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参院自民党役員人事の内幕:その3

2011年10月21日:パート2

 「一太さん!なぜ、参院自民党の役員ポストにそこまで執着したんですか?いつまでゴチャゴチャ言うのは、山本一太らしくないじゃないですか!」 こういうことを言う人々は、参院自民党改革に対する自分の思い入れの深さを理解していない。 10数年に渡る孤独な戦いの歴史を知らない。 

 新しく参院に入って来たひとたちは、派閥と長老に完全に支配され、自由でオープンな議論もなく、個々の議員が発言と行動の自由を奪われて個性(=発信力)を喪失し、選挙の度に議席を減らして来た「参院自民党の暗黒時代」を経験していない。 16年前に参院議員としてデビューした数ヶ月後に行われた自民党総裁選挙で村上正邦幹事長(当時)と衝突した。 そこでボタンをかけ違って以来、参議院議員・山本一太はずっと参院の非主流派として、旧来の政治手法と古い政治文化に異を唱えて来た。 参院の2大実力者だった村上氏と青木氏に、真っ向から逆らい続けて来た。 

 村上氏も、青木氏も、今、考えると、スゴい政治家だった。 が、彼らの考え方は時代に逆行していると思っていた。 「こんなことをやっていると、自民党は滅びる!」と公言していた。 村上時代も、青木時代も、非公式な場では、「あなたの言うことは正しい!」という議員はいた。 が、しかし、公然とこの2人を批判する議員は、自分以外にはいなかった。 いつも、たった1人だった。 世耕弘成という「恐るべき政治家」が山本一太の影響で不良になり(笑)、参院自民党を変えるための戦列に加わってくれたのは、つい、4、5年前のことだ。

 異端児扱いされながらも、参院の主流派に頭を下げなかったのだ。 当然、政府や院、党の役職は最後に回された。 派閥の会長には、目の前で「出て行け!」と罵倒された。 実力者の茶坊主たちとは、何回も大ゲンカをした。 信義に厚い安倍総理が何度か山本一太の抜擢を試みたが、その度に派閥の長老や青木氏に阻まれた。 それでも、(重要ポストには縁がなかったが)恐らく他の参院議員の誰よりも、のびのびと、生き生きと政治活動を続け、ここまで生き残った。 つまらない政治家にならなくてよかった。 心からそう思っている。

 ある時から、参院改革は政治家としての使命だと感じるようになった。 当時、所属していた派閥の先輩議員から、「いっちゃんなあ。君なんて、まだ若いんだから。少し大人しくして派閥の事務局長をやっていれば、うちの派閥が主流派になった時に、参院からの官房副長官になれるよ。自重しなさい!」とアドバイスされた。 が、従わなかった。 ある意味で言うと、この16年間、参院自民党を変えるために、全てのポストを犠牲にして持論を貫いて来たと言う言い方も出来なくはない。 

 様々な失敗を繰り返しながら、それでもあきらめなかった。 じっと「反転攻勢」のチャンスをうかがっていた。 すると、苦節15年目(笑)にして、「千載一隅の機会」が訪れた。 政権交代への幻滅が広がって、野党自民党が参院選挙で復調し、最も国民の感覚に近い18人の新人議員が誕生した。 その3年前には、西田昌司氏や丸川珠代氏を含む「独立心の強い参院自民党の新人類」も出現していた。 参院選挙が終わり、主戦場になった参院で自民党が変わらねばならないという機運も、盛り上がっていた。 そこに、議員会長の任期が切れるというタイミングが重なったのだ。

 「参院のリーダーを決めるためのオープンな選挙をやるべきだ。派閥談合で決めたら、自民党は今度こそ、国民から見放されてしまう!」 同じ危機感を持つ5人の同志と、派閥連合を打ち破るための候補者探しを始めた。 その時、中曽根弘文氏から、1本の電話がかかって来た。 「一太さんたちの動きは聞いた。脱派閥、脱長老支配の参院自民党を変えるために、改革の先頭に立つ覚悟がある。私が立ちたい!」と。 そこで仲間を説得し、必死で中曽根氏の推薦人を集めた。 会長選挙はもう無我夢中だった。 絶対不利の前評判を覆して、中曽根候補が会長に選ばれた。 いわば、「小さな奇跡」だった。

 奇跡的に(?)誕生した中曽根新体制で、参院政策審議会長に任命された。 ハッキリ言うと、与党時代は、大臣待ちの「飾りポスト」だった。 その証拠に、総務会の執行役員でもなければ、役員会の正式メンバーでもなかった。 本部の政調の幹部としても、まともに位置づけられていなかった。 独自の記者会見もなかった。 マスコミ関係者は、誰もマークしていない役職だった。

 それでも、やっとのことで「参院自民党を変える」ための力を授かったのだ。 本気でやろうと思った。 「これまでの発想に囚われず、発信する新しい政審を作って欲しい!」という中曽根会長の言葉を胸に刻んだ。 参院政審という組織をランクアップするために、1年間、一生懸命、頑張った。 

 その結果、参院政審会長が、初めて自民党役員会の正式メンバーになった。 自民党10役会議の席も(かなり強引に)ゲットした。 総務会でも参院幹事長の隣に席を作ってもらった。 50回近くを数えた政審会長の定例記者会見は、参院幹事長会見より集まる記者の数が多くなった。 ニュースや記事になる頻度も、明らかに勝っていた。 記者クラブには、「政審会長」というランプが新設された。(笑) 画期的だったのは、参院政審会長が、自民党全体の政調会長代理を兼任することになったこと。 石破前政調会長との話し合いで、「参院先議の法案は、政審の了承がなければ政策会議に行かない」というルールも決めた。 このことで、政審の審議の重要性が飛躍的に高まった。

 1年経って、ようやく政審のポジション(存在感)を確立したという感触があった。 政審会長として、やらねばならないこと、やりたいことが山ほどあった。 2年後の戦いに向けて、参院自民党の発信力を高め、かつ個々の議員の発信をサポートするための具体的な戦略もあった。 自分が政審会長でなければ出来ないと思うプロジェクトも抱えていた。 政策発信に関しては、いわゆる3派の人々にも活躍してもらえるメカニズムを作る自信があった。 これから様々な政審のチームを立ち上げていくために、個々の議員の考え方や質問力も分析していた。 各委員会における自民党議員の質問内容のメモは、睡眠時間を削って読んでいた。

 「よし!あと2年あれば、これもあれも実現出来る!」 そう考えていた矢先に、1年前に(仲間と力を合わせて)死に物狂いで参院自民党のリーダーに押し上げた中曽根議員会長から、突然、「申し訳ないが、政審会長を外れて欲しい!」と言われたのだ。 しかも、その理由について、明確な説明はなかった。 そりゃあ、誰だって、ガッカリすると思う。(ため息X100) 

 10数年に渡る戦いを思い出して、ブログで「政審会長を続けたかった。初めてポストにこだわった」とつぶやいても、不思議はないでしょう?! 「辛かったし、悲しかった」という言葉が並んでも、そんなに我が侭じゃないでしょう?!

 あ、お湯が沸いた。 熱いほうじ茶を飲み、少し指を休めてから、ブログの続きを書く。     


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