五度目にて終焉を迎えたはずの聖杯戦争。
だが今、それが冬木から遠く離れた地スノーフィールドにて行われようとしていた。
偽りの聖杯戦争。
金色の王と赤い肌の少女は、偽りと知りながら我を通すためだけに全てを賭ける。
毒気の無い魔術師は姿の無い殺人鬼と旅を始める。
名も無き娘は厚い信仰を持って己を疑わずに進み、吸血鬼は嗤いながらはそれを追う。
人間の手で英霊を打ち倒さんとする警察官と英霊は物語を描き出す。
災厄と少女は、周囲を巻き込み夢を見る。
心を得た泥人形は、気高き狼の傍らに人の姿で立つ。
六組のマスターとサーヴァント。
アーチャーに、バーサーカー、アサシン、キャスター、ライダー、ランサー。
クラスが一つ欠落している中、各々は動き出し、戦争の幕を開けようとしていた。
だが、その間際、聖杯戦争は、その人物を招き入れた。
偽りの戦争を導き、終わらせる者を。
◆
それは半日前のこと。
この街、スノーフィールドを訪れた私は、街の入り口にあったドラッグストアに入り、平屋の安いモーテルでもないと尋ねかけた。
すると、そこで店番をしていたモヒカン刈りの男が近くのモーテルの場所を教えてくれた。
外見とは裏腹にフレンドリーな調子で、近くに同じ値段のホテルがあるとも教えてくれたが丁寧に断りを入れた。
ホテルにはおそらく入れない。
男は不思議そうな目でこちらを眺めていたが、やがて両手、そして首筋を見て
『へい、いかしたタトゥーだな』
と呟いたので、私は適当な愛想笑いを浮かべて店を出た。
そして、今は教えてもらったモーテルのベッドで横たわっている。
安いモーテルの為か、寝心地が言い訳ではないが、それでも体重を預けられ、気を休める程度は出来た。
目を瞑り、深呼吸。
まだ陽が高く昇る昼間。
故に部屋の電気は付けていないのだが、閉まりきっているカーテンが陽の光を遮り部屋を陰らせている。
おかげで、目を瞑れば闇とは言えないが光を感じるとも言い難い、なんともぼんやりとした微妙な状態になるのだ。
右手を天……明かりの灯っていない天井に向かって掲げた後、ゆっくりと瞼を開くが、眩しくも無い。
視界は通常に機能し始め、右手の甲に浮かび上がっている文様が目に入る。
右手だけではない。
左手にも、両肩にも、そして背中に同じ文様がある。
どこか神秘的で、どこか呪いの様な禍々しさを感じさせるそれは、令呪と呼ばれるものだった。
……おそらく。
かつて冬木の地で行われていた聖杯戦争における、マスターの証であり、サーヴァントと呼ばれる英霊を従わせる事を可能とする印。
そして、聖杯戦争とは、およそ二百年前から冬木で六十年周期で繰り返されていた大儀式で、あらゆる願いを叶えるという聖杯を手に入れる為に、聖杯に選ばれた七組のマスターとサーヴァントがその技を競い合い、殺しあうというもの……らしい。
詳しくは知らないが。
いや、詳しく知らないどころか、あらましだけでも理解している事自体が不思議かつ不気味で適わない。
何故、私にこんなモノがあるのか、そもそもどうして私はこれが何かを知っているのかも分からない。
私にあるのは知識のみ。
どうやってその知識を蓄えたかという過程、つまり記憶が無い。
真っ当に覚えているのはと言えば、今から五日程前にアメリカに来た時ぐらいからで、それまでの記憶はほとんど無い。
覚えていない、分からない。
自分が何者なのかさえも闇の中。
どこで産まれて、どのように育ってきたのか。
どんな人間だったのか。
男なのか、女なのかさえも、身体を確認してみないと自覚できない程。
……まあ、鏡を見るに、どう見たって男なのだが。
黒髪で顔立ちは東洋形。
年は十代後半から二十代半ばと言ったところ。
見ればなんとなく分かる。
分かるのだが、どうにも馴染まない。
つまる所、自分が男であるという意識すら曖昧で、もしかしたらこれは偽りの姿なのではと疑ってしまう程、自己を確立させる記憶が無い。
まるで虚ろ。
約五日を過ごした結果感じたが、記憶が無くても別に、これと言って不都合は無い。
むしろ普通に生活するにあたって必要な知識は十分にあり、それに加えて魔術やら聖杯やらといった非現実的な知識まである始末。
空っぽな記憶と釣り合わない豊富な知識、それが私にはある。
一体自分な何者なのだろうか……それが知りたくて私はこの街まで来た。
五日前、日本の冬木の街で意識を覚醒させた私は、記憶を失っていた事で錯乱でもしていたのか、異常なまでの恐怖心に襲われ、逃げるように街を飛び出した。
そして、気がつけば飛行機に乗っていて、数時間後にはアメリカ。
どうやって乗ったのかも覚えていなく、後で気がつき確認した時にはパスポートは無かった。
おかげで、名前も以前分からぬまま。
宛ても無くぶらぶらと異国をさ迷い、わずかにポケットに有った金でラスベガスまで辿り着いたのが三日前。
その日、そこで、あの不思議な、この令呪を押し付けて来た女性に出遭った。
偶然なのか、必然なのか。
どこか見覚えのある、幼さが残る顔つきの、白髪白肌の女性。
『五度目の戦で起きた、全ての結果を覆す。犠牲も含め、全ての結果を無に返す。その為に、我らは……偽りの聖杯を手に入れる』
その女性は、そう言った後、
『ここから北にあるスノーフィールドという街に向かいなさい。そこで、あなたが何者なのかも分かるはずだから』
それだけを言い残し姿を消した。
押し付けられた令呪、五度目の戦、聖杯……それらの単語が耳に届くと同時に、知識が脳から引きずり出された。
おかげで、それらが何なのかは理解出来た。
理解出来た……が、何故こんな状況になったのかは理解出来なかった。
令呪は一人でいくつも持つモノだっただろうかだとか、聖杯戦争が行われるとしたらあと数十年後なのではないか……などなどと余計でどうでもいい疑問が浮かぶだけで、困惑は深まるばかり。
私は聖杯戦争の関係者か何かだったのだろうか。
その為に冬木にいたのだろうか。
悩みに悩み、疑問が溢れる。
もちろん、何一つ答えは出ない。
これから私はどうするべきなのだろう。
そんな風にふらふらとラスベガスを無意味に無作為に歩いた。
時をただ浪費しても、やはり答えは出ない。
このまま令呪など知らないフリして、白の女性の言葉など忘れて、どこかへ去ってしまうのが適切な選択なのかもしれない
けれど――夜が来て、私はスノーフィールドに向かう事を決意した。
自分が何者なのか分からない、というのは私にとってそれだけで不安になる材料であり、夜になるとその不安は一層増すのだ。
夜が怖い。
理由も分からず、ただただ身がすくむ。
そして、理由も分からず恐怖している事そのものに恐怖を覚える。
結果、記憶のある五日間の間、夜に寝た事はない。
昼間など明るい時にしか意識を手放せない。
おまけに、私は大抵のホテルに入れない。
理由はこれまたわからない。
ホテル……いや、ホテルに限らず、私はエレベーターを見ると足が動かなくなるのである。
それ以上先には行ってはいけないと、記憶の無い脳が警告してくる。
ただでさえ持ち金が少なく選りすぐりが出来ないというのに、これでは休む所を捜すのも一苦労だ。
そもそも、このまま逃げると言っても、どこに行けばいいという。
行く宛など当然無く、何日も過ごせる金も無い。
……詰まる所、私に選択肢など最初から無かった。
何日悩んでも、迷っても。
ならば気負わず、ダメモトで、旅人気分でいよう。
目的地であるスノーフィールドは、聖杯戦争だなんて厄介事とは関係無く、それでいて記憶の手がかりとなる場所。
ただ、それだけだと自分を自分で言い聞かせた。
そうして、私はこの街に到着し、足を踏み入れた瞬間――その誤魔化しが崩れる音が聞こえた。
露出した肌は、寒いだとかそれ以前に他の地とはどこか違う空気を察しって、所謂鳥肌を立て、令呪のある右手が熱く、そして光を帯びて輝きだした。
同時に襲い来るのは頭痛。
そして、声。
何を言っていたかは聞き取れなかったが、女性の声だった。
朦朧と仕かける中、私は一切の集中力を注いで、その声に耳を傾けた。
他の何よりも、それが優先すべき事項だと本能が告げていたから。『……時は来ました。今、聖杯戦争が幕を開けました』
よく精神を研ぎすまして聞いてみると、その声は耳を通さず、直接脳に響いていると感じた。
次は何だ、何が起こる……と、視覚も聴覚も働かさずに、その場で停止し、呼吸すら忘れて立ち尽くしていたのだが――声はそれ以降聞こえなかった。
あれは気のせいだっただろうか、私の恐怖心が生み出した幻聴というやつだったのだろうかと、モーテルのベッドで横たわりながら思い返す。
せっかく、やっとの事でベッドにありつけたというのに、脳は休もうとせず、働き続ける。
聖杯戦争とは、その名の通り戦争だ。
下手したら、いや、よっぽど上手くしなければ確実に命を落とす。
自分の正体が知りたいとはいえ、命をかける覚悟は無い。
死ぬ気は無いのだ。
「まあ、聖杯戦争とやらが起きようと、冬木に戻らなければ巻き込まれないだろう」
ここはアメリカ。
聖杯戦争は起き得ない。
不安の消え去らない私は、そう再び自分を言い聞かせて、楽観的に、前向きに振る舞おうとする。
この独り言は、一種の自己暗示だ。
頭の中だけで考えているだけでは足りず、しっかりと言葉にする事で、それがいかに根拠が無く、論理的で無くても、納得出来る気がして来る……そういうものだ。
さて、寝れないのなら気分転換に外にでも出て、観光でも始めるか――と反動をつけて、起き上がろうとした時、
付いていた右手が再び熱と光を帯び、脳に刺激が走る。
『残念ながら、今回の聖杯戦争はここスノーフィールドで行われます。加えて、あなたは既に巻き込まれています』
紛うことなく幻聴。
勢いが削がれて、上げた足から身をベッドに落とした私は、気休めにも両耳を塞ぎ、目を瞑り、深呼吸。
仕切り直し。
「さて、外に行こう」
『現実逃避しても無駄ですよ。それに、そんな風に全身に令呪を纏っている状態で外を出歩いていたら、普通に狙われるでしょうし』
聞こえなかった、何も無かった、と装って外に出ようとしたが、命を脅かしそうな危険な言葉に、それも止めた。
聖杯戦争がここで?
冬木じゃなくて?
自分の知る知識とは明らかにズレがある。
非常識な知識でも、その有り得ないに私は飛びつこうとした。
……だが、現実逃避は叶わず、疑いの連鎖。
令呪があって、聖杯戦争が起きる。
それは、すなわち――私がマスターだとでもいうのか?
『いえ、今回の聖杯戦争におけるあなたの役割は、欠けているクラス、セイバーの代理です』
「……は? セイバーの代理? 私が?」
幻聴。
そう決め込もうとしていたのに、思わず反応してしまう。
『はい、その通りです』
「ちょ、ちょっと待った!? セイバーってサーヴァントだろ。なんでそれを私が代理するんだ」
おかしい。
有り得ない。
そう、記憶の無い私は、数少ない手がかりである記憶を頼りに否定する。
それが間違っているのなら、何を信じていいのか、いよいよ分からなくなってしまう。
『あなたが適任だというこの地の聖杯の選択です。あのままでは六体のサーヴァントのみで始まるところでしたから』
「……だったら、七体目を召喚すればいいだけじゃないか」
『それが、この地の聖杯ではまともに聖杯戦争に参加できる七体目のサーヴァントを召喚できないんですよ。不完全とはいえ、組まれた大本のシステムを書き換えることは、そのシステムの一環である聖杯には出来なかった。ですが、聖杯とて出来るだけ完全な状態で儀式を行おうとした。その結果が、あなたによる代理です。理解できましたか?』
「出来るわけ無いだろ」
淡々とした長ったらしい説明に、苛々としながらも全てを聞いた上での即答。
何故、代理が私という事になるかがまるで説明されていない。
ただの人間が英霊の代理だなんて聞いた事無い。
……記憶は無いけど。
『ですから、適任だったからとしか』
「……そもそも、あんたは誰なんだ? テレパシーだかしらないが、言いたい事があるなら姿を現せ」
『私は……あなたと聖杯戦争を繋ぐ中継役の様なモノです。ルーラーとでも呼んでください。あと、私は実体化どころか霊体化も出来ないので、姿を現すのは無理です。こうして会話するのが精一杯だと。まあ、方法が無いわけでもないですが』
……一体、どっちなんだ。
「だったら今すぐ――」
『それはすなわち聖杯戦争への参加の了承と言う事でいいですか?』
「いいわけあるか!?」
さっきから話が次々と跳んで行き、付いていけない。
『ですが、サーヴァントを召喚すると言う事は参加する事と同意ですが?』
「だから――って、今何て?」
『私が姿を現す、サーヴァント召喚、いこーる聖杯戦争参加。こんな感じです』
「あんたは……サーヴァントなのか?」
『まあ、召喚されれば』
「でも、さっきサーヴァントは召喚できないって……」
『先程は、まともに召喚できないと述べただけです。召喚自体は不可能ではありませんよ?』
……こいつと会話をしていると血管が千切れそうになるのは何故だろう。
穏やかな口調なのに、苛々する。
『あなたの持つ五つの令呪は、他の方達の令呪とは役割が違います。その令呪は、私の様にあなたと繋がった英霊を一つあたり三十分程召喚できます。召喚できる英霊の数は、令呪と同じ五体です』
「……一体たったの三十分?」
『はい。システムの隙間を縫って何とか』
顔の見えない声の主、ルーラーが応える。
確かに、それじゃあ聖杯戦争のサーヴァントの一柱を担うには不適応だ。
開始早々に脱落してしまう。
その事は、大まか理解できた。
だが――
「何故私なんだ?」
何度も何度も同じ事を問う。
私はどうして聖杯戦争なんてものに巻き込まれなければならない。
私は一体何者だというのだ。
『……あなたが適任だったから。それ以外に私に答える術はありません。私は……ただの中継役ですから』
気のせいだろうか。
相変わらずの淡々とした言葉に、申し訳なさそうな感情を感じた。
「……私は自分が何者か知らないんだ」
あるのは知識のみ。
記憶なんて呼べるものは、ほとんど無い。
「ただ、ここに来ればそれが分かると言われたから来ただけなんだ」
そんな状態で一人でいるのが怖かった。
夜になると特に。
誰かが私を殺しに来るのではないかと訳も分からず疑心暗鬼にもなったりした。
「なあ、ルーラー。私はこの聖杯戦争に参加すれば、答えを得られるのか?」
答えを知りたい。
自分が何者なのか。
ただそれだけ。
『分かりません。ただ、あなたが選ばれたのは意味がある……そう、私は思います』
意味がある。
私が令呪得たのも、この地に訪れたのも、セイバーの代理に選ばれた事も、ルーラーと出遭った事も、全て。
そう、私も信じていい気がした。
なにより、逃げ出そうにも宛が無い。
これが唯一無二のチャンスなのかもしれないのだ。
これを逃していけない。
そう思った。
「……分かった」
覚悟は決めた。
拳を握り締め、前に差し出す。
私は聖杯戦争に参加し、私は答えを得る。
セイバーの代わりだかしらないが、やってやる……と、熱と光を持つ右手の令呪に誓う。
『……まあ、あなたの覚悟があろうと無かろうと、既に参加済みなんですがね』
脳に響いた声は無視して。
今、偽りの七体目の参加が正式に決まり、聖杯戦争は動き出す。