最近、魔に負けてると感じる事が多々あったのですが、昨日、お寺の支部会合での御尊師さまのご指導で、勇気を頂きました。
魔に負けてると言うのは、基本である朝晩の勤行唱題がきちんと出来ていないから。
しかし、己心にせよ外部にせよ魔がきそう時こそ、確信を持って信心修行に励むべきと。
「魔、きそわば正法と知るべからず」の御金言の通り、魔がきそうと言う事は、正法の証だからです。
魔(障り、障害、邪魔、寸善尺魔)を打ち破って信行に励めば、必ず結果は出る。

思えば、勝手に御本尊を作ってよいとする創価学会の邪儀の”魔本尊”を拝む人が800万人もこの国にいるのかと思えば、魔が強くない訳もないし、三災七難が涌き起こるのも道理でしょう。
800万人もの悪鬼入其身の輩がこの国にいるのです。ある意味、哀れですらあります。なんとか救いたいものです。多分、罰の現証が出ない学会員は、破門前に積み上げた善根が残っていて、それが、かろうじて助けている。しかし、20年の時が過ぎ去り善根が消え去った人は、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)の苦しみに沈む日々のはずです。

創価の会館が、津波に呑まれたにもかかわらず、20数名の避難者がぎりぎり水につかりながら助かったらしく、それをもって、宗教の民衆救済の使命を果たしたから、諸天の加護が無く波に沈んだ事は「だからどうした」とコメントした学会員がいました。
勿論、人命の救助は大事です、宗教も関係なく。
しかし、避難した人々を救った建築物は数多く存在します。人々を救った宗教と関係の無い建築物は、宗教の加護があったと言えるのでしょうか?関係ないのが事実です。
私は、その宗教が正しく諸天善神の加護があるのなら、個々人の信仰レベルと関係無い、宗派を代表する宗教施設がご近所も含めて被害に遭わない、津波の場合、波に呑まれない、と言うのがご加護があったと言える現証だと思います。その意味では、気仙沼市の福量寺は本当にすごいとしか言いようがありません。ご近所を含めて波に呑まれていないのですから。

話しは変って、富士大石寺顕正会が活発に折伏活動をしているようです。ご近所の方からの情報では、女子高生を使って、男子高校生をお茶に誘い、行って見ると幹部が待っていたとか。よくあるパターンです。
彼等の教義を調べてみると、正直、あからさまに”?”と言う事が多々あって唖然としてしまうのですが、創価学会よりは一貫性のある主張をしているので、破折はポイントを絞れば簡単のように思います。

それよりも極悪なのは、やはり創価学会。
本日は、学会の姉の所へ折伏に行きましたが、学会がおかしいのは解っている、しかし学会で良いとの主張でした。勿論、門前払い。帰れ、もう来るな、との事。常不軽菩薩品の通りでした。これが、日蓮正宗とか御本尊などの話でなく、世間話であれば聞くというのですから、経文通りですね。不思議です。
明確に、創価は、ニセ本尊の交換の際に正宗の御本尊を集めているのに、一体も御宗門に返却していない。捨てたという事です。ニセにしろ、正真の御本尊であるにしろ、本尊を捨てると言う団体に、御本尊に対する信仰があるのか?そう伝えました。

誰が作っても良いとする御本尊を、御宗門の本尊だから捨てました。。。。誰が作っても良いのなら、正宗の御本尊も、御本尊ではないですか。それを捨てるとはどう言う事だ!!!
この論理倒れのキチガイの発想が正しいとしても、やっぱり創価学会は大謗法の団体が確定します。
御本尊を捨てたという、前代未聞の大謗法を犯してしまった創価学会は、無間地獄が決定(けつじょう)しています。恐ろしい。せめて、御宗門にお返しするのが常識だと思います、それを捨てるとは。

創価学会は本当に、怒り、嫉妬、妬み、愚痴、貪り、弱者への侮り、優越感、劣等感、本当に、三悪道、四悪趣を現じていますね。

それに、正しいと主張するくせに、慈悲心のカケラも無く、法華講に入講した私を折伏に来ない。折伏しようとも思わない?地涌の菩薩が聞いてあきれる。
まあ、姉や親に慈悲心があれば、もう来るなとか、帰れ、など言わず、必死に私を破折して説得するだろうに。
正しいという自信も、信仰心もなく、ただ単に日蓮正宗法華講を恐れている。
何を恐れているのかはわかりませんが、創価ガッカリは法華講をやたら恐れていますね。

しかし、諦めずに、何度でもアタックしますよ。