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【放送芸能】

「オールナイトニッポン」45年目突入 鶴光でおま!往年のパーソナリティー

 ニッポン放送の深夜放送「オールナイトニッポン」が今月45年目に突入、記念のイベントなども始まっている。輝かしい歴史を振り返るには、あの人に話を聞きに行かなければ。土曜の夜をピンク色に染めた、あの人に−。 (早川由紀美)

 「十の三乗ずり、やってるかー」

 ニッポン放送に保存されている五本のカセットテープ。一九七四年から八五年にかけて、毎週土曜深夜に放送されていた「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」の一部が、録音されていた。ファンが送ってくれたものだが、局としてはテープを残しておらず、貴重な資料だ。

 当時は深夜放送の全盛時代。とくに下ネタ満載の鶴光のオールナイトは十代中心に絶大な人気を誇っていた。ゲストで訪れた松田聖子が推理ドラマに出演。「キンタマニ探偵!」と、繰り返し鶴光に呼び掛けたりなんかもしている。かなり苦しいが金田一探偵のもじりかも。ラジオを聴きながら勉強している受験生も多かったので、参考書や予備校などのCMも多い。

 「オールナイトは今でいうパソコンやね。新しいこと知りたかったらラジオ聴いてた。情報の発信地やった」と、鶴光は振り返る。当時の子どもを恐怖に陥れた「口裂け女」などの都市伝説もラジオから広まった。

 下ネタ路線を全面的に押し出したのには、理由がある。「笑いをとるには、下ネタか差別かブラックジョークしかない。差別は傷つく人がいる。一番、害毒がないのが下ネタ」。とはいえ、あまりに直接的な言葉は使えないため「真綿でくるんだ表現」が番組の中で生まれていった。「リスナーがハガキで次々面白い言葉を送ってきた。リスナーが一番の放送作家やった」

 ハガキは毎週一万通前後。プレゼントがある週で、多いときは五万通に上ったという。番組が始まった当初は「大阪弁分からん」という苦情もあったが、そのうち皆、ハガキを「〜でおま」と鶴光がラジオで話す落語言葉で書いてくるようになった。面白い投稿をする「ハガキ職人」が作家や映画監督になった例も少なくない。

 一方で「あそこまでラジオで話していいのか」という苦情も絶えなかった。中高年の男性からが多かったという。「鶴光のオールナイトは聴くな」という“禁止令”が出ている学校もあった。「人として生まれ、男と女が結び付いて、歴史が生まれる。自然の営み。『下ネタが嫌い』というのは『人は永久に死なない』というのと同じ」

 ラジオは、聴く側の想像力で世界が広がるという点で、落語にも通じている。一方で聴き手との距離が近い「麻薬みたいな世界」でもある。「賛同してくれる人がいるので、つい人生観語ったりとか賢いとこ見せようとしたりする。リスナーは自分より賢いということを、いつも頭に置いておかないと」。面白さを貫く鶴光のラジオ。関西で持っている番組には今もハガキでネタが届くという。

 一九六七年十月一日にスタートしたオールナイトニッポン。九月には四十五周年キャンペーンの第一弾として、六夜連続のスタジオライブを開催。今後もライブイベントなどが予定されている。

 村山創太郎社長は昨年、社長に就任する際、先輩から「オールナイトニッポンがなくならないと、新しいニッポン放送は始まらないぞ」と言われたという。逆にいえば同局の根幹をなす番組ともいえる。「社長になってあらためてオールナイトニッポンのブランド力を感じているし、リスナーにとっても財産。五十年は続けていきたい」。ぜひ、再び夜をピンク色に染めてください、村山社長!

 

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