2010/8/12
「新約の前に (1)」
「見よ,虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ,虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。既に死んだ人を,幸いだと言おう。更に生きてゆかなければならない人よりは幸いだ。いや,その両者よりも幸福なのは,生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる業(わざ)を見ていないのだから。<コレヘトの言葉第四章1〜3節>
神を畏れる人々は,畏れるからこそ幸福なり
悪人は神を畏れないから,長生きできない
善人でありながら,悪人の業の報いを受ける者があり
悪人でありながら,善人の業の報いを受けるものがある
これまた空しいと,私は言う
それゆえに,私は快楽を讃える
太陽の下,人間にとって飲み,食いし
楽しむ以上の幸福はない。
それは,神が与える人生の日々の労苦に
添えられたものなのだ。
旧約聖書 コレヘトの言葉 8章13節より
『クリスチャンが立ち上がる以外には,世界を変える方法は存在しない』われわれが知りたいのはどうやって立ち上がるか?......なのですよ。キリストの再臨だけを待っているのでしょうか?数年前に行われた「FIRE THE GRID」という世界的な祈りの儀式は個人の持つ霊的な感受性を奪い去り人々は蝉の抜け殻同然となっている(つまり悪霊が乗り移ったということです)。中心となったのはイルミナティ11位階のMothers-of-Darkness(暗黒の母)であった。決して莫迦にしてはいけませんよ。この人たちは母親の胎内にいるときから訓練されていていわゆる『虫の知らせ』(注:中有と呼ぶ)レベルの発信がいつでも出来るのです。その筋の血流ごとに一人の暗黒の母が割り当てられる。管理人が会ったのはロスチャイルド家のマドンナCisco Wheeler女史であったが彼女の役割は「反キリストの悪霊軍団を率いる司令官」なのです。ですから好き嫌いにかかわらず聖書の解明をすることは自分の身を守る意味でも大切なことなのです。
「ブリキがたまたま自分がラッパだったことに気づいたとしても、それはブリキの責任ではありません。『我思う』なんて、でたらめです。私は一個の他者です。」(ランボー)
Je suis une autreの簡単な説明
↑『「他者と私との関係」を考えるというのは、その人の自分自身の生き方そのものに関わってくる命題なので(倫理的な論件といいます)、答えも人の数だけあります。
ですから、nigiさんが少しずつ自分なりの答えを見つけていっておられるのを拝見して、とても心強く思ってます。
>結局、人の事もわからない、という事
>理解し合う、という事はどういう事なのか
>私は、私、の思うように動かない、いきられない
>私、を動かすのは何か
これらの問題は、文学だけでなく、社会哲学(他者論、で検索するとうじゃうじゃ引っかかってきます)や演劇、または生命科学などに携わるたくさんの人たちが自分の考えを著してらっしゃるけれど、ランボー自身はそういう意味を含めて書いてはいませんので、このへんを補足させてください。
ランボーの詩作の姿勢をひとことで云うと、「滅私」という日本の言葉が近いかも。
(仏教用語の「滅私」ではなく、広い意味で)
「自転車の鋼鉄は、ペダルから彼の血管に流入して、彼の身体は鋼鉄となって疾走するのだ」(「ランボオI」)と小林秀雄が書いてますが、詩人ランボーにとって、まわりの世界と私との境界線はないんです。
他の同世代の詩人は、「詩を書くために」恋をしたり、悩んだり、本を読んだり、人と話をしたり、生活したりしていたけれど、ランボーは違いました。
普通の意味で私たちがいう「生活」を、少年ランボーはしてきませんでした。
「私」は器。あるのは「感覚」だけ。
天に与えられたその鋭い感覚で見た世界を、詩人ランボーはただ見て、語るだけ。
人に読ませるためでも、自分を表現するためでもなく、ただ、自分の「感覚」がとらえた世界の現象を書き留めることが、ランボーにとって唯一、「私」を存在させる方法でした。
つまり、ランボーは「他者という鏡」には一切の興味を払わなかったんです。
また、「愛」とか「善」とか、私たちの心の奥から聞こえる声(自己の内の他者)も、笑うべき空想が生み出したもの、と見えたようです。
「私は一個の他者である」という言葉は、「私って何?」という命題そのものも笑い飛ばすためのアンチテーゼのように見えます。
〜「私」がどうしたっていうんだよ、あんたが自分の何を「私」と思い込んでるのかは知らねーけど、俺にはぜんぜん興味ないね。「俺自身」についてはどうだって? 同じことだよ、興味ねーな、他人事。〜
そんな感じ?』
これはおとぎ話ではない実際に存在する組織なのです。
「その日,ダビデの家とエルサレムの住民のために,罪と穢(けが)れを洗い清める一つの泉が開かれる...........剣よ,起きよ,わたしの羊飼いに立ち向かえ わたしの同
僚であった男たちに立ち向かえと万軍の主は言われる。
羊飼いを撃て,羊の群れは散らされるがよい......。この地のどこでもこうなる,と主は言われる。三分の二は死に絶え,三分の一が残る。この三分の一を私は火に入れ 銀を精錬するように精錬し金を試すように試す。彼がわが名を呼べば,わたしは彼に答え「彼こそわたしの民」と言い 彼は,「主こそわたしの神」と答えるであろう,と<ゼカリア書第13章>。
これらの記事についてこれない人も多いでしょう。でもそれでいいのです。ついて行けない自分に気がつくという自分を発見する〜デカルトのコギト論証がそこにあります。もうデカルトの世界に入っているのですから。
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イエス・キリストがこの世に来られた目的は「悪魔のしわざを打ちこわすため」(第1ヨハネ3:8、ヘブル2:14)である。
「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。 そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4・7)
『信仰とは、望んでいる事柄を確信し,見えない事実を確認することです。』(ヘブライ人への手紙11:1)
こんなに小さかった二人は随分大きくなりました。ワンちゃんの一生は短いですからね精一杯遊ぼうね!!いや,間違った。遊んでね♪
二人が寝ているのはパラソルの右下。目の前は日本のケープタウンが180度見える。先日海からこの家を見たんですが断崖絶壁の上にたった一軒。周りには家がありませんし敷地は300坪くらいしかないのですが実際には30万坪くらいの実感です。長男と次男も大変ここが気に入って時々遊びにきてくれます。
この時のスー君は生後40日,マー君は一ヶ月と40日。
二人で小さい頃よく行った場所で。あんなことこんなことあったでしょ〜〜。それにしてもスー君は足が短いなあ〜。
少し大きくなった頃ご主人のお話をよく聞いたっけ。マー君は今や弁証法に詳しい。一方スー君は最近Stephen T.Davisの書いた『ENCOUNTERING EVIL』邦訳書「神義論」に興味を持っている。さらにハムラビ法典より古いウルンナム法典にも興味を持っているから驚きだ。驚くのはこれだけではない。スー君は外国為替資金証券(通称・為券),つまり,政府が為替市場に介入する際に発行する国債(政府短期證券)。財務省が無制限で発行できる為券で何をしたかをよく知っているしその天文学的な金利も有効に使われていないことを最近は嘆いている。
また二人はヘブライ人への手紙第11章が大好きなのでご主人に早く新約の解説をするようお願いしている。その第11章1節にはこうある。『信仰とは、望んでいる事柄を確信し,見えない事実を確認することです。』と。そして5節にはエノクのことも書かれているし。いや〜,いつの間にか書斎に入りこんで聖書を読んでいたんですね。驚きました!
えっ,何だって!僕たちは英文で読んでいるって??
Now faith is being sure of what we hope for and certain of what we do not see.(11;1)
By faith Enoch was taken from this life,so that he did not experience death;he could not be found,because God had taken him away.(11;5)
従いましてもないのですが,創世記からずっと書いてきたのですが新約のこの部分の解説はマー君にやってもらうことにしました。
お星様きらきら
二人は言う。ご主人の一番好きな富井建牧師の管理する『ミレニアム』というHPは読まれた方がいいでしょう。
富井牧師は小石牧師同様闇の世界に詳しい。
富井牧師は東京外大ロシア語学科を卒業後ロシアに留学している親近感を覚える方ですが666の解釈をネロ皇帝としている。果たしてどうなのでしょう。この牧師に寄付を考えているのですが一度会ってみようと思っています。
666について
↑『それでは、「特殊的」な意味での獣とはだれを指すのでしょうか。それは、<ネロ>です。ネロ・カエサルのヘブル文字綴り NRWN QSR は(それぞれの文字に割り当てられた数を)合計すると666になります。獣は「偉大な権威」(13:2、7)のある人物(つまり、政治的な人物)であり、邪悪な偶像崇拝者で、神を冒涜する人物でした(13:4ー7)。ネロはローマの皇帝であり、大きな政治的権威を持っていました。また、その行動は極めて邪悪で、神を冒涜し、最初の異邦人クリスチャン迫害者となりました。また、自分を神として礼拝させました。ローマの歴史家スエトニウス(紀元70ー160年)は、ネロの獣のような性格を記しています。自分の気の向くままに妙な言いがかりをつけて人々を殺害しました。評判の良い400人の元老院議員と600人のローマの騎士を闘技場で戦わせて死なせました。スポルスという名の少年を去勢し、彼と結婚しました。男性を強姦し、拷問にかけることを楽しみました。また、野獣の毛皮をかぶって檻の中に入り、扉を開け放たれると、その狂気の欲望が満足するまで杭に繋がれた男女の性器を襲い続ける、というゲームを考案・実行しました。(Suetonius, Nero 29)』と。
当ブログで666を検索すると12件出てきます。管理人はネロではないと考えています。カトリック,プロテスタント,イルミナティによって解釈は違ってきます。聖書は春分点歳差運動(Vernal Equinox precession)ですからね。666は地球の自転軸に関係していると考えたら間違いないでしょう。90度マイナス地球の赤道に対する傾斜角度23.4=66.6。過去に何度も起きたポールシフト(極移動)で傾斜したものではありません。これによって四季はあるのです。地球,宇宙は神の創造物と言ってよいでしょう。とんでもない神はいるのです。いまでも宇宙は一秒間で50キロ拡大している。
佐倉哲・聖書の間違いと「神が殺せと命ずるとき」
このブログはまもなく新約聖書にはいりますが富井牧師のHPと併せて江礼宮夫牧師の『新約聖書とは』をご覧になってください。HPはここです。旧約の解説でも紹介しました。
聖書の問題箇所の読み方
紀州犬マー君は7月23日で1歳になりました。人間でいえば17歳です。武勇伝も沢山できました。
マー君はいとも簡単に言う。聖書の本質を知りたければHAMLET'S MILL・ハムレットの水車小屋を読みなさいと。
薩摩ビーグルのスー君は今月23日で1歳になります。二人ともとってもおりこうになりましたよ。雨の日も風の日も台風の日もともにすごす戦士です。この季節ダニがつくのですが管理人はダニ博士と言えるくらい詳しくなりました。ダニは24時間で自分の体重の100倍以上の血を吸うのですが52キロの人が24時間で5トン200キロになってします計算です。むかで,蟻,蚊,蛾なんて誰が造ったのでしょうか。
スー君も言う。『いつも一緒は終了しました』を読みなさいと。
えっ!マー君,何か用?紀州犬のマー君の祖先は狼ですから小さい頃からスー君に服従を強制していましたのでスー君の気の使いようは尋常ではありません。
マー君何て言ったの?ご主人は最近おならをしなくなったってことか。ヤオハンで最近「焼き芋』買ってこないからな。夏は売ってないんだよね,きっと。秋になればまた買うよ。なにせ僕たちが一時的に気を失うくらいの爆発音だからな。
あれ,ご主人聞いてたの?(主人頭を掻く(?))
ウワ〜〜ハッハ!ご主人わかったみたいだよ。
池の手入れも大変です。
蓮の花の命はたった36時間。
幼い頃遊んだ藤沢市鵠沼の沼のイメージに近づいてきました。
これは睡蓮のお花。
1年3ヶ月になった鯉のピーちゃん。相棒の花子も大きくなりました。食欲がすごい。
メダカの赤ちゃんを隔離しています。反対側にメダカ専用の池を造る予定。
これ何だか分かりますか。アルプスなどで牛が首につけているがらがらとなるベルです。これを振って合図するとお魚さんたちのごはんの時間ですです。一杯集まってきます。
花子はすぐきたんですが,いつもの時間より早かったためピーちゃんはまだ熟睡中。でも後であげました。食事の中心は赤虫の冷凍。一日約500グラムぺろり。そのほかドライや手製の特別食も。下のほうに小さな生後一ヶ月の金魚の赤ちゃんの姿も。
この写真は6月末に撮ったのですがほていあおいが現在三倍にも成長して驚いています。きっと住み心地がいいんでしょうね。池はこの先も続いていて周囲約40メートル。
これが池の突き当たり。マー君は毎日お魚の動きをじっと観察して何か論文でも書くのでしょうかね?(写真は6月中旬)
雨の日,居間と書斎の入り口でシューベルトのセレナーデを聴くマー君。
草を刈ったので何か下の方が面白そうだな。
マー君!何かいた?
どれどれスー君も.....
スー君!みみずしかいなかったよ。
ポーズが決まったので二倍ズームでもう一枚。
いつの間にかスー君も。
じゃあね〜〜,みんなバイバイ!!
よく子浦の海岸へ行くんですが小学生が沢山来ていてこの前も女の子が二人よってきて「おじちゃん,蟹こんなにとったの」と見せてくれました。おじちゃんは何て言ったかというと「君たちも一生懸命生きているように蟹さんだって一生懸命に生きているのだから帰るときに逃がしてあげなさい」と。間もなく帰る時間で遠くの方でこの女の子は大きな声で叫びました。「蟹さんを逃がしてあげる!」って。嬉しかったですね。
小さな小さな生き物を大切にね。
フジ子さんは今言います。
私の人生にとって一番大切なことは,小さな命に対する愛情や行為を最優先させること。自分より困っている誰かを助けたり,野良一匹でも救うために人は命を授かっているのよ。と
ちょっと立ち止まって考えよう。
パッチの愛称で親しまれた実在の名医の波乱にみちた半生を描いた映画「パッチ・アダムス」の主題歌
長い長い夜
道を探し求めて
闇の中で戦い
やっとみつけた日の光
抱いていた夢がやっと叶って
青空に手がとどく
もうくじけない何をされても
信念は変わらない
自分のハートを信じ続けて
ハートの導くままに
正しいと思うことを信じれば
出来ない事はない
くじけぬ魂を持ち続ければ
決して負けることはない
どんな星にだって手がとどく
信念を捨てないで
ハートを信じよう
身を凍らす冷たい風
先の見えない真っ暗やみ
でも感じるだろう
風向きの変わったことを
燃える火の中をくぐり
雨の中を歩いた
でも私はくじけない
自分のハートを信じ続けたから
ハートの導くままに
正しいと思うことを信じれば
出来ない事はない
くじけぬ魂を持ち続ければ
決して負けることはない
どんな星にだって手がとどく
信念を捨てないでハートを信じて
ハートの導くままに
正しいと思うことを信じれば
負けることはない
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投稿者:聖
いつもありがとうございます。パソコンが使えなくなり、今は携帯から読ませて頂いています。
文字が切れてしまうこともあり残念ですが、それでも大変貴重な文字の一つ一つを読み進められるよう努力しています。
記事を読み終えて涙がこぼれました。それは喪失や失望感ではありません。
管理人さんのHPを読むようになって世界観が変わり、毎日を以前より愛しく思うようになりました。
ここ数年で両親をなくしましましたが、今ここにいられることへの感謝と、小さきものを守る強さを忘れずに何がおこっても生きていきたいと思います。
これからの毎日が怖くないといったら嘘になりますが、管理人さんのHP(存在)のように希望の光もあるのだと、依存しないよう頑張っていきたいです。お身体を大切になさってくださいね。
改行の仕方が読みにくかったら申しわけありません。