日本におけるジャーナリズム
よく知られていることですが、
中国では日本のメディアが中共にとって都合の悪い報道をすると、
国内にある支局を閉鎖させられるというペナルティを受けます。
これによって日本のメディアは、ウイグル問題や、支那の
核開発、チベット
の虐殺などについて、
ジャーナリストとしての厳しい報道もできなければ、意見をすることもできなくなっています。
驚くべきことに、同様のことが、日本国内にもあります。
国会です。
よく「記者クラブ」という言葉を耳にすると思いますが、メディアの記者は、どこの新聞社の記者でも、
どのテレビ局の報道陣も、直接は国会内にはいることはできません。
彼ら記者や報道陣は、全員、国会議事堂の外にある「記者クラブ」にいったん所属し、
そこから「通行証」をもらってはじめて、国会議事堂内に立ち入ることができます。
そして取材した記事は、記者クラブによって一定の検閲を経て、
そこではじめて自社に持ち帰ることができる。
つまり、記者クラブを経由する時点で、すべてのメディアの報道には、一定の規制がかかるのです。
信じられない話ですが、これは本当のことです。
そして、その「記者クラブ」は、もともとGHQ
が作ったものです。
戦前は、大手新聞社を筆頭に、各社は国会内に「両院記者会」という記者たちの詰め所があったのです。
そこで各紙の記者は、自由に取材をし、各社毎に意見を付けて報道していました。
同じ「私は実現したいと思う」という大臣の発言でも、それを額面どおりに「実現する」と受け取るか、
「思う」だけで実現の意思はないとみるか。
そこが各紙の腕の見せ所となり、それぞれの新聞社は独自のポリシーや、信念に基づいて、
その報道を世に問うていた。
実は、我が国におけるジャーナリズムの歴史は、西洋よりも古く、
いちばん古い「かわら版」は、なんと家康が大阪城を責めた大阪冬の陣を報道したものが、現存しています。
すでに戦国時代には、「かわら版」はある程度の普及をみせていたのです。
識字率が高く、森林資源が豊富で紙と筆が普及していた日本ならではの、これは事実です。
明治維新のときの上野のお山の彰義隊の戦いも、広く報道され、
西南戦争では、従軍記者が詳しいレポートを書いている。
福沢諭吉も、独自に新聞を発行し、慶応イズム
を広く全国に普及した実績をもっています。
そして明治に入り、活版印刷が普及すると、それまでの「版画」を利用した新聞は、
いっきに紙面の文字数を増やします。
そして「社会」や、「人民」「共和」といった、当時としてははじめての言葉も、造語として広く世間に普及します。
当時の新聞社には、各社に明確なポリシーがあって、
「単に事実の報道にとどまらず、
是非善悪を、高い次元、高い道義をもって判断し、
善なるものはこれを宣揚し、悪なるものはこれを糾弾して世論を喚起する」
という強い使命感を持っていました。
政治家は利権で動くことがある。
しかし、ジャーナリストは、真実で動く。
まさにこれこそジャーナリズム精神そのものです。
そうした骨太な新聞社やマスコミは、戦後のGHQによって、日本の急所である国会取材を
人質に取られることによって、急速に左傾化します。
しかし、ただ一社、GHQ
に頑強に抵抗し、ポリーシーをつらぬいた新聞社がありました。
──────────
「やまと新聞社」です。
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やまと新聞は、明治から大正にかけて、発行部数全国一位にもなった、戦前の大手新聞社です。
1000人を超す社員もいた。
GHQ
は「GHQ
の指示に従わないのなら、国会議事堂以外でのいっさいの取材を禁じる」と、
やまとに圧力をかけます。
そして頑強に抵抗を続けたやまと新聞は、
いまだに国会議事堂内の「両院記者会」に陣取っている代わりに、
国会外での一切の活動を禁じられます。
そしてこの新聞社は、爪に火を灯すような耐貧生活を続け、ようやく平成20年4月、
GHQ
の呪縛から解放され、世間にでることができるようになりました。
戦後、63年目の出来事です。
やまと新聞では、ほんの15年前まで、文字のハンコを一文字一文字ずつ拾う、
活版印刷機を使っていたそうです。
ワープロやパソコンなどという便利なものを買うだけの余裕がなかったのです。
それでも、新聞社としてのポリシーを守りぬいたやまと新聞社。
みんなのチカ
ラで、守って行きたいものですね。
≪関連記事≫
やまと新聞を守れ!
↓ ↓
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-850.html
≪やまと新聞社ホームページ≫
↓ ↓
http://www.yamatopress.com/
・・他の大手新聞社が、社の存続のために、
GHQ
に迎合した、GHQ
の気に入る記事だけを書くように社の姿勢を変化させる中で、
断固GHQ
に対抗した≪やまと新聞≫は、もはや取材も、新聞の発行も、国会議事堂内だけでしか許されない。
そして発行部数は、国会議員とその秘書たちへのもの、わずか1000部にまで減少してしまう。
そうなると社の収入なんか、たかが知れています。
それでも≪やまと新聞社≫は、歯を食いしばって頑張ります。
貧乏にも耐えた。
社の理念を失うことは、生活が困窮するより辛かったのです。
・・・平成20(2008)年になって、そんな≪やまと新聞社≫の窮状を見かねた安倍元総理と、森喜朗
先生が、
いくらなんでも、もうそろそろGHQ
の課した制約から≪やまと新聞≫を解放してもよいでしょうと、
≪やまと新聞社≫が、国会外で活動することを許可してくれた。
それでようやく、なんと戦後63年目にして、
やっと≪やまと新聞≫は、国会議事堂の外での営業活動ができるようになったのです。
・・・、≪やまと新聞≫は、創業の精神を失うことなく、また、左傾化した記者クラブの圧力を受けることなく、
議会から直接取材した情報を国民に届けてくれています。
最近では、ネットでの配信も行うようになりました。
いま、≪やまと新聞≫は、月わずか500円の購読費で、会員制で購読できるようになってます。