Please bear all this in mind, if you will, in the momentous days which lie close at hand.
胸に手をあててよく憶えておいてほしい,我々の目の前に大きな出来事が差し迫っているということを。(故クリストファー・ストーリーと管理人の共同宣言)
神の御用としてクリストファー遺族への寄付としての振込みは一口3000円から有難く申し受けいたします。管理人口座へお振込みいただいた分は14日クリストファーへの口座にすべて移しました。なおクリストファー口座は寄付と言う神聖な行為なので神の御用として神父さまの厳正な管理下にあり管理人は引き出すことはできません。。従いまして返金作業は終了いたしました。その神父さまが来春英国への出張のさいご遺族へもって行っていただきます。拝
スルガ銀行下田支店
普通2952838
クリストファー・ストーリー
皆様からのご誠意をお待ち申し上げます。神の祝福があることでしょう。これは固定記事として当分の間掲載いたします。
114
2011/10/19
3.11当時はアクセスが二日ほど32000,その後徐々に減り今は5000を割り込みました。大変好ましいことです。いずれ750くらいに収まればと期待しております。神の御用が最上段にあるせいでしょう。チャンチャラおかしいと思っている人はもちろんのこと『灯に群がる蛾』のような人も多くいるようです。コメントをくださった方はメアドを残されております。新手の詐欺商法のメールが入るかもしれませんので決して開けないように 。ナイジェリア詐欺団の日本語版ですので迷惑メールに登録しておいてください。管理人のメアドには一日20件くらい入っています。ここの管理人は悪を熟知しておりますので問題ありませんが他の方はご注意ください。
開けてはいけないのは「ハートステーション」「NPO法人・JLS支援会」「Angel Heart」「new-oshirase-receive」「info@9zzpty.infoなど4種類でinfo@で始まる」
ラサからカイラスまで
稲盛和夫氏の「君の思いは必ず実現する」財界研究所発行のことを過去ログで記事にしました。
生まれた時から仏門に入るまで,とくに最後はお釈迦様の六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・知恵)の説明もある。漢字にはふり仮名がしてあり,有機化学と無機化学などの違いも丁寧に注釈してある。これ一冊で若い人は充分でしょう。ある方が自分の家を担保に入れてまでお金を工面し若いころの稲盛さんが会社を設立する際の資本金となった話は.......
『逃げ出さずにひたむきに努力と工夫を続けていると,ふと自分の背中を押してくれるものが必ずあるのです。それこそが,みなさんの心の深いところにある良心から出た魂の叫びなのです。』とご本人が書かれているようにこれが「ヨブへの答え」にもあるパラクレート(助け主)なのです。慈光さんは言っています。『悪は正しい道への道しるべです』と。心が洗われますね。良心から出た魂の叫びとは全ての人に内在する神のことなのです。無財七施に反することばかりやっていると内なる神は弱くなりサタンが力をつけてくるということでしょうか。とくに忍辱(にんにく)とは他人の悪口や,批判,中傷などの苦難に耐え忍ぶこと。それに対して腹を立てたり,怒ったり,恨みを持たないこと。怒りが人間を支配してしまうと,えてして大きな間違いを起こしたりすると稲盛さんは言っていますが怒りが人間を支配する=内なる悪魔が騒ぎ出しその人を支配するは本当でしょうね。
ルシファー(魔王)に騙されて,天国から落ちた者たちもいた.....ルシファーはこう言って誘いをかけた。神はお前たちに善しか許さないが,わたしなら(芯まで嘘つきなので)善と悪の両方を楽しませてやれる。お前たちを心から愛する妻も与えよう。お前たちは互いに力を振るい,王侯や皇帝になる者もいるだろう。鳥で鳥を,獣で獣を狩ることも覚えるだろう。(カタリ派の祈りの言葉)(1)(グラハム・ハンコック著タリズマン上巻52ページ「善と悪が出会う場所」より。(管理人注:カタリ派は神と悪魔のCosmic Duality(二元論)をとる)
この写真は建国前のエルサレムにあるBab-es-Silsilehと呼ばれるものでHerod's Templeへの西の入り口の門である。反対側にある泉はベツレヘム近くのソロモン(管理人注:ソロモンはダビデとバテシバの間に生まれた二人目の子ども)の池からの水を水源とする。この門の左はダヴィデ街でありエルサレムで最もにぎわいをみせる。
重要な徴は『エノク書』における「人間の息子」の出現である。それより前にすでに『エゼキエル書』において「人間の息子」という呼び名がはじめて登場するし,ダニエル(紀元前165年頃)は「人間の息子の如きもの雲に乗りて来る」のを見ている。エノク書では「人間の息子」エノクはつねに正義をもたらす者として強調されている。「人間の息子」が天の世界で活躍することは,一方では神が人間になりたがっていることを意味すると同時に,他方では人間も神の世界に関与することができるということを示しているのである。
エノクはイエスの先駆的形態であり,神が人間になるというイメージに対する心理的欲求が次第に高まっていることを示すものであった。それはあたかも神がしきりに人間になりたがっているかのようであった。受肉の準備を意味する現象としてユングが注目したのは,ソフィアの想起と「人間の息子」(管理人注:エノク)の出現であった。(ヨブへの答え その3より)
ヨブへの答え その1・オリーブの木
ヨブへの答え その2・全能者よ,私に答えよ
ヨブへの答え その3・知恵の神ソフィア
ヨブへの答え その4・神の非道
ヨブへの答え その5・教会の原理と精霊の原理
稲盛和夫の言葉から
「人生はツイてないことばかりが続くものではありません。いいことと悪い事が,交代でやって来るのが人生です。だから,これからの社会を背負って立つ若いあなたは,つらいことがあってもくじけないでください。苦しいときの努力は必ず後に実を結び,あなたの人生を豊かにし,またあなた自身の人間性を高めてくれるはずです」
「苦しいことやつらいことがあれば,その状況から脱出したい,と思うのが人間です。でも,現実には逃げようと思っても逃げられないことのほうが多いのです。不運であろうとも,不遇であろうとも,それに耐えて明るく前向きに努力を続けるのが人生です。わたしの人生は,そうすることで夢が実現していきました」
「若いみなさんの中には,いま目の前の問題に取り組み,一生懸命頑張っているのに,なかなか成果がでない,という思いを抱いている人がたくさんいると思います。しかし,もうこれ以上は絶対にできないというほど必死の努力をしてみてごらんなさい 。そこまで頑張れば,必ず神様の贈りものと思えるようなすばらしいヒントが見つかったり,あなたの努力を認めて助けてくれる人が出てくるはずです」
「道端に生えている雑草,名も知れない草でも,必死で生きています。そうした草はアスファルトの割れ目であっても,日が強く差す夏の暑い日であっても,カンカン照りの煮えたぎるような中で,狭さや暑さににも負けずに花を咲かせ,種を残そうと必死になって生きています。雑草一本でさえ,苦しみに耐えて,生きているわけです」
「子供たちにとって一番大切なのは,学校で何を学ぶかということです。それは創造性であったり,努力であったり,さらには人間としての生き方であったりするのでしょう。そのようなことを考えてくれるすばらしい人たちとの出会いを見つけて,ぜひすばらしい人生を切り開いていってください」
「人生では能力よりも熱意と考え方のほうがずっと大事です。たとえ能力が劣っていても,一生懸命に努力を重ね,人々のために何かをしたいと考える人のほうが,能力に優れているものの,努力もせず,人間として誤った考え方をもった人よりずっといい結果が出ます。ちょっと能力が劣っているからといってあきらめてはいけません。ひたむきな努力と正しい考え方はきっとあなたを大きく育ててくれます」
ぼくが感動した中のひとつに稲盛さんの会社である大きな問題が発生したとき,ある高僧が稲盛さんに言った言葉です。「それはしょうがありませんな,稲盛さん。苦労するのは生きている証拠です。災難に遭うのは過去につくった業(ごう)が消えるときです。業が消えるのですから喜ぶべきです。どんな業があったのかわかりませんが,その程度のことで業が消えるならお祝いせんといかんですなあ」稲盛さんはなぐさめてもらえると思っていたら,意外なことを言われたと述べています。
最も感動したのは次の言葉です。「一生懸命努力を続け,悩み抜いた後には天の啓示がある。目標を定めて,それに向かって努力しているとき,人はどうしたらいいのか,あるいは自分は正しいのか,といったことを自問自答します。しかし,なかなか答えが見つからず,途方に暮れることがあります。それでも逃げ出さずにひたむきに努力と工夫を続けていると,ふと自分の背中を押してくれるものが必ずあるのです。それこそが,みなさんの心の深いところにある良心から出た魂の叫びなのです。
注:業(ごう)とは〜この世に生まれてくる前世での悪い行いのむくい。雑草がアスファルトを突き破り芽を出してくるのは無限少の力と無限大の時間をかけて這い上がってくるのでしょう。感動的です。
天竺から慈悲の光を読まれた方からメールが入りましたので独断と偏見でご紹介させていただくと同時のこの方へのメッセージもありますので。
達人様へ
差出人: XX XX (xxxxxxxxxxx)
送信日時: 2011年10月19日 7:40:52
宛先: 達人 (jameslee@hotmail.co.jp)
ブログを拝見しまして、管理人様の右足切断の心配がなくなったことを知り、本当に喜びでいっぱいです。この度の、インドで修行をなさっている比丘尼様のメールから、こんなにも素晴らしい事が起きるとは何と嬉しいことでしょう! 勇気や希望が湧いてくるようです。
あそこまでの方でなければ管理人様の心を捉えることはできなかったでしょうし、ブログを支えにする人達を助けることもできなかったでしょう。
いつか、今までどおりの自由な足で、管理人様が薄幸の子供たちのために尽力なされるのは本当に嬉しい事です。私は右手の障害者ですがやはり、自由な身体でないといざというときに何かと人に迷惑をかけてしまうのが現状です。
管理人様と比丘尼様のやりとりを読んで美しい心に触れ、打ち砕かれていた私の心が力を取り戻したように思います。つい最近、9月半ば過ぎですが、お金と云うものと人の心の恐ろしさというものを思い知るような出来事がありました。何でも、カネ、金、カネなんだ・・・とショックで4日間眠れない日々を過ごしました。地獄の沙汰も金次第とはよく言ったものだと思います。ひとつの友人関係がなくなりました。
比丘尼様の言葉を読んでいて涙が自分の中を洗い流してくれるとともに、もの凄く心強いものを感じました 。この方のような人が居てくだされば、この世界はなんとかなるという気持ちです。この方の存在が有難いのです。なぜなら、悪魔の論理で動く者たちはお金という万能の力を持って、無力な人を殺しにかかっており、自分はその前にはなんの力もないからです。
強い精神力を持つことが必要でも、今回の震災と原発事故で、身を守るにも実際に必要なのはお金なのか、という感が強くありました。でも、そんな馬鹿な事があるか、という想いも強くあり、管理人様の以前の記事の『ヨブへの答え』を思い出し、パラクレートの助けしかない、と思い至ったのです。
比丘尼様の言葉、『私たちは、つながり合っていますから、一人勝ちは、できません。自分だけ幸せになることは、無理です。周りの人たちと共に、一緒に幸せになっていく。『自他不二』ーーーあなたの幸せが、わたしの幸せです。』・・・何と素晴らしい言葉でしょう。
いつか、管理人様はこの方のところに行かれるのだと思いますが、その時私の感謝の気持ちも少しお役に立てられれば光栄なのですが、今度お金を作りましたら、管理人様の銀行口座に比丘尼様への喜捨と備考に書いて振込みますので、まったくほんの僅かだと思いますが何かの足しに使っていただきたいのです。まだ、今用立てている途中ですので、 何日になるかはわかりません。
私自身、こうしたことを調べるようになったのは、サラのような子供たちのこと、いわゆる貧困に喘ぐ虐げられた人々の事が気にかかって仕方がなく、自分に何ができるかわからないけれど、とにかくこの状態はおかしいし、異常だから先ず調べてみようという想いがきっかけでした。自分がこうした真実を知ることができたのは、世界中で貧しさに苦しむ人々のおかげでした。
管理人様と比丘尼様とに助けられた人は多いと思います。比丘尼様にも伝わるでしょうか?
お二人に心からの感謝を込めて
XXXXさま
以前一度メールいただきまして今度は二度目ですね。管理人はまだ天竺(印度)へ行くことを決めたわけではありません。比丘尼さんが天竺のある場所で天命が整いしだい管理人などの後方部隊が支援をしていきたい,という考えです。管理人のような酔っ払いの変なおじさんが行ったらたいへんでしょうからね。
ところで喜捨いただけるとのことですがお釈迦様の「無財七施」の中に「愛語施」というのがございます。布施はお金や品物がなくても出来るのですよ。それは思いやりのこもった暖かい心をかけることで充分なのです。前の記事でもそういう方々のコメントがありましたね。あれはみな「愛語施」です。ですから今回はその暖かいお言葉だけ頂戴しておきますのでどうぞご理解していただきたいと思います。
>ショックで四日間眠れませんでした.....
これも無財七施の一つ.....
忍辱(にんにく) とは他人の悪口や,批判,中傷などの苦難に耐え忍ぶこと。それに対して腹を立てたり,怒ったり,恨みを持たないこと。怒りが人間を支配してしまうと,えてして大きな間違いを起こしたりすると稲盛さんは言っています。
>比丘尼様にも伝わるでしょうか?
もちろん,ここのブログをご覧になっていますから伝わりますよ。
管理人拝
山口百恵さんの確か「青い時」という本でしたか,随分前に読んだことがあります。百恵さんが有名になるとつきまとい金をせびる義父を3500万円払って「親子の縁を切った」場面では喝采を送りました。百恵さんのような方は別にして『名もない市井の方々にも数え切れないドラマがある』のでしょう。
Kennington Road 2nd Floor Room287
愛の賛歌
天才の人たち.........この人たちの人生は幼い頃より尋常でない筋書きがあり極貧の悲痛な生活から情熱が生まれあのアスファルトを突き破って出てくる雑草のようにその悲痛を栄養にして這い上がってくるのです。もし,あなた達の今がどん底であったり絶望の淵にたっているとした場合,神に感謝するべきです。そういう機会を与えてくれたことを。後で振り返ると,あのときが夢だったんだと思える時がきっときますからね。
大河の源流は驚くほど小さな湧き水である。生きてゆく理由があるかぎりその一滴にも多くの価値がある。深い哀しみや孤独感は,単に呻き声をあげるだけでは癒されることはない。
本当の意味での孤独を知らなければいくら現象面から中心部を覗いてみても,あるのはただ澱んだ空気のみである。
人はそれを世間と呼ぶ。当人にとっての悲劇は他人にとって喜劇にしか写らない。怖いものを覗いて見るとそこには自信のない泣きそうな顔をした自分が写っています。
真理と存在の法
時間と空間そして沈黙
プロレス神父に小学生が会っていた。
釈迦のさとった法は、釈迦のドグマではない。「仏がこの世に出ても、出てこなくとも変わりのない法」と経典にあるように、「世間の実相」「世界の真理」であるというのが釈迦がみずからの所信であり、仏教の主張である。この「法」(=真理) とは、縁起の理である。空海は存在とは関係であり現象として起きるすべてのものが真実であるといった。空海が天竺におられた時,弟子が空海に質問した。「不老長寿の薬はございますでしょうか?」....空海曰く,作って進ぜよう,ただしみなが近所の家をくまなく回り一人の死者も出なかった家があったら作ってあげよう,と言いその後評判を聞き多くの弟子たち集まってきたという。
上の写真は1983年2月12日プーラン・デヴィが投降した写真です。(女盗賊プーラン下巻より)プーラン・デヴィは言います。「ある意味では,みな,怯えながら生きているのだった。だから脅しが一番効く。相手が暴力に頼るなら,こちらも暴力的になればいい」, と。そして言う。「ものごとがよくわかった人たち,読み書きができて,英語がしゃべれる人たちに,わたしは法廷で哂われていた。彼らに比べれば,わたしは獣に等しかった。同じカーストの貧しい人たちがみなそうであるように,わからないことにぶつかるとただ驚き,怯えるだけだった。怖いこと,信じられないことから,ひたすら逃げて身を守ろうとする。無知というのは,飢餓と同じくらい残酷なことだと,わたしはこのとき思い知ったのだ」,と。
視点の転換の自由は、精神の自由の現れである。そのどちらが正しいかではなく、視点の転換の自由こそが、
現実の全体の把握を可能にし、精神の独立を保証するだろう。
「夕陽妄語」加藤周一。1996・10・23、朝日夕刊
足が良くなったら以下の全集に取り組んでいきたい。約6年かけて........天竺へ行くかどうか決めるのはその後.......梵語(サンスクリット語)も勉強しなくてはならないし(汗)
『中村元選集』(春秋社、1988年〈第1巻〉〜1999年〈別巻4〉)
第1巻 『インド人の思惟方法 東洋人の思惟方法 I』
第2巻 『シナ人の思惟方法 東洋人の思惟方法 II』
第3巻 『日本人の思惟方法 東洋人の思惟方法 III』
第4巻 『チベット人・韓国人の思惟方法 東洋人の思惟方法 IV』
第5巻 『インド史 I』
第6巻 『インド史 II』
第7巻 『インド史 III』
第8巻 『ヴェーダの思想』
第9巻 『ウパニシャッドの思想』
第10巻 『思想の自由とジャイナ教』
第11巻 『ゴータマ・ブッダ I 原始仏教 I』
第12巻 『ゴータマ・ブッダ II 原始仏教 II』
第13巻 『仏弟子の生涯 原始仏教 III』
第14巻 『原始仏教の成立 原始仏教 IV』
第15巻 『原始仏教の思想 I 原始仏教 V』
第16巻 『原始仏教の思想 II 原始仏教 VI』
第17巻 『原始仏教の生活倫理 原始仏教 VII』
第18巻 『原始仏教の社会思想 原始仏教 VIII』
第19巻 『インドと西洋の思想交流』
第20巻 『原始仏教から大乗仏教へ 大乗仏教 I』
第21巻 『大乗仏教の思想 大乗仏教 II』
第22巻 『空の論理 大乗仏教 III』
第23巻 『仏教美術に生きる理想 大乗仏教 IV』
第24巻 『ヨーガとサーンキヤの思想 インド六派哲学 I』
第25巻 『ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想 インド六派哲学 II』
第26巻 『ミーマーンサーと文法学の思想 インド六派哲学 III』
第27巻 『ヴェーダーンタ思想の展開 インド六派哲学 IV』
第28巻 『インドの哲学体系 I 『全哲学綱要』訳註 I』
第29巻 『インドの哲学体系 II 『全哲学綱要』訳註 II』
第30巻 『ヒンドゥー教と叙事詩』
第31巻 『近代インドの思想』
第32巻 『現代インドの思想』
別巻1 『古代思想 世界思想史 I』
別巻2 『普遍思想 世界思想史 II』
別巻3 『中世思想 世界思想史 III』
別巻4 『近代思想 世界思想史 IV』
別巻5 『東西文化の交流 日本の思想 I』
別巻6 『聖徳太子 日本の思想 II』
別巻7 『近世日本の批判的精神 日本の思想 III』
別巻8 『日本宗教の近代性 日本の思想 IV』
最近大学での試験問題を事前に公開しノート持ち込みを許可している形式が増えております。日本大学文理学部などもそうです。 これは知識のコントロールではなく学生に考えさせる習慣を身につけさせるには必要なことです。
モーゼゆかりのMount.NEBOのサンセット
ヨルダンのネボ山
申命記の最後の章によると、ネボ山は、神がイスラエルの民に与えられた約束の地を、ヘブライ人の預言者モーセに眺望させた場所とされる。「モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガ (Pisgah) の頂に登った。」(申命記34章1節)
ユダヤ教とキリスト教の伝承によれば、モーセは神によってこの山に埋葬されたが、モーセの永眠の地は不明である。学者は、現在ネボ山として知られているこの山が、モーセ五書に示された山と同じであるかどうか議論を続けている(Wiki)。しかしモーゼの墓は存在する。聖職者が触れたがらないことの一つでもある。
ニーベルンゲンの指輪 その7参照
2006年の過去ログで書いた記事をご紹介しましょう。
2006/5/25
「ふらんす迷い路 7」
生きることと考えること
森有正との対話
もし他人の内面生活を覗き見る興味からこの本を手にする人がもしいたとしたら,おそらく失望するでしょう。私小説的な自己告発とは別の動機,つまり思想的動機のみがあるのです。
日本ですでに自己形成を完了した私が,ヨーロッパにあってどういうふうに生きてゆくか,ということだけであって,それ以外ではなかったのです。崩壊の瀬戸際に立つかもしれないような歩みは,むしろ現在はじまりつつある。そういう感じが強くしています。
恋愛について
日本人の経験というものは,分析が本当の個人意識まで絶対に下がっていかないのです。最後のところに「親子」の関係とか,「夫婦」の関係とか,「家族」の関係とか,[友人」の付き合いとか,義理とか,そういうようなものが網の目のようにその中に張りめぐらされてある。
だから少なくとも二人の人間で一つの個性というと具合がわるいが,一つの単位を構成しているというところが出てくる。その場合に,自分の個を貫くために,その結びつきを破るかというと,日本人は破らない。それが日本人の根本的な長所であり,また欠点だと思うのです。
個人意識が大事だということは,最後のところになると親子,夫婦,師弟というふうな結びつきが破れて,それが個々に分離していくところにある。ヨーロッパのばあいは,あるばあいには,ほんとうに親も離れ,先生も離れ,国も離れ,社会も離れ,なにもかも離れて,自分一人になってしまうという経験が,事実そこまで行ってしまうのです。
夫婦でも日本みたいに融合しない。親子でももちろん融合しないし,師弟も融合しない。親は自分の責任を尽くして生きてきたのだから,あとから来た子供は,その子供自身の生活なのだから,その生活を自分で営んで,またその次に出てくる子供から離れて一人で死んでいくわけです。そうであるからこそ,ヨーロッパには本当の恋愛が可能なのです。
日本人には本当の恋愛が非常に少ないということです。すぐに親がでてくる。すぐに先生がでてくる。ことに,すぐ友人がでてくる。そのために本当の恋愛は日本では成立しない。恋愛は男の個と女の個との関係です。ですから,孤独ということがなかったら恋愛なぞ,絶対にありえないのです。孤独において成立したもの以外は,多かれ少なかれ,みんな仲人口です。究極において個を貫けないという要素によるものです。
試験制度
学士になるとか,国家試験などでも,一年前に、試験の範囲が報告されます。 例えば,フランス文学史の17世紀なら17世紀を勉強してこいとか,どういう著者を勉強してこいとかの指示があります。そういうやり方を通して,単に知識をコントロールするのではなく,試験を準備させることによってその人に勉強させるというやり方をとっている。
中学校などでも哲学が必須で徹底している。デカルト,パスカル,カント,ハイデッカーなど学校用のテキストを正確に読んでおかなくてはいけないわけです。
以上は本の中から抜粋し編集したものです。
雪の巴里。ひろやまがたさく。
辻邦夫さんなど多くの仏文学者達が森さんを師と仰ぎ畏敬の念をもって集まりました。森さんの言いたいことは「大事なのは,ある人がほんとうに自分の立脚地をおくことができる世界を,自分の中に築き上げていくこと」それが全てです。
1911年 東京に生まれる
1938年 東京大學仏文科卒
東京大學助教授を経て
パリ大學・東洋語学校講師
著書に 「パスカルの方法」「デカルトからパスカルへ」
「内村鑑三」「遥かなノートルダム」「木々は
光を浴びて」「砂漠に向かって」「遠ざかる
ノートルダム」「バビロンの流れのほとりにて」
「旅の空の下で」その他多数
訳書に アラン「わが思索のあと」リルケ「フィレンツェ
日記」など多数。
邪教を信ずる者は救われない 。
↑ 新興宗教の発生形態
通常の既成宗教の場合、まず教え(教典・教義)が先にあって、それを人々への救済理念として形成されました。
しかし新興宗教の場合はある意味この逆で、まずは教祖となる人物が神や仏の啓示を受けたと自称し(いわゆる神懸かり)、その人物をカリスマと崇(あが)めながら何年か経って教義らしきものを作って体系化し、教団組織の体制を整えていくのが一般的です。
ある本によると、今どきの新興宗教は、
・カリスマ的人間を仕立て上げる
・人間心理の弱点を脅(おど)す
・弱者の論理にあくまでも迎合し、なぐさめる
・現世利益をうたう
・超能力現象を見せる(手品でよい)
というような感じで出来上がるそうです。これは実際に、東京都下で勢力を伸ばしている中堅教団の教祖がその本の著者に、教団を開設するに当たっての信条を語った本音です。
新興宗教とは、所詮はこういうものなのです。(管理人注:こういうところが霊園もやっていてカードを入れるとくるくるお墓が出てくる仕組み。遺骨は倉庫に山積みされている。
超能力現象を見せる(手品でよい)の典型サイババのビバーチェ(聖灰)。手品であることがばれた。4000億円稼いだそうだ。船井幸雄は泳いでいる金魚を止めた。これも静電気で止める手品。とくに1970年代カーター政権時議会で承認されたグローバル2000(人類皆殺し政策)等をぼかすのが目的であった(黒幕はブレジンスキー)。三輪明宏が天草四郎が自分を見て笑った手品で騙された。
千日回峰などの荒行もありますが三日三晩不眠不休で座禅を組むという修行 はかつてテレビで紹介されたことがあった。修行が終了すると素うどんが振舞われる。その時の若き修行僧の喜びの顔が忘れられない。
不眠不休の座禅
↑ 釈尊降誕会[しゃくそんごうたんえ](4月8日)
仏教の開祖釈尊(お釈迦さま)の誕生を祝う日です。「仏生会」「仏誕会」「潅仏会」とも呼ばれるこの法会は、一般に「花まつり」として親しまれています。
釈尊は紀元前5・6世紀(約2500年昔)の4月8日に、釈迦族の王子(悉多太子)として生まれました。『太子瑞応本起経』や『仏所行讃』等の仏伝によりますと、兜率天という天上界から、白象となって母マーヤ夫人の胎内に入り、受胎したといわれています。また臨月のマーヤ夫人は、出産のため実家に帰る途中、清らかな池や美しい花が咲き乱れているルンビニー園に立ち寄り、無憂樹の花をとろうとしたとき、太子が右脇から安らかに誕生したと伝えられていることから、「降誕会」ともいわれる所以です。
誕生した太子は堂々と7歩進み、右手で天上を、左手で大地を指さして(管理人注 :これを真似したのがAs Above,So Belowのバフォメットでダビデのみが独り尊しとはき違え。)「天上天下唯我独尊」(天上にも天下にもただ我のみ独り尊し)と叫んだともいわれています。この言葉は釈尊だけが尊いという意味ではなく、すべての人間存在が尊いという仏教の基本的立場を宣言したものです。
また、太子の誕生を祝福するかのように、天から冷暖の雨が太子の頭を濡らしたと伝えられることから、「潅仏会」ともいわれていますが、寺院で花御堂を設け、誕生仏に甘茶で潅仏する「花まつり」は、これに由来するものです。
『日本書紀』や『続日本後紀』によりますと、わが国では推古天皇14年(606)に飛鳥の元興寺で行われたのが最初で、平安時代の承和7年(840)には宮中の清涼殿で催され、以後一般寺院にも普及し、さかんに行われるようになりました。
精霊祭[しょうれいさい](7月初旬)
過去一年間に亡くなられた、学園関係者の魂を迎え、供養する日です。「盂蘭盆会」「盆まつり」「お盆」「魂まつり」とも呼ばれています。
盂蘭盆は『仏説盂蘭盆経』によりますと、釈尊の十大弟子の一人で、神通第一とうたわれた目連尊者が、その神通力によって、母親が餓鬼道におちて苦しんでいるのを知り、釈尊に母親を救済する方法を尋ねました。釈尊は自恣(夏安居―4月16日から3ヶ月間一ヶ所で集団生活し、修行に専念すること―が終った日の反省批判会)の日である7月15日に、百味の飲食と五果(五種類の果実)などを供え、十方の衆僧を供養せよとさとされました。目連は教えにしたがって、衆僧を供養する盂蘭盆会を行い、母親を餓鬼道から救うことができたとある故事に基づいています。また、これは衆僧を供養する功徳によって、亡くなった人の魂を救済することを意味しています。
中国では6世紀から行われ、初唐ころにはさかんに営まれたようです。わが国では『日本書紀』によりますと、推古天皇14年(606)7月15日に斎を設けたのが最初ですが、斉明天皇3年(657)元興寺の西に須弥山の像を作り、盂蘭盆会を営んでから、本格的に行われるようになりました。ただ地方によっては農耕の都合で、8月15日に営むところもあります。また、盂蘭盆の法会とあわせて、盆踊りも年中行事の一つとしてさかんに行われています。
御征忌[ごしょうき](10月12日〜15日)・太祖降誕会[たいそごうたんえ](11月21日)
御征忌は總持寺御開山太祖常済大師(瑩山紹瑾)のご命日の法要、また、太祖降誕会は同じく誕生を祝う法要です。瑩山禅師(1268〜1325)の伝記は自ら著わされた『洞谷記』をはじめ、十余部が知られています。これらによりますと、禅師は文永5年(1268)10月8日(太陽暦では11月21日)越前多禰邑(現福井県越前市)に生まれました。8歳で永平寺に登り、13歳で孤雲懐弉(1198〜1280)について得度し、懐弉没後は徹通義介(1219〜1309)について坐禅修行に努めています。18歳から22歳まで諸国を行脚し、宝慶寺寂円(?〜1299)や、円尓弁円(1202〜1280)の弟子等に学び、さらに比叡山で天台学も研究しています。
その後城満寺(徳島県)の開山として招かれましたが、正安元年(1299)32歳のとき、大乗寺(金沢市)の義介にふたたび随侍することになりました。義介は禅師に対し「平常心是道」についてその見解を尋ねますと、「平常心の道は知と不知とにかかわらない」「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」と簡明に答えました。義介はただちに印可証明(修行が大成したことを認可証明すること)を与えましたので、禅師はその法を嗣ぎました。
35歳のとき義介のあとをうけ、大乗寺二世となりましたが、このころ峨山韶碩(1275〜1365)や明峰素哲(1277〜1350)などの門弟もでき、大乗寺を中心とする禅院の修行規則を定めるなど、宗門発展の基礎が整いました。
文保元年(1317)50歳のとき、永光寺(石川県羽咋市)に移り、民衆教化に努めましたが、54歳になって定賢律師の招請をうけ、諸嶽寺におもむき、これを禅寺に改め、諸嶽山總持寺を開創されました。その間、後醍醐天皇の十種の質問に回答し、その功によって總持寺を日本曹洞出世の道場となすという綸旨を下賜されたと伝えています。
晩年には永光寺に帰り、正中2年(1325)8月15日(太陽暦では9月29日)に58歳で入滅していますが、著書は多く、曹洞宗の法脈が正しく伝承されていることを明らかにした『伝光録』をはじめ『總持寺中興縁起』『坐禅用心記』『瑩山禅師清規』などがあります。また門弟も60余名を数えることができ、その法流は日本全土におよんでいます。
總持寺では毎年10月12日から15日まで御征忌を営み、曹洞宗教団発展の基礎を確立した禅師の遺徳を顕彰し、しのんでいます。
また、本学では御征忌の法要への参列を行うとともに、太祖降誕会の11月21日を開学記念日と定め、さらに、あらかじめ誕生を祝う法要を行っています。
成道会[じょうどうえ](12月8日)
釈尊が悟りをひらき、仏陀(覚者=真実に目覚めた人)になられた日で、「臘八会」とも呼ばれています。
釈尊は29歳で出家し、6年にもわたる苦行をかさねましたが、無益であることがわかり、断食を放棄しました。そして川で沐浴したのち、村娘スジャーターが捧げた乳粥により体力を回復し、菩提樹の下に坐って瞑想にふけり、12月8日の未明に大悟されました。ときに35歳でした。悟りの内容は縁起(因縁生起=縁によって生ずること)の理であったといわれています。
因縁生起=縁起とは
↑ 「仏教における縁起(えんぎ、サンスクリット:pratiitya-samutpaada、パーリ語:paTicca-samuppaada)は、仏教の根幹をなす思想の一つで、世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指す。縁起の語は「因縁生起」(いんねんしょうき)の略で、「因」は結果を生じさせる直接の原因、「縁」はそれを助ける外的な条件のことである。
ある結果が生じる時には、主な原因だけではなく、それ以外の様々な原因や副次的な原因を含めて、あらゆる存在が互いに関係しあうことで、それら全ての関係性の結果として、ある結果が生じるという考え方である。 なお、その時の原因に関しては、数々の原因の中でも直接的に作用していると考えられる原因のみを「因」と考え、それ以外の原因は「縁」と考えるのが一般的である。」(管理人注 :空海のいう,存在とは関係であると言ったことは縁起を指す。)
また、釈尊が禅定・瞑想によって大悟されたことから、禅宗では とりわけ重視すると同時に、12月1日から8日の払暁にかけて、不眠不休の坐禅修行が行われます。これを「臘八摂心」又は「臘八大摂心」 と呼んでおります。
成道会の起源は明らかではありませんが、唐・百丈懐海(749〜814)が著わした『百丈清規』にその記述がみえます。わが国では『延喜式』により、奈良西大寺の成道会がその最初とされていますが、『永平広録』によりますと、道元禅師は宋から帰国後、一時留まっていた建仁寺を去り、深草の安養院(京都市伏見区)に移られた寛喜2年(1230)ころ、はじめて営まれたことがわかります。それ以来、曹洞宗では広く行われています。(注:出家された天竺の比丘尼さんも当然こういう荒行を経ていると思われます。)
涅槃会[ねはんえ](2月15日)
釈尊が入滅された日です。「降誕会」「成道会」とともに「三仏忌」あるいは「三大会」といわれ、特に重んじられています。
釈尊は35歳で成道し、45年間にわたって、人間の苦悩を解決するための正しいあり方を説き続けました。80歳の釈尊は老先が短いのを自覚し、故郷へ向かいましたが、クシナガラ で弟子たちから最後の質問をうけたあと、東西南北にある四双八隻(二本ずつ八本)のサーラの樹(沙羅双樹)の間に横たわり、涅槃(死)を迎えます。
パリニッバーナ寺院(クシナガラ)の涅槃仏
涅槃は「煩悩が吹き消された状態」という意味ですが、釈尊入滅の模様については、有明の月が輝き、しだいに白みかけてきたころ、仏の身体と衣は次第に金色に染まり、海の潮がひきはじめた暁、静かに最後の息をひきとられたと伝えられています。また『大パリニッバーナ経』によりますと、沙羅双樹は時ならぬ花を咲かせ、天の曼荼羅華とともに、供養のために釈尊の身体いっぱいに花びらを降り注いだといわれています。『平家物語』の「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を現わす」はこの伝説に基づいています。
インドや中国では早くから行われていたことが、唐・玄奘(602〜664)の『大唐西域記』や道宣(596〜667)の『広弘明集』に記されており、『百丈清規』には当日『遺教経』(釈尊最後の説法)を読むべきであるとしています。
わが国では奈良時代に興福寺で「常楽会」という名称で営まれたのが最初とされていますが、その後源信(942〜1017)や明恵(1173〜1232)の『涅槃講式』などに基づいて修されるようになり、室町時代から江戸時代にかけて広く行われ、年中行事の一つとなりました。』
335
2011/10/17
家のすぐ近くの遊歩道にある慈母観音 像。週に一度枯れた花をかえ水を差し上げている。マー君とスー君と一緒にお祈りしています。そして 悠久の天竺で慈光さんに天の采配が整いますように 。
祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色,盛者必衰のことわりを
あらわす。おごれる人も久しからず,只
春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には
ほろびぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)
に同じ。 __平家物語より__
諸行無常・・この世に存在するすべてのものは
関係することであり,現象としてあらわれる全て
のものが流転し,一刻一刻変化しその全てが
また真実である。この世には実体と呼ばれる
ものはない。
現実をあるがままに認め,願っても叶わないような
ものは追い求めない。これが苦しみから救われる
路。
いかなる者もいつかは滅びる。あの泥のなかで
栄養を吸収し美しい華を咲かせる蓮の華を見て
ごらん。泥に汚されることなく転生し泥という
煩悩のなかで綺麗な華という菩提花を咲かせる。
これぞ涅槃なり。だから事実をありのままに
受け止めなさい(如日知見)。
もろもろの現象は無常である。生じたり滅したりする性質をもっている。生じてはまた滅する。それらのものが静まれば安楽という解脱がある。安らぎ(涅槃・ねはん )は虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る 。かれらは実に真理をさとるが故に,快を貪ることなく平安に帰しているのである。パーリー語聖典より。これは釈尊の教えである。
写真の少女や「踊り子サラ」の記事は「OUT OF EDENは終了いたしました」をご覧ください 。
胎内宇宙と同心円世界
四無量心
四無量心(しむりょうしん、skt:apramāṇāni)とは、他の生命に対する自他怨親なく平等で、過度の心配などのない、落ち着いた気持ちを持つことをいう。四梵住(skt:brahmavihāra)、四梵行ともいう。
無量というのは、「貪・瞋・痴」などと違い、限界なくどこまでも成長させることができることから言う。
慈無量心(skt:maitrī, pāli:mettā) - 「慈愛」、相手の幸福を望む心。
悲無量心(skt,pāli:karunā) - 「抜苦」、苦しみを除いてあげたいと思う心。
喜無量心(skt, pāli:muditā) - 「随喜」、相手の幸福を共に喜ぶ心。
捨無量心(skt:upekṣā, pāli:upekkhā) - 「浄捨」、相手に対する平静で落ち着いた心。動揺しない落ち着いた心を指す為、捨無量心 の完成は、悟りとほぼ同義である。なお上座部教学の集成者であるブッダゴーサは、『清浄道論』(Visuddhi Magga)において、単なる無関心を「無智捨」と呼び、捨無量心とは似て非なるものとして、修行者に注意を促している。基本的に比丘尼さんのいう「自他不二」と「四無量心」は同じ。
上座部仏教
上座部仏教では具足戒(出家者の戒律)を守る比丘サンガ(女性は比丘尼で《(梵)bhiksunīの音写》出家得度 して具足戒(ぐそくかい)を受けた女性。尼僧。)と彼らを支える在家信徒の努力によって初期仏教教団、つまり釈迦の教えを純粋な形で保存してきたとされる。具足戒とは出家僧侶の守るべき戒。『四分律』では比丘(びく)には二百五十戒、比丘尼(びくに)は三百四十八戒を定めている。エジプトの「死者の書」からのパクリであるモーゼの十戒と比較すると深淵ですね。
達磨.....南朝梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた 。
「だるまさん がころんだ」の意味.........真理を悟ってその歓びのあまり転んだということ。ダルマ(梵語:धर्म Dharma) - 真理の法 を意味する。また、ヒンドゥー教において宇宙の法と秩序、正義を司る神の名でもある。
釈迦のさとった法は、釈迦のドグマではない。「仏がこの世に出ても、出てこなくとも変わりのない法」と経典にあるように、「世間の実相」「世界の真理」であるというのが釈迦がみずからの所信であり、仏教の主張である。この「法」(=真理) とは、縁起の理である。(空海はそれを存在とは関係することと表現した)
天竺(てんじく)
比丘尼さんも言っているでしょ。『天竺からの慈悲の光』と 。
西遊記 で知られる玄奘三蔵一行が目指した地がこの天竺(印度)とされる。
先日のインドの修行僧である比丘尼さんに関する本日までの経過です。これから個人的にずっとフォローしてゆきます。琴線にふれますのでまたお知らせしましょう。その経過で賛同者も現れるかもしれません。いくら賛同者がいてもカネ,カネ,カネの人は駄目ですよ。また,一ヶ月で何回夫とセックスするのが夫婦のあるべき姿であるか,なんて一年中考えて実行している人も駄目ですよ。
Date: Sat, 8 Oct 2011 15:15:13 +0900
From: xxxxxxx
Subject: 達人さんへのメッセージ
To: jameslee@hotmail.co.jp
小野寺さま
311以来、達人さまのブログに出会い、日々、寝る時間を削って、勉強してまいりました。311以前、わたくしは、無知でした。それを恥ずかしく思い、反省し、自らだけでなく、ひとつでも他の魂を、平安にお連れしたいと心から願って、今も勉強しております。
以前から、情報や考察を提供してくださることに感謝し、お礼をするべきだと思っておりました。この度、有料の会員制になると知り、当然だという気持ちを持っております。
しかしながら、残念なことに、有料の会員制になると、わたくしには、もう、参加する機会が無くなってしまいます。
わたくしは、彼此10年近く、海外におります。今は、インドにおります。
曹洞宗の僧侶です。わたくしは、唯、お釈迦さまの後に続きたいと思いました。灼熱の大地を、身ひとつで裸足で歩きながら、人びとの話に耳を傾け、仏法を持って苦しみを和らげようとされたお釈迦さまのようにありたいと思いました。わたくしも、ほぼ身ひとつでおります。日々の食べ物の供養も受けられないことが多い状況です。厳しい状況ですが、お釈迦さまの手となり、足となり、声となってはたらく使命をいただけたことは、これ以上ない歓びで、感謝しております。金品に依る幸せもいいと思います。唯、わたくしの使命は、金品に依らない幸せ、魂を清浄にしていくことで自ら救われていく道を、ひとりでも多くの方に知らせ、広め、人びとを励ましていくことだと思っております。自分には観えていることであっても、他人に示すのは、容易ではありません。無力感や焦りを感じながらも、どうも時間がないようですので、あきらめずに、最期の瞬間まで、心を尽くすべきだと、自ら叱咤激励する毎日です。
わたくしにとって、5万円を入金するのは、残念ながら、とてもとても無理です。ですから、あきらめなければならないのでしょうが。
手元に千円札が3枚あります。以前いただいたお布施です。これを日本の住所にエアーメールで郵送することはできます。インドから銀行振り込みをするのは、難しいらしく、できても手数料でなくなってしまうようです。5万円には、程遠いのですが、これで閲覧させていただけませんでしょうか。
もし、無理でしたら、あきらめますので、どうかお気になさらないでください。
達人さまの御使命が全うできますことを、お祈りしております。
達人さまと犬くんたち、ご家族、ご友人方が、お幸せでありますよう、お祈りしております。
いつか目覚め、動き出し、どの人も、罪を犯した人たちも、救われていく時の来ることを、祈っています。
精一杯の慈悲を込めて
閑杳 慈光 比丘尼
その返信として「--- On Sat, 2011/10/8, James Lee wrote:
「お金はいらないですよ。パスワードはxxxxxxxです。
むしろあなたに喜捨しますので送る方法は
銀行振り込み
国際為替郵便
などがあります。
そちらで調べてご連絡ください。
小野寺拝」
この記事をブログに載せた途端,ある人物から世にも恐ろしい薄情で非常なメールが入ってきた。「年金生活から5万円を掠め取っておいてインドの修行僧に無料とはけしからん,金をかえせ」ということを暗示させる内容でした。お金は返金すると返事した後も罵詈雑言の数々。これが記事にしたシンクロ現象となった。人間には人間としての条件があるのです。お金を返してもらった代りに途方もなく大きなものを還暦にして失ったことになる。
しかし今回の一連の出来事はシンクロ二シティという現象がはからずも起こったということです。修行僧の言葉に対し無料にするとはけしからん.......というメールを受けたことにより有料ブログを中止することになったわけです。それは多くの人の無料で見たいという心の思いとすでに支払われた方々のぜひクリストファー遺族のためにつかってほしいという高貴な思いの表れでもあったのでしょう。大変感謝しており神父さまの管理下にあるクリストファー口座の方へ移させていただいたわけです。
二つの事象がイメージにおいて類似性を備える時,この二つの事象が三次元の空間と一次元の時間を瞬時に埋めるという不思議な時空間として現れることがある。その時空間の秩序であてはめられている中で,因果性では関係ないと思われる場合でも随伴して,現象として起こる場合これを「シンクロニシティ」の作用という。
遠く離れた出来事が,物理的な因果関係で結ばれることなく相関性を持ち得るのは,量子力学の相関関係において表されている。衆生にとって肉親が死んだ時に,いわゆる「虫の知らせ」という精神波動が必ず起きることは知られている。この精神波動は一億光年先もわずか一秒で到達する。
シンクロ二シティと呪術的思考 にありますように司馬遼太郎さんと私はシンクロし.また,クリストファーさんともシンクロしているのです。クリストファーさんが亡くなった時間と時差を考慮し寸分の狂いもなくある雨の日玄関を出た階段でもんどりうって転倒しちょうど肝臓の裏の辺りを強くうってしまい右の親指は骨折しました。ひょっとしてとクリストファーさんのHPを見たら亡くなられていたことが分かりました。17日早朝ある外科医を訪ねました。足の痛み,痺れを話しました。電気ハリ,週3回の点滴でもまったく改善しないことも話し切断しなくてはならないかもしれないので検査をしてほしい旨話すとこの先生はベトナム戦争当時のサイゴンで外科医として足の切断などは日常茶飯事だったことや色々話がありました。最後にその痺れの原因となったことに何か思い当たることはありますか,と。さすがです。あのときの転倒の話をするやすぐレントゲンをとり結論が出ました。傷ついた肝臓から溢れた血が血膿となって骨盤の神経を圧迫しており血膿を抜けばよくなるでしょう。早ければ1〜3日の入院で完治する,との話でした。それにしてもクリストファーは手荒なことをするものです。一緒に死ねということだったかもしれません。そういうことで11月中旬くらいに入院します。司馬遼太郎とクリストファーはともに72歳で亡くなっています 。私は12月1日で66歳になります。72歳でお迎えがくるかも知れませんがあと10年生かして下さるのならアジアのどこかで薄幸な子どもたちの人助けをしたいと考えています。というかやるつもりです。マー君とスー君はその頃8歳の老犬ですが長男のところで引き取ってもらおうと思っており長男も了解してもらっています。
[達人さんへのメッセージ] 天竺 からの慈悲の光
2011/10/14
差出人: xxxxxxxxx
送信日時: 2011年10月14日 3:13:16
宛先: James Lee (jameslee@hotmail.co.jp)
小野寺さま
恐る恐るメールを開けました。不意を突かれて、涙が溢れてきました。小野寺さまの背後に、神仏の光を感じました。有り難いことです。達人さまとのご縁が、切れずに済みそうです。心から感謝いたします。
わたくしは、海外で、携帯のSIMカードを使って、ネットにつなげています。いつか、電磁波の影響で、ネットにつなげられなくなる日が来ましたら、もう連絡をとる手段が無くなってしまいます。ひとりぼっちで、孤立してしまうでしょう。それでも、最期の時まで、小野寺さまの御使命が全うされることを祈り、日本に住む方々だけでなく、世界中の方々のために、天竺から、精一杯の慈悲を、命懸けで送り続けます。
大丈夫です。わたくしたちは、到達できます。
1.志
わたくしは、達人さまのブログを、そっと見せていただいていただけでした。311以前、世の中に、ブログというものがあることすら知りませんでした。どの方のブログにも、メールをお出しすることはないのですが、一度だけ、どうしても達人さまにメールを差し上げたいと思ったことがありました。達人さまが、ご自分のお命を差し出すので、これ以上傷つけることはやめてほしいと望まれた時です。
達人さまが、お身を差し出される前に、当然のことですが、わたくしが、先に、身を差し出します。出家している身ですから、真っ先に自分が身を差し出して、犠牲になることは、当然のことです。また、その犠牲をもって、他が救われるのなら、こんな歓びはありません。
今でも、この気持ちは、変わりません。
ただ、相手様にとっては、達人さまなら、鬼の首を取ったみたいに喜ぶでしょうが、わたくしでは、アホらしくて話にならないでしょうけどね。
2.慈悲
小野寺さまは、本当に手術をされることになるのでしょうか。
ご立派なお子様がいらっしゃるようですから、わたくしが心配することなどないのでしょうが。
もしも、居る場所がなくて、もしも、わたくしのいる所に来ていただけますなら、わたくしが、心を込めてお世話させていただきます。お体が、ご不自由になられる前でも後でも、かまいません。もちろん、ワンくんたちも一緒に。(動物が好きです。犬は、何匹も育てました。いや、育ててもらいました。動物は、劣っていると言われますが、一番どーしようもないのは、人間です。)
医療水準も、悪くはないでしょう。インドビザは、難しくなっていますが、何とかなるでしょう。
当初、わたくしは、インドのマハーラーシュートラ州のナグプール 辺りに、拠点をもとうとしましたが、天の采配が、整いませんでした。今は、ニューデリーにいます。賛同者が、少し現れてきています。数ヵ月後には、拠点をもてるかもしれません。あのようにポールシフトが起こるとしたら、デリーは、きわどい所ですが、どこであれ、天の導きに寄り添ってやっていこうと思います。
命を張ってやってきていらっしゃる小野寺さまを、お守りせずにはいられません。お心の片隅に、覚えていてください。
3.宇宙の采配
わたくしは、小野寺さまが、ご努力とご苦労をされて得られたものを、拝受できるような僧ではないのですが。
もしも、わたくしがこれから手を差し伸べることができるかもしれない人たちのために、と思っていただけるようでしたら、その方々の代わりに、拝受させていただきたく存じます。
ビザの切り替えが、うまくいかなかったために、予定外に急きょ、インドを出国してタイへ行き、また戻ってくることになりました。デリー=バンコクの片道の航空券の供養をいただけましたので、インドを出国することはできるのですが、タイでの滞在費とバンコクからデリーへ戻る航空券が工面できずに、途方に暮れていました。
わたくしには、インドでしなければならないことがあります。ソノトキに向けて、命懸けでしなければならないことがあります。ですから、どうしても、何としても、インドに戻らねばなりません。毎日、祈っていました。宇宙の采配は、祈りを超えたところにあるのでしょうが。
現在のインドビザが、来週の17日で切れますために、16日(6E41 DEL 5:35 BKK 11:20)にタイへ行くところです。タイで、インドのビザを取り次第、デリーに戻ります。
観光ビザではありませんので、書類が必要なのですが、今日現在、まだ手元に届いていません。インド出国までに間に合いませんと、タイで、インドからの書類を受け取ってから、ビザを申請しますから、もしかしたら、3週間か1ヵ月ぐらい、タイで待機することになるかもしれません。
インドには、まだ、わたくしの拠点はありませんし、銀行口座も持っていませんが、信用できる日本人の比丘尼さんがいらっしゃいますので、受け取って保管してくださいます。
タイには、以前、通算5年ぐらいいましたので、銀行口座があります。
4.光のほうへ
やっぱり何かお贈りしたいものです。小野寺さまに届く住所をどこでもよいので教えていただけましたら、気持ちばかりですが。
インドで好きなものはありますか。紅茶は、お好きですか。ダージリン、アッサム、チャイ、どれがお好きですか。それとも布がお好きですか。
タイで好きなものはありますか。タイ女性は、ダメですよ。
遠慮なくおっしゃってください。わたくしからではなく、天からの慈悲ですから。天は、今もなお、小野寺さまを静かに慈悲の光で包んでいらっしゃいます。そう思います。祈っています。御使命が全うできますよう、祈っています。
精一杯の慈悲を込めて
閑杳 慈光 比丘尼
(かんよう じこう びくに)
そして本日17日正午すぎ管理人は以下のメールを出しました。
『本日xx万円を送金しました。お問い合わせ番号は..........です。これはお布施ですから礼の必要は全くありません。なお,入金は一週間くらいかかるとのことですので事前に問い合わせください。確認のため入金がありましたら私宛にメールください。以上です。
小野寺拝』
管理人より。
その後多くのやり取りがありますが省略いたします。管理人の宝物としてとっておきます。でも知りたいでしょ?一部を紹介します。
『達人さま
びっくりして慌てて返信をしまして、大事なことを書き忘れました。
わたくしのせいで、嫌な思いをさせてしまいまして、言葉もありません。お許しください。
その返金を求めてきた方のことも、どうか許して差し上げてくださいませんか。それぞれに、それぞれの事情があります。先々の不安も大きいのでしょう。一度は、入金してでもブログを見続けたいと思われた方ですから。その方のお怒りがおさまって、お心が穏やかになりますように、わたくしが、お祈りしていますから、達人さまは、本業に専念なさってください。達人さまが、やんちゃですと、わたくしが、心配で眠れなくなります。
閑杳 慈光 比丘尼』
天竺からの慈悲の光
James Lee
差出人: xxxxxxxxx
送信日時: 2011年10月18日 6:55:27
宛先: James Lee (jameslee@hotmail.co.jp)
達人さま
ブログが閉鎖されていると思っておりましたので、ずっと拝見しておりませんでしたが、その間に、いろいろあったようですね。夜中ですが、急ぎ目を通させていただきました。
お足の具合が、良くなられたのですか。
よかったです。よかったです。どうしてでしょうかね。わたくしには、さっぱりわかりませんが。
天の慈悲が、届いたのでしょうか。それとも、達人さまの内なる慈悲が、目覚めたのでしょうか。
よかったです。よかったです。とにかく、よかったです。
有料パスワードにならなかったのですか。
わたくしが、メールを差し上げて以来、いろいろなメールが、届いていたのですか。
ざっと目を通した達人さまの文章やコメントに、変化が感じられます。慈愛を感じます。
私たちは、つながり合っていますから、一人勝ちは、できません。自分だけ幸せになることは、無理です。周りの人たちと共に、一緒に幸せになっていく。
『自他不二 』ーーーあなたの幸せが、わたしの幸せです。
達人さま <祝>再出発
そのまま、まっすぐに、まっすぐに、歩んでいってください。天命に生きる決意をした者は、必ず、天が加護します。
わたしたちは、到達できます。必ず、到達できます。苦しみの時、悲しみの時、不信の時、互いに励まし合い、手を差しのべながら、観想していきましょう。
到達する時は、悪魔の名のもとに罪を犯した人たちも、一緒に連れて行きましょう。悪は、正しい道を教える道しるべです。その役割を果たした人たちに感謝して、一緒に到達したいものです。
その日が来るのをワクワクしながら、観想していきましょう。
今、わたくしの心には、感謝の気持ちが溢れています。すべてのものに感謝しています。
生きとし生けるものが、幸せでありますように。ひとつの魂も、こぼれることなく到達できますように。
精一杯の慈悲を込めて
閑杳 慈光 比丘尼』
閑杳 慈光 比丘尼殿へ
もしこの記事を読まれておられるのなら以下が私からのメッセージです。
「日々の食べ物の供養も受けられないことが多い状況です......送らせていただく喜捨は「金品に依らない幸せ、魂を清浄にしていくこと」とおっしゃるように意に反するかも知れませんが私の.......万円で貧しい人のために有効にお使いください。」インドでの日本人僧侶の活躍は以前から聞いておりました。インド仏教徒が師と仰ぐ日本人僧侶、佐々井秀嶺氏をこえる魂の清浄を期待しております。秘教ムスタンで活動される近藤亨さんも同じように日本人の誇りです。本来こういう記事は内密にするべきなのですが完全出家された方の生き様を娑婆の人たちに紹介することは「気づき」なのであえて公開いたしました。
その証拠に以下のようなコメントが入っております。その他の暖かい慈悲あふれるコメントも入っております。
『投稿者:4p4mpl
2011/10/18 0:17
インドの修行僧である比丘尼のはせがわせつこさんについて。
お心の余りの高潔さに自身が恥ずかしくなりました。』
つまりお金には「生き金」と「死に金」の二種類があるのです。たとえ3食を2食にしても1食にしても使うべき「生き金」は徳を積むことでもある。ですから5万円を返してもらったあの還暦の人は「死に金」としてお金が帰ってきたわけです。
管理人がかつてインド中部の町カジュラーナを訪れた際,10〜13世紀に建てられたカンダーラ・マハディーバ寺院を訪れた。そこに描かれたミトゥナ という性愛の姿はまさに性愛の法典「カーマ・ストラ」であった。
カンダーラ・マハディーバ寺院
これを見て吐き気を覚える人は「自己の封印が解けず,自己という感覚が開放されていない人たちである」あるいは最も高尚な行為との間の階段を持たない現実的な行為・主張のみをする世俗一般の馬鹿者たちである。
知っておいてもらいたいこと.......比丘尼
サンガ(僧侶)とは?
具足戒とは
出家僧侶の守るべき戒。『四分律 』では比丘(びく)には二百五十戒、比丘尼(びくに)は三百四十八戒を定めている。
転載された拙稿:プロレス神父
ジャン・レノ主演映画「グラン・マスクの男=プロレス神父 }
『北メキシコの壮大な大地に建つ、古い聖ドミンゴ教会。ヴィクトール・ガエタノ神父(ジャン・レノ)は妹のマリア(マーリー・マトリン)とともに、ここに捨てた子たちを集めて孤児院として彼らを育てている。一切の助成金を受け入れようとしない神父の収入の糧は、メキシコが誇るルチャ・リブレ(プロレス)だ。彼は子どもたちの飢えをしのぐため、一日の勤めを終えると聖衣を脱ぎ捨て、顔を黄金のマスクで覆ってリングに立つ。そんな生活が続く中、ヴィクトールは風来坊のペドロ(マルク・デュレ)と出会う。神父の人柄に惚れ込んだペドロは彼の助手となり、さらに偶然発見した廃村を「子どもたちの楽園」に作り変えるという夢に協力することを申し出た。一方、ヴィクトールにスポンサーが現れて、賞金額の高い試合に出場するように誘われる。相手はこれまで以上の強敵だが、子どもたちのためにこの話を引き受けた。早速彼は子どもたちを伴って市役所に向かい、廃村の権利を買う契約書にサインさせた。いよいよ試合当日。マリアや子どもたちの声援を浴び、ヴィクトールは苦戦しながらもペドロの力を借りて勝利を収める。「楽園」の建築が順調に進む中、またも試合の日がやって来た。ペドロもマリアや子どもたちを連れて応援に行くためにバスに乗り込むが、突然の風に身動きができなくなる。しかも激しい風雨の前に、「楽園」の家は無残にも崩壊してしまう。その頃、リングではヴィクトールが苦戦していた。このままでは負けてしまうという瞬間、場内の明かりが消え試合は中断になった。激しい雷雨の中、ヴィクトールは「楽園」へと急ぐが、嵐のため「楽園」は崩壊寸前であった。……数年後、「楽園」はヴィクトールの手で再興され、活気を取り戻した。』
日本の牧師たちには無縁なことでしょう。こういうことは「閑杳 慈光 比丘尼」さんがプロレスするわけにもいきませんが,インドではまだまだストリートチルドレンなどが無数にいるわけで少なくともこの孤児たちにご飯を毎日食べさせ,寝る場所を与え,読み書きそろばんの学校をつくることは大事でしょうね。
またバングラデッシュのグラミン銀行も小額融資(マイクロファイナンス)で悪口を言われておりますがいわゆる不可殖民では金利100%出しても貸してくれるところはなかったわけでそういう意味で30%融資で5人連帯保証制度をビジネスモデルとして莫大な利益を上げているのです。多くの貧民層が僅かな融資で手に職を得ている半面,自殺する人たちも出ているのは当然のことでしょう。
コルカタの物乞い
これはインドのスラム街ムンバイでの写真です。スラムにさえ入れない不可殖民かどうかは不明ですが同情心をもって何かをあげますか?この女は人の足音が聞こえると.......さっと片手を出すのです。こういう人たちがタイでもどこでも無数にいるのです。いわゆる乞食ビジネスというものです。午前中にどこからか車で連れてきて,中にはライ病でナイフで皮膚を切り(切られ)血だらけのひとなどもそれぞれの持ち場に配っていくのです。地べたを這っているイザリもいます。醜ければ醜いほど金は集まるということ。そして夕方になるとまたどこからともなく車がきて連れて行く。すごい売り上げでしょうかね 。
例えばインドでイスラム銀行法に基いたマイクロファイナアンスをした場合果たして採算に合うでしょうか。そのためには大きく広げないことです。職員は当然無給でなくてはなりません。僧侶のような人たちが一番好ましいのですが,仮に30%の融資にしても最初の5年間は金利の支払いなし,仮に自分たちのやった,例えば漁業にしてもそのお金で買った船が嵐で沈没してしまった場合でもグラミン銀行では連帯保証ですから誰かが肩代わりをしなくてはならないわけです。そういう場合イスラム銀行法ではアラーの名のもとに「仕方がない」ですんでしまうのです。5年たって成功し利益を上げている人たちは感謝の意味も含めて30%以上の寄付をすればいいのです。いくらイスラム銀行法がよいといってもある程度の担保はとります。しかし漁船を買う資本がない場合,銀行が漁船を買い担保とするのです。西側の銀行は質屋ですからそういうことは間違ってもしないのです。担保といっても時価の25%しか貸さず支払いが滞れば担保を取り上げてしまうのです。
失敗する人,成功する人...........こういう場合,5年経てば結果として出てくるのですが『貸した金は必ず返せ』ではなく成功したら充分な喜捨を貸し手にする.........これがイスラム社会では日常茶飯事で行われていることです。こういうシステムはインドでもどこでもイスラム社会以外でやる場合5年間で終わるのか,それとも継続できるのかは人類愛がなければ不可能でしょう。
踊り子サラ
ロッブリの寺院で引き取り手のないまま荼毘にふされた抜け殻の布袋の山。このどこかにサラは眠っている。エイズで死んでいく彼女たちにとって生まれてはじめて平安に帰るということだろう。
『小さな麻袋に包まれたサラに再会した僕はバンコック発の日本航空に乗り心地よいジェット気流に身を任せていた。中国の煙突から吐き出される黄色い煙、工場からの鉛色の液体は長江 揚子江を茶色に染め遥かかなたのメコン河にたどり着く。
タイとラオスをはさむメコンからその支流に流れ込み、チャオプラヤに合流しパタヤの海に流れ込む。パタヤの海は悲しいほど変色し魚介類は奇形しその魚によって人は空腹を満たす。売られた少女の処女は奇矯な華僑に高値で買われ犯さる。
その少女の涙は蒸発して雲になる。そして雨になり少女は汚れた体を洗い流す。流された水は再び雲となり大河に降り注ぐ。』
以下参考
六波羅蜜と無財七施
六波羅蜜の中でお布施を考えてみましょう。お釈迦様(釈尊)は「無財七施」ということを言ったそうです。(お金や品物がなくてもお布施が出来るということ)
愛語施
道元は「面(むか)いて愛語を聞くは面(おもて)を喜ばしめ,心を楽しくする。面わずして愛語を聞くは,肝に銘じ魂に銘ず」と言いましたが,思いやりのこもった暖かい心をかけること。(コメントのMSさんなどの暖かい心が愛語施です )
身施
捨身施とも言う。肉体による奉仕。
心施
善意の真心で他人や他の存在に対する思いやり。
床舎施
自分の席をゆずること。
房舎施
我が家を一夜の宿に貸すこと。
慈眼施
優しいまなざしであり,そこに居るすべての人の心がなごやかになる。
和顔施
柔和な笑顔を絶やさないこと。
色即是空空即是色ではなく,物で栄えて心で滅びる色即是色は現代社会に蔓延しています。お金や品物がなくてもお布施が出来るという無財七施ということを学びましょう。
大日如来や阿弥陀(これも梵語の音訳)如来のような最高位の悟りを啓いた仏(如来)の次に位置する仏さまの呼び方を六波羅蜜といいます。西行の詠った「誰とてもとまるべきかはあだし野の葉ごとにすがる白露」は諸行無常を思わせますね。
ではまず音訳の元になった曼荼羅の仏を考えてみましょう。
1.曼荼羅の中心仏(中尊)2.中尊に関わる諸仏(知恵・慈悲・力)3.聖なる五色(白・黄色・青・赤・緑)の壁 4.宮殿の方位(東西南北の門 5.バルコニー(中尊を供養する諸仏の在所)..赤6.象徴化された供養物 7.5にかかる庇(ひさし)..黄 8.宮殿の屋根の飾り..
青 9.宮殿の屋根の樋(とい)..灰色 10.宮殿の壁の飾り 11.門上の左右にのびる金剛(ダイアモンド)の角 12.11の根元にいる聖獣マカラ 13.門の基壇 14.門の屋根の飾り 15.仏の教えを象徴する法輪 16.法輪にかかる天蓋 17.法輪を見つめる二頭の鹿 18.「蓮華輪」宮殿をささえる五色の蓮華の基壇 19.金剛絵杵輪ー曼荼羅の外側を守る金剛(ダイアモンド)のカプセル 20.火輪ー19から発する内的力の象徴。仏敵の侵入を阻止する 21.墓場ー無上ヨーガタントラの曼荼羅で18と19の間にしばしば描かれる。ヒンドゥ教に荒らされた人間界の象徴
仏という五仏
大日如来
阿悶(あしゅく)
宝生
無量光
不空成就
金剛薩たー五仏を統括する
持金剛=金剛手ー五仏と統括する
釈迦
薬師
無量寿
三十五懺悔仏
羅漢
菩薩ー仏につぐ修行者
八大菩薩
文殊
弥勤
観自在=観音
普賢
金剛手
虚空蔵
地蔵
除蓋障
アチャラー日本では不動明王
仏頂尊勝
般若波羅蜜ー女尊
多羅(ターラー)−女尊
白傘蓋ー女尊
パルナシャバリーー女尊 葉衣観音
守護尊(僧が念仏仏として選んだ仏)
クヒヤサマージュータントラの主尊
チャクラサンヴァラー勝楽
へーヴァジュラー呼金剛
へールカー五仏の化身で五種に変化する
マハーマーヤー −大幻
カーラチャクラー時輪
ヴァジュラ・バイラバァ金剛威羅瓦
ヤマーリー焔魔敵
アーユスパティーー寿命の主
ハヤグリーヴァー馬頭観音
ダーキニー −虚空を行く女
マチラドンマー女尊
ラーフー羅喉星
ヴァジュラ・ヴァーラーヒー 金剛刻母ー女尊
護法尊ー仏法の守護者
マハーカーラー −大黒
ヤマ ー文殊の化身・日本では焔魔
ヤマーンタカ −大威徳明王
ラモ −女尊
チェリンマ −女尊
大日如来像......1176年運慶作。
この曼荼羅の中心にいる中尊は大日如来です。曼荼羅の中尊が替わると全ての仏の配置が替わってきます。ですからこの如来に少しでも近ずくために,お釈迦様は布施・持戒・忍辱(にんにく)・精進・禅定・知恵という修行をするよう説いているのです。ジャイナ教の場合は一寸違う。中心はクシャトリア王族の出身を意味するマハヴィーラ,本名ヴァルダマーラ(日本では達磨 と呼ばれる)やアヒンサー(AHIMSA)という不殺生の文字がある。ジャイナ教徒のみ須弥山を五体投地する場合左まわり。
布施(ふせ)とは布施をする際,受け手に対して恩を売るものであってはならない。 もともと他人様を助け,世のため人のために尽くすということです。稲盛流に言えば「思いやりの心」であり「優しさ」なのです。
持戒(じかい)とは戒律を守り,それにそった善・正を実践する生活を行なう事。学校では校則をまもり,正しい生活をすることです。稲盛流にはもっと詳しく書いてあります。
忍辱(にんにく)とは他人の悪口や,批判,中傷などの苦難に耐え忍ぶこと。それに対して腹を立てたり,怒ったり,恨みを持たないこと。怒りが人間を支配してしまうと,えてして大きな間違いを起こしたりすると稲盛さんは言っています。
禅定(ぜんじょう)とは少しの時間でも心を静かにして,自分を振り返る事。そして自分を変えて行くこと。そうして恥ずかしくない教養を身につけなさいということ。
智慧(ちえ)とは仏教の説く真実をみきわめること。つまり真の智慧があれば,宇宙の真理にまで至ることができるとするものです。
精進(しょうじん)とは他の5徳目を修めることを,あきずに誠心誠意努力すること。その代表例が二宮尊徳ですね。
都会(まち)で托鉢僧に出会ったら,お布施をしましょう。その意味がおわかりになったでしょう。頂く修行僧にとって,体が震えるほど嬉しい至福の瞬間なのですから。稲盛さんご自身も托鉢でそういう経験をされています。(多くは統一協会の偽托鉢僧ですので六波羅蜜を言ってみて,と質問しましょう)
NHKで仏師という仏像彫刻師のテレビをやっていましたが,不動明王をある寺に納めるのですがこれはアチャラーという仏に次ぐ修行者の八大菩薩の一つにすぎませんから,この5メートルに及ぶアチャラーを寺の中尊に据えるのはどうなんでしょうか。菩薩はあくまで仏につかえる修行者ですから,違和感を感じました。しかしアチャラー(不動明王)を念仏仏の守護尊として扱っているのでしょう。南無阿弥陀仏と念じているのでしょうか。阿弥陀は梵語(ぼんご)の音訳です(Amitabha+Amitayusuの共通語のAmitaを音訳したもの)からね,念者はしっかりしてほしいです。根っこは根本曼荼羅ですから。
アミターバ(無量光)とアミタユス(無量寿)=(南無)阿弥陀仏
Amitabha....阿弥陀仏の発する十二光の一。永久に無限の恵みをもたらす光明。無量無辺光。
Amitayusu....阿弥陀仏の寿命が無量であるところから》阿弥陀仏のこと。無量寿仏。
南無阿弥陀仏
最後に比丘尼さんのメールにもありました「どの人も,罪を犯した人たちも,救われていく時を祈っています」という言葉がありましたが,トルストイの復活の中に「人間性のあらゆる萌芽を自分の中に持っているのである 」という文章があります。人間だれでも同じ人間が悪事を働くときもあり,また,善行をするときもあるということなのでしょう。
『世間に最も広く流布されている迷信の一つは,人間というものはそれぞれ固有の性質を持っているものだということである。すなわち、善人とか,悪人とか,愚者とか,精力的な者とか,無気力な者とかに分かれて存在しているという考え方である。
だが,人間とはそのようなものではない。ただわれわれはある個人について,あの男は悪人でいるときよりも善人でいるときのほうが多いとか,馬鹿でいるときよりもかしこいときのほうが多いとか,無気力でいるときより精力的であるときのほうが多いとか,あるいはその逆のことがいえるだけである。
かりにわれわれがある個人について,あれは善人だとか利口だといい,別の個人のことを,あれは悪人だとか馬鹿だとかいうならば,それは誤りである。それなのに,われわれはいつもこんなふうに人間を区別しているが,これは公平を欠くことである。
人間というものは河のようなものであって,どんな河でも水には変りがなく,どこへ行っても同じだが,それぞれの河は狭かったり,流れが速かったり,広かったり,静かだったり,冷たかったり,濁っていたり,暖かだったりするのだ。
人間もそれと全く同じ事であり,各人は人間性のあらゆる萌芽を自分の中に持っているのであるが,あるときはその一部が,またあるときは他の性質が外面に現れることになる。そのために,人々はしばしばまるっきり別人のように見えるけれども,実際には,相変わらず同一人なのである』 トルストイ「復活」59章より
慈光さんのいう『悪は、正しい道を教える道しるべです。』という啓示を忘れないように。
拙稿:マキャベリ式経営術 で記事にしましたが「天国へ行くには地獄への道を知らなくてはならない」と同じことなのです。地獄への道を知るには悪が必要ということです。
何事につけても善を行なうことしか考えない管理者は悪しき者の中にあっては破滅せざるを得ない。悪しき者である事を学べ。(破滅して社員を路頭に迷わせてからでは遅いんですよ)
332
2011/10/14
日・ユの神話には確かに共通点が存在するが、世界的な視点からはどうなのだろうか。
豊穣の神と太陽神にまつわる伝説などでは、豊穣神が毎年、春に蘇り秋に殺される。
そしてまた春に復活するのだが、それを迎えに妻であり母である太陽神が冥界へと下るのだという。その太陽神が冥界へ行っている間は、世界は暗闇に閉ざされ家畜は子を産まず人々は困窮する。そこへ冥界から帰った太陽神と豊穣神が登場し、世界は光と安寧を取り戻すというものだ。この神話などは天の岩戸神話 を彷彿とさせる。
ファラオの命を脅かすとして子供を皆殺しにされそうになった時に、神の助けによりユダヤの子供が救われたとする伝説に基づくとされる『過ぎ越しの祭り』(PASSOVER)も、その発端は遠くユダヤ以前に存在するものの様であり、それが形を変えて日本では『蘇民将来』の祭りとなっている。色んな神様や神話があるもんだなあ〜 (汗)
アメノウズメって知っていました?
Gerizim山で過越(PASSOVER)のため野営するサマリア人。過越しのいけにえを屠ることができるのは,あなたの神,主が与えられる町のうちのどこででもよいのではなく,ただ,あなたの神,主がその名を置くために選ばれる場所でなければならない。(申命記第16章5〜6節)
過越し祭りの前日,食事の準備が完了するとサマリア人は紀元前120年に滅びたサマリアの最も聖なる寺院のあるGerizim山の岩場に集合する。写真で立っている高位の祭司が以下を述べる。「これから述べる掟と法は,あなたの先祖の神,主があなたに与えて得させられる土地で,あなたたちが地上に生きている限り忠実に守るべきものである.................」(申命記:礼拝の場所・第12章1〜6節参照)
The Master saith,Where is the guestchamber,where I shall eat the passover with my disciples?.パレスティナのアラブ人村では二階がゲストルームになっている。聖書の時代,このような部屋は一つの社交であった。ペトロとヨハネは二階で食事の用意をした。「すると,席が整って用意の出来た二階の広間を見せてくれるから,そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」弟子たちは出かけて都に行ってみると,イエスが言われた通りだったので,過越の食事を準備した。夕方になるとイエスは12人と一緒にそこに行かれた。マルコ14章15〜17節。
BLOOD UPON THE LINTEL.出入り口の上の横木は血で塗られる。「これが主の過越(すぎこし)である。その夜,わたしはエジプトの国を巡り,人であれ,家畜であれ,エジプトの国のすべての初子を撃つ。また,エジプトのすべての神々に裁きを行なう。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は,あなたたちの徴(しるし)となる。血を見たならば,わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき,滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。(出エジプト記第12章11〜13章)
過越祭(Passover)の食事はいつも定められている。「そしてその夜,肉を火で焼いて食べる。また,酵母を入れないパンを苦菜(Bitter herbs)を添えて食べる。(出エジプト記第12章8節)
主の過越祭りである。いそいで食べよう。「肉は生で食べたり,煮て食べてはならない。必ず,頭も四肢も内臓も切り離さず火で焼かねばならない。それを翌朝まで残しておいてはならない。(出エジプト記第12章9〜10節)
聖書ものがたり・申命記参照
管理人はキリスト教徒ではないのですがブログをはじめたきっかけは何も知らない自分が恥ずかしかったからです。藤沢のルーテル教会で幼児洗礼は受けましたがまったく教会や聖書には無縁でした。しかし,洗礼を受けたときの記憶は残っているのですがその後何回もあった絶体絶命の時,何者かが背後で押してくれたことは多々あったのでした。
日本に既存していたその文化は、恐らくはユダヤ民族という概念が誕生する以前に遡る時代の話しである。
その証拠に私達にはユダヤに見られる『神との契約』の記憶が無く、選民意識も存在しない。『神との契約』という衝撃的な出来事が起こっていたならば、ユダヤ民族に見られる様に決して忘れることなど出来ないであろうからだ。
中世あたりから『神州日本』的な考えは存在するが、それは恐らくは『元寇』辺りから一般的になったものだろう。そして帝国政府が戦争遂行の為にそれを利用し、最後は
『神風特別攻撃隊』なる理不尽な攻撃の大儀名分として大日本帝国とともに絶命した。
偽書とされる幾つかの古文書では、視点が政治的な主流に逆らっている為に内容の如何に係わらず一切認められていない。
そこでは世界的に活躍する私達の祖先の姿が活写されていたりするが、アカデミズムからは一笑にふされ、顧みられることはない。
正史的な解釈からは当然であろうが、その正史として唯一認められている『記紀』にしても多くの矛盾と欺瞞に満ちているであろうことは否めない。
日本神話では妻のことを妹というが、ユダヤでもやはり同じである。またソロモンが契約の箱をダビデの町から神殿に移した時に雲が神殿に満ちたという。
その時にソロモンが述べた誓いと、スサノオが詠んだとされる和歌『八雲たつ出雲やえがきつまごみに やえがきつくるそのやえがきを』が殆ど同じ意味だという。
研究者の中にはヤクモとイズモはヤコブとエドムであると指摘する人もいるらしい。
『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)には何と1〜2万年前の亜氷期の記憶が記されている。この時期に温暖だった気候が寒冷化し、平均気温が低下したのだが、このことは山の幸で十分に暮らしていけたものが、農耕による食料生産の必要に迫られたことを意味している
ディテールは異なるが、山本建造氏も乗鞍岳(のりくらだけ)付近に生活していた人々が気候の寒冷化により平地(現在の岐阜県・高山市付近)に移住したという説を発表されている。
山本氏の場合は乗鞍山麓に居住していた人々が原日本人だとされていて、飛騨から出雲や奈良へ人々が遣わされ、外国からの脅威に備えていたのだとされている。
しかし平地に降りて農耕が必要となれば、武力以上に権力を握る武器となるものがある。農耕技術がそれだが、九州に渡来して日向に拠点を築いていた日向族にとって日本を支配する絶好のチャンスが到来することになった。
この日向族は恐らくはヨセフ族であり、増長した彼らは自らを天から下ったもの天孫族と呼称するようになる。高千穂に降臨した天孫とは日向族であったが、彼らの覇権を目指す闘争は未だに全国に広がる様なものではなく、九州の一地方での戦いでしかなかった。後に東征して近畿地方で天下の覇権争いを繰り広げた相手は、皮肉にも後に同じユダヤ系渡来氏族といわれる人々であった。
結局は日向族 が勝利したが、日向族もナガスネヒコも自分達が後世には同じ部族としてひと括りにされるとは知る由も無かった。
この闘いの後に近畿に勢力を築いた日向族は、ワカミケヌ(神武)の時代に最盛期を迎える。そして神武は彼の詠んだ和歌のなかで、自身の妻を妹と表現している。
これはユダヤ独特の表現であり、日向族とはその昔、僅かの種籾を携えて日本に渡来してきたユダヤ系の人々であった証拠でもある。
そして神武を先頭に日向族の東進が始まる、古代史に有名な神武の東征である。
しかし、これには異説も存在する。山本建造氏は岐阜県の飛騨地方にある『位山』に神武の墓があり、神武の本当の名は『サヌ』であり、その昔は地元の古老が嫁にその経緯を語って聞かせたという。
山本説によると神武は東進した大和でニギハヤヒと対峙するが、やがて神武とニギハヤヒはお互いの先祖が同じであり、かつては陸路と海路に分かれて出発した同じ一族の同胞であると判明する。更に出発前に先祖同士が交わした約束により、ニバハヤヒは都を神武に譲ったとされている。
つまり、ここでも渡来人が既に大和に居住していた可能性が示されている。しかも先祖同士の約束をちゃんと履行する律儀さは、多分に日本人らしさを示している様に感じさせる。
ユダヤ系渡来人である日向族が、同じくユダヤ系とされるナガスネヒコとアビヒコの兄弟が支配するヤマタイ国を撃破し得たのは、ひとえに剣の力だけではなかった。
ヤマタイ国の指導者である二人の名前にはヒコが付く が、水上氏によればヒクソス と呼ばれる民に由来するものらしい。ヒクソス とは500年以上もエジプトを支配し、契約を交わしてエジプトを出て行った民族とされ、ヒク=王・ソス=牧人という意味であるらしい。
日向族(ひゅうがぞく)ってな〜に?
だが、古代史研究家の水上涼氏が家紋を研究したところ、イスラエル12支族の全てが日本に渡来していることが判明し、著書『ユダヤ人と日本人の秘密』(日本文芸社)の中で詳細に解説している。
とすれば、「出雲族」と「日向族」の対立は、イスラエルの「10支族」と「2支族」の対立とも無関係とは思えない。
イスラエル共和国の再建まで、ユダヤ人は国を持たない放浪の民と言われてきたが、実は古代日本列島に民族移動し、世界で最も古い歴史を持つ「日本」という国の建国者だったのだろうか……引用はここから
ヒクソスと出エジプト記
ヒクソスの学術的解説(Wiki)
聖書ものがたり・出エジプト記
名前にヒコを付けるのは、その流れを汲む人々であるとの説があった。つまりナガスネヒコ、アビヒコは渡来人の支配者だったと思われる。
このヒクソスはエジプトを脱出後 、ユダアと呼ばれる国にエルサレムという町を造ったと伝えられている。このヒクソスとはエブス人のことで、中国の神話時代に活躍した夷と呼ばれる人々がそれで、日本では彼らをエビスと呼んでいた。
これは古代日本とエジプトとに交流があった証かも知れないのだ。
エブス人
「創世記」10章15-18節では、長男シドン、ヘト、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アキル人、シニ人、アルワド人、ツェマリ人、ハマト人の11の氏族を総称して「カナン人の諸氏族」と呼んでいる。そのカナン(現パレスティナ)人はいち早くゴシェンに住んでいたセム族であったかどうかの記述はどこにもない。
その日,主はアブラハムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで,カイン人,ケナズ人,カドモニ人,へト人,ぺリジ人,レファイム人,アモリ人,カナン人,ギルガン人,エブス人 の土地を与える」<創世記・Genesis15:18>
天照大神は孫のににぎのみことにいった:お前にこの瑞穂の国を与える(古事記)
ニニギノミコト
聖書ものがたり・創世記
えびす様
さて気候が寒冷化したが故に、狩猟と採集で生活の糧を得ていた日向周辺の国々はたちまち窮地に瀕した。
一方では小勢力ながら農耕を糧としていたワカミケヌ(神武)達は、それほど困ることもなかったのである。そして日向族の前に多くの国々が膝を屈したのである。
このことは全く経済力の差であり、力ばかりが戦の勝敗を決定するものではないと日向族に実感させたことであろう。
それは東征を目指した神武が、突然に熊野川を遡り当時としては貴重な辰砂をわざわざ求めていることでも判る。この辰砂は朱の原料となるもので、後には大陸への貴重な輸出品として政権の経済を支える物のひとつである。
神武達は飢えに苦しむ集落へ稲作を教え、見返りには法外な指導料を取り力を蓄え、時には武力で制圧し、時に政略結婚などの懐柔策を用いて、その勢力を伸ばして行った。
出雲の伝承では神武は七人いたというが、恐らくは七代はオーバーにしても複数代に渡ってこの東征が成し遂げられたものであろうと推察される。伝承を信じればその何代かの日向族の長が、神武という一人の人格に統合されて現代に伝わっているに違いない。
それはまた日向族の偉大さを誇張する為に、後世に成って『神武』という偉大な人物が捏造されたという可能性をも示してはいないだろうか。
日本では古来、支配権を握った勝者が、歴史を自分達の都合に合わせて改ざんすることが、当然の如くに行われていた。それは、多分にユダヤ的な行為でもあり、日本史の中では後世の政権も常に同じことを平気で行ってきた。
現代では有名な豊臣秀吉も、江戸時代には庶民から忘れ去られていた。無論、豊臣から政権を奪った徳川の政治的な方針により抹消されていたからだ。
それが復活したのは、やはり明治新政府の政治的な狙いによる。それは徳川前政権を、悪者に仕立てたいが為の方策のひとつだった。
前に挙げた『記紀』(管理人注 :日本書紀と古事記の略称)もその例に漏れず、勝者となった日向族の都合に合わせて編纂されたものであろう。
記紀に関しては「景教と弘法大師空海」参照
だとすれば古事記のイザナギとイザナミのシーンも、自分達の習慣・風俗に合わせて記述したに違いないから、日向族はユダヤ系渡来民と考えられるのである。
そして敗者の側の記録は一切が異端として認められず、闇へと葬り去られる。
『東日流外三郡誌』もまた、このような敗者の記録であり、密かに伝えられた歴史書のひとつであるのだ。
このような捏造の繰り返し が今日の日本史を歪め、矛盾と誤謬に満ちたものにしてしまったのだ。
統一協会の大学教授が物凄い勢いで急増しています。奨学金を出してもらったからでしょうか。
だがどちらにしろ、ユダヤ系の渡来人と思われる勢力が日本の中心に腰を据えたことに変りはなく、彼らはやがて大王や大君と呼称していた王権を『天皇』という、より尊大な呼び名に変更したのだった。
そして彼らが拠点とした近畿地方一帯が、つい400年前まで日本の中心として繁栄し政治・文化の中心であった。
祇園祭はイスラエルのシオンからきたもの
祇園祭は、古代イスラエルのシオン祭りがルーツであるとも言われており、どちらも疫病を払うもので、7月1日から1ケ月間祭りは続き、ノアの箱舟がアララト山に漂着した7月17日にクライマックスを迎えます。 これは、シルクロードの果てから、新羅経由でやってきた最強の渡来人で、実質的に日本をつくりあげた秦氏が、古代イスラエル文化を日本に伝えたものと考えられます。
平安京をつくったのは桓武天皇ですが、その技術・資金の大半は全て秦氏のものであり、祇園祭を主催する八坂神社をつくったのは秦氏であります。 というか、日本の神社は八坂神社に限らず、秦氏によってつくられたものです。
日本書記など理解された上級者はこの小林恵子(やすこ)さんの本はいいと思います。1978年の論文「天武天皇の年齢と出自について」(東アジアの古代文化16号)をまとめた内容で.......泉湧寺が天武系の天皇を祀っていないことが明るみに出ている。なぜ天武系は皇統から排除されるのか。それは天武と天智が本当は兄弟ではないというだけではなく,百済王の系譜を引く天智に対して,天武は森羅系渡来人だったから,という。「日本の正体」99〜に詳しく出ている。しかしながら日本書紀は縄文系が古事記は森羅・ユダヤ系渡来人が書いたものと思われるが立場によって変わってくる。藤ノ木古墳を調べてみるといいだろう。朝鮮王朝との関係を。
フルベッキが中心になって起こした明治維新が実は南朝革命であったことを知る人は少ない。鹿島昇は,光明天皇が暗殺されたと見た上で,明治天皇が光明天皇の皇子(睦仁)ではなかった可能性を述べている。明治天皇の孫を称する中丸薫さんがあるテレビで明治天皇は南朝.....と発言して騒然としたことがあったらしい。鹿島昇の説はつまり鎖国維持を主張する光明天皇に続いて明治天皇も殺されたという説である。なぜ薩長とその勢力に与した公家たちが,そんなリスクを冒したかというと,明治維新の目的が,実は南朝革命だったからだという。
古代社会でも最も有名な帰化人といえば『秦氏』であろう。聖徳太子の側近に秦河勝(はたのかわかつ) が居り、この人が宮廷での雅楽を世襲してきた東儀家の遠祖といわれている。河勝は渡来人であり、秦の苗字が示すように秦氏の出身であろう。
秦氏は雅楽、絹織物、土木、農耕などの技術を持っており、その技術を背景に巨大な富を蓄え政治的にも影響力を及ぼすようになった。
その秦氏が主導して作り上げたのが平安京であるという。これはヘブライ語のイールシャローム(エルサレム)を日本語にすると平安京となるのだそうだ 。そればかりでなく、何とエルサレムの付近にはキネレット湖があり、これは琵琶の意味だそうでエルサレムという街の名とキネレットという湖の名をそのまま写したのが平安京と琵琶湖だといえよう。
政治の中枢が江戸に移ってからも、経済の中心として命脈を保ち続けたことは奇跡的な出来事といえるのかも知れない。
その理由として私的には、やはりユダヤ以前から続く大きな文化的なベースが存在し、それがユダヤに残った伝統的なものと重なったことにより更に強化されたからだと考える。(引き続き了解をいただいたここの管理人様の記事を解説・編集・要約しています)
よくメールを戴く読者からの転載です。
こんにちは、Tatsujin様 XXです。
その岐阜県の高山市民のことですが、数年前に行なわれたミトコンドリアDNA検査で、市民の50%以上が、いわゆる「縄文人」と言われる人々だということが判明しています。
きわめて特徴的な分布を示していたと当時のニュースで見た覚えがあります。
おそらく、中部(に限らずですが)の山岳地方の人々の中には、いわゆる「まつろわぬ民」として追いやられて定住した人々(生活としては狩猟、炭焼き、マタギ、などなど)が多数いたのではないかと推察します。
それでは失礼します。
まつろわぬ民ってな〜に?
「まつろわぬ民」であった日本東部の民・蝦夷 (えみし、えびす、えぞ)がヤマト王権・朝廷により東北地方へと追いやられながらも守り続けた伝承とする説が唱えられている。
蝦夷は統一国家に抵抗していた 。
蝦夷征伐
卑弥呼の正体
ヒクソスから帰来した渡来人
2CHは玉石混交ですね。
この世には決して知ってはならない文字がある 。
1 ■サンカについてのサイト
ついさっき、サンカについてのサイトを訪問したら、再開していたので、是非このサイト「熊野ライフ」掲示板参照をー
http://www.kumanolife.com/blobee/bbs.cgi?ffpnDw3YMcHVA
サンカくらいが天然痘患者を受け入れる集団だったように、包容力のある平和的な集団だった。
そして唯一サンカを受け入れたのが被差別部落だった点や、その生業を考えると元々の列島先住民生き残り集団に様々な流れ者が流入した集団なのではと思う。
上記BBSより
佐治芳彦著:謎の神代文字
こういう本を採り上げるについて、先に一言書いておいたほうがいいだろう。
こういう本とは、ぼくが仮に「アダムスキー本」とよんでいるもので、超古代史もの、UFOもの、偽史伝もの、予言ものなどをいう。巷間ではしばしば「カルト本」などともいわれる。だいたい見当はつくだろう。
ぼくの知っているかぎり、このような本、たとえばヴェリコフスキーの『衝突する宇宙』、チャチワードの『失われたムー大陸』、デニケンの古代遺跡をめぐる一連著作、日本でいうなら吾郷清彦の『古事記以前の書』や古田武彦の『邪馬台国はなかった』、最近よく売れた本の例でいえばグラハム・ハンコックの『神々の指紋』といった本を、これまでまったく読んだことも覗いたこともない読書人やメディア関係者というのは、まずいない。誰もが一度や二度は手にとっている。本棚の片隅に眠っているばあいも多いことだろう。
それにもかかわらず、このような本が一般的なメディアで書評の対象になるということは、ほとんどない。書評どころか、知識人たちのエッセイに登場することもない。理由はただひとつ、「いかがわしい」からである。
しかし、「いかがわしい」というだけなら、世界の全刊行書籍のうちのおそらく半分以上はいかがわしい。
日本の「アダムスキー本」の多くは、必ずやどこかで日本の古代史にかかわっている。
これを「日本の超古代」などいう。この言葉、ちょっと“いかがわしい”ので、最近は「日本の古史古伝」とよぶことになっているが、この古史古伝をめぐる仮説が、やはり書評はおろか、まったく歴史研究の一部とさえみなされていない。
実は、この手の“超古代仮説”が無視されてきたのは、もともとは明治以降の古代史ブームに関係があった。
いくつか原因があるが、ひとつだけ言及しておく。
明治以降に西洋思想が流れこんだとき、この内容をうけて日本の原始古代史にあてはめた一連の比較文化研究ともいうべきものの大半が流産してしまった。
これには、バイロン研究者としては有名な木村鷹太郎が日本神話とギリシア神話の類似に着目して書いた荒唐無稽きわまりない『世界的研究における日本太古史』(明治45年)、無政府主義者で大杉栄らの友人だった石川三四郎が記紀神話のルーツをヒッタイト神話やユダヤ神話に求めた『古事記神話の新研究』(大正10年)、あるいは小谷部全一郎がジンギスカン=義経説につづいて打ち鳴らした『日本及日本国民之起源』(昭和4年)などがある。まだまだいろいろあった。
いずれも今日ではまったく認められていないが、当時はたいていがベストセラーで、そこそこ学者たちも巻きこまれていた。けれども、その内容の多くは外国語を先駆して読めた学者たちの、あまりにも牽強付会な推理ばかりだった。
ようするに海外事情に暗い日本人に、日本のルーツを国際化するためかのような眉唾な話をふんだんに取りこんだのである。これでは長持ちするはずはなかった。
それでもまだ、この手の話は荒唐無稽でも、痛快なところもあった。ところがここに決定的な“事件”が加わった。
茨城で教派神道系の宗教法人皇祖皇太神宮天津を主宰していた竹内巨麿が発表した「天津教古文書」が、学界からの猛攻撃をうけてしまったことだ。
これがいわゆる「竹内文書」である。
謳い文句によると、神代文字で綴られていた文書を武内宿禰の孫といわれる平群真鳥が武烈天皇期に勅命をうけて漢字まじりで翻訳したという文書なのだが、当時の三上参次・黒板勝美らの史学者の頂点いる学者たちの逆鱗にふれたばかりか、竹内巨麿がその発表内容で不敬罪で起訴され、さらに岩波の「思想」が昭和11年に狩野亨吉をして「天津教古文書の批判」を書かせ、木端微塵に粉砕してしまった。そういう“事件”だった。
なにしろ日本の古史古伝には日本神話がかかわっている。安易なあてはめは、良くも悪くも警戒されたのだ。以来、この手の本はなかなか浮上してこなくなる。
こうして長らく、偽史伝を扱うこと自体がタブー視されてしまったのである。ぼくは偽書や偽史もまたひとつの史書史料であるとおもっているけれど、学界はそういうことを「でっちあげ」として絶対に許さなくなっていった。
それでも昭和30年代の邪馬台国ブームをきっかけに、古史古伝書に言及するタブーは少しずつ破られてきた。が、ちょうどそのころに欧米の「失われた大陸ブーム」やUFOブームが浮上し、さらにはヒッピー・ムーブメントに付随したオカルト・ブームが重なってきた。
あるいはそれまでに、偽史偽書をめぐる本格的研究があってもよかったかもしれないのに、その日はオカルト・ブームによってまたまた遠のいてしまったのである。まあ、いろいろ不幸が重なったわけだ。
で、本書のことになる。
この本は日本の古史古伝に関しての案内である。むろん著者の言いたい仮説は書いてあり、本書にとりあげた古史古伝をいずれも認めたいという切実なものなのだが、その言い分をむりやり通すという態度は見せていない。
したがって本書は比較的よくできた日本の偽史偽伝のガイドブックとして読める。偽史や偽書というものが日本でどのように扱われてきたかについてのサポート・レポートにもなっている。そういう意味では珍しい本なのだ。著者についてはぼくは知らないのだが。
ここで古史古伝というのは、“超古代史研究家”の吾郷清彦による定義づけによめもので、本書もそれが基本的に援用されている。それによると、次のようになっている。
『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』が古典三書、それに『先代旧事本紀』(旧事紀)を加えて古典四書、別して「竹内文書」「九鬼文書」「宮下文書」を古史三書とし、さらに別の範疇として「上記」(うえつふみ)、「秀真伝」(ほつまつたえ)、「三笠紀」を古伝三書というらしい。
これがこの“斯界”の研究者たちの“常識”になっている。むろん“斯界”では通用しているが、一般的には、つまり歴史学界では認められていない。それはともかく、ごくかんたんに1行解説をすると、次のようになる。
★「神代文字」で書かれたとみられる古史古伝
上記=頼朝の妾腹の子の豊後守護代・大友能直が関与したというので「大友文書」ともいう。その宗像本といわれる写本を明治初年に幸松葉枝尺が筆写し、それをさらに抄訳した吉良義風の『上記鈔譯』が明治10年に出た。最近になって吉田八郎『上つ記』、吾郷清彦『ウエツフミ全訳』が刊行された。
秀真伝=平田篤胤が『神字日文伝』(文政2年)の巻末に「疑字篇」に示した出雲に伝わるホツマ文字にあたる文書を、昭和41年に松本善之助が“発見”し、さらに宇和島の小笠原家で完本が見出されたというもの。この完本のもとは近江三尾神社の神宝を天保14年に小笠原通当が『神代巻秀真政伝紀』12巻として著したものだったという。
三笠記=「秀真伝」同様、宇和島小笠原家で松本善之助が“発見”したもので、「神載山書記」ともいう。やはりホツマ文字で綴られていた。
カタカムナ文書=上津文字で綴られたとみられているが、どうもこれがカタカムナ文書だと特定できている文書はないようにおもわれる。斯界では楢崎皐月による『カタカムナのウタヒ』を基本資料にしている。
★一部に「神代文字」が出てくる古史古伝
九鬼文書=九鬼家伝来の文書を九鬼隆治が、元大本教幹部の三浦一郎を通して『九鬼文書の研究』(昭和16年)として一部公開したもの。春日文字が見られるという。
竹内文書=上記にふれたように、昭和10年以前に天津教の竹内巨麿によって公表された。
宮下文書=富士文書・徐福文書ともいう。三輪義熈が30年をかけて『神皇紀』(大正11年)として翻訳刊行したといわれるもの。
物部文書=岩手の小保内樺之介が陳述したという『天津祝詞の太祝詞の解説』にもとづく文書。阿比留草文字で綴られたといわれる。
東日流外三郡誌=つがるそとさんぐんし。津軽の『市浦村史資料編』の中に収録されている。昭和50年に公開されたばかりで、かなり話題になった。寛政年間に編纂されたものだが、ナガスネヒコ(長髄彦)、アラハバキ(荒吐王)を主人公とする物語は興奮すべきものをもっている。
だいたいこんなふうになっている。異論も異説もあるが、ともかくこういう見取図だ。
では、これをどう読むかということだが、これらの内容には、さすがにしばしば腰を抜かすものが少なくない。“疑わしい”あるいは“いかがわしい”といえば、いくつもそう見える。しかし、そこをどう見るか、である。
たとえば「お筆先」をどう見るか。新井白石や頼山陽や徳富蘇峰の記述をどう見るか。秩父困民党蜂起や東京ローズや松川事件をめぐる記述をどう見るか。もっとグローバルにいえば、マタイ伝やカバラ文献をどう見るか。アヘン戦争やイラン・コントラ問題や天安門事件をどう見るか。そういうことにかかわってくる。
それらはある意味ではそれなりの編集が時間をかけてされてきたことによって、歴史の確固たる文献になってきた。あるいは教典になってきた。あるいは、なりつつある。
けれども、ここにあがった古史古伝の多くは、未整理であり、他人の手も時間の手もほとんど加わっていない。それに、楔形文字や線文字Bのように、学者たちが解読しようともしない文字で綴られていると主張しすぎている。
おそらくはそういった理由がいろいろ動いて、これらには何かを訴えるところも少なくはないにもかかわらず、これらは一介の民間史伝者の“よまいごと”として片付けられてきた宿命の裡にあるわけなのであろう。そのため、実は一度は目をむけた人が多いにもかわらず、公然と放置されてきたのだった。
が、ともかくも本書のようなものに一度くらいは目を通すことを勧めたい。どんな感想をもつかは各自に覗いてもらう以外はないが……。
とくに本書は、これらの古史古伝文書の成立の経緯とそれに対する批判も案内しているので、この手の本のガイダンスとして読むことを勧めたい。
著者は古代史研究家で、『謎の竹内文書』『謎の東日流外三郡誌』(いずれも徳間書店)がある。なお、明治期に日本の偽史がさかんに書かれた背景と事情については、長山靖生の『偽史冒険世界』というすこぶる興味深い本があるので、そちらを覗かれたい。
参考¶これらの文献の入手はけっこう難しい。絶版もの、版元がつぶれたものを含めて、かつては比較的書店で入手しやすかったものだけをあげておく。
吾郷清彦『古事記以前の書』(大陸書房)、同『日本超古代秘史資料』(新人物往来社)、同『ウエツフミ全訳』(霞ヶ関書房)、同『日本神代文字研究原典』(新人物往来社)、同『日本超古代秘史研究原典』(新人物往来社)、鳥居礼『秀真伝』全2巻(八幡書店)、三浦一郎『九鬼文書の研究』(八幡書店)、田中勝也『上記研究』(八幡書店)、『東日流外三郡誌』全6巻(八幡書店)、宮崎小八郎『神代の文字』(霞ヶ関書房)、松本善之助『ホツマツタヘ』(毎日新聞社)、池田満『ホツマ辞典』(展望社)、鈴木貞一『先古代日本の謎』(大陸書房)、相馬竜夫『日本古代文字の謎を解く』(新人物往来社)、吉田信啓『神字日文考』(中央アート出版社)、長山靖生『偽史冒険世界』(筑摩書房)など。
拍手より
サンカ(山窩)とゴシェン その2
2011/10/17 16:29
何時もありがとうございます。
山窩とジプシー
山窩が里に下りて来て、籠やその他手作り品を売ったりしていましたが、ジプシーも籠や花籠などを売り歩きました。
そして、山窩は他の仲間に情報を伝える手段として様々な記号を使っていました。
例えば「この家はケチだ」「この家は気前がいい」「この家では近々婚礼がある」等々、また危険な村では「逃げろなど」、ところが、インド発祥といわれるジプシーが用いていた記号も山窩とマッタク同じなのです。
両者には何かしらの関係があるのか。
話は違いますが、源氏の紋章であるササリンドウ(笹竜胆)の紋章も古代インドに存在していました。
錬金術と中世ヨーロッパ諸国の法律
最初に錬金術に成功したのはソロモン王だといわれます。
中世ヨーロッパでは、多くの国が錬金術を行う者は国家に対する反逆(死刑)である、としています。だがここで間違えないで貰いたいのは、錬金術を研究する者は死刑であるといっているのではありません。錬金術によって、実際に金を作りだしている者を国家に対する反逆であるといっているのです。
従って、金が欲しくて錬金術師を歓迎すると呼びかける国もあったようです。
大英博物館には、錬金術が実際に存在した証拠の品があると聞き及んでおります。1キロの銀のメダルの半分が金になっているモノと、小銃の弾丸。
放射能
死海文書発見よりもずっと以前の一九二〇年頃に、バチカンは死海周辺に調査隊を派遣しています。これは、どうやら古代の核戦争の確認だったとも思われます。また、そうではなかったのかも知れません。しかし、調査隊はここで強い放射能を検出しています。
一九二〇年のこの当時、ガイガー・カウンターを何処から手に入れたのか、どのような理由でガイガーカウンターを装備していたのか。そして、この時点で放射能を検出したのが本当なら、それを確かめるのが目的だったのか。
調査隊は死海の周辺で、動物の生殖能力を失わせるに足りるだけの放射能を検出したようです。調査の目的は何だったのか、この当時に、放射能を検出したとなれば、最初から放射能がそこに存在することを知っていなければ、この時点での放射能検出はあり得ないと思われます。日本に原爆が落とされたそのずっと以前ですからね。
今では、その近くのシナイ半島付近には、低軌道の衛星からの観測で、原爆の跡であろう傷痕(地質の色の違い)が確認出来るようです。これは、周囲の地質から見ても自然には絶対に起こり得ないことといわれます。
邪馬壹国は日本には存在しない。
我が国の国立歴史民俗博物館は、
「――私たちは中国遼寧省の『遼西』とよぶ地域において、朝鮮式銅戈の祖型を確認しました。いまのところ、遼西で朝鮮式銅戈の祖型と考える資料は三点あります。いずれも戦国中期頃の銅戈で、@は喀左県梁家営子(かくさんけんりようかえいし)、
Aは建昌県孤山子(けんしようけんこざんし)遺跡、Bは葫盧島傘金溝(ころとうさんきんこう)から出土しています」以下略。これは何を意味するのか。
『周書』百済伝や、また『梁書』百済伝、『三国志魏書〜烏丸鮮卑東夷伝』夫余の条。資料となるものは他にもあります。が、これらの文献から明らかなのは、例えば『明史』巻第三太祖には、「高麗李成桂幽其主瑶而自立以国人表来請命詔聴之更其国号曰朝鮮」とあります。
訳すと、
「高麗の李成桂その主瑶を幽して自立す。国人、表を以て来り命を請う。詔(みことのり)して之を聴き、その国号を更めて朝鮮という」
要は、明の皇帝が李成桂に与えた国号が「朝鮮」だと書いてあり、今現在の場所に在る南北朝鮮は、ずっと昔は別の場所に在った。つまり今の場所を朝鮮と呼びたいと明の皇帝に申し出た。これが十四世紀の終盤の出来事。
中国の正史、二十四書の内の三国志を書いた陳寿のいう、邪馬壹国への船出の場所としての楽浪郡も、当然だが現在とは別の場所に在った。今の遼東半島です。
従って、国立歴史民俗博物館が朝鮮式銅戈の祖型を遼西から発見したのも当然だといえる。
『梁書』百済伝
「その国は、もと句麗と遼東の東にあった。晋の世に、句麗はすでに遼東を侵略した。百済もまた、遼西と晋平の二郡の地を占拠して、自ら百済郡を置いた」とある。
以上他にも文献はありますが、要するに、邪馬壹国へ船出したとする場所は、現在の遼東半島であって、陳寿が記載する距離としては日本に届かない。
つまり邪馬壹国は日本に存在しない。だから幾ら捜しても絶対に? 見付からないように思うのですが……。
玄米と海草をよく噛んで……
この処、マッタク金には縁がなくて、送金もままならず。数年前迄は、私もジャガーに乗っていたのに、今では、トホホ。
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