2010/5/3
「カール・ユングを始める前に.......」
スイス・チューリッヒにあるコンスタンス湖畔のボーリンゲンに建設したCarl Gustav Jungの家。「水は無意識のために好ましい象徴である。その水とは人が自身の中に消失することのありえる場所。生命はメリクリウス(Mercurius)の二つの性質を持つ....それは油と水。
管理人はフロイトをやめユングの著作を30年かけて殆ど読破し再読していますが最近少し分かってきました。闇の世界の人たちの思考経路を解明するにはフロイトでは駄目でユングを徹底的に理解することが肝心でしょうか。そうすれば影響を受けたと思われるKurt Levinなどの位相心理学も容易に分かるというもの。大河の源流を辿る旅はやっと始まったばかりだ。
二つの事象がイメージにおいて類似性を備える時,この二つの事象が三次元の空間と一次元の時間を瞬時に埋めるという不思議な時空間として現れることがある。
その時空間の秩序であてはめられている中で,因果性では関係ないと思われる場合でも随伴して,現象として起こる場合これを「シンクロニシティ」の作用という。
遠く離れた出来事が,物理的な因果関係で結ばれることなく相関性を持ち得るのは,量子力学の相関関係において表されている。衆生にとって肉親が死んだ時に,いわゆる「虫の知らせ」という精神波動が必ず起きることは知られている。この精神波動は一億光年先もわずか一秒で到達する。
精神病と真症の唯一の原因はエングラム?
拙稿:シンクロ二シティと呪術的思考参照
カール・ユング Carl Jung (1875-1961), シンクロニシティ(共時性) & 集合的無意識
jung.jpg (5692 bytes)カール・ユングはスイスの精神分析家で、フロイトの同業者だったが、無意識精神というのがあらゆる神経症の原因となる抑圧された性的トラウマのたまった場所だという問題で、フロイト的精神分析と袂をわかつ。ユングは、独自の分析心理学一派を創りあげた。
ユングは、占星術(星占い)、心霊主義、テレパシー、テレキネシス、透視力それに超能力(ESP)の信者だった。数々のオカルト概念や超自然概念を信じていただけでなく、ユングはオカルトと疑似科学的信念に基づいた心理学を創りあげようとして、その過程で自分でも新しいオカルト概念を二つばかりこしらえた。それがシンクロニシティと集合的無意識だ。
シンクロニシティというのは、説明のための原理で、「意味ありげな偶然の一致」を説明するものだ。たとえば、患者がフンコロガシの夢を見た話をしているときに、カナブンが部屋に飛び込んでくる、など。フンコロガシはエジプトでは再生のシンボルである、とユングは言う。したがって、カナブンが飛んできたという運命的な出会いは、夢の中のフンコロガシと、部屋の中の昆虫のどちらも超越的な意味を持っており、その患者が過剰な合理主義から解放される必要がある、ということを意味しているのだ、ということになる。ユングのシンクロニシティの考え方は、非因果律的な原理で、ある出来事同士が時間を追って起こるよりも、たまたま同時に起こったことによって、同じ意味を持つものということで結びつける。ユングは、精神と知覚による現象世界との間にはシンクロニシティがある、と主張した。
シンクロニシティには、いったいどんな証拠があるのか? なにも。ユング自身による弁護はあまりにまぬけで、ここで繰り返すのもためらわれるほど。ユング曰く、「因果律によらない現象は絶対に存在する(中略)なぜなら、統計というのは例外があってはじめて可能なものでしかないからだ」 (1973, 書簡集, 2:426)。そしてユングは「(前略)あり得そうもない出来事も存在する――さもなければ、統計的な平均値も存在しない(後略)」 (ibid.: 2:374) と主張。そしてかれは「確率/可能性という考え方は、同時にあり得そうにないものの存在をも示しているのだ」 (ibid. : 2:540) と主張。
もし精神と世界との間にシンクロニシティがあって、ある種の偶然の一致は超越的な真理を反響させているにしても、その真理をどうやってつきとめるか、という問題が残る。ある解釈の正しさを決めるために、いったいぜんたいどんなガイドを使えばいいのだろう。直観と洞察以外にはなにもない。これはユングの先生であるジークムント・フロイトが夢の解釈で用いたガイドと同じだ。
精神分析家で著述家のアンソニー・ストール(Anthony Storr)によれば、ユングは一時精神をやんで、その間、自分は「特別な洞察力」を持った予言者だと考えていた。ユングは自分の「創造的な病」 (1913-1917の間) について、無意識との自主的な対決だったと主張。かれのすごい「洞察」というのは、35歳以上の自分の患者はすべて、「宗教の喪失」に苦しんでいて、自分こそはかれらの空虚で無目的で無意味な人生を埋めるための絶好のものを持っているのだ、というものだった。そしてその絶好のものとは、ユング自身の原型(アーキタイプ)と集合的無意識という形而上学体系なのだった。
シンクロニシティは原型(アーキタイプ)へのアクセスを提供する。この原型(アーキタイプ)は集合的無意識の中にいて、経験に基づかない普遍的な精神の傾向であるのが特徴だ。プラトンの言う形相 (eidos) と同じく、原型(アーキタイプ)は感覚世界から生じるものではなく、その世界とは独立して存在し、精神によって直接知られるのである。でもユングはプラトンとはちがい、その原型(アーキタイプ)というのは唐突に(特に危機のときに)精神に浮かんでくるのだ、と信じていた。カナブンとフンコロガシの夢みたいな、意味ありげな偶然の一致が超越的な真理の扉を開くように、危機というのは集合的無意識の扉を開けて、原型(アーキタイプ)を送り出し、ふつうの意識からは隠されている深い真理を告げようとするのである。
ユングの主張だと、神話の物語はこの原型(アーキタイプ)に基づいている。神話というのは、深く隠されたなぞめいた真理の貯蔵庫となる。夢や精神的な危機、熱、や譫妄症、偶然の出会いが「意味ありげな偶然の一致」と反響しあい、すべて集合的無意識への入り口となっており、それがその洞察をもって個人の心理の健康を回復してくれるのだ、とユングは言った。ユングは、こういう形而上学的な考え方が科学的な根拠を持っていると主張し続けたけれど、でもこれはどれも、まともな意味のある形で経験的に検討することは、まったく不可能である。一言で、こんなのは科学でもなんでもない、疑似科学にすぎない。
訳者コメント:日本ではこのシンクロニシティが「共時性」と訳されることがしばしばある。ただし、共時性と出てきても、それが必ずしもユング的な概念だと思わないこと。しばしばこれは「時代背景を無視する」という意味で使われるからである。たとえば「日本文学を共時的にとらえると云々」という具合。ただし言っている人がそれを理解せずに、「共時的」と言うだけですべてユング的な意味だと思ってわけのわからない議論を展開する例がままあり、注意が必要である。簡単な見分け方としては、「偶然の一致」ということばと置き換えてみても違和感がなければ、それはユング的な意味だと思っていい。
無意識
the unconscious mind
無意識、あるいは潜在意識は、意識のうちの架空の部分で、抑圧された記憶を収めているとされる。抑圧の理論では、経験の中には思い出そうとするとたいへんな苦痛を伴うようなものがあり、そのためこうした記憶は地下室にしまい込まれてしまうのだ、と主張している。こうした苦痛を伴う抑圧された記憶は、神経症や精神病、あるいは夢といったかたちで現れるという。トラウマ経験が抑圧されるとか、あるいはこれらが神経症や精神病の原因であるとする説には、科学的根拠はない。
ユングやタートなどは、無意識を超越的な真実の源泉だと考えている。これを事実だとするような科学的根拠は、存在しない。
上に述べたような無意識という概念は、実証されたものではない。だがしかし、知覚認識すべてが自意識によるものではないというのが事実だとするような科学的データならば、大量にある。ある経験を自分では意識することなく経験したり、あるいはそうした経験をしたのに憶えていないといったことなら、ありうるだろう。こうしたことは、以下に述べるようないくつかの事例によって立証されるだろう。
1. 失明の否定。自分が失明しているにもかかわらず、そのことに気づかない脳障害の人の事例がある。
2. ジャーゴン失語症(錯覚性失語症)。意味不明なことをしゃべっているのに、そのことに気づかない脳障害の人の事例がある。
3. 心因性の視力喪失。ものが見えているのにそのことに気づかない、脳障害の人の事例がある。
4. 発話と言語の分離症状。発話によって言葉を伝えることができないのに、書き留めるなら正しくできるという脳障害の人の事例がある。さらに、こうした人たちは自分が何を書いたのかや、それが何を意味しているのかを憶えておくことができない。
だが、無意識と呼ぶのをやめて、代わりに“失われた記憶(lost memory)”とか“暗示的な記憶(implicit memory)”、あるいは“断片化された記憶(fragmented memory)”と呼ぶ方が、より正しいだろう。記憶が失われるのはトラウマ経験が抑圧されるからではない。記憶が失われるのは、脳の機能障害、経験の間の意識喪失、神経化学的アンバランス、不注意、認識の再構成、あるいは知覚的・情緒的・ホルモン的なオーバーヒートが原因なのである。トラウマを経験すればするほど、それを記憶として留めておく場合も多くなることは、経験的証拠が示している。トラウマは鮮烈な視覚的イメージを伴うことが多いが、こうしたイメージは海馬と左前頭葉下部を刺激して長期的な記憶となる。
神経科学によると、記憶とは、符合化プロセスに関与する神経組織が、ひとまとまりに連結したものである。符合化は脳のいくつもの部分で行われる。神経連絡は脳のさまざまな部分を互いに結んでいる;結びつきが強ければ強いほど、記憶も確実なものとなる。あるできごとが思い出されるのは、記憶のための神経連絡が生じる、脳のいずれかの部分が刺激されるためである。もし脳のある部分が傷ついたら、そこにあった神経が保持していたデータへアクセスすることはできなくなってしまう。一方、もし脳が健康で、なんらかのトラウマを経験する時にその脳の持ち主の意識がはっきりしてれば、そのできごとについてデータを失ってしまうことは、非常に幼い子供であるとか、あるいはあとで脳障害を受けたりしない限り、ほとんどない。
記憶を長い間保持するには、側頭葉内部で精密な符合化がなされる必要がある。もし左前頭葉下部が傷ついたり、発育不全だったりしたら、精密な符合化は致命的に困難になるだろう。幼い時分(3歳以下)には、脳のこの部位は発達してはいない。したがって、揺りかごの中や、あるいは子宮の中で得た記憶は正確だ、といった類の話は、非常に疑わしいのだ。だがその一方で、乳幼児の脳には、断片化された記憶を保持する能力がある。こうした記憶は明示的に想起されたり深く記憶されることはないが、影響を及ぼすものである。事実、特に思い出そうとしていないのに記憶がはっきりと浮かぶような状況は、クリプトムネシアなど、たくさんある。こうした無意識の記憶は、フロイトやユングの言う無意識だと広く信じられてはいるが、実はまったく異なるものだ。“フロイト・バージョンでは無意識の記憶はダイナミックな実在であり、抑圧しようとする力に対する争いに巻き込まれている;無意識は特別な経験であり、私たちのもっとも深い葛藤と欲求に関係している。……暗示的な記憶は……こうした知覚や理解、行動といった毎日の活動の結果として、必然的に生じたものである”(Schacter, pp. 190-191)。暗示的な記憶は、フロイトのダイナミックな‘無意識の記憶’よりもずっと平凡なものだろうし、しかも生活のあらゆる面に現れるため、逆にもっと明瞭なものである。ダニエル・シャクターが書いているように、“もしなにかが自分の行動に影響を与えていると気づかないなら、私たちがそれ(無意識)を理解したり否定したりしようとしても、できることはほとんどない。”(p. 191)
記憶が失われるのは、ほとんどの場合、それらがそもそも精密に符合化されていなかったためだ。知覚とは、ほとんどの場合、ふるい分けと断片化を解消するプロセスである。私たちの興味や欲求は知覚に影響を及ぼすが、私たちが潜在的知覚データとして手に入れたものの大部分は、一度も処理されずじまいなのである。さらに、処理されたデータの大部分もまた忘れ去られてしまう。記憶喪失というのは、べつにまれなことではなく、人間という生物種の標準的な状態なのである。私たちが不愉快な出来事を忘れるのは、べつにそれを思い出したくないからではない。私たちがものごとを忘れてしまうのは、もともとまともに知覚しなかったからか、それとも大脳皮質の頭頂葉(短期記憶あるいは活動性記憶)や側頭葉(長期記憶)で経験を符合化しなかったからにすぎない。
なぜ自分が問題を抱えているのか見いだそうとして、あるいは超越的真実を見いだそうとして、無意識の世界へ入り込もうと生涯をささげている連中には、私はこう言ってやろう:あんたらは長い時間を無駄にしている。時間なら、記憶や神経科学の本を読むのに使った方がいい。 Robert T. Carroll Professor of Philosophy Sacramento City College
Hamlet's Mill(ハムレットの水車小屋)の翻訳は管理人暇なものでしてあります。こういうキリスト教はVernal Equinox Precession(春分点歳差)であるなどという本はキリスト教団体からの圧力で出版するところはないでしょう。なぜなら多くの聖職者が失業するからです。本当は構造不況業種なんでしょうね。
日本には天才的な人が多い。例えばこのENTEE MEMOだ。
巨悪はわれわれの心を養分として育つ(上記管理人記す)
June 30, 2004
集団となって「悪さをする」のは、何も野次馬や暴徒化した群衆だけではない。会社でも国家でも、ある一定以上の規模になった組織は、容易に「悪」の巣喰う場所となる。
それはなぜか。それは人間が集団の中に、自分の醜い「悪」の顔を隠すことができるからである。「悪の顔」を隠すことができれば、われわれはもっと容易に悪を成すことができる。おそらくは、悪であると自覚せずに、その悪を成すことさえ可能である。人間の大部分は弱い。そして弱さの集合的発現こそが、将来われわれが代価を払うことになる(であろう)大規模の「悪の発露」たる戦争である。集団の陰に隠れて行われる、各人の「卑怯の合算」である戦争なのである。それによって生じるあらゆる破壊や殺戮は、それに関わるひとすべての共犯であるために、おそらくいかなる戦争も、その責任をきちんと追及することは不可能である。ましてや共犯関係にある者同士が互いを追及することなどあるはずがない。
ひとりひとりは、いかにも良心のありそうな人間であったとしても、悪いのは自分だけではないと信じる無責任、利益を自分に向けて抜け目なく最大限引き出そうとする利己主義、人の背中に隠れて小さな悪への誘惑に負ける意志薄弱という側面は、実は各自に潜む。ひとりひとりは一見「善良」ではあり得ても、集団というものは、こうした人間の最低の部分が、最大に「活かされる」場所なのだ。そして、人間の最低の部分の集合的な発現は、法的に違反しているものである必要はない。それら「悪」のほとんどは「合法的に」なされるのである。いかなる法も所詮人間が作りだした、われわれにとっての便宜のひとつのありかたにすぎないからである。
人間のこの狡賢さは、自分が被害者にならない限りにおいて、その帰属する集団を、暴力、嘘、盗み、といったあらゆる悪の行為に駆り立てる。いや、「駆り立てる」という言い方はひょっとすると正しくない。そういう行為を「許し」、密かに「見逃し」、悪の成就を、無言で「支持する」のだ。そしてあらゆる悪への牽制メカニズムの網の目をかいくぐって、最終的に悪はどこかで成就する。国家とは、そうした悪だけが表に発露される最低最悪の場のことである。われわれ小市民は、自分の利益のためにとても人を殺せないが、「国家」という乗り物を使ってなら、より大規模にそれを成し遂げることができる。より無自覚に。
嘘を付いて過去の悪行を認めない国家。
嘘を付いて他国から経済援助を引き出す国家。
嘘と知りながら大国の巨悪に「大義」を見出す小国。
嘘と知りながら国をまとめるだけのイデオロギーを以て、小国を支配するための大義とする大国。
あらゆる嘘や暴力が、歴史上あらゆる国家という国家によって堂々と実現されてきた。
支配されるわれわれの間では
人を殺せばそこには殺人の罪が生じる。
嘘を付いて他人の援助を受ければ、そこには詐欺の罪が生じる。
しかしいかなる隠れた狡猾も、明らかな罪科も、国家という巨大集団によって、より大規模に成されるや、それは「われわれの責任ではない」ということになる。実に、巨大な群衆としての「国家」とは、われわれ小市民にとって、便利な隠れ家である。日常の中に滑り込んでくる個人による殺人を、残虐であるとか非人間的な悪逆であると評し赦さない一方、われわれは、集団による組織的な殺人を「政策である」と呼ぶことができ、過去のそうした組織的かつ大量な殺人を「他に選択の余地がなかったこと」として情状酌量し、容易に忘却する。
年金制度や税の徴収のあり方など、何を見ても、人間としての考えられる限り“最低の在り方”を、政治家の判断や活動を通して、国家はわれわれに見本を示してくれている。しかし、実は、悪いのは政治家や官僚だけではない。「大きな集団」とは、小さな悪や小さな良心、その他諸々人間の行為や思いのすべてを濾し落として、内なる最大の巨悪だけをそのまま残して一番上に提示する、いわばザルのような仕組みのことなのである。このザルを以てしては、良心という人間のもう一つのちっぽけな真実の在り方を掬い上げるには、あまりに器としては大きすぎるのである。
何千年経ってもなくならない官僚組織の腐敗。一部の利益を代表するだけの、大局を決して見ることのない御用政治家の限界。個人の思いを無視した外交官僚たちの秘密の工作。どうして無くならないのか、われわれはいつも考える。しかし答が見つからない。そうした行いの正邪は、合法であるか非合法であるかという判断とはこの際関係がない。
官僚組織自体は、合法的に組織された集団である。そして国会は(表向きには)合法的に選ばれた代議士達によって組織されているものである。しかし、仮に、ひとりひとりの官僚や政治家に「一般人の良心」というものがあったとしても、それは国家や行政の「行為」として具現化できない。たとえば、行政活動の必要に応じて、いったん金の流れというものが生じると、それが時代と共に意味を成さないものとなっても、その旧弊な「流れ」を温存したいひとりひとりの心が、その変革を許さない。それら利権を温存する方法が、如何にわれわれの法に適ったものであっても、そこには集団としての、あきらかな悪がある。官僚や政治家のひとりひとりが、その悪を見ようとせず、その悪を悪であると、心の弱さと曇りから認めることができない。したがって、たとえば、必要だとされたひとつの「金の流れ」という利権が、時代の変化や必要の有無に関わらず、いつまでも温存される。結果的に一般の納税者から合法的に金を巻き上げ続けるシステムだけが残される。だからいくら増税しても、これら金を吸い上げる者達が、そのシステムを諦めない以上、いくら民衆が金を稼ぎ出しても、彼ら悪徳官僚達の腹を十分に満たすことはできない。われわれは、毎日額に汗して働いて、そういう者達を養い続けている。しかし権力という言葉が、こうした「もてる者達」にとっての「保身」の意味でしかない以上、この状態を変えることは容易にはできない。もてる者達自信が自らの矛盾のために自壊するしかないのかもしれない。(しかしどのように?)
恐らく、社会的弱者に対する無視(内へ向かう暴力)も、戦争への道(外へこぼれ出す暴力)も、より強い巨悪への追従も、個人個人の狡さや弱さを足し合わせた、その集団の総意の結果なのだ。暗殺や小国政府の転覆など、明らかな非合法行為も、実はそうした「合法的に赦されている」一般民衆の弱さの合算したものの例に漏れないはずだ。
合法的に赦されたわれわれが、倫理的に明らかな非合法である戦争を作りだすのである。戦争を可能にする合法的な制度によって。
個人の中ならばしばしば認められる良心や寛容というものも、生き物の本来持っている一側面である。政治家とは、そうした人間の善良さが、巨大な国家という生き物の性質として表現されるための、類い希な創意工夫と、鉄のような意志と、実行力を兼ね備えた者でなければならない。そして、われわれは、われわれの個人の中に生きている良心の具現化を助けない人間を、政治家として選んではならないのである。
私が書くことは、おそらく巨悪への共犯という私の罪を何ら酌量しないだろう。ましてや、このままではこれから起こるかも知れないことを防ぐなんの助けにもならないだろう。私の心に奇跡が起こり、私がわれわれを押しつぶす巨大な車輪の前に身を投げ出したところで、この巨悪の大河の流れをもはや止めることはできないかもしれない。しかし最も効果的な身の投げ出し方を悟れば、それを実行するかも知れない。しかし、次善でさえないにも拘わらず、今の時点で、私が何を信じていたのかを隠さないことには、何らかの意味があってほしいと願わずにいられない。そしてこれを公共に向けて書いていたことが、私の今後の「扱われ方」に多少の影響を与えることはあるかもしれない。あるいは図らずも「身を投げ出す」第一歩に結びつくのかも知れない。
同じく上記管理人のユングについて
「河合隼雄」という問題
まず前提を理解しなければならない。ユングは全体主義的な哲学とは縁もゆかりもない。彼の根底に流れる通奏的な思潮は、むしろ「反近代」とさえ呼ばれるに相応しいものである。
欧州大戦中にナチズムに加担したということが言われるユングであるが、以下のようなユング自身の記述から伺い知れるのは、そうした全体主義的な時代精神というものに対する、むしろ批判と嘲笑なのである。
ウィルヘルム一世の戴冠式がヴェルサイユで行われたというニュースを聞いたとき、ヤコブ・ブルクハルトは「それはドイツの破滅だ」と叫んだ。すでにワグナーの諸元型が扉を叩いており、それとともにニーチェのディオニソス体験があらわれた。それは陶酔の神、ウォータンに帰するものという方が良いかもしれない。ウィルヘルム時代の傲慢はヨーロッパを不和にし、1914年の惨禍へと道を拓いた。
(ヤッフェ編『ユング自伝・2』みすず書房 page 50)
彼はそうした時代精神が怒濤のように流れ始めていることを肌で感じとってはいたし、そのことの「意味をよく理解していた」が、彼の時代に対する眼差しはむしろ客観的である。例えば、次の記述は国家主義というものの本質を見事に捉えていて、自由主義という名の下に国家への隷属は強化されるのだという、今日においてさえ重大な警鐘となることを述べている。
輝かしい科学的発見によってわれわれは恐るべき危険にさらされていることは言わずもがな、大いなる自由という希望は国家への隷属の増大によって帳消しされていることを、認めようとはしない。われわれの父や祖父たちの求めたものを理解しなければ、それだけわれわれはますます自分自身を理解しなくなる。かくして、われわれは個人としての根源と、自分を導く本能とを断ち切ることに全力をあげて加担し、その結果ニーチェが「重力の精神」と呼んだものによってのみ支配される集団の一分子となるのである。
(ヤッフェ編『ユング自伝・2』みすず書房 page 52)
などと、引用しながら『ユング自伝』を楽しく通読していたら、先頃死去した故河合隼雄の追悼式があったという報道が入って来た。
死者に鞭打つようだが、彼の業績についてはユング紹介者・翻訳者・研究家としての側面しか評価することはできない。
それにしても何ゆえに、晩年の河合隼雄は国家権力のこういうしょうもない手先みたいな輩に成り果てたんだろうか。いわゆる「知識人代表」として、文化庁の長官を務めた後、文科省文責の悪名高き“道徳”の副教材『こころのノート』の編集に積極的に携わるなど国家官僚的なエリートとして終わったということは、アカデミックな人間の極めることのできる頂点のひとつであって、世間における“成功”の一例なのだろう。だが、これはまさに生前のユングが背を向けたことではないか。そして彼の周りにいたよき理解者らしい知識人たちは一体彼のそうした奇行をどのように眺めていたのだろう。それが不思議でならない。
『ユング自伝』によれば、ユングは常に悩みながらも内なる声を意識化することを心がけ、内面の心の力と向き合った。また自己#1と自己#2の間でそのバランスをとり、ふたりの自分の間の矛盾に自分なりの折り合いを付けた。
それに対して、日本におけるユング紹介者・河合隼雄は、晩年、国家(権力)としての日本の、国際競争力と未来において「闘争し勝ち残れる子供たち」の製造に心血を注いだ。これは彼の業績の中で、掛け値なしに恥ずべき汚点だ。道徳教育の全面的な復活という最終目標が持つ意味について、彼が十分に深く考えたとは考えにくいほどの浅薄な懐古主義と呼ぶべきであろう。
河合隼雄がアカデミーの中で成功していくうちに、だんだんと国家権力側の方に取り込まれていったと思われる軌跡は、彼の著書の出版社や共著者の面々から見ても伺える。岩波や朝日新聞社などから刊行された本は多く、共著者としても、鶴見俊輔、大江健三郎、谷川俊太郎、村上春樹、山田太一、中沢新一、鎌田東二などの諸氏がいて、彼らが河合隼雄の、後の時期における国家権力への偏向(否定し難い権力志向)は誰にも予測できなかったのであろう。
河合隼雄のそうした偏向は『モラトリアム人間の時代』を書いた小此木啓吾との交流辺りから出てきたのではないかと推量する。小此木啓吾のモラトリアム人間についての論理が何を導くために意図されたのかは分からないが、「国民」が国家にとって有用な労働力であるべきだという権力/国家中心的な視点に力を与えることになったのは確かである。いずれにしても河合隼雄は反全体主義や反戦思想を持った知識人との交流を持ち、共著の多くをそうした人々と協同して出版することでキャリアを始めたが、最後は極めて国家主義的・全体主義的・反動的な思想を述べるスポークスマンとなった。極めて遺憾なことである。
一方、日本ではユングについて語ることは、その思想の初期の紹介者であり数少ないエラノス会議への日本人参加者の一人であった河合隼雄を、不幸にも連想することなしには行なうことができない。河合隼雄の晩年の国家官僚としての奇行は、ユングについて語り論じるとき、確実にわれわれに困難をもたらすだろう。
ユングの元型論や集合的無意識論というものが、河合隼雄が与したような全体主義や国家主義(自己の優先的生存)へとわれわれを駆り立てるような論理を本質的なものとして含むものではないにも関わらず、そのようなものである印象付けが、正統で余りある良心的な反・河合論者の側から成されつつあることが、実に残念なのである。ユング理論と晩年の河合の道徳論とは、明確に分けて論じる必要がある。
それにしても、日本ユング研究会会長をやっている林道義をはじめとして、日本におけるユング派がどこか「ロクでもない人たちの集まり」であるようにも思え、不信の念を拭えないのである。
「河合憎ければ袈裟(ユング)まで憎い」式のユング批判もある。主張の中心にはむしろ共感するが、こうした研究者によって河合批判のみならず、ユング批判にまで及んでいくことは、今後その批判の矛先が自分にまで及んでくる可能性を暗示しているので、時間を掛けて思潮の整理と我らが理論の強化をしなければならないのである。
上の翻訳は大好きな杉田玄白さんのものです。杉田さんは言う....
「プロジェクト杉田玄白より」
リンクするなら黙ってやれ!
山形浩生
リンクを張らせろとかいうしゃらくせぇメールはよこすなバカ野郎! ケチなんかつけねーから、どこへでも黙ってさっさと張れ! そういうメールをよこしやがったら、断るからな。いちいち相手の身元を確認していいの悪いの判断するほど暇じゃねーんだ! そんなけちくさい真似するくらいなら、最初っから無料でこんなもん公開したりしねーぞ! 世間様におめもじさせられねぇと思ったら、その時点で引っ込めるわい。
黙って張る分にはなんの文句もつけない。絶賛リンクも結構、「こんなバカがいる」的罵倒嘲笑リンクも大いに結構。煮るなり焼くなり好きにしやがれ。ファンメールもかねた事後報告もオッケー。あとおひねりでもくれるってんなら、もらってやるからありがたく思え。いいの悪いの返事も書いて愛想の一つも振りまこうってなもんだ。
でも、そうでなきゃそんなメール受け取って、読んで、おまけに返事書くだけのコストを、なんでこのオレが負担してやんなきゃならんのだ。しかもそういうメールに限って、クソていねいでまわりっくどくてあいさつと社交辞令ばっかで、いつまでたっても用件がはじまんないで、長ったらしくて官僚的で、他人に配慮してるようなツラして実は自分のケツをカバーすることしか考えてねーのが見え見え。
どうしても許可がないとリンク張りがリスキーだと思うんなら、明示的に許可がないと法的にリンクが困難とかいうんなら、そんなとこはリンクしていただかないで結構。黙ってリンクしていいという文章を読んで、それを理解する能力がないやつ(個人法人を問わず)なんか相手にしてられっか!
丸ごとコピーしたいときも、文章自体を変えないで(変える場合にも変えたところを明示すればオッケー)、もとのURLと版権と、転載自由だってのさえ明記すればなーんも文句はつけないので、これも黙ってやってくれ。
でも山形が死んだらどうなるんだ、という心配性の人のために、遺言もつくっといてやろう。いたれりつくせり。親切だろう。どうだ、これでもまだ文句あるか。じゃあな。
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