「聖書ものがたり・ACTS OF THE APOSTLES(使徒言行録)」
ガーメントを脱いだのはいつですか?
ヨーロッパにおけるもっとも印象的な中世のガーゴィルは,明らかにパリのノートルダム寺院の塔にあるガーゴィルであって,その大半は13世紀末の様式による。ガーゴィルの一つは錬金術師の像であり,これらガーゴィルが人間の内なる性質を表しているのだという。こうしたオカルティストたちは,キリスト教教義の目的が,人間におけるデーモンの要素をあがなう(変成)ことだとしている。この仮説の観点では,デーモンの形態は人間の諸要素を表し,人間はこうした要素を贖(あがな)われ,天使の堕天を逆転するようなやりかたでもって,天にひきあげられるのである。
ナグ・ハマディ文書は初期キリスト教のグノーシス主義的な文書で半分がグノーシスである。グノーシス派は、人間を神の下僕とみなす正統派(?)のキリスト教とは、根本的に異なる。
神は人間の内部にも存在する。人間は、覚醒することによって、神と合一し得る存在と考えているのだ。
グノーシス概論
ミトラ教とゾロアスター
ダンテ神曲はこのブログの最終目標である。
聖トマスの天上位階論
ダンテ・神曲注解1〜26。出来れば1〜26すべてコピーし,歳をとってから自適の生活のなかで読まれることをおすすめします。
人間を下僕とみなし逆らう人間は容赦なく皆殺し、と言う恐ろしい存在は、実は「神」ではなく、デミウルゴス(Demiurge)と言う堕落した天使にすぎない、と考えるのも間違ってはいない。拙稿:ヨハネによる福音書参照
「その日,ダビデの家とエルサレムの住民のために,罪と穢(けが)れを洗い清める一つの泉が開かれる...........剣よ,起きよ,わたしの羊飼いに立ち向かえ わたしの同僚であった男たちに立ち向かえと万軍の主は言われる。羊飼いを撃て,羊の群れは散らされるがよい......。この地のどこでもこうなる,と主は言われる。三分の二は死に絶え,三分の一が残る。この三分の一を私は火に入れ 銀を精錬するように精錬し金を試すように試す。彼がわが名を呼べば,わたしは彼に答え「彼こそわたしの民」と言い 彼は,「主こそわたしの神」と答えるであろう,と<ゼカリア書第13章>。
殺人命令を出し、こういうユダヤ教のねたむ神の概念は『あなたはわたしのほかに,なにものをも神としてはならない』(出エジプト記第20章3節)にも見られる。この連載はもうじき終了する。そうしてこんな「ねたむ神」は相手にしないことだ。それが一番いい。賢明な人ならば気がつくであろう。
『旧約聖書・イザヤ書』において、ヤハウェは、「我は嫉妬深き神なり」とか「我こそは唯一の神である」などと傲慢な宣言を行っているが、これはヤルダバオートの言葉であるとされる(Wiki)。
ヤルダバオートとは
ねたむ神の最たるものは旧約聖書の『創世記』に描かれているアブラハム物語(12−25章)お前の子ども(イサク)を神のために生贄に捧げなさい,というばかばかしい話である。クリスチャンに言いたい。もし天の声が聞こえあなたの子どもを殺せますか?こういう恐ろしい存在は、実は「神」ではなく、デミウルゴス(Demiurge)と言う堕落した天使にすぎない。
グノーシス主義では、『旧約聖書』に登場するヤハウェと名乗っているデミウルゴスを、固有名で「ヤルダバオート(Jaldabaoth)」と呼んでいる。『旧約聖書』において愚劣な行為を行い、悪しき行いや傲慢を誇示しているのは、「偽の神」「下級神」たるヤルダバオートであるとした。(Wiki)
ユングはとっくにそのカラクリを見抜いている。つまりBlack is White,White is Black.That's the way IT IS!ということだ。
使徒言行録・1〜8章・教会の始まり(精霊降臨)
使徒言行録・9〜18章・異邦人教会の成立
使徒言行録・19〜28章・ローマへの道行
Paulos [ギリシア語]
(?―64ころ)
キリスト教の使徒。ヘブル名はサウロ。小アジアのキリキア州タルスス生まれのユダヤ人。ヘレニズム文化の影響を豊かに受けたが、それ以上にユダヤ教の伝統の強い環境に育ち、パリサイ派の熱心な一員となった。ユダヤ人でありながら律法を軽視するキリスト教徒を許しておけず、迫害に乗り出したが、その過程で突然、人が救われるのは、律法を守るという自分の功績によるのではなく、キリストを信じて彼にいっさいをゆだねることによると悟って、キリスト教の伝道者となった。初めは主としてシリアのアンティオキアの教会を中心に活動。しかし彼の唱える律法からの自由の主張が全幅の賛成を得られなかったことから、独立して、主としてエーゲ海沿岸各地を巡回伝道し、異邦人を主体とする教会を建てた。晩年、これらの教会からエルサレム教会にあてた献金を届けるためエルサレムに上京したところを、彼に対し批判的なユダヤ人に捕らえられ、ローマ総督に預けられた。ローマ市民権を行使して皇帝に上訴したためローマに送られ、まもなくネロ皇帝の下で殉教したと思われる。『新約聖書』には彼の手紙が収録されている。ただし、その一部は彼自身のものではない。「使徒行伝(ぎょうでん)」の後半は主として彼の活動を伝えるが、かならずしも史的に厳密ではない。彼の死後、その徹底した律法からの自由の福音(ふくいん)は、しばらくの間正当に理解されなかったが、その後アウグスティヌス、ルター、近年ではカール・バルトなどに大きな影響を与えた。[YAHOO百科辞典 執筆者:佐竹 明 ]
Karl Barth
Wikiでパウロの生涯がよくまとまっています。
パウロによるキリスト教の福音
独立伝道者・市川喜一著作集。
(特にその17巻は是非読まれるように。)
『http://ha3.seikyou.ne.jp /home/tenryo/index.htm市川喜一さんのHP。トップページに、「書籍にすれば5000頁を超える福音講話と新約聖書講解のサイト」とある。実際に販売されている市川さんの書いたものを、すべてupしているのである。市川喜一さんは、1930年生まれ。京都大学を卒業した後、独立伝道者として歩み始め、その生涯を聖書を読むことに注ぎ込んだ人である。ギリシア語の釈義、釈義の歴史の参照(過去の註解書の評価)という基本的な作業において、これほどに良心的かつ徹底的であろうと志している人に出会うことは、稀である。この人は、その全生涯をかけてしてきたことを、惜しげもなく、すべて公開してしまった。web上で、何かを学ぶことができるとはどういうことかと問われた場合、私ならこういうHPと出会えることだと断言する。』(あの人検索・SPYSEEより転載)
『あらゆる劇は"世界の究極の意味を探る試みであると言える。その場合に、一つのやり方は、人間を超えた絶対的な目、つまり神の目を想定し、その目で見れば世界は隅々まで見えるのだと考えることである"。
"もう一つのやり方は、絶対的な目の存在を認め、しかもそれを人間のものと考えることである"。"我々は歴史の流れの中にある法則性ないし秩序を認め、歴史の目で見れば世界の意味が分るだろうと考えるのである。つまり、人間は歴史に究極の意味の認識を委ねるのであって、いわば歴史が神の代りをするのだと言える"。
"道化の精神はこれら二つのやり方のどちらもとらない"。人間を超えた絶対的な目も、歴史の法則性も否定する。"世界の究極の意味を現在この場で見てしまおうというのだ。道化の立場から見れば、過去と現在と未来との間には何の相違もないことになる。誰が王になろうと、誰が権力闘争から脱落しようと、同じことだというわけだ。人間とは要するに、自らの意志とは無関係にこの世に生まれ、欲望に動かされて生き、何の理由もなくやがて死ぬものなのだ"。
"道化とは完全な認識を得ようとする人間のことだ"。神にもっとも近づいた時のあり方だが、"しかし、人間は神ではない。賢明な道化はそのことを知っている。だから道化にできるのは、あたかも自らが神であるかのように、あたかも自らが世界の究極の意味を知っているかのように振舞うことだけである。あらゆる道化につきまとう演技性はこうして生まれてくるのではないか。フェステやタッチストーンは、あるいはハムレットやフォールスタフは、愚者ないし狂人を演じているにちがいないが、彼等はまた神をも演じているのである"』。(喜志哲雄「シェイクスピアの道化」)』
パウロ第三の宣教旅行。使徒言行録18章20節。
パウロはバルナバスを伴いアタリア(Attalia)から旅に出た。 最初の宣教の旅であった。使途言行録14章25,26節。
キリキア(Cilicia)の町タルサス(TARSUS)はパウロの誕生地として知られる。
パウロは言った。「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町,タルソスの市民です。どうかこの人たちに話をさせてください」使徒言行録21章39節
パウロ続第三の宣教旅行。コリントからスタートしパレスティナまで。パウロはマケドニア経由で陸地を歩き,フィリポからToroasまで船で,AssoとMiletusを訪問し,ティルスを目指しPataraを出発しエルサレムへ向かった。
写真はTemple of DIANAと呼ばれギリシャ語ではアルテミス。そこで町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君,エフェソの町が,偉大なアルテミスの神殿と天から降ってきた御神体との守り役であることを,知らない者はないのだ。」使徒言行録19章35節。
遠方に見える丘の上にいわゆる「パウロの閉じ込められていた監獄」がある。手前はエフェソ(EPHESUS)の廃墟の劇場跡。
上はピシディア州アンティオケの砂漠。「パウロとバルナバはベルゲから進んで,ピシディア州のアンティオケに到着した。そして,安息日に会堂に入って席に着いた。使徒言行録13章14節。
上はリカオニア州の町であるリストラ(LYSTRA).使徒言行録14章6〜12節参照。
パウロが67ADに打ち首にされたところはAquae Salviaeとして知られる。その地域をThree Fountains(トレ・フォンターネ)と呼ぶ。右手の教会はChurch of ST.Mary,その左はChurch of ST.Paul,そのまた左はBasilica of ST.Vincent.
『最愛の弟子「テモテ」に宛てた手紙の中で,パウロは『ルカだけがわたしとともにいる』と述べた。
ペテロの場合もそうであるが,パウロに関しても,一体いつ,どこで,どのように殺されたのか,あるいは殺されなかったのか,正確な資料が残されていない。64ADの夏,ローマが大火に見舞われ,六日間も燃え続けたとき,ネロの仕業と思い込んだ人々の怒りをキリスト教徒にすり替えて,ネロが残虐な迫害を行った事をタキトウスの「年代記」は伝えているが,パウロやペテロに関しては何も伝えていない。
この迫害は見世物として行われたので,夜ともなれば庭園をぐるりと囲んで立てられた十字架にキリスト教徒の体を打ちつけ,油をかけて火をつけ,じりじりと焼け焦げるそのにぶい光の中で酒宴が続けられた。群衆の見守る前に野獣の皮をかぶせたキリスト教徒を引き出し,狂犬をけしかけたり,水牛の角の間に全裸の少女を縛りつけてひきずり回す,というような凄惨な記事でタキトウスの「年代記」は有名である。
ペテロに関しては幸い「クオ・ヴァディス」という伝記が残されているが,パウロに関してはそのような類のものはない。ペテロは迫害の荒れ狂うローマを後に,アッピア街道をカンパニアの平原に向かって逃亡した。朝霧の中にアルバヌスの山脈が見えるころ,太陽の光の中を足音もなく近づいてくるイエスの姿を見た。ぼう然としたペテロは,「主よ,いずこに行かれるのですか」と叫んだ。「お前が逃げ出したから,わたしがローマで十字架に架けられるのだ」というイエスの声を聞いて,ペテロは決然として,ローマに向かって突き進んだ。ローマでペテロを待っていたのは十字架の死(注:有名な逆さ十字)であった。
一方パウロは,伝承によれば,牢獄からオスティア街道上,ローマから五キロほどのアクアス・サルビス(Aquae Salviae),今はThree Fountains(トレ・フォンターネ)と呼ばれている所へ近衛中隊によって連れて行かれた。そして当時の市民法の規程に従って裸にされ,墓標に縛られ,鞭打たれ,その後に刀で頭を切り落とされたとされる。』枠内は平凡社刊「世界を創った人々」より聖パウロ70,71ページの要約・解説。
写真はレンブラント作「獄中で手紙を書いているパウロ」。シュタットガルト国立美術館所蔵。
パウロ書簡
代表的な獄中書簡と呼ばれているものに,エフェソス人への手紙,ピリピ人(フィリピ人)への手紙,コロサイ人への手紙,ピレモン(フィレモン)への手紙などを書いたが,特にコロサイ人への手紙はグノーシス主義的異端(注:グノーシス派は、人間を神の下僕とみなす正統派(?)のキリスト教とは、根本的に異なる。神は人間の内部にも存在する。人間は、覚醒することによって、神と合一し得る存在と考えている)に攻撃されていることを嘆きそれを排除,排撃しキリストを正統派福音の中心とするよう書き送った手紙である。これでパウロはキリスト教の屋台骨となった。ありとあらゆる国のミッションスクールと呼ばれるお嬢様・お坊ちゃん学校でしつこくパウロをやるのはこの理由からである。
GNOSISが表の舞台から完全に消えたのはなぜか?↓
グノーシス(Gnosis)の意味は、ギリシャ語で「知」あるいは「認識」を意味する。
これには、いくつもの流派があり、また時代の流れと共に複雑な変貌を遂げて行く。
このグノーシス派は、初期キリスト教の異端なのだろうか? いや、もともとグノーシス主義とでも言うべき思想があって、これがキリスト教を取り込んだと言ったほうが正確であろう。
ともあれ、原始キリスト教にあってローマ教会にとっては、このグノーシス派は、大変な脅威だった。それは、当時の教会指導者達の書き残したものを見てもあきらかである。
実際、一時期グノーシス派は大勢力となり、数の上でローマ教会派を上回っていたこともある。また、聖人として列聖されているギリシャ教父の中には、グノーシス派の指導者と目される者も居る。
グノーシス派は、徹底した弾圧により、歴史から姿を消す。残されている書も極度に少なく、その教義を知るためには、当時のグノーシス派の敵が書いた本を参考にしなければならないほどであった。
ところが、20世紀の中ごろに状況は一変する。1945年エジプトのナグ・ハマディの修道院の遺跡から、膨大な量のコプト語で書かれたパピルス写本が発見される。これが、聖書の研究者達にとって、「死海文書」に次ぐ大発見とされるナグ・ハマディ文書である。
グノーシス派が使っていた文書群である。
これによって、グノーシス派の研究は、20世紀に入って飛躍的に発展する。
そしてこれは、新約聖書の成立を調べる上での重大なヒントともなるのである。
さて、グノーシス派とはいかなる宗教、思想なのか?
もちろん様々な諸派があり、その思想は一概には言えない。
だが、新プラトン主義にも通じた流出的宇宙論(アイオーン界、中間界、物質界)を持つこと、霊肉一体の思想を持つこと、自己救済による神との合一を唱えること、などが共通の特徴と言えよう。
そして、「物質」を堕落の結果と考え、「物質」より構成される「肉体」を、「霊魂」の牢獄と考えるのも特徴だろう。
また、善悪二元論を唱えるのも大きな特徴だ。彼らにとって「悪」とは、「善の欠如した状態」ではなく、一つの恐るべき存在として取らえている。ただし、この「悪」は、「善」に打ち勝つことは絶対に出来ない。
また、「聖書」における「旧約の神」と「新約の神」を区別するのも特徴だろう。
実際、恐ろしい「旧約の神」とイエスの説く愛に満ちた「新約の神」は、あまりに違いすぎ、聖書を読む者を悩ませて来たが、グノーシスはそれに単純明快な答えを出したのだ。「旧約の神」と「新約の神」は別人である、と。
「物質は堕落の結果」で「肉体は霊魂の牢獄」と考える彼らにとって、物質の塊りの世界を7日もかけて創造し、土くれからアダムとイブを作った「旧約の神」は、実は「神」ではなく、堕落した強大な天使の一人と考える。彼らは、これをデミウルゴスと呼び、アイオーンの善の光をさえぎる「悪」であるとさえ言う。
また、イエスも肉体をまとった存在としてではなく、霊的な存在としてとらえた。
確かに、このような教義をローマ教会が認めるわけがない。彼らがグノーシス派を、敵視し激しく攻撃したのも、当然の帰結なのかもしれない。
ともあれ、グノーシスは、見かけの上では原始キリスト教の段階で消滅したように見えた。
しかし、その思想は陰花植物のように生き残り、時には激しく爆発さえした。そして、今もなおオカルティズム思想の中に様々な形で影響を残しているのである。
この魅力的な思想について、数章に分けてもうちょっと詳しく書いて行ってみたいと思う。
「グノーシスの宗教」 ハンス・ヨナス 人文書院
「グノーシス」 クルト・ルドルフ 岩波書店
「グノーシスの神話」 大貫降 岩波書店
「原始キリスト教とグノーシス主義」 荒井献 岩波書店
「グノーシス 陰の精神史」 岩波書店』以上引用終わり。
写真はエフェソスのアルカディア通り。パウロが第三伝道旅行中にエフェソスに立ち寄りそこで三年間滞在した。
カトリックはDOUAY RHEIM BIBLEを使い,ユダヤ教とプロテスタントが目の仇として除外した外典もちゃんと入っている。
Douay-Rheims Bible(カトリックの聖書)の原本はビザンチン(イスタンブール)のロッジ(メーソンの)にある。
Vaticanという言葉は「diving serpent」でありVatis=Diviner and Can=Serpent(蛇)から由来している。カトリック聖書(ドウエイ版)verse18にはこう書かれている。666〜the numeral letters of his name shall make up his number.So let us take his name that is given to this MAN -the Pope of Rome。ローマのPopeは「VICARIUS FILII DEI」(Representative of the SON of GOD)であり,GODとはSATAN/LUCIFERのことである。以下のようにヘブライ語数字変換すると.....
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プロテスタントはカトリックのDOUAY Bibleを知らない。DOUAY BibleにはPOPEは神の代理であると実にはっきりと明記してある。米国でCisco Wheeler女史(元イルミナティ11位階の暗黒の母)が言ったことは今でもはっきりと記憶にある。それは「the total papal structure had been built on the supposition that the POPE is the VICARIUS FILII DEL and when the POPE is crowned ,the cardinal who places the TIARA(教皇冠) on his head pronounces him to be VICARIUS FILII DEI」と。ではなぜそうなったのか?答えは『神の名の正義によって脅迫し服従させ略奪・殺戮行為を正当化するためである』。この666の解釈は完全に取り違えている。
しかし,666の真の意味はこうであろう。
【ヨハネ黙示録11章2〜3節】聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは42か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。そして私は、私のふたりの証人に、荒布を着て、1260日の間預言することを許そう。
1260日は12−60進法を表している。この12と60の比は1:5であり、この3角形の面積は6であるから666はピラミッドを表している可能性もある。なぜならギザのピラミッド(ピラミッド幾何学参照)は三基である。それこそがNOVUS ORDO MUNDI SECLORUM 。一ドル紙幣もピラミッド。
それともう一つ。ありとあらゆる宗教の基本はVernal Equinox Precession(春分点歳差)であるので地球の地軸が赤道に対して23.4度傾斜している,つまり90度ー23.4=66.6も正しいであろう。それによって四季がもたらされる。本当の神はいるのです。
Hamlet's Mills(ハムレットの水車小屋)は聖職者がもっとも嫌う本である。日本語版を出版させない圧力も当然あるのだろう。なぜならそんなことが信者に知れたら自分たちの職を失うことになるからだ。
管理人が一番読みたい書物はイエスと同時代に生きたアレクサンドリアのフィロンなのですが著作はすべて失われている。それに反して37AD〜100ADのヨセフスの著作はあるはあるは。フィロンの著作は残っているとする文章もあることはある。
なおモルモン教はCIAですから注意してください。
ガーメントを脱いだのはいつですか?
オレゴン州ポートランドにあるモルモン教会。
その裏側の建物をよく見ると「ダヴィデの星」が。
世界支配のシナリオライター・ノストラダムス
日本に対しては属国意識を持ち、日本を米国の被保護国と呼ぶ。日本がアジアの大国になることは「不可能」であり、日本はひたすら経済成長に力を注ぎ、その経済力を国際社会に寄附し使ってもらう存在になるべきだ。
By BLACK POPE(Alias MR.Z and MR.M)
年次改革要望書とは『日本の成長が最大の目標』である。
キリストの居ない”キリスト教”
サタン・ルシファーの組織図。Black POPE以外は御本尊:DVD・German Black Intelligence(Deutsche Verteidigungs Dienst)の組織としておおむね正しい。
御本尊のやっていること。
為替介入について:
外国為替資金証券(通称・為券),つまり,政府が為替市場に介入する際に発行する国債(政府短期證券)。財務省が無制限で発行できる為券で米国債を買いその天文学的な金利も有効に使われていない。かつてノックアウト・オプションで80円を切るというおもちゃにされた経験が全くいかされていない。今回の単独介入は世界の笑いものになっている。
もうとっくにマスゴミに干されている評論家の森田実氏は言う。
米国債は売りません=差し上げます。
2007.2.25
森田実の言わねばならぬ[82]
平和・自立・調和の日本をつくるために【63】
世界の主潮流からはずれた日本――安倍晋三・石原慎太郎の「ブッシュ共和党の“戦争”路線」(その3)
アメリカ国債を売らない約束
05年5月に発売された週刊新潮で、櫻井よしこさんは「必ず中国は、台湾を軍事的に攻める。それを跳ね返すのは、日本の軍事力だ」という趣旨のことを書きました。この主張は、アメリカは戦争ができないという見方を前提にしているように見えます。
アメリカは、日本に国債を買わせてアメリカの財政をつないできたのですが、もう日本だけでは足りないのです。日本も2015年くらいになると、アメリカにすべて吸い取られてしまうという分析もありますが、アメリカは、中国とインドに国債をもたせて「アメリカ帝国」を維持する方針のようです。中国にたくさんのドルを持たせて、その一部を国債にさせているのです。
2002年2月18日の日米首脳会談で、アメリカに対し「日本がもっている国債は売りません」と、小泉が約束してしまっています。日本では明らかにされていませんが、事実です。ブッシュは帰国後、興奮して「アメリカ外交の勝利だ」と言ったそうです。
そのことを教えてくれたチェイニー副大統領のスタッフに、「小泉は『あるとき払いの催促なしでいいよ』と言ったのか」と聞いたのですが、「アメリカには、そんな曖昧な表現はありません」と言うのです。「ブッシュの報告は、どのように理解されたのか」と聞くと、「“いただいた”とアメリカ側は理解している」と言いました。
「アメリカはただただ奪うだけではないか、ひどすぎる」と私が言うと、彼は「ブッシュは小泉に、小泉が一番ほしいものを与えています」という返事が返ってきました。それは「小泉さんには、ブッシュは日本の政治史上最も偉大なるリーダーだという誉め言葉を与えています。ブッシュが歯の浮くようなお世辞を小泉に言い続けてきたのは、400兆(管理人注:もっとですよ)の金をくれたことに対するお礼なのです」と彼は言いました。日本人にとっては冗談ごとではないと思います。
中国は、相当のアメリカ国債をもっています。アメリカが中国に対して変な行動をしたら、アメリカ国債を売り払うことができます。そうするとアメリカ国債は暴落し、アメリカはパニックに陥ります。ですからアメリカは、中国に戦争を仕掛けたりオリンピックを潰すとかはできないでしょう。中国は安全保障の目的で、アメリカ国債をもっているのです。中国が、アメリカ国債を手放せば、アメリカの経済は潰れてしまいます。「どうぞ」といって金をあげてしまった日本は、まったく愚かです。
4月の都知事選と7月の参院選で、共和党の手先になってしまった石原と安倍を信任したなら、日本は世界の笑い者になると思います。アメリカでは、昨年 11月の中間選挙で「もうブッシュはたくさんだ」という結果がでました。下院においては大差で民主党が勝利し、ブッシュは完全に潰れたのです。ブッシュ政権は、自分たちの考える政治システム、アメリカの言葉どおりいえば「アメリカの民主主義」を、力をもってでも押しつけるという力の政策です。もう1つの側面は、アメリカ共和党が推進する経済政策を、世界の基準・グローバル・スタンダードにするのだという姿勢です。
この両方が、11月の中間選挙で否定されたのです。 (管理人注:それでは年間30兆円にもなる金利もいらないって言ったのでしょうか?)
管理人注:リーマンショックの後,毎日東部時間午後14時になると何処からともなくニューヨークダウを買い支える動きがあった。よく調べるとロンドン経由の公的資金であったことが判明した。これが米国債の利子の使い方。今でももの笑いになっている。同じくその頃IMFに10兆円の拠出を決めた。この金もそうだ。しかも頼まれもしないのに。
ガダラの豚の群れ(マタイ8章28〜34)の国民には生かさず殺さずが良いのだろう。金というエサを与えすぎると湖目指して崖を大軍で転げ落ち死ぬだけだ。そういう国に住んでいる以上ガダラの豚の最後列にいることだ(はさまれたら終わりです)。そして機を見て逃げ出すことだ。豚の群れのいないところに。そして本当の温もりを自分で捜すことだ。そうすれば,余剰もなく不足もなく,必要なだけがそこにあり必要なだけ使うという最高の贅沢な生活を味わうことが出来るだろう。
喜志哲雄氏の「シェークスピアの道化」の言葉をお借りすれば,賢明な人々は『愚者ないし狂人を演じ、また神をも演じる』と。そこにガダラの豚はよってこない。敬愛する玉蔵金玉先生がそうである。ガダラの豚に愛されているふりをしているだけだ。そこにしたたかな知恵を見た。
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