49-50.いったい誰がここを離れたのですか、・・・?:巡礼者は、キリストの冥府への征服[the Harrowing of Hell:キリストが冥府へ降りて正しい人の霊魂を救ったこと]に関する教会の教えを思い出しながら、(その時そこに居たであろう)ベルギリウスに質問することでそれを確かめようと試みているのである。(特に「他の人の助けをかりて」の言い回しにおける)その質問の慎重な提示に注意せよ、巡礼者が、教会の教義について自信を取り戻させるよりも、彼の導者を巧みに試していることによって。ベルギリウスは彼の古典文学の立場から巡礼者の「隠された問い」に応じるのである。キリスト教の用語でキリストを理解できなくとも、ベルギリウスは「力強い王・・・祖は勝利のしるしに王位に就けり」と言うように主に触れることだけは出来るのである。
120.わたしはそれらを見たとき後光に心を打たれました:[これはMusaからの直訳であるが、原文は、"che del vedere in me stesso m'essalto"である。Musaはこれを巡礼者の言葉としているが、他の訳文では詩人ダンテの言葉としているものがある。壽岳:「今もなお私の心には光明が満ち溢れている」、山川:「またかれらをみたるによりていまなほ心に喜び多し」、平川、野上は巡礼者の回想としている。また矢内原は、『これはたいへん有名な言葉になったのです。「今尚」は三界の遍歴を追えて現身の世に帰り、この『神曲』を書いている時もなお、自分の心を高潔なものとしてくれておる。このリムボにおけるこの人々の姿を見たことが自分にとって大なる霊感を与えた。非常に大なる名誉・尊敬をこの人々に払っていることがこれでわかります』と説明している(『土曜学校講義5』p.131)]