2010/5/24
「ヨブへの答え その4・神の非道」
The DEVIL TAKETH HIM UP INTO AN EXCEEDING HIGH MOUNTAIN.
更に,悪魔はイエスを非常に高い山(Mount of temptation=誘惑の山)に連れて行き,世のすべての国々と繁栄ぶりを見せて,「もし,ひれ伏してわたしを拝むなら,これをみんな与えよう」といった。するとイエスは言われた。「退け,サタン。『あなたの神である主を拝み,ただ主に仕えよ』と書いてある。そこで,悪魔は離れ去った。すると天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ第4章8〜11節)
イエスが救世主になるため40日間修行をしたところ。エリコ(パレスチナの古都)は誘惑の山(Mount of Temptation)から切り立った崖を降りた街であったがヨシュアによって全滅した。右下に死海が見える。
Ruined Walls of JERICHO(エリコ)
七度目に,祭司が角笛を吹き鳴らすと,ヨシュアは民に命じた。「鬨(とき)の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。(管理人注:パレスチナの古都エリコ)町とその中にあるものは,ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。ただし,遊女ラハブ(Rahab)とその彼女と一緒に家の中にいる者は皆,生かしておきなさい..........角笛が鳴り渡ると,民は鬨の声をあげた。民が角笛を聞いて,一斉に鬨の声をあげると,城壁が崩れ落ち,民はそれぞれ,その場から町に突入し,この町を占領した。彼らは,男も女も,若者も老人も,また牛、羊,ロバに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼしつくした。(ヨシュア記第6章16〜21節)
歴史学者のカマール・サリビーなどは,パレスティナ(旧約聖書ではカナンと呼ばれ現在中近東東北部地域)は聖書の歴史に結びつく,はっきりした証拠は考古学的には何ひとつあがっていない。そして旧約の舞台はパレスティナではなく,アラビア半島西部説をあげ,もしそうであるとするなら,聖地そのものが間違っていると言っている。(管理人注:長谷川三千子氏は和辻哲郎賞を受賞した「バベルの謎」の中でこう指摘している。「カナンの地」は,イスラエルの民にとって,故郷と呼ぶべき類の地ではなく,そもそも,それは事実の上から言っても,彼らの故郷ではなく,それは,カナンの人々(注:現在のパレスティナ)が住みつき,根づいた土地なのである)。
イスラエルの民の「カナンの地」との関係は,徹頭徹尾ヤハウエ神に依っている。この地はヤハウェ神によって示され,命じられ、約束されたことによってのみイスラエルの民と結びついているのであり,それ以外の形で結びついてはならないのである。......ヤハウイストの生きていた時代と推定される起源前十世紀頃という時代は,ティグリス川上流の二ムロデやコルサバードに発掘されたジグラドは,ちょうど紀元前十世紀,九世紀ごろに新築または再興されている。広い意味では,ヤハウイストはまさにジグラトと同時代の人間だったのである」
バベルの塔跡
つまりこういうことだろう。なぜキリスト教は,ユダヤ教の,神は愛であるという洞察を承認し,宣言した後に,それと相容れない,ユダヤ教のねたむ神の概念をふたたび取り入れるようになったのか。それ以来絶えずキリスト教に大きな精神的損害を与えてきたこの逆行は,キリスト教がカイサル崇拝との生死にかかわる争いにおいて勝利を得るために支払った代価であった。教会の勝利によって平和が回復されたのちも,互いに相容れないヤーウエとキリストとの結びつきは解消するどころか,かえって一層強化された。勝利の瞬間に,キリスト教殉教者の非妥協的態度が,異教や異端を迫害するキリスト教会の不寛容に移行したのである
ヨシュア記はサミュエル記の延長上にあると考えた方がいいでしょう。このヨシュア記は新約聖書には引き継がれていない。
「ヨシュアがエリコのそばにいたときのことである。彼が目を上げて,見ると,前方に抜き身の剣を手にした一人の男がこちらに向かって立っていた。ヨシュアが歩み寄って,「あなたは味方か,それとも敵か」と問いかけると,彼は答えた。「いや,わたしは主の軍の将軍である。今,着いたところだ。」ヨシュアは地にひれ伏して拝し,彼に,「わが主は,この僕に何をお言いつけになるのですか」と言うと,主の軍の将軍はヨシュアに言った。「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」ヨシュアはそのとおりにした。(ヨシュア記第5章13〜15節)
山本七平氏著「聖書の常識」によると,<たとえばヨシュア記第十一章の,ヨシュアによるハゾル攻略記事の「その時ヨシュアは引き返してハゾルを取り,剣をもって,その王を撃った。ハゾルは昔,これらすべての国々の盟主だったからである。
ただし丘の上に立っている町々をイスラエルは焼かなかった。ヨシュアはただハゾルだけを焼いた。」という記述が実に正確であることが,有名な考古学者イガエル・ヤディンのハゾルの発掘で明らかにされている。さらに下がってダビデ王時代ともなると,彼がエルサレム攻略の時利用した水汲み用の杭がそのまま残されており,またヒゼキア王の水道には,今も清々と水が流れ,聖書の記述の通りなのである>
The Rider on the White Horse(Behold A White Horse)
I saw heaven standing open and there before me was a White horse,whose rider is called Faithful and True.With Justice he judges and makes war.His eyes are like blazing fire,and on his head are many crowns.He has a name written on him that no-one knows but he himself.He is dressed in a robe dipped in blood,and his name is the Word of God.The armies of heaven were following him,riding on white horses and dressed in fine linen,white and clean.Out of his mouth comes a sharp sword with which to strike down the nations.He will rule them with an iron sceptre.He treads the winepress of the fury of the wrath of God Almighty.On his robe and on his thigh he has his name written:
KING OF KINGS AND LORD OF LORDS(REVELATION19:11〜16)
そして,わたしは天が開かれているのを見た。すると,見よ,白い馬が現れた。それに乗っている方は,「誠実」および「真実」と呼ばれて,正義をもって裁き,また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで,頭には多くの王冠があった。この方には,自分のほかはだれも知らない名が記されていた。また,血に染まった衣を身にまとっており,その名は「神の言葉」と呼ばれた。そして,天の軍勢が白い馬に乗り,白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。この方の口からは,鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また,自ら鉄の杖で彼らを治める。この方は葡萄酒の搾り桶を踏むが,これには全能者である神の激しい怒りが込められている。この方の衣と腿のあたりには,「王の王,主の主」という名が記されていた。(ヨハネ黙示録第19章11〜16章)
林道義氏の訳者解説を続けよう:ユングの感受性はなによりもまず『ヨブ記』の異様な雰囲気に引き寄せられる。そこでは聖書の中で他に類を見ないことが起こっているというのである。人が神に異を唱え,反抗しているのである。ヨブは神の非道さを訴え,神もまたひたむきになってヨブを屈服させようとする。人間の立場から見たら非は神にあることは明らかである。神はサタンの誘いに乗って,全知の神なら試してみる必要もないはずであるのに,ヨブの忠誠を試すためと称してヨブに数々の無法を仕掛ける。しかもヨブの抗議に対して神はワニやカバに似た巨大な怪獣を示して,お前にはこのようなすばらしいものは造れないだろうと脅し,ヨブを力ずくで屈服させてしまう。神が「義の神」であると思い込んでいたヨブは何が何だか分からなくなってしまい,見通すことのできない神を前にしてただ恐怖を感ずるだけである。
この暗闇体験をまずユングはヨブとともにしているのである。これは何であるのか,という問いから出発していることをまず確認しておかなければならない.......要するにヨブが見たものは神の暗黒面であり,全知全能で正義と裁きの神であるというふれこみとは似ても似つかぬ,野蛮で恐ろしい悪の側面であった。ヤーウエは全知どころか無意識の性質を表しており,それゆえ「暗い」のであった。それに対してヨブのように無実の罪に苦しむ者は「認識の光」を持ち,神でさえもっていない神的認識を我知らず持つのである。神は障害に遭わず自省の必要がないのに対して,人間が神より優れている点は,無力を自覚したとき自省をもとに鋭い意識を持つことができることである。ヨブは苦しみを通して,神は正義でなく力をもって支配しているという事実を知ったのである。
「神が人となる」ということは「神の革命的な変容に他ならない」(63ページ)が、しかし「人となる」といっても神は完全に人間になりきってしまったわけではない。イエスは神人であって,神であると同時に人である。このためイエスの神性に重きを置くかで論争がおきた。(管理人注:日本へキリスト教が入ってきたのは中国の景経経由である)正統派アタナシウス派は神とイエスは「同一本質」を持つと考えてイエスの神性に重きを置いたのに対して,異端とされたアリウス派は神とイエスは「類似の本質」を持つにすぎないとして,イエスの人間性を重視した。
イエスが人間であるという事実を重視する異端の立場に立つと,神が人間になるということは革命的な出来事であるし,「なぜ人間になったのか」という問題に強い関心が向かわざるをえないだろう。その場合,単に「人間を救うために人間の姿を取った」というのでは説明になっていない。なぜなら人間を救うためなら,万能の神はそのような七面倒な手続きを取らなくても,単純にただ救えばよいからである。なぜわざわざいったん人間になった子を殺すという面倒な手続きが必要なのか.......
ユングは、この問題を『ヨブ記』との関連で解こうとする。鍵はヨブがヤーウエによって,「いわれなく」迫害され,打ち倒され,苦しんだというところにある。そのためにヨブはヤーウエより道徳的に上に立った。道徳的とは意識的というのと同じ意味であって,ヨブはヤーウエより高い「認識の光」を持ち,神自身でさえ気づいていない神の暗黒面を意識化した。この点では創造主が非創造主に追い越されてしまったのである。神は.....表向きは力でねじふせたことになっているが,ひそかに人間ヨブが自身より道徳的に優れていることを認め,人間の水準まで追いつかなければならないことを知ったのである。
以下は管理人注:
And I will ask the Father,and he will give you another counsellor to be with you for ever(JOHN14〜16)
私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。(新共同訳:ヨハネによる福音書14:16)
父は別にパラクレート(助け主)を送って,いつまでもあなたがたと共におらせてくださるであろう。(ユングの使った当時のチューリッヒで使っていた聖書訳)
「個体化を達成する主体は常に自我(私)である。人生を生きる過程で、私は集合的存在となることによって、一時自己疎外と自己外化の状態にあった。その場合私は社会とか信念とかいうなんらかの外的なものに自己を捧げればよかった。しかし自己外化からふたたび自己を取り戻す行為においては、たよりになるのは唯自分だけである。大切なことは、集合的無意識がではなく、この主体としての私が霊的存在である、と自覚することである。
なぜなら真理の霊たるパラクレートはこの「私」にのみ宿ることができるからである。
過去にではなく、その都度現在働いている「私」に対するこの態度において、ユングもまたヨアキム主義の系譜の中に立っている。だから今述べたユングの命題をヨアキム主義の意味において次のように書き換えることができるであろう。
『私こそ唯一の霊的現実性である。』私によってのみ、可能態として存在している諸々の霊が、より高い次元での現実性の中に取り入れられる。」(高橋巌氏神秘学序説より一部転載)
これは非常に大事なことであり,キリスト教の本質でもあります。パラクレートとは精霊の意味で林道義氏が「神の人間化」の繰り返し性と継続性のユング解説で以下のように述べている。
イエスの生涯が神話的であったということは,それが歴史的に実在したということと何ら矛盾することではない。ある人の人生が神話的であるということは,その人が何かの元型に捉えられ,その元型を生きたということを意味しているのであって「まさに人間なら誰でもそうした人生を持ちうることを表している」(74ページ)のである。このことは重大な結論に導いていく。
イエスへの神の受肉は誰にでも起こりうるということを,意味しているからである。
受肉も,神の子の犠牲死と復活も,イエスという個人に一回限り起こった出来事ではなく,誰にでも何回でも繰り返し起こりうることなのである。つまりそうした出来事は内的・心理的にはつねに繰り返し起こっていることであり,それがある個人の外的な人生を捉えることもありうるし,そうなればイエスと同じ人生を歩む人も出現しうるのである。このことこそ元型心理学が明らかにしたことであった。そしてそれは大昔から神秘主義的な宗教が主張してきたことでもある。
その意味ではユング心理学は神秘主義と共通の側面を持つと言えるが,ユングは神秘主義にはない,さらに大胆な発想を繰り広げている。すなわち彼はイエスへの受肉のような神話的・元型的な出来事が何度でも繰り返されるというだけに止まらないで,その神話がいわば進歩発展していくという見方を披露する。すなわち受肉はさらに十全なものになってゆくであろう。つまりイエスのような神人にだけではなく,普通の人間に対してもなされるようになるであろう,というのである。
このように神の受肉が,つまり神の人間化が,イエスの死後,現実の人間に起こり,それゆえ受肉の程度が進むという捉え方は,人間による神の意識化が進むということを意味している。
イラクで死体を指差し微笑むスカーレット。こういう悪魔にはパラクレートとは無縁でしょうね。
ハルメンの笛吹きがフリードリッヒ・ヴィルヘルム王のプロシア声をまねると,それまでぼんやり立っていた大衆は,機械的ににわかに動き出す。このようにして大衆に行わしめる展開によって,ちゃんと大衆についてこさせることができる。しかし,大衆は近道をしなければ指導者に追いつくことができず,破滅にいたる広い道の上(ルカ13:24狭い門参照)に展開することによって,はじめて隊伍をととのえて行進する余地を見出すことが出来る。生命を求めるために,どうしても破滅への道を歩まなければならないとすれば,しばしば不幸な結果に終わるとしても,驚くに当たらない。ここで皆様に申し上げておきましょう。広い道は破滅にいたる道。ですから悩み,苦しんだ末,やっと狭い道を発見するのです。
管理人注:イルミナティという悪魔主義者たちが一番恐れていることは「心の美しい人たち」なのです。そういう人たちには必ずパラクレート(助け主)がついているからです。ですからこれから起こることに一喜一憂せずもし現在悪を働いている人たちがもしいるとしたならばパラクレートを送ってもらえるように努力することです。神は各々の良心に宿ると言われていますが神の選別は厳しそうです。ただしこれはいつまでもついているのではなく出たり入ったりするから厄介です。身近な例ではプロゴルファーの青木選手がハワイアンオープンで最後にサンドウエッジで打った1打が見えざる手に押されてカップインで優勝,これもパラクレートでしょう。小さな例で言えば跳び箱が苦手だった小学生が朝学校の近くにあった倒れていた小さな『お地蔵様』を元通りに直したら,その日の体育の授業で跳び箱をなんなく飛べた,などなど。こういう例は限りなくあるのです。ですから毎日人が見ていないところで『徳を積む』のが大事でしょう。管理人はそうして来ました。だから今はとても恵まれていて幸せです。
不足もなく過剰もなく 必要なだけがそこにあり 必要なだけ使う。
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投稿者:sophy93
旧約聖書のヤーウェの神について、時々イルミナティの残虐性を思い起こす事があります。非常に冷酷に振る舞う箇所が記述に見られるからです。イルミナティはこの神になったつもりなのかもしれないと。
しかし、私はしばしば自分の中にある、悪と醜い面を見つめます。自分の中で、ちらっとでもよぎる、自分を陥れた人々に対する復讐の念や、その人々の当然の報いを願う点など。まだまだあります。
何度も何度も苦境を経験しながら、立ちあがっても、またやってくる試練。そして、復活。私は身体の中途障害者でもありますが、自分のこの経験は本当に学びになったと思っています。ですが、恐らくまだ足りないでしょう。金を精錬するように、人は試されるでしょう。
自らの悪、闇の部分を見つめないなら、真の意味で善良になることは不可能に思えます。それを見つめて、自分を自戒し続けないなら、広い門より入る様な気がします。
ヤーウェの神の間違い。ヨブの正しさ。
悪や暗黒面は弱さに起因するように思います。善人ぶっている人々は本当は善人でないのかもしれない・・・