この記事はまだ途中です。後になって肉付けを行います。
1-72.
第5章は一時的転調のテルツェット(eng. tercet、ita. terzetto、三行連句)で、二つの対等な部分に分けることができる。最初の部分はミーノースとその活動に関係しており、魂たちの一団が彼らの「色欲」"animal desire for sexial indulgence"(lust:罪と見なされる感覚的欲望"sensuouse appetite")のために風の中で懲らしめられ、次に威厳のある姿のはっきりとした亡霊が飛ぶ鶴の姿に似た編隊formationで現れる。巡礼者は(明らかにベルギリウスから)ミーノースの役割を学んできていて、懲らしめられるべき罪の実例と、懲罰の作法、そしてここに居るものとしての多くの名前を彼から学ぶであろう。主として、ベルギリウスは巡礼者にこの章のはじめの部分で3つの教訓を教えようと試みていて、それぞれは色欲の本質に関係させている――憎むべき罪がたとえ地獄において懲らしめられる最小なものだとしても。第一の課題は自分の職務を行使しているミーノースの見解に由来するはずである。なぜなら、この見解の恐怖がすべての罪の真の本質に気づくように巡礼者に衝撃を与えるかのようである。第二の課題は色欲の罪を犯した女王の(威厳のある)姿に由来するはずである。セミラミスは、自身の近親相姦の行為の故に色欲を合法化したが(そして彼女に対してベルギリウスは3連のテルツェットを、この集団でほかの誰もが与えられるより多くの行を当てている)、巡礼者に対しては色欲の罪の本質に関するとりわけ意味のある教訓のようである。そして第三に、巡礼者は彼らが自身をここに配置している「神の正義」"Devine Justice"を冒涜するが故に色欲なるものを見下すはずであり、そしてそのため彼ら自身を全体に悔い改めないものとして見えてくるようである。
しかし、我々が一時的転調のテルツェット(70-72)で見るように、巡礼者は何も学んでいない。代わりに、これらの罪人に対する哀れみが彼の意識を奪い取り彼は「茫然とさせられる」のである。このテルツェットはリミニのフランチェスカに出会う前の巡礼者の心の状態を示している。哀れみは正確には、フランチェスカが彼女の注意深く言い回される語りを向けて言うであろう巡礼者の人格側にあるのである。巡礼者は彼[ベルギリウス]の教訓を学んではいなかったのであり、かつ色欲のひとつ(フランチェスカ)との直接の出会いで、彼は最初の「試練」に落第するであろう。
2. そこは前よりも広くはありませんが:[連環が進むごとにその輪が小さくなっていく(地獄はすり鉢状である)]
4.そこではミーノースが異様な姿勢をとり:ミーノースMinòsはゼウスZeusとエウローペーEuropaとの息子であった。クレタ島Crèta, Creteの王として彼はその賢明と司法の才により畏敬された。これらの特質のため彼は古典文学における地下世界の元首となった。
ミーノースは、主宰し、つぼを振る。静寂の宮廷の中で大声で叫び、臣下の生存と犯罪を知るのはまさに彼である。(ベルギリウス、アイネーイスVI,432-33)
ダンテはミーノースの公務上の役割を(一部でも)変更しなかったけれども、彼はミーノースの肉体の特徴と凶暴な行動の両方において、彼を悪魔のような容姿に変形させた。ミーノースは魂たちを地獄のあらゆる部分へ運命づけるが、しかしダンテは彼を第2連環の入り口にうまく位置づけているかも知れない。それは読者が、快いフランチェスカの悲劇の物語に耳を傾けても、ミーノースの恐ろしい容姿を忘れる気を起こさせはしない。彼は、その尻尾で、遊女タイスThaisと同じように、一度フランチェスカに刑の宣告を申し渡したのである(第18章)。
11. 彼が尻尾を自分に巻き付ける回数は:[ミーノースは罪人を地獄の第3連環に送ろうと考えると尻尾を自分の身体に3回巻きつけるのある]
19. お前がいかにして入り誰に委ねておるか気に掛けよ:[「誰」とはベルギリウスのことを言っていて、次にベルギリウスが、自分ではなく神が決めたことである(「意志で決められ」)と説明している。これとは全く異なるが矢内原が次のような解釈をしている:試みにあってそれに負け――罪に陥り――それから救われないのはこれは一番悪い状態です。しかしまた実際問題として人間の大部分がその状態にある。そこでここでミノスがダンテに向かって警告を発し、お前は憂いの宿にきたがどこに入りまた誰に身を委ねているかを考えてみなければならない。汝はこれから多くの罪人の話しをききその状態をみるのだが、それによって誘惑せられてはいけない。見るべきものを見、聞くべきものを聞き、学ぶべきものを学ばなければならない。(中略)これはダンテに対してミノスが与えた注意ですが、われわれがダンテの地獄を読むときにもやはりその注意が必要なのです。その注意をしないでこれを読みますと、広い門から自分自身が地獄の中に入り再び出てこれない。地獄の虜になってしまう危険があります。(中略)あとを読んでみるとわかりますが、この第5曲は恋愛を主題としたところであり、特別に今言った注意が必要であることがすぐにわかってきます(『土曜学校講義5』p.143)]
20. 入るは易しが:[マタイ伝7.13-14「二つの道」:狭い門よりはいれ、亡びに行く道は、広く大きく、それを通る人は多い。しかも、命に行く門は狭く、その道は細く、それを見つける人も少ない(ドン・ボスコ社版聖書)]
22-24. この者の運命づけられた旅を妨げる企てをすることならず:[第3章95-96でカローンに言ったと同じ内容である]
31-32.地獄のあらしが、その猛威は絶え間なく:contrapasso(応報)、ないしは刑罰は、色欲(「地獄のあらし」)が理性の光なしに(暗がりの中で)付きまとわれることを暗示している。
34.彼らが裁きの場所を通り過ぎて押し戻されるとき:原文ではこの行は、"Quando giungon davanti a la ruina "と書いてある。字義的には、「彼らが落ち行く場所に先行するとき」(山川訳:かれら荒ぶる勢ひにあたれば)である[ruina=rovina:1.破壊、破滅、2.崩壊の跡、遺跡、3.破滅のもと、破壊の原因、lat. ruine、eng. ruin]。Busnelli(Miscellanea dantesca,Padova,1922,51-53)によれば、"ruina"はミーノースの「裁きの場」、すなわち、宣告された罪人が判決されるべき第2連環に対する入り口で彼の前に「ひれ伏す」場所に関係するのである。それ故Musaは"ruina"を"their place of judgement「裁きの場所」"と訳しているのである。その全体のテルツェットは、例外なしに吹き荒ぶ嵐にいる罪人は彼らが悲鳴を上げ、悲しみ、そして罵り(冒涜し)、ミーノースの近くに吹き飛ばされることを意味している。
37. この罪の場所:[「色欲で罪を犯したもの」が「全て咎められてきて」いる場所である。「上地獄」は狼の罪すなわち「放縦」の罪が問われている。その最初がここの連環で問われている「色欲」である。矢内原の説明を借りると:このサークルでは情欲(色欲)の罪、次のサークルでは食欲の罪――大食漢が罰せられておるのです。その次には富を乱用したもの(貯畜家と浪費家)、その次には怒りっぽい人間(憤怒者)で、だんだん読んで行くとわかりますが地獄にはディテ(ディース)の城があり、ディテの城にいたるまでの罪は放縦の罪、ディテの城に入ってからの罪は悪意(暴力)です。ディテ城外の罪は人間の本能を乱用した罪、ディテ城内の罪は人間の意思を乱用した罪というふうに区別してあります。意思を乱用した罪すなわち悪意の罪の力を重くみています。本能そのものは罪ではありません。本能を理性に従わせて使うならばそれは有用でもあるし、また美しいものでありますが、逆に理性を本能に従わせるとそれは罪になる。けれども本能の罪は悪意のあるものでなく、ただ人間に備えられている本能の用い方がまちがったのであるから、ダンテは比較的同情をもってこれをみているのです(『土曜学校講義5』p.146)]
40.椋鳥の羽が/広範囲にわたり:[椋鳥は大きな密集群を作って風に漂うごとく飛ぶ(『土曜学校講義5』p.146)]
46. 鶴が、歌をうたいながら:[鶴は長い線を描きつつ哀歌を歌いつつゆく。鶴はたいへん高い所を飛ぶのだそうですが、鳴き声がぎゃあぎゃあいってやかましく、声で鶴の渡っているのをしるのだそうです(『土曜学校講義5』p.146]
51. 黒い風:[この色についても矢内原がうまく説明している:一切の光が黙している(「光が全く輝かない」28)から空気が真っ黒になっている。空気を黒くしているのもはなはだふさわしいように思われる。それは日本の言葉にも恋は闇と言っておりますが、恋愛は闇である。心が闇である。目が見えなくなって――自分だけはよく見えていると思っているが、実際には理性の判断を失い、少しもものが見えていない。ただむやみに ――ちょうど風の中に漂わされているように――自分の本能のために理性なく動いています。だからここでも光がなくて真暗の中で風が霊どもを漂わし、また吹き飛ばしているのです。地獄における罪はその罪の性質に適っている。その法則から考え、黒き空気と言っているのは非常に印象的です(『土曜学校講義5』p.147-8])
56. 法律で情念のあらゆる形を認可し:[ここでも矢内原が現代日本批判を行なっている:日本でも最近まで公娼、娼妓の売淫を合法的なものとしておりました――事実上今でも行なわれておりますが、その理由はいろいろあるだろうが、このセミラミスが姦淫を合法的なものとしたことと根底においてはいくらか共通しておるでしょう(『土曜学校講義5』p.149)]
58.その名はセミラミスである:アッシリアAssyriaの神話上の女王で、その軍事征服と都市建設で有名であるけれども、欲情の餌食となり色欲の合法化の拡大にだらしなくなった。パウルス・オロシウスPaulus Orosius[5世紀頃のスペインの司祭・歴史家・神学者]もまた、ダンテの物語の主要な源泉だが(「言い伝えによれば」)、ニムロデNimrodにより創られたバビロンBabylonの復興をセミラミスに原因があるとしている。聖アウグスティヌスSaint Augustine(『神の国』)によれば、キリスト教徒Christendomの主な(意見の)対立の一つが、二つの相対する文明諸国civilization、すなわち神の国(civitas dei、アブラハムAbrahamにより創設された)と人の国(civitas mundi、セミラミスにより若返らせられた)の存在から生じている。それゆえ、大きな意味でダンテはアッシリア女王をあらゆる意味での好色な激情の典型としてだけでなく、根本的に神の超人的な秩序に相対する堕落した社会を誘発する力としても考えたのである。
60.彼女はサルタンが統治するすべての国を治めた:中世の間サルタンは現代のエジプトとシリアを含む地域を支配した。
61-62.次は/愛のため自害した女である:ベルギリウス(アイネーイスT、W)によれば、カルタゴの女王であるディードーDidoは、その亡夫シュカイオスSichaeusの死後の評判に対して忠誠を誓った。しかしながら、トロイアの戦争生存者が港に着いたとき、彼女は指導者のアイネイアースと自分ではどうすることもできない恋に落ちて、二人は神々がアイネイアースに彼のより強い、すなわちローマとローマ帝国の運命を思い出させるまで夫婦として共に暮らした。すぐさま彼はイタリアに向け帆を張り、そしてディードーは、見捨てられ、自殺したのである。
63.そしてクレオパトラがいるが、そのもの男らの情愛を好んだ:クレオパトラCleopatràs, CleopatraはプトレマイオスPtolemy Auletesの娘で、ローマの支配下に入るまでのエジプトの最後の王であった。彼女はプトレマイオス王朝Ptolemiesの血族相姦の慣習で自分の兄と結婚したが、ユリウス・カエサルJulius Caesar(彼女はその子を産んだ)の助けで、クレオパトラは兄を殺しエジプトの女王となった。カエサルの死後彼女の破格の(放蕩な)美貌はアントニウスMark Antonyを捕らえ、彼女は彼の死まで酒色に溺れて暮らした。最後に彼女は、ローマのエジプト支配者オクタビアヌスOctavianus(アウグストゥス)をそそのかし、首尾悪くその拒絶が彼女の自殺を早めたのである。
すでに言及された二つの大帝国、アッシリアAssyriaとカルタゴCarthageに加えて、三番目が加えられるべきで、それはエジプトEgyptであるが、その好色の女王と「神の国」が対照的であった。
64.あちらにヘレネーが見えであろう、邪悪な苦悩の根源である:ヘレネーElena, Helenは、スパルタ王メネラーオスMenelausの妻で、女神たちの美の競争におけるパリスの判決の埋め合わせとしてアプロディーテーAphroditeによりパリスParisに合わされた。パリスはヘレネーをトロイアに連れ去りそこで結婚したが、彼女の激怒した夫がヘレネーを連れ戻すためほかのギリシアの貴族たちの助けを求めた。連合して、彼らはトロイアに向かって船出し、そしてこんなふうに二つの強大な国家を巻き込んだ決定的な大火が始まったのである。
65-66.そして見よ偉大なアキレウスがいる:ダンテのトロイア戦争に関する知識は「向こう見ず人間フリギア人」Dares the Phrygia(De Excidio Trojae Histoia『逃走したトロイアの歴史』)と「クレタ島のディークチュス」Dictys of Crete(De Bello Troyano『戦うトロイア人』)の初期中世の記録類から直接または間接的に得られた。これらの版でアキレウスAchille, Achillesは、無敵のホメロスふうの兵士だが、愛の束縛に悩み暮らしたありふれた人間として変形されてきた。トロイア王(プリアモス)の娘ポリュキセーナPolyxenaの美しさにそそのかされ、アキレウスは妻に望んだが、ポリュキセーナの母ヘカベーがパリスと対抗策を手はずし、そのためアキレウスがずうずうしい結婚のため神殿に入ったところ、彼はパリスによって裏切られ殺された。
67.パリス、トリスタンを見よ:パリスParìsはトロイア王プリアモスPriamの息子で、彼のヘレネーの誘拐がトロイア戦争の火をつけた。古代ラテン詩人と中世のトロイア伝説編纂者は彼を戦うよりも愛することにより決着をつけたがると一貫して叙述した。
トリスタンTristano, Tristanは多数からなる中世フランス、ドイツ、そしてイタリアの騎士道物語の中心人物である。彼の叔父であるコーンワルCornwallのマークMark王により、結婚式に自分のためイゾルデIsoltを手に入れるため使者として送られたが、トリスタンは彼女に、彼女は彼に夢中にさせられた。イゾルデのマーク王との結婚後、恋人たちは二人の情事を続け、その秘密を保つために彼らは必要にかられて多くの偽りと謀りごとに時間を費やした。ある見解によると、しかしながら、マーク王は、彼らの結びつきに絶え間なく疑いを膨らましていたが、最後には彼らを一緒に発見してトリスタンをやりで一撃のもとに傷つけることで近親相姦の罪を犯した関係を終わらした。
73-142.
多くの「古代いにしえの騎士や淑女たち」(71)の亡霊を見ながら、巡礼者はいま自身の注意をある一組の恋人たちに集中する。ここで用いられているスポットライト技術は地獄編の基本的な劇的性格を強調している。フランチェスカが巡礼者の同情的な態度を認め、巡礼者の興味を獲得し損なわない方法で彼女の物語を語るのである。とは言っても彼女は、セミラミスのように、近親相姦の行為における率先者であった。言葉と言い回しの彼女の選択は清新体派の詩人たちthe stilnoviti poets(13〜14世紀のイタリア詩派で、ダンテは同時代、そしておそらくその一員であった)の作品と共に彼女のお上品ぶりと彼女のふしだらをしばしば見せている。しかし注意深い読者はフランチェスカがほんとうは何か、すなわちうぬぼれで誉められ慣れているという外面の魅力と気品に値しないと理解できよう。フランチェスカはまたうそをつくのに小才がきく、といっても彼女の嘘が故意か我々の知り得ない自己欺瞞の結果かどうか。例えば、128行におけるランスロットの恋への彼女の言及は自身を責めるであろう事実を変える彼女の技巧を示している。中世フランスの騎士道物語romanceである『湖のランスロット』Lancelot du Lacでは、その英雄は、恋にはまったく内気であったが、最後にはガレホートGalehotのたくらみによってギニビアGuinevere女王と話しがうまく合うようにさせられる(「わたくしどものガレホートがその書物でありそしてその人がそれを著しました」(137)。彼の言葉にせき立てられて、ギニビアは主導権をとり、そしてランスロットのあごに彼女の手を添え、彼に口づけるのである。フランチェスカの性格を十分に理解するためには、我々の引用で彼女が恋人の役割を蓄えてきていることに気づく必要がある。すなわちここでは彼女が接吻するためにパウルスPaoloに対面させられたように、ギニビアに接吻するランスロットに対面させられているのである。彼女自身の経験と類似するものとして呈示されたこの引用の歪曲は(よくても)フランチェスカの(心の)狼狽を暴露している。すなわち、もしロマンスでの引用が彼らの接吻を示唆するならば、それは、ギニビアであったが如く、責任をとりうるべきは彼女であったに違いない。エデンの園で最初の罪を犯すようにアダムを唆したイブのように、フランチェスカはパウルスをそそのかしたのである。すなわち彼女はおそらく「イブの娘」としての女たちの一般的な中世的見方の一例である。フランチェスカは彼女とパウルスが読んでいるロマンティックな本(「その書物」137)のせいにすることで自身の無罪を証明しようと企てているのである。しかしながら巡礼者は、「このようなわけでその哀れみが/わたしの意識を曇らせたのでした」(140-141)と力つきるように、彼女の純潔さを明らかに納得させられているのであり、彼は気を失うのである。
多くの批評家は、フランチェスカの流ちょうな語りによるうそを信じて(巡礼者のように)、彼女とパウルスが二人の愛において彼らが依然として一緒だという理由で地獄を「克服して」いると主張している。しかし彼らが一緒にいることは間違いなく彼らの受罰の役目(分担)なのである。常に寡黙で、嘆いているパウルスは二人の状態によもや幸福ではなく、そしてフランチェスカは非人格的な「他の一人」("costui"(蔑視して)こいつ、この男)と「こちらの人」("questi"この人)と共に冷淡にパウルスをほのめかしている(その二つの魂の一人がこれらの言葉を語っていた間中、/他の一人は涙を流し、139-140)[原文では、questo disse, /l'altro piangea:……「こちらが話して、/他方が涙を流した」となっている]。彼女は彼の名を決して挙げない。102行[どのように事が起こりいまだにわたくしの気に障っていることでしょうか!]はパウルスへの彼女の嫌気をほのめかしている。すなわち、彼女の死の起こり方が、(彼らは二人の色情の最中に捕らえられ殺されたのであった)、彼女が裸体の恋人と一緒にいることを永久に運命づけられている理由で、いまだに彼女を不快にさせているのである。しかしながら、彼は彼女の恥辱をそして二人が地獄にいる(「かれはわたくしのそばを決して離れ」ない)理由を絶え間なく思い出させる人として仕えているのである。
74.共に行動しているそれら二人に:フランチェスカFrancescaは、ラヴェンナRavennaの領主ポテンタ家のグイード老の娘で、パウルス・マラテスタPaolo Maratesutaは、リミニRiminiの領主ヴェッルッキオVerrucchioのマラテスタ家の三男である[リミニはラヴェンナの南西68kmところにあり、どちらもアドリア海に面している]。1275年頃、気高いフランチェスカは、ヴェッルッキオのマラテスタ家の、身体的に不具な次男のジャンキオットGianchiottoと政略結婚させられた。そのうちに情事がフランチェスカとジャンキオットの弟パウルスとの間に発展した。ある日のこと裏切られた夫が恋愛の抱擁中の二人を発見し二人とも殺害したのである。
82-84.鳩が:パウルスとフランチェスカは「空を切って下へ漂い、まるで意志で導かれているよう」な「望みで呼び交わ」す「鳩」になぞらえられている。「望み」と「意志」の言葉の使用は罪としての情欲の自然の衝動、すなわち望むための意志の服従を暗示していて特に興味がある。
97-99.わたくしが生まれましたところは:アドリア海に面した都市ラヴェンナ[ダンテはここで死んだ]。
100-108.愛が、.../愛が、.../愛が:この3つのテルツェットはそれぞれ言葉「愛が」で始まっていて、フランチェスカの見掛けによらない自然の衝動を暴露する上で特に重要である。100、103行でフランチェスカは巡礼者の同情を確実にする目的でグイニツェッリGuinizelliやカヴァルカンティCavalcantiのような清新体派詩人たちの手法を計画的に用いているが、しかし彼女は官能的で最も非清新体派の考えでこれらの行の筋道をたてている。なぜなら新しい時代の甘美な様式dolce stil nuovoの観念論的な世界において、愛は決して女の肉体美のために男を「奪わ」ないし、またフランチェスカを「奪い取った」官能的な歓喜は清新体派の愛にふさわしくないし、それは遠慮があり、性的でなく、観念的であったのである。
107.カイーナがわたくしたちの生涯を消した人を待っております:カイーナCainaとは地獄の最下部であるコキュトスCocytus[嘆きの川]の4分割区の一つで、その中では教訓的に親族を裏切った魂達が苦痛を与えられているのである[「わたくしたちの生涯を消した人」とは二人を殺害した彼女の夫ジャンキオットであり、二人よりも重い罪が罰せられる地獄の最下層に置かれている]。
123.あなたの師が知っておられます!:[矢内原:ウェルギリウスも古聖所にきて、願いはあっても希望がない状況です。つまり地上の生活をしていたときには非常に希望に燃えて生活していたのが、今はその希望のないところにおりますから、そういう心もちはウェルギリウスも知っておるというのです(『土曜学校講義5』p.158)]
141-42.わたしは死んだかのように気絶しました:このフランチェスカに対する反応を理解するためには、巡礼者ダンテは単なる想像上の人物であり、「神曲」の著者である詩人ダンテと同一視すべきでないことを思い起こす必要がある。巡礼者ダンテは罪の真の本質を学ぶべき一人として地獄の端から端まで旅しているのである。そしてこれが、厳密な意味での地獄において、とがめられ懲らしめられている者との彼の最初の接触であるから、彼はこれら魂たちの哀れみに容易く迷わされるのである。巡礼者が進歩するにつれて、彼は罪と悪い魂の本質を学ぶであろう。そして、彼のそれらに対する反応は変わって行くであろう(19章参照)。しかしながら罪を認めそれを適当な侮蔑であしらうための第5章における彼の落第(failure)の大きさは彼の惨めな姿、すなわち地獄の床での意識不明(「ここでのように「理由」なしに)によりここでは象徴的に扱われているのである。おそらく我々は巡礼者がフランチェスカによって欺かれていることで非難すべきでない。しかしながら、罪のたくらみを気づかない多くの批評家たちもまた、彼女の魅力と彼女の語りの優美さによって迷わされてきているのである。
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