「聖書ものがたり・Ecclesiastes(コへレトの言葉)+雅歌」
青春の日々にこそ,お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。(コヘレトの言葉第12章1節)
我々は群集の野蛮人と呼ばれないために分別とともに知恵をつけなくてはならない。
シオンのプロトコールその1(要約)
『美辞麗句はさておいて,一つ一つの思想の意味を語ろうと思う。ここに私が提案したいのは,二つの視点,我々自身の視点とゴイム(すなわち非ユダヤ人)の視点から見た我々の体系である。ゴイムを統治するには、学者ふぜいの議論によってではなく,暴力とテロリズムによって達成することが、最良の方法である。万人の利益のためにわが身を犠牲にしようとする者は,めったにいるものではない。人間という名の猛獣を抑えてきたのは何であったか。今まで彼らを牽引してきたものは何であったか。
我々の前には戦略的に敷かれた計画がある。数世紀にわたる我々の辛苦の労働が無に帰する危険性を顧みるならば,この路線から逸脱することは許されない。群集の力は,盲目的であり,愚かしく,何かからの暗示にかけられるがままに動き,道理をわきまえないということを理解しなければならない。盲人が盲人を導けば奈落に落ち込むのは必然である。幼児時代から特別の方式によって訓練されたものだけが,政治の基本を成り立たせているABCを理解することができるのである。
人民が人民に任せれば,すなわち人民のなかから出た成り上がり者に任せれば,権力と名誉を追うあまり,党派間の軋轢とそこから生ずる無秩序状態に自滅するのが関の山である。群集は野蛮人であり,ことごとくの機会にその野蛮さを発揮する。群集は自由を手にしたとたんにいちはやくアナーキーに転ずる。アナーキーそれ自体は野蛮の最高の段階である。
飲酒で馬鹿になりアルコール漬けになった動物どもを見よ。自由が彼等に節度なき飲酒の権利をもたらしたのである。我々の合言葉は・・・力と偽善である。力のみが政治的諸問題を克服する。我々は,目的達成のために役立つときは,贈収賄,詐欺,裏切りをためらってはならない。政治の上では,支配権を握って屈服させるためならば,躊躇なく他人の財産を奪い取る方法を知っていなければならない。
単に利益を得るためのみならずわれわれの義務としても,また,勝利のためにも,我々は暴力と偽善による計画を保持し続けなければならない。報復主義は使われる手段と同じく,有無も言わさず協力である。それは手段そのものであるというよりも,我々が勝利し,全ての政府をわれらの超政府にひざまづかせる厳格な教義なのである。我々は,容赦なく不服従というものを根絶することを,十二分に思い知らせる。
幾度となく,「自由・平等・友愛」と叫んだ愚かなオームたち群集が盲目であること,支配を頼むためにその中から選挙された成り上がり者は,政治に関しては群集と全く同じく盲人であること,政治の奥義を授けられたる者は多少愚かであっても統治ができるが,反面,大天才であったとしても奥義を授けられない者は,政治に関しては無知蒙昧であることを,決して考えようとしなかった・・・これらのことをゴイムは一切顧みなかった。
われわれの勝利をいっそう容易にならしめた事実がある。金を出してくれる人間に,自分の意思の最終決定をゆだねるのである。自由という言葉の抽象性のゆえに,我々はすべての国の群集に,かれらの政府は国の所有者である人民のための豚小屋の番人に過ぎないのだ。番人は破れた手袋のように取り替えてもいいものなのだと説きつけることができた。
人民の代表は取り替えられるものなのだ,ということは、われわれが自由にできるということであり,言うなれば,任命権をわれわれに預けたことになるのである』。
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管理人注)何かからの暗示について右のリンクのトップにあるカレイドスコープ管理人のダンディ・ハリマオ氏は「引き寄せの法則」の危険性を説いている。虚心坦懐に読んで理解せよ!
コへレトの言葉・懐疑主義者の反骨精神
↑「空しい」 というのは、申命記律法が「空しい」ということです(管理人注:モーゼの十戒もそうです。なぜなら十戒を忠実に守った人たちは,また,忠実にそれを破った人たちでもあるからです)。必賞必罰の律法が機能していない、役にたっていないなら、快楽を称えるといいうのがコレヘトの言い分です。
8:15 それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって/飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の/日々の労苦に添えられたものなのだ。
ヨブは、神の義があるのか、と真剣に抗議しましたが、コへレトはそれはせずに、ほどほどに律法を守り、ほどほどに人生を楽しもうという姿勢です。
(ソロモンの)雅歌・神と人との相聞歌
王妃が60人,側女(そばめ)が80人/若い娘の数はしれないが/わたしの鳩,清らかなおとめはひとり。(雅歌:第6章8節)。元気だったんですね。だが,ブルネイのサルタンと比べたら可愛いものです。なにせ過去・現在も3000人の側女がいるという。実際の皇太子からの話ですから。しかしこの皇太子という側女の腹から生まれた人たちは数え切れないほど多くいる。ろくなことはしていないみたいで,管理人が在タイ中出会った皇太子も詐欺師。国やタイ人に隙があるため世界各国からその国では生きてゆけない人たちが多く集ってくる。悪い面も多いがいい面も多い。
雪のエルサレム
Koheleth(コへレト)とはキング・ジェームズではEverything is Meaningless(意味は何ひとつありはしない=空しい)で始まります。The words of the Teacher,son of David,king of jerusalem.つまりダヴィデの息子と言っているのですが,コへレトは伝道の書というか説教師を指しているのです。つまりPreacherなのですが英文ではTeacherとしているところが面白い。この雰囲気を敏感にとらえたのがシェークスピアの文章に多く見られます。
例えばマクベスでは.......
『 明日,また明日,また明日と,時は小きざみな足取りで一日一日を歩み,ついには歴史の最後の一瞬にたどり着く,昨日とという日はすべて愚かな人間が塵と化す死への道を照らしてきた。消えろ,消えろ,つかの間の燈火(ともしび)。人生は歩き回る影法師,あわれな役者だ,舞台の上でおおげさにみえをきっても,出場が終われば消えてしまう。わめきたてる響きと怒りはすさまじいが,意味は何ひとつありはしない』
ベツレヘム(Bethlehem)とへブロン(Hebron)の間にはKing Solomonの池と呼ばれる三つの池がある。これはその池の最大のもの。池のポンプはスエズ運河を横切ってナイルから引いた。「池をいくつも掘らせ,木の茂る林に水を引かせた」(コへレトの言葉:第2章6節)
エルサレムのダマスコ門からのアラブ人の葬儀模様。「塵は元の大地に帰り,霊は与え主である神に帰る。なんと空しいことか,とコヘレトは言う。すべては空しい,と。(コヘレトの言葉:第12章7節)
Beershebaの幾つかの井戸はいまでも存在する。この井戸はアブラハムとハガル,イシュマエルとイサクなどのこの砂漠の一角で大きな役割をはたした。「白銀の糸は断たれ,黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壷は割れ,井戸車は砕けて落ちる」(コヘレトの言葉:第12章6節)
働く者の眠りは快い/満腹していても,飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。(コヘレトの言葉:第5章12節)
オリーブとオリーブオイルはパレスチナで一般的である。10月と11月は収穫で忙しい。「世界のただ中,諸民族の間で/オリーブを探して打ち尽くすようなことが/収穫の後になお/ぶどうを探すようなことが起こる。(イザヤ書大24章13節)
人は高いところを恐れ,道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き,いなごは重荷を負い/アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り,泣き手は町を巡る。(コヘレトの言葉:第12章5節)
人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ,と。(コレへトの言葉:第3章13節)
おとめの歌:若者たちの中にいるわたしの恋しい人は/森の中に立つリンゴの木。わたしはその木陰を慕って座り/甘い実を口にふくみました......ぶどうのお菓子でわたしを養い/リンゴで力づけてください。わたしは恋に病んでいますから。(雅歌大2章3,5節)。ところで上の写真はとてもリンゴには見えませんね(笑)。
エルサレムのおとめたちよ/わたしは黒いけれど愛らしい。ケダルの天幕,ソロモンの幕屋のように。どうぞ,そんなに見ないでください。日焼けして黒くなったわたしを。兄弟たちに叱られて/ぶどう畑の見張りをさせられたのです。自分の畑は見張りもできないで。(雅歌:第1章5〜6節)
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