日が落ちて外は暗い。まだ新しい建築材の香りがするコテージに、伊藤延由さん(67)が戻ってきた。線量計を取り出して見せてくれた。パソコンにデジカメをつなぐと、今日の登山のデジタル写真を呼び出した。
「今日は野手上山(阿武隈山地)に登ってきたんです。ほら、山頂から太平洋が見えるんですよ。線量ですか? 山頂の神社で8マイクロシーベルトくらいでしたね」
ここは線量計が350マイクロSvを出した「長泥」集落から車で10分も離れていない。福島第一原発から漏れ出した高濃度の放射能雲が海風に吹かれて北西に流れ、阿武隈山地にぶつかった、その山の裏側斜面にある。「野手上山」とは、その太平洋を見下ろす分水嶺だ。
伊藤さんは東京・上野にあるソフトウエア会社を5年前に退職したコンピューター技術者だ。郷里の新潟に帰っていたが、農業に興味を持ち、元の勤務先が研修施設「いいたてふぁーむ」を開いたのをきっかけに、管理人として飯舘村に引っ越してきた。
田畑をつくり、やっとの思いで開所にこぎつけたのは2010年の3月25日だ。1年も経たないうちに、3月11日がやってきた。
中学や高校のキャンプを受け入れた。牧場で羊を飼おう。エコツアーはどうだろう。うつや引きこもりの子どものリハビリにと東京のNPOから相談があった。ようやく盛り上がってきたところで、原発事故にすべてが潰されてしまった。
「だって、若い人をこんな線量の高いところに連れてきちゃダメですよ」
伊藤さんは力なく笑った。
冗談を飛ばすのは、あまりにも現実がひどくて憂鬱だから
村に高線量の放射能雲が到達した3月15日、村には国からも県からも何の知らせもなかった。地震の被害がほとんどなく、海からも遠い村人6000人は、自分たちの故郷の村が被災地だという自覚もなかった。
海岸部の南相馬市から放射能を恐れて避難してきた人たちが小学校に寝泊まりすると聞いて、ワンボックスカーに研修所の毛布や布団を積み、小学校の体育館との間を忙しく行き来した。3月15日午後は雨だった。そして翌日雪になり、地面に降り注いだ。村人はずぶ濡れになりながら避難民のために物資を運び、炊き出しをした。放射能の雲から降る雨や雪の中を。
伊藤さんのいる場所は、福島第一原発から33キロ離れている。電気が止まり、テレビニュースは見ることができない。が、20キロ圏内が立ち入り禁止になり、30キロ圏内が屋内退避区域になったことを知った。どちらも村は外れていた。政府や学者は「ただちに影響はない」と連呼していた。それ以上気にしなかった。
村人が異常に気づいたのは、3月19日から20日にかけてだ。村のほうれん草から、続いて村内の上水道の水源から高濃度の放射性物質が検出された。皮肉なことに、水源は、村内でも第一原発寄りの山にあった。
「水を飲むな!」
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