2010/5/25
「ヨブへの答え その5・教会の原理と精霊の原理」
厚い雲が去った後の明るさはあなたのものです。「主よ,正しい訴えを聞き わたしの叫びに耳を傾け 祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません」。(詩篇17−1)
サムエルは民に言った。「.........悪を重ねるなら.主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう」(サムエル記第13章25節)
ここで大事なことを申し上げましょう。以下はGIDEONの英文と新共同訳(カトリックとプロテスタントが仲良く都合のいいように訳した?聖書ですが牧師さまの多くはこれを使っていない)とユングが用いたスウェーデン語の聖書との違いです。
"I said,'You are "Gods".You are all sons of the Most High.'(GIDEON PSALM82-6)
「あなたたちは神なのか(?) 皆,いと高き方の子らなのか(?)」(新共同訳・詩篇82−6)
「我は言いたい,汝らは神なり,汝らは皆いと高き者の子なり」(スウェーデン語の聖書からおなじ詩篇82−6)
これでは大違いです。新共同訳は「あなたたちは神なのか?そんなことはありえない。皆,いと高き方の子らなのか?イエスのみが神の子である」ということを言っているわけです。皆を苦しめ,悩ませている元凶が教会の原理と精霊の原理との違いなのです。新共同の訳はカトリック側に押し切られた感が否めない。このヨブへの答えその5ではそのことを考えてゆきましょう。
聖書の誤訳は結構あるみたいですね。それはいいんですがマタイによる福音書のしょっぱなから間違いがあるのです。こうして,全部合わせると,アブラハムからダビデまで14代,ダビデからバビロンへの移住まで14代,バビロンへ移されてからキリストまで14代である,となっていますが実はキリストまで13代なのです。キリスト者は実は精霊は入れていないとなるのでしょうかね。おかしな話です。
西暦15ADに建てられた泉であるエルサレムにあるSebil Kait Beyの建物。雪は神からの贈り物。その結晶は一つとして同じものがないという。
わたしの神,主よ,顧みてわたしに答え わたしの目に光を与えてください 死の眠りに就くことのないように 敵が勝ったと思うことがないように わたしを苦しめる者が 動揺するわたしを見て喜ぶことのないように(詩篇13)
DAVID'S GATE ON THE SUMMIT OF ZIONは現在シオン門・Sha'ar Zionと呼ばれている。1541年建築。
ユング本体に入る前に引き続き林道義氏の訳者解説を続けよう。
精霊の受肉はこのように「神の人間化」の意味をもっていたが,しかしそれは同時に「人間の神化」をも意味していた。「なぜなら人間はそれによってある意味では神の息子の地位にまで,神人の身分にまで高められるからである」(104ページ)。この見方もまた正統派キリスト教と真っ向から対立するものである。正統派では神と人との距離は最大となる。
神は善にして全知全能かつ永遠であるが,人は罪深く無知にして死すべき身である。神が人間になることはありえても,人間が神になるなどということは絶対にありえないことと考えられている。ところがユングはパラクレート(助け主)の派遣という観念には明らかに『人間が神にまでなりうる』という思想が含まれているというのである。
パラクレートが正統派教会によって黙認されてきたのは,それが教会の立場にとってきわめて危険な要素をもっていたからである。教会を否定するクエーカーの集会では職業的な牧師は存在せず精霊が下った人がその言葉を語るが,これを見ても明らかなように,精霊の働きと教会の原理とは相容れないところがあるのです。教会の原理は「人間化と救済の業の一回性」と基礎にして,それを教会が独占することによって成り立っている。それに対し精霊の原理は一種の「個人主義の方向」であって,教会の統制に服そうとしないからである。
それゆえ「精霊によって動揺させられ偏った考えをもったと思われた者は,必ず異端とされ,この者を打ち倒し根絶するためにはサタン顔負けのやり口が取られた」(106ページ〜107ページ)
しかしユングは聖書の中にも,人間は神に近い,あるいは神になりうる,という思想が見られるとして,次のような箇所を引用している。イエスは『詩篇』第82章6節「我は言いたい,汝らは神なり,汝らは皆いと高き者の子なり」を指して,「精霊の言葉はすたることがありえない」と言っている。(104〜105ページ).......それでは「人間が神になる」あるいは「人間の中に神的なものが宿る」というイメージは心理的には何を意味しているんだろうか。それは救いが外から与えられるものではなく,救いの働きは人間の内に存在しているのだという思想を表しているのである。
「パラクレートの宿り」というイメージはグノーシスの種子が人間の中に密かに埋め込まれているというグノーシス主義の観念と同種のものである。それは人間が外的な業やその制度化によって救われるのではなく,人間の中には神的なものが内在しており,人間はその内なるものの働きによって救われるのだということを語っているのである。
それならば,キリストの死が人間を救うためではないとすると,それは何を意味しているというのであろうか。それについてのユングの解釈は正統派キリスト教のそれとは驚くほどの違いを見せている。ユングは十字架上でイエスの叫び「エリ,エリ,レマ,サバクタニ」に注目する。(管理人注:アラム語で「わたしの神よ,わたしの神よ,なぜわたしをお見捨てになるのですか」という意味でそれは詩篇22にある)ある人物が定義上ありえない言動をするときには,そこに深い意味が隠されているものである。さきにユングは,全知全能の神としてはありえないヤーウエの言動から,ヤーウエの無意識性を明らかにした。ここでも彼は,人間の罪を背負って犠牲になることを承知しているはずのイエスにしては,この叫びが奇妙であることに注目する。なぜここで神に対して苦しみないし恨みの叫びが出るのであろうか。
管理人注:アーノルド・トインビーも歴史の研究の中で精霊に触れている。『キリスト教の神観では,神の超越的な面(あるいは”ペルソナ”(三位一体の神のおのおのの位格)は”父なる神”のうちに現れ,内面的な面は,”聖霊としての神”のうちに現れる。しかし,キリスト教の信仰の独特の,かつもっとも重要な特徴は,神が二元的存在でなくて三位一体であること,そして”子なる神” としての面において他の二つの面が統一され,この神秘によって,人間の頭では理解できないが,人間の胸ではっきりと感じることのできる一つのペルソナを形成していることである。”まことの神”であると同時に,”まことの人間”であるイエス・キリストのペルソナのうちに,神の社会と現世社会は,この世ではプロレタリアートの間に生まれ,罪人として死ぬが(注:バラバかイエスかという意味で),別の世界では”神の国”の王,神そのものであるところの王となる, 共通の成員をもつ。一方は神的で他方は人間的な二つの性質がどうして単一の人格のうちに同居しうるのだろうか。この問いに対するいくつかの答えが,信条の形で,キリスト教父の手により,ヘレニック社会の哲学者の専門語を用いて作り上げられている』,と。
それはここで「神が死すべき人間を体験し,彼が忠実な僕ヨブに耐え忍ばせたことを経験する」(73ページ)からである。つまりイエスの十字架上の苦しみは,これまで神によって人間に与えられてきた不当な苦しみを自らも味わうという意味をもっており,いわば神の側の不正に対する償いであるということができる。イエスは人間の罪を背負う必要はない。なぜなら人間を罪深く造ったのも,それによって人間を苦しめたのも,神の責任であって人間の責任ではないからである。それゆえ神と人間との和解は,神が人間と同じ苦しみと死とを経験することによって成立するのである。人間は罪から開放されるのではなく,神の怒りへの恐怖から開放されるのである。(84ページ)
参考:Ω祖方からバチカンまで
参考:ヨブ記に登場するリバイアサンについて
リバイアサン
前200年頃『ヨブ記』第41章(日本聖書協会訳『聖書』iconより)
あなたはつり針でわにをつり出すことができるのか。糸でその舌を押さえることができるのか。
この部分の欽定英訳は「Canst thou draw out leviathan with an hook? or his tongue with a cord which thou lettest down?」で、この日本語訳では「わに」とされている部分が、「leviathan」にあたる。このあと、「leviathan」の詳細な描写が続き、それによると、口から火花を出したり、鼻から煙を出したり、心臓は石のように硬く、その身を動かす時は勇者も恐れをなし、剣も槍も矢も通用しない、誇り高ぶる者の王だという。かなり「ドラゴン」的な存在だ。
前200年頃『詩篇』第74章(日本聖書協会訳『聖書』iconより)
神はいにしえからわたしの王であって、救を世の中に行われた。あなたはみ力をもって海をわかち、水の上の龍の頭を砕かれた。あなたはレビヤタンの頭をくだき、これを野の獣に与えてえじきとされた。
そんなレビヤタンも、YHVHによってスレイされる。多くの研究家はこれを、バアルが龍ヤムを倒したドラゴンスレイヤー伝説を取り入れたものだろうと考えている。
前200年頃『イザヤ書』第27章(日本聖書協会訳『聖書』iconより)
その日、主は堅く大いなる強いつるぎで逃げるへびレビヤタン、曲がりくねるへびレビヤタンを罰し、また海におる龍を殺される。
同じく、YHVHがレビヤタンをスレイした記事。ここでは、YHVHが剣を持っているところが興味深い。
1世紀頃『シリア語バルク黙示録』第29章(日本聖書学研究会編『聖書外典偽典5』より)
またベヘモートがその塒から姿を現わし、レビヤタンは海中からのぼってくるであろう。この二匹の巨獣は創造の五日目にわたしが創って、生き残る者たちの食料としてそのときまでとっておくのである。
これは主がバルクに語った言葉のひとつ。世の終末に生き残る人々の餌になるらしい。
1世紀頃『第四エズラ書』(関根正雄訳『旧約聖書外典』下巻icon/講談社文芸文庫)
そののち、あなたは二つの生きものを生かしておかれました。その一つはベヘモートと名づけ、他の一つをレビアタンと名づけられたのです。あなたはこの二つを別々のところにはなしておかれました。なぜなら水があつまったあの第七の区域は、これら二つの生きものをいっしょに入れておくことができなかったからです。あなたはベヘモートには第三日目に水の干あがった土地、つまり多くの山のある陸地を住みかとして与え、一方レビヤタンには第七の区域、水のある場所をお与えになりました。あなたはあなたのよしとされる人が、よしとされる時に食べるためにこれらの生き物を生かしておられたのです。
『シリア語バルク黙示録』では五日目だったのが、ここでは三日目になっている。同じように食料になるんだな。
8世紀頃『エチオピア語エノク書』第60章(日本聖書学研究会編『聖書外典偽典4』より)
その日、二匹の怪獣は分かれ、レヴィヤタンという名の雌の怪獣は海のどん底、水の源の上に住み、名をベヘモットという雄は胸で眼に見えない荒野をつかんでいる。
これはミカエルがエノクに語る言葉の中に出てくる話。レヴィヤタンとベヘモットが、アダムとイブのように対になって誕生しているのが興味深い。「この二匹の怪獣は神の大きさに従ってそなえられ、神の刑罰がむだにならないよう飼育されている」のだという。なお、この第60章は講談社文芸文庫の『旧約聖書外典』iconではカットされている。
1486年シュプレンゲル&クラメル『Malleus Maleficarum』Question IV(JD訳)
同様に、高慢の悪魔はリヴァイアサンと呼ばれ、それは「付加」を意味している。なぜなら、ルシファーが私達の最初の両親を誘惑した時に、高慢によって、彼らに神性の付加を約束したからだ。彼について、主は言った、私はリヴァイアサン (その古の、とぐろを巻く蛇)と同時に現れるだろう。
これは日本では『魔女への鉄槌』と呼ばれる、魔女狩りテキスト。その中に悪魔に関する簡単な解説がある。ここではリヴァイアサン=ルシファー=エデンの蛇という扱いがされ、「高慢」にあてられている。
1667年ミルトン『失楽園』icon第1巻(平井正穂訳/岩波文庫)
或いは、大海原を遊泳するすべての生物のうちで神が最も巨大なものとして造り給うた海の怪物リヴァイアサン、などに優るとも劣らなかった。
ここではサタンの身体を表現する比喩として登場しているが、このあとノルウェーの船乗りが、リヴァイアサンを島と間違えて停泊したという寓話も紹介している。
1812年コラン・ド・プランシー『地獄の事典』レヴィヤタンの項(床鍋剛彦訳/講談社)
神ははじめに雄と雌の二匹のレヴィヤタンを創造したが、かれらが地球をめちゃくちゃにしたり、その身内たちで世界を埋めつくしてしまうのではないかと心配した神は、雌を殺し、来るべきメシアの食事とするために塩漬けにした。
と、ラビの伝説にはあるそうな。レヴィヤタンのアダムとイブがいるあたり、『エチオピア語エノク書』にも通じる。「その身内たちで世界を埋めつくしてしまう」というのは、もしかすると古代の恐竜の繁栄を語っているのかもしれない。
1860年エリファス・レヴィ『魔術の歴史』icon第一之書第三章インドにおける魔術(鈴木啓司訳/人文書院)
ヴィシュヌは海の怪物レヴィヤタンとなり、また、巨大な猪となって鼻先で原初の大地を耕すのである。
なぜだか、インドの解説のとことで、ヴィシュヌの化身としてレヴィヤタンをあげている。クールマ(亀)やマツヤ(魚)のことだろうか?
「ブリキがたまたま自分がラッパだったことに気づいたとしても,それははブリキの責任ではありません。『我思う』なんて,でたらめです。私は一個の他者(je suis une autre)です」(ランボー)
OUT OF EDENは終了いたしました。
いつも一緒も終了いたしました。
ハムレットの吹かす風も終了しました。
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投稿者:sophy93
私が何故、コメントを書き込むかと言えば、それは記事を読んだ時、自分の心に溢れたものを、ただ、管理人様にお伝えしているに過ぎません。
『OUT OF EDEN』の時に感じたものと同じです。深い、深い井戸の水脈から、澄んだ水を汲みとる様な、深遠なものを感じるのです。
今日の記事・・・一体聖書の翻訳で見えない悪意が混入していないものは、何処にあるのか! ジェームズ王欽定訳を探していたとき、カトリックの神父様に「これはあまりお奨めしません」と言われましたが、当たり前ですね。カトリックとしては、英国国教会では・・・
教会は恣意的に(私利私欲と言っても良いかもしれない)、長きに亘り、庶民から聖書に書かれている事の真実を隠してきた・・・このことは聖書をラテン語のみにし、公用語に訳すことが死に至る犯罪であった歴史だけではなかったのですね。
スウェーデン語聖書と新共同訳では、全く意味が違っている! そして現在に至っても、教会の権威の集中と、単なる依存に信仰を捻じ曲げてしまうという状況が造られている。これに、精霊の原理とグノーシス派が光をあてるのですね。
神性は人間に獲得可能なもの。これが、エバのような女性には何か邪まな欲望となって、誘惑の原因とされるものですね。善悪の知識の木の実。
しかし、善良な者にとっては、全てが善き事。自分の正しさによってのみ自らを救い得る。人間が真に神性を帯びた時、これによって、人間は孤として不安定な存在でなくなると感じるのですが、違うでしょうか? それでも、この神性を自らに賦与することは、容易でないと思います。
ヨブの在り方・・・キリストの在り方・・・
これは究極の人生です。