この記事はまだ途中です。後でまとめて肉付けを行います。
7-21
ここの連環での亡霊達は大食い(大食漢)であり、彼らの処罰が彼らの罪に合致している。大食いは、不摂生の全ての罪と同じく、理性に欲望を従える。この場合の欲望は飽くことを知らない食欲である。このように亡霊達は犬の如く吠えるのである――欲望にあって、理性が伴わず。彼らはヘドロ(彼らの暴飲暴食の印象)の中に沈んでいた。彼らの大食いがここでの生活に自身をもたらした暖かい慰めが冷たく、汚い雨と雹(ひょう)になっているのである[余談:地獄編第6章は『神曲』の中で最も短く115行しかない]。
7-9.わたしは第3連環の中にいます、ひとしきりの雨の中に:最初の2つのテルツェットからの時制と語調に注意のこと。突然ダンテは、罪人たちの上に激しく注ぐ冷たい雨とヘドロの印象の直接性を強調するために、現在時制で書きそして一つの語が他を連打する鋭いスタッカートの効果を用いているのである[よって、現在形だがここでの"io"は巡礼者ダンテであり、「わたし」とした。矢内原注:ダンテは地獄の第2環から第3環に落ちるときに気絶したのです。これは前にアケロンテ川を渡るときに気絶したままで渡ったと同様で、ここでも気絶状態で渡ったのです。この時の気絶は神の審き――神の正義を知らなかったために地獄に導かれた愛に生きた人を憐れんだためです。第3環に移り、気が付くと「新たな呵責を受ける」人々を見た。第2環は風の詛(のろ)いでありましたが第3環は雨の詛いです]。次に原文を掲げる:
Io sono al terzo cerchio, de la piova
etterna, maladetta, fredda e greve;
regola e qualità mai non l'e nova.
13-22.ケルベロス、この残酷にして怪奇な獣は:古代神話でケルベロスはどう猛な三頭の犬で、「地下」(地獄)Underworldの入り口の番をし、全てに入場を許可し誰も逃亡を許さないのである。それは大食い達の原型であり、大づかみの汚物をがぶ飲みする3つの吠えむさぼり食う咽喉をもっている。それは「食欲」(という言葉)に適していて、生活を食欲の充足に服従させている魂達をこのように皮を剥ぎめった切りにするのである。その三頭のために、それはルシフェルの予示、したがって三一神(the Trinity)としての別の悪魔のゆがんだ像に思えるのである。22行でそれはイタリア原文で "il gran vermo"(大ウジ虫the great worm)として特徴づけられており、第34章(108)におけるルシフェルが"vermo reo "(卑劣漢、悪魔の虫evil worm)と呼ばれている如くである【資料6-1参照】。
26-27.その人は手に一杯山と積んだヘドロを不意に掴み:このしぐさで、ベルギリウスは、地下(冥界)Undergroundを通ってアイネイアースAeneasを案内したシビュレーSibyl(尼僧)のしぐさを模範にし、その3つの喉の中へ蜂蜜のように甘い菓子を投げ入れることでケルベロスをなだめるのである(Aeneid Y,417-23【資料6-2参照】)。ベルギリウスの菓子として「どろ」を代用することで、ダンテはケルベロスの分別のない大食いを強調している[Musaが強調している「どろ」mud、dirtは原文では"terra"であり、earth、land、ground、clayの順で英訳されていて、不潔感は少ないようである]。
36.それら人の形に見えている空虚なものの上に重くのしかかりました:地獄における亡霊たちはそれらの身体の形の外見しか持っていない、しかしながらそれらははぎ取られ引き裂かれうるし、もしそうでなければ肉体の激しい苦痛を受けうるのである――ちょうどここで巡礼者の重さを受けうるように。いまだにそれらはそれら自身明らかに重さを持たない空気のような亡霊であり(8:27参照)、それらは、最後の審判の後、もう一度それらの現実のからだを所有しているであろう(8:103参照)。
48.それは――そこではよりいっそう悪い状態かもしれませんが、誰よりも邪悪ではないのです:この彼の旅の早い場面で巡礼者は、後では排泄物や滴り出るはらわたのような汚物を見るかも知れないが、汚い水以外の不潔なものはなにもこころに描けないのである。
50.その茶碗はすでにその縁をあふれ:この印象imageはここではチャッコによるフィレンツェにおける妬みを特徴づけるために用いられまた大食いの罪をも表している[ここで茶碗cupは原文では"sacco"であり、英語のsackと同一語源である。山川、寿岳ともに嚢、袋で「ふくろ」と直訳している]。
52.君たち市民はぼくにチャッコという名前を与えた:巡礼者が現実に対話する唯一の大食いはチャッコCiaccoであり、彼のフィレンツェでの同時代人の一人であるが、その真の存在は決して決定されてきていない。何人かの注釈者は彼を、同時代の小詩人であり、推定としてボッカチオBoccaccioの物語(Decameron\,8)の"Ciacco"として、チャッコ・デル・アングィーラーイアCiacco dell’ Anguillaiaであると信じていている。しかしながら、ある固有名詞よりも、"ciacco"は「ブタ野郎」(“pig” or “hog”)としての軽蔑的なイタリア語であり[普通は"maia’le"を使い、一般的な辞書にはない]また「不潔な」filthyまたは「どん欲な男の」of a swinish natureという形容詞でもある。
[Decameronの第9日Nona Gionata、第8話Novella ottavaの概要]
Biondello fa una beffa a Ciacco d’un desinare, della quale Ciacco cautamente si vendica, faccendo lui sconciamente battere.
[金髪野郎は昼食のせいでチャッコをからかい、チャッコが誰でもその名誉をはらすため、みっともなく彼を殴るのである]
59.それはわたしを泣いて悲しめます:巡礼者は、第5章での彼の経験からほんの少ししか学んできていないので、再びチャッコのありさまに憐れみを感じるのである。
65-75.彼らは流血に至るであろう:チャッコの政治的予言は地獄における亡霊達が未来を見ることが出きる事実を啓示している。彼らは過去もまた知っている、しかし彼らは現在のことはなにも知らないのである(10:100-108参照)。この予言自身は次のように解釈されうる:1300年ゲルフ党は、ギベリン党を負かしてフィレンツェ全体の完全制覇を獲得した(1289年)が、党派分裂した。白派(65行の「不作法な一派」)は、チェルキCerchi家により率いられ、黒派(66行の「他派」)は、ドナーティDonati家に導かれた。これら2派は最後には1300年5月1日に直接の衝突に至り、街からの黒派追放という結果になった(1301年)。しかし、彼らは1302年に(68行の「3つの太陽以内に」すなわち3年以内に)戻り、ボニファキウスPope Boniface(ボニファチョBonifacio)[世の助けを借りて、(ダンテを含む)白派を国外追放した。ボニファキウス[世は、「今は両陣営に傾いでいる一方」(69行)で、しばらくしてフィレンツェに対する陰謀を暴露したが、むしろ両派の間で揺れるような進路を取って、最終の勝利を援助する計画をした。誰も耳を傾けない二人の正義の人の正体は確立されてきていない。読者はもちろん詩の創作年代が1300年だけれども、この詩自体が何年か後に書かれたものだと認識しているに違いない。したがって地獄編で「予言」されたことの多くはダンテが執筆していた時には既に起こっていたのである。
73.二人の正義の人がいるが、誰も耳を傾けない:二人の個人が知らされないままだけれども、「二人」によってダンテが堕落したフィレンツェで正直である最小限の2,3人に単純に言及するつもりであることはありそうである[この「二人」は、ダンテおよび親友のグイード・カヴァルカンティだという説がある]。
74. 高慢と、妬みと、どん欲:[矢内原注:傲慢、嫉妬、貪欲は始めにあった獅子と豹と狼の三匹の獣を連想せしめます。人生の半ばにおいて道を失ったダンテの行く手を阻んだ三匹の獣はおそらく傲慢、嫉妬、貪欲であった。それがフィレンツェの救いを妨げたものです。外側においてはフィレンツェの市民の罪悪が傲慢、嫉妬、貪欲であったし、またダンテ自身の精神生活においても傲慢と嫉妬と貪欲の罪が潜んでいるのを感じたのではあるまいか。ここではチャッコの言葉を借りて、フィレンツェの罪は傲慢、嫉妬、貪欲であると明白に述べたのです。アブラハムの例でいいますと、義人が10人いればソドムの町は救われ得たのでありますから、フィレンツェはせめて10人いれば救われるかもしれないと思うのだが、二人ではフィレンツェは救われないだろう。しかもその二人は義人と認められないのである。ダンテの嘆きと憤怒がこの中にこめられているのです(『土曜学校講義5』p.174-175)]
79-87.ファリナータとテッギアイオ、実に尊敬すべき人でした:チャッコは巡礼者に彼が尋ねている人たち(79-81)が地獄の中に居ることをだけ知らせる。しかし巡礼者はそのうちにファリナータFarinata degli Ubertiが異教徒達の連環に居ること(10:32)、テッギアイオTegghiaio Aldobradiniとヤーコポ・ルスティクッチJacopo Rusticucciが男色者達の中に居ること(16:N:41,44)、モスカMosca dei Lambertiが仲違いの種まきであること(28:N:106)を知るであろう。アリーゴArrigoは地獄編の中では再び言及されていなく見分けられていない。
89.我々の友人達にぼくのことを思い出すよう頼みたい:地獄の上層においては、地獄に落ちた人々の多くが彼らの現世の世評に関係させられている。なぜならば生きている人々による地上での彼らの記憶を犯すことは彼らの「生きていること」を思い起こす唯一の方法なのである。しかし罪がより憎むべきとなるように、罪人達は自分たちの物語が地上で語られていることをあまり望んではいないようである[矢内原注:逆に言うと人間というものは、自己の存在を永遠たらしめようという意識的あるいは無意識的な願いをもっているが、人々の記憶の中にそれを残そうと思う考えは地獄的です。そういう人々は地獄の亡霊となるのであると考えてもいいでしょう。永遠の生命たる、真に永遠の存在たるところの神の中に自己の記憶を留めるという願いが天国的な願いです。ところがダンテは地獄の亡霊どもに自己の記憶を永遠ならしめようという願いをすべてもたせておりますが、ただ背信――信義に背いた罪を犯した者たちには、自己の記憶をとどめようという願いをもたせておらない。のちにだんだん出てきますが、人を欺いたもの、信義を破ったものはかくれておりたいと思っている。人々の記憶の中に自分をとどめることとちょうど反対です。記憶の中に自分をとどめないようにという願いを背信者はもたされておるのです。これも人間の心理の非常にするどい認識です(『土曜学校講義5』p.176-177)]。
91-93.彼はまっすぐな目を斜めにそらして:チャッコが別れを告げる様子は確かに風変わりである:彼の眼は、彼らの会話の間中巡礼者にじっと注がれていたが、次第にそれらの集中させる力を失ってぼんやりと大きく開くしかできないのである[本文:stare at:(じっと)見つめる、注解:stare (blankly):(ぼんやりと)目を大きく開く]。予言のために要求された集中は彼を消耗させていたかも知れない[「わたしをじっとみました」と「盲目の」とに矛盾があるが、矢内原によると、後の方は沼地の中にいるから物理的に目が見えないのであり、チャッコの場合は沼地から出ているので(「きちんと座り」38)、物理的には目が見えるが、「物欲に心をみたれている」ので「霊的に見えない」のである。ここではさらに「盲目の同輩達」はその両方で目が見えないのである]。
95. 天使のらっぱが鳴るその日:[最後の審判の日]
96. 好意無き裁判官:[原文は"la nimica podesta"だが、現代イタリア語では"la nemico podesta"であり、「敵意ある行政長官」である。直訳すると英語では"hostile"であるが、Musaは"unfriendly"と訳しているので、「好意無き」とした。山川は「敵なる権能(ちから)」と訳し、中山、壽岳はそれを踏襲し、平川は「罪の裁き〔キリスト〕」とし、野上は無視して訳していない。もちろんのこと、悪魔に対しての敵、罪に対する敵である。矢内原注:地獄においてはキリストとか神とかキリストの母マリアとかいう神聖な名前は口にしないのです。マタイ伝第24章29-31:これらの日々の艱難(かんなん)がすぎると、直ちに日がくらみ、月は光を失い、星は空から落ち、天の力がゆれうごくだろう。そのとき、人の子のしるしが天にあらわれる。地上の民族はみな後悔し、人の子が権力と大いなる栄光とをおびて、空の雲にのってくだるのを見るだろう。また、らっぱの高いひびきとともにつかわされた天使たちが、天のこの果てからあの果てまで、地の四方から、選ばれた人たちを集めるだろう【資料6-3参照】。10:11、13:103以下参照]
106-11.汝の哲学を思い出してみたまえ:巡礼者の質問(103-105)に答えるために、ベルギリウスは彼に、ある事柄が完全に近づけば近づくほど、楽または苦がなんであるかをより知ることになることを定める普遍的な原理を思い起こさせる。人間の完成させられた状態は、「専門的な」視点からは、審判日に、すなわち魂が身体と再結合される時に達成されるであろう。すなわち、地獄に落ちた人々は今より後により苦痛を感じるであろう。同様に、天国で幸福をもたらされた人々は神の至福をより一層享有するであろう[日本語訳のほとんどが「アリストテレスの教え」と注釈している]。
109-11. 懲らしめられし魂のこの呪われた一生が:[矢内原注:「懲らしめられし魂」すなわち地獄にいる民は、のちに最後の審きのときに復活する。そしておのが肉とおのが形を取り戻す。だから今よりは完きものとなる。今は肉をもっていない。空虚なものである。けれどものちにはその肉とその形とを取り戻すから、現在よりもすぐれた状態になるのである。しかし罪を犯した魂であるから真の完全に達することはない。生存しておるものとして現在以上に完全に近づくが、しかし真の完全に達するものでないし、罪を犯したものであるからその感ずる苦しみも今以上になる。今地獄界にいる者たちが永遠の地獄に入るときには、現在以上に苦痛がひどくなる。今天国界にいる幸いな人たちは最後の審きのときに――復活して肉体を与えられたときに――その幸いは現在の天国界において感じておるよりももっと幸いを感ずるのである(『土曜学校講義5』p.178-9)]
115.そこでわたしたちはプルートーンを見つけました。人類の大敵を:プルートーンについては、第7章2を見よ。
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