<ギャンブルにでたリビア>
カダフィ大佐の全権特使であるユーセフ・デブリと私が落ちあったのはカイロ。彼は、ここで、パンナム一〇三便爆破事件の被告であるリビア人二人を欧米側の法廷に引き渡せば、状況がどう推移するのか、その可能性を探っていた。パンナム機爆破事件とは、スコットランド・ロッカビー上空で一九八八年に起きたテロ事件のことだ。国連が仲介にたったニューヨークでの公的な交渉において、この事件のオランダでの公判を求める欧米側の提案内容と、容疑者引き渡しに伴う条件を懸念するリビア側の立場との間にあるギャップは、すでにある程度狭まっていた。しかし、まだ大きな見解の相違が残されていた。デブリはリビア側の曖昧な態度に終止符を打ちたいという願いから、まずは、非公式にアメリカの条件を明確に見極めようと、ワシントンとのコネクションをもつ引退したアメリカ人外交官とカイロで折衝を重ねていたのだ。
デブリは彼が軍事大学の学生だったころからカダフィと親交を持ち、このリビアの指導者とは旧知の間柄である。私にリビアに来てみてはどうかと彼が接触してきたのは数週間前のことだった。パンナム機爆破事件に対する国連の経済措置のために、リビアは世界から遮断され、その孤立状況に危機感を募らせつつある、と彼は言った。
もっとも、国連の制裁措置の下でも、リビアは唯一の輸出源である石油をヨーロッパ市場に輸出できるし、食料や機械類調達のための資金は稼ぎ出せる。だが、制裁による貿易や交通手段上の障害がリビアを苦しめている。(訳注1)
いまやリビアに関心をもつビジネスマンやジャーナリストはほとんどいない。デブリのメッセージは、リビアはしきり直しをして、新たにスタートしたいと考えており、そのために何とかパンナム機爆破事件を過去に葬り去りたい、ということに尽きる。リビア訪問を要請したデブリは、私がリビアのどこにでも行っていいし、カダフィ大佐を含む誰とでも会えると保障してくれた。
リビアへの旅を決めた私は、背景情報を得ようと、まずワシントンの国務省へ向かった。しかし、私が会った役人は、現在のリビアで何が起きているのかはあまり知らないと語った。パンナム機爆破事件が起きる二年前の一九八六年、当時のレーガン大統領は、一連のテロ事件への対抗措置として、リビアとの国交を断絶し、経済制裁を課した。「だが、この二、三年に限って言えば、リビアがテロリズムに加担している形跡はない。イラクとは違って、もはやこの国は戦略的な脅威ではない」と彼は言った。しかし、パンナム機爆破事件のために、アメリカはいまもカダフィとの関わり合いを避け、テロ国家のリストにリビアを入れたままである。(訳注2)
一九九一年に、アメリカの大陪審は、地中海のマルタ島駐在のリビア・アラブ航空の支配人、ラミン・カリファ・フィマ、そして、当時のリビア情報当局の高官、アブドル・バセット・アリアル=メグラヒの二人を起訴した。イギリスの司法当局もこれと全く同じ動きを見せた。一九九二年、国連安全保障理事会は、事実上のリビアの空港閉鎖を意味する民間航空機の乗り入れ禁止などの制裁措置を発動した。リビアは容疑者二人を中立的な国家での裁判にゆだねればよいと提案したが、ワシントンとロンドンはこれを拒否した。昨年八月になって、マドレイン・オルブライト国務長官は、「リビアのはったりに挑戦するために」、オランダの法廷で、(事件の起きた)スコットランドの法律によって裁判を行うのはどうかと玉を投げ返した。リビアはこれに原則同意するとしながらも、カダフィはさらに詳細を公開するように要求した。これが大きな流れである。(訳注3)
アメリカの制裁措置では、特例としてジャーナリストのリビア訪問を認めているが、航空機の乗り入れを禁止する国連制裁のために、空路でのリビア入国は不可能だ。首都トリポリへは、チェニジア南部のジェルバの町から入るのが一般的ルートである。そこから二五〇マイルの陸路になるが、この町に車を用意するとデブリは言った。だが、私が旅行に備えてパリにいるとき、デブリは、カダフィの命令でカイロに向かわなければならなくなったメッセージをよこしてきた。結局、彼の要請で私はカイロへと飛んだ。
もっとも、この日程変更のおかげで、私はパリやカイロで、リビアについて人々と論議する機会を得た。フランスやエジプトも、爆破テロによって人命を失っていただけに、その立場はアメリカと似ていた。フランスは、一九八九年に一七一名が犠牲となったナイジェリア上空でのUTA航空機の爆破事件の容疑者を、被疑者不在のまま、起訴する体制を整えつつあった。しかし、フランス、エジプトともリビアへの姿勢を硬化させたわけではなく、両国の政策決定者は、リビアは本気で世界コミュニティへの復帰を望んでいると見ていた。(訳注4)
(訳注1)リビアが一九八八年のパンナム機爆破事件、八九年の仏UTA航空機爆破事件という二つのテロに関係したという容疑により、国連安全保障理事会は九二年から経済制裁を決議。
(訳注2)米国は、一九八一年頃よりリビアへの対決姿勢を強めた。レーガン政権下の八六年、リビアを爆撃。対リビア国連制裁発動後の九五年、米政府は制裁強化を安保理に提案することを発表。しかし、フランス、イタリア、ドイツがこれに反対し、国連による制裁強化はとん挫した。これを受けて、オルブライト米国連大使(当時)は国連安保理で、米国による独自の対リビア制裁強化策を発表。九六年より、単独の経済制裁に踏み切った。
(訳注3)九八年二月、オランダの国際司法裁判所は、パンナム機爆破テロ事件の容疑者の裁判を、場所はオランダ、法律は事件の起きたスコットランド法で行うことが可能であるとの判断を示した。同年八月、英国、米国は、裁判をオランダで行うことを提案、リビアも提案受諾を表明した。しかし、容疑者引き渡し条件をめぐって、英米両国、リビア双方の思惑が衝突。事態はふたたび膠着状態へ陥った。
(訳注4)リビアに大きな経済的利益を有する欧州諸国は、米国による一九九六年の対リビア制裁法に同調するのを拒絶した。特にリビアと仏の関係改善は進み、二国間の懸案であったUTA機事件では司法的解決で協力するなどの成果が見られた。
<トリポリへ>
デブリと私はカイロから二〇〇〇マイルを越える旅を始めた。イギリス、ドイツ、イタリアの古い戦車が陳列されている近代的な美術館のあるエル・アラメインの町に立ち寄ったときには、少年時代に魅了された一九四二年のモントゴメリー英将軍の勝利に思いを馳せた。とはいえ、一日の多くはエジプトとリビア国境線沿いの単調なドライブだった。そこから、エジプトのマトルーフ、シディ・バラニ、そしてリビアのトブルク、ダルナ、ベンガジ、トリポリと、われわれはロンメル将軍の退出路をたどった。
ムッソリーニがつくり、最近になってドイツ人の技師が修復したこの沿岸の道路を行き来するのは、われわれのさび付いたトヨタのワゴン車だけだった。電力供給施設や衛生放送用のサテライト・ディッシュが道路に黒い影を映し出していた。辺りが暗くなると、小さな村落の家屋の窓に反射するテレビの光があたりを照らしていた。
道路標識の表示はアラビア語だけだ。革命後、カダフィが、アルコールとともに、ラテン文字での表示を一切禁止したためだ。英雄的なポーズをとったカダフィのポスターを、交差点や環状交差路で時折目にしたが、イラクにおけるサダム・フセイン、シリアにおけるアサドに比べれば、ポスターを目にする回数はかなり少なかった。
リビア国内にはいると、三〇マイルか四〇マイル進むごとに、通過許可を無造作に手で合図するチックポイントがあった。各ポイントにいた、兵士は一人か、二人だった。この道路沿いでイスラムの刺客がカダフィの暗殺未遂を企てたというレポートを目にしたことがあるが、政府は、そんな事実はないと否定している。真偽のほどはわからないが、すくなくともリビアの治安体制はかなり緩やかなようだった。
われわれが最初に立ち寄ったトブルクという町の通りは舗装も清掃もされておらず、道の両脇には、汚い四階建てのアパートが秩序なく並んでいた。しかし、店には品物があふれかえっていたし、校庭にいるこぎれいなブルーの制服の子供たちも健康そうに見えた。チャドルを羽織っている女性も少しはいたが、ほとんどは西欧風の洋服を身につけ。その多くは頭に何もかぶっていなかった。
次に立ち寄ったのはベンガジ。私はこの町の力強さに強い印象を受けた。一〇年前、このリビア第二の町は、全く活力が感じられず、塩気の多い水しか飲めない灼熱地獄のような都市だった。しかし、一九七〇年代にアメリカ人の専門家が着手した人工河川プロジェクトが実を結び、今では六〇〇マイル南部にある砂漠地下の帯水層から一五フィート幅のパイプラインをつうじて、飲料水が供給されるようになった。二五〇億ドルの予算をもつこのプロジェクトは、リビア人の大半がくらす沿岸の砂漠地帯を、肥沃で躍動的な地帯へと変貌させることを目的としている。欧米の専門家のなかには、よりコストが低くてすむ、塩分処理工場を沿岸地域に建設した方がよかったと見る者もいる。しかし、リビアの官僚たちはこの計画の効率性を自負し、市民もまた将来の繁栄という願いから、このプロジェクトに誇りをもっている。
ベンガジで、私はリビア市民と話をさせてくれないかとユーセフ(・デプリ)に頼んだ。驚いたことに、真夜中の一二時頃に、私が滞在していたホテルに総勢六人の医師と大学教授たちがやってきた。皆、こぎれいな身なりで、アメリカかイギリスで教育を受けた経験をもち、流暢な英語を話した。「アメリカの方と話せるまれな機会をいただきました」、と彼らは言った。ユーセフは皆のためにコーヒーとクッキーを注文した後、座をはずした。こうして、彼らと「プライベート」な会話を交わすことができ、われわれは、明け方二時近くまで話し込んだ。
アメリカ人はリビアのことをテロリストと貧民の国とみている、と彼らは口をそろえた。だが「変化が至るところで起きており、それをあなたが感じ取るのは決して難しくないはずです」と一人が言った。トルコ人、イタリア人、イギリス人による支配を受けてきたリビアは、いまも植民地主義の負の遺産に苦しんでいるが、われわれは固い決意を胸に自治と自立を目指している、と。
リビアの将来の見取り図を示した政府刊行物は、カダフィが言うところの「西欧民主主義よりもさらに民意を的確に反映できる」民衆議会の設立を提案している。私を訪ねてくれた人々は、すべてのリビア人が参加できる民衆議会が、すでに政策を決定していると口をそろえた。「町や村レベルで定期的に会合が開かれ、年に一度は全国レベルでの会議も開かれている」。彼らは、制度上の問題を認めつつも、この活動を民主主義の正当な実践だと熱っぽく語った。
「あなたはカダフィがすべての決定を下していると思っているのでしょうが、実際には、民衆が決定を下しています」と一人が言った。たしかに「われわれは、カダフィのことを革命の指導者として尊敬しています。彼は、学校、道路、医療施設を作ってくれましたし、この国の景観さえも一変させたのです。彼は注目を集める人物ですが、サダム・フセインのような独裁者ではありません。統治を手がけているのは議会で、カダフィの考えを議会が拒絶することもしばしばです。事実、議会が政府の行動を批判するのは日常茶飯事なのです。言っているとおりに行動できていないことは認めるとしても、日毎に生活は改善されているのです」。
リビア人のすべてがパンナム機爆破事件にまつわる決着のつけ方について議論しています、と彼らは語った。「ほとんどの人々は、これを人道上の問題と考えていますが、リビアは欧米の提案を受け入れるようにと、国際的な圧力、とくにアラブ諸国連合からの圧力にさらされています」、と彼らは言った。すでに一九九二年当時から、法の最高機関である全人民会議は、リビア人容疑者を「公正で正義に乗っ取った」裁判の場に引き渡すように求める決議を採択している。彼らは、自分たちも決議を支持したと口をそろえた。「なぜなら、リビアがテロに関与しているはずもなく、容疑者がシロであるのは明白だし、無実かどうかはともかくとしても、リビアに禁輸に耐えられるだけの余力はもはや残されていない」と。
次に立ち寄ったのは、カダフィがリビアの新首都に定めたシルトの町だった。この町には明らかに金がつぎ込まれている。政府省庁のビルの一部がすでにこの町の一角に移され、美しい住宅街が建設中だった。イタリアの建設技師が手がけた近代的で大規模な省庁街がほぼ完成し、そこに全人民会議や各省庁がはいることになっている。
民衆と政府の距離をもっと近くという持論の持ち主であるカダフィは、イタリアの植民地としての名残をとどめるトリポリは嫌いで、地理的な中心にあるシルトを新首都に選んだ。より重要なのは、シルトがカダフィの故郷であることだ。彼はこの町の南の砂漠地帯で一九四二年に生まれた。父は、
羊や山羊を飼うベドウィンの遊牧民だった。リビア人は、いまでも、シルトを取り巻く砂漠はカダフィの故郷であると言う。
カダフィの伝記を手がけた多くの研究者は、青年時代のカダフィが質実かつ勤勉で、カリスマをもつとともに、宗教的で民族主義的な人物だったとみている。彼はすでに高校時代に、第二次世界大戦以来リビアの君主制を支えてきたイギリス部隊の追放を求めるアジ演説を行っていた。さらに、一九五六年の英仏によるスエズ危機、一九五六年から六二年のアルジェリアの独立戦争、そして一九六七年のアラブ・イスラエル紛争と、戦争を目の当たりにした経験が、彼の反帝国主義的性向を研ぎ澄ましていった。
青年カダフィのヒーローは、頑迷で攻撃的なアラブナショナリズムを説く、エジプトの果敢な大統領ガマル・アブデル・ナセルだった。当時の軍の士官だったカダフィは、ナセルをまねて、将校団を組織して、不安定なイドリス王政の転覆を画策し、一九六九年にクーデターに成功した。その後、民主的理念や社会主義思想を一部吸収したとはいえ、帝国主義への敵意は彼のイデオロギーの根底に残り、彼の政権の中核理念となった。独立はリビアにとってこの上ない贅沢だった。革命による自由を謳歌するように、数億ドル単位の石油からの歳入が流れ込んできたからだ。リビアの統治者としてのカダフィの最初の仕事は、イギリスだけでなく、トリポリ郊外に巨大な飛行場をもつアメリカに国からでていくように求めることだった。彼とワシントンの関係が本当に悪化したのはもっと後になってからだが、最初からその関係はギクシャクとしていた。
<カダフィとの単独インタビュー>
シルトに到着した翌朝の朝一一時頃、ユーセフと私はカダフィに会うために南へと向かった。砂漠を一時間半ばかり走ると、警察がわれわれを待ち受けていた。私たちは、ほとんど識別できないほどに砂をかぶって汚れた舗装道路を誘導する彼らに続いた。でこぼこの道を一マイルばかりいくと、三台か四台のリムジンが待ち受ける鉄網フェンスの門にたどりついた。車を脇に止めて、われわれはランドローバーに乗り込んだ。そこから、石や砂の上を一時間半ばかり揺られながら、さらに砂漠奥地へと進むと、大きなテントや近代的なトレーラーのある野営地に着いた。近くには二〇〇頭ばかりのラクダの一団がいるだけで、どこにも警備隊はいなかった。
勿論、私はカダフィがしばしばテントで訪問客と会うことを前から知っていた。カダフィに批判的な人々は彼のこうしたやり方は気をてらっているとみなし、一方で支持者は、自分に正直なやり方だとみている。最初に迎え入れられたテントは舞踏会が開けそうな大きさで、横側は風通し用に開けられていた。私の隣には、三人の民族衣装をまとったアフリカ人がいたが、彼らとともに私にもお茶がだされた。アフリカ人たちがしばしの間カダフィのテントを訪れた後、ユーセフが私をカダフィのテントに案内し、座をはずした。
簡素なイスとテーブルを別にすれば、テントには何もなかった。天井はラクダの皮でできており、両サイドは傾斜していた。砂の上にはごく普通の絨毯が敷かれていた。通訳が一人いるだけで、カダフィはいすに座っていた。毛むくじゃらの頭の半分が隠れる程度にターバンをまき、ベージュのズボンをまとい、上半身には、洗濯でくたくたになった柄物のシャツの上に、縁に刺繍が施された薄手でぼろぼろのベドウィンのローブをまとっていた。しわの多い顔のひげはきれいに剃られ、色の濃いサングラスをかけていた。彼が質素な生活をしていることには好感が持てるというリビア人の声を何度も耳にしたが、目の前にいるカダフィ、そしてテント内の様子は評判と寸分違わなかった。
金属の杖に体重をかけながら、彼は私と握手しようと立ち上がった。海外のニュースレポートでは、カダフィはトブルク近郊での暗殺未遂事件で負った怪我の療養中と伝えられていたが、政府の公式見解では自宅で偶然怪我をしたと報道されていた。衝動的、とかく物事を誇張するという彼の性格については私も了承していた。だが、世界コミュニティに戻ろうとするリビアの努力を伝えるために私が招待されていただけに、今回ばかりは彼も穏やかでよどみない言葉でソフトに接するだろうと考えていた。だが、これ以上の思い違いはなかった。
私は、リビアが新路線を取り始めたという認識は正しいのかとまず最初に質問した。彼は質問に答えるのに私のほうを向きさえしなかった。風になびき、テントの横からみえる水平線を見つめたままで、なにか口にする気配さえなかった。ときに感情に突き動かされて早口になるとはいえ、彼は基本的には感情を押し殺したような調子で話をした。
「残念なことに、アメリカは時代遅れの認識でわれわれに接している。われわれがアメリカをターゲットにしたことは一度もない。アメリカ人は冷戦終結後の変化を受け入れているが、リビアとなると話は別のようだ。結局、アメリカ人のリビア人に対する態度は、ヒトラーのユダヤ人へのそれと同じで、人種差別的で狂信的だ。われわれは、アメリカ人はヒトラーのようだとみている。宗教的、狂信的、人種差別的であるという以外には、現状を説明するものはない。専門家の中には、これを新たな植民地主義というものもいる。しかし植民地主義は植民地主義にすぎず、それはつねに不公正なものだ。それは、イタリア人にわれわれがどう扱われたか、また、アルジェリア人がフランス人に、インド人がイギリス人にどう扱われたかという問題である。むしろ、現状はアメリカの帝国主義であり、われわれは新しい帝国主義の時代を迎えつつある」。
「アメリカとの対立が、われわれの攻撃によって始まったわけではない。われわれがアメリカのターゲットを攻撃したことは一度もない。このシルト湾に対して、まずアメリカが攻撃をかけてきたのだ。われわれが防衛を試みると、まさにここにあるテントに米軍は攻撃をかけてきた。領海内でも、われわれはミサイル攻撃を受けた。一九八六年の攻撃では、われわれの子供たちが殺され、私の娘も死亡した。そしてロッカビー上空での飛行機爆破事件だ。そこには断ち切らなければならない悪循環が存在する。しかし、アメリカは新たな一ページをめくろうとはしない。それでもわれわれは勇気を示し、忍耐をみせるだろう。そこでの敗者はアメリカである」。
カダフィが口にした事件は、アメリカの戦闘機が、リビアの領海の範囲をめぐる対立から、二機のリビア機を撃墜した一九八一年にさかのぼる。一九八六年一月、ローマやウィーンでのテロ攻撃への対抗措置として、レーガン大統領はリビアとの通商関係を遮断し、米国内のリビア資産を凍結した。数週間後、アメリカの海軍機がシルトに攻撃をかけ、再び起きた領海範囲をめぐる対立から四隻の哨戒挺を攻撃した。四月、レーガン大統領は、二人の米兵が犠牲になったベルリンのナイトクラブの爆破テロを行ったとしてリビアを批判し、砂漠のテロキャンプと思われる場所ととともに、トリポリとベンガジを攻撃する命令を下した。この攻撃で三七名の民間人が犠牲になったとされているが、そのなかには、カダフィが養子縁組みをしていた娘ハナーも含まれていた。リビア人は、カダフィはいまも子供の死にとりつかれているという。
一九八〇年代にその関わりが取り座沙汰され、批判されていたテロ攻撃にリビアは関与していたのかと水を向けた。カダフィはそれを否定することもなく、次のように述べた。「あなたが言う、そうした事件はすでに過去のことだ。かつてヤセル・アラファトは指名手配されていたが、いまや彼がホワイトハウスにいくと、飾り付け、音楽、赤絨毯で歓迎される」。勿論、彼の声には、それをうらやましがっている様子は全くなかった。「アメリカ人は、リビアはテロ国家だと言う。しかし、いまやその主張は不合理だし、妥当ではない。そうしたことはすべて過去の話で、そのような時代は終わったのだ。フランスの航空機の爆破事件は、リビア、チャド、フランスが紛争状態にあったときに起きた事件だ。アメリカが湾岸でイランの航空機を爆破したのと似たようなものだ。イスラエルもシナイ半島上空でリビアの航空機を撃墜している。ソビエトも大韓航空機を撃墜した。これらは戦時における出来事だった。こうしたことをすべて忘れる一方で、なぜリビアに対する批判だけを引き合いに出すのか? そこに合理性はない。だからこそ、われわれはアメリカが人種差別的で、狂信的なコンプレックスを抱いていると考えざるを得ないのだ」。
私が、その他の航空機の撃墜はコミュニケーションがうまくとれなかった結果かもしれないと言うと、彼は馬鹿げていると言わんばかりに笑い出した。しかし、それでも、UTA機やパンナム機の爆破事件は、人を殺そうとする周到な企てではないのかと私は主張した。
「君の言い分こそ、アメリカの理屈そのものだ。ミサイルや戦闘機、あるいはロケット弾を使用するものには正当性があるとされ、爆発物や小さな爆弾を使用するものはテロリストだと批判される。同様の理屈に従えば、アメリカのように、ウサマ・ビン・ラディンが巡航ミサイルを使えば、彼がテロリストと呼ばれることもなくなるわけだ。われわれがフランスの航空機の爆破事件に責任があるかどうかは、フランスの司法当局が判断することだ。われれがこれに口出しすることはない。ロッカビー上空でのパンナム機のケースについても同じだ。これらは法廷に判断をゆだねようではないか。これまで、リビアがテロ国家だとして有罪判決を受けたことは一度もない。もし彼らが批判するのなら、その容疑を実証する必要がある」。
テロはリビアの国益にかなう行為だったのか、と私は尋ねた。
カダフィは言った。「なぜ、そんな質問をするのだ。シルト湾のわれわれを攻撃するのがなぜアメリカの利益なのかを自問しないのか? そうしたことをされて、リビアが反応を示すのがそれほど一般からかけ離れた行為なのか? 不公正なのはいったい誰なんだ?アメリカに敵対的な行動をとることは、われわれの利益ではなく、われわれがアメリカとの対決路線を自分からとることなど馬鹿げている。しかし攻撃された場合には、自分がいかに弱いとしても、自分を守らなくてはならない。われわれはアメリカとの和解を望んでいるが、アメリカはそうではない」。
リビアは、パンナム機爆破事件の容疑者二人を(海外の)法廷に引き渡すつもりがあるのかと、私は尋ねた。これに対する答えには、問題の解決を先送りしようとする彼の意図がみえると感じた。
「われわれは公判が開かれるべきだという点では合意している。それをいかに実現するか、ゆっくりと腰をすえて考えるべき時期に来ている。私自身、パンナム機事件の真相を知りたいと考えている。それが終われば、この事件は決着する。二人のリビア人が有罪判決を受けるかどうかについてはそう心配していない。大切なのは、この問題にピリオドを打つことだ。パンナム機事件で死亡した倍の数の人々が禁輸措置によってすでにこの国で死亡している。だれが犯罪者なのかどうかを決めるのは弁護士と裁判所の仕事だ。大切なのは公判が開始されると同時に、リビアに対する制裁が打ち切られ、制裁措置が解除されることだ」。
悲観的な面もちをみせながら、彼はさらに続けた。
「そうなれば、アメリカとリビアの関係が再び正常化されていってもおかしくはない。しかし、アメリカが心理的コンプレックスをいだき、帝国主義的見取り図を持っているために、たとえパンナム機事件が解決しても、関係が正常化へと向かうことはないだろう。アメリカは、シルト湾と北アフリカを占領したいと望んでいる。彼らは、エジプトとシリアをイスラエルの手に委ねたいと考えている。そうすれば、大イスラエルが実現するからだ」。
「私は西欧世界全般とはなんら問題を抱えていない。リビアはヨーロッパと良好な関係を維持している。われわれはヨーロッパ諸国の大使館と企業をここに迎え入れている。しかし、アメリカは違う。もっとも、われわれはアメリカ市民の敵ではない。数多くのアラブ人、イスラム教徒、アフリカ人がアメリカ人となっている。どうして、われわれが彼らの敵たり得ようか?われわれとの関係を妨げているのはアメリカの帝国主義的政策である。リビアはアメリカのテロリズムの犠牲者なのだ」。
ここにいたり、カダフィは忍耐を失ってしまったが、対話をやめる前に彼の政府がどのように機能しているかを尋ねた。これに対して彼は、自分に公的な地位はないと語った。
単に「指導者」と呼ばれるカダフィは、理論的には国の元首ではない。各省の大臣たちは、カダフィではなく、全人民会議に報告義務を負い、外交官も彼に信任状を奉呈するわけではない。欧米の外交官は、おそらくカダフィは公的な行為に関する拒否権をもち、しかも、ある種の治安組織が彼に報告義務を負っているのではないかと言う。しかし、専門家の間でも、彼の正確な役割がなにかはほとんどわかっていない。
「私は支配などしていない」とカダフィは主張した。「これを否定する人々の主張には根拠がない。私に権限があるとすればそれは道徳的な権限だ。民衆は、私のキャラクター、そして、植民地支配から彼らを救い出した革命の指導者としての私を評価している。だが、この国を支配しているのは民衆である」。
実際、この国を訪れた一人として、このリビアという国が、欧米でわれわれが考えるのとはちがって、単なる独裁国家ではないことを私は認めなければならない。民衆は、運命を克服して築き上げた権力を誇りにしている。この数年、秘密警察も、日常生活のレベルからは姿を消している。「私を独裁者と呼ぶ人々に私は怒りを覚えるし、そうした発言は、民衆が支配しているという事実を暗に否定するものであり、結局、リビア民衆をも侮辱している」とカダフィは語った。
私が席を辞そうとすると、「私が語ったことすべてを伝えてほしい。なにもけずったりせずに」とカダフィはたどたどしい英語で言った。実際、繰り返しの部分を別とすれば、ここにすべてを披露している。だが、そういわれた瞬間、もし本当にリビアが世界コミュニティに復帰したいのなら、インタビューの内容を私が一切記事にしないほうがよいのではないかというフレーズが私の頭をよぎった。
テントに入ってきたユーセフは、ここから出ようとする私がぶつぶつと口ごもっているのを耳にしたようだ。ユーセフはカイロでの会談についてカダフィに報告し、ワシントンの条件に妥当な反応を示すべきだと促した。インタビューでの私の対応は、明らかにカダフィを怒らせてしまったようだ。
私は待合い用のテントでユーセフが戻ってくるまで、山羊のミルクを少しずつ口にした。戻ってきたユーセフはいささかせっぱ詰まった様子で語った。「指導者(カダフィ)から、自分が語ったことは公的なことではなく、当然、政策を述べたわけではないという点をくれぐれも誤解しないように、そして、自分が民間の一人物で、感じたままを述べたことを忘れないで欲しいと言付かりました。指導者は、パンナム機爆破事件については、リビア政府の外相に会ってほしいそうです」。
<もう一つの見解>
その日の午後、私はショッピングセンターの一角にある仮設の外交事務所で、オマル・ムスタファ・アル・モンタセル外相(対外事務書記)と会った。丸顔で頭髪が薄く、口に葉巻をくわえた彼は、洗練された外交官特有の正確さと上品な言葉遣いをする人物だった。カダフィとは違って、彼は穏やかで、声も低く、会話も合理的だった。彼は、私が説明するカダフィとの会談の様子をいささか困惑気味に聞いていた上で、「カダフィは革命家で、一方の私は官僚です」といった。勿論、そこに否定的な意味合いが込められていた訳ではない。だが、パンナム機爆破事件について、私がテントの中でカダフィから聞いたのと、公的なアプローチが全く違うことを教えてくれた。
モンタセルは、かつてのアメリカとのつながりをある種のノスタルジアを込めて振り返った。「第二次世界大戦後、アメリカはこの国でとても人気があったし、ソビエトの国連での拒否権という問題さえなければ、イタリアが去った後の保護国となる可能性さえあった」と。七〇年代と八〇年年代の、アメリカとリビアの貿易は年間四〇億ドルに達していた。アメリカ企業は、リビアの油田地帯を管理し、人工河川を設計し、大規模な電力施設を建設した。また、アメリカの大学に学ぶリビア人の学生も数百に達していた。
かつてカダフィが「役者として失敗した男」と呼んだレーガンはリビアに対して恨みを持っていたに違いないが、クリントンは違うようだ、と語り、あくまで平等な立場でという条件付きだが、リビアはアメリカとの関係を正常化したい、とモンタセルは繰り返しのべた。
パンナム機事件について、彼はオランダでの公判という案を支持し、スコットランド法による公正な裁きがなされると確信していると言明した。とはいえ、「リビアが国策として爆破に関与したという仮説が実証されることはないだろう」と付け加え、さらに、UTA機の事件の時に私は首相だったが、「いかなる可能性も排除できないとはいえ、あれは、リビア政府の政策ではない」と強く主張した。
意図的かどうかはともかく、モンタセルが伝えようとしていたのはどうやら、リビアには複数の権限が存在するということらしかった。私は、リビア人の多くが、公的な政府組織図には現れていないものの、「汚い手」をつかう政府の部局が存在し、これがカダフィの指令で活動しているというのを耳にしていた。この組織のヘッドは、カダフィの義理の兄弟で親友でもあるアブダラ・アル・サヌーシーといわれ、彼はパンナム機事件をめぐる妥協に強く反発している人物としても知られる。サヌーシは、UTA機事件をめぐるフランス法廷での被告リストに名前が挙がっている。だが、リビア人によれば、最近では、カダフィの近辺で彼を見かけなくなったそうだ。彼が目立たないようにしているのは、カダフィの策略かもしれない、とリビア人たちは言う。しかし、もし彼が上層部サークルから姿を消したとすれば、政府が、パンナム機事件をめぐって容疑者を引き渡す準備があることを意味するのかもしれない。
モンタセルと会った後、私とユーセフはトリポリへと向かった。五時間のドライブを経てこの町に着いた後、私は、エルケビア・ホテルにチェックインした。窓の外には駐車場と高速道路が見え、その先には、反射する太陽でまぶしく輝く港に停泊中の船が見えた。ホテルがある場所がかつては海だったことを知ったのは次の日の朝になってからだった。かつてイタリア人たちは、このあたりの海岸沿いを散歩するのを好んだが、リビアの都市計画者が、巨額の費用を投入してここを埋め立てた。この埋め立て事業は、植民地のよすがを消し去ろうとしたカダフィによる数多くの試みの一つであるにすぎない。とはいえ、トリポリの町はオスマントルコの要塞、そして市場としての面影をたたえ、ここがイスタンブールの影響下にあったことを思わせる。しかし、宮殿の多くは取り壊され、まぶしいばかりの超高層ビルや陰気なビルが建ち並んでいる。
私はトリポリで会ったのは国有石油公社のヘッドであるハモウダ・エル・アスワッド。この石油公社が、リビアの主要な資源である石油の生産と販売を管理している。皆がハモウダと呼ぶ彼は、年の頃五〇歳くらいのエンジニアで、リビアだけでなく、イタリアでも教育を受けた人物だ。もの静かななかにも、かなりの能力を思わせる大柄のこの人物は、経済制裁がこの国にとって何を意味するか、インサイダーとしての意見を聞かせてくれた。
「リビアの石油産業はその体質からしてアメリカ的なのです」。「ここで最初に資源探索を行って原油を産出し、ヨーロッパやアメリカへと輸出したのは、アメリカの企業でした。現在でも現場のスタッフはアメリカのノウハウによって訓練された人物たちで、すべての産出施設はアメリカ製です。実際、設備を購入し、輸出に目を配るためにわれわれはアメリカに事務所を構えていたものです」。
「しかし、アメリカの制裁によってすべては一九八六年に終わってしまいました。アメリカ人はわれわれがどのような設備を使っているかを知っており、そのすべてを制裁リストに加えました。さらに、国連の制裁が九二年に発動されると、われわれは世界の市場から物を買うことができなくなり、状況はさらに複雑になりました。一部の機械類は密輸できますが、わわわれはすでにお手上げの状態です。捨てられた部品を調整して再利用するために廃材置き場に行く有様です。自分たちで部品を生産しようと試みましたが、いまのところこれもうまくいっていません」。
「政府の長期計画の力点はすでに農業や工業部門へとシフトしていますが、制裁措置によってこれも制約を受けています。それまでは海外から数日もあれば、機械類を調達できましたが、いまでは一年がかりです。かつてはわずか数時間だった欧米への旅も、いまや民間の航空機が飛んでいないために、数日間かかってしまう。アメリカからの技術支援や投資も今はない。植物の種さえ、必要な量を確保できず、当然、農業や工業で、石油からの利益を埋め合わせられるはずもありません」。
「OPECによる産出割り当ては日産一四〇万バレルですが、現在の産出額は一一〇万バレルに落ち込んでいます。われわれは、アメリカ企業が帰ってこられるように、現状を契約上の「休止」合意にあたると見ています。技術全般、とくに残り少ない油田の効率的採掘に関しては、アメリカ企業のほうがヨーロッパ企業よりも進んでおり、われわれは特に米企業の助けを必要としています。当然、われわれは単に国連制裁の解除だけでなく、アメリカの制裁解除も求めています。石油価格がこれほど低いのだから、経済ブームでも起きなければやっていけない。リビアは歳入面で非常に深刻な状態にあるのです」。
<二つのリビア>
リビア社会はテクノクラート的な社会と部族的社会に二分されている。たとえば、ハモウダはテクノクラート的な社会に属している。勿論、このテクノクラート社会が支配的なわけではないが、この社会に属する人々はリビアを近代的な国家にしたいと考えている。つまり、工業的で開放性をもち、自由で繁栄する社会を目標としている。一方、カダフィは明らかに部族社会を代弁しており、リビアでの個人主義を疎ましく思っている。アウトサイダーを警戒し、慣習を大切にし、自らの権限の基盤を、神権とまでは言わなくとも、伝統に求めている。
革命の指導者としてのカダフィがリビアに大きな貢献をしてきたことは確かだ。彼は、相当な資金をつぎこんで、道路、学校、病院、電力供給、水道システムなど、見事な社会インフラを作り上げた。人々の政策決定への参加、女性の解放という点で、彼はアラブ世界でもっとも踏み込んだ政策をとった指導者である。彼は清廉潔白な人物とみなされており、私のみるところでは、これは正しい見方だ。だが、キューバのカストロ首相と同じで、カダフィもあまりに長く権力の座に居座り続けている。(もっとも、こうした批判的な指摘をするリビア人には一人もお目にかからなかった)。
しかし、カダフィを引きずり落とそうとする気配はまったくない。テクノクラートたちは、いささか拙速だが、カダフィのことを生きた伝説(リビング・レジェンド)とみなしている。一方、その多くがアフガニスタンに義勇兵として参加した経験をもつイスラム過激派たちも元気がない。この数年来その暴力的な活動も下火となり、大衆の支持も得られず、いまや影響力にかげりが見える。軍にしても同様だ。その内部で何が起きているかはほとんどわからないが、反乱を起こすような兆候はほとんどみられない。
とはいえ、私は、カダフィが嫌々ながらではあっても、変化の必要性を認めていると感じた。もしカダフィが国際的な悪漢の役回りを放棄するとすれば、それは、アラブ世界を含む世界が、もはやそうした行動を看過しないと明確な姿勢を示した場合だろう。彼の意に添うかどうかはともかく、リビアがこれ以上この国を現在の窮状へと追い込んだ挑発的な政策をとり続けるのを民衆が望んでいないことをカダフィは認識している。パンナム機事件が決着すれば、リビア国民の生活も大きな変化を迎えるだろう。苦々しく感じつつも、時とともに、彼もほぼ間違いなくこれを受け入れるだろう。
アブデュラティ・アロビディは、リビアのヨーロッパ担当外務次官で、パンナム機事件の対応を担当している。リビアの外交コミュニティで慎み深い人物として評価されている彼に会うために、現存する数少ないイタリア統治時代の建物の一つである、トリポリの海岸沿いのリビア外務省に私は向かった。「リビアはアメリカに対してこれまで幾度となく交渉を申し入れてきたし、エジプト、モロッコ、イタリア、そして南アメリカのネルソン・マンデラ大統領などのアメリカの同盟諸国に仲介を頼んできた」が、「いずれもうまくいかなかった」と彼は語った。
「むしろ、我が国はイギリスとの交渉をよりうまく進展させたといえるだろう。IRA(アイルランド共和軍)への武器提供の嫌疑で、イギリスは長くリビアと対立し、八四年には外交関係を断絶したが、それでも非公式の接触をわれわれは維持してきた。イギリスの圧力に屈して、一度は武器の供給をやめたが、イギリスの基地から飛びたったアメリカの爆撃機が八六年に我が国を攻撃して以後、リビアはIRAへの武器供与を再開した。ロンドンはその後も執拗に武器供与に抗議したが、九五年には国連の場で武器供与は停止されたとイギリスは自ら宣言した。その後しばらくして、イギリスはパンナム機事件をめぐる国際法廷開催の支持に回り、アメリカもそれに続くように圧力をかけた」。
昨年一一月、私が彼と話した時点では、未解決のポイントが二つあった。第一は、二人のリビア人容疑者に有罪判決が下された場合に、どの国の監獄に収監するかである。ワシントンとロンドンはスコットランドの刑務所であるべきだと主張した。一方、カダフィは二人をリビアの刑務所に収監すべきだと主張していた。だが、リビア政府自体はオランダの刑務所でもやむなしという立場のようだ。
第二は制裁措置の解除である。アロビディは次のように語った、「正直なところ、私はアメリカ人を信用していない。アメリカ政府筋がすでにこの三年か四年はリビアがテロに関与していないと認めているにも関わらず、リビアはいまだに国務省のテロ国家のリストに入れられている。制裁の継続や再開に関する口実をアメリカから聞かされるのはもううんざりだ」。
「この点に関する国連決議は狡猾である」と彼は言った。この決議では「国連事務総長が安保理に対して容疑者が公判のためにオランダ入りしたと報告した時点で制裁措置は『中止』される」としている。つまり、制裁措置が解除されるとはされていない。アメリカは国連事務総長に対してどのような圧力を行使するだろうか。イラクの場合とは違って、攻撃によってリビア市民が死んでいるわけではないが、制裁という問題を引きずるのは困ったことだ。われわれはパンナム機事件をはやく過去に葬り去りたいのだ。アメリカとの国交回復、これこそ指導者カダフィとリビア市民の願いである」。
実際、国務省によれば、容疑者がハーグに入った時点で国連の制裁措置を停止することにはアメリカは合意するが、八六年のレーガン政権による制裁措置まで解除するつもりはない、という。国連が課した責任をリビアが満たせば、アメリカは独自の制裁措置についても話し合うつもりはあるが、それでも制裁を解除するかどうか約束はできない、というのがアメリカの立場だ。国連の制裁措置が解除されれば、国際市場、航空サービスへのリビアのアクセスは回復されるが、アメリカだけが提供できる航空機や油田施設部品の需要が満たされるわけではない。
アラブ諸国を歴訪中だったコフィ・アナン国連事務総長は、九八年一二月五日にカダフィと会見している。二人とも状況の打開を望んでいたが、それは実現しなかった。しかし、後にこのことにふれたアナンは「われわれは進展を手にしている。独自の方法で問題解決へと向かいつつある」と語った。国務省も、リビアとの交渉は冷静かつ真剣に行われており、リビア側は交渉プロセスを批判するのを控えていると認めている。だが、収監場所やアメリカの制裁についての妥協なしでは、問題が妥結へと向かう可能性は低い。
一方、カダフィがおとなしくなるとともに、次第に焦点はせばまりつつある。パンナム機事件を別にしても、この他二つの公判待ちの裁判の行方が、リビアの将来を左右するだろう。この一年にわたって、ドイツはベルリンのナイトクラブ爆破事件をめぐって五人の容疑者を法廷に引きずり出している。このケースの主要な被告はリビア人だが、一方で、リビアの旧東ドイツ大使館もこの件に関わっているとされる。三月には、フランスが、UTA機爆破事件の容疑者であるサヌーシを含む六人のリビア人を裁判にかける予定だ。起訴の証拠はトリポリでの活動を許されたフランス人の手によって集められた。
検察側はこれらの法廷で裁かれるのはあくまで個人であって、国家ではないとしている。しかし、直接間接に、リビアという国が法廷で見え隠れすることになるだろう。市民の怒りを背景に、こうしたテロ攻撃へのリビアの関与が立証された場合には、世界コミュニティが激しい反発を見せるのは間違いない。
これら三つのすべてが厄介なのは間違いないが、特にフランスでの法廷はリビアにとって問題含みのものとなろう。現在姿が見えないとはいえ、カダフィの義理の兄弟が表舞台に引きずり出されることになるからだ。もし有罪判決がでれば、カダフィの個人的関与も取りざたされることになり、そうなる可能性は高い。カダフィは遺族に補償金を支払うことを示唆しているが、それが十分に手厚いものになるとは思えない。一方、アメリカ、イギリス、フランス各国が、彼の暴力的な行動を黙認して友好的な関係の構築へ向かうのは不可能だろう。
リビア人は自分たちがギャンブルに打って出ていることを理解している。すでに二つの裁判が行われているし、もう一つの裁判の開始も近い。これら三つの裁判の結末が自分たちにとっていかに痛みを伴うものであっても、これまでのように反抗的な態度をとり続けるよりも、これらの裁判の決着をつけたほうがましだろうと当て込んでいる。しかし、ワシントンが態度を軟化させないかぎり、このギャンブルが成功するかどうかは全くわからない(訳注5)。●
(訳注5)一九九九年四月五日、パンナム機爆破テロ事件のリビア人容疑者二人が、国連機でオランダに到着した。国連は経済制裁措置一時停止を決定。米国は、容疑者二人の引渡しを歓迎しているが、米国単独で実施している対リビア経済制裁は継続するとした。
Milton Viorst 中東を専門とするジャーナリスト。近著にIn the Shadow
of the Prophet: The Struggle for the Soul of Islam がある。
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