変えさせました:[前章の終わりでベルギリウスは、巡礼者に「汝不安にさせられることはあらぬ」と言いつつも反乱天使に対する怒りで満たされていたが、巡礼者の眼前に戻り、その臆病な顔を見て、自身の怒りの顔色を(普通に)戻したのである]
8. いやしかし、かような助けが約束されたのだ:[原文は”Tal ne s’offerse.”で「このようにわれらに自身を捧げられた」が直訳である(”ne”は古語で詩に用いる場合は「我々に」の意味である)。ベアトリーチェが神の恩寵を授与することを約束したことを意味している(第2章58-74)。それ故に次行の「あの方」とはベアトリーチェが差し向ける神の使いである]
17-18.第1連環から:古聖所(リンボ)は、そこでは異教徒の亡霊が見られ、それらは、いまはキリスト教の神に気付いているが、地獄に止まることを余儀なくされ、しかしながら神の救済を望み、しかし徒労に終わっているのである。第4章、34-42参照。
22-30.しかしわれがかつて一度ここに下ったことはありうる:巡礼者の質問に対する答えでベルギリウスは次のように述べている。このような旅はめったになされないけれども、彼自身がかつて一度エリクト、すなわち死霊を呼び出すテッサリーアの予言者の命令で成し遂げた(ルカヌス「ファルサリア」vi,508-830)。彼女のために魂を取り返すために、ベルギリウスは地獄の最も低い地域(ジュデッカGiudecca:第9連環の第4地域、「ユダの地獄」)へ降りていった。そこは地球の中心で、したがって、第十天(Primum Mobile:プトレマイオスの天動説によれば、「最も外側の天球」)から最も遠い地点である。文学または伝説的出展がないので、ベルギリウスの地獄への降下の物語はたぶんダンテの作り話であった。
33. 反目せずには:[原文は”sanz’ ira”で、「憤怒なしでは」が普通であるが、”ira”は稀に「憎しみ」「激しい反目」の意味があり、Musaはこれを採用し”without strife”と訳している。第8章の「彼等のかような無礼」(124)に対しては、ベルギリウスの「理性」の力では反撃(「説得」)出来ないのであろう。そしてこの「憤怒」は「公憤」「義憤」であり、神罰”l’ ira di Dio”なのである。実際に神の使いが来て懲らしめる(神罰を下す)ことになる(64-99)]
38-48
復讐の三女神”tre Furie”(エリーニュエスErine, Erinye)すなわち、ティーシポネーTesifon, Tisiphone、メガイラMegera, Megaera、アーレークトーAletto, Alectoは、古代神話においては罪の伝承的復讐者達であったが、ここ地獄編においては、第2章における一連の恩寵をかたちづくる天国の婦人たち(マリア、ルシア、ベアトリーチェ)と対照をなす者としてのように思われる。彼らは、それゆえ、三位一体the Trinityの別の推定されるゆがんだ形(歪曲)である。注解61-105参照。
38.三人の邪悪な鬼女:[Musaは上記のように”tre Furie”としているが、原文は”tre furïe”と小文字であり、”furie”は”furia”の複数形である。すなわち大文字の”Furie”はローマ神話の「フリアエ」、ギリシア神話での「エリーニュス」(Erinys)、すなわち「3人姉妹の復讐の女神」のことであるが、小文字の”furia”は、「凶暴な人」、「(復讐の女神を思わせる)鬼女」であり、「復讐の女神」そのものではない。巡礼者ダンテは、「復讐の女神のような恐ろしい者達」が突然現われたと説明しているのであり、「復讐の女神」そのものについてはよく知らないのである。よって、45行で、ベルギリウスがギリシア語で「残忍なる復讐の女神なるぞ」と3人の名前を挙げて説明するのである。なお、巡礼者がよく分かっていないことに対し、44行ではベルギリウスが「よく見分けられ」ていて、また、59行でも、メドゥーサが来ると分かっていても巡礼者が自分の手ですぐさま眼を覆うことはないとベルギリウスが思い彼の手を差し伸べるのである]
40.海蛇(ヒュドラ):[【ギリシア神話】ヒュドラidora, ヒュドラーHydraは、沼沢地レルネーに住みヘーラクレースに退治された9頭の大蛇。普通名詞として「始末のつかない難物」。”le idora Femmina”で「海蛇(水蛇)座」]
41.角蛇と小蛇:[Bantam Classic版およびインターネット版では逆である]
44.無限悲痛の女王の侍女たち:復讐の三女神はペルセポネーPercephone(ヘカテーHecate)、すなわち古代の冥界(ハーデースHades)の神プルートーンPlutoの妻に使える「侍女たち」である【資料9-1参照】。
45. 残忍な復讐の女神なるぞ!:[ダンテは「復讐の女神」をベルギリウスに”Erine”(erinni), Erinysとギリシア語で説明させる。これは、38行で述べたように、小文字”furie”でも大文字”Furie”でも耳にすれば同じであるので、あえてギリシア語で区別したと思われる]
46-48. あれはメガイラ:[イタリア語での派生的な意味としては、メガイア”megera”は鬼婆、アーレクトー”aletta”は羽毛、小翼、ティーシポネー”teschio”は頭蓋骨である。3語(3人)をまとめて”furie”で「翼をもち、頭蓋に蛇の頭髪をつけた、醜い老婆」となる]
52.メドゥーサよ、来れ、我等は此奴を石に変えようぞ:メドゥーサMedusaは古代神話では三人のゴルゴーンGorgonの一人である。ミネルバMinerva(ギリシアのアテーナー)が、自分の寺院の一つで二人の息子を産んだとしてメドゥーサに腹を立て、彼女の美しい髪を蛇に変えた、それゆえに彼女の恐ろしい様相にじっと見詰められた者は誰でも石に変えられたのである【資料9-2参照】。
この章の古代環境(周囲の状況)がベルギリウスの心に聞きなれた和音(心の琴線)を打ち続けていることは注目されるべきであろう。確かに、ローマ詩人という者は(そしてダンテはちょうど51行のように彼に言及しているが)自分の世界に完全に巻き込まれていてメドゥーサがダンテを石に変えることが出来たことをこころから信じているのである。実際ベルギリウスは「その人機会をとらえて/無限悲痛の女王の侍女たちをよく見分け」(43-44)る、として描写されている。注解61-105参照。
54.いかにして我等はテーセウスをすばやく放ちそこなったことか!:テーセウスTheseusは、偉大なアテナイの英雄であるが、彼の友、ラピテース人Lapithaeの王ピリトーウスPirithousと共に、彼のためにプロセルピナProserpina(ギリシアではペルセポネー)をかどわかすために、冥界に降りた。プルートーンはピリトーウスを殺したが、しかし、テーセウスを、彼を健忘の椅子(彼の心を空虚にしそのために動きを制した)に座らせることで冥界のとりことしたのである。ダンテはテーセウスがヘーラクレースHerculesにより解放されたという神話のあまり一般的でない版を選んでいる。注解61-105および98-99参照【資料9-3参照】。
56.もしゴルゴーンが来て:ゴルゴーンとはメドゥーサである[イタリア語で”gorgone”は「恐ろしい女」である]。
61-105
読者への呼びかけ(61-63)は注意を引く。多くの批評家達が「私の不思議な物語を覆い隠しているみせかけの下に/いま熟視し隠されている意味を理解せよ」が復讐の三女神とメドゥーサに関係した前の行に起因していると推定してきているが、しかし私(Musa)は次に続く、ディースの門での天使の到着を描写している行に関係していると信じている。呼びかけ(案内)と「隠されている意味」の前後関係を十分に理解するためには、その一節を「煉獄編第8章」でのその類同語と比較する必要がある。そこには、ここと同じく、詩人ダンテが文字面に字句通りの意味を探るよう読者に伝えるために物語を中断しているのである。
あなた方の視力を研ぎ澄ませ給え、読者よ。真実が、いまは、
より薄い布で覆われており、それゆえに、
その意味は容易く知覚されよう。
(煉獄編第8章19-21)
もし人が「地獄編第1章」を「神曲」全体の序論として受け取るならば、そのとき「地獄編第9章」は、本当は地獄を論じる第8番目の章であり、そしてそれゆえに煉獄を論じる第8番目の章に対応した位置を占めるのである。更に、多くの批評家達が認めているように、「煉獄編第8章」での読者への呼びかけ(「今はたやすく見透かせる」布(ベール)の下にある真実に読者の視力(洞察力)を再び向けさせるために:「煉獄編第8章」20-21)は次に続く節に注意を向けているのである――そしてそれは煉獄そのものの門での二人の天使の出現に関係がある。その引用の類似性は明白である。すなわち読者への呼びかけならびに地獄の入り口と煉獄そのものの門での、それぞれの天使の降下と行動の描写に。
象徴的に、これらの節は、煉獄の山の頂でのベアトリーチェの到来と共に、中世における3回のキリスト降臨信仰に類似している。聖ベルナールSt. Bernard(彼は巡礼者を恍惚状態の、至福をもたらす神の絶景へと導くために「天国編」に現れる)は彼の『降臨の教訓』Sermons on the Adventsの中でこの概念を述べている。キリストの第一番目の降臨は、まさに彼の地獄への降下であり、第二番目の降臨は人間の心にキリストが日常到来することであり、それは人間を罪の日常の誘惑の戦いから救うために必要である。すると第三番目の降臨は「最後の審判」であり、その時キリストが生きるものと死する者を審判するために到来するはずである。「地獄編第9章」での天使の到来は、それゆえ、キリストの第一の到来に類似している、その時神は地獄に降下し選ばれたるものをほどくため常に第一の門(第3章)を開けていたのである。その出来事は、実際に、ベルギリウスによって、彼が天使の到来を予告する時に、前章(第8章)の最後で言及されている:
彼等のかような無礼は目新しきものではない。
彼等はとある秘密少なき門にて一度それを用いし、
それは、永遠にそうであろう、錠がはずされておる。 126
汝はそれに関して述べられた死のような言葉を見はずだ。
そしていま、すでにそれを過ぎ去り、そして下り、
これら連環を横切り、その坂を下り、ただひとり、 129
ある人来られてこの街を開けられるであろう」
キリストの地獄の門を開けることと天使のディースの門を開けることの間の類似は確実に明白である。キリストが「地獄」から無罪の人を自由にし「ふつうの人」に救済を与えるためにやってきたように、その天使は、巡礼者(「ふつうの人」)を彼が前もって定められた旅を続けられるよう「地獄」の勢力から解き放つためにステュクスの川を(脚をぬらすこと無しに)歩いてやってきたのである。第二の降臨は、「煉獄」においてであるが、日常のものであり、守護天使が罪の蛇(悪魔)を「煉獄」の門から遠ざけるために同じ時間に毎日降ってくるのである。それはキリスト教徒の心へのキリストの日々の降下のようである。第三の降臨は、「最後の審判」だが、ベアトリーチェのその魂の恋人に審判を下すための降下であり、その時彼女が彼を「天国」へと導くのである。
三つの降臨は、キリストの死から全人類の起こり得る審判に対して人類の生涯の中への日常入ることを通して地獄への降下に至る、キリスト教徒の生涯のすべてを包含している。この点で、復讐の三女神とメドゥーサは、少なくとも部分的に見て、ディースの門前で尽きる寓意劇の一部分として観られるべきである。天使の降臨前の到来は、キリスト教時代の始まりを象徴しているが、古代の女性の悪魔は異教徒の時代を象徴している。地獄へのテーセウスの前キリスト教的降下とヘーラクレースによる救助という復讐の女神の言及(54)はダンテを救助する神としての天使の来るべきキリスト教的降下とつりあっている。ちょうどダンテが「神曲」の旅が三度の降臨を通してキリスト教徒時代のすべてを包含していることを象徴的に示そうと欲したように、彼はまたその旅が異教徒時代のすべてを回想しその範囲を包括することを暗示しようとしたのである。ベルギリウスは、実際に、前キリスト教徒時代の主たる代表者として、異教徒メドゥーサの力を確信しているので、彼は巡礼者の目を覆ったのである。「神曲」は、それゆえ、神に至る特定の「ふつうの人」の旅としてだけでなく、人類の生涯の完全な意図として認められねばならない。古代人の神話信仰(彼等の智恵だけでなく:ベルギリウスが両方の例である)から、起こりうる最後の審判に対するキリスト教徒時代における人間の生涯を通して。
三度の降臨の枠組みにおけるこの部分の意味はさておきその場所に見られるべき重要でない象徴的類似性もまたある。それは「理性」(ベルギリウス)は「ふつうの人」を十分に教えることが出来るが、「神の恩寵」(天使に包含されている)なしでは巡礼者がその旅を完成し天国に至ることは望めないのである。
94.何故におまえ達は頑固にその意志に逆らうや:神の意志である。
95. その目的は決して拒否されず:[「その目的」は神の意志の目的で、それは決して中断されることはなく、必ず達成され、悪魔が神に反抗するたびに(「一度ならずと」)、悪魔に対して苦しみを増してきたのである]
97. 運命の女神が角での一突きを与えたとて:[原文”ne le fata dar di cozzo”の逐語訳であり、「運命に逆らっても」という意味である。「角で突く」の動詞”cozzare”には「対立する」という比喩的意味がある。Musaは”by locking horns with fate”と訳しているが分かり難い]
98-99.お前どものケルベロスたるや:ヘーラクレースがテーセウスを助けるために地獄へ降下した時、頭が3つある犬、ケルベロスを鎖で繋ぎ、そしてその首の回りの皮が剥ぎ取られるまでそれを地獄の外まで引きずり回したのであった。
102-3. 心配そうな物事に刺激された色がありました:[原義は「自分の前のものに苦痛を与えるものよりも他の気懸かりに取り付かれた人のような顔色をしている」である。この「他の気懸かり」を寿岳、矢内原の両氏が「かれの前に立つ二人を案ずるよりも一刻も早く天国に帰りたい思い」と注解しているが、「二人には一言も声をかけなかった」が、「かれの前にいる悪魔よりも、二人が中へ入った後は大丈夫であろうかと心配している」と解釈したい。Musaは”ma”(「しかし」)を”and”としているのを見ると、「その方が自分を取り囲んで見たもの」はベルギリウスとダンテの二人だと解釈しているようである。しかし「沈黙を守りこの方に低く頭を下げ」(87)ている謙虚な(本当は心配そうな)巡礼者を「無視して」「天国へ急いで帰りたい」と考えることはないと思われる]
112-17.アルルでローヌ川がよどんだ川に変化するように:アルルArli, Arlesは、ローヌ川Rodano, Rhoneの三角州近くのプロバンス地方の町で、アリスキャンプAliscamps(アリスの広場)という有名なローマ時代(後期キリスト教)の墓地の遺跡である。そこでは、ポーラPola(プーラPula)が、クヮルネロ湾Carnaro, Quarnero(ケヴァルネル湾Kvarner)に面したイストラ半島Istra(現クロアチア)の都市でその埋没遺跡で有名でもあるのと同じく、巨大な石棺群が景色を覆い隠している。興味深いことには、伝説によれば、キリストが、Saint Trophimusがキリスト教徒の休憩地としてアリスキャンプをささげた時に彼のところに現れて、そこに埋められている魂が死者としての埋葬の苦痛からとかれるように約束したのである。このように、ダンテは、「あらゆる方向に撒き散らされていました」(117)という以外は、ここでの墓をポーラとアルルでの場所になぞらえているのである[矢内原注:アルルはカルロ大帝(シャルルマーニュ)の軍隊と回教徒軍とが戦い、非常に沢山の戦死者を出したところです。そこには1万人の戦死者が葬られたと書かれています。だから非常に沢山の墓がある。ポーラはローマ人の墓があったところで、約7百の墓があると記されています]。
127-31.そこにはすべての宗派の/高位な異端者たちが:「異端者たち」は「不節制」、「暴力」そして「詐欺」という3つの主な区画以外の「地獄」の一つの連環にある。「異端」とはその肉体または心(「不節制」)の弱さのせいでもなく、また「暴力」ないしは「詐欺」という存在形式でもない。それは知性の誇りに裏付けされた明らかに意志をもってなされた罪でありキリスト教徒の現実概念を知らないために、キリスト教徒の罪の範疇に割り当てられた地域以外で懲らしめられているのである。「異端の罪」は肉体の弱さによるよりももっと厳粛だが「暴力」と「詐欺」という意志をもってなされあらかじめ計画された罪によるよりはいくらかは厳粛でない。それは知性の罪であり本性の状態であるが、罪多き行為(「暴力」、「詐欺」)の源ではない。それゆえにそれは「不節制」と「暴力」の間にあるのである。
肉体の死が魂の死を意味すると信じた人が処罰として生きている魂の埋葬を経験するという事実に大きな皮肉がある。
132.それから右に向きを変えて、わたしたちは先に進みました:なぜダンテとベルギリウスが、常に左へ旋回してきたのに、突然右へ立ち去ったのかはなぞが残る。これは「地獄編」でもう一度おこるであろう。第17章31行。
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