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[29805] ハウリング【現代ファンタジー】
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/30 22:14
初めまして、テツヲと申します。

ジャンルは現代ファンタジーになります。

作品の傾向としましては、
・一部のみ性的暴力の描写がある(直接の描写はなく、ヒロインの【寝取られ】【レイプ】もありません)
・人外異能バトル。
・共同生活。
・主人公成長もの(特訓をして強くなっていくパターン)
・ラブコメ要素あり。
・シリアス要素も強め。
などです。

後半に従うにつれバトルが増えていきます。

自分では物語の進行が遅いような気がするのですが、気長にお付き合いくだされば嬉しいです。

また、本作品は『小説家になろう』様にも投稿しております。


【あらすじ】
平凡な大学生であった萩原夕貴は、とある朝、ベッドの上で、自らを悪魔だと名乗る美少女と出会った。それを境に、夕貴の家には次々と訳ありの少女が住み着いていく。始まる同居生活。
しかし、慌しくも幸せな『日常』の裏では、暴力に満ちた『非日常』の影があった。古来より日本の頂点に君臨していた十二の家系。裏社会で暗躍し、裏家業を生業とする十の一門。強大な異能を操るソロモンの《悪魔》。『日常』を脅かす『非日常』を前にして、夕貴が下す決断は……


2011/09/24 零の章【消えない想い】完結。

2011/09/26 壱の章【信じる者の幸福】開始。



[29805] 0-1 邂逅の朝
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/25 10:34
零の章 【消えない想い】



 人間が睡眠中に見る夢とは、およそ現実では発生し得ないであろう体感現象のことを指す。
 また、一概に夢とやらを定義はしたものの、その仕組みや種類は決して一括りにできるものじゃない。
 例えば、夢を霊的なお告げと捉えている部族がいれば、寝言に返事をしてはいけないという迷信があり、果てには夢を占いに用いる人間も存在する。
 他にも明晰夢や白昼夢といった、なにやら専門家が小難しく命名したような名称の夢も見受けられる。
 これは他人事ではない。
 なぜなら夢とは、人間なら誰しもが睡眠中に見るものであるからだ。つまり俺たちと関係性ばっちりなのである。
 思わず逃げ出したくなるほど恐い夢、憧れていた空を飛ぶ夢、好きな人と結ばれる夢、または性的な夢など――ありとあらゆる欲望を叶えてくれる夢ではあるが、その唯一の欠点は『目覚めると忘れてしまう』ということだろう。
 これは実に惜しいと思う。
 せっかく楽しい体験をしたのに、それを跡形もなく忘れ去ってしまうのは悲しいと思うのだ。
 例えば今現在、俺は男性の欲望を具現化したようなアダルティックな夢を見ているのだが、これも覚醒すると同時に忘れてしまうんだ。
 夢とは視覚だけでなく聴覚、味覚、触覚、嗅覚などにも刺激を感じる場合がある。働いた五感の分だけ夢のリアリティが増す、と言い換えても間違いじゃない。
 ちなみに今の俺は、五感のほとんどがフルに働いている状態にあった。
 耳に聞こえてくるのは――布擦れの音と、艶かしい息遣い。
 鼻に香ってくるのは――シャンプーとリンスを混ぜ合わせたような甘い匂い。
 手や足に触れているのは――どこまでも滑らかな女性特有の柔肌。
 そして。
 目の前に広がるのは――白い肌を惜しげもなく晒した、素っ裸の美少女だった。
 これを夢と言わずしてなんと言おう。
 だって、ここは俺の部屋だし、昨日は一人でベッドに入ったんだ。
 にも関わらず、となりには愛らしい寝顔を見せる女の子がいる。しかも添い寝している。つまり間違いなく現実じゃない。
 ありえない体験をさせてくれるのが夢なのだとしても、こうもリアリティ溢れる幻想を見せられては対応に困る。
「ぁ――ん」
 言ったそばから、色っぽい吐息が聞こえてきた。
 となりで眠る少女は、夢の住人にしては神々しいまでの美貌だった。恐らく腰にまで届くであろう長い銀髪を持ち、雪という比喩さえ躊躇われるほどの白肌を晒している様相は、人間というよりは女神と評したほうが正しい気がする。
 本当に、理解の及ばない美しさ。
 神様に愛された存在がいるとすれば、それはきっとこの少女を指すと思う。
 真白いシーツに全裸の身体を横たえて、大人っぽい顔立ちを愛らしい寝顔にする相貌は――まるで名のある画家が、一生を賭して描いた絵画のようでさえあった。
 本来ならばショーケースに入れられ触れることの適わない絵画は、しかし今だけは俺のものだった――否、俺だけのものだった。
 身じろぎしてみれば、なんとも柔らかい肌の感触とともに、ほのかな石鹸に似た香りが鼻腔をつく。
 ほとんど密着している俺と少女は、はた目に見れば情事のあとのように見えることかもしれない。
 ……それにしても、女の子ってびっくりするぐらい柔らかいんだな。とてもじゃないけど、同じ人間とは思えない。いや、もしかすると、この子が特別なのかもしれないけど。
 まあいいや。
 どうせ夢なんだ。
 俺が奇跡的に生み出した夢なんだ。
 だったら、もう好きにしても構わないよな……。
 そう決心して、少女が誇る美貌の中でも、一際異彩を放つ部位に触れようとした。
 それは――乳房である。
 添い寝するようにして身体を横たえている銀髪の少女――彼女はあられもない姿なのだから、とうぜん胸部周辺も丸見えだった。
 足のつま先から頭のてっぺんまで完全なる美を備えている少女だが、とりわけ胸は凄かった。もう人間離れした大きさを誇っていらっしゃるし、重力の法則に逆らうようにツンと上を向いておられるし、特に先端部分は、熟れたチェリーなんか目じゃないぐらいのピンク色を披露して下さっているのだ。
 これはもう無視すると逆に失礼に当たるんじゃないか、と思わなくもない。
 どうせ夢なんだし、好きにしても構わないはずだ。ここで俺を注意できる奴なんて、それこそ俺の良心だけだろうし。
 というわけで、さっそく彼女の胸に触れてみた。
 むにゅん、と音を立てそうな勢いで、指が真白い物体に沈んでいく。
 ……やばい、想像していた以上に気持ちいい。
 中身がパンパンに詰まっていると表現すればいいのか、とにかく心地よい弾力と張りがあるのだ。それでいて煩わしい抵抗が一切ない。
 よく女性の胸を『マシュマロのような感触』と喩えているのを見るが、そんなのは嘘っぱちだと思った。
 マシュマロなんか、足元にも及ばない。
 あんな砂糖と卵白とゼラチンと水を混ぜただけで作れるような菓子と一緒にしちゃいけない。
 温かな体温の通った乳房は、きっと地球上に存在するどんな物体よりも気持ちよく、興奮し、柔らかくて、そして尊いんだろう。
 人間の神秘を目の当たりにした気分だ。
「……う、ん――あっ――」
 扇情的に頬を染めて、どこか悩ましげな吐息を漏らす美少女さん。夢の住人にしては、やたらとリアリティのある喘ぎだ。
 俺が胸を揉むと、少女は身体を微かに痙攣させた。そのたびに、豪奢な銀色の長髪がシーツに広がっていく。
 自分の指先が、こんなにも可愛い女の子を乱れさせているのだと思うと、興奮と感動が同時に来て、理性のタガが外れそうになる。
 気分を良くした俺は、乳房の頂点に君臨する桜色の突起を指で摘んでみた。まあどうせ夢だしな、うん。
 まったく黒ずんでいないその突起は、生まれたての赤ん坊のように天然の発色をしていた。
 指先に伝わってくるのは、コリコリとしたグミのごとき感触。……あれ、なんかちょっとずつ硬くなってきているような。
 まあ、なんでもいっか。
 どうせ夢なんだし。
 ここで俺を律することが出来るのは、文字通り俺だけなんだから。
 だから好きにしちゃえばいいのだ。
 思いっきり胸を揉んで揉んで揉みしだいてやれば――
「――ふぁっ――!」
 一際大きい嬌声。
 口元から涎を垂らしながら、美しい裸体を紅潮させながら、整った顔立ちを歪めながら、少女は甲高い声を上げた。
 それは――あまりにも扇情的で、どこまでも蟲惑的で、この上なく魅惑的で、限りなく官能的だった。
 しかし、少女が身体をいやらしく痙攣させて、なにより悲鳴に似た喘ぎ声を上げたことに驚いた俺は、弾かれたように上半身を起こすことになった。
 それは夢から覚めたときに似ていた。というか、真実それだったのだろう。
 悪夢から開放されたように――やや汗ばんだ体を不快に思いながらも、荒くなった呼吸を沈めようと深呼吸を意識する。
 ……まったくもって、締まらない。
 夢の中に出てきた女の子にイタズラしたのはいいが、ちょっと敏感に反応されてしまったことにビックリして目覚めてしまうとは。……おかしい、俺は男らしいはずなのに。
 ちょっと惜しい気もするが、まあいい。
 軽く部屋を見回してみれば、案の定ここは俺の自室で、昨夜ベッドの中に入ったときと様子は変わっていない。
 だから、さっきのは夢だったんだ、間違いなく。
 そうと分かれば話は早い。
 時計を確認してみると、時刻は午前八時ごろだった。今日は休日だから二度寝するのも悪くはない――でも、せっかく早い時間に起床したのだから、いつもは二度寝に消費する時間を、家の掃除とかに割り当ててみるのもいいだろう。
 母さんは実家に遊びに戻ってるから、花壇の花に水をやるのは俺の仕事だし。
 さて、じゃあ、まずは洗面所で顔を洗って――
「……あれ?」
 おかしいな。
 ベッドに手をついたはずなのに、どうしてこんなに柔らかい感触が返ってくるんだ。
 今度は、むにゅん、じゃなくて、もちもちとした感じ。
 なんとも言えない嫌な予感がしたけれど、なんとか冷静を保つことに成功した俺は、そろ~りと真横に視線を移してみた。
 果たして。
 そこには――女性的な曲線を描いた豊満な身体を、これでもかと艶かしく横たえて、愛らしい寝顔で眠る銀髪の美少女がいたっ!
 俺の手は、彼女の太ももにあった。これが”もちもち”の原因らしい。めちゃくちゃ細いくせに肉付きがいいとか、もう人間を超越してるとしか思えねえ……。
 ――いや待て! 驚くポイントが違うだろっ!
 なんで、この子が俺のとなりで寝てんだ!?
 もしかしてあれか、夢の中から現実にお引越しってやつか!? 今は、そういうのが流行ってるのか!?
 そうじゃなきゃ、なんで俺のとなりで裸の女の子が添い寝してんだよ!
 ……いや、落ち着け、ここでパニックになっては番組の思うツボだろ。
 冷静になってみれば分かるじゃないか。
 まず普通に考えて、こんな綺麗な女の子は滅多にいない。
 つまり、この子はアイドルとか女優とか、そういう類稀な美貌を売りにする職業人に間違いないのだ。
 そのアイドルが、俺のような人間の家のベッドで添い寝する――と言うシチュエーションは、現実的に考えればテレビ局のドッキリ以外にはありえない!
 危ない危ない、あやうく俺の痴態が全国に流れるところだった。
 でも真実に気付いてしまうと、あとは呆気ないもんである。

「――おい、そこにいるのは分かってんだ。とっとと出てこい」

 どこにいるかも分かっていない、むしろ誰かがいるかも分かっていないけれど、そんなことを言ってみた。
 もちろん反応はなかった。
 ひたすらに虚しかった。
 ……な、なるほど、どうやらテレビ局のドッキリという線はなさそうだ。というか、いまの間抜けな俺を誰かに見られてなくてよかった……。
 しかし疑問は深まるばかりだ。
 かなり真面目な話として――テレビ局が仕掛けた罠、というのが現状においてわりと可能性が高かったと思うのだが。
 少なくとも俺には銀髪の親戚なんていない。
 ……まずい。本当に意味が分からない。
 これも夢かと疑いたいところだが、それはただの現実逃避でしかないし。
 ――と、暢気に頭を回していた俺は、しかし飛んで火にいる夏の虫だったようだ。
 気付いたときには、お腹のあたりに何かが巻きついていた。
 それは白くて、細長くて、適度に筋肉のついた少女の腕。
 引っ張られるようにしてベッドに倒された俺を、少女は蛇が獲物を逃がすまいとするかのごとく抱きついてきた。
「……んん」
 満足げに鼻を鳴らす少女。ちょうど耳元に彼女の口があるものだから、生暖かい吐息がかかってゾクリとした。
 起きちゃったのかと焦ったが、どうやら寝相の一環らしかった。つまり抱き枕が欲しかったので、身近にいた俺を確保したということか。
 わりと強い力で抱擁されているせいか、柔らかい彼女の肌の感触がいやというほど伝わってくる。
 魔性の魅力を放つ乳房は、俺の身体と挟まって、これでもかと形を歪めていた。
 少女の両足と、俺の両足は知恵の輪のように絡まっており、どう足掻いても脱出は無理そうである。
 ほのかな――いや、どこまでも甘い少女の香りに、頭がくらくらした。どうして女の子は、こうもいい匂いがするんだろう。反則である。
 もう一度だけ断っておくが、この銀髪の少女は一糸まとわぬ状態――つまり裸なのだ。
 洋服や下着といった防御が一切ないものだから、艶かしい女性的な柔らかさが余すことなく伝わってくる。
 しかし、人間という生き物は度を越した事態に遭遇すると案外冷静になってしまうものらしく、不思議と慌てるようなことはなかった。
 だって俺がちょっとでも身じろぎすれば、その分だけ感触が伝わってくるんだぜ? 主に胸とか、二の腕とか、太ももとか、ふくらはぎとか。
 ……それに。
 目の前にある少女の顔が――西洋人形のように整った顔が、とても満足そうなんだ。
 俺が動くたびに、やや不快そうに少女が眉を歪めるものだから、うかつに抵抗することも出来ない。
 だって。

 ――あーあ、この寝顔を曇らせたくないなぁ――

 なんて。
 そう思わされた俺の負けだってことだろう。……いや、もちろんツッコミどころは山ほどあるけど。
 まあ焦ることはない。いずれ、この子が目覚めたときにでも事情を聞けばいいんだ。
 そうだ。
 そうなのだ。
 だから俺は――って!
「――うひゃあ!」
 情けない悲鳴が、なんとも信じがたいことに俺の口から漏れた。
 でも言い訳させて欲しい。
 人を抱き枕のようにしている少女が――なんと俺の耳に舌を這わせてきたのだ。
 きっと目の前にある物体(俺の耳)をアイス感覚で舐めただけなのだろうけど。……なるほど、寝ている人間の条件反射というのは決して馬鹿にできない、と今ここで証明されたわけだ。
 ……が、落ち着いて思考する暇はなかった。
 俺が悲鳴を上げたのがいけなかったのか――少女の身体が寝相では説明がつかないほど大きく動作した。
 呆気に取られる俺とは対照的に、寝惚けている人間特有のふらふらとした動きで、少女は身体を起こす。
 ベッドの上で。
 俺と少女は、互いに上半身を起こして向かい合った。
 視線が交錯する。
 髪と同じ色――吸い込まれそうな白銀の瞳。
 人間離れした美貌。
 男を虜にするような魔性の魅力。
 相変わらず一糸まとわぬ少女ではあるが、その白く眩しい肌や、大きく膨らんだ胸を見ても、もう劣情を催すことはなかった。
 美しい、という言葉さえ似合わない。
 この銀髪銀眼の少女を表現するだけの語彙が、俺の貧相な脳内には見当たらない。
 神々しいまでの存在。
 今の俺ならば、彼女の正体が妖精や天使だったと明かされたとしても、あっさりと納得するだろう。
 しかし、だからこそ疑惑も強まるのだ。
 こいつは――果たして人間なのか?
 そう疑問を持ってしまうほどに、彼女は美しすぎた。
 何事も過ぎるのはよくない、という言葉は真実。
 ここまで美しすぎる人間は、もはや人間であるかどうかさえ怪しまれる。
 法律や刑法が定められている現代だからこそ大丈夫なものの、これが太古の時代ならば、きっとこの少女を巡って戦争が起きていたと思う。
「えっと、おはよう……?」
 自分でも間抜けだとは思うが、今後の運命を左右しかねない第一声がそれだった。
「……ぁ」
 すると少女は、またもや無駄に艶っぽい声を出した。
「ど、どうしたっ? 俺が悪いってのか? ちゃんとおはようの挨拶はしたぞ? あ、もしかして、おはようございます、じゃないと駄目派かおまえ?」
 意味不明なことを口走る萩原夕貴(はぎわらゆうき)、十九歳。
 今年から大学生になったばかりの青少年。
 父親はすでに他界、母親は実家に里帰り中。
 体力には自信があるという、いかにも男がバイトの面接で言いそうなことが取り柄の俺である。
「――きみは」
 どこまでも透明感の溢れる声で、少女は言う。
 晒された白い肌を隠そうともせずに、彼女はベッドから立ち上がった。
 そして――騎士のごとく片膝をつく。
 カーテンの隙間から差し込む光が、スポットライトのように少女を照らす。きらきら、と目が眩まんばかりの輝きを放つのは白銀の長髪。そして日光はまだ飽き足りないと、痣や傷が一つもない少女の肌をも真白に彩っていく。
 それに見惚れる俺と。
 凛とした顔で――こちらを見つめる少女。
 やがて、その紅い唇が動いた。
 俺は――萩原夕貴は。
 このとき彼女が言った言葉を、きっと生涯忘れることはないと思う。


「――ここに契約を完了とします。
 わたしは、ソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔|《ナベリウス》。
 今このときを持って、我が身は貴方様の剣となり、盾となりましょう」

 



[29805] 0-2 男らしいはずの少年
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/25 10:34
 人生とは、俺たちが思っている以上に波乱万丈なものである。
 それを証明するように『事実は小説よりも奇なり』という言葉が認められているわけだが、これは世界の摂理を上手く表した格言だと俺は思う。
 まあ当たるわけないよね、と一時のドキドキ感を味わいたいがために買った宝くじが、なんと十億円に早変わり――という人生を一変するような出来事も、この世の中には少なからずあり得るわけだ。
 信じられないような偶然。
 考えられないような奇跡。
 そんな神様のイタズラに似た事象は、いつだって俺たちの周囲で顕現する隙を狙っているのだ。
 まあでも……さすがに物事には限度があると思う。
 目が覚めると、となりに裸の女が添い寝していた――という恐ろしい体験をしてしまった萩原夕貴くんだが、しかし俺の恐怖はそこで終わらなかった。
 銀髪銀眼の少女は、俺を認めると同時に跪き、明らかに東京タワーを越える電波集約力を見せつけてきやがった。
 彼女は言ったんだ。
 わたしは悪魔です。あなたと契約しました。だから色々と命令してくださいね――と。
 もうアホかと。
 評判のいい心療内科をわざわざネットで検索して、通院することをオススメしてやりたいぐらい電波を受信していやがったのだ、あの女は。
 しかし案ずることはない。もう懸念は払拭された。 
 俺のとなりで添い寝していた銀髪銀眼の少女は、すでにこの家にはいない。さっき追い出してやったのである。
 ……そう、確かに追い出したはずだったのだが。
 
「ねえ夕貴、卵は半熟のほうがいい?」

 第一声とは違った、どこかフランクな声で少女は言う。
 あれから――とりあえず俺は、この銀髪の少女に服を着るように指示して、なにも言わずに手を掴んで、丁重に玄関までご案内したあと、青く晴れた空の下へと送り出してやった……はずである。
 ああ、そうだ。
 間違いなく俺の家から追い出してやったはずなのだ。
 それから寝惚けている頭を覚醒させようと顔を洗った俺は、さーて今日の朝飯は何にしようかなー、とか思いつつリビングに移動したのだが――
 どうして俺の耳は、あの少女の声を拾ってくるんだろう? 夕貴、分かんない。
「人の話、聞いてる? 男の子ならシャキッとしないと駄目じゃない」
 何かが焼けるような音と、香ばしい匂いがする。
 恐らくはフライパンを使って朝食を作っているのだろう。
 ここで問題は、その調理を誰が行っているのか、という点。
 キッチンのほうを見てみれば、そこには当然のように銀髪の女が立っていた。しかもエプロンまで身につけているという徹底振り。
 彼女は、ノースリーブタイプのシャツと、洒落っ気のない黒のパンツという服装。シンプルなファッションなのだが、だからこそ彼女自身の美しさが際立つというか、美人は何を着ても得だというか。
 思わず唖然とした。
 当然だろう。さっき追い出したはずの少女が、我が物顔でキッチンを独占した挙句、器用な手つきでフライパンやらトースターを操作して、なぜか朝食らしきものを準備しているのだから。
「……えーと」
 人間という生き物は、想像を遥かに超えた珍事に遭遇すると、意外と冷静になってしまうものなのだ。
 どうしよう、とりあえず混乱したほうがいいのかな――と打算的なことを考える萩原夕貴、十九歳。
 今年から大学生になったばかりの青少年。
 父親はすでに他界、母親は実家に里帰り中。
 体力には自信があるという、いかにも男がバイトの面接で言いそうなことが取り柄の俺である。
 ルックスは普通――と言いたいところではあるが、俺の顔はどうも男らしいというよりは女らしいらしく、男性が最も言われたくない言葉ベストスリーに入るであろう『可愛い』や『綺麗』といった文句を付けられることが多い。
 しかし、俺は男らしく生きたいのである。これがわりと深刻な問題で、かつて街を歩いているとき、女性モデルのスカウトを受けた経験があるほどなのだ。笑い話としても出来が悪い。
 よく俺は口が悪いと言われるのだが、それだって意図的に乱暴な言葉遣いにしているんだ。……だって、そうすると男らしく見えるというか、なんというか。
 とにかく俺は、容姿が女っぽいこと以外は、極めて普通の人間だ。
 それに中性的な容姿の男なんて、世界単位で見れば腐るほどいるだろう。そういう観点から見ると、俺は普通の男ということになる。
 つまり――俺のプロフィールには、どこをどう見ても裸の女が添い寝してくるような問題点は見当たらない。
 よって、おかしいのは俺ではなく、あの女のほうということになる。
 異論は認めない。
「なにボサっとしてるの? なんなら顔でも洗ってきなさいよ」
 フライパンの中身をひっくり返しながら、鷹揚とした笑みを浮かべる少女。おまえは俺の母親か。
「……いや、顔ならさっき洗ってきたんだけど」
「そう? じゃあ座って待ってなさい。すぐに朝食が出来上がるから。……あぁ、それと時間がなかったから、簡単なメニューになったんだけど、大丈夫よね?」
「はあ、まあ大丈夫ですけど」
 思わず敬語になってしまう。
 だって、あの女の子が堂々とし過ぎてるだもん。こっちのほうが客なんじゃないかと錯覚しちゃったのだ。
「ちなみにハムエッグのハムは二枚でいい?」
「はあ、まあ」
「そう。いい子ね」
 それで問答は終わりだと言わんばかりに、少女は料理を進めていく。
 しかし俺はどうしていいか分からず、阿呆みたいに突っ立っているだけだった。
「なにしてるの? 座りなさいよ」
「あ、はい。座らせていただきます」
 木製のダイニングテーブル、その四つある椅子の一つに腰掛ける。
「コーヒーでよかった?」
 すると、見計らったようなタイミングで少女がやってきた。
 その手には、白いマグカップ。中身は黒い液体――つまりコーヒーだった。
「あぁ、それでいいけど。どうせ家にはコーヒーしかないし」
「そうよね。ちなみに夕貴は、紅茶よりもコーヒーのほうが好きなんだよね?」
「まあ、どっちかと言われれば、そうなるな」
「……うん、分かった。覚えとく」
 俺の言葉を反芻するかのように瞳を閉じたあと、少女は満開の桜のごとき満面の笑みを浮かべた。
 思わずドキリとする。
 どうして俺の好みなんて聞いたんだろう?
 これからも毎朝、コーヒーを淹れてくれるというのか?
 ……駄目だ、落ち着くんだ萩原夕貴。
 もっとツッコミどころは他にあるじゃないか。
 俺が紅茶よりもコーヒーのほうが好きとか、そんなのは瑣末な問題のはずなのだ。
 冷静になれ、そして現実を見ろ。
 客観的に分析すると――萩原夕貴さんは、見知らぬ女性に不法侵入された挙句、裸で添い寝という不埒な行為をお見舞いされたのにも関わらず、警察に連絡することなく穏便に事を済まそうと、彼女を黙って外に追い出してやった――みたいな感じになる。
 けれど、その見知らぬ女性は、懲りずに不法侵入を繰り返しただけではなく、萩原宅のキッチンを占領した上、なぜか二人分の朝食を作っているときた。
 まったくもってふざけている。
 ちょっと可愛い顔してるからって、俺を舐めてるんじゃないか、あの女は。
 確かに見たこともないような綺麗な顔だけど。
 重力の法則を無視してるんじゃないかってぐらいツンと上を向いた胸だったけど。
 グラビア雑誌とかでも見たことがないようなスタイルのいい身体だったけど。
 でもそれは、あの女が不法侵入をしていい理由にはならない。
 ここは一発ガツンと言ってやるべきだろう。
 そうだ、俺は男らしいのだ。
 思ったことは全て言うのだ。
「――はい、出来たよ」
 テーブルの上に並べられていく料理。
 こんがりときつね色に焼けたトースト、上手く半熟に仕立て上げられたハムエッグ、レタスやプチトマトを使ったサラダ、温かな湯気を放つクラムチャウダー。
 誰でも作れそうなメニューではあるが、短時間で調理したにしては上出来すぎる。
 そのあまりの手際の良さを見て、アホみたいに大口を開ける俺と、それにツッコミも入れず俺の対面に腰を下ろす少女。
「さあ、遠慮なく食べてよ」
 白いほっぺたを微かに紅潮させて、満面の笑顔を向けてくる。
「……いただきます」
 これが驚くほど照れくさくて、俺は彼女から視線を外しながら、ボソボソと食前の挨拶をすることになった。
 ガツンと一発言ってやるつもりだったのに、あまりにも彼女の笑顔が綺麗すぎて、文句を言うのが無粋な気がして、言葉を封じられてしまった。……おかしい、俺は男らしいはずなのに。
 萩原邸のリビングは、他所様のそれと比べてもかなり広い。
 木製のダイニングテーブルの他にも、大き目のソファが二つあったり、ところどころに観葉植物や絵画があったり、52インチの液晶テレビがあったりと、リラクゼーションも兼ねている。
 そもそも死んだ父親が金持ちだったからか、俺の家はかなり大きい一戸建てだ。
 それなりに広い庭はあるし、小さいが鯉が泳いでいる池もあるし、母さんの趣味によって作られた花壇もあるし、別棟の倉庫もあるし、家なんか三階建てだし。
 まあ、住む人間が俺と母さんしかいないもんだから、逆に寂しいと思わないことも――ないかな。
 一階にはリビング、シャワールーム、トイレ、そして客室が三つと、応接間が一つある。ちなみにリビングとキッチンは同じ空間にあって、隣接している。いわゆるカウンター型キッチンというやつで、家族の一体感を保ちやすいポピュラーなタイプの構造になっている。
 二階には俺の部屋、母さんの部屋を初めとした家人の自室がある。あとは物置部屋が一つに、なんの用途もない空き室が一つ。ちなみに二階にもトイレが一つ存在する。
 三階には空き室が三つあるだけ。あとは屋根裏部屋もあったりするが、現在は特に使われていない。
 総括としては――俺と母さんの二人だけが住むにしては、あまりにも家が広すぎる。十人家族でも余裕で暮らせるだけの家なのだから。
 だからなのか、俺と親しくなった人間は、みんな例外なく泊まりに来たがる。
 特に、玖凪託哉(くなぎたくや)というナンパな野郎が一人いるのだが、あいつは常連さんである。一週間に一度は泊まりに来るし、一週間続けて泊まることも少なくない。
 しかし。
 いくら俺の家が広いからと言っても、見知らぬ女の子が不法侵入していい理由にはやはりならない。
「……なんだよ」
 ふと気付くと、銀髪の女がテーブルに頬杖をついて俺を見ていた。とてもニコニコしている。
「ううん、べつになんでもあるよ」
「あんのかよ」
「まあね。ところで夕貴ってさ――お父様とお母様、どっちに似てるって言われる?」
「それ以前に、やたらと堂々としているおまえの態度が気になるけど――まあ母親似じゃないか? というより、俺は父さんの顔、見たことないから」
 俺の父親は、俺が生まれる以前に亡くなったと聞いている。だから会ったことはない。
 ちなみに玖凪託哉という男は、俺のことをよく母親似と称する。性格はあまり似ていないのだが、雰囲気や顔立ちがソックリなのだそうだ。つまり俺の女っぽい顔立ちは、母さん譲りということになる。そう考えると悪くない。
「……ふうん、そうなんだ。まあ夕貴のお母様って美人だものね」
「えっ、おまえって、母さんのこと知ってるのか?」
「さあて、どうでしょう?」
 はぐらかされてしまった。
「……まあ、いっか。さすがに母さんに危害を加えるようなことはしてないだろうし。それよりも一番気になるのは、おまえが俺のとなりで添い寝してたことだ。しかも裸で」
「あぁ、それなら今朝言ったでしょう? わたしは悪魔だし、夕貴はご主人様だし、わたしは奴隷だし、夕貴はご主人様だし」
 ……これである。
 それからも俺は、看過できない疑問をいくつか尋ねてみたのだが、すべて似たような答えが帰ってきた。
 質問。どうして俺の元に来たんですか。
 ――答え。わたしが悪魔だからです。
 質問。どうして母さんのことを知ってるんですか。
 ――答え。さてさてどうしてでしょう?
 質問。どうして俺の名前を知ってるんですか?
 ――答え。いや表札に書いてあったでしょ。
 まあ大体が上述したようなやり取りだと思ってくれて構わない。
「……押し問答だな。一向に話が進まないじゃねえか。そういやおまえ、俺が母親似と聞いて『まあ夕貴のお母様って美人だものね』って言ったよな。これ、なんか俺も美人みたいに聞こえるんだけど」
「うわぁ、すっごい細かいなぁ。そんなに女の子みたいって言われるの、いやなんだ?」
「当たり前だ! よーく俺を見てみろ! これが女に見えるか!?」
 ずいっ、と体を乗り出す。
 限界ギリギリまで顔を近づけて、この勘違い女に訂正の機会をプレゼントしてやった。これだけ近くで俺の顔を見たら、もう女の子みたいとは言わないだろう。
「……ふむふむ」
 顎に手を当てて、意味ありげに頷く少女。……ていうかこの子、近くで見てもやっぱ可愛い……胸も大きいし、なにより谷間が……くっきりとした谷間さまが……!
「なるほどねえ」
 その声に、ハッとした。
 くそっ、なに見蕩れてんだよ俺は! 女の色香に惑わされたら終わりじゃないか! これでもかと貢がされたあげくポイされちまうじゃないか!
「……ふん。分かったならいいんだよ」
 少女から顔を背けて、負け惜しみのように言う。念のため断っておくが、決して照れ隠しとか、赤くなった頬を隠すためとかではない。
「うん。やっぱり夕貴ちゃんって女の子みたいに可愛い顔してるなぁ」
 が。
 この銀髪銀眼の女は、とことん俺を侮辱したいらしかった。
「……おまえは今、言ってはいけないことを言ったぞ。今後一切、俺のことを『可愛い』とか言うな。あとちゃん付けは絶対にすんな。まあ、おまえとの今後なんて一切ないんだけどな。だから、とっとと出て行ってくれ。この飯に免じて、警察だけは勘弁してやる」
「あれま、冷たいんだ、夕貴って。一晩を共にした仲なのに」
 これみよがしに溜息をつく少女。
 しかし、溜息をつきたいのは俺のほうだった。
「待て待て。さっきからおまえが相手にしてるのは、どこの夕貴さんだ。俺はおまえと一晩を共にした記憶はねえよ」
「よく言うわね。今朝、わたしの胸をこれでもかと揉んだくせに」
 こいつ――まさか起きてたのか!?
 くっ、俺はなんて迂闊なことをしちまったんだ……!
 でも考えようによっては、無防備な女の子の胸を揉むのって、ちょっと男らしくないか? ……なんだか照れるな。
 とは言ったものの、俺が浅はかだったという事実は変わらないのだが。
「そ、それは悪かったと――!」
「――えっ、本当に揉んだのっ? 揉みしだいたっていうのっ? ちゃっかり堪能したっていうの? あちゃあ、カマをかけてみたつもりだったんだけど、止めておいたほうがよかったかなぁ」
「ぐっ、しまった……」
 嘘でもいいから白を切りとおせばよかったものを――自分から罪を認めてしまうとは、なんて愚かな男なんだ、俺は。
「まあ、べつにいいんだけどね。夕貴の好きにしても」
「本当か? じゃあ出て行ってくれ」
「あーあ、なんだか夕貴に揉まれた胸が痛くなってきたなぁ」
「そんな現金な胸はねえよ!」
 いかん、思わずツッコミを入れてしまった。
「でもね、本当に夕貴の好きにしてもいいのよ。わたしは夕貴の騎士……いや、配下……ううん、部下……でもなくて子分……そうそう、奴隷なんだから」
「なんで騎士から始まって奴隷に落ち着くんだよ。とりあえず奴隷は止めろ。なんか、いやらしい」
「ふーん、やっぱり夕貴も男の子なんだ。夜伽なら任せてよね」
「――てめえに任せる夜はねえ!」
 一向に話が進まない俺たちだった。
 無駄話をしているうちに、俺と少女は食事を終えてしまい、手持ち無沙汰となった。
 そろそろ本気で少女を追い出そうと思ったのだが、食器を手際よく洗った彼女は、自分から外に――庭に向かった。
 ――こいつ、今度は何をやらかすつもりなんだ?
 そう思った俺は、少女のあとを追って庭に出てみた。
 萩原邸の庭は、ご近所さんの間でも評判になるほど広大である。
 木製のデッキやチェアー、それにベンチが設置されていて、よく晴れた日には優雅にお茶を楽しんだり、友人と駄弁ったりできる。
 また母さんの趣味によって作られた花壇には、色とりどりの花が咲いている。今日日(きょうび)、暦の上では四月、季節は春に相当するため、花壇は今が盛りと様々な表情を見せていた。ちなみに今は母さんが不在なので、俺が水遣りを担当していたりする。
 他にもレンガで出来たバーベキュー炉があったり、鯉が泳いでいる池があったりと、目を楽しませる要素には事欠かない。
 そしてリビングと庭を繋ぐ窓、その中間に設置されているウッドデッキには――銀色の長髪を風になびかせる少女が腰掛けていた。
 もう彼女の美貌に惑わされるもんか――そう自分に言い聞かせていたはずなのに、それでも目を奪われる。
 上品に足を揃えて、白くて細い両腕を後ろについて身体を支え、少女は穏やかな笑みを浮かべていた。ノースリーブタイプのシャツを着ているせいで、彼女の白い二の腕や肩が外気に触れており、それが健康的な美しさを演出している。
 ……こんなの卑怯だ。あまりにも綺麗すぎる。
 反則すぎて、文句を言う気にもならない。
 この女は――この銀色の髪と、銀色の瞳をした少女は。
 どうして、こうも俺の心を奪おうとしてくるのだろう。
 見知らぬ人間のはずなのに、不法侵入されて気分が悪いはずなのに、裸で添い寝されて驚いたはずなのに。
 なぜ警察に通報しなかった?
 なぜ彼女に問い詰めなかった?
 なぜ違和感や疑問点を無視した?
 本当は、もっと彼女に聞かなければならないことがあるはずなのに。
 不思議なことだが――この少女を見ていると、心が落ち着く自分がいる。
 なにより――俺はこの少女をどこかで見たことがあるような気がするのだ。
「……花、綺麗だね」
 ふと、柔らかな風に乗るようにして、水のように澄んだ声が聞こえてきた。
 少女の呟きだった。
「綺麗だと思うんだったら、おまえが水遣りするか?」
「えっ、いいの?」
「ああ。べつに俺がやらなきゃいけないことでもないし、おまえがやりたいんだったら」
「――ナベリウス」
 遮るように言う。
 風に踊る長髪を指で押さえながら、少女は俺のほうを向いた。
「わたしの名前よ。”おまえ”って呼ばれるのもなんだかゾクっとして捨てがたいんだけど、やっぱり本名で呼んでくれないと嫌かな」
「俺は『おまえって呼ばれてゾクっとする』というおまえの発言のほうが聞き捨てならねえよ」
「ほらまた。さっき言ったでしょう? わたしの名前は《ナベリウス》。ソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔。そして――夕貴と契約した者よ」
「……おまえ、前世は電波塔だったんじゃねえか?」
「違うわよ。れっきとした悪魔だし」
「言ったそばから電波受信してんじゃねえよ。誰が悪魔だよ、誰が」
 聞いていて呆れる。
 だから俺は、てきぱきと水遣りの準備を進めることにした。
 我が家はホースを使って水を撒くので、倉庫のほうから最近新調したばかりの耐圧性強化タイプのホースを取り出して水道に繋げる。
「夕貴ってさ――わたしが悪魔だってこと、信じてないでしょ?」
「ああ、信じてないね。むしろ信じる要素がないね。まあでも――」
 ただの人間だとは思えないのも確かである。
 人類を超越した美貌。
 一種独特の雰囲気。
 白銀の長髪と、白銀の瞳と、抜けるように白い肌。
 まず日本人ではないだろうし、かといって彼女――ナベリウスのような身体的特徴を持った外国人もいないだろう。
 しかし、こいつを悪魔だと決め付けるのも早計。
 世界中を探しに探せば、ナベリウスのような人間もいるかもしれないし。
「……まあ、いいでしょう。信じるも信じないも、夕貴の勝手なんだし。それに――」

 いずれ嫌でも信じるときが来るでしょうしね――
 
 そう独り言のように。
 ナベリウスは続けた。
「ほら、これが水遣り用のホースだから。あまり水を撒きすぎるなよ。もし花壇の花になんかあったりしたら、母さんに怒られるのは俺なんだからな」
「大丈夫よ。そのときは、わたしも一緒に怒られてあげるから」
「いや、それ以前に花を守ろうとしてくれよ……」
 枯らすのが前提みたいな言い草じゃないか。
 ナベリウスは嬉々とした笑みを浮かべながら、花壇に水を撒いていく。それはさきほどまでの問答が嘘であったかのように、丁寧で思いやりのある水遣りだった。
 花を大切にする人間に、悪いヤツはいない。
 そう母さんは言っていた。
 ナベリウスが人間なのか、もしくは本当に悪魔なのかは知らない。
 それでも――あんな綺麗な笑顔を浮かべて花に水をやれるのなら、少なくとも悪いヤツではないと思うのだ。
 もしかしたら希望的観測かもしれない。
 人生で初めて裸を拝んでしまった美少女を、悪いヤツだと思いたくないだけなのかもしれない。
 しかし、俺は自分の直感を信じる。
 ナベリウスに悪意はないと。
 そう、馬鹿正直に信じてみたいのだ。
「――さて、それじゃあナベリウスちゃんは、まだ寝足りないのでお昼寝タイムに入ります」
 やがて水遣りを終えたナベリウスは、うーん、と可愛らしく伸びをしながら、ウッドデッキを経てリビングに入ろうとする。
 俺はその首根っこを掴んだ。
「待て。おまえはこっちだ」
 庭から玄関のほうに向かう。……というかナベリウスを連行する。
「あれ、もしかして夕貴、出掛けるの?」
 きょとん、と首を傾げながら、ナベリウスは本当に意味が分からない様子。
「違うわボケ。俺じゃなくて、おまえが出掛けるんだよ」
「えっ、わたしが? どうして?」
「どうしてもなにも、おまえの家はここじゃねえだろうが」
「夕貴こそ寝惚けてるんじゃないの? わたしの家は、間違いなくここよ」
 もはや何度目かは分からないが、バカみたいに大口を開けて唖然とする俺。
「あら、もしかして、こーんな美少女を追い出すつもり? 夕貴って意外と甲斐性ないのね」
「それとこれとは関係ないだろ」
「ふーん、そんな冷たいこと言うんだ。わたしのおっぱい揉んだくせに」
「……そ、それとこれとは関係ないだろっ」
 まずい、動揺してしまった。
 ここでナベリウスのペースに乗せられてはいけない。それは俺の敗北を意味する。
「あーあ、夕貴にはガッカリしたなぁ。もっと男らしい人だと思ってたのに」
「……男らしいだと? え、なに、俺ってそんなに男らしいのか?」
「うん。わたしが今まで会った男性の中でも、夕貴が一番男らしいわ」
 やばい。
 こいつって、実はすげえいいヤツなんじゃないか?
 俺という人間の本質を見抜くとは――ナベリウス、恐るべし。
「いやぁ、そうかなぁ? まあ、それほどでもないと思うけどなぁ。俺が男らしいのは当たり前だけど、一番とか言われると照れちゃうなぁ」
「けど、それだけに残念よ。夕貴は、困っている女の子を追い出そうとするんだもんね。あーあ、まさか夕貴がそんな女々しい行動を取るなんて思わなかったなぁ」
「……んだと? てめえ今、俺が女々しいって言ったのか?」
「そうよ。夕貴は女々しい。まったくもって男らしくない。困っている女の子がいたら、無条件で助けてあげるぐらい懐の広いところを見せないと、本当の男とは言えないわ」
 馬鹿な――この俺が女々しいというのか。
 子供のころから女顔とからかわれるのが嫌で、中学、高校では進んでスポーツ系の部活に入っただけではなく、隣街の空手道場にも通っていたというのに。
 さらには不良系の漫画や、ヤクザさんたちが派閥争いをする映画なんかを見て、乱暴な言葉遣いの練習までしたっていうのに。
 それがすべて――無駄?
 いや、そんなはずはない。
 俺は男らしいのである。
 断じて女々しくなどない。
 しかし、言い返せないのも事実である。
 母さんからは『困っている女の子がいたら、夕貴が助けてあげるのよ』と口を酸っぱくして言われてきたわけだし。
「はーあ、わたしの見込み違いだったかなぁ。まあ夕貴は、女の子みたいに可愛い顔してるから仕方ないわよね。男にしては髪も長めだし、肌なんか真っ白だし。背はそこそこ高いけど」
 ほっとけ。
 俺だって髪を短くしたいが、ただでさえ女みたいな顔をしてる俺がそれをすると、ありえないぐらい似合わないんだよ。もう笑われたくないんだよ。
 それに昔から黒い肌には憧れていたんだけど、俺は日焼けをしても赤くなるだけで、一向に黒くはならない体質なんだよ。もう酔っ払いとか、お猿さんみたいとか言われたくないんだよ。
「困っている美少女を家に泊めてあげる――そんな男らしい人、どこかにいないかなぁ」
 人差し指を唇に当てて、ナベリウスは何かを思い出そうとするかのように呟いた。
「……なあ、おまえを家に泊めてやれば、男らしいのか?」
「そりゃあもう、最高に男らしいわよ。男の中の男といっても過言じゃないぐらい。まあでも、女の子みたいな顔をしてる夕貴には無理な話よね。よっ、この美人! 女装が似合う男性ランキング第一位! ……あちゃあ、ごめん間違えた。男装が似合う女性ランキング第一位だった」
「……てやる」
「え? いまなんて言ったの? ごめんね、聞こえなかった。それにしてもボソボソと喋るなんて、やっぱり夕貴は女々しいわね。男なら――」
「――あぁ! うっせえな! 仕方がないから泊めてやるって言ってんだよ! この悪魔が! それに俺は女々しくなんてねえぞ! 男の中の男なんだぞ! 今度俺に女々しいとか言ったら、大変なことになるんだからな――――!」
 叫んでやった。
 通りがかった近所の奥さんが、俺たちを不審な目で見つめていらっしゃったが、しかし気にしないことにした。
 それよりも俺が女々しいと思われることのほうが大問題だからだ。
 俺の言葉を反芻するかのように瞳を閉じていたナベリウスは、やがて満足げな笑みを浮かべた。
「――よろしい。これからは、お姉さんが夕貴の面倒を見てあげる」
 そんな笑み。
 悪魔的な笑み。
 やられた――俺は、そう思った。


 こうして。
 俺とナベリウスの奇妙な共同生活が幕を開けることとなるのであった。




[29805] 0-3 風呂場の攻防
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/18 16:13
 人間には誰だって弱みというものがある。
 突出した長所の裏には、必ず致命的な短所があるように、スーパーマンのごとき力を持った人間にも何かしらの弱点があるものなのだ。
 例えば俺の場合で説明させていただくと――本当はあまり語りたくないのだが――この女性的な顔立ちが挙げられる。
 それの何がいけないのか、と聞かれると色んな意味で返答に困るのだけど、あえて言うなら母さんがいけない。
 俺こと萩原夕貴は――なんと自らの母親に弱みを握られているのである。
 事の始まりは、俺がまだ小学校低学年の頃だったか。
 小学生と言えば、男女の間に身体的な差がほとんどない時期だ。だから当時の俺は、今よりもさらに女子に見えたという。間違いなく『夕貴くん』よりも『夕貴ちゃん』と呼ばれる回数のほうが多かったぐらい。
 それだけならばギリギリ笑い話で済むのだが、ここで冗談にならないのが俺の母親である。
 ――男の子だけでなく、女の子も欲しかった。
 ――出来れば夕貴にお姉ちゃんか妹を作ってあげたかった。
 と口惜しそうにぼやくだけあって、母さんは『女の子供』という存在に憧れを抱いていた。
 そして、そのとばっちりをモロに食らったのが俺だった。
 昔から可愛らしい洋服を買ってきては、嬉々として俺に着せてくる母さん。
 家でも外でも『夕貴くん』ではなく『夕貴ちゃん』と呼んでくる母さん。
 言ってしまえば、俺は女装させられていたのである。今はしていないが。絶対にしていないが。
 もちろん文句を言いたくなるときもあった。
 けれど――母さんの楽しそうな、嬉しそうな、そんな笑顔を見ていると、なぜか怒る気にもなれなかった。
 まあ恥ずかしくはあったけど、母さんと一緒に遊ぶ――といったら大いに御幣はあるが――のは俺も楽しかったし。
 死んだ父親が財産を残してくれたとは言え、母さんは女手一つで俺を育ててくれた。
 再婚してはどうか、と提案したこともある。
 すると母さんは、
「夕貴がいれば、母さんは大丈夫。だから、心配しないでね」
 と、のほほんとした口調で返してくる始末。その言葉を聞いて俺は泣きそうになったのだけど、母さんが優しげな笑みを浮かべて頭を撫でてきたもんだから、我慢さぜるをえなくなった。
 ここでハッキリと言っておこう。
 俺は――萩原夕貴は、母さんのことが大好きだ。
 誰よりも幸せになって欲しいと思ってるし、将来は絶対に楽をさせて、そして安心させてあげたいと思っている。
 これをマザコンと呼ぶのなら、勝手に呼べばいい。
 母さんを大事にしただけで蔑んでくるようなヤツとは口も聞きたくない。
 ――とまあ、そんなこんなで母さんは俺の宝物なのだが、一つだけ看過できない点がある。
 それこそが先述した弱みの話に繋がってくる。
 俺は幼少時、母さんに女装をさせられたことがある。それは忌まわしい記憶だ。思い出したくない記憶だ。
 しかし、ここで本当に問題となってくるのが――俺の女装姿が、記憶ではなく記録として残っていることである。
 写真やホームビデオ――とにかく視覚的な映像に残る媒体として、母さんは俺の女装姿を記録しているのだ。
 これは本当に由々しき問題である。
 かつて母さんとエビフライは尻尾まで食べるか否かで喧嘩したときなんか、母さんは泣きながら「ご近所さんに、夕貴ちゃんの可愛い姿、教えてくるもん……!」とか言いつつ、それを本当に実行しそうになったのだから始末が悪い。
 結論として――他者に弱みを握られるということは、その後の人生を円滑に進めようとする上で、非常に厄介な障害となってしまう。
 例えば。

「あーあ、なんだか夕貴に揉まれた胸が苦しくなってきたなぁ」

 ほら見たことか。
 一度でも弱みを握られると、それを餌にして、握った本人はどこまでも増長する。自分に苦しい詰問や展開が訪れると、その弱みを盾にして切り抜けようとするのだ。
 確かに俺は、ナベリウスの胸をこれでもかと揉みました。堪能しました。ちゃっかりと味わってしまいました。
 この世には『注意一秒、怪我一生』という言葉が存在するように、一瞬の判断ミスが後々の人生を左右することが多々ある。
 あのとき――俺がナベリウスの胸を揉んでしまったのがいけなかった。
 いくら寝惚けていたとはいえ、向こうが勝手に添い寝してきたからとはいえ、女性の身体を無遠慮に触った挙句、その乳房様を揉み揉みするなど言語道断だったのである。 
 これには俺も責任を感じている。
 男ならば、何も言わずに黙って女の子を護るべきだ。
 にも関わらず、その護るべき対象である女の子の胸をちゃっかり触るとは――俺も堕ちたものである。でも、ちょっとだけ男らしい感じもして、そんな自分を嫌いになれない自分が憎い。
 さてさて、ここで一つ唐突な宣言ではあるが。
 俺の家こと萩原邸には――数日前から、銀髪銀眼の少女ナベリウスが住み着いていたりする。
 振り返るのも嫌になるような経緯があったので、あえて振り返らない。
 これが母さんにバレたら大変なことになる――そう当初は思っていた俺だが、その懸念はもうなかったりする。
 あれは二日ぐらい前のことだが、母方の実家に遊びに行っている――いや、遊びに戻っている母さんから電話があった。
 実はそのときナベリウスのやつが「ちょっと夕貴ぃ? その女だ~れぇ?」とか情事を邪魔された愛人のような台詞を言いやがり、電話越しの母さんにナベリウスの存在が露見してしまったのだ。
 慌てふためく俺に、母さんは言った。
「ふふふ、これで母さんにも娘が出来ちゃった」
 と。
 いや違うだろっ! とツッコミを入れたのは言うまでもない。
 とにかく簡単に事情を説明してみると、なんと母さんは快くナベリウスを受け入れた。そして母さんがナベリウスと話してみたい、というので電話を代わってやったら、意外と二人は長話をしていた。どうやら母さんとナベリウスは、古い知り合いのようだった。
 ちなみにナベリウスが「まあ! 女同士の話を聞こうとするなんて、やっぱり夕貴は女々しいわね」とか言ってきたので、俺は彼女らの会話を聞くことが出来なかった。……おかしい、俺は男らしいはずなのに。
 とまあ、そんなこんなで、ナベリウスが萩原邸に居候するのは母さん公認となってしまったわけである。
 ただ、それとは別に――自分でも疑問に思わないでもない。
 どうして俺は――こんなにも簡単にナベリウスを受け入れたのか。
 どうして俺は――あの銀髪銀眼の少女を見て、こんなにも懐旧の情をかきたてられるのか。
 恐らくは錯覚であろう。
 俺がナベリウスと会ったのは、数日前が初めてのはずなんだ。
 だから彼女を見て”懐かしい”と思うこと自体が、すでに気のせいなのである。
「相変わらず現金な胸だなオイ。もっと修行しろ」
「えっ、おっぱいを修行させてくれる場所なんてあるの?」
「そんなの当たり前だろうが」
「へえ、当たり前とか言えちゃうほど衆知の修行場なのね。うわぁ、ちょっと興味あるなぁ。ちなみに、それってどこ?」
「おまえの胸の中だ」
「くっ――ちょっとだけ上手いっ!」
 などというようなバカなやり取りも、今となっては挨拶代わりとなってしまった。
 俺はナベリウスが作ってくれた夕食を頂いたあと、リビングのソファに体を預けて寛いでいた。ちなみに、ナベリウスも同様である。
 ――意外と、と言えば御幣だと本人から怒られそうだが、ナベリウスは家事については万能だった。料理も、洗濯も、掃除も、買い物も、ありとあらゆる主婦スキルを彼女は身につけている。
 だからかもしれないが、ナベリウスからは強く母性を感じるのだ。
 いつも一歩引いて見守っていてくれるような、友人や恋人というよりは、歳の離れた姉や、もしくは若々しい母親のような。
 とにかく不思議な安心感を俺に抱かせるのが、ナベリウスだった。
 ただし、自分のことを悪魔だと称するのはいただけない。
 確かに俺も子供のころは、悪魔とか正義の味方に憧れたことはある。まあ成長するに従って現実を知り、限界を知り、やがては若気の至りへと変わったのだが。
 ナベリウスの外見年齢は、およそ二十歳前後。
 しかも出るところは出た素晴らしいスタイルの持ち主であり、顔立ちだって大人っぽい。
 そんな彼女が「わたしって、実は悪魔なのよねー」とか「ソロモン72柱が一柱ですよー」とか「序列第二十四位の大悪魔こと《ナベリウス》ちゃんですー」とか平然と口走る姿と言ったらもう……。
 だから俺は、決めたのだ。
 ナベリウスには、いたいけな夢を諦めてもらおうと。
 そうだ。
 俺が悪者になることによって、ナベリウスが大人になるのであれば、それは間違いじゃないはず。
 ……おお、今の、ちょっと男らしくなかったか? 今度誰かに言ってみよう。
「じゃあ俺、風呂入ってくるから」
 自分の男らしさを再確認した俺は、なるべく格好いい笑みを浮かべつつ、シャワールームへと向かった。
 まったく、どうして俺はこんなにも男らしいんだろうなぁ嫌になってくるぜ――とか思いつつ、辿り着いた脱衣所で服を脱ぎ、それを洗濯機の中に放り込んでから、湯気で曇る風呂場に侵入する。
 ちなみに着替えは、元々脱衣所に置いてあるので、自室まで取りに行く手間はない。
 萩原邸の風呂は、土地の面積や建物の大きさに比例するように、かなり贅沢な作りとなっている。
 いわゆる檜風呂というやつで、しかも湯船は成人男性が三人一緒に入っても余裕があるほどで、銭湯のように足を伸ばして入浴することが可能。
 それなりに清潔好きな俺としては、我が家の風呂は他所様にも自慢できるぐらい好きで、自室に次ぐリラクゼーションスポットとなっている。
 頭、顔、身体という順で一通り洗い終わったあと、熱い湯が張られた湯船に浸かる。
 口からエクトプラズムが出てくるんじゃないか、とアホなことを考えてしまうぐらいの気持ちよさ。
 意味もなく水面を波立たせてみたり、暢気に鼻唄を歌ったりしていた俺は――そのとき不審な物音を聞いた。
 がさごそ、という布擦れの音である。
「ねえ夕貴ー?」
 脱衣所のほうから、ナベリウスの声がした。
 風呂場と脱衣所を隔てているのは、厚いすりガラス状の扉なので、シルエットのような形でならば反対側にいる人間の姿も確認できる。
 よく分からないが、ナベリウスは両腕を上げたり、片足を順に上げては下ろしたり、白銀の髪を後ろで団子のように纏めたりと、意味不明な動作を繰り返している。
 うーん。
 一体どうしたんだろう?
「なんだよ? 風呂に入りたいのなら、あとにしてくれ」
 風呂場に反響する俺の声と。
「つれないこと言わないでよ。夕貴の面倒を見るのは、わたしなんだから」
 脱衣所に木霊するナベリウスの声。
「前から思ってたんだが、なんでおまえは俺の面倒を――」
 そのときだった。
 がらがら、と小気味よい音を立てて、すりガラスで出来た扉が開く。ちなみに横開きのスライド型である。
 果たして――そこにはナベリウスが立っていた。
 しかも――バスタオルで胸と股間部を覆うようにして、銀色の長髪を後ろで団子のように纏めてアップにしただけ――と言う半端じゃない出で立ちで。
 ……なにこれ?
「もしかして、もう身体洗っちゃった? 背中を流してあげようかと思ったんだけど」
 ぶんぶん、と首を縦に振る俺。
 それは言外に「もうあとは湯船に浸かって出るだけだから、おまえの出番はない。出て行け」という意味も込めたつもりだった。
 しかし、ナベリウスは強敵であった。
 俺の必死のアピールを無視――あるいは本当に気付かなかったのかは分からないが、とにかく彼女は、ぺたぺたと素足のまま風呂場に乱入してきた。
 熱い湯気に当てられてしまったのか、ナベリウスの肌は桃色に染まっており、しかも微かに汗ばんでいて、うっとうしいぐらい色っぽい。
 しかも彼女は、いつもは背中まで流している長髪を後ろで纏めているので、その陶磁器のように滑らかなうなじが丸見えだった。
 ……俺は、男らしいのである。
 健全な男子にとって――ナベリウスの身体は、もはや猛毒にしかならない。
 仮に俺が女性だったとしても――ナベリウスの身体は、やはり猛毒にしかならないだろう。
 あれほど神に愛されきった身体を見てしまえば、己のそれに強い劣等感を抱いてしまうであろうことは想像に難くない。
「うーん、そっかぁ。もう洗い終わっちゃったんだ。ちょっとタイミングが遅かったみたいね。ごめんなさい」
 ペコリと頭を下げるナベリウス。
「ああ、いえいえ、とんでもないです、はい」
 なぜか敬語になってしまう。
 圧倒的な魅力を持つナベリウスを前にして――萎縮してしまったのだ。
「夕貴の面倒を見る者として、これはミスったかなぁ。あとでオシオキされちゃっても文句は言えない失態よね。まあでも、このまま脱衣所に戻るのも間抜けだし、手間もかかるし――」
 言ってから。
 ナベリウスは、なんと湯船に侵入――いや、侵略してきたのだった!
「お、おまっ、おまえ――!?」
「どうしたの? ……ああ、もしかしてタオルで身体を隠したまま湯船に浸かるな、とか? 確かに人間社会では、そういうマナーもあったかしら。というわけで、ポイ」
 まるで自分が人間じゃないような口振りで、ナベリウスはバスタオルを風呂場の端っこのほうに放り投げた。
 幸いにして萩原邸の湯船は広い。だから身体と身体が接触するような事態にはならない。
 ナベリウスが肩まできちんと湯に浸かっているのと、霧のような湯気が視界を覆っているおかげもあって、なんとか俺は彼女の局部を見ることを回避していた。
 ちなみに俺は、隅っこのほうで三角座りをしていた。もちろん彼女に背中を向けたまま。
 すぐに風呂から上がってもよかったのだが、それもなんか逃げたような気がしてイヤだ。
 俺はいつも長時間じっくりと浸かる男なのだ。
 だから、ナベリウスが侵略してきたぐらいで自分のルールを曲げない。それをすると、ちょっと女々しいし。
「ねえ夕貴ぃ……どうしてわたしに背中を向けてるのかなぁ?」
 メイプルシロップのように甘い猫撫で声。
 ――ちくしょう、なんて悪魔の囁きなんだ……!
 俺は現実から逃避しようと瞳を閉じた。
 しかしナベリウスの猛攻は止まらない。むしろ加速していくようだった。
 ぱちゃぱちゃ、と水が跳ねるような音がする。
 それと同時に、湯船の水面が波打つ。
 瞳を閉じているのに、理解してしまった。
 ナベリウスが俺に近づいてきている――と。
 案の定、俺のすぐ後ろからは、ちょっと荒くなった息遣いが聞こえてきた。
「夕貴さえよければ――わたしが相手してあげよっか?」
 なにか柔らかい、それでいて細い棒状のものが俺の背中をなぞっていく。
 きっとナベリウスの指だろう。
「……相手だって?」
「ええ、そうよ。人間の男の子って、色々と溜まるんでしょう? それに夕貴って、まだ若いものね」
「……何が言いたいんだよ」
「つまりアレよ。夕貴ぐらいの男の子は、みんな性欲の塊って話」
「誤解を招くようなことを言ってんじゃねえ!」
「あれ、誤解なんだ。じゃあ夕貴は、女の子の胸とか見ても、なんとも思わないの?」
「……それとこれとは話が別だろ。俺も健全な男なんだから」
 ボソボソと呟くように反論すると、なぜか背後からは溜息の気配。
「夕貴、正直に答えなさい。わたしの裸を見て、ちょっとぐらい興奮したでしょう?」
 まるで悪いことをした子供を叱るような口調だった。
 なぜか。
 逆らうような気は起きず、ただただ申し訳ない気分になった。おかしい、俺は男らしいはずなのに。
「……まあ、興奮した」
「ムラムラした?」
「……まあ」
「メチャクチャにしたいと思ったんだ?」
「…………ま、まあ」
 なんだこの羞恥プレイは。
 それよりも、俺の口はどうしちまったんだ。
 馬鹿正直に本音を言ってどうする萩原夕貴っ!
「……ぷぷ」
 そのとき。
 二人分の呼吸音と、ぱちゃぱちゃと水が跳ねる音に混じって、押し殺したような笑いが聞こえてきた。
 俺が疑問の声を上げるよりも早く、
「はう~! 夕貴ったら照れちゃって~! んもう、超カワイイよ~!」
 幼児退行化したような口調で、ナベリウスは俺を形容する上で口にしてはいけない禁句を言った。
 しかし、彼女の横暴はそれだけに留まらない。
 俺の腹部に回されるのは、白くて細い両腕。そして背中に押し当てられるのは、柔らかくて大きな胸。
 要するに――俺は後ろから、ナベリウスに抱きつかれてしまったのだ。
 どうも幼児退行化したのは口調だけじゃなくて、行動のほうもらしい。
「おまえ――俺に触るんじゃねえ! 離れろよ、この変態!」
 適当に暴れてみたものの、ナベリウスの感触(特に背中に当たっている胸)が気になって上手く力が出せない。だって俺が動くたびに、背中のほうからむにゅっとした柔らかい感触が返ってくるんだもん。反則なんだもん。
 彼女の肌は、俺のそれとは違って、とても滑らかで吸い付いてくるようだった。
 抵抗して背後を振り返った際、ナベリウスの頬が見えた。水と汗に濡れた白い頬は、今や熟れた桃のようなピンク色に染まっている。
 汗ばんだ身体は、吸盤のように引っ付いてくる。
 ナベリウスの乳房の先端には、やや硬くなった突起があって、それが俺の背中と擦れあっていた。
 ここまで男を惑わす女を、俺は知らない。
「わーおっ! 冗談を本気にしちゃうなんて、夕貴も可愛いなぁ~! それ~うりうり~!」
「うざいぞアホ! てめえ、それでも女か――!」
「まあまあ、落ち着きなさいよ夕貴。誰も身体を許さないなんて言ってないから」
 茶目っ気のある声ではなく、どこか神妙とした声。
 まるでナベリウスと初めて会ったときと同じような――あの意味不明な契約の言葉を紡いだときのような、そんな冷厳たる声。
 緊張と羞恥で暴れる心臓はそのままに。
 俺はナベリウスに抱きつかれたまま静止していた。
 もちろん彼女も同様。
 二人して――熱い湯が張った湯船の中、火照った身体をくっつけ合いながら、じっとしている。
「……おまえ、本当に何者なんだ?」
「え?」
 俺の口から飛び出した言葉は――ナベリウスを探るような一言。
「いきなり俺のとなりで添い寝してただけじゃなくて、ほとんど無理やり居候を決めやがるし、しかも今こうして男に抱きついてる。胸だって当たってる。……べつに、恋人同士でもないってのによ」
「そうね、わたしは夕貴の恋人じゃないわ」
 あまりにも、あっさりとした断定。
 もちろん期待していたわけじゃない。
 それでも――ちょっとだけ落胆してしまった俺は、やはり健全な若い男子ということなのだろうか。
 男なら誰だって、ナベリウスのような綺麗な女の子と触れ合いと思うものだ。……いや、言い訳じゃなくて。
 彼女は言う。
「でも、わたしは夕貴を護るから」
「……またそれかよ」
 壊れたテープレコーダーを拾ったような気分だった。
 この少女は――本当に何なのだろう?
 まさか本気で悪魔だとでもいうのか?
 確かに人類を超越した美貌だとは思う。
 人間とは、どこか違った雰囲気の持ち主だとも思う。
 しかし、それはイコールでナベリウスが悪魔だという証明にはならない。
 けれど――俺は。
 きっとナベリウスをただの人間だとも思っていない。
 なんて、いたいけな少年みたいな言い草だけれど。
「――じゃあ、そろそろ上がるな」
 腹部に回された腕を振り解き、背中に押し付けられた胸にさよならを言って、俺は立ち上がった。なんだかナベリウスを否定したような形になってしまった。
 ナベリウスは俺の後ろにいる。
 まだ湯船に浸かったままでいる。
 だから――彼女の顔は見えない。
「ねえ、夕貴」
 澄んだ鈴のような声。
 もしかして真面目な話なんだろうか。
 俺はちょっとだけ期待した。
「……色々と、見えてるんだけど」
 やや気恥ずかしそうにナベリウスは言った。
「へ?」
「いや、だからね。夕貴は格好よく立ち上がって、わたしに背中を向けたまま佇んでいるのはいいんだけど――裸じゃあ、ちょっと締まらないかなって」
「…………」
 下を見てみる。
 もちろん俺は裸だった。
 指摘されてみると、これが驚くほど恥ずかしい。
 もちろん大事な部分は見られていないはずだが、それでも俺の臀部が丸見えである事実は変わらない。
「わおっ、夕貴の顔が赤くなった。うーん、可愛いなぁ。本当に女の子みたいよね、夕貴って。体つきも細いほうだし」
「うるせえ! 俺は男らしいんだよ! ……くそっ、憶えてろよ、ナベリウス!」
 両腕で体を隠しながら、俺は脱衣所のほうに避難する。……おかしい、俺は男らしいはずなのに。
 客観的に見ると、俺が女みたいで、ナベリウスが男みたいじゃないか。
 どうして恥ずかしがるのが俺なんだ。
 普通は、裸を見られたあっちが照れるべきじゃないのか?
 それとも――これは俺の幻想なのか。
 今時の女の子は、裸を見られたぐらいじゃ動じないのだろうか。
 つまり――ナベリウスはそういった経験が豊富?
「……っ」
 唇をかみ締めて、脳裏に浮かんだ妄想をかき消す。
 ナベリウスが――あの銀髪銀眼の少女が、俺の知らない男にもこういうことをしてるなんて考えたくない。
 裸で添い寝したり、一緒に飯を食ったり、花壇に水をやったり、買物に出かけたり、そして風呂で抱きついてきたり。
 信じたい。
 彼女にとって――俺が初めてなのだと、そう信じたいのだ。
 それもまた、俺の一方的な願望なんだろうけど。
 ただし、ナベリウスの正体や目的が気になるのは間違いない。
 なぜ彼女は、俺の元にやってきたのだろう。


 でも、二つだけハッキリしていることがある。
 一つは――少なくともナベリウスは、悪いやつではないということ。
 もう一つは――俺が男らしいということである。
 なんちゃって。



[29805] 0-4 よき日が続きますように
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/18 13:47

 ナベリウスが目覚めたのは、まだ太陽が地平線の彼方で燻っている時間であった。
 カーテン越しに外を見てみると、少なくとも朝とは思えない暗さだった。黎明は黎明でも、まだ”れ”の文字に差し掛かったあたりらしい。
 身近に時計はないので、正確な時刻は分からない。しかしナベリウスは、お腹の空き具合から現在を午前五時頃と推測した。
 ぼんやりとした頭と、気だるい身体。
 間違いなく二時間は寝たりないなぁ――そうナベリウスは思った。
 二度寝しようか、と考えつつ、ゴソゴソとベッドの中で身じろぎする。すると素肌とシーツが擦れあって、妙に気持ちがよかった。
 ナベリウスが就寝用のパジャマとしているのは、ジャージやスウェットやキャミソールではない。彼女は下着さえ穿かず、ただ身体に見合わない大きさのワイシャツを羽織っているだけだった。ちなみに、どうして裸にワイシャツなのかと言うと――ただ夕貴をからかいたかっただけ。他意はある。
 ほとんど裸に近い服装だ。
 素肌とシーツが触れ合う部分は、かなり多い。
 特に気持ちよかったのが足だ。二本の長い足で、シーツを挟むようにして擦り合わせると、なんとも言えない満足感がある。
「……おはよ、夕貴」
 目元を和らげながら、ナベリウスが呟いた。
 水を打ったように静まり返った部屋には、彼女の澄んだ声と、シーツの擦れる音と――そして萩原夕貴の寝息だけがあった。
 そもそも、ここは夕貴の部屋である。だからイレギュラーはナベリウスのほうだ。彼女には客間の一つが貸し与えられているのだから、そっちで眠るのが正解なのに。
 ならば、どうしてナベリウスは夕貴の部屋で――しかも彼のベッドに潜り込んで眠っていたのか。
 答えは簡単。
 昨夜遅く、夕貴が寝静まったのを確認してから、ナベリウスがこの部屋に侵入したからだ。
 夕貴は、頑なに一人で眠ると主張していた。ゆえに少々強引な手段を取らせてもらったのだ。
 せっかく女性から誘っているというのに、夕貴はちっぽけな理性を総動員させて、ナベリウスを客間に押し込めた。バカだなぁ、と思う。どうせ眠るなら、一人よりも二人のほうが温かいのに。
 夕貴も健全な若い男性だ。
 彼ぐらいの年頃は、それこそ女性のことしか考えていないはずである――とナベリウスは勝手に思っているのだが、まああながち間違っているとも言い切れない。むしろ大学生の男子が、女性に興味を持てないのだとしたら、それこそが一つの病気であるだろう。
 しかし夕貴という少年は、どうやら性欲よりも理性のほうが勝っているらしく、ナベリウスがいくら誘惑しても襲ってこない。
 仰向けだった身体を、うつ伏せにして両腕を立てる。そうやって上半身を起こして、傍らで眠っている夕貴の顔を見つめた。
 本人に言うと怒りそうだが――夕貴という少年は、とても綺麗な顔立ちをしている。男性的な凛々しさと、女性的な美しさが絶妙に融合したような容姿。肌は抜けるように白いし、黒檀の髪は混じり気のない濡羽色。こんな綺麗な男子を放っておく女子なんて、まずいないだろう
 男前、イケメン、ハンサム――そういった形容よりは、美少年や美男子というほうが正解。
 体つきは細いほうだが、決して華奢というわけでもなく、むしろ鍛え抜かれた筋肉が手足の下には眠っている。空手をしていたというのだから、その修練の賜物なのだろう。身長は170センチメートルほどで、男性として低くもないが高くもない。
 きっと女の子にモテモテなんだろうなぁ、とナベリウスは思った。
 でも、意外と女の子慣れはしてなかったなぁ、とも同時に思う。
 女の素肌を見ただけで顔を赤らめるし。
 胸を押し付けるだけで動揺するし。
 いくら扇情的な格好で誘っても乗ってこないし。
 年若い男性ならば、愛よりも性欲を優先するはずだ。
 妻がいる、子供がいる、彼女がいる――そんなものは関係ない。男という生き物は、一時の欲望に身を任し流されることを是とする。そして、それは種を存続させようとする生存本能から考えれば、決して間違っているとも言い切れない。
 しかし夕貴は違う。
 彼は一時の欲望に流されない。
 明らかにナベリウスを女として見ているのに、それでも限界ギリギリで踏みとどまっている。だからといって、性欲が皆無というわけでもない。
 ただ萩原夕貴は――ひたすらに女の子を大事にする少年なのだ。
「これも――あの人の教育かな」
 そう呟きながら、夕貴の頬を人差し指でツンツンと突いてみる。
 雪のように滑らかな肌には、マシュマロのように柔軟性に跳んだ弾力があった。ナベリウスでさえ嫉妬してしまいそうになる。
 まあ当の本人は安眠を邪魔されたせいか、不服そうに眉をしかめて寝息を乱していたのだが。
「――ふふ」
 自然と笑みがこぼれた。
 ナベリウスは目元を和らげながら、白銀の瞳を優しげに細めながら、夕貴に身体を寄せていった。そして思う。
 この子が愛しい。
 この子を守ってあげたい。
 この子には幸せになってほしい。
 そのためならば、わたしは何だってしよう。
 あの人との約束も、あの女性との取り決めも、そんなものは関係ない。
 ただ夕貴を見守りたい。
 出来ることなら平和に暮らしてほしい。

 ――まあ、それもまた。
 決して叶わぬ願いなのだろうけど――

 心の中で小さく溜息をついたナベリウスは、夕貴の腕にちゃっかり頭を乗せたあと瞳を閉じた。
 まだ黎明には早い。
 目覚めるには早すぎるのだ。
 二時間は寝たりない、そう自己分析していたとおり、ナベリウスは数分も経たないうちに小さな寝息を立て始めた。
 彼女が目を覚ますのは、それからぴったり一時間半後のこと。
 そして目覚まし時計代わりを努めるのは――まるで幽霊を目撃したかのような、萩原夕貴の悲鳴だったそうな。



****



「ちょっと夕貴ー、ごめんって言ってるんだから許してよー」
 まったく反省の色が見えない声でそう言いながら、ナベリウスは苦笑していた。
 言葉の上では謝罪しているようだが、俺の目は誤魔化せない。
 なにを隠そうこのアマは、俺の反応を見て楽しんでやがるのだ。あの麻薬のような魅力を持った肢体を存分にチラつかせながら、純粋な俺をからかってくるのである。……おかしい、俺は男らしいはずなのに。
 主導権を握られてはまずい、とは常々思っている。
 しかし俺の対処が下手なのか、もしくはナベリウスの攻めが上手すぎるのか、結果としてイニシアチブを取られてしまう萩原夕貴くんだった。
 小鳥さんが可愛らしく囀りまくる日本の朝。
 すでに太陽は地平線の彼方から顔を出して、夜によって下がった気温を引き上げようと頑張っている。
 俺たちは今、萩原邸の一階に位置するリビングにて朝食を摂っているところだった。気になる献立は白米、味噌汁、焼き魚、きんぴらごぼう、納豆、漬物という実に日本的なもの。ちなみに、この朝食を作ったのはナベリウスだ。
 ぶっちゃけた話、銀髪銀眼という日本人離れした容姿の彼女が、この日本伝統を地で行くような朝食を軽々と調理していく様は、とんでもなくシュールだったりした。しかも完成した料理は完璧だし。
 俺たちが起床したのは、午前六時半ぐらい。
 そして今は、午前七時半ぐらい。
 さてさて、じゃあその間にある空白の一時間はというと――ちょっとした人為的なトラブルが勃発したことにより、口論の時間に費やされたのだった。
 なにがあったのかは言わない。
 白くて柔らかかったとか言わない。
 むにゅん、として、ぷにぷにしてたとか言わない。
 温かくて甘い匂いがしたとか言わない。
 今度こそ襲い掛かりそうになったとか、俺は間違っても言わないのである。
「黙れ、この魔女が! 謝罪するつもりがあるなら、せめて申し訳なさそうな顔をしろや!」
「はいはい、ごめんね夕貴」
 ヴィーナス様でさえ己を恥じらってしまいそうな満面の笑顔を浮かべながら、ナベリウスは右目をパチリと閉じた。いわゆるウインクというやつだ。
 しかし俺を侮ってもらっては困る。
 あんなウインクなんて俺には効かないのだ。
 ちっとも可愛いなんて思ってないのだ。
 思わず許しちゃいそうになったとか言わないのだ。
 これは神様に誓って本当なのだ。……ほ、本当なんだからなっ!
「それにしても今朝思ったんだけど――夕貴ってさ、本当にアレだよね。そうそう、アレなの」
「アレ? ……よく分からないけど、その代名詞で言うの止めろ。なんだか不安になる」
「じゃあオブラートに包まずに言っちゃうけど、夕貴の寝顔ってびっくりするぐらい可愛いのよね。本当に女の子みたいで、思わず間違った道に進みそうになっちゃった」
「オブラートに包んで”アレ”かよ!」
 包み方が下手くそすぎる!
 せめて代名詞じゃなくて、きちんとした文章で包んでほしいもんだ。
 ――いや待て、ツッコミを入れるポイントはそこじゃない。
「おいナベリウスっ! てめえ、また俺のことを”可愛い”とか”女の子みたい”とか言いやがったな!」
「あーもう、夕貴ったら朝早くから大声出しちゃって。しかも、ちょっと可愛いとか言っただけで怒るなんてね。まったくもって女々しいなぁ」
「俺が女々しい、だって……? てめえ調子に乗ってると――はっ!?」
 熱暴走寸前だった頭が、冷水をぶっかけられたように冷たくなっていく。
 ナベリウスの弁に一理あるような気がしたからだ。
 すこし”可愛い”と形容されただけで怒る男――この場合で言うと俺だが、それは客観的に見ればおかしいんじゃないかと。
 だって考えてもみろ。
 本当に男らしいやつは、きっと可愛いと言われても怒らないはずなのだ。自然に受け流せるはずなのだ。厳然たる余裕を持っているはずなのだ。
 しかし俺は、ちょっと可愛いと言われただけで怒ってしまった。
 例えば――身長が平均よりも高い男性がいたとして、彼にチビと言っても怒らないだろう。彼の背が高いことは衆知の事実なのだから、その事実と相対する悪口を言っても、それは冗談と受け取ってもらえる。
 だが背が低い男性へ向けてチビと言ったら、果たしてどうなる? まあ聞くまでもなく分かりきった答えだ。その男性は自身の尊厳を守ろうと、顔を真っ赤にして反論してくるだろうことは想像に難くない。
 つまり。
 可愛いと言われただけで、顔を真っ赤にして怒っちゃった俺は――あわわわっ。
「……なんてこった。俺は……萩原夕貴は……女の子だったのか……」
「いや、誰もそこまで言ってないでしょうが。飽くまで夕貴は、女の子みたいであって、女の子そのものじゃないんだから」
「っ――! それは本当か!?」
 神の勅命に似た一言により、俺は泣きそうなぐらい嬉しくなってしまい、思わずナベリウスの両手をぎゅっと握り締めた。
 白くて小さな手。
 柔らかくて温かい手。
 持てる握力を注ぎ込めば容易く折れそうな手。
 それが今、俺の手の中にある。
「本当だけど? 夕貴は可愛くて綺麗で女の子みたいだけど、決して女の子じゃない。その点は間違いないわ。このナベリウスちゃんが保証してあげる」
 どうして手を握る必要があるんだろう、と言いたそうにナベリウスは首を傾げる。今だけは、その仕草が悪魔ではなく女神に見えた。
 そっか――
 俺は――
 萩原夕貴は――
 女の子じゃないんだ――!
 ただ女の子みたいなだけなんだ――!
 この事実を知っただけで、地獄の淵から救い上げてもらったような安堵感が身を包む。気を抜くと、唐突に踊り出してしまいそうであった。
 それからしばらくの間、俺の機嫌が良くなったのは言うまでもない。
 何か色々と見落としているような気がしなくもないが、まあ細かいことに留意してしまうと女の子になってしまうし、あえて無視しようと思う。
「――ほら夕貴。おかわり、いるでしょ?」
 そんな言葉を口にする彼女は、どこまでも甲斐甲斐しい。
 考えてみれば――ナベリウスが萩原邸に居候するようになってから、俺は何もしてないような気がする。
 母さんが不在の今、俺が炊事、洗濯、買物、花の水遣りなどを代わってこなしていた――はずだ。
 けれど、ここ最近は違う。
 俺が料理をしようとする前に、テーブルには食事が並んでいるし。
 洗濯物が溜まってきたかなぁ、と思って洗濯機の中を覗いてみれば空っぽだし。
 買い置きが心配になって冷蔵庫を開けてみれば、見事に食材が追加されてるし。
 花に水をやろうと庭に出てみれば、すでに花は水滴を光らせてるし。
 確かにナベリウスは、いくら母さんに許可を取ったとはいえ、俺の家に居候している身分だ。だから彼女が家事を一手に担うのは、対価を払うという意味では当然なのかもしれない。
 しかしナベリウスの態度は、これっぽっちも作業的じゃない。
 彼女は、賃金のために営業スマイルを浮かべて労働するアルバイトくんとは違う。
 むしろ母親のような無償の愛を俺に注いでくれている――ような気がする。

 ――夕貴の面倒を見るのは、わたしなんだから。

 そんな言葉を思い出す。
 いつもナベリウスが口癖のように言っている言葉だ。
 それと同時に脳裏を掠めるのが、

 ――ここに契約を完了とします、我が主よ。
 ――わたしは、ソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔|《ナベリウス》。
 ――今このときを持って、我が身は貴方様の剣となり、盾となりましょう。

 俺とナベリウスが初めて出会った朝に――彼女が呟いた台詞。
 普通だったら――あれはナベリウスなりの冗談だったんじゃないか、と考えると思う。
 しかし。
 あの神々しいまでの存在感や、人間がゴミに見えてくる圧倒的な美しさは、果たして冗談なんかで醸し出せるものだろうか?
 あれから俺は、幾度となくナベリウスに聞いてみた。
 ――おまえが言ってた悪魔とか契約って、なんのことだ?
 すると彼女は、当然のように言うのだ。
 ――そのままの意味よ。わたしが正真正銘の悪魔で、そしてわたしと夕貴は契約を結んだって意味。単純明快でしょ?
 もちろん俺は意味が分からない。単純明快という四字熟語の意味を誤用してんじゃねえの、と本人に実際に言ってやったぐらい意味が分からない。
 ただ悪魔や契約云々の話はともかく、ソロモン72柱のことは俺だって知ってる。むしろ大抵の人間は存知しているだろう。
 かつてソロモン王によって封じられた72柱の大悪魔たち。
 各々が地獄における爵位を持ち、大規模な軍団を率いるとされている。
 それらの情報はインターネットで検索すると当たり前のように出てくる。だって彼らは伝説の存在だから。それこそ、どこぞの神話や旧約聖書に出てくるほどに。
 つまりナベリウスの話を真実だとするなら――彼女は、ほとんど伝説に近い悪魔だということになる。
 確かにナベリウスは、女神と形容するに相応しい美貌の持ち主であるし、悪魔的な胸の大きさと柔らかさであるし、人間とは違った雰囲気と身体的特徴を持っているかもしれない。
 しかし、だからといって彼女が悪魔だという話にはならない。
 口では何とでも言える。
 俺はまだ証拠を見せてもらっていない。
 ゆえに一度ちゃんと時間を作って、話し合いの場を設けようと思うのだ。
 まあ、とかなんとか偉そうなことを言いまくってる俺だが――きっと彼女が悪いやつじゃないということだけは、ちゃっかり確信してたりするのだが。
「わーおっ、これは朝から過激なニュースだ」
 思考に耽っていた俺は、その感嘆するような声を聞いて顔を上げた。
 どこにでもある平凡な朝食の席、テーブルの上に並べられた食事、開けた窓から入りこむ柔らかな風、一時の安らぎをもたらす観葉植物、リビングの目立つところに置かれた52インチの液晶テレビ。
 それは日本では珍しくない平均的な光景。
 しかし、一つだけ異常なものがあった。テレビ番組のニュースだ。
「……これは」
 思わず食事の手が止まる。
 ニュースとは、極論で言えば『他人の不幸』だ。
 誰かが誰かに殺された、強盗があった、誘拐が起こった、交通事故が起こった、テロが発生した――とにかく日本中、あるいは世界中で起きた事件や被害を拡散するのがニュース番組。
 それを子供のころから見ている俺は、例えば連続殺人事件が起こったとしても物珍しいとは感じない。だって慣れてるから。警察がいるから。そして何より――これは極論だが――遠くのほうで起こった事件は俺とは関係ないから。
 ……しかし。
「この街で誰かが殺されたんだってね。……ふむふむ、なるほど。被害者は市内の高校に通う女子高生で? 遺体発見場所は街外れの路地裏で? そんで第一発見者は近所の飲食店を営む男性、と」
 ニュースキャスターの言った言葉を、ナベリウスはそのまま復唱する。
 遺体には鋭い刃物で傷つけられたような損傷が見られるが、現場に凶器の類は見つからず。また『被害者は生前誰かに恨まれるような子ではなかった』という家族や友人の証言もあり、犯人の目処は立たず、動機も不明瞭。場合によれば、通り魔殺人という線も出てくるらしい。
 ニュースを流し聞いていたので、頭に入ってきた情報はそれぐらいだ。
「ほら夕貴、あーんして」
 ぼんやりとした頭で、俺は口を開けた。すると漬物っぽいものが口に入ってきた。とりあえず喰う。
 それにしても――俺の住んでる街で殺人事件か。あまり気分のいいものじゃないな。
「はい次は、焼き魚の切り身だよ。あーん」
 もう一度、俺は口を開けた。すると魚っぽいものが口に入ってきた。まあ喰う。
 ……ん、待てよ?
 さっきから俺は、どうやって飯を食ってんだ?
 手は止まってるはずだよな?
 ということは――勝手に漬物とか魚が飛んできた……!?
 なーんて妄想は面白くないので却下するとして。
「夕貴ー、次は」
「――おい、さっきから何してんだ、おまえ」
 殺人事件について考えていた俺は、ようやく現実に戻ってきた。
 すると、まず気付いたのは、ナベリウスが満面の笑顔を浮かべながら俺に『あーん』をしようとしていることだった。
「何してんだって言われてもね。わたしは、夕貴ちゃんに御飯を食べさせてあげようとしてたの」
「んなことしなくてもいいわ! つーか、誰が夕貴ちゃんだ! 俺にちゃん付けするなよ!」
「あーあ、夕貴ったら照れちゃって。ほんと可愛いなぁ。お嫁さんにもらっていい?」
「それを言うならお婿さんだろうが! 俺ほど男らしいやつを捕まえて何言ってんだ」
「あはははっ! 冗談はその女の子みたいな顔だけにしてよ~!」
 お腹を抑えて、瞳に涙さえ浮かべて、テーブルをばしばしと叩くナベリウス。
 ……なんだか俺のほうが間違ったことを言ってる気がしてきた。
 とまあ、そんなこんなで騒がしくも楽しい朝食の席だったのだが――
 萩原宅に変化が訪れたのは直後であった。
 どことなく軽快な感じのする音が鳴る。ピンポーンって感じの。来訪者を告げるアレだ。よく子供がイタズラとかに使わないでもないやつ。そうそう、呼び鈴とかチャイムとか、そういった名称の。
 つまり誰かが萩原邸を訪ねてきた、ということだ。
「夕貴、誰か来たみたいだけど。……まったく、こんな朝早くから人様の家に来るなんて」
「言っとくけど、おまえの家じゃないからな? 俺と母さんの家だからな?」
 不機嫌を隠そうともしないナベリウスに釘を刺して、俺は立ち上がった。
「――まあ、誰が訪ねてきたのかは想像がついてるけど」
 そう言い残して、玄関のほうに向かう。
 このとき。
 すでに俺は、あの凄惨なニュースを忘れていた。
 いくら自分達の街で起こったとは言え、俺に関わりのある事件じゃない。だから気に病むだけ無駄だと。


 ――そう、このときの俺は楽観していた。




[29805] 0-5 友人
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/18 13:48
 ――私たちはずっと一緒だよね。
 そう少女は言いました。



 ****



 来客があったのは、俺とナベリウスが朝食を摂っていたときのことだった。
 萩原邸は、ご近所さんでも評判になる程度には大きい。
 つまりは廊下も長いということで、リビングから玄関まで伸びるフローリングロード(俺の家の廊下は、全部フローリング張りである)は、宅配便さんが訪れたときに限って強敵と化すのだった。だって応対するのが遅いと、不在と思われて受け取りが出来ないし。
 そんな事情もあって、俺は小走りを要求されているわけなのだが、実はあまり急がなくてもいいと分かっていたりする。むしろ永遠に待たしていたい。
 玄関扉まで数メートルと迫ったところで、二度目のチャイムが鳴った。……ちょっとイラつく瞬間である。
「はい――萩原ですけど」
 そう言い終えるのと、開錠を済ませて扉を開くのは同時だった。
 朝特有の眩い日差しが目に染みる。
 まだ早朝ということもあるが、それを踏まえても気温は低い方で、風は肌寒かった。
 当然かもしれない。
 暦の上では四月なのだ。少し遠くに行けば、街一番の長い坂があるのだが、その街道には等間隔で植えられた桜の木があって、この季節になると見事な桃色の蕾を咲かせる。
 いわゆる桜並木というやつだ。
 薄桃色の花びらが風に乗って周囲を舞う様子は、まるで結界に護られているような気がしてくるぐらい、神聖さを醸し出している。
 それを念頭に置いたうえで鼻を鳴らしてみると、なんとなく花っぽい感じの匂いもして、あぁ春だなーと実感することが出来た。
「――おい、夕貴」
 やや不機嫌を滲ませた声が聞こえた。
 というか誰かが訪ねてきたことをうっかり忘れてた。あまりにも今朝が清々しかったものだから、つい自分の世界に突入しちゃってたみたいだ。
 ――萩原邸の敷地と道路を隔てているのは、およそ一メートルほどの高さの煉瓦壁と、その上に建てられたロートアイアン製のフェンスである。
 また門扉(もんぴ)もロートアイアン製であり、そこから自然石を敷き詰めたアプローチを渡り橋にするようにして、萩原邸の玄関と繋がっている――
 俺が玄関に立っていて。
 お客様が――あいつが、門扉の向こう側に立っている。
「いい天気だな、夕貴」
「いきなりどうした。おまえは近所の主婦か」
「そうだ、おっぱいだ」
「…………」
「そうだ、おっぱいだ」
「聞こえなかったから閉口したわけじゃねえよ……」
「ナイスおっぱい!」
「うるせえ! 人様の家の前で、堂々と卑猥な発言すんなっ! おまえのせいで、確実に萩原家の評判はちょっと落ちてるよ!」
 ――って、あぁ!
 言ったそばから、両手にゴミ袋を持った近所のお姉さんが驚きに目を見開いて足を止めてるじゃねえか! けっこう会釈とかすんのに! これから気まずいじゃん!
 ……だめだ、朝っぱらから叫んだせいか頭が痛くなってきた。
 ちょっとクールダウンをしよう。テンションを上げるのは昼頃からでも遅くない。俺はスロースターターなんだ。
 頭を冷やすついでに少し整理してみよう。
 ――玖凪託哉(くなぎたくや)。それが人様の玄関前で卑猥な発言を連発した男の名前である。
 わりと明るめに脱色された髪と、世間一般の基準と照らし合わせても十分に整っていると言える顔立ち。なにより身長が高いのが羨ましい。俺より五センチ近くも上なのだ、この托哉という男は。
 顔は悪くないし、ガタイだっていいし――ならば女にモテまくりじゃないか、というと、しかしそうでもない。
 先の発言からも分かるとおり、贔屓目に見ても託哉は、女にウケる性格をしていない。むしろ女性から親しげに声をかけられるよりも、ゴキブリを見るような目で蔑まれる機会のほうが圧倒的に多い。
 とは言ったものの、託哉自身は無類の女好きを自称しており、いわゆるナンパな行動を取ることが多い。しかし女の子から「かっこいいね」とは言われても「好きよ」とは決して言われないのが玖凪託哉だった。
 ……今にして思えば、俺たちの付き合いもしぶとく続いてるもんである。
 託哉と出会ったのは、高校二年生のときだった。
 学年が変わると、馴染んだクラスも変わる。本来ならば期待と不安に満ちたクラス替えは、それなりに楽しみなイベントに分類されるであろう。
 親しんだ友達と離れるのは思うところがあるけれど、友好の輪が広がるのは素晴らしいことだ。もちろん俺のクラスの子達もみんな楽しそうにしていたし、俺だって僅かながらドキドキしてしまったのは否めない。
 でも――ちょっとだけ人見知りの気がある俺にとって、クラス替えは学校側が仕組んだ試練のようにも思えた。
 昔から、俺はどこに行っても目立った。女っぽい顔立ちが物珍しかったのだろう。好奇の視線は、本当に気が滅入る。
 そういえば――クラスが変わったり、何かの行事で他学年と交流する機会が出来ると、やたらと女の子が喋りかけてきたりする。
 まあ『女みたいな萩原夕貴に一言だけ喋りかけてくる』という罰ゲームでも科せられたんだろう、と決め付けていた俺は、無愛想に返事しまくっていたんだけど。
 とにかく高校二年生のクラス替えのときも、俺は自席に腰掛けながら「てめえら、俺を女みてえな目で見てんじゃねえぞ!」と心の中で呟き、密かに周囲を威嚇していた。
 その成果もあったのか、クラスの連中は遠巻きに視線をよこすだけで、誰も喋りかけてこなかった――が。
 何事にも例外はあるように、あのときの萩原夕貴にとっても例外はいたのだ。
 ――おまえ、女みたいな顔してるんだな。
 それが託哉の第一声だった。
 普通に「あっ、喧嘩売られた」と解釈した俺は、
 ――てめえこそ、玖凪(くなぎ)とか変な名前してるくせに。
 なるべく男らしい顔をして言い返してやった。
 クラス替え発表の際、一人だけ見慣れない名前があったことを覚えていた俺は、ほとんど無意識のうちにそいつをマークしていた。それが託哉だった。
 剣呑とした空気が流れて、次の瞬間には怒声が飛び交った――ほうがよかったのかもしれない。
 しかし予想に反し。
 椅子に座ったまま身構える俺を見て、託哉は人懐っこい笑みを浮かべたのだった。
 ――違いない。ここまでハッキリと言われたのは初めてだよ。
 とか何とか、粋な台詞を添えることを忘れずに。
 あれから二年が経った。
 初対面では一触即発っぽい感じだったのに、気付けば託哉とつるむ時間は次第に増えていった。
 他人から顔見知りに。
 顔見知りからクラスメイトに。
 クラスメイトから友達に。
 友達から――恐らく親友に。
 基本的に、人付き合いには多少の気遣いが要求される。誰だって自我を押し通すことは不可能なのだ。当然だろう。ワガママが許されるのは、赤ん坊か王様だけなのだから。
 あらゆる打算的なものが必要になるのが人間関係だ。対人関係を円滑に進めていく上で、それが活醤油として機能するのなら”嘘”だって是とされる。
 でも不思議と――託哉には、うざったらしい気遣いは無用だった。一緒にいても疲れないし、何より楽しい。
 嘘をついたとしても、それが数分後には笑い話のタネに変わってるのが当たり前。
 喧嘩したとしても、どちらが折れたわけでもないのに気付けば肩を組んで笑ってる。 
 ……まあいわゆる、馬が合った、というやつだろうか。
 今後も託哉との付き合いは続いていくのだろうし、それが腐れ縁と呼べるようになるのも、きっと遠い未来じゃない気がする――
「――それで? 何しに来たんだ、おまえは」
 俺は玄関に立ったまま。
 託哉は門扉の向こう側に立ったまま。
「何しに来たとは他人行儀じゃないか。夕貴ちゃんが昨日も一昨日も学校休んでたから、わざわざ早めの時間に迎えに来たんだぜ? それに水曜(きょう)は一限目に同じ講義を取ってあるだろ?」
「夕貴ちゃん言うな!」
 とりあえずツッコミを入れておく。というか真実、これは訂正である。だって俺は男らしいのだ。ちゃん付けされるとか、もうありえないのである。
 そういや俺って、今週始まってから学校行ってないよな。まあ先週の土曜日にナベリウスがやってきたせいで、大学に行くヒマがなかったんだけど。
 ……うーん、さすがに今日も続けて休んじゃったらまずいか?
 正味なところ、今年入学したばかりの俺にとって大学は未知数なのだ。だから早いうちに慣れておきたい。それにせっかく母さんがお金を出してくれているんだし。
 ただ――ナベリウスをどうするべきか、だよなぁ。
 留守番を任せるのも一抹の不安が残るし、かといって大学に連れて行くのも自殺行為だし。あの銀髪銀眼という日本人離れした容姿のナベリウスだ、連れ立って歩くと好奇の視線に晒されるだろうことは想像に難くない。
 ……とは言ったものの、いくら考えたところで手は限られてる。
 合理的かつ客観的に分析すれば、結局はナベリウスに留守番を頼むしかない。
 あいつが泥棒だった、という系統のオチだけは、母さんの「彼女は私の古い知り合いだから、仲良くしてあげてね」という発言から鑑みるに、心配しなくてもよさそうだしな。
「なあ夕貴。立ち話もなんだから、とりあえず上がってもいいかな?」
「ん? ああ――」
 いいよ、と言おうとして違和感が先に出た。
 この玖凪託哉という男は、萩原家とびっくりするぐらい付き合いが深い。その深度は、俺の母さんが託哉に家の合鍵を渡そうとしたぐらいだ。
 まあ母さんは天然入ってるというか、正直ちょっとだけバカだからな――まあそこが可愛いところでもあるんだけどって言ったらマザコンだが――とにかく俺の友達ならば、問答無用で悪いやつじゃないと信じて疑わない。
 萩原家に居座ることが多い託哉は、当然母さんにも可愛がられている。……それが、ちょっとだけ気に食わない。母さんは無防備な人だから、風呂上りにバスタオル一枚で歩き回ったりするし、いつか託哉のやつが劣情を催して襲い掛かりそうな気がする。ちなみに本人談である。
 とまあ話が逸れたけれど。
 普段の託哉は、呼び鈴も鳴らさず勝手に家に入ってくることが多い。それは俺も母さんも許可している。萩原邸に泊り込むことが多い託哉だから、いちいち来客用のベルを鳴らすのも面倒がかさむだけだ。
 つまり託哉が、こうして改まって萩原邸を訪ねてくるのは珍しいのだ。
「――ダメなのか?」
 痺れを切らしたように、託哉は言葉を重ねる。
 ……気のせいか。
 ほんの一瞬――託哉の瞳が、鋭く細められたような気がした。ぞっとするほど冷たい瞳。ありあまる感情が、すべて抜け落ちたみたいな――そんな双眸。
「ああ、ダメだ」
 思わず許可しそうになったが、寸前で拒否した。
 だって家の中にはナベリウスがいるのだ。この女好きの託哉と、あの子悪魔染みたナベリウスを引き合わせたら、どんなビックバンが起こるか分からない。
「ふうん――そっか。ダメなのか」
 意味深に頷く託哉。
 そういえば――こいつは昔から、びっくりするぐらい健康体なくせに、脈絡もなく学校を数日続けて休んだりとか、俺にも読めない行動を取る男だった。ちなみに理由を問いただしても、托哉ははぐらかすばかりで一向に答えを教えてくれない。
 まあ、だからなんだという話だけど。
「もしかして、家の中に誰かいるのか? 小百合(さゆり)さんはいないんだろ?」
「ああ。母さんは実家のほうに行ってるけど――いや、それよりも」
 こいつ――どうして。
「どうして家の中に、誰かがいるって思ったんだ?」
 母さんがいないって分かっているのなら、先の質問は出ないはずだ。
 もちろん邪推だろうけど、俺には託哉が『ナベリウスが萩原家に滞在していることを知っている』ような口振りに思えたのだ。
 こんなときに――こんなときだからこそ、あの自称悪魔の台詞が脳裏を掠める。

 ――だってわたし、悪魔だし。

 その悪を代表するような存在が、仮にも実在するのなら。
 必然的に――それと対極を成す『悪魔祓い』が発生してもおかしくはない。
 もしかして。
 託哉は――!
「いやいや、だって夕貴ちゃん――さっきから、おまえの後ろに誰かいるよ」
「へ?」
 その怪談のオチを飾るような一言を聞いて、背筋にゾクリと何かが這い上がってくるような感覚があった。というか、やっぱり考えすぎだったらしい。てへっ。
 次の瞬間――がしっと肩を捕まれた。思わず悲鳴を上げかけた俺は、視界の隅に目を奪われるような銀髪を見た。ついで背中に、つきたての餅のような感触が当てられる。ナイスおっぱい!
 どうやら、誰かが俺の背中にしなだれかかってるらしい。

「ちょっと夕貴ぃ? わたしを放って、一体なにをしてるのかなぁ?」

 耳元で囁くようにして彼女は言う。生暖かい息がこそばゆくて、無意識のうちに肌が粟立った。
 鼻腔を掠めるのは、清涼感に満ちた甘い匂い。何度もベッドに侵入してくるせいで、このうっとうしいぐらいのいい匂いが誰のものなのか、俺は数瞬のうちに理解できた。
 ああ――また面倒なやつが出てきてしまった。
 おまえは家の奥で大人しくしてろって、釘を刺しとけばよかったかなぁ。
「……ナベリウスか」
「そうそう。あなたの愛しいナベリウスちゃんです。あまりにも夕貴の帰りが遅いので、ちょっと心配になって来ちゃいました。てへっ」
「最後の”てへっ”はいらねえよ……そんなこと言うやつは、正真正銘の女々しいやつだって」
 ぶつくさと文句を言ってみるも、事態の悪化は止まらなかった。
 俺の肩越しにひょいと顔を覗かせたナベリウスは、門扉の向こうに立つ託哉を認めた。
「あら、夕貴のお友達?」
 まるで俺の姉のような親しさと気安さだった。
 反対に。
 託哉は驚きに目を見開いて、全身をぷるぷると震わせている。
 どこからどう見ても衝撃を受けていた。
「……デ、デ――」
 それは壊れたテープレコーダーに古びたカセットテープを入れたような、そういう意味不明な発声だった。
「デ、デ――!」
 高まる声。
 託哉は感極まったように両手を開いた。まるで空を抱くかのごとく。
 そして――叫んだ。
「――デストローイ! デストローイ、デストローイ、デストローイ、デストロォーイ――!」
 身振り手振りを交えて、ひたすらに”ぶちこわす”を意味するデストロイを叫喚しまくる託哉。
 呆れて物も言えない俺と、ぽかんとした顔で「ここは病院じゃないよ……?」と言いたげに大口を開けるナベリウス。
「――デストローイ! なあ夕貴ぃ! おまえの後ろにいる子、まじデストローイなんだけど――!」
「どうでもいいけど、デストロイとマーベラスあたりの単語を間違えてねえか?」
「……マーベラス! マーベラス、マーベラス! 夕貴ちゃん、その子まじマーベラスだぜ!」
「もう遅せよ!」
 確実に今日だけで萩原家の評判が落ちたわっ!
 ”おっぱい”とか”デストロイ”を人様の家の前で叫ぶとか、こいつどんだけだよ!
 それに――!

「俺を『夕貴ちゃん』って呼ぶなぁぁぁぁっ!」

 うん。
 結局すべては、この一言に集約されるんだ。
 だって――俺って男らしいし。本当だし。絶対にちゃん付けとか似合わないし。てへっ。




[29805] 0-6 本日も晴天なり
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/18 13:50
 ――お母さん、いつもありがとう。
 そう少女はお礼を言いました。


 ****


「……ねえ夕貴。悪いことは言わないから、友達は選んだほうがいいと思うわよ」
 やたらと神妙な声でナベリウスは言う。
 俺の背中にしなだれかかるような体勢の彼女は、肩越しに顔を覗かせながら、門扉の向こうに立つ託哉を怪訝な目で見ているようだった。
 まあ気持ちは分かる。
 顔を合わせるなり”デストロイ”と叫ばれたのだ。
 託哉を知らない人間からすれば、その奇行は恐怖を誘うだろうし、なにより頭の心配をしてしまうだろう。正直に言えば俺だって、こいつに何度か心療内科への通院を勧めたことがある。
 可愛い女の子を目撃すると、異常なまでにテンションが上がる託哉だが――それでも今回のような症状は稀だ。
 つまり、よほどナベリウスが美人に映ったのだろう。
「――へい! そこの美しいお嬢さん! 今からオレと楽園を探しに行かないかい!?」
 萩原家の門扉の前――つまり公共道路上で片膝をつき、託哉は大げさな身振り手振りを交えて、早速ナベリウスを口説きにかかっているようだった。
 あぁ……まじで萩原家終わった……このバカの後ろを怪訝な顔をした奥さん達が通ってるし……。
「ねえ。もしかしなくても美人って、わたしのこと?」
「当然だろう!? ここに美人は一人しかいないじゃないか! おおっ、穢れなきヴィーナスよ! これからオレとランデブーしようぞ!」
 警察呼んだほうがいいかな……。
「――待って、今のは聞き捨てならないわ。ねえあなた」
「あなたじゃなくて、託哉と呼んでくれ! むしろ君の好きなように呼んでくれて構わないぜ!」
「そう。じゃあ――託哉」
 冷たく言って、ナベリウスは一歩前に出た。
 このとき――俺は猛烈に期待していた。だってナベリウスが「今のは聞き捨てならないわね」と言ってくれたんだ。つまり彼女は、俺に代わって託哉を叱ってくれるつもりなのだろう。
 思わず涙が出そうになる。
 なんだかんだ言っても、ナベリウスは俺のことを考えてくれているんだ……。
 やがて、ナベリウスは教師のように人差し指を立てて。
 言った。
「美人は一人しかいない、とか言ったらだめでしょうが。夕貴ちゃんを忘れるとか、あなた本当に引くんだけど」
「――そっちかよ! つーか俺は、おまえの言動に引くわっ!」
「なるほど。それは確かに申し訳なかった。ごめんな、夕貴ちゃん」
「てめえも謝んな! 俺が本当に美人みたいになるだろ!?」
 顔を真っ赤にして、そう反論した瞬間。
 ナベリウスと託哉の視線が俺に集中した。足のつま先から、頭のてっぺんまでじっくりと観察される。
「――やっぱり可愛い」
 その発声は同時だった。
 なんだか美少女を見るような目で見つめられてしまっているわけだが、しかし俺は冷静さを取り戻すことに成功した。
 ――ああ、そうだ。
 本当に男らしい人間は、”可愛い”とか”美人”とか”女の子みたい”とか言われても怒らないのだ。身長の高い人にチビと言っても、笑って済まされるように。
 だから俺は怒らない。
 むしろ「はいはい、俺は可愛いですよー」と目元を和らげながら頷くぐらいの余裕を持ってみせるのだ。
「……あら? 珍しく夕貴が怒らないわね」
 ナベリウスは拍子抜けしたようだった。
 ――母さん、見てますか。俺は日々成長しているようです。もう女の子みたいとか言われても動じません。幼き頃、あなたに女装させられた記憶さえ、今では笑い話として披露しちゃえそうです。
「そういや夕貴って、数ヶ月に一回ぐらいはこうなるんだよなぁ」
「こうって?」
「見たまんまだよマイプリティードール。夕貴は数ヶ月に一度ぐらいの間隔で、自分が女の子みたいな顔してるって事実を忘れようと逃避するのさ」
「ふうん、なんだか女々しいわね。でも、そこがまた可愛い気もするけど」
 ――なんかナベリウスと託哉が内緒話しているみたいだけど、誰が動じてやるもんか。だって俺は男らしいんだ。男らしいやつに女々しいとか言っても、そんなの嘘にしかならないのだ。
 俺は両腕を組み、足を肩幅ぐらいの広さに開き、瞳を閉じながら、うんうんと頷いて自分の男らしさを再認識していた。
「そういえば夕貴。この美の女神ヴィーナス様が顕現なさったような美少女は、一体なんなんだ? 明らかに親戚とかじゃないよな」
 と託哉。
「ああ、こいつは――」
 ――そこまで言いかけて、口を噤んだ。
 まずい。
 萩原夕貴の中には、この自称悪魔を紹介するだけのボキャブラリーはないぞ。
 言葉に詰まった俺に助け舟を出すつもりなのか、ナベリウスは笑みを浮かべながら振り返った。そのままトコトコと近づいてきたかと思うと、なぜだか腕を組んでくる。
 託哉の悲鳴が聞こえた。
「ねえ夕貴ぃ? なんで秘密にしちゃうのかなぁ?」
 男の心を蕩けさせるような猫撫で声。
「いや、べつに秘密にしてないだろ。ただ説明に困ってただけで」
「――せ、説明に困るだって!? おい夕貴ちゃん、おまえオレの女神に何をした!? まさか……く、口にするのも憚られるようなことをしてたんじゃないだろうな!?」
「鋭い! そうよ、わたしと夕貴はぁ……ねえ?」
 豊満な胸を押し付けながら、上目遣いをかましてくる悪魔。このときばかりは自称を取っ払ってやってもいいと思った。
 ほのかな石鹸の匂い。
 滑らかな白い肌の感触。
 西洋人形のように整った顔立ち。
 かあ、と顔が赤くなるのを自覚した。女の子に耐性があるかどうか、なんて関係ない。ナベリウスに密着されると、男なら誰だって照れちゃうだろう。
「まさか……あの萩原夕貴が……いくら女に言い寄られてもなびかなかった夕貴が……」
 公共道路に両手をついて、託哉は四つん這いの体勢で打ちひしがれていた。
 あぁ……また萩原家の評判が……。
「へえ、夕貴って女の子に興味なかったんだ――じゃあ夕貴の初めては、わたしが貰ったってことになるのね」
「ならねえよ! 虚言も大概にしろアホ!」
「……え? もしかして、忘れたの? ……責任、取るって言ってくれたのに」
 ナベリウスは鼻を鳴らしながら、涙を拭う仕草をした。明らかに嘘泣きである。
 しかし門扉の向こうにいる託哉――その隔たれた数メートルほどの距離が、どうやら真実を曇らせるフィルターとなったようだった。
「責任だと!? ……くそったれめ。おい夕貴ちゃん、この子に何をした?」
「何もしてねえよ。それより俺を夕貴ちゃんって呼ぶなよ」
「そうね。あんなアブノーマルな場所と体位で無理やりなんて――あっ、ごめん。今のは忘れて」
「――夕貴ぃぃぃぃっ! もはや勘弁ならねえー! 罰として、女装させて大学まで引っ張ってやらぁ……!」
「…………」
 昔の人は言いました。
 口は災いの元。
 阿鼻叫喚。
 などなど。
 でも一つだけ納得できない格言があります。
 ――嘘も方便。
 これだけは、どうしても許せない萩原夕貴なのでした。
 だってナベリウスの小悪魔染みた嘘のせいで、託哉が面白いように暴走して、俺が被害を被ってるんだ。
 これで方便とか言われちゃったら、もう泣くしかないだろう。
 さて、閑話休題。
 まあ結局のところ。
 託哉には――ナベリウスは俺の母さんの古い知り合いなのだと、そう説明することで落ち着いた。ちなみにこれは真実であり、電話で話した母さんは、ナベリウスを知っているような口ぶりだった。
 二人の間に何があったのかは分からない。
 母さんには詳しく聞いていないし。
 ナベリウスは詳しく話そうとしないし。
 無理に聞き出そうとも思わなかった。誰だって知られたくない秘密の一つはあるものだし、何より女の子が隠しているものを暴き立てようとするほど、俺は無作法者でもない。まあ悪魔云々の話は、早急に解明が必要だろうけど。
 それからしばらくの間、自己紹介や世間話に興じていたが、あまりゆっくりもしていられなかった。
 体感的な話になるが――朝の一分は、夜の十分に相当すると思う。
 もちろん例外はあるが、少なくとも学生である俺にとって、朝の一分は宝石のように貴重だった。
 どのみち今日は学校に行く予定なんだ。
 さすがに遊んでいるのも限界だろう。
 そうと決まれば話は早い――俺は、通学する旨をナベリウスに伝えた。すると意外にも、彼女は「じゃあ留守番してるね」と物分りがよかった。……おかしい。普段の言動から察するに、一緒に大学へ行きたがるかと思ってたんだけど。
「――ちょっと用が出来たのよね」
 理由を問うてみると、ナベリウスはどこか憂鬱そうに銀髪をかき上げてみせた。
 ここ数日、この自称悪魔に私用があったところは見たことがないけれど、まあ人間生きてるかぎり周囲と摩擦を続けるものだし、ナベリウスに何かしらの用事が発生してもおかしくはない。
「ねえ託哉」
 通学の準備を済ませて、そろそろ学校に向かおうとしたときのこと。
 萩原邸の玄関に立つナベリウスは、門扉の外側に立つ俺たち――いや、託哉に向けて声をかけた。
「そうそう、君の愛しい託哉くんだよ。ところで、オレになんか用かい?」
「あの、さ――夕貴って学校ではどうなの? 上手くやれてる?」
 まるで俺の母親か姉みたいな言い草だった。
「当然さ。なにせ夕貴は、気持ち悪いぐらい頭がいいからね。高校のときも三年間ずっと主席だったし。こいつが学校に馴染めてなかったら、一体だれがって話になる」
「へえ、そうなんだ。夕貴ってば頭いいのね」
 満面の笑みを浮かべて、ナベリウスは自分のことのように喜んだ。
 ――確かに俺は、優秀な学生であったとは思う。しかし、それはイコールで知能指数が高い、というわけでもない。
 ただ……ガキのころの俺は、テストで満点を取るたびに母さんが頭を撫でてくれるのが好きで、それを楽しみに努力していただけだった。
 よく漫画や小説に出てくる、隔絶した才能で周囲を圧倒する『天才』とは違う。
 むしろ無様に転びながらも必死に立ち上がる『凡人』そのもの。
 母さんに喜んで欲しいだけだった。
 いつか母さんを護ってあげられる男になりたかった。
 だから――愚直なまでに勉学に取り組んだ。その結果、|なんとか学年首位の成績を三年間キープできたのだ。
 それを謙遜する気はない。
 血の滲むような努力をしたことは確かだし、今まで読んだ書物の数や、頭に叩き込んだ知識の量は、自分でも立派だと胸を張れる。母さんの息子として、堂々と前を向けるのだ。
 もちろん頭脳だけじゃなくて、体のほうも鍛えた。その一環として、小学校のころから隣町にある空手道場に通っていた。こう見えても、有段者なんだぜ、俺って。
 ああ、そうだ。
 いくらでも自慢しよう。
 子供のころ――母さんに「どうして、僕にはお父さんがいないの?」と無神経な質問をして泣かせたこともあったけど。
 だからこそ強くなりたいと思った。
 優しくて綺麗で、いつも笑っている母さんが――唯一見せた本当の涙。
 きっと、それこそが萩原夕貴の原点であり、それを胸の奥に仕舞っていたからこそ、鋼のような努力を続けることが出来たんだ。
「じゃあ行ってくるけど――留守番しっかり頼むな」
 さすがに時間が圧迫していた。
 振り返り様に「留守番」と釘を刺しておく。間違ってもナベリウスを大学に入れてはならない。きっと騒ぎどころじゃ済まないだろうし。
「はいはい、大人しく家にいるから。だから、しっかり勉強して来るのよ?」
「……分かってるよ」
 ナベリウスは腰に手を当ててお姉ちゃん風を吹かしつつ、釘を刺し返してきた。
 なんだか照れくさい。
 母さんとは違うけれど――それでも家族に見送られるのと同等の安心感があった。
「――あっ、そうだ。ちょっと待ってて」
 何事を想起したのかは分からないが、パタパタと小気味よい音を立てながら、ナベリウスは家の中に引っ込んだ。
 正直、本当に一限目の講義に遅れそうなんだけど。
 それから時間にして――たぶん二分ぐらいだろうか。
 玄関が開いたかと思うと、なにやら小包を抱えたナベリウスが姿を見せた。
 よほど急いでいたのか、豪奢な銀色の髪は乱れて、額や首筋には薄っすらと汗が滲んでいる。
「――はい、これ。ナベリウスちゃんからのプレゼントです」
「プレゼント?」
 怪訝に思いながらも、小包を受け取った。
 すると意外にも重量があることに気付く。青色の風呂敷のようなもので包まれたそれは、長方形型をしているようだった。
 まさか、これって――
「学校行くんでしょ? 昨日、キッチンで弁当箱を見つけたのを思い出したの。だから、どうせならと朝食の残りを詰めてみたんだけど――どうかな?」
 朝食の残りとは言っても、今朝ナベリウスが作ったのは普通に夕食でも通用する贅沢なメニューだった。
 いや、それよりも問題は――
 あの生意気で、小悪魔染みていて、お姉さん風を吹かして、いつも俺から主導権を持って行きやがるナベリウスが――不安そうに身体を丸めながら、上目遣いで俺の様子を伺っていることだ。
 余計なことしちゃったかな、怒られないかな――とでも言いたげに揺れる瞳は、なんだか普通の女の子みたいだった。
「……サンキュ」
 おかしい。
 どうして俺まで恥ずかしがらなくちゃいけないんだ。
 どうして俺は、弁当一つでここまで喜んでるんだ。
「……これ、ちゃんと残さず食うから」
 沈黙に耐え切れなくて、そんな適当な発言で場を濁す。
 しかし。
 きっとナベリウスは――何よりもその一言が欲しかったんだろう。
「――うんっ! 残したりしたら承知しないからね」
 白磁の肌を紅潮させて、見ているこっちを虜にするような満面の笑みを浮かべたのだった。
 いつもは学食で済ませているんだけど――まあ弁当も悪くないというか、むしろ望むところだろう。食堂のおばちゃんが作った定食を頬張る託哉のとなりで、俺はナベリウスが作った弁当を平らげてやるのだ。
「じゃあ今度こそ行ってくるよ。留守番頼んだぜ」
「了解よ。萩原家のことはわたしに任せなさい」
 自信満々に胸を叩く。揺れた。
「えっと――托哉。夕貴のこと任せたわよ」
「分かってますよ! こいつは女装させてでもオレが護ってやりますから!」
 もう突っ込む気力さえなかった。
 こうして俺と託す哉は、大学に向かったのだった。



 その通学途中のこと。
 桜並木を歩いているところで、となりにいる託哉が言った。
「なあ夕貴。おまえ合コンの話、覚えてるか?」
「……ああ、それか」
 もちろん覚えていた。
 最初に誘われたのは一週間ほど前だった。俺たちの通う大学の一回生から、男五人、女五人を集めて飲み会を開くという話。
 同校のよしみで酒を飲む――というと、厳密な意味では合コンじゃない気もするが、まあ細かいところは気にしちゃいけない。
 どうせ俺たちは大学に入ったばかりで、ほとんど知り合いがいないんだ。だからこそ今回の企画が立ち上がったのだし、だからこそ俺も交友の輪を広げるために、仕方なく参加をオッケーしたのだった。
「気のなさそうな返事だな。もしかしてアレか? ナベリウスさんがいるから、おまえには他の女が目に入らないっていうのか? あの極上のボディを堪能しちまったら、もう普通の女は食えないっていうのか!? ああ!?」
「落ち着けよ……俺は元から乗り気じゃなかっただろ」
「そういえば、夕貴は昔から女が苦手だったよな」
 苦手――とは厳密には違う。
 ただ俺は、あまり女子に顔を見られたくなかった。自分の顔に自信が持てなかったんだ。女の子は、もっと男らしい顔立ちのやつがタイプだろうから、と。
 まあ今となっては、さすがに慣れたというか考え方が変わったというか、それほどコンプレックスだと思っていないけど。
「――でもよ。もうオレたちも子供じゃ通じない年頃だぜ。だから今のうちに、ちょっとぐらい女遊びを嗜んでおいたほうがいいと思うんだよ」
「本音は?」
「――次の合コンに、前からオレが狙っていた可愛い女の子が来るんだよぉ~!」
 きゃっほー、とスキップを始める託哉。
 あぁ……ここが萩原家の前じゃなくてよかった……けど知り合いだと思われるのもキツいなぁ……。
「……まあいいや。とにかく俺も今回だけは参加するよ」
 本当はナベリウスを放って合コンに行きたくはなかったけど――まあ約束だったのだから仕方ないか。
 俺の参加意思を確認した託哉は、満足そうに頷いた。
 それからは何事もなく、ただ早足気味に徒歩三十分ほどの距離にある大学へと向かった。

「――なあ夕貴」

 ふと。
 最後に託哉は、無感情な冷たい声で言った。
「ナベリウスさんが来てから――なにか変わったことはなかったか?」
 脱色した前髪から覗く双眸は――思わず背筋が震えそうになるほど鋭かった。
「いや、特になにもないけど」
「……そうか。じゃあ――」
 と。 
「今朝、ニュースで殺人事件があったって言ってたよな。知ってるか?」
「ああ。俺たちも見た。朝食の途中だったから、最悪な気分になったけど」
「そのニュースを見たナベリウスさんは――どんな反応してた?」
「どんなって――べつに普通だよ」
 質問の意図がまったく分からなかった。
 訝しげに眉を潜める俺に気付いた託哉は――次の瞬間、破顔した。
「――くっそぉ~! まじかよぉ! 恐いニュースに震える美少女の様子を聞きたかったのによぉ~!」
 それは、むかつくぐらい子供っぽい笑みだった。
「……はぁ。まあそんなことだろうと思ったけどな」
 相変わらず女絡みの話だけは怖いぐらい真面目になるやつだ。いつか警察に捕まるんじゃなかろうか。
 それから俺たちは、いつものように雑談を交わしながら大学に急いだのだった。

 



[29805] 0-7 忍び寄る影
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/18 13:52
 ――お父さん、お兄ちゃん。これからよろしくね。
 そう少女は笑いました。



 ****



 久しぶりの大学は、特筆すべきこともないまま終わりを迎えた。
 ナベリウスと出会った土曜から始まり、日曜、月曜、火曜と四連休を堪能していた俺にとって、大学の浮ついた空気は懐かしいものだった。
 しかし個人の事情は、大多数の感情の前には圧殺されるのが世の常であり、俺一人が久しぶりの大学に特別を感じたとしても、それを共感してくれる人間は皆無であった。
 言ってしまえば、誕生日みたいなものだ。
 自分の生まれた日は、その人にとっては一年で最も特別な日になる。とは言ったものの、たかが一個人の誕生日が世界を動かすはずもなく、ましてや全ての人間が平等に持つ”誕生日”が、何かを変革することは決してないのだ。
 結局は錯覚であろう。
 自分一人が特別だと浮かれても――今日って俺の誕生日なんだぜ、と言っても――まわりの人々は、せいぜい祝いの言葉をかけてくれるだけで、自分の誕生日が相手にとっての特別にはならない。
 つまり。
 俺が久方ぶりの大学に一種の郷愁を感じるのは、しょせん自分の誕生日に浮かれる子供と同じってことだ。地方から出てきた田舎者が都会を物珍しく思ったとしても、元から都会に住んでいた人間には関係ない。
 ちょっぴり緊張してたってのに、何事もなくストレートに講義が進んでいくのも味気ないもんだった。
 一限目が終わり、そして二限目が終わると、待ちに待った昼休憩――またの名を食事休憩の時間になった。
 托哉が肉じゃが定食を箸でつつく対面で、俺はナベリウスが用意してくれた弁当を食った。
 大学の食堂内では、弁当を持ち込んでいる人間は少数派である。かろうじて、菓子パンに齧り付いている人間をチラホラ見かけるぐらいだろうか。
 高校生ならまだしも、大学生にもなって弁当を用意してくるのはどうよ――といった視線を投げかけてくるやつもいたが、俺は気にしなかった。まあ弁当派は少数だが、決してゼロじゃないわけだし。
 特に弁当を持ってくるパターンが多いのが、女の子だ。自前の可愛らしい弁当箱に、これまた可愛らしい献立を詰め込んで持ってくるのである。……いや、念のため言っとくけど、俺は男らしいからな。
 腹を満たしたあとは、三限目の――水曜日最後の講義を受けた。
 本来ならば、そこで家に帰ってもよかったのだが――たまには遊びに行こうぜ、という托哉の提案により、繁華街に繰り出すことになってしまった。
 その際、ちゃんとナベリウスには「遅くなる」と連絡を入れておいた。萩原家の電話を取ったあいつが「はい、萩原ですけどー」と言ったのには苦笑してしまったけど。でも不思議と様になってんだよな。
 俺たちは、適当にゲームセンターやビデオレンタルショップを梯子して、今時の若者らしく気ままに時間を潰した。
 ここ数日――ナベリウスのせいで溜まっていたストレスを発散できて清々した感じ。あの自称悪魔は、暇を見つけては色仕掛けをしてくるのだ。おかげで落ち着かないったらありゃあしなかった。
 心機一転、というやつだろう。
 そうだ、これからはナベリウスのやつからイニシアチブを奪い取ってみせる。今までは、ちょっと落ち着きが足りなかった。もう少し冷静に対処すれば、きっと俺にも勝機があるに違いない。
 あの子悪魔みたいな女を屈服させる――というと嫌な言い方だけど――のは爽快だろう。
 そう考えると、ちょっと楽しくなってきた。
 今度風呂場に乱入してきたら、逆に俺が積極的になってやろうか。……い、いや、それは言いすぎかな? 積極的じゃなくて、能動的に対処する、ぐらいにしておこう。
 ふと。
 いつの間にか、あの銀髪銀眼の少女を当たり前のように受け入れている自分に気付いた。
 まだ出会って数日しか経っていないのに、体感的には何年もの時間を共に過ごしてきた気もする。
 本当に不思議だ。
 あそこまで俺の心を惑わせる女なんて知らない。
 実は、どこぞの国で讃えられている魔女とかじゃねえの、あいつって。
 目に見える魔法は使わないけれど――ナベリウスなら、いくらでも魔法が使えそうだ。
 なんだかなぁ。
 あいつに出来ないことってあるのかな、って思っちまうんだよな。
 お姫様と称しても差し支えない美貌と気品があるのに――熟練の主婦顔負けの家事スキルを身につけている。容姿だけで語るなら、ナベリウスは不味い料理を量産したり、掃除しようとして廊下にバケツの水をぶちまけたりしそうなのに。
 あらゆる物事をそつなくこなし。
 二十歳前後という外見年齢にそぐわない――どこか達観した面を持つ女。
 まさか。
 本当に悪魔だった……なんて愉快なオチはないよな?
「――ぷっ」
 だめだ、思わず笑いが漏れてしまった。
 魔女?
 悪魔?
 ――そんなのは漫画や小説だけでお腹いっぱいだ。
 空想の産物は、手の届かない位置にあるからこそ娯楽として機能する。例えば、この世に吸血鬼とか人狼が実在したのなら、それはもう娯楽じゃなくて単なる脅威。檻の中で窮屈する猛獣だからこそ、笑って見てられるんだ。
 すっかりと日の沈んだ空を見上げる。
 遊び呆けているうちに夕方になり、いつしか世界は夜に早変わりしていた。
 まだ四月ということもあって黎明は遅く、黄昏は短いらしい。
 繁華街で托哉と別れた俺は、一人寂しく帰路についていた。
 携帯電話で時刻を確認してみると、午後七時半を回ったところだった。
 仕事を終えたサラリーマンも、街に繰り出していた学生も、みんな完全に帰宅したのだろうか。
 住宅街は、しんと耳鳴りが聞こえてきそうなほどに静まり返っていた。
 街の中心部――それこそ駅前とか繁華街は、この時間帯でも大層な賑わいを見せているものだが、これといったアミューズメント施設がない住宅街は例外だ。
 娯楽がないのだから、必要以上に人が寄り付かない。
 出歩く人間も皆無。きっと今頃、各家庭では夕食が始まっていることだろう。
 だから早く帰らなくちゃいけない。
 きっと家では――ナベリウスが晩御飯を作ってくれているはずだから。
 べつに楽しみなんかじゃないけど、俺が「美味しい」って言うたびに、あいつが嬉しそうに笑うもんだから……つまり、その締まりのない顔を見たいだけなのだ。他意はないのだ。本当なのだ。
 歩く。
 歩く。
 歩く。
 人気のない道を。
 無音の住宅街を。
 誰一人として見当たらず――俺一人しか見当たらない世界を、歩く。
 犬の鳴き声も、一家団欒の気配も――しない。
「……おかしいな」
 独り言だった。
 せめて俺の声でもいいから、世界に音を取り戻して欲しかった。
 夜の帳に放たれた声は、数瞬の間だけ静寂と拮抗したが、最後には霧散して消えていった。
 そう。
 完全と言ってもいい、完璧と呼んでもいい――それほど人がいない。犬もいない。虫もいない。鳥もいない。人間がいない。動物がいない。

 ――誰も、いない。

 ゾクリと背筋に何かが這い上がる。
 なんとも言えない危機感のようなものを感じて、俺は立ち止まっていた。
 周囲を見渡す。
 あたりの民家には明かりが付いている――けれど人の気配を感じない。
 ……なんだってんだ?
 どうして誰ともすれ違わない?
 ここまで来ると、おかしくなったのは世界のほうではなく、俺のような気がしてきた。
 ――おかしい、か。
 そういや今朝のニュースで言ってたっけな。この街で殺人事件が起こったとか。被害者は高校生、しかも女の子。凶器は刃物のようなもの。犯人は不明。動機も不明。手がかりは今のところなし。
 にも関わらず、大学の空気はいつもどおりで――まあ他人が殺されたぐらいで、いちいち生活習慣を変える人も稀だろうけど。
 結局のところ、みんな他人事だと思ってるんだ。
 それは俺だって同じ。
 殺人事件なんて最近じゃあ珍しくもない。きっと今この時だって、世界のどこかでは人殺しが行われている。
 今回のケースは――それが偶然にも、俺の街で起こったというだけの話。
 ああ。
 心配することはない。
 よく推理小説では、探偵を際立たせるために無能っぽく描かれている警察だが――その実は、驚嘆に値するほど彼らは優秀だ。俺が聞いたのは誘拐事件の検挙率だけだが、それでも素晴らしい数値だった。
 つまり警察の手にかかれば、殺人事件の犯人なんてあっという間に追い詰められる。もしかすると、もう逮捕されてるかもしれないのだ。
 だから。
 今このとき。
 背後に何者かの気配を感じたとしても――それは犯人ではないはず。
 水を打ったように静まり返った住宅街。
 まるで絶対零度の氷山にでも閉じ込められたような静寂。
 その”静”に満ちた空間の中で唯一の”動”が、俺の後方に感じられた。つまり人の気配を感じたのだ。
 ゆっくりと振り返る――が、誰の姿もない。どうやら薄暗い闇の中に、上手い具合に身を隠しているようだった。

 ――俺以外の人間がいた、という安心と。
 ――俺たち以外に人間がいない、という不安。

 長考した末、とりあえず歩いてみることにした。
 こつん、と足音が一つ――いや、二つ。
 百メートルほど適当に歩く。念のため、わざとらしく右に曲がったり左に曲がったりしてみたが、ご丁寧に追いかけてきやがった。これが偶然なら、なんとも相性のいい相手が身近にいたものだと思う。シンクロナイズドスイミングにでも誘ってみようか。
 そろそろいいか、と歩みを止めてみる。
 すると――背後の何者かも足を止めた。
 ……なるほど。
 詳しくは分からないが――少なくともストーカー以上、殺人犯以下のやつに俺は尾けられてるらしい。
 あーあ、厄介なことになっちまった。最近は不幸続きだよなぁ。まじで嫌になってくる。
 でも、だからこそ――こんなときだからこそ、冷静になるべきだろう。
 まずは状況を客観的に分析する。
 周囲に人の気配なし、つまりいざという時の助っ人は期待できない。
 背後に人の気配あり、しかも確実に俺を尾けている。
 手持ちの武器はなし、せいぜい教科書やノートの入った鞄が盾として使用できるぐらいか。
 相手の素性や目的は分からないが、もしもヤツが殺人犯だとしたら、ナイフ以上の装備を持っているだろうことは想像に難くない。
 ……まずいな。
 あまりにも不確定要素が多すぎる。せめて相手の顔だけでも確認できればイメージも立てられるのだけど、この暗闇の中じゃあ贅沢は言えない。それに相手は、上手いこと闇に身を隠している。
 俺はこう見えても、ガキのときから空手に打ち込んできた。だから徒手空拳の争いならば自信がある。
 しかし相手方が刃物を持っていた場合――俺のアドバンテージは一気に崩れ去る。
 ほんの少しでも命を危険に晒してしまう可能性があるのなら、その選択は避けるべきだ。
 ――さて、上述したものを一つにまとめると、自ずと結論は出る。
 それは。

 ――三十六計逃げるに如かず、だ!

 受動的ではなく、能動的な逃走。
 やばくなったから逃げる、じゃない。
 やばくならないように逃げるのだ。
 確かに俺は空手を習っていた。それは護身のためだし、母さんを護るためでもあった。
 真の意味での護身術とは、強敵に打ち勝つための技術を指すんじゃない。そもそも強敵と闘わないようにするのが、究極の護身なのだ。
 中途半端に喧嘩が強いやつほど、無闇に暴力を振るう。そして本当に強いやつは、誰にだって優しいんだ。
 夜の住宅街を駆ける。
 運動能力には多少の自信があるので、本気で走ればそう簡単には追いつかれないつもりだった。
 ――が。
「チ――!」
 距離は広まるどころか、むしろ縮まっているようだった。 
 やっぱりだ、間違いない、誰かが俺を追いかけてきてるんだ!
 それでも足は止めちゃだめだ。一度逃げたのなら、最後まで逃げ通してみせる。その結果として、もしも追い詰められたのなら、そんときは逆に返り討ちにして警察に突き出してやる。
 まだ肌寒さの残る四月の夜――しかし体は熱を持ち、微かに発汗を始めていた。
 額から流れた汗が頬を伝い、顎を通ってアスファルトの路面へと消えていく。
 おかしな話だが、俺には予感があったのだ。
 ――捕まれば殺される、と。
 だからこそ俺は、体操着でもないのに全力で走っているのかもしれなかった。
 闇夜の鬼ごっこが始まってから――どれほどの時間が経過したのか。
 ふと気付けば、背後に迫っていた気配は完全に消えていた。それこそ煙のように。
 追ってきたのも突然なら。
 姿を消したのも突然だった。
「……振り切った――いや」
 汗を拭いながらも警戒を続けていた俺は、そのとき犬の鳴き声を聞いた。それも尋常じゃない声量。怪しい人間を見かけたから吼えた、危害を加えようとしてきたから威嚇した――そんな生易しいものではなく。
 まるで……断末魔に似た泣き声だった。
 止めておけばよかったのに、俺は何かに誘われるようにして犬の声がしたほうへと歩き出した。
 すでに街は元通りになっているらしく、途中で幾度か人間とすれ違った。かなりの汗をかいている俺を不審な目で見てきたが、気にしないことにした。
 辿り着いたのは小さな公園だった。
 ブランコ、シーソー、ジャングルジム、砂場といったメジャーな遊具が目立つ。また敷地を囲うようにして桜の木々が植えてある。なるほど、夜桜も悪くない。
 もう危険の気配も、異常の残滓もなかった。
 しかし。
「……んだよ、これ」
 拳を強く握り締めて、それから目を逸らすことなく。
 とある桜の木の下、俺の眼下に広がっていたのは――子犬のカラダだった。
 そう、文字通り広がっていた。
 頭も、手も、足も、胴体も――その全てが切断されて、あたりに散らばっていた。
 つまり俺が聞いた犬の鳴き声は――この犬の断末魔だったということか。
 唇を噛み締める。
 鉄のような味が口内に広がったが、だからなんだという話だった。
 この殺害方法には、明らかな残虐性と悪意がある。うっかりと命を奪ってしまった、という言い訳は利かない。
 ――ああ、そっか。
 きっと、
「……俺のせい、だよな」
 そうなんだ。
 この犬が殺された現場は見ていないけれど、誰がやったのかは容易に想像がつく。きっと俺を追いかけていた野郎が犯人だ。鬼ごっこの途中で、偶然にも目に入った獲物を気まぐれに惨殺。動機は不明。逃げた俺への当てつけか、あるいは初めから、生き物を殺せるのなら何でもよくて、たまたま最初に見つけた獲物が俺だっただけの話で、第二の獲物を見つけた瞬間、ターゲットはこの子に変わっただけなのかもしれない。
 ……いや、御託はいらないか。
 俺は鞄をベンチの上に放り投げると、桜の木の下を掘りにかかった。当然スコップはないので、素手で土を退けていく。爪のあいだに泥や砂利が入って気持ち悪かったが、そんなのは関係ない。
 しばらくして、小さな穴が完成した。
「……こんなのしか用意できねえんだ。ごめんな」
 言い訳のように呟きながら、見るも無残な姿となった子犬を穴に埋めていく。最後に、手間をかけて掘り起こした土をもとに戻すと、そこには小さな墓があった。
 墓標もなく、もしかしたら意味すらないのかもしれないけど。
 それでも無駄じゃないと信じたい。
 桜の下に埋められた子犬の体は――やがて木々の養分となる。あの小さな命は巡り巡って、いつか花を咲かせるのだ。だから絶対に無駄じゃない。
 公園に備え付けてあった水道で手を洗う。四月の夜の水は、ひたすらに冷たかった。
 最後――公園を去る直前。
 俺は、一本の桜の木に向けて頭を下げた。
 その下には。
 小さくも逞しい命が、眠っている――



 意識はひどく曖昧だった。
 それでも慣れとは恐ろしいもので、俺は適当に歩いているつもりだったのだが、気付けば家に辿り着いていた。
 ああ――ようやく帰ってきた。きっとナベリウスのやつ、カンカンに怒ってるだろうな。もう夜の九時を回っちゃってるし。
 しかし予想に反して、萩原邸は無人だった。明かりもついていないし、誰の気配もしない。
 どうやらナベリウスはいないらしかった。
 ……あれだけ留守番をしてろって釘を刺しておいたのに。
 普段の俺だったら、きっとナベリウスを心配して家の近辺を探し回るぐらいはやっただろうけど、今だけはそんな気力もなかった。
 ただ――眠りたい。
 色々と疲れた。
 とりあえず体よりも、頭のほうに休みを与えてやりたい。
 最低でも風呂ぐらいは入りたかったが、すこし悩んだ末、やっぱり止めておいた。その代わり濡れタオルで軽く体を拭いて、顔と手を洗う。
 着ていた服を洗濯機の中に放り込んで、タンクトップとジャージを着て、自分の部屋に戻る。
 そのまま俺は明かりを灯すことなく、倒れるようにしてベッドに飛び込んだ。目を瞑ると、すぐに眠気はやってきた。深い奈落の底に落ちていくような感覚が身を包み、それに逆らうことなく、むしろ全てを委ねるようにして睡魔を受け入れた。
 ……考えることは山ほどある。
 俺を尾けていたのは何者なのか。そいつは本当に件(くだん)の殺人犯なのか。子犬を殺したのもそいつの仕業なのか。
 そして――ナベリウスはどこに行ったんだ?
 あれだけ留守番してろって釘を刺したのに。ちゃんと「分かったわ」って笑顔を浮かべながら頷いてくれたのに。
 ……そういや、あいつ言ってたっけ。

 ――ちょっと用が出来たのよね。

 って。
 もしかして――その”用”のために、ナベリウスは家を空けているのか。
 ああ、きっとそうなんだろう。
 俺の「留守番していてくれ」っていうお願いを破ってまで。
 こんな夜中に女の子一人で出歩いてまで。
 どうしても為さなければならない用が――ナベリウスにはあるんだ。
 ――頭の片隅で、ぼんやりと思考しながら。
 いつしか俺の意識は、完全な闇の中へと落ちていった。





[29805] 0-8 急転
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/18 13:54
 ――どうして? ねえお母さん、どうして?
 そう少女は泣きました。



 ****



 やっぱり無理だったかぁ――と、ナベリウスは落胆した。
 とは言え、それほど悲観はない。
 まあ予想していたことではあるのだし。
 これもきっと運命とか、宿命とか、そういう星の下に生まれたとか、とにかく人の手ではどう足掻いても変えることの出来ない大きな流れがあって、それに翻弄されるのが世の常で――
「……はぁ」
 大きな溜息が出た。
 すでに時刻は午後九時を回っている――夜の萩原邸で、ナベリウスは一人ソファに腰掛けていた。水を打ったように静まり返ったリビングには、彼女一人の姿しか見えない。
 なぜなら家人である萩原夕貴は、友人に誘われて合コンに参加しているからだ。今度こそは留守番をしてろよ、と釘を刺されたナベリウスは、どこか不満げに頬を膨らませながら夕貴の帰りを待っているわけだった。
 いい女ならここにいるのに――と思わないでもない。
 まあ彼女が拗ねている理由は、もっと別のところにあるのだが。
 しばらくして、ナベリウスは立ち上がった。淀みのない動作で電気を消して、戸締りをして、ガスの元栓が締まっているかを確認して、萩原邸をあとにした。
 夕貴に「頼むから今日は留守番してろよ」と懇願されていたのだけど――そればかりは無理な相談だった。
 どうしても今日だけは――今日だからこそ、ナベリウスは家でじっとしているわけにはいかなかった。


 ――さあ、今宵も獲物を探そう。




****




 あのときから――俺がストーカー野郎に追い回されて、そして小さな命を桜の木の下に埋葬してから。
 ここ一週間ぐらいは、これといった変化も危険の兆しもなく、拍子抜けするほど平穏な日々が続いていた。
 普通に大学に行って、托哉と絡んで、家に帰って、ナベリウスと夕飯を食って、主にバラエティ番組を中心にテレビを見て、夜が深まるとベッドに入って眠る。
 きっと日本中の大学生から平均をとってみれば、その求まった平均値は、俺の日常と符合するんだろうな。
 しかし――あの日から、一つだけ決定的な変化が見られるようになった。
 ナベリウスのやつが深夜になると家を空けるようになったのだ。
 ちょっと前ならば、俺のベッドに潜り込んできたり、裸にワイシャツという実にマニアックな格好で迫ってきたりと、それはもう小悪魔全開の様子だったのに、最近はどことなく態度が冷たい気がする。
 もちろん表面上は、これっぽっちも変わっていない。
 甲斐甲斐しく飯を作ってくれるし、風呂を沸かしてくれるし、洗濯もしてくれるし、花に水をやってくれる。……念のため言っておくけど、俺だってちゃんと手伝ってるんだからな。べつにナベリウスに頼り切ってるわけじゃない。
 とにかく、である。
 言葉では言い表せない微妙な差異が、最近のナベリウスからは感じられた。その変化が微妙すぎるものだから、問い詰めようにも詰問の台詞が上手く紡げず、結果として疑問を解消できずにいた。
 あのときから――そう定義してしまったけれど、その”あのときから”が具体的にいつを指すのかは自分でも分からない。
 いくつかの予想は浮かぶ。
 例えば――朝のニュースを、殺人事件の報道を見たときからか。
 例えば――俺がストーカー野郎に尾けられたときからか。
 とにかくナベリウスは、”あのときから”俺に黙って家を空けているようなのだ。
 そして夜明け前になると何食わぬ顔で帰ってきて、リビングのソファとかですやすやと眠っていたりする。どこか子供のような寝顔を晒す彼女に、毛布をかけてやるのが俺の日課になってしまったぐらいだ。……べ、べつにナベリウスの帰りを待っているとか、だからこそ都合よく毛布をかけてやれるんだ、とか言わないけど。
 でも現実から目を逸らしちゃいけない。
 だって。
 ナベリウスのやつが深夜、家を空けたときは決まって――殺人事件の新たな被害者が発見されるから。
 これは果たして偶然の一致なのか。
 それとも最悪――ナベリウスが件の殺人事件に関与している、とでも言うのか?
 ……いや、さすがに考えすぎか。
 俯瞰してみれば、その可能性には矛盾があることに気付く。そもそも母さんが言ってたんだ。ナベリウスは私の古い知り合いだからって。ゆえに身元が保証されてるのも同然のはず。
 でも、そうだとするならば、ナベリウスが深夜に家を空けるのはなぜだ?
 どうして人が寝静まった夜に行動する?
 どうして人が活動を再開する夜明け前に帰宅する?
 疑いたくはないけれど――なにか人に見られたくないようなことをしているんじゃないか、と推察せざるを得ない。彼女が殺人事件に関与していなかったとしても、だったら法に触れるようなことをしてるんじゃないかって。
 考えてみれば、俺はナベリウスのことをほとんど知らない。
 人種も、生まれも、思惑も、目的も――本当になにも。唯一知っているのは、名前ぐらいか。
 謎は、やがて疑惑を生む。
 しかし、いつまでも見てみぬフリはできない。

 ――だから聞いてみようと思う。
 今日、家に帰ったら。
 今夜、彼女に会ったら。
 ナベリウスに、俺の知らないあいつのことを、あいつの口から聞きたいと思うのだ。

 殺人事件のほうは――すでに犠牲者は最初の一人から数えて、計三人にまで上っている。手口は一緒、遺体の死因や殺害状況も一緒。にも関わらず、事件解決の糸口は掴めていない。一部では警察の捜査能力を疑問視する声まで出ているぐらいだ。
 付近の小学校では集団登下校が実施されており、中学・高校でもクラブ活動が一時的に禁止されている。
 とは言ったものの、大学は例外だった。まあ学生の半分ほどが成人であり、各々が責任能力を持っているということもあって、学校側から学生の行動に制限をかける必要もないと判断したのだろう。
 いくら俺の日常に変化がないとは言っても、街全体がどこか浮ついているような感じは確実にあった。
 ……とまあ。
 色々と偉そうなことを述べたものの、いま最も浮ついているのは俺とか託哉なのかもしれなかった。
 繁華街の通りにある居酒屋の一つ。名を『九心伝』。東日本を中心にチェーン展開する店であり、安定したサービスと一風変わったメニューが売りの店舗である。
 店内はやや薄暗く、どこか大人っぽい感じの音楽が談笑の邪魔にならない程度に流れており、雰囲気自体は悪くない。
 カウンター席と、テーブル席と、座敷席があって、俺たちはテーブル席に腰掛けていた。
 メンバーは、俺と託哉を含めて男子五人と。
 あとは托哉が連れてきた大学の一回生――俺と同期かつ同学の――女の子たち五人の、計十人だった。
 まあ。
 簡単に言っちゃえば、合コンをしているわけである。
 街を密かに賑わせる殺人事件も、週末の居酒屋には勝てないらしく、店内は祭りに似た喧騒で満ちていた。
 結局は、みんな他人事だと思っているんだ。
 殺人事件の犯人は捕まっていないけど、もう被害者は三名にも上ったけど、警察は目立った成果を上げていないけど、しかしそれらの事実は街の住人にとって考慮するに値しない。まあ『いつもより夜道を歩くときは気をつけようかな』と注意するのがせいぜいだろう。
 それは一週間前の俺も同じだった。
 でも今は違う。
 明らかな悪意と殺意を持った野郎に追い回されたし、公園では愛らしい子犬の亡骸を弔ったし――少なからず殺人事件に関係があるのでは、と考えてしまうだけの事態に遭遇してしまっている。
 だから、せっかくの合コンも上の空だった。
 女好きの託哉が連れてきた女の子たちは、揃いも揃って目を惹くような美人ばかりだった。みんな愛らしい容姿だし、スタイルだって優れてるし、性格だって悪くなさそうだ。
 聞くところによると――ここ最近覇気が見られなかった俺を元気付けようと、託哉のやつが多方面に声をかけて、とびっきりの女の子たちを呼んでくれたというのだ。
 まあ託哉は、俺とは違って男らしい顔立ちをしているし、女性ウケがいいのかもしれない。だから人脈が広いというか、色んなところに顔が利くという一面も持っている。

 ――夕貴。おまえが元気になってくれるなら、オレは本望だよ。

 と、一時間半ほど前に、俺の肩に手を置いて朗らかに笑いながら、そんな格好いい台詞を披露してくれた託哉だが。
 しかし酒が入った今となっては一匹の猛獣と化しているようで、ほどよく顔を赤らめた託哉は、歯の浮くようなトークで女の子を口説いていた。しかも、わりと手応えがありそうな感じ。これは托哉にも春が訪れちゃうのかもしれない。
 俺の方はというと、合コンが始まってから三十分ぐらいの間は、ひっきりなしに女性陣から話しかけられたり質問攻めに合っていたのだが、愛想のない返事を繰り返すうちに、いつしか見限られてしまった。
 それでも時折、露骨に身体を寄せてきながら「ねえ夕貴くぅ~ん、携帯のアドレス教えてよぉ~」と猫撫で声で迫ってくるのだから始末が悪い。
 確かに託哉が招聘した女の子たちは、類を見ない美人ばかりだ。
 でも。
 あの銀髪銀眼の《ナベリウス》という自称悪魔を知っている俺から見ると、彼女たちは魅力がないように思えてしまう。
 歳相応に化粧を施して、流行っていそうな洋服を着て、高そうなアクセサリーを身につけて、下品になりすぎない程度に髪を脱色して。
 俺って、そういうのあまり好きじゃないんだよなぁ。
 なんていうか、もっと清楚な感じの子がいいっていうか。
 託哉が連れてきた女の子たちは、どうも男慣れしすぎていて、俺には敷居が高すぎるような気がする。まあ、こんな女みたいな顔をしたやつに好意を持ってくれる女性なんて、滅多にいないだろうけど。
 テーブル席の隅っこに陣取っている俺は、これでもかと盛り上がっている托哉たちを横目に、一人チビチビとお酒を飲んでいた。
 そのとき。
 ふと視線を感じたような気がして、俯けていた顔を上げた。
「あ――」
 蚊の鳴くような声。
 視線の主は、俺の対面に座っている女の子だった。
 合コンに臨む女子にしては珍しい、わりと大人しめの服装。一度も染めたことのなさそうな黒髪は、肩の高さで切り揃えられている。滑らかな白い肌は、きっと意識的に日焼けを避けているからだろう。
 清楚な容姿と、控えめな態度は、その整った顔立ちも相まって、どこか良家のお嬢様を連想させた。  
「……えっと、なんか用?」
 じぃーと見つめてくるので、不審に思って声をかけてみると、彼女は照れたように頬を赤くした。
「あの……ごめんね。もしかして迷惑だったかな……?」
「べつに謝らなくていいし、迷惑でもないけど――ただ気になったんだよ。どうして俺のこと見てんだろうって」
「うーん、どうしてかな? 自分でもよく分からないけど、夕貴くんのことが気になったの」
 あれ?
 この子、なんで俺の名前を知ってるんだろう?
 ――って、そういえば始めに簡単な自己紹介をしたっけ。すっかり忘れてた。
 自己紹介があったことを忘れていたのだから、当然俺は、この子の名前も知らない。
「……あっ、ごめんね夕貴くん。わたし、櫻井彩って言います」
 むぅ、と眉を寄せる俺に気付いてくれたのか。
 彼女――櫻井彩は、ペコリと頭を下げながら名乗ってくれた。……どうやら、見た目どおりの礼儀正しい女の子らしい。
「丁寧にありがとう。俺のほうこそ、櫻井さんの名前を覚えてなくて悪かった」
「ううん、気にしてないから謝らないで。それと”櫻井さん”じゃなくて”彩”でいいよ。あんまり苗字で呼ばれたくないの」
「……じゃあ、彩さん、でいいのか?」
 あんまり女性を名前で呼ぶの、慣れてないんだけどな。
 しかし彼女は、そんな俺の葛藤を突き破るように新たな難題を課したのだった。
「――彩、って呼んでくれると嬉しいな」
 ちょっぴり頬を染めて、俯き加減に、それこそ独り言のように呟く。
 まあ彼女の要望であるのだし、ここは素直に従うべきか。
「……彩」
 やばい。
 なんだか妙に気恥ずかしいぞ。というのも、彩が一世一代の告白を前にしたかのように照れているから、その羞恥さんが俺にも伝染してきやがったのだ。
 くそっ、こんなことで顔を赤くしているようでは、俺の男らしさもまだまだということか……!
 なんとも言えないぎこちない空気が流れる。まるで付き合いたてのカップルみたいだ。
 沈黙に耐え切れず、
「そういえばさっき、俺のことが気になった、と言ってたよな。あれって何で?」 
 そんな無神経な質問をしていた。
 彩は、お酒の入ったコップを両手で持ちながら、うーんと小首を傾げた。
「そうね、なんて言えばいいのかなぁ――私には、夕貴くんが楽しんでいるようには見えなかったのよね。むしろ……こんなことを言うと失礼に当たるかもしれないけど……どことなく、不機嫌そうに見えたの。それで気になっちゃって」
 小さく舌を出して、ごめんね、と彩。
「いや、そんなつもりはなかったんだけどな。もしかして気分を悪くさせちまったか?」
「全然。むしろ安心しちゃった」
 チビチビと酒を飲みながら、彼女は続けた。
「私もね、本当はあまり乗り気じゃなかったんだ。でも、いい機会だと思って参加することにしたの」
「いい機会?」
「そう。実は私、ちょっとだけ男の人が苦手なの。だから少しでも男性を好きになれるといいなぁ、と思って」
「なるほどな。それで――調子はどうなんだ?」
 彩は、力なく首を横に振って苦笑した。
「今日こそはっ、って意気込んでたんだけど、やっぱりダメみたい。男の人に話しかけられると、頭の中が真っ白になって、なんだか不安になって、身体が震えちゃうの。……弱いよね、私って」
 ……うーん。
 男に声をかけられると、頭が真っ白になり、不安になり、身体が震えてしまう――と彩は言うが、それは果たして”ちょっとだけ苦手”というレベルなのだろうか?
 いま彩が挙げた症状は、男性恐怖症の例に当てはまる。
 子供のころ、父親や兄からの虐待を受けた経験、または異性から性的暴行を受けたといった経験が、精神的な傷となり心理的なトラウマを生むのが男性恐怖症だ。
 つまり彩は、この大人しい少女は――かつて異性との間に、何かよからぬ出来事があったのだろうか?
 とは言ったものの、これは触れちゃいけない傷だ。
「そっか。でも彩、一つだけ気になることがあるんだけど、聞いていいか?」
「うん、いいよ」
「……さっきから、俺とは普通に話せてねえか?」
 実はこのとき、すでに嫌な予感がしていた。
 しかし彩は、満面の笑みを咲かせながら言う。屈託なく言う。無邪気に言う。
「だって夕貴くんって、女の子みたいに可愛い顔してるんだもの。だからかな? 不思議と夕貴くんのこと、恐いって思わないのよね」
「――そ、そうですか」
 きっと俺の顔は、凄まじい勢いで引きつっていたと思う。
 ……でも、ここで怒っちゃだめだ。きっと彼女は”褒め言葉”のつもりで言ったんだ。だから彩の好意を”悪口”と誤解してはいけない。
 天然なのか、あえて無視してるのか――俺が負ったダメージに気付かない様子の彩は、内緒話をするように顔を寄せてきた。
「あのね、さっきお友達とお化粧直しに行ったとき聞いたんだけどね。みんな夕貴くんのこと狙ってるらしいよ。……ほら、今だって、夕貴くんのこと気にしてるでしょう?」
 確かに、他の女の子たちが、気付かれない程度のさりげなさを装って、チラホラと俺に視線を送っているような。
 とか言ってる間に「ちょっと彩ー! さっき抜け駆けなしだって言ったじゃん!」とか「あぁー! あたしが話しかけても、まったく返事してくれなかったのにー!」などというような、非常に姦しい声が飛んできた。
 託哉と談笑していた女の子たちが声の正体だった。
 ……あれ、もしかして俺、モテてる?
 いや、勘違いするな萩原夕貴。彼女たちには俺の顔立ちが物珍しく映ったんだ。それだけなのだ。
 幸いというべきか、託哉は完全に出来上がっており、女性陣の興味が俺に移っていることに気付いていない様子だった。
「……怒られちゃったね」
 首を傾げて、小さく舌を出し、てへへ、と彩は笑った。
 ――その笑顔を見て、一瞬だけドキっとしてしまった。
 彩は大人しくて目立たない感じの女の子だが、顔立ちは整っているし、十分に愛らしい容姿をしている。絶対に料理とか得意なタイプの子だ。まあ偏見だけど。
 それから俺たちは、酒が入って祭りのように盛り上がる居酒屋の隅っこで、他愛もない話に興じていた。
 好きな食べ物、嫌いな食べ物。
 好きな講義、嫌いな講義。
 これから大学では上手くやれそうか、それとも馴染むのに時間がかかりそうか。
 他にも好きなテレビ番組の話とか、最近気になってる芸能人は誰かとか、この前聴いたあの曲がよかったとか。
 実のある話も、実のない話もあった。
「俺は、どちらかと言えば犬が好きかな」
「そうかな? 絶対に猫のほうが可愛いよ。むしろ私、あんまり犬って好きじゃないんだよね」
 とか。
「そういえば大学の二年上の先輩に、グラビアアイドルの人がいるらしいよ」
「マジで? 今度、託哉に教えてやろうかな……」
 とか。
「ああ、俺の家って母子家庭なんだ。だから女手一つで俺を育ててくれた母さんを尊敬してるし、早く楽をさせてあげたいと思ってる」
「うん、私もお母さんのことが大好きだよ。いつか恩返ししたいと思ってるもん」
 とか。
 特に印象に残ったのが、母親の話だ。
 どうやら彩も母親のことが大好きらしく、この話題だけで三十分は消費したと思う。それでも物足りないと感じるのだから、やっぱり俺はマザコンなのだろうか?

 ――こんな話をしてると、お母さんに会いたくなっちゃうね。ううん、会いに行っちゃおうかな。

 気恥ずかしそうに苦笑しながら、相も変わらず酒をチビチビと舐めながら、彩はそんな粋な台詞を言った。
 やっぱりいい子である。母親を大事にする人間に、悪いやつはいない。by萩原夕貴。
 当初は楽しめないと思っていた合コンだったが、彩と話すようになってからは満更でもなかった。
 べつに好きになったわけじゃないけれど、友達としては是非付き合っていきたいなぁ、と思えるぐらいには彼女に好感を抱いていた。
 これで大学での友人が一人出来たことになる。
 そう考えると、今日の合コンにも大きな意味があるように思えた。
 賑々しい空気に満ちた居酒屋は、むしろこれからが最高潮だと言わんばかりの様相を見せている。午前五時まで営業している店だから、この時間から入店する客も少なくないのだ。
 しかしながら、俺たちはもうすぐお開きだろう。みんな泥酔と言っていいぐらいに酔っ払ってるわけだし、二次会の予定もないし。
「――ねえ夕貴くん。さっきから思ってたんだけどね――」
 なんだか酒を飲むペースが早くなったような気がしないでもない彩は、赤く上気した頬を気にする様子もなく、楽しげな笑顔を浮かべていた。
 俺は、この合コンが終わりを迎えるそのときまで、彼女の声に耳を傾け続けていた。




 合コンが終わったのは、それから三十分後。
 俺たちは割り勘で支払いを済ませたあと、居酒屋『九心伝』の前で解散することになった。
 ちなみに託哉は、狙っていた女の子と二人で遊びに行く約束を取り付けたらしく「ふっ、これで夕貴ちゃんの時代は終わったな」とキメ台詞のように言っていた。誰が夕貴ちゃんだ。
 すでに時刻は午後十一時を回っており、夜もたけなわといったところである。しかし週末の繁華街は、煌びやかなネオンの光も相まって、不夜城のごとき賑わいを見せている。
 さてさて、じゃあ後は何事もなく帰宅するだけ――とは問屋が卸さなかった。
 予想を裏切るような理由はない。
 ただ泥酔した人間が多すぎたので、二人ペアになって互いの様子を見ながら帰ることになったのだ。
 しかし。
 家が遠い女子が一人いたのだが、彼女はタクシーを使うというリッチな手段に走り。
 俺と託哉を覗いた男子三人と、彩を除いた女子二人は、近場のボーリング場に寄るという暴挙に走り。
 そして託哉と、彼が狙っていた女の子は、いつしか闇夜の中へと姿を消し。
 結果として。
 その場に残されたのは俺と、びっくりするぐらい泥酔した彩の、二人だけになってしまったのだった。
「……ごめん、ね……夕貴くん」
 酔っ払った女の子を一人残して帰ってしまうほど、俺は恥知らずじゃない。
 ふらふらと頼りなく揺れる彩の身体を支えながら、ほとんど二人三脚に近い状態で、俺たちは夜の住宅街を歩いていた。
 繁華街は賑わっていたものだが、さすがに深夜の住宅街は全き闇に包まれており、蚊の飛ぶ音すら拾えそうなぐらい静かだった。
「別にいいって。それよりおまえ大丈夫なのかよ」
 あまり酒を飲んでいなかった俺の意識は、透き通るぐらいクリアだったり。酒の影響と言えば、やや体が火照っている程度。
「……うん、たぶん……大丈夫……のような、気がする……」
「絶対大丈夫じゃねえだろ……」
 壊れたテープレコーダー寸前の彩は、俺に重心の多くを預けていた。
 おかげで柔らかな身体が密着してしまう。触れ合った部分は、燃えるように熱かった。
 さりげなく鼻腔をくすぐるのは、量産品である香水の類とは対照的な、ほのかな石鹸の香り。 
 この場に第三者が現れれば、そいつはこう言うだろう。
 ――公共の場所で抱き合うのは関心しないな、と。
 つまり、それだけ触れ合っている面積が大きいわけであり、こう見えても男である俺にとって、この状況は精神的に苦しいわけなのだった。
 彩は、小さな鞄を持っている。
 邪魔になるだろうから、俺が代わりに持ってやろうか、と提案してみたが、きっぱりと断られてしまった。

 ――女の子の鞄には、男の子には言えない秘密が詰まってるんだよ。

 とは櫻井彩の談である。
 まあ化粧品やブラシや――ともかくそれに類似する女の子にとっての必需品が、あの鞄には入っているんだろうな。
 泥酔して立つこともままならない彩は、しかし鞄だけは手放そうとしなかった。だから俺も、その意思を尊重することにしたのだ。
「……ぅっ、ごめ――夕貴くん、ちょっと、休ませて……」
 口元を手で押さえたと思った瞬間、彩の身体が弛緩した。
「――おい! なにやってんだ、しっかりしろ!」
「そこ……」
 と。
 彩が指差した先には、宵闇の中に浮かび上がるようにして存在する大きな公園があった。あの子犬を埋葬した公園とは場所も、規模も、敷地面積も違っている。
 しばし逡巡したが、このまま彩を歩かせるのは無理があると判断し、公園内で休息を取ることにした。
 この季節、桜の木々は今が盛りとばかりに花を咲かせている。太陽の下で見る桜もいいが、月光に照らされる桜も独特の儚さがあって俺は好きだった。
 適当なベンチを見つけると、そこに彩を座らせる――が、彼女の身体はずるずると斜めに傾いていき、やがて仰向けに寝転んでしまった。
 椅子だったはずなのに、ベッドに早変わりしちゃったベンチさんであった。
「……ん」
 悩ましげに吐息を漏らす彩は、すっかりと両目を閉じていた。……まさか寝ちまうつもりじゃあるまいな。しかも服がはだけて、小さなへそが見えてるし。
 手持ち無沙汰となった俺は、とりあえずミネラルウォーターでも買ってこようと思い立った。幸い、公園のすぐ近くで自動販売機を見た覚えがあった。
「彩。一分ほど外すけど、大丈夫か?」
「……うん、だいじょ、ぶ……」
 全然大丈夫じゃなさそうな声だったが、まあ俺が急げば済む話だし、それまで彩には束の間の睡眠を与えてやってもいいだろう。
「じゃあ、すぐ戻るから」
 言うが早いか、競歩に近いスピードで歩き出す。
 ――まったく、妙なことになっちまったな。
 頭の隅っこで愚痴を零しながらも、たまにはこんなハプニングも悪くはないかな、と考える自分もいた。
「……いや」
 思わず、違うだろう、と苦笑してしまう。
 ――たまには、だって?
 それを言うなら、ナベリウスが萩原家に居候するようになってから毎日がハプニングなのだから、まったく”たまには”じゃないよなぁ。
 そういえば――ナベリウスはちゃんと留守番してくれているんだろうか?
 疑いたくはないけど、前例があるだけに楽観も出来ない。
 夜気を切り裂くように歩きながら、もう一度だけ決意を固める。
 今夜が終わったら、ナベリウスに詳しく話を聞こう、と。
 悪魔の話も(これは嘘だろうけど)、母さんとの関係も、どうして俺の元に現れたのかも、全部聞いてやる。その上で、あいつを真正面から受け止めるんだ。
 何より聞きたいのが――なぜ深夜、俺に黙って家を空けているのか、という一点。
 こればかりは無理にでも追求しなくちゃダメだろう。
 と。
「――ん?」
 視界の端に――見慣れた銀髪が映ったような気がした。
 立ち止まって周囲を見渡してみる。しかしナベリウスらしき人影は、草の根を分けて探しても見つかりそうになかった。
 気のせい……か?
 まあ俺も多少アルコールが入ってるわけだし、見間違いの一つや二つがあったところでおかしくはないか。つまり気のせいだ。あんな悪魔みたいな女は、この世に一人しか要らないってんだ。
 しばらく歩いた先、見つけた自販機でミネラルウォーターを二つ買い求める。俺も喉が渇いていることに気付いたのだ。
 さて、あとは彩の元に帰るだけ。
 目的物であるミネラルウォーターを手に入れたからか、行きよりも若干遅いスピードで歩いていた俺は、それが最大の間違いであったことを直後に知る。

 耳を劈くような悲鳴が、
 甲高い女の声が、
 まさに断末魔のような叫びが、
 ――夜の公園に木霊した。

「――っ!?」
 躊躇は一瞬。
 考えるよりも先に体が反応していた。せっかく買ったミネラルウォーターをその場に捨てて。
 だって。
 さっき聞こえてきた声は、間違いなく彩のものだったから。お母さんのことが大好きなの、と嬉しそうに話した声を、俺が間違えるわけがない。
 全速力で走った。
 もしも鞭があったのなら、俺は自分の尻を叩いていただろう。
 それほど遮二無二な走りだった。
「は、っ――彩ぁ!」
 悲鳴を聞いてから――きっと二十秒も経っていない。いや、二十秒もかかってしまったと己を恥じるべきなのかもしれない。
 たどり着いた先、そこには彩が寝ていたはずのベンチがある――しかし彼女の姿は見当たらない。
 おかしい。
 彩の悲鳴がしたはずなのに――彩がいない!
「――え」
 その数瞬後、俺は自分の目を疑った。
 よくよく観察してみれば。
 ベンチから数メートル離れた場所に――何かが転がっている。
 それはかなり大きな物体だった。
 ちょうど人間大ほどだろうか。
 宵闇に紛れるようにして転がるそれを確認しようと、俺は亀のように鈍い歩みで近づいていく。
「……マジかよ」
 ――果たして。
 それは――死体だった。
 人間の――死体だった。
 性別は男。服装や身なりからして、恐らく浮浪者だろう。顔がよく見えないので年齢は分からないが、少なくとも三十は超えていそうだ。彼は、体中を刃物のようなもので傷つけられており、夥しいまでの出血だった。俺が一目で死体だと看破したのも、その出血量が原因に他ならない。
 これは、あれか。
 もしかして――第四の殺人事件ってことか?
 ……くそっ、落ち着け。ここで焦ってどうすんだよ、萩原夕貴!
 パニック寸前の頭を何とか押さえつける。
 平凡な大学生の俺にとって、成人男性の死体を発見する、という出来事は明らかなキャパシティオーバーだが、それでも冷静になろうと努めた。
 簡単に状況を分析すると、次のようなものになる。
 彩の悲鳴を聞いて、
 急いで駆けつけたら死体があって、
 しかし肝心の彩は、どこにも見当たらない。
 一体全体、なにがどうなって――

「どうかな、夕貴くん。楽しんでもらえた? 夜桜よりも、よっぽど綺麗でしょう?」

 そのとき。
 俺が誰よりも探していた女の子の声が、背後から聞こえた。
「っ――彩!」
 振り向く。
 そして同時に――息を呑んだ。
 ドクン、と暴れる心臓を押さえつけるように、左胸のあたりを強く押さえつける。それでもなお狂ったように脈動する心臓は、体全身に血液を送り込み、体温を上昇させていった。
 俺の背後にいたのは――櫻井彩。
 しかし残念ながら、素直に喜べそうにない。
 だってさ。
 彩の身体は、嘘みたいに返り血を浴びて真っ赤になってるし。
 その顔には、まるで悪魔みたいに狂気的な笑顔が浮かんでんだぜ?
 これがテレビ番組のドッキリならば、俺は仕組んだプロデューサーを非難するどころか、むしろ天才的だなと絶賛しただろう。
 ああ、そっか。
 これってもしかして彩なりのジョークなんじゃねえか?
 じゃないと、あんな可愛い女の子が――お母さんが大好きと言っていた女の子が、人殺しなんてするはずがない。
「あはは、夕貴くんってさ。本当に可愛いよね」
 彩の手には――べっとりと血の付着した包丁が握られていた。
 そして、その刃についた血をペロリと舌で舐めとって、彩はゾッとするほど美しい声で、言った。


「本当に、殺しちゃいたいぐらい可愛いよ――夕貴ちゃん」


 



[29805] 0-9 飲み込まれた心
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/19 11:24
 ――止めて! お願いだから止めてよぉ!
 そう少女は叫びました。



 ****



 血液と聞くと、誰もが赤い色を連想すると思う。
 しかし実際の血液は、むしろ赤というよりは黒に近い色をしている。これは簡単に説明すると、ヘモグロビンの構成成分である鉄が関係しており、その鉄分と酸素が結合したり分離したりすることによって、血液の色も変化する。
 例えば、動脈を流れる血液は赤く、静脈を流れる血液は黒い。これにも個人差が存在し、タバコを愛飲している人間は血液に一酸化酸素が付着し、酸素が上手く運べず、全体的な血液の色も黒くなる傾向にある。
 もっと分かりやすく言うと――体外に流れ出た血液は、空気中の酸素と結びついて急速に酸化し、黒ずんだような色に見えるのだ。
 それは知識として知っていることだった。
 でも現実は違う。
 リアリティが圧倒的に違う。
 本当に黒ずんだ血液は――どこまでも不気味なんだ。
 考えてもみろよ。
 地面に倒れてる人間が、黒っぽい液体を撒き散らして死んでるんだぜ?
 出来の悪いホラー映画だって、もうちょっとマシな演出をすると思うんだ。
 もうちょっとぐらい――人間っぽい死体を用意すると思うんだよ。
 目の前の光景が信じられなくて、どうしても信じられなくて、おれは瞳を細めた。もしかすると、それは認めなければならないものを見たくないという、現実逃避の動作なのかもしれなかった。
 夜気を切り裂く月光の下、今が盛りと花を咲かせる夜桜の下、そこには文字通り目を疑うような光景があった。目だけじゃなくて、脳機能にも不全が起きてんじゃねえか、と本気で疑ったほどだ。
 地に伏しているのは、全身を夥しいまでの血で染めた人間の死体。死因は、たぶん刃物による裂傷がもたらした失血死。
 そして犯人は。
 俺と対峙しているのは――櫻井彩だった。
 肩の高さで切り揃えられた黒檀の髪も、きめ細かな色白の肌も、整った愛らしい顔立ちも、大人しめの服装も、礼儀正しい所作も、落ち着いた雰囲気も――その全てが良家のお嬢様を連想させる。
 しかし彼女の手には、血まみれの包丁が握られていた。それがあまりにもミスマッチすぎて、現実感がない。
 ……いや、本当の問題はそこじゃない。
 彩は包丁についた血を俺に見せつけるように舐めて、確かに言ったんだ。

 ――萩原夕貴を殺したい、と。

 初めは、聞き間違いだと思った。
 さっきまで彩は泥酔していたわけだし、そんな彼女が人を殺せるわけないし、もっと言えば満足に動き回れるはずもないのだ。
 しかし彼女は、しっかりと自分の足で立っている。舌だってちゃんと回ってる。意識もハッキリしていそうだ。
 ――だからこそ逆に異常なのだ。
 彩の手には血塗れの包丁があって、その全身には返り血を浴びていて、さらに人間の死体が転がっている。
 これだけ分かりやすい状況証拠の羅列だ。少しでも頭の回る人間ならば、いったい誰が犯人なのか、すぐに検討をつけられるだろう。
 だから彩の意識がアルコールに呑まれていないのなら、まずは俺に言い訳するのが普通なのだ。自分が犯人だと疑われないために。
 でも、それがないってことは。
 この状況は――彩の悪意から生じたってことか?
 物の弾みでも、誰かの陰謀でも、なにかしらの偶然でもなく。
 櫻井彩という少女の確固たる悪意によって、一人の人間が殺された――ということなのだろうか。
 分からない。
 俺には分からない。
 いくら考えても分からない。
 こんなの分からねえよ。
 絶対に、分かりたくねえよ――!

「あはっ、いい顔してる――やっぱり夕貴くんって、可愛いよね。きっと女の子にモテモテなんだろうね」

 どこか場違いな台詞だと思った。
 少なくとも、血まみれの包丁を持ったまま言う言葉じゃない。
「……そこの人を殺したのは、おまえか?」
 これだけは、どうしても聞いておきたかった。
 例え、分かりきった答えだとしても――残された希望に縋るために、唯一残った期待を捨てるために、この問いは必要だったんだ。
 しかし現実は、やはり残酷だったらしい。
「そうだよ。私が殺したの。それが、どうかした?」
 きょとん、と首を傾げて、そんなの見れば分かるでしょう、と彩は続けた。
 その落ち着いた口調と、小鳥のような仕草が、居酒屋で初めて話したときの彩と重なって見える。
「なんでだよ……なにしてんだよ、てめえは!」
「あれ、どうして怒るの? だって悪いのは、その人のほうなんだよ?」
 まるで汚らわしいゴミを見るような目で、彩は成人男性の死体を指差した。
「たしか――夕貴くんがどこかに行って、ちょっとしてからかな。公園の隅っこにいたその人が、ふらふらーって歩いてきたかと思うと、ベンチで寝てた私に襲い掛かってきたの」
 恐かったよー、と。
 まったく恐くなさそうに――むしろ冷笑さえ湛えて、彩は自分の身体をかき抱いた。
「私ってね、男の人が苦手だから、思わず悲鳴を上げちゃったの。当然だよね。だって乱暴されそうになったんだし。うん、そうそう。女の子なら、誰だって悲鳴を上げるよね。だって――犯されるのって、とっても痛くて恐いもんね」
 まるで
 男性から性的暴行を受けたことがあるような口ぶりだった。
 しかし彩の話を聞く限りでは、彼女は完全なる被害者に思える。普通の女子大生が泥酔しているところを襲われて、助けを呼ぼうと声を張り上げただけなのだから。
「――うん、本当に恐かったからぁ」
 と。
 彩は楽しげに哂って、
「――そこの人には、死んでもらうことにしたの。女の子に乱暴しようとしたんだから、それぐらいの報いはあって当然よね」
 俺の抱いた希望的観測を粉々に砕いたのだった。
 つまり。
 櫻井彩こそが殺人事件の犯人である、という実に簡単な話。
「……殺すことは、ねえだろうが」
「うん? どうして?」
「っ――バカが! てめえ分かってんのか!? 誰かを殺しちまったら、おまえだって罪を問われんだぞ! これは明らかに正当防衛じゃない。おまえがやったことは、ただの過剰防衛なんだよ!」
「なるほど。夕貴くんって、頭いいんだね」
「ふざけんなっ! 寝言も大概にしろ、この大馬鹿野郎ぉ――!」
 深夜の公園に、拡声器を用いても捻り出せないような大声が木霊する。自分でも、これほど声量があるとは意外だった。
 身構えたまま警戒している俺とは対照的に、彩は包丁を両手で弄んでいた。
「……分かんない。夕貴くん、どうして怒ってるの? ……あぁ、もしかして――私が人を殺しちゃったから、警察に捕まるんじゃないって、心配してくれてるの?」
「心配してねえ。俺は怒ってんだよ……!」
 拳を握り締めながら、歯の隙間から搾り出すようにして言葉を吐き出す。
 脳裏に去来するのは――居酒屋で楽しそうに酒を飲んでいた彩の姿。
 お母さんのことが大好きだと、今すぐにでも会いに行きたいと、はにかみながら彩は言ったんだ。
 本当に頭に来る。怒りのあまり脳が沸騰しそう。
 だって。
「おまえが人を殺して、誰よりも悲しむのは――――彩のお母さんだろうがっ!」
「…………」
 その言葉と同時、彩の顔に浮かんでいた冷笑が消えた。
「いつか恩返ししたいって――お母さんのことが大好きだって、そう言ってたじゃねえか! あんときのおまえ、めちゃくちゃ綺麗に笑ってたじゃねえか! なのに、どうしてだよ……! なんでお母さんを悲しませるようなことすんだよ……!」
 もう涙さえ出そうだった。
 色々と考えることはあるし、重大な違和感を見落としているような気もするが、それよりも涙を我慢するので精一杯だった。
 子供が母親を慕うのは当たり前だけど、母親が子供を愛するのも当然なんだ。
 だから。
 何があっても――お母さんを悲しませるようなことだけは絶対にやっちゃいけない。これは義務じゃなくて、もはや使命だ。俺たち子供が、産みの親である母親に見せていいのは、幸せに笑う未来だけなのだから。
 もちろん、それが理想論なのは分かってる。
 でも理想と分かっていても――否、理想と分かっているからこそ俺は、そのマザコン染みた夢が好きだ。
 俺が伝えたいことは、もうすべて言葉にした。
 あとは彩に期待するしかない。
 彼女に、ほんの少しでも良心が残っているのなら――
「……つまんないなぁ」
 と。
「なにそれ、命乞い? あんまり私を怒らせないでよ夕貴くん」
 氷のように冷たい視線。
 空気そのものが質量を持ったかのように重たく感じて、それが体の動きを縛ってくるようだった。
 ……もしかして、これが殺気ってやつか?
 人間は両目を瞑っていても、なにか鋭いものを顔に向けられれば、なんともいえない嫌な気分になる。その感じを百倍ぐらい濃くしたものが、きっと殺気なのだろう。
「それにね、夕貴くんは勘違いしてるよ? だって私、警察になんて捕まらないもん」
 言って、彩はゆっくりと歩き出した。俺を中心点として、その円周を描くような軌跡を辿りながら。
「考えてみれば簡単な話だと思わない? いくら悪いことをしても、それに気付く人がいないと、犯人の特定は難しくなるよね」
「そうだな。でも、おまえの悪事は俺が見た。だから――」
「――ううん、誰にも見られてないよ。だってさ――」
 瞬間。
 視界から彩の姿が消失した。
 きちんと警戒していたのに、絶対に見逃すもんかと注意していたのに――あっさりと彩は消えたのだ。
 いったい何が起こってんだ? と、俺が考えるよりも早く。

「ここで夕貴くん、死ぬんだもの」

 一切の感情を排除した冷たい声が、背後から聞こえてきた。
「っ――!?」
 振り向く猶予はない。
 ただ勘と反射に任せて、その場にしゃがみこんだ。
 ヒュッ、と鋭い音がして、頭上を刃物が通過していく。逃げ遅れた毛髪だけが、数本だけ切られて宙を舞った。
「へえ、夕貴くんって運動神経もいいんだね――!」
 高揚した彩の声。
 俺を殺そうとしてるのに――テンションが上がってるんだ、こいつは。
 そんなの、ただの殺人狂じゃないか。
 地面を転がるようにして彩から距離を取った俺は、即座に立ち上がると、衣服についた汚れを落とすこともなく身構えた。
「……本気かよ、おまえ」
 マジで俺を殺そうとしてんのかよ。
「もちろん本気よ。第一、この間も殺そうとしてあげたでしょう? もう忘れたの?」
「この間?」
「そうそう。ほら、楽しく追いかけっこしたじゃない。まあ途中で犬がうるさく吼えてきたものだからムカついちゃって、あのときは夕貴くんのこと、見逃してあげたけど」
 思わず息を呑んだ。
 楽しく追いかけっこだと?
 途中で犬がうるさく吼えてきた?
 もしかして――あのときのストーカー野郎は、彩だったのか?
 ふと居酒屋での台詞が脳裏をよぎった。

 ――むしろ私、あんまり犬って好きじゃないんだよね。

 偶然にしては、少々出来すぎているような気がする。
 つまり彩は、一週間以上も前から俺のことを知っていて、そして俺に殺意を抱いていた――ということだろうか。
 ……いや、待てよ?
 今まで見逃していたが、彩が手にしている包丁はどこから出てきたんだ?
 視線だけを動かして周囲を確認してみる。するとベンチの側には、見慣れた鞄が落ちていた。それは間違いなく彩のものだった。鞄は開いていたが、中身が散乱するどころか、そもそも何も入っていない。
 そういえば。

 ――女の子の鞄には、男の子には言えない秘密が詰まってるんだよ。

 とか言ってたっけ。
 いま思うと悪夢みたいな話だ。
 |男の子(おれ)には言えない秘密って、その血に濡れた包丁のことだったのかよ。
 初めから凶器を持ち歩いていたということは、誰かを殺す予定があったってことだよな。人殺しを――いや、|第四(・・)の殺人事件を起こすつもりだったってことだよな。
 しかし、すべてを理解出来ても、納得は出来そうになかった。
 疑問は二つ。
 どうして彩は、人殺しに手を染めた?
 どうして彩は、俺を殺すことに執着している?
 考えても答えは分からない。
 唯一分かるのは、このままだと俺の命が危ないということだけだ。
 だが不幸中の幸いにも、俺には空手の経験があった。それも有段者である。だから刃物を持った素人相手ならば、いくらか対抗は出来るし、その気になれば彩を無力化することだって可能だろう。
 そうだ。
 俺が、この子の目を覚ましてやるんだ。
 事情を聞くのは、それからでも遅くない。
「……分かったぜ、彩。俺を殺せるもんなら、殺してみろよ」
 構えを取る。
 この狂気に侵されたような娘には、もう何を言っても無駄だろう。
「格好いいね、夕貴くん。女の子に人気があるのも分かるような気がするよ」
 彩は包丁を握ったまま、無防備に立っているだけ。
 彩の言葉は、無視する。
 そんな暇があるなら、一瞬の隙でもいいから見つけて包丁を奪ってやる。
「実はね、夕貴くんって結構有名なんだよ。とっても素敵な男の子がいるって、私の耳にも入ってきたぐらい」
 ――全体的な体の動かし方を観察する。
 足の運び、利き腕、呼吸の間隔、間合いの管理、そして軸足なども一切考慮せずに歩いている。
 たぶん、彩には武道の経験はない。
「私も初めて夕貴くんを見たときは、運命を感じちゃったなぁ。よく分からないけど、心の奥底が疼いているような感じがしたの」
 俺は丸腰で、武器になりそうなものは持っていない。
 対して彩は、殺傷性のある刃物を持っている。その差は大きいが、しかし絶望的でもない。
 確かに包丁は脅威だが、武器を持った素人は、その多くが『武器を使う』のではなく『武器に使われる』ことになる。つまりパンチやキックといった打撃を失念し、包丁に頼りきりになってしまうのだ。
 だから彩の凶器にのみ注意すればいい。
 言うは易し、行うは難しだとしても――するしかないんだ。
「あれれ? もしかして夕貴くん、女の子と喧嘩するつもりなの?」
 口元を薄っすらと歪ませて、彩は前髪をかき上げる。
 ――その一瞬を、俺は隙だと判断した。
 迎え撃つのではなく、攻め入る。
 脚に溜めていた力を解放して、一気に駆け出した。
 前傾姿勢を保ちつつ、包丁にだけ警戒して彩に接近する。恐らく一撃あれば、彼女を無効化できる。女の子を殴るのは気が引けるが、いまはフェミニストを気取ってる場合じゃない。
 縮まる距離。
 加速する緊張感。
 背中をイヤな汗が伝う。
 そして――握り締めた拳を突き出した。
「あーあ、見損なったよ夕貴くん」
 そう彩は言って。
 退屈そうな顔を顕わにしたまま、小さくバックステップすることによって、こともなげに俺の拳を避けたのだった。
「っ、チ――!」
 完全に見切られてる……!?
 しかし驚きよりも、後悔と反省が先にやってきた。攻撃を回避されてしまったのは、彩が上手だったというよりも、俺のなかに僅かな躊躇が残っていたからだ。守から攻に転ずるとき、お母さんが大好きなの、と言った彩の顔を思い出してしまい、それがブレーキをかけた。
 でも、次は躊躇わない。
 俺は奥歯を噛み締めたまま、彩に畳み掛けようとして――その姿が視界から消えていることに、ようやく気がついた。

「危ないなぁ。これでも女の子なんだからね」

 先と同じように、背後から声が聞こえた。
 ――否、それは背後というよりも、耳元だった。
 慌てて距離を取ろうとするが、それよりも早く、強烈な衝撃がうなじのあたりを襲う。どうやら首を鷲掴みにされたらしい。そのまま人形のように持ち上げられた俺は、一切の躊躇もなく地面に叩きつけられる。
 肉というよりも骨に響く痛みは、俺という人間の活動を停止させるに十分。
 それは明らかに、人間に許された身体能力を超えていた。
 成人男性の体を片手で持ち上げるなんざ、プロレスラーだって不可能だ。もちろん彩の腕は、適度に筋肉はついているけれど、とても腕力があるようには見えない。
 今にして思えば、彩は俺の視界から一瞬で消失するほどの脚力を二度も見せていた。
 こいつ、まさか人間じゃないのか――?
「が――はっ――!」
 肺に溜まっていた空気が漏れる。
 仰向けに倒れたまま、じんじんと痺れるような痛みから逃れようと、無様にのたうちまわる。
「痛くしてごめんね、夕貴くん。でも、こうでもしないとお話できないから、しょうがないよね」
 慈しむような視線。
 そのまま彩は――俺の体に、馬乗りのような形で跨ってきた。
 ちょうど腹の部分に、彼女の餅のように柔らかな臀部が乗っかる。
 抵抗しようにも、さきほどの衝撃が体内に残っているせいで、まともな運動が難しい。むしろ呼吸さえ満足に出来ないほどだった。
 頬に土をつけ、荒く息を吐く俺を見て、彩は熱っぽい吐息を漏らした。
「……本当に、夕貴くんって可愛いね」
 頬を薄っすらと赤くする彩は、扇情的でさえあった。
「ど、う――して」
「うん? ごめん、もう少し大きい声で言ってもらっていいかな?」
「っ――どうし、て……こ、んな」
 精一杯のつもりだったけど、それは途切れた発声にしかならない。
 しかし俺の真意は伝わったらしく、
「うーん、やっぱり気になるよね。じゃあ、夕貴くんにだけ教えちゃおっかな。特別だよ?」
 てへへ、と気恥ずかしそうに彩は笑った。
 右手に握った包丁をチラつかせたまま、彼女は続ける。
「あれは、私がまだ小学校に入ったばかりのころだったかな。両親がね、離婚したの。理由は、性格の不一致っていうありきたりなもの。それでも一つの家庭を壊すには十分なものだよね、それって。
 紆余曲折はあったみたいだけど、私はお母さんに引き取られることになったわ。当時の私に小難しい話は理解できなかったけど、お父さんと離れ離れになるのは寂しかったけど、まあお母さんと一緒ならいいかなって思えたんだ。
 それから数年間、お母さんは女手一つで私を育ててくれたんだけど、やっぱり限界はあるのよね。お父さんから養育費は貰っていたみたいだけど、思春期の子供を育てるのは精神的に負担がかかるし、やっぱりお母さん一人で仕事と家事をこなすのは無理があったのよ。
 あっ、誤解しないように言っておくと、私はちゃんと家事を手伝う偉い子だったよ? おかげで料理も得意になったんだから」
 俺に嫌われないようにと言い訳する彩が、ひどく場違いに思えた。
「あれは私が中学生になったばかりのときかな。お母さんがね、再婚したの。もちろん私も喜んだよ? それでお母さんの負担は減るし、なにより愛する人と一緒になりたいって思うのは、女として当然だもんね。
 相手の人には息子さんがいて、私にもお兄ちゃんが出来ることになったの。一人っ子だった私は、それはもう喜んだよ。初めてお兄ちゃんって呼ぶときは緊張したけど、嬉しいっていう気持ちが大きすぎて気にならなかった。とまあ――ここまでなら、ただの身の上話だよね」
「俺、は……そんな話が聞きたいんじゃ、ねえ!」
「――お母さんがね、死んじゃったの」
 唐突に放たれたその言葉を聞いた瞬間、エンジンを切られたモーターのように思考が停止してしまった。
 口を閉ざす俺を満足そうに見下ろし、彩は微笑んだ。
「再婚して一年ぐらい経ったころかなぁ? 買物して家に帰る途中、自動車に轢かれちゃったの。相手は十代後半ぐらいの男の人で、原因は飲酒運転だった。
 もちろん泣いたよ? いっぱい、いっぱい泣いたよ? 涙が枯れても、目が腫れても、ずっと泣いたもん。大好きだったお母さんが死んじゃったんだから、当然だよね。一時期は自殺して、お母さんのあとを追おうかなって考えてたぐらいだし。夕貴くんもお母さんが大好きって言ってたから、この悲しみは分かってくれるでしょう?」
「……ああ」
 小さく頷く。
 あらゆる問題や葛藤を抜きにして、純粋に『母親が死んだら悲しいか?』と聞かれれば、質問者が聖人君子だろうが悪党だろうが、俺は頷いてみせるだろう。
「だよねっ! ……あぁ、よかったぁ。夕貴くんに分かってもらえなかったら、私、泣いちゃうところだった」
 瞳を潤ませて鼻を鳴らす彩は、真実喜んでいるようだった。
「お母さんと離れ離れになったことは寂しかったけど――やっぱり人間は慣れる生き物らしくって、半年もすれば前を向けるようになった。新しいお父さんも、三つ年上のお兄ちゃんも、本当に優しい人たちだったし。
 でも幸せって、長く続かないのが世の摂理なんだよね。あれは……私が中学三年生のときかな? あるときね、お兄ちゃんに犯されたの」
 悲観せず、むしろ穏やかな笑みを浮かべたまま、彩は続ける。
「あのころの私って、同年代の子と比べても発育がよかったから、きっとお兄ちゃんにとっては目の毒だったんだろうね。初めて犯されたときは痛くて、涙が出て、止めていって言っても止めてくれなくて、本当に辛かった。
 でも、こんなこと誰にも言えないよね。私はお母さんの娘で、新しいお父さんとお兄ちゃんとは血が繋がってないんだから。お父さんは優しかったけど、もし告げ口しちゃったら、義理の娘である私は捨てられるんじゃないかって、そんな気がしてたの」
 それが。
 櫻井彩という少女が心に負った傷。

 ――実は私、ちょっとだけ男の人が苦手なの

 男性恐怖症とも言える症状を挙げた彩だが、やはり異性から暴行を受けた経験があったようだ。
「それからね、数週間に一回ぐらいの割合で乱暴されたかなぁ? 抵抗しちゃうと、唯一血が繋がっていない私は捨てられるんじゃないかと思って、ずっとされるがままだった。でも、嘘でもいいから行為を受け入れちゃうと、気持ちよくなってくるんだから人間って不思議だよね。そうは思わない、夕貴くん?」
 微笑んで。
 彩は俺の手を掴んだと思うと、それを自身のふくよかな乳房へと誘導した。
「な、に――を」
 まず乳房があって、その上に俺の手があって、その上に彩の手が重ねられている。彼女が自分の手を動かすものだから、俺の手も動いてしまう。
 掌に伝わってくるのは、どこまでも男を魅了するような感触だった。
「……んっ、夕貴く、ん――」
 白磁の肌は、今やすっかりと紅潮している。
 その身体を震わせて――薄く瞳を閉じながら、妖艶な喘ぎ声をもらす。
 抵抗しようにも、彼女を押しのけるだけの力は戻っていない。あともう少しだけ時間をくれれば、動ける程度には回復できるのに……!
「は、あ――凄い、ね……ゆう、き……くん」
 ――もう少し。
「ごめんね、私だけ盛り上がっちゃって。でも、さすがに時間切れかな? そろそろ夕貴くんを殺さないと、怒られちゃうもんね」
 ――もう少しだ。
「うん。本当は夕貴くんを殺したくないけど、殺さなくちゃいけないんだもの。そうじゃないと、そうじゃないと……そうじゃないと……っ?」
 大きく目を見開く彩。
 ――もう少しなんだ。
「あれ……? 私、どうして? ……どうして、夕貴くんを殺そうとして――ううん、だって私は夕貴くんのことが――いや、好きだからこそ……ううん、違うもん。普通は好きな人を殺そうとしないはず……私は――――ぐっ、あ、あぁ……!」
 その刹那。
 彩の身体がふらりと傾いだ。彼女は心臓のあたりを押さえたまま、発作に耐えるかのように顔を歪めている。
 ――ここだ!
 これまで回復に努めていた体を運動させて、よろめきながらも立ち上がって見せた。
 本当ならば反撃に出たいところだが、いかんせん身体機能に不備が出ている。それに攻撃に転じるほどの回復はまだだった。
 でも逃げ出す隙はできた。
 理由は分からないが、彩は胸を押さえて蹲っている。
 数瞬の躊躇はあったが、やがて――俺は翻って闇夜へ向けて走り出した。
 数十メートルほど距離を開けて振り返ってみると、立ち上がった彩がこちらを睨んでいるところだった。確実に追いかけてくる気だろう。さきほど彩が見せた身体能力があれば、追跡することは容易だろうから。
 このまま――繁華街や駅前あたりに逃げ延びれば、俺は助かるだろう。さすがの彩も、人目のあるところでは襲ってこないはずだ。
「……違うよな」
 一人呟いて、苦笑する。
 自分でも馬鹿だとは思うが、俺の足は人気のある繁華街ではなく、人気のない河川敷へと向いていた。
 だってさ。
 ――うん、私も――
 しょうがないだろ。
 ――お母さんのことが大好きだよ――
 こんなの反則じゃねえか。
 ――いつか恩返ししたいと思ってるもん――
 あんな粋な台詞を吐くやつを見捨てるなんざ、男のすることじゃねえよな。
 母親を大事にする人間に、悪いやつはいないんだ。
 だから俺が――彩の目を覚ましてやる。
 死んでもあいつを助けてやる。
 当然だろうが。
 だって俺は、男らしいんだ。
 本当に男らしいやつは、可愛い女の子を放って逃げ出したりなんかしないんだよ。



[29805] 0-10 神or悪魔
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/20 20:35
 ――そっか。そういうことだったんだ。
 ようやく少女は諦めました。



 ****



 櫻井彩は、取り立てて目立つような少女ではなかった。
 成績は平均の域を出なかったし、運動も得意なほうではなかったからだ。また、慎ましい性格が災いしたのか、彩を中心にして人が回るようなことは一度としてなかった。
 ただ一つ、恵まれているものがあるとすれば、それは容姿だろう。世辞を抜いても、彩は人目を惹くような愛らしい顔立ちをしていた。
 とは言ったものの、それが平凡な部分を補って余りあるアドバンテージになるか、と聞かれると首を傾げざるを得ない。少なくともアイドルや女優を目指せるだけの美貌じゃないことだけは確かである。
 幼いころから、実の両親に愛情を注がれ続けてきた彩は、周囲の期待を裏切らない心優しい少女に育った。
 今にして思えば――その幼少期こそが、彩にとって最も幸せだった時期なのかもしれない。
 贅沢を許された家庭ではなかったし、毎日のようにご馳走がテーブルに並ぶ家庭でもなかった。それでも彩が欲しいとねだったものは大抵買ってもらえたし、週末には家族揃って遠出するだけの余裕はあった。

 ――私たちはずっと一緒だよね。
 そう少女は言いました。

 特別なものは何一つとしてない――どこにでもある平凡な家族。
 家の取り決めでも見合いでもなく、ただ偶然に出会って愛し合い、その果てに結婚した両親。そして彼らの愛の結晶こそが、他でもない彩だった。
 全てが偽りのない愛によって出来ているのだから、彼らが幸せになるのは当然であり、必然でもあった。
 ……しかし。
 この世に永遠などという洒落たものは存在しない。
 その証拠に――ありもしない永遠を神の前に誓った一組の男女は、いつしか愛を忘れてしまい、夫婦の契りを無に帰することに決めたのだ。
 近年の日本において、離婚率は年々上昇している傾向にあるが、どうやら彼らも例に漏れなかったらしい。
 ――わたしたちは、上手くやっていけるよね。
 ――僕たちなら、絶対に大丈夫だよ。
 そう笑顔で言って、結婚式の段取りを話し合った一組の男女でさえ、時の流れがもたらす感情の風化には勝てなかった。
 当然だろう。
 誰だって言うのだ。
 結婚する前は、誰だって言うのだ。
 ――自分たちは違う。これだけ愛し合っているのだから、離婚するはずがない。そんな安っぽい愛と一緒にしないで欲しい。だから、きっとこの愛は永遠なのだ。死が二人を別つ、そのときまで――
 実に、ありきたりだ。
 使い古された台詞に過ぎる。
 どこにでも転がっていそうな安っぽい愛である。
 事実、自分たちの愛は特別なのだと、そう信じて疑わなかった彼らは『性格の不一致』という何のドラマもない理由によって離婚を決めた。
 ――その男女の間で振り回された娘こそが、櫻井彩である。
 離婚の形態は大きく分けて四つあるが、彩の両親は『協議離婚』によって愛を無効にした。話し合いの結果、親権は母親側が獲得することになった。
 当時、小学生になったばかりの彩に小難しい話は分からなかった。それでも大好きな父と離れ離れになるということだけは理解できた。
 もちろん彩は離婚に反対したが、両親の決意は固かったらしく、どれほど泣き喚いても結末は変わらなかった。
 紆余曲折はあったものの、彩は母と二人で暮らすことになる。
 父のいない生活に戸惑いはあったものの、それも時間が解決してくれた。
 誰よりも母のことが大好きだった彩は、女手一つで私を育ててくれるお母さんに負担をかけてはいけないと、以前よりも心優しく、そして礼儀正しい少女に育っていくことになる。
 家では率先して家事を手伝い、あまり好きじゃなかった勉強や運動も精一杯にやった。その成果もあって、彩は近所では評判の『お母さん想いの可愛らしい女の子』として知られるようになった。
 母と二人で不器用ながらも暮らす生活は、実を言うと嫌いじゃなかった。むしろ家族が一体となって努力しているような感覚もあって、好ましかったぐらいだ。
 ――いつの日か、私がお母さんを護ってあげたい。
 それこそが彩の望みであり、人生における目標だった。

 ――お母さん、いつもありがとう。
 そう少女はお礼を言いました。

 どれほど仕事が忙しくても、家事に時間を圧迫されても、彩の母親は、娘と過ごす時間を必ず作った。数ヶ月に一度ぐらいは、贅沢に温泉へ出かけたりもしたぐらいだ。
 そんな二人の努力が、気付かぬうちに実を結んだのか。
 ある日、彩は母から改まって話を聞かされた。
 ――お母さんに、もう一度だけチャンスをくれないかな?
 申し訳なさそうな、それでいて幸せそうな顔で、母は告げた。
 それは再婚の話だった。
 母が、以前から密かに逢瀬を繰り返していた男性。つい最近、とうとう先方がプロポーズの言葉を口にしたらしく、それを待ち望んでいた母は「彩が許してくれるなら」という条件付きで、再婚を受け入れたのだった。
 正直な話、いつかこんな日が来るかもしれない、とは彩も覚悟していた。贔屓目に見ても、母は美しい容姿をしていたし、出産を経験したとは思えない若々しいプロポーションを保っていたからである。
 もちろん完全なる賛成は出来なかった。父親と離れ離れになった悲しみの残滓が、まだ心のどこかで燻っていたからだ。
 なにより彩は、変化を嫌った。
 今のままでも十分に幸せなのだから、あえて家族を増やす必要はないんじゃないか――そんな考えが頭の中にあったのだ。
 しかし結局、彩は反対するどころか笑顔で賛成の意を示した。
 当然だろう。
 大好きな母親が、今まで女手一つで彩を育ててくれた母が、自分の幸せを掴み取ろうとしているのだ。その邪魔をするのは、とてもではないが無理だった。
 ――お母さんにとっての旦那様は、私にとってはお父さんだね。
 そう明るく言った彩を、母は涙を流しながら抱きしめた。
 それから半年もしない間に、先方との顔合わせ、新居の購入、婚姻届の提出などを済ませた。新しい家族が出来るのは、思っていたよりもあっけないものだった。
 彩の新しい父となった男性は、母よりも二歳年上の会社員である。見るからに温厚で、そして誠実そうな容姿の彼は、決して期待を裏切らない人物だった。
 その証拠に彼は、血の繋がらない義理の娘である彩を大層可愛がった。どうやら娘という存在に憧れていたらしい。これは彩にとって嬉しすぎる誤算だったと言ってもいい。やはり母の見る目は、正しかったようだ。
 彼には息子がいて、彩は父親と同時に兄も持つこととなった。

 ――お父さん、お兄ちゃん。これからよろしくね。
 そう少女は笑いました。

 当時、中学一年生だった彩と比べて、高校一年生の兄――つまり三歳年上の彼は、ずっと気恥ずかしそうな態度を崩さなかったものの、妹が出来ること自体は歓迎だったらしく、不器用ながらも愛のある接し方をしてくれた。
 ――あの、お兄ちゃんって……呼んでもいいですか?
 そう彩が勇気を出して聞いたときの、兄の真っ赤に染まった顔が忘れられない。
 義理の繋がりではあったが――それは仲睦まじい兄妹だったと思う。
 兄は、国立の大学を目指すほど頭がよかった。あまり褒められた成績ではなかった彩にとって、兄は頼りになる家庭教師の一面も持っていた。
 目立ちはしないものの、彩は美少女と称しても差し支えない容姿をしている。だから彩のような少女を妹に持った兄も、きっと誇らしかったのだろう。
 大好きな母は当然として、誠実で裏表のない父と、照れ屋だが頭のいい兄――新しく始まった『家族』は、この上なく順調だったのは誰の目にも明らかであった。
 でも。

 ――幸せって、長く続かないのが世の摂理なんだよね。

 そう言ったのは果たして誰だったか。
 例えば、等価交換という言葉がある。等しい価値を有するものを相互に交換する、という意味だ。もっと砕けて言うと、何かを得るためには、何かを支払わなければならない、と解釈できよう。
 つまり。
 新しい父と兄を得た代償は、もう一度『家族』を得た代償は――大好きな母の死という、なんとも最悪なものだった。
 夕食の買物に出た母は、飲酒した若者が運転する車に跳ねられて死んだ。しかも相手方が未成年ということもあり、罪は比較的軽くなるそうだった。
 もちろん彩は泣いた。
 何日も学校を休んで泣き続けた。
 涙は枯れることもあるらしいが、少なくとも彩の瞳から涙が止まることはなかった。
 あまりにも悲しいことがあると、逆に泣くことすら出来ない――という表現を、よく小説や漫画で見たような気がするが、そんなものは嘘っぱちだと思った。

 ――どうして? ねえお母さん、どうして?
 そう少女は泣きました。

 部屋に篭って悲嘆にくれる彩を、もちろん父と兄は気遣った。それこそ彼らも会社や学校を休んで、日に日に衰弱していく彩を心から心配してくれたぐらいだ。
 そんな日々が一ヶ月も続けば、さすがの彩も冷静さを取り戻す。
 ――悲しいのは私だけじゃない。お父さんも、お兄ちゃんも、きっと泣きたいはずなんだ。なのに私は、一人で子供みたいに泣くだけ。これではお母さんの娘として胸を脹れない。
 決意すると、立ち直るのは早かった。
 元気を取り戻した彩を見て、父と兄は涙さえ浮かべて喜んでくれた。
 それから一年が経つころには、彩は以前と同じように笑顔を浮かべることが出来るようになっていた。当然だろう。母は天国にいるのだ。きっと彩を見守ってくれているのだ。ならば、彩が上を向いていなくては、母も安心して眠ることができない。
 初めは三人だった家族が、二人になり。
 二人だった家族が、四人なり。
 そして最後は、また三人に戻った。
 中学三年生になった彩は、母の面影を受け継いだ美しい少女へと成長した。彩自身は気付いていなかったが、学校の男子や、兄の友人の中にも、彩に好意を寄せていた者は少なくなかったぐらいだ。
 そんな彩を、父は以前にも増して可愛がった。自分の娘を可愛いと思う父は当たり前だが、その愛すべき娘が、他者よりも優れた美貌を有しているのだ。過剰な愛情を注ぐのも無理はない。
 なにより父は――母を失って生きる気力を失っていたころの彩を知っている。だからこそ、彩を大切に思う気持ちも一層強まったのだろう。
 強まり、深まる親子の絆。
 しかし、それを快く思わない者も存在した。父と血の繋がりを持つ実の息子――つまり彩の兄である。
 国立大学に進学しようと一日の大部分を受験勉強に費やしていた兄は、見えない部分でストレスを蓄積し、軽いノイローゼ状態になってしまっていた。
 それだけならばまだよかったのが、悪いことは往々にして重なるものだ。
 仲睦まじい彩と父を見ているうちに、兄は途方もない疎外感に駆られた。言ってしまえば、彩に父を取られたような錯覚に陥ったのだ。
 必死になって受験勉強をして、ふと休憩するためにリビングへ降りてみれば、そこでは彩と父が談笑している。それは、兄に途方もないダメージを与えた。
 ほんの少しでも力を加えれば弾け飛ぶ――そんな張り詰めた糸に最後の切れ込みを入れたのは、他でもない彩自身だった。
 兄は受験勉強をしている、とは知識として知っていても、その苦労まで知らなかった彩は、いつもと同じ調子で兄の部屋を訪ねた。勉強を教えてもらおうと思っていたのだ。
 家の中ということもあり薄手のキャミソール姿だった彩は、禁欲的な生活を送っていた兄にとって、さぞかし扇情的な姿に映ったことだろう。
 ――お兄ちゃん。ここ教えてくれないかな?
 笑顔で問う。
 ここで兄の名誉のために言わせてもらうならば――この時点では、まだ理性のほうが勝っていた。
 しかし彩の指差した先を見て、兄のストレスは限界に達した。なぜならそれは、優秀な兄からしてみれば、あまりにも簡単すぎる問題だったからだ。
 俺から父を奪っただけではなく、お前は受験勉強の邪魔さえもするのか……!
 兄の頭に血が上ったのは、それがきっかけだった。
 ……ここで彩の名誉のために言わせてもらうならば、実を言うと、彩が兄に尋ねた問題は、すでに復習を繰り返して十分に理解している問題だった。
 しかし部屋に篭りっぱなしだった兄を心配して、なにか兄の部屋を訪ねるきっかけはないかな、と思った彩は、あえて簡単な問題を尋ねることにしたのだ。それが話の種になればいいなぁ、と思って。
 つまり。
 誰も悪くない。
 本当に誰も悪くないのだ。
 あえて、なにが悪者かを決める必要があるとすれば、それは――きっと”運”だろう。
 ほとんど逆上した兄は、彩をベッドに押し倒した。理性を失った兄には、無防備な服装と体勢でいる彩が、自分から誘っているようにさえ見えた。
 そもそも兄は、初めから彩を意識していたのだ。二人が初めて出会ったのは、彩が中学一年生、兄が高校一年生のころ。完全な兄妹の絆を作るには、少々遅すぎた出会いだったと言ってもいい。
 彩の身体は、年のわりには女らしい身体つきをしていて――兄の情欲をひたすらに燃え上がらせた。

 ――止めて! お願いだから止めてよぉ!
 そう少女は叫びました。

 行為は、すぐに終わった。
 ぐちゃぐちゃになったシーツの上で、乱れた服を直そうともせず泣く彩を見て、兄はようやく自分の仕出かしたことの重大さに気付いた。
 それが始まり。
 彩が心に負った大きな傷の――始まり。
 それから数週間のうちは、兄も後悔していた。どうして俺は大事な妹を傷つけてしまったのか、と。
 しかし数週間もしないうちに、兄は思い出す。
 彩の色っぽい喘ぎ。
 鼻腔をくすぐる甘い匂い。
 病み付きになる肌の感触。
 ――もう一度だけ、あともう一度だけ。これを最後に、俺は兄に戻るから。
 そう言って、兄は彩の身体を求めた。
 何度も求めた。
 何度も、何度も求めた。
 ――いつまで経っても、”最後”が訪れることはなかった。
 途中から彩は、必死になって抵抗するよりも、いっそ行為を受け入れたほうが楽だということに気付いた。

 ――そっか。そういうことだったんだ。
 ようやく少女は諦めました。

 兄が求めてきたときは、もう好きにさせてあげよう――そう決心すると、不思議と心が軽くなったような気がする。
 しかし――それと同じ分だけ、兄に抱かれた分だけ、彩の心は磨耗していった。
 すでに諦めの境地に達していた彩は、父に告げ口することをしなかった。彩が黙っていれば表向きは円満な家庭なのだから、それをわざわざ壊そうとは思わなかったのだ。
 何も知らない父が出勤すると、あとはギクシャクとした時間が流れる。
 そんな生活が三年以上続いたころ――とうとう彩の心は擦り切れて、壊れる寸前まで陥った。
 正直な話をすれば、彩は男性恐怖症を超えて、もはや心的外傷後ストレス障害――通称”PTSD”に近い症状まで見せていた。兄に初めて乱暴されたときの経験が、彩の知らないうちに彼女の心に深く根付き、何度もフラッシュバックという形として彩を苛んでいたのだ。
 それでも彩は、父に告げ口はしなかった。
 同時に、兄のほうも彩を求めることは止めなかった。愛らしい容姿に色白の肌、そして女性特有の丸みを帯びた身体は、ここまで来れば麻薬と同じで、兄の劣情は行き着くところまで堕ちていた。
 しばらくして――兄は第一志望校に合格した。ストレスから開放された兄は、以前と同じように優しくて頼りになる”お兄ちゃん”へと戻った。
 それと時を同じくして、兄が彩を求めることはなくなった。むしろ懺悔するかのごとく、不自然なまでの優しさを見せるようになった。……おかしな話だ。彩が望んでいたものは、彩が欲しかったものは、そんな偽善染みた気遣いじゃないのに。
 すべては元通りとなり、彩には平穏が戻った。
 しかし、彼女が心に負った傷までが治るわけじゃない。
 最愛の母親を事故で亡くしてしまい、頼りにしていた兄からは乱暴された――この二つの出来事がきっかけとなり、彩の心を蝕んでいく。もう大丈夫なのに、もう泣かなくてもいいはずなのに、それでも心は癒えない。
 周囲の人間が笑っている中で、自分一人だけが堕ちていくような錯覚。 
 どう足掻いても逃げ出せない永劫の檻。
 その中で、誰にも聞き届けてもらえないのを知っているのに――叫ぶ少女がいた。
 ――それこそが。
 櫻井彩にとっての、ハウリングだった。



****



 夜の河川敷は、とにかく薄暗くて人気がない。
 そのくせ無駄に敷地が広いものだから、とてつもない孤独感に襲われる。照明が一切設置されていない河川敷は、下手をすれば犯罪の温床になりそうな雰囲気を醸し出していた。
 宵闇に呑まれた河川敷を歩く――鳴り響くはずの足音は、地面いっぱいに植えられた芝生に吸収された。
 川沿いに立ってみると、百数十メートルほど向こうに対面の河川敷が見える。ふと顔を上げてみれば、片側三車線の大きな橋が架けられていて、二つの陸地を繋いでいた。
 また橋と同じく、電車橋や水道橋なども見受けられる。つまり合計、三本の橋が架かっているわけだった。
 この河川敷は、俺の家からさほど遠くない位置にある。だから子供のころは、よく学校の友達と遊びに来たものだった。だだっ広くて、川があって、芝生が植えられていて、子供の遊び場所にはぴったりだったのだ。
 しかし感傷に浸る時間はありそうもない。
 目を細めて、暗がりの奥に浮かび上がった人影を注視する。まあ、そんなことをしなくても相手が誰なのかは分かっているんだけど。

「――夕貴くんって、本当に鬼ごっこが好きなんだね」

 まるで居酒屋で談笑していたときのような、楽しそうな声。
 血に濡れた包丁を握り締めながら、口元に冷笑を貼り付けながら。
 果たして――櫻井彩が姿を見せた。
 俺たちは十メートルほどの距離を保ったまま、対峙する形になった。
「……まあな。俺は男らしいやつだからな。走るのも隠れるのも大好きだ」
「そうなの? 夕貴くんって女の子みたいに可愛い顔してるから、てっきりインドア派かなぁって思ってたのに。偏見かもしれないけど、絶対に料理とか得意そうだよね」
「ああ、それは偏見だね……とめちゃくちゃ言いたいけど、残念ながら料理は得意なほうだ」
「やっぱり。でも料理が出来る男の子って、とってもポイントが高いと思うよ」
 くすくす、と彩は、どこか嬉しそうに笑う。
 その手に包丁が握られていなければ、ただの雑談にしか見えないと思う。
 ……でも雑談じゃないんだよな。
 どのような状況においても楽観視をしてはいけない。常に最高の結果だけを追い求めるのが失敗する者の典型だ。本当に結果を出すようなやつは、常に最悪の状態を想定して動いている。
 これは極論だが――最悪さえ回避できれば、勝ちはしなくても、負けないのだ。
「なあ彩。一つだけ聞いてもいいか?」
「どうぞ。なんでも教えてあげるよ」
 こういうのを冥土の土産って言うのかな――彩は両手で包丁を弄びながら、そんな言葉を続けた。
 思わず反論したくなったが、俺が聞かなくちゃいけないことは別にある。
「……おまえ、なんで俺を殺そうとしてんだ?」
 結局のところ、疑問はこれに尽きた。
 俺には誰かに殺意を向けられるような覚えはないし、もっと言えば恨まれるようなことをした覚えもない。まあ後者のほうは、知らず知らずのうちに誰かの怨恨を買っていた、という場合もあるだろうが、殺人に繋がるような愚挙を犯した記憶はなかった。
 それに彩は、人間とは思えない身体能力を見せていた。もしかすると、それも殺人衝動の一端を担う原因なのかもしれない。
「……なんでだろうね。私にも分かんないや」
 しかし。
 返ってきた答えは曖昧すぎるものだった。
「分からない? 自分のことだろうが」
「そうだね。でも本当に分からないの。ただ心臓――ううん、心かな、とにかく胸が疼いて仕方ないの。夕貴くんを殺せって、夕貴くんを殺してしまえって、そう訴えかけてくるの。その声に逆らうと、心臓が握りつぶされるように痛んで、本当に死んじゃいそうになるのよね。だから夕貴くんを殺さなくちゃいけないんだ」
 彩の話は、あまりにも意味が分からなかった。
 心臓が痛む?
 俺を殺せって訴えかけてくる?
 その声に逆らうと、死んでしまいそうになる?
 ……分からない。
 少なくとも俺は、殺人衝動を伴うような心臓病なんて知らない。
 第一、どんな事情があったとしても、個人の身体能力が飛躍的に上昇することはありえないはずだ。
 つまり――俺の知識と経験では、どう足掻いても理解しようのない効果が裏で働いている、ということか?
 例えるなら、人間ではない異端の存在とか。もっと砕けて言うなら、彩は吸血鬼に咬まれたから身体能力が向上し、殺人衝動に苛まれてるのではないか?
 ……いや、これはさすがに荒唐無稽すぎるか?
 でもせっかく出たアイディアだ、片っ端から否定しては意味がない。
 そもそもで言うなら、彩が一介の女子大生には過ぎた能力を持っている時点で、常識は通用しないと思ったほうがいいんだ。何事も臨機応変に。何事も柔軟に考えるのが生き残るための秘訣。
 総括として――彩の身には、なにか超常的な現象が介入している――と俺は仮定した。
 吸血鬼に咬まれたとか、魔女に呪いをかけられたとか、悪魔に取り憑かれたとか。
 ……悪魔か。
 そういやナベリウスのやつは何してんだろうな。ちゃんと留守番してくれている、と信じたいけど。ただ間違ってもこの場にだけは来て欲しくない。あの華奢な身体だ、きっと戦闘行為には耐えられないだろう。
 まあいいや。
 いまは彩を何とかすることだけ考えよう。
「――夕貴くん。なんだか恐い顔してるね」
 くすくす、と楽しそうな哂い。
「ああ。絶対におまえを止めてやる。そんでもって、俺を”可愛い”だの”女の子みたい”だの言ったことを後悔させてやるからな」
「根に持つ男性は嫌われるんじゃないかなぁ。それに夕貴くんって、本当に綺麗な顔してるんだよ? 女の子の私よりも、きっと夕貴くんのほうが可愛いんじゃないかな?」
 その一言に悪気はなかったんだろうけど、俺には挑発されたように感じた。
「……よく分かった。おまえは初めから俺の敵だったんだな。もう絶対に許さねえ」
「あれ、不快にさせちゃった? じゃあ謝るね。ごめんね、夕貴ちゃん」
「――てめえ謝る気ねえだろっ!」
 だめだ、思わずツッコミを入れてしまった。
「とにかくだ。おまえが俺を殺したいって言うのなら好きにすればいいさ」
「へえ、諦めがいいね。言っとくけど、私は本当に夕貴くんを殺すよ? 今だって心が疼いて疼いて仕方ないんだから」
「我慢するなよ。身体に悪いぜ」
「そっか。夕貴くんがそう言うなら、もういいかな」
 彩の口元に冷笑が浮かぶ。
 それと同時、空気が明らかに変質した。圧倒的な人の殺意というものは、ここまで露骨に場を支配できるものなのか。
 額には脂汗が滲み、足は微かに震え、意志が折れそうになった。
 でも俺には闘わなければならない理由がある。

 ――私もお母さんのことが大好きだよ。

 そう言ったときの彩の笑顔が忘れられない。
 反則だろ、こんなの。
 母親を大事にする人間に、悪いやつはいないんだ。母親を大事にする人間が、俺はどうしようもなく大好きなんだ。
 だから逃げない。
 どうしようなく無様でもいい――ただ彩の目を覚ましてやるだけの力があれば、俺はどうなってもいい。
 ただし、特攻とか、命と引き換えにしてでも、なんて馬鹿な考えはない。
 当たり前だろ。
 俺が死んだら、誰が母さんを護ってやるんだよ。
 ……それに。
 俺が死んだら、きっとナベリウスは泣くだろう。根拠はないけど、そんな気がする。
 だから――絶対に生きて帰ってやる。
 そんな決意を胸に秘めて、俺は疾走した。
 彩は無防備に突っ立っているだけ。構えを知らないのか、構える気がないのか――まあ両方だろう。技とは、弱者が強者に追い縋るためのもの。ならば元々優れた能力を持つ強者は、弱者に対して技を使用する必要性はない。
 数瞬のうちに間合いを詰めた俺は、躊躇いもなく右足を跳ね上げた。腰を大きく捻り、重心を左足に移行させて、彩の左側頭部目掛けて回し蹴りを叩き込む……!

「――凄いなぁ! 夕貴くんって、喧嘩も強いんだね――!」

 しかし俺の必殺は、彩に危機感を与えることすら叶わなかった。むしろ楽しんでいるような雰囲気さえあるぐらいだ。
 次の瞬間――視界から彩の姿が消える。
 それは文字通りの消失だ。
 萩原夕貴という人間の動体視力を持っては捉えられない、櫻井彩の超人的な脚力。
 ああ、そうだ。
 俺と彩では、元々のスペックが違いすぎる。
 それは例えるなら、自転車と大型バイクを競争させるようなものだ。
 つまり初めから俺には勝機がなかったのだ。
 しかし、手がないわけじゃない。
 むしろ――チャンスは今にこそあるんだ……!
 ほとんど闇雲に――けれど確信を持って体を半回転させた俺は、真後ろに向けて裏拳を放った。
 公園で二度、彩が見せた動き。
 彼女は攻撃を回避したあとは、必ず敵の背後を取ろうとする。だったら、それを利用しない手はない。
 いくら身体能力が向上したと言っても、彩は武道の経験がない素人だ。ならば動きが単調になってしまうのは当然だし、暴力に慣れていなくても仕方ない。
 ガキのころからずっと空手に打ち込んできた俺と。
 ある日、唐突に強力な能力を授かっただけの彩と。
 俺が積み上げてきたものは、決して無駄じゃなかった。

「――きゃあっ!」

 どこか場違いな、可愛らしい悲鳴。
 腕に伝わってくるのは、誰かを殴った感触――つまり攻撃がヒットしたという事実。
 即座に振り向く。
 彩は、芝生の上に尻餅をついたまま肩を押さえていた。彼女の手からは包丁が消えている。それは俺にとって最高の幸運だろう。
 どうやら彩は痛みに慣れていないようだ。予想外の反撃を食らって、いい具合に混乱してくれている。
 しかし、どうする?
 地力では向こうのほうが上だ。馬乗りになって押さえ込んだとしても、すぐに脱出されてしまうに違いない。
 つまり彩を無効化する方法は――呼吸器官の圧迫による失神、ぐらいしか残されていない。要するに首を絞めて落とすという乱暴な方法。
 正直、女の子を傷つけるのは気が引けるが、今はそうも言ってられない。
 ――ここまで思考に費やした時間は、およそ四秒。
 どれだけ最良の方法を思いついたところで、それを完遂するだけの能力が、俺には欠けている。萩原夕貴が培ってきた格闘技術は、彩の持つ謎の身体能力を前にすると役立たずになってしまう。
 だが、ごちゃごちゃ考えてる時間はない。
 とにかく何でもいい、骨の一本や二本なら折れてもいい――だから彩を無力化してみせろ。  
 もう余裕はないんだ。
 だから一刻も早く、彩を――!

「……死ねばいいのに」

 ふと、風に乗って呟きが聞こえてきた。
 ゆらりと立ち上がった彩は、上半身を脱力させたまま顔を俯けている。長い前髪が陰を落として、その表情は伺えない。
「……おまえ……彩、か?」
 思わず、目を細めてそんなことを口にしていた。
 ……なんだ、これは。
 何かが違う。
 俺の目の前にいるのは、本当に櫻井彩なのか?
 あまりにも――何もかもが違いすぎる。
 彩の足はふらついているのに、身体は頼りなく揺れているのに、手には武器を持っていないのに、視線は敵であるはずの俺から逸れているのに。
 それでも――ひたすらに不気味だ。
 一切の感情を削ぎ落としたかのような様相は、精巧に作られた殺人マシーンを連想させる。
 萩原夕貴を殺すと豪語していた彩のほうが、まだ遥かに人間味があった。少し前までの彩は、どこか善悪の区別がつかない子供のような趣さえ感じられたのに。
 粘ついたアメーバのように禍々しい気配が、夜の河川敷を侵食していく。それは視覚化して見えるほどの膨大な負の感情――つまり殺気だった。
 夜の帳に広がっていく濃密な殺気のせいで、胃の中のものがこみ上げてきた。殴られていないのに、酒を飲んでもいないのに、それでも吐き気を堪えている自分が可笑しいと思った。
 ――殺される。
 そんな言葉が、脳裏をよぎる。
「……あれは……?」
 初めは目の錯覚かと思った。
 櫻井彩という一人の少女――その背後に『何か』が浮かびがっている。それは陽炎のように実体がない。まるで邪気そのものを集めて一つにしたかのような――
 漠然とだが、理解した。
 あの陽炎のような『何か』が、彩を狂わせた原因だと。
 お母さんを好きだって、そう笑顔で言った女の子を惑わした原因だと……!
「……悪魔がっ!」
 奥歯を噛み締める。
 あんな可愛らしい女の子を狂わせた存在など、悪魔という呼称で十分だ。
「てめえが彩を苦しめてんのかよっ!」
 叫んだ。
 ――彩の手が上がる。きっと今の彼女ならば、数秒にも満たない間に俺を殺せるだろう。
「もしもそうだってんなら、俺が許さねえ!」
 叫んだ。
 ――刹那。彩が一直線に疾走してきた。なんて驚異的な速力。真っ直ぐに向かってくるものだから目では追えるが、反応は間に合いそうにない。
 ああ、俺は死ぬのかな。
 どうも力が及ばなかったみたいだ。
 ごめんな、彩。
 でも最後に叫んでやる。無様でも馬鹿でもいいから、思いっきり叫んでやる。俺は負けてない。いや、負けちゃいけないんだ。当然だろうが。だって、俺が死んだら母さんが、母さんが、母さんが……!
「俺は……こんなところで死ぬもんかぁ――!」
 果たして。
 その叫びを聞き届けたのは――神か。
 あるいは――
 次の瞬間、キィンと耳鳴りがしたと思ったら――夜の河川敷が強烈な冷気に包まれた。身も凍る、という比喩を、実体験を交えて口に出来そうなほどの寒気。一瞬にして春から冬へと様変わりした河川敷は、それだけでは飽き足りないと、さらに芝生や植え込みをも凍らせていく。
 世界が凍っていく。
 文字通りの意味で、河川敷に存在するあらゆる物が凍っていく。
 それは恐ろしいまでの絶対零度。
 ヒュン、と鋭い音が、幾重にも重なって聞こえた。同時に、上空から巨大な氷の槍が、目で数えられるだけで十数本ほど降り注いできた。それは彩が立っていた地点に命中し、小さな氷山を作った。
 しかし彩は、大きく後方に跳躍して難を逃れたらしかった。
 ……そっか。
 あるいは――
 俺の叫びを聞き届けたのは、神様なんかじゃなくて――悪魔なのかもしれない。

「――真名すら持たない低級悪魔が、よくもここまで暴れたものね」

 それは俺にとって、馴染みのある少女の声。
 いつも自分のことを悪魔なんだよーとか吹聴してやがった、うざったらしいぐらい美しい少女の声だった。

「――でも、ちょっとやり過ぎよ。好き勝手に人を殺しちゃったら、《悪魔祓い》や《法王庁》の連中がやってくるわよ。もっとも、あいつらはこの極東の地で起こった事件に関してだけは対応が遅いけどね」
 
 視線を上げる。
 あらゆるものが凍ってしまった河川敷。
 無骨な鉄鋼で出来た水道橋の上に、足を揃えて腰掛ける影があった。
 風になびく長髪は、月明かりに映える銀髪。
 俺たちを見下ろす目は、どこか冷めた銀眼。
 またたく間にこの場を支配し、絶対零度の世界を作り上げて。
 銀髪銀眼の自称悪魔ことナベリウスが――いや。

 ――ソロモン72柱が一柱。
 序列第二十四位の大悪魔《ナベリウス》がそこにいた――



[29805] 0-11 絶対零度(アブソリュートゼロ)
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/21 23:35
 人間は適温よりも、やや蒸し暑い温度か、やや肌寒い温度のほうが集中力が増し、作業能率が上がることが分かっている。
 とは言ったものの、極度の温度低下は人体に悪影響しか及ぼさない。
 それを証明するように、身体は手足の末端までが震え、急冷された空気を取り込んだ肺は痛み、吐き出す吐息は凍てついたかのように白かった。
 寒い――と呟いた言葉さえ凍ってしまいそう。
 ここが南極だったのなら、納得は出来なくとも理解はしただろう。
 これが物語だったのなら、理解は出来なくても納得はしただろう。
 花が咲き乱れる春という季節の、豊富な若緑に満ちた河川敷。
 日本ならさして珍しくもないその光景は、しかし――ありとあらゆるものが凍結されていた。
 木々も、芝生も、コンクリートも、ゴミ箱も、公共用のトイレも、果ては水道橋までが、文字通り――凍っていた。
 絶対零度の世界。
 比喩でも大袈裟でもなく、夜の河川敷は絶対零度の世界へと変貌していた。
 こんなの現実じゃあ考えられない。
 俺が知らない間に液体窒素でも撒かれたのか、と本気で愚考した。
 しかし、この凍った世界を作り出したのは、人工的なものでも自然的なものでもなく、きっと唯一人の人間による仕業なのだと俺は理解していた。
 いや、人間の仕業ではない。それなら人工的で合っている。
 これは――悪魔の仕業だ。
 どうしようもなく人外の所業であり、どう足掻いても人間には生み出せない超常現象だった。
 ――だってわたし、悪魔だし。
 そんな言葉が脳裏をよぎる。
 あまりにも臆面がない口調で、さも当たり前のようにナベリウスは自分が悪魔なのだと言っていた。
 でも俺は信じちゃいなかった。そもそも悪魔なんて実在しないとさえ思っていた。それは人間として当然の反応だろう。

「――よくも夕貴ちゃんを虐めてくれたわね。そこのちょっとだけ可愛い女の子」

 水道橋に腰掛けたまま、眼下にいる俺と彩を見下ろしたまま、ナベリウスは楽しげに言う。
 彼女の唇は緩やかに弧を描いているけれど、その月光を思わせるような銀眼は笑っていなかった。
「な、ナベリウス……?」
 絶対零度を作り上げたナベリウスの姿が、俺の知っている彼女のそれと重ならなくて、思わず訝しげな呼びかけとなった。
「ああ、質問ならあとにしてくれる? 今は外敵を排除するほうが先決でしょ」
 外敵。
 それは――櫻井彩のことか。
 俺にとっての助けるべき対象は、ナベリウスにとって排斥する対象でしかないのか。
 反論しようと思った。
 しかし、
「――主を脅かした代償は高くつくぞ。その矮小な命で購い切れると思うな、小娘」
 その厳然たるナベリウスの宣言があまりにも威圧的すぎて、二の句を継ぐことが出来なかった。
 彩が放ったプレッシャーとは比ぶべくもないほど強烈な殺意。
 俺よりも小さなナベリウスの身体が、今だけは氷山よりも大きく見えた。
 ――なぜか。唐突に、キィン、と耳鳴りがした。
 それを疑問に思うよりも、なお早く。
 次の瞬間には、二人の少女による戦闘が幕を開けた。


****

 
 ――否、それは果たして戦闘と呼べるものだったのか。
 少なくとも実力が拮抗していなかったことだけは確かである。
 むしろ比較の前提が間違っているのかもしれない。ナベリウスと櫻井彩の力関係は、大人と子供というよりも、巨人と虫と例えたほうが正解なのだから。
 確かに彩は、とある事情により超人的な身体能力を有している。
 しかし、それだけだ。
 たかが人体の限界を超えた運動を可能とした者ごときに、ナベリウスが敗北するわけがない。
 今の彩は徒手空拳だが、それでも刃物を持った人間を凌駕する殺傷能力を持つ。高速で薙ぎ払われる手刀は、もはや研ぎ澄まされた日本刀と同じだ。
 人の目では――萩原夕貴の目では決して追えない速度で、彩は氷に閉ざされた世界を縦横無尽に駆ける。
 対してナベリウスは、水道橋に腰掛けたまま移動する気配を見せない。ただ風に靡かないようにと銀髪を指で押さえているだけ。
 それは余裕以前の問題。
 ナベリウス自身が攻撃する必要などない。
 夜の河川敷を支配した氷は、そのすべてがナベリウスの武器であり盾だった。
 ただ念じるだけで――地面からは氷塊が吹き上がり、空中からは氷槍が降り注ぐ。
 彩が満身創意になりながらナベリウスに接近して攻撃を繰り出しても、薄氷で形成された盾があらゆる脅威からナベリウスを守護した。
 圧倒的――という言葉さえ置き去りにするような、強大な力。
 それも当然。
 ナベリウスこそ、ソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔であり――この世に72体のみ存在するとされる、本物の《悪魔》なのだから。
 とある宗教が母体となった《悪魔祓い》や、ローマ教皇庁の裏の顔でありバチカンに総本山を持つ《法王庁》は、古来から悪魔の存在に気付き、水面下で殺し合いを続けてきた。
 真実の一割すら知らされていない表社会に住む人間ですら、小説や映画にエクソシストと呼ばれる退魔の者を登場させ、悪魔を題材にする娯楽作品を生み出している。
 つまり悪魔という存在は、半信半疑ではあるが周知でもあるのだ。
 ただし一般の人間が把握している悪魔像――人に憑依して奇抜な行動を起こすといった悪魔憑き――は大きな間違いだ。
 実態を持たず、人の弱さに付け込んで人体を乗っ取り、果ては宿主の心を食らって糧とするのが娯楽作品に登場するような悪魔。またの名を悪魔憑きとも呼ばれる。
 これを、悪魔を研究する機関たちは総じて”オド”と呼ぶ。オドは悪魔の階級にすら入らない最下位の悪魔とされている。その実態は、悪魔というよりは死者の怨念の集合体に近く、日本では悪霊と認識されている場合が多い。
 悪魔と称される輩は、いつだって曖昧な基準で判断される。
 例えば吸血鬼や人狼とて、恐怖に眼を曇らせた人間から見れば、やっぱり悪魔にしか見えない。
 要するに、人間と比べて明らかに怪物染みた能力を持つ存在を、人は”悪魔”と呼称する傾向にある。
 低級悪魔であるオドは、日本では悪霊と呼ばれる。
 中級悪魔であるエルは、欧州では吸血鬼や人狼に当てはまる。
 上級悪魔であるアイオンは、上記二つの存在よりも強い力を持った存在が該当する。
 このように、悪魔とは明確な定義など出来ようはずもない、なんとも曖昧な輩を指す。
 しかし。
 この世には正真正銘の《悪魔》も存在する。
 それこそが、かつてソロモン王が使役したとされる72体の大悪魔《ソロモン72柱》である。
 彼らは各々が地獄における爵位を持ち、大規模な軍団を率いるとされ、なにより神に匹敵する強大な力を有している。
 悪魔を目の仇にする《悪魔祓い》や、人外を排除する異端狩りである《法王庁》が、本物の悪魔だと認識しているのは《ソロモン72柱》だけ。
 ただし《ソロモン72柱》は、ソロモン王に封印されたのを機に力の大部分を失い、現在は吸血鬼や人狼の上位に位置する程度の能力しか持たない。しかし、それは巨人の武器が大砲からナイフに変わっただけの話であり、踏み潰される虫に相当する人間にとっては大差あるまい。
 悪魔が脅威だと認識されている最大の要因は、《ハウリング》と呼ばれる悪魔固有の異能にある。
 通常、人間の命の源となっているのは血液であり、さらに言うなら血液を生み出す心臓だ。しかし悪魔は、心臓の代わりに核(コア)と呼ばれる器官を体内に持つ。
 核は、血液に酷似した赤い液体を生み出す。その液体には、マイクロ波の中でも特殊な波長域である電波――悪魔を研究する機関は、それを『Devilment Microwave』、日本語に直訳してDマイクロ波と呼称する――が含まれている。
 血液は全身に酸素や栄養分を行き渡らせたり、二酸化炭素や老廃物を運び出す役割を持つ。悪魔の場合、そこに核から生み出したDマイクロ波を全身に行き渡らせるといった効果も持ち、それが悪魔が超人的な身体能力を有する原因となっている、と推測されている。
 Dマイクロ波は、特定の分子系に対して影響を及ぼし、人間の手では起こしえない超常的な現象を発生させる。その不可思議な現象こそが、悪魔の持つ《ハウリング》という異能の正体。
 ハウリングが使用された際、周囲の人間は揃って耳鳴りがしたと訴えることがある。これはDマイクロ波が、人体の大小の筋肉に軽微の痙攣をもたらすことが原因である。
 また、悪魔が72体存在するように、ハウリングも72種あることが確認されている。これはDマイクロ波の波長が、それぞれの悪魔によって異なるからであると推測できる。
 ただし上述したものは、悪魔を専門的に研究する組織や機関が、《ハウリング》を科学的に解釈しようとして理論付けたものである。
 つまり、Dマイクロ波とは何なのか、特定の分子系に影響を及ぼしたところで《ハウリング》に見られるような現象を本当に起こしうるのか、といった疑問は確実に残る。
 ナベリウスが持つハウリングに名はないが――それを言うなら《ハウリング》という名称さえも人間が便宜上つけたものだが――悪魔祓いや法王庁の連中は、あらゆるものを凍結させる彼女の異能を、こう呼ぶ。
 《絶対零度(アブソリュートゼロ)》――と。
 空間そのものを制圧するナベリウスの異能は、悪魔の中でも桁外れに強力であり、厄介でもある。
 ナベリウスの《絶対零度(アブソリュートゼロ)》は、空気中に存在する、あらゆる分子系を完全に掌握することから始まる。やがてDマイクロ波を用いることによって、その分子系の活動を停止させて、熱振動による温度の上昇を防ぎ、エネルギーを最低まで減少させる。この際に決まる最低温度は、セルシウス度で表せば最大で-273.15℃ほど。
 前提として、Dマイクロ波が含まれた氷は、ナベリウスの意思に応じて操作することが出来る。
 つまり河川敷を凍結させている氷は、例外なくナベリウスの武器であり盾でもあるということ。その汎用性の高さは、悪魔の中でも郡を抜く。
 欠点があるとすれば、それは《絶対零度》が強力すぎることと、効果範囲が広すぎることか。事実、河川敷に咲き誇っていた若緑たちは、来年の春まで花を芽吹かせることはないだろう。
 ともすれば民間人を巻き込む恐れのある《絶対零度》ではあるが、夜の河川敷という戦場は、ナベリウスが手加減をする必要のない最良のステージだった。
 もう一度だけ繰り返すが、これは戦闘ではない。断じて戦闘などと呼んではいけない。もしもこれを戦闘と呼ぶのなら、人間が羽虫を潰そうとする行為すらも戦闘になってしまう。
 ――気付いた頃には。
 全身を血に濡らした彩が、瀕死の状態で地面に倒れ伏し。
 それをナベリウスが、どこか冷めた銀眼で見下ろすという構図が出来上がっていた。
 両者の実力差を考えれば、これは順当な結果だろう。
 しょせんは低級悪魔に魅入られただけの人間と、この世に72柱しか存在しない本物の悪魔が殺し合ったのだ。
 ナベリウスがほんの少し戯れただけで――夕貴を脅かしていた脅威は排除された。
 しかし、身じろぎすら至難となった彩を前にしても、ナベリウスは止まらなかった。
 当然であろう。
 ナベリウスにとって、彩は単なる外敵――いや、害虫である。目障りな虫を踏み潰すのに躊躇いを覚える人間など、まずいない。
 文字通り虫の息で横たわる彩は、戦意どころか意識さえ喪失しているようだった。
 それをどうでもよさそうに見つめたあと、水道橋から地面に降り立ったナベリウスは、夜空に向けて手をかざす。
「……嘘だろ」
 遠くのほうで、夕貴が呆然としたように呟いた。
 ナベリウスの頭上には、全長数十メートルにも及ぶ巨大な氷槍が浮かんでいた。今までの無骨な氷の塊とは違って、優美な装飾の施されたそれは、武器というよりは芸術品のように見える。
「……もういいだろ。まさか、彩を殺すつもりじゃねえよな」
 いつの間にか。
 ナベリウスの背後には、夕貴が歩み寄って来ていた。
「もちろん殺すつもりだけど? むしろ殺さない理由なんてないでしょうに」
「それは――!」
「勘違いしないように言っておくわ。
 わたしはね、夕貴の味方よ。これは不変の事実。わたしは、夕貴のことを息子のように思ってるし、弟のようにも思ってるし、恋人のようにも思ってる。それだけあなたが大事で、愛しくて、守ってあげたいのよ。
 でもわたしが守るのは――夕貴や、夕貴の身内だけ。それ以外はどうなってもいいし、どうしてあげる気もない。
 だから、この人間の小娘が死のうとわたしの知ったことじゃない。私情を交えて言わせてもらうなら、殺したくて仕方ないぐらいよ」
 正直な話――ナベリウスは腹を立てていた。
 その憤怒の最大の要因は、もちろん彩が夕貴を襲ったことだ。
 しかし、ここ最近街を賑わせていた殺人事件に彩が――否、悪魔が介入していると察したナベリウスは、夜な夜な夕貴の目を盗んで、犯人を捜していた。そういった手間をかけさせられたことも、ナベリウスの怒りに繋がっている。
 だからナベリウスは、櫻井彩を殺す。
 ……それに。
 一度でも悪魔に魅入られた人間は、もう助からない。
 より正確に期して言うのならば、悪魔に憑依された段階では助かる見込みもある。しかし殺人を犯して死者の魂を食らった者の心は、悪魔との結びつきが強くなり、切り離すことが難しくなる。
 唯一、彩に憑依した悪魔を殺す方法があるとすれば――それは宿主である彩もろとも悪魔を殺すという、なんとも乱暴な手段だけ。
 だから、これはナベリウスの優しさでもあるのだ。
 このまま悪魔の声に従って殺人を続けていれば、いつかは悪魔祓いや法王庁の連中に気付かれる。そうなってしまえば終わりだ。特に法王庁に捕まってしまうと、死すら生温い、生きた実験材料として扱われることになる。
 ゆえに殺す。
 後腐れなく、一思いに、躊躇せず――殺す。
「ねえ夕貴」
「……なんだよ、ナベリウス」
「実はね、わたしって悪魔なのよ。知ってた?」
「…………」
「夕貴と初めて会ったとき、ちゃんと言っておいたでしょ? わたしはソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔|《ナベリウス》。そして夕貴と主従の契約を結んだ女よ。わたしが言えるのは、これぐらいかな」
 言って。
 ナベリウスの殺意と同調するように――周囲の気温が数度下がった。
「――ナベリウスっ!」
 これまで聞いたこともないほど必死な、夕貴の声。それは言外に、もう止めてくれ、とも言っていた。
 しかしナベリウスからは殺気が消えない。むしろ一秒ごとに加速していく。もう間もなく、櫻井彩の命は、その身に宿った低級悪魔ごと消え去るだろう。
 最後に、ナベリウスは振り向いて、笑った。
「――もう、わたしからは何も言わないわよ」
 それはどこか、だらしのない弟を叱りつける姉のような顔だった。
 次の瞬間――ナベリウスの頭上にあった巨大な氷槍が動き出した。
 氷の槍が、櫻井彩を貫くまで――それは本来ならば数秒にも満たない間だったはずだが、ナベリウスはその刹那に思考していた。
 ――もうヒントはあげた。
 ――だから、あとは夕貴次第。
 ――なぜなら。
 ――ナベリウスが動くのは、自衛のためか、夕貴のためか、身内のためか、もしくは――

「――止めろぉ! 彩を殺すなぁぁぁぁっ!」
 
 ――彼女が主と認めた者からの、命令だけなのだから。
 つまり夕貴は、初めから命令していればよかったのだ。きちんと口に出して、止めろ、と言ってくれれば、ナベリウスは喜んで引き下がったのに。
 ナベリウスと彩、この両者の中間地点に割り込んだ夕貴は、両手を広げて彩を庇うようにした。
 その目は――どこまでも真っ直ぐで、これっぽっちも怯えていない。
 ナベリウスは、その瞳に覚えがあった。まったくもって、夕貴はあの人に似ている。
「――イエス、マイマスター」
 どこか気取ったようにそう言って、ナベリウスは嬉しそうに指を鳴らした。
 パチン、と乾いた音が、やけに大きく空間に木霊したかと思うと――彩を貫く寸前だった氷槍は霧散し、河川敷を覆っていた氷は消失した。
 絶対零度の世界は、ここに終わりを告げて。
 今宵の戦闘は、彩ではなくナベリウスの――いや、萩原夕貴という少年の勝利に終わったのだった。



****



 ナベリウスのやつが指を鳴らしただけで、河川敷は元通りになっていた。
 数瞬前までは、凍死するんじゃないか、と思うほど肌寒かったはずなのに、氷が無くなった途端、俺の体は現金にも寒気から来る震えをなくしていた。
 ナベリウスから殺意が消えたことを確認すると、俺は一目散に彩へ駆け寄った。
「――おいっ! しっかりしろっ!」
 全身を血に濡らす姿は、どこからどう見ても瀕死に見えた。
 うつ伏せに倒れていた彩を抱きかかえて、腕の中で仰向けの状態にする。
「……ゆう、き……くん……?」
 ガキみたいに大声で呼びかけたことが功を成したのか、彩は薄っすらと瞳を開けた。
 しかし、見るからに瞼が重そうだ。
 まるで――少しでも気を抜くと、眠ってしまいそうな。
「……私ね。世紀の……っ、大発見……したんだぁ……」
「そんなのどうでもいいんだよっ! だから――」
「こ、んな……私、でもね。……男の人を、好きに、なれるんだなぁ……って。……えへへ、これって、大発見でしょう……?」
 止めろ。
 頼むから止めてくれ。
 そんな話、いつでも出来るだろ。
 なのに、どうして今するんだよ。
 だから。
 ……だからっ!
 これだけは伝えておかなきゃって、思い残すことはありませんようにって、そんな必死そうな顔すんなよ――!
 俺の気のせいだと思いたかったが、現実から目を逸らしちゃいけない。彩の身体は、一秒ごとに冷たくなっているようだった。
 出血が多すぎたのか、氷を身に浴びすぎたのか――恐らく両方だろう。
 でも悪いことばかりじゃない。ナベリウスの氷を全身に浴びたことが、彩の命をかろうじて繋いでいる。身体を急激に冷やされるということは、体内の血管が収縮して出血が収まるということでもあるから。
 しかし、それは時間稼ぎにもならないだろう。
 どちらにしろ彩の命は、間もなく燃え尽きようとしていた。
「……なあ。ナベリウス」
 呼びかけると、背後から返答があった。
「なに? まさか、その子を助けてくれ、だなんて子供みたいな命令はしないわよね?」
「…………」
「あのね、夕貴。それは命令じゃなくて、お願いよ。奇跡を願うのなら、その相手はわたしじゃなくて、神様に言ったほうがいいわよ」
 奇跡――つまり彩は、そんな神様頼みの事象が起きないかぎり助からないとでも言うのか。
「……彩は、一体どうなってんだ? どうして俺を殺そうとしてきた? どうして人を殺した? どうして、あんな化物みたいな身体能力を持ってたんだ?」
「そうね。簡単に言うと、その子は悪魔に魅入られたのよ。真っ当な人間なら悪魔に憑依されるようなことはないんだけど――きっと、その子は心に大きな傷があったんでしょうね。自己を保てなくなるほど深い心の傷が。もうどうなってもいい、と自暴自棄になってる人間は、それだけ悪魔みたいな邪悪なものを引き寄せやすいのよ」
 正直に言えば――ナベリウスの話は、荒唐無稽すぎて理解に苦しんだ。
 でも必死に受け止めた。
 こんな状況下で嘘をつくほど、ナベリウスは性根の曲がった女じゃない。
 それに彩を助けるためならば、俺は何だってする。母親を大事にする人間に、悪いやつは絶対いないんだから。
「低級悪魔――まあ一般にはオドって呼ぶんだけどね。このオドは実体を持たず、自分一人じゃ何もできない。だからこそ人を操り人形にして、他者を殺し、心を食らって己の力とする。
 だから、その子――彩ちゃんだっけ? とにかく彩ちゃんが殺人事件を引き起こしたのは、彩ちゃんの意思じゃなくて、オドに強制されていただけってことになる。
 まあ結論から言えば、彼女の身体能力が向上したのも、彼女が人を殺したのも、彼女が夕貴を狙ったのも、すべてオドが原因ってことよ」
「なるほど――いや待て。それっておかしくねえか? おまえの説明だけじゃ彩が俺を狙った理由が分からない」
「そりゃあ分からないように話したからね。こればっかりは、あとで落ち着いて話したほうが分かりやすいと思うし」
「……なんだか気に食わねえが、まあいい。今は彩を助けるほうが先決だ」
「だから無理だってば。彩ちゃんは人間を殺しちゃってるでしょう? とすると、すでに彼女とオドの結びつきは、外部からの切り離しが効かないほど強固になってると見て間違いないわ。つまり――」
 オドを殺すということは、彩ちゃんを殺すということよ――そうナベリウスは続けた。
 信じたくはない、そんなの信じてたまるか――と現実逃避することは楽だし、容易い。
 でも、それで事態が収束することはない。
 しかし俺に出来ることがないのも、また事実である。
「……おい、彩」
「な、に……?」
「こんなところで寝てる場合じゃないだろ。おまえ、お母さんのことが好きなんだよな?」
「……うん。……だ、いすき……だよ」
 なら。
 自信を持って母親を大事だと言えるのなら。
「――生きろよ。無様でもいい、人殺しでもいい、奇跡が必要だったら奇跡を起こせばいい。だから生きろ……生きてくれよ」
 それが。
「……どんなに醜くても、精一杯生きてやるのが――俺たちに出来る、最高の親孝行だろうが……!」
 瞳からは涙がしとどに溢れた。
 なんだ、どおりで視界が霞んでやがるなぁ、と思ったわけだ。
 頬を伝った透明色の雫は、俺の顎から彩の瞳に落ちる。それは一筋の涙のようになって、まるで彩も泣いているように見えた。
「……そう……だね……う、ん……夕貴くんの、言うとおり、だと……思う、よ」
 言って。
 彩の瞳からは涙が溢れた。決壊したダムのように、とめどなく涙が溢れた。
「ああ――こんな、話をしてると、お母さんに……会いたく、なっちゃうね……」
 ううん、会いに行っちゃおうかな――と彩は付け足した。
 それは。
 繁華街の居酒屋で。
 彩が言った言葉と同じ――だった。
 あのときは母親離れできない少女の台詞に聞こえたのに、どうして今は、こんなにも悲しい一言に聞こえるのか。
「な、んだか……眠たく、なって……きちゃったなぁ……」
 力なく笑って、彩は瞳を閉じた。瞼が閉ざされたせいで溢れた涙が、より一層の筋となって頬を伝う。
「おい……なに寝ようとしてんだよ」
 彩の身体が弛緩していく。少しずつ力が抜けていく。
 それが嫌で、俺は彩を抱きしめた。
「……あの、ね……夕貴くん。……もうちょっと、だけ……顔、近づけて、くれないかな」
「あ、ああ――これでいいか?」
「……だめ。もっと」
「えっと――このぐらいか?」
「ううん……もっと」
 意味が分からなかったが、とにかく彩の願いを叶えてあげたかった俺は、言われるがままにした。
 ほとんど目と鼻の先にある彩の顔は、血の気を失っているのにも関わらず綺麗で――可愛らしかった。
 やがて俺は、これ以上近づけることはできないという距離まで顔を接近させた。
「じゃあ、これぐらいで――」
 そう言いかけた瞬間――ふと唇に感触。
 驚きに目を見開く俺を満足そうに見つめて、彩は悪戯っ子のように笑った。
「……えへへ。……初めて、好きな男の子と、キス……しちゃった」
 ほんのりと頬を赤くして、彩は舌を出した。
 もう身体を動かすだけの力は残っていないはずなのに――俺とキスする力があるのなら、それを少しでも生命力に回せよと怒鳴りたい気持ちだった。
「……バカ野郎。俺なんて、今のがファーストキスだよ」
「そう、なんだ。……夕貴くん、とっても素敵、だから……もう経験済みなのかと、思ってたのになぁ」
 一体キスにどれほどの価値があるのかは分からないが。
 それでも彩は、この上なく幸せそうに微笑んだ。
「……あのね、夕貴くん」
「なんだ?」
「……好き、です。……私、夕貴くんのことが、好きです……」
 か細い声で、囁くようにして彩は言った。こんなときなのに、とも思ったが、もしかしたらこんなときだからこそなのかもしれない。
 突然の告白を受けた俺は、混乱するしかなかった。そもそも女の子から告白されたことは、これまであまりなかったんだ。
 なんて答えればいい?
 どう返すのが正解なんだ?
 そんな取り留めのない思考が無数に駆け巡った。
「……彩、俺は――っ?」
 そこで初めて気付く。
 もう彩の身体は氷のように冷たくなっていて、呼吸は気付かないほど小さくなっていることに。
「……おい、嘘だろ? なに寝てんだよ、彩」
 身体を揺さぶりながら問いかけるも、反応はない。
 彩は、ただ満足そうな笑顔を浮かべたまま、沈黙しているだけだった。
 ――最悪の予感が、脳裏を掠めた。
 振り返ってナベリウスを一瞥すると、彼女は力なく首を横に振った。それが、どうしようもなく死刑宣告のように見えて、俺は目の前が真っ暗になった気がした。
 ……ふざけんな、なんだよこれ。
 こんな結末ありかよ。
 どうして彩が死ななくちゃいけないんだよ。
 ――いや、まだ彩は生きてる。風前の灯に似た命であったとしても、まだ生きてるはずなんだ!
 でも俺は、やっぱり無力だ。
 何も出来ない。
 何もしてやれない。
 どうすることもできない。
 彩を――助けてやれない。
 ほとんど自棄になった俺は、彩の身体を強く抱きしめた。冷たくなっても彩の身体は柔らかく、血に濡れているはずなのに甘い匂いがした。
 胸の中に彩を感じながら、必死に祈る。
 ――頼むから、この子を助けてくれ。
 ――こいつはお母さんが好きだって言ってんだ。
 ――そんな女の子が、こんな可哀想な最期を迎えていいはずがない。
 ――だから。
 ――だからっ!
 その瞬間、ナベリウスが氷を操ったときと同じように、微かな耳鳴りがした。
「……これは」
 俺の背後で、ナベリウスが驚いたように声を漏らす。
 でも、そんなのは関係ない。
 今は彩を助けたい、としか頭にはないから――


 どう足掻いても打破できないような堅固な壁。
 それを前にして、誰にも助けてもらえないことを知っているのに――叫ぶ少年がいた。
 ――それこそが。
 萩原夕貴にとっての、ハウリングだった。





[29805] 0-12 夜が明けて
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/23 16:40
「――さあ、おまえの知ってることを全部話してもらうからな」
 休日の朝のこと。
 俺とナベリウスは、萩原邸のリビングにいた。
 朝食後のコーヒータイムを満喫している俺たちは、木製のダイニングテーブルに向かい合うようにして腰掛けていた。
 悪魔のことやら、ナベリウスが俺の元にやってきた理由やら、そういった知られざる秘密を彼女に問い質そうとするという、わりと真面目なシチュエーションのはずなのだが――しかし。
「わたしの知ってること? ……ああ、それって夕貴の部屋の本棚に隠してある、グラビア写真集のことでしょ?」
「――違うわっ! というか、てめえ何で知ってんだよ!?」
「そりゃあ夕貴が大学に行ってる間に、部屋を物色したからに決まってるでしょうが。夕貴の隠された性癖を調べてあげようと思ってたんだけど、意外にアダルトビデオとかの類はなかったなぁ。あのグラビアアイドルの写真集が一つあっただけだし」
「バカっ、あれはグラビアアイドルじゃねえよ! 俺が応援している女優さんのファースト写真集だ!」
「ふうん、そうなんだ。でもあの子、びっくりするぐらい胸が大きかったよね。てっきり夕貴は巨乳が好きなのかなぁって思ったんだけど」
「まあ確かに、あの子の胸が大きいってのは認めるよ。そのせいで顔や演技じゃなくて、胸しか見ないようなファンがいることが俺は許せないけど、まあ誰かを好きになる理由は人それぞれだし――って、なんでおまえにこんな話をしなくちゃならねえんだ!?」
「まあまあ、落ち着きなさいよ。どうせ夕貴ちゃんがあの子を使ってるのはバレバレなんだし」
「えっ、使うってなんだ!? いや、それよりも夕貴ちゃんって呼ぶなよ!」
「んー、それを言っちゃってもいいのかなぁ。でも夕貴が――あっ、噂をすれば」
 退屈そうにテレビのリモコンを弄っていたナベリウスが、部屋の隅にある52インチのテレビを指差した。
 そこに映っていたのは、タレントや俳優を特集する朝の番組だった。本人の出演はないが、テレビ局が独自に取材した芸能人の趣味や華々しい経歴を取り上げるという――あっ!
「……あれ、夕貴ちゃん?」
 ナベリウスが顔を覗き込んでくるが、俺はそれどころじゃなかった。
 だってさ。
 だってさ!
 俺が応援している女優こと高臥菖蒲(こうがあやめ)さんが、テレビ番組に取り上げられてるんだぞ!?
 ……あぁ、やっぱり菖蒲ちゃんって可愛いなぁ。なにより雰囲気がいいんだよなぁ。おっとりとしてて、ちょっと天然で、めちゃくちゃ礼儀正しくて。それにどことなく俺の母さんに似てるし。
「おーい、夕貴ちゃーん。男装の似合う女性ランキング第一位の夕貴ちゃーん?」
 液晶の大画面に映っているのは、優しげな笑顔を浮かべる菖蒲ちゃんだった。
 全体的に色素が薄いのか、日本人にしては珍しい鳶色(とびいろ)の髪を持ち、肌は秋田美人もびっくりするぐらい白い。
 それに、二重瞼の瞳をいつも眠そうにしてるところとか、他人から声をかけられたとき一瞬だけ遅れてレスポンスを返すところとか、なんとも言えない可愛らしさがあるんだよなぁ。
「大丈夫よ、夕貴ちゃん。このテレビに映っている女の子よりも、夕貴ちゃんのほうが可愛いから」
 高臥菖蒲という少女こそが、俺の理想の女性像と言っても過言じゃない。
 小学六年生の頃から突出した愛らしさを誇っていたらしい菖蒲ちゃんは、街を歩いているときに芸能プロダクションからスカウトを受けた。
 当初は家の事情で断っていたものの、それから一年後に両親からの勧めを受けて、中学一年生のときに晴れて芸能界入りを果たした。
 雑誌やテレビ出演などを経て、それから二年もしないうちに映画初主演まで勤めた菖蒲ちゃんは、美しいルックスや年齢に見合わない豊満な胸もそうだが、自然と人を惹きつけるようなカリスマ性があるのだ。言ってしまえば天性のスター気質というやつだろう。
「ねえ夕貴ちゃん、あとで下着でも買いに行かない? そろそろ夕貴ちゃんにも必要になってくるころでしょ?」
 しかも菖蒲ちゃんは、東日本を中心に展開する大財閥(戦後の財閥解体のせいで、本当の意味では財閥じゃないんだけど)こと高臥家の一人娘なのだ。つまり生粋のお嬢様ということであり、それが菖蒲ちゃんの礼儀正しさや気品に繋がっているのだろう。
 ……と、俺が黙って菖蒲ちゃんを想っているのをいいことに、好き勝手ほざく悪魔女がいるらしい。
「よっ、この美人! 憎いねぇ女顔! 今まで何人の男を騙してきたのかなぁ? これだから夕貴ちゃんは――」
「――うるせえっ! さっきからなに言ってんだよ、てめえは!」
「やっと反応したわね。それにしても、夕貴に好きな女の子がいたなんてね」
「べつに好きなわけじゃねえよ。ただ憧れてるだけだ」
 まあ俺は今年十九歳で、菖蒲ちゃんは今年で十六歳だから、交際するとなると犯罪の恐れが出てきてしまうわけだけど。
「ふーん、まあ写真集を買うぐらいだものね。筋金入りのファンってことなんだ、夕貴は」
「ああ……って、おまえと話してるうちに番組が終わっちまったじゃねえか!」
「ほんとだ。きっと、わたしがチャンネルを変えたときにはもう番組終了間近だったんでしょうね」
「そんな冷静な考察はいらねえよ……」
 高臥菖蒲のテレビ露出は珍しいのに……。
 もっとちゃんと見ておけばよかったなぁ……いや、むしろ録画しときゃよかったかも。
 まあ後悔しても遅いか。あとで菖蒲ちゃんのファースト写真集でも見て元気を出そう。
 とにかく今は、もっと大事な話があるんだ。……もちろん菖蒲ちゃんも大事だけど。
「――ナベリウス。そろそろ話を聞かせてくれよ」
 ここからは真面目な話だと、俺はテレビを消した。
 お茶請けのどら焼きを頬張っていたナベリウスは、口をハムスターのように膨らませながら「むご?」と何とも間抜けな反応をした。
 うん、実に締まらない。
 むぐむぐ、とどら焼きを咀嚼したナベリウスは、唇を舌で舐めたあと紅茶を口に含んだ。
「まあ別にいいけどね。わたしは元から何も隠してないし。でも、大して面白い話でもないわよ?」
「構わない。俺は真実が知りたいんだよ」
「わーお、かっこいい台詞――とか言うと、また夕貴に怒られそうだから言わないけど」
「いや、それもう言ってるから」
「そこを気にしちゃったら男らしくないわよ」
 そ、そうだったのか!
 くそっ、危ないところだった。もう少しで俺が女々しい男だと勘違いされるところだったじゃないか。
「まあ――確かに夕貴には、真実を知る権利があるかもね。もう隠し切れないだろうし」
 そう前置きして、ナベリウスは続けた。
「どこから話したものかなぁ――あっ、ちなみにわたしは本物の悪魔だからね? ソロモン72柱だからね? ナベリウスちゃんなんだからね?」
「それはもう分かってるよ。むしろ、あんなもん見せられたら信じるしかないだろ」
 絶対零度の世界。
 あれこそがナベリウスの力であり、彼女本来の姿。
 銀髪銀眼という人間離れした容姿は、悪魔という種族ゆえの身体的特徴だったということになる。
 いや、どおりで人間離れした美貌だと思った。もちろん本人には言わないけどな!
「そのとおり! ふっふっふ~、わたしは凄いのよ。見直したでしょ?」
 腰に手を当てて、ご立派な胸を張るナベリウス。そのうち鼻が伸びそうなぐらい威張っていた。
「はいはい、見直した見直した。だから最初から全部教えてくれ」
 投げやりに同意すると、ナベリウスは「なーんか気持ちが篭ってないなぁ。まあいいけどー」と面白くなさそうに唇を尖らせた。
「じゃあ、まずは《ソロモン72柱》について話そうかな――」
 かつてソロモン王が使役した72体の大悪魔。
 その絶大な力を警戒したソロモン王によって封印された彼らではあるが、やがてバビロニアの人々によって解き放たれ、世界中に散らばっていったらしい。
「――その中の一柱がわたしってわけ。
 どいつもこいつも面白いぐらい自分勝手なやつばっかりでね。封印を解かれた《ソロモン72柱》の悪魔たちは、世界各地に潜伏して勢力を築いたり、歴史の裏で悪魔祓いの連中と殺し合いを続けたり、人間と恋に落ちて子供を産んだりもしたのよ」
「なるほど。ちなみに他人事みたいに言ってるけど、おまえも最強に自分勝手だからな?」
「えっ、嘘でしょ? わたしって貞淑でおしとやかな女性だよね?」
「その間逆だろうが。ある朝、人のベッドに裸で添い寝してた女がなに言ってんだよ――つうか、それで思い出したけど、どうして俺のベッドに潜り込んだんだ?」
「……いやん」
「頬を赤らめんなっ! 身体をくねくねさせんなっ!」
 ルックスがいい分、無駄に似合っててちょっぴりドキドキするじゃねえか!
「まあ、わたしが夕貴の元にやってきた理由は単純なんだけどね」
「単純なのかよ。今までもったいぶってたのは何なんだ。んで、なんで俺の元にやってきたんだ?」
「そうね――約束、かな」
「約束? もしかして母さんとの約束か?」
「それもあるけど、厳密に言えば違うかな」
「じゃあ誰だよ」
「夕貴のお父様との約束かな」
 …………。
 その言葉を聞いて、数瞬だけ思考が止まった。
「解き放たれた《悪魔》たちは、各地に散らばったって言ったでしょう?
 世界各地に潜伏して勢力を築いた悪魔がいて、歴史の裏で悪魔祓いの連中と殺し合いを続ける悪魔がいて、そして――」
「……人間と恋に落ちて、子供を作った悪魔もいた」
 俺が言葉を続けると、そうそう、とナベリウスは同意した。
「もしかして、それが俺の父さんで――悪魔と恋に落ちた人間が、俺の母さんだとでも言うつもりか?」
「そのとおり。察しがよくて助かるわ。頭の回転が速い男の子はポイント高いかもよ」
 ……つまり。
 俺の推論が正しければ――萩原夕貴は純粋な人間じゃなくて、悪魔とのハーフってことになる。
「ソロモン72柱が一柱にして、序列第一位の大悪魔《バアル》。かつて魔神とさえ謳われた彼は、しかし人間をこよなく愛する風変わりな悪魔だったわ。その結果、当時は女子高生だった夕貴のお母様――小百合(さゆり)と恋に落ちたのよ。いやぁ、あれはロマンチックな逃避行だったなぁ。バアルに付き従っていたわたしも、巻き込まれる形で一緒に逃げたものよ」
 ……マジかよ。
 そういや母さんが「私も若いころは運命的な出会いをして、ロマンチックに駆け落ちしたものよ」とか言ってたな。その駆け落ちのせいで実家と絶縁していた母さんではあるが、数年前にようやく許されて交流が復活したのだ。
「まあ分かりやすく言うと、わたしが夕貴の元にやってきたのは、夕貴がバアルの息子だからってことになるかな。バアルと小百合の子供は、わたしの子供みたいなものだしね」
「そっか――いや待て。一万歩譲って、その荒唐無稽な話を信じてやるとしてもだ。なんでおまえは、裸で添い寝してたんだ?」
「……いやん」
「だから頬を染めて身体をくねくねさせんなっ!」 
 これが定着したら嫌だなぁ!
 俺のツッコミを華麗に無視したナベリウスは、紅茶をずずっと飲んだ。
「ところで夕貴。あなたのお母様である萩原小百合について聞きたいんだけど、いいかしら?」
「なんだよ。べつにいいけど、つまんねえこと言って母さんを侮辱したら怒るぞ」
「つまらないことじゃないと思うけど――わたしが聞きたいのは、小百合の外見年齢のことよ。正直に言って、夕貴から見た小百合は、何歳ぐらいに見える?」
「それは――」
 ありのままを答えようとして、言葉に詰まった。
 ぶっちゃけた話をすれば――俺の母親こと萩原小百合は、実年齢よりも十歳以上若く見える。よく永遠の二十歳とか、女子大生みたいとか、ご近所様からは評されているし。
 二人で買物に出かければ、母さんが腕を組みたがることも相まって、恋人同士のように見られることが多い。俺としては腕を組むのは恥ずかしいのだけど、それを断れば「もういいっ! 夕貴ちゃんの可愛い姿、街中に教えてくるもん……!」とか言って、俺の忌まわしい記憶(子供のころの女装写真)の封印を解こうとするものだから始末が悪い。
 母さんは、二十代前半の外見年齢だし、息子の俺から見てもルックスがいい。
 加えて性格には無邪気なところがあり、やや子供っぽい面が残っているのも否定できない。
 それを、俺は今まで不思議に思わなかった。確かに学友たちの母親と比べると、母さんがかなり若すぎるような気がしたのだが、まあ俺の母さんだからアリかなって意味もなく納得していた。
 ……しかし。
「夕貴の反応から察するに、どうやらビンゴみたいね。きっと小百合は、わたしと出会ったころとあまり変わらない容姿なんでしょう」
「……確かに、おまえの言うとおりだ」
 記憶を振り返ってみる。
 俺が幼稚園児のとき、小学生のとき、中学生のとき、高校生のとき、大学生のとき――その始まりから終わりまで、母さんの容姿はほとんど変わっていない。もちろん多少は変化しているが、それは老化というよりも成長だ。むしろ俺が幼稚園児のときよりも現在のほうが、色気が増して美人になっている印象さえある。
 ナベリウスに言われて愕然とした。
 ……これは異常だ。若作りという言葉では済まされない。
 もしかして、母さんの身になにか得体の知れない現象が起こっているのでは――そう考えると、気絶してしまいそうなほどの絶望を感じた。
「――ああ、安心して。べつに小百合は病気とかじゃないから。むしろ、その逆かな」
 恐らくは青褪めていただろう俺の顔を見て、ナベリウスは苦笑した。
「逆だって?」
「そうよ。んー、なんて説明すればいいのかなぁ。まあ簡単に説明すると、小百合はバアルと体を重ねたわけでしょ?」
「……ま、まあ」
 当たり前のことだとしても、なんとなく母さんのそういう話は聞きたくなかった。
「夕貴のお父様であるバアルは、ソロモンの序列第一位に数えられるほどの大悪魔だった。小百合は、その偉大なる悪魔の体液を、女性の体内部に何度も注ぎ込まれた」
「…………」
「何度も注ぎ込まれた」
「繰り返すなやボケぇ!」
「あっ、ごめんごめん。とにかく小百合とバアルは、それはもう人目を憚らずに――」
「――うるせえっ! 話が脱線し過ぎだ! 真面目な話じゃなかったのかよ!」
 べつに他意はないけれど、母さんのそういう話は聞きたくない。べつに他意はないけれど。
「いやぁ、ごめんごめん。あまりにも夕貴が面白い反応をしてくれるものだから、つい遊んじゃった」
 つい、じゃねえぞこの悪魔……。
 まあ反論するのも時間の無駄なので、あえて耐えるけど。
「理論的に説明すると小難しい話になるから、夕貴にも分かりやすく説明するとね――」
 ナベリウス曰く、悪魔は心臓の代わりに核と呼ばれる器官を体内に持つらしい。
 名称こそ違うものの、核はあらゆる面で心臓と酷似している。核は、血液に似た赤い液体を生み出し、その赤い液体は組成や成分が血液とほぼ同一であることが分かっている。
 また、核は『Devilment Microwave』――日本語に直訳してDマイクロ波と呼ばれる特殊な電波を生み出す。これが悪魔を悪魔たらしめる最大の要因であり、ナベリウスが見せた絶対零度の能力も、このDマイクロ波が関係しているという。
 Dマイクロ波は、特定の分子系に何らかの影響を及ぼし、通常では発生し得ない現象を起こすことが確認されている。
「――わたしたち悪魔は、人間から見れば超人とも言えるだけの身体能力を持っているわ。でも身体の組織・構成は、人間とほとんど変わらない。つまり悪魔が高い身体能力を持つのは、Dマイクロ波のおかげってわけ。もっと言えば、悪魔の身体を構成する分子系に、Dマイクロ波が影響を及ぼしているからこそ、ナベリウスちゃんはとっても強いってことよ。分かった?」
「……まあ、理解はした。でも納得は出来そうにないな」
「それでいいのよ。こんなのわたしたちを目の敵にする連中が、勝手に研究しただけの理論に過ぎないんだから」
 ナベリウスが言うには、そのDマイクロ波の秘密とやらを研究して、悪いことに使おうとする人間たちもいるとのこと。
「先も言ったように、悪魔の血液――いえ、体液にはDマイクロ波が含まれている。つまりバアルの精を子宮に直接受けた小百合は、悪魔化するまではいかないけれど、常人を遥かに上回る健康的な身体になったのでしょうね。あと、下手をすれば運動能力もちょっぴり向上してるかも」
 言われてみれば、母さんはドジで抜けているわりには運動神経がよかったよな。俺が小学生のとき、運動会に来てくれた母さんが父兄参加の競技に出場した際、ぶっちぎりで優勝してたし。そのとき、周囲の男どもの母さんを見る目が、なんかいやらしくてムカついたのを覚えてる。
「バアルはね、小百合のことを本当に愛してたわ。というより人間のことを愛してたのかな。最強の悪魔だったくせに、とてもそうは見えなかった。バアルと互角に渡り合えたのは、二千年を生きたと言われる吸血鬼の王ぐらいのものよ。実際、二度ほど殺し合って決着はつかなったしね」
「さっきからツッコミを我慢してたけど、この世には吸血鬼もいるのかよ……。しかも二千年を生きたとか、そいつ一人で歴史を積み重ねすぎだろ」
「そうね。きっと、今の夕貴と同じことを他の誰かも言ってるでしょう。それぐらいかの吸血鬼は有名だからね。
 それに殺し合ったとは言っても、二度目の戦闘のあとはすっかり意気投合しちゃって、お酒を酌み交わしたりもしてたなぁ。だから、わたしも仲良くなっちゃった」
「いや、そんな軽く言われても……」
 すげえリアクションに困るんだけど。
「そういえば最近……と言っても一年ほど前だけど、東南アジアで、その吸血鬼の娘さんと会ってね。日本に行きたいけど飛行機には乗れないって言ってたから、密輸船に乗り込むのが一番手っ取り早くてお金がかからないよ、って教えてあげちゃった」
「――犯罪を推奨すんなやっ!」
 やっぱり悪魔じゃねえか、こいつ!
「まあ大丈夫でしょ。彼女も吸血鬼だし、そう簡単にヘマしたりはしないんじゃないかな。あのときはわたしも急いでたし、きちんと教える時間もなかったから。
 それに東南アジアとか欧州あたりでは、よく他人と間違えられて襲われるから嫌なのよね。ほら、わたしの髪って銀髪でしょ? 欧州(あっち)には銀髪で有名な超強い吸血鬼もいるの。だから、ゆっくりと来日の仕方を教えていたら、その間に襲撃される恐れもあったから、ナベリウスちゃんは手早く密輸船を薦めたのでした。まる」
「…………」
 なんだかナベリウスがアホに見えてきた。
 顔も名前も知らないけど、その密輸船を薦められたという吸血鬼さんには幸があることを祈っておこう。
「話が逸れちゃったけど――バアルは悪魔の中でも別格の能力を誇っていたわ。
 でも封印から解き放たれた悪魔たちは、それぞれの勢力に分かれて殺し合いを始めたからね。いわゆる闇の権力争いってやつかな? とにかく、それが嫌でバアルは野に下った。もちろん各勢力は、バアルを必死に探していたみたいだけど」
 と。
「――だからこそ、わたしは夕貴の元に来たの。だって夕貴の身体には、半分とは言え最強の悪魔の血が流れているんだから。誰に狙われないとも限らないでしょう?」
「狙われるって……そんなの今までなかったぞ」
「今までなかったからと言っても、これから無いとは限らないでしょ? 大丈夫よ、わたしが夕貴を護ってあげるから。それに――」
 一瞬だけ悲しそうに目を伏せたあと、ナベリウスは首を振って、言った。
「バアルは、夕貴が生まれることを心から楽しみにしてた。自分に何かあれば、この子を護ってやってくれ、とわたしに約束させたの」
「……そっか」
 父さんの顔なんて見たことがなかったし、俺と母さんを置いて一人で逝った父を恨んだことさえある。
 でも、どうしてだろう。
 会ったことも、話したこともないのに。
 どうして――こんなにも嬉しいんだろう。
「でもね、バアルの血を引いていることの悪影響は、すでに出ちゃってるのよね」
「悪影響? ……それって、まさか」
「ご明察。低級悪魔であるオドに魅入られた櫻井彩が、夕貴を理由もなく殺そうとした原因はそれよ。まあ理由がないのは表向きだけで、実はあったんだけどね」
 低級悪魔であるオドは、より上位の悪魔を盲目的に欲するという。共食いでもして力を高めようというのだろうか。
 序列第一位の大悪魔であるバアル――その血を引く俺は、オドにとっては最高の餌に見えるらしい。
「本来、悪魔は極東に位置する日本よりも、欧州とかのほうが分布的には多いんだけどね。それだけ彩ちゃんが心に負った傷は、オドにとって美味しそうに見えたのかな」
「……彩、か」
 あの夜――奇跡的に彩は助かった。
 絶対に助からない、と予想していたナベリウスは心底驚いていたようだったが「まあ夕貴だし、アリかな」と意味の分からないことを言って、一人で納得していた。
 彩を助けたいと願って彼女を抱きしめたとき、聞こえてきた耳鳴りは一体なんだったのだろうか。
 ……いや、それよりも他に考えることがある。
 櫻井彩は、命を拾った代償として――ここ一ヶ月ほどの記憶を失ってしまった。つまり大学に入学してからの人間関係がリセットされたということだ。勉学のほうは、まあ学校は始まったばかりなのだから、まだ追いつけるレベルだろうが。
 彩は、人を殺したことも、俺と出会ったことも、ナベリウスと殺し合ったことも、夕貴くんが好きだと言ってくれたことも――そのすべてを忘れていた。
 でも、それでいいと思った。
 あんな辛い出来事なんて、忘れ去ったほうがいいのだ。絶対に。
 彩は人を殺したが――それも俺が黙っていれば、事実は誰にも知られることなく、彩は幸せな生活に戻れる。
 ここで問題があるとすれば、それは――殺された人々の死を、俺が背負えるかということだ。
 たかが一介の大学生に過ぎない俺にとって、それは荷が勝ちすぎているとは思う。
 正直、耐えられる自信は――ない。
「……ねえ夕貴。無理しなくてもいいのよ?」
 と。
「あなた一人ですべてを背負う必要は――」
「――あるよ」
 こればかりは譲れない一線だ。
 世界のことを考えるなら、人間社会のことを考えるなら、殺人事件に怯える街の人たちのことを考えるなら――彩が人を殺したという事実を警察に教えるべきだろう。
 いくらオドとかいう低級悪魔に操られていたとは言え、それは科学的に証明できることじゃないので酌量の余地には入らない。
 だから彩は、俺やナベリウスから見れば無罪でも、人間社会という一つの集団から見れば限りなく有罪なんだ。
 でも。
 それでも。
 彩は言ったんだ。
 お母さんが大好きだって、そう言ったんだ。
「――ナベリウス。俺はさ、男らしいんだよ」
「そんなの今は関係ないでしょう?」
「いや、関係あるね」
 当たり前だろう。
 こんなの考えるまでもない。
「――男らしいやつは、可愛い女の子の秘密をチクったりしねえんだよ」
 そうだ。
 例え、櫻井彩が萩原夕貴のことを忘れてしまったとしても。
 何かの拍子に、彩が殺人事件のことを思い出してはいけないから、もう俺と彩は極力近づかないほうがいいのだとしても。
 それでも俺は――彩の秘密を背負う。
 悪魔のことも、ナベリウスのことも、俺のことも、果てには殺された人のことも関係ない。
 ただ、お母さんが大好きだ、と彩が笑ったという事実があれば十分。
 それだけで俺は頑張れる。
 彩の家庭問題も気になるところではあるが――それはさすがに俺の管轄外だろう。あとは彩自身がどうにかする、と信じるしかない。
 とにかく、これで全ては終わったのだ。
 いちおうの結末を迎えたのだ。
 決してハッピーエンドとは言えないが――それでもバッドエンドじゃなかったから、俺は良しとしようと思うのだ。
 ……ああ、そうそう。
「母さんに電話してみようかな」
 なぜか無性に、母さんの声が聞きたくなってしまった。
 もう大好きな母親と会うことのできない女の子も、この世には確実にいるのだ。だから『母親と会えるのは当たり前』という概念は捨てるべきだ。失って初めて大切なものに気付くのだけは嫌だから。
 願わくば――この世にいるすべての『子供』が、『お母さん』と仲良くいられるようにと祈りたい。
 それから俺は、実家にいる母さんに電話をかけた。
 もしもし、というお決まりの文句のあとに続けたのは、『長生きしてくれよ』と『俺は大丈夫だから』という二つの言葉。
 ……実は、もう一つだけ続けた言葉がある。
 それは。


「えっと――母さん、俺が悪魔の息子って本当なの?」



[29805] エピローグ:消えない想い
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/24 21:22
 その日の夕方。
 まだ就寝には幾分か早かったが、俺は自室のベッドに潜り込んでいた。布団を頭まで被って、身体を丸めて、まるで現実から目を背けるように。
 ナベリウスには啖呵を切ったものの――やっぱり俺にとって、人間の死を背負うというのは重過ぎるみたいだ。
 殺された人たちには家族がいたし、人生があったし、守りたいものもあったはずだ。
 そのすべてを俺の都合によって無視するのだから、これが重くないはずがない。
 ふと気を抜けば、手足がガタガタと震える。
 歯の根が合わずカチカチという音がして、瞳からは涙が溢れそうになる。
 そんな情けない姿をナベリウスに見られたくなくて、俺は一人でベッドにいるわけだった。
 あれから――ナベリウスからは様々な話を聞いた。悪魔のこと、ハウリングと呼ばれる異能のこと、悪魔を退治する組織や機関のことなど。もちろん目から鱗のような話ばっかりだったけど、あの夜のナベリウスを見たからには、信じないわけにもいかなかった。
 ……俺は、悪魔の血を引いているという。
 これが笑ってしまうような話で、今は人間側にいる萩原夕貴は、何かの拍子に悪魔として覚醒することもあるらしい。
 とは言ったものの、悪魔として目覚めても俺という人間の本質は変わらない。ただ身体能力が向上して、不可思議な異能を発現するだけらしい。まあ、それだけでも大きな変化と言えるが。
 まったくもって信じられない話だ。
 実を言うと、あまり実感はないし、完全に信じているわけでもない。
 ナベリウスが悪魔だということは理解したが、だからといって、俺が悪魔の血を引いているという事実だけは半信半疑だった。
 今まで人間として生きてきて、これからも人間として生きていくつもりだし、それが当たり前だと思っている。
 だというのに、いきなり俺の父親が悪魔だったと聞かされても、容易に信じることはできない。もちろん疑ってるわけじゃないけれど、あと一歩のところで信じ切れずにいる。
 理解はできるけど、納得はできない……というやつだろう。
 それに。
 悪魔の血を引くというわりには、俺はずいぶんと弱い存在のようだ。
 殺人事件を犯して逃亡するような犯人は、実は尊敬に値する人間じゃないかとさえ思う。
 人の死を背負うと意識しただけの俺が、もう限界ギリギリなんだ。
 実際にその手で殺人を犯した人間にかかる良心の呵責は、想像も出来ないほど大きいはずだ。
 人を殺したという事実を隠したまま逃亡する――というのは、今の俺からすれば偉業にしか見えない。
 ……さっき電話で母さんの声を聞いたはずなのに、それで頑張ろうって思ったはずなのに、身体の震えがどうしても止まらない。
 寒い。
 ひたすらに寒くて、暗くて――孤独だ。
 誰か助けてほしい。
 そんなことを願っては駄目だし、この暗闇から俺を救い出してくれるような人はいないのだけど、それでも誰かに助けを求めてしまう。
 俺は弱い人間だ。
 男らしいとか言ってるけど、実際は女々しくて頼りない男なんだ。
 女の子の秘密を守る、とか大見得切ったくせに、それから一日も経たないうちに限界を迎えそうになっている。
 ……ああ、やっぱり無理だったのかな。
 俺には彩を、お母さんを大事にする女の子を、守ってあげることが出来ないのかな。
 このまま一人で震え続ける日々が続くと思うと、もう俺は――

「夕貴」

 きぃ、という蝶番の軋む音。誰かが扉を開けたのだろう。
「……ナベリウスか」
 ベッドに潜ったまま、頭を布団の中に隠したまま、俺は彼女に呼びかける。なるべく冷たい声で、なるべく大丈夫そうな声で、なるべく睡眠を邪魔されて機嫌を悪くしたような声で。
「悪いけど、俺は疲れてるんだ。このまま寝るから、一人にしてくれ。だから晩飯もいらない」
 返答はなかった。
 ただ、ぺたぺた、とフローリングの床を裸足で歩くような音がするだけ。
「……夕貴」
 慈しむような声がしたと思った瞬間。
 ナベリウスは滑り込むがごとき自然さで、ベッドの中に進入してきた。
 自慢じゃないけど――俺は泣いてしまっている。ガキみたいに泣いてしまっているんだ。きっと俺の頬は真っ赤だろうし、目は腫れてるだろうし、もしかしたら鼻水も垂れてるかもしれない。そんな顔、他人には見せたくない。
 拒絶しようと思った。
 一人でゆっくりと寝たいから、おまえは邪魔だと――そう理由付けて、ナベリウスを追い出そうと思った。
 でも。
「夕貴」
 薄暗くて、汗ばむほど熱の篭った布団の中――ナベリウスが俺の名を呼んだ。
 なんだと思って振り返る。
「――っ!?」
 そのときの俺の衝撃を、どう例えたらいいだろうか。
 なにか温かいものに抱きしめられたかと思うと、間近にはナベリウスの顔があって、唇には柔らかいものが触れていた。
 それは、キスだった。
「――んっ、あ――っ」
 艶かしい吐息と共に、舌が跳ねる。
 俺の唇を割るようにして、口腔内にナベリウスの舌が入ってくる。歯茎や歯列をいやらしくなぞっていく彼女の舌には、とろりとした唾液がたっぷりと乗っていて、それはシロップのように甘かった。
 キスされたことによって反論は出来なかったし。
 抱擁されたことによって、抵抗も出来なかった。
 驚きに目を見開く俺と、ほんのりと頬を赤く染めて物憂げに瞳を閉じているナベリウス。
 布団の中――という、ある種の密閉空間には シャンプーとリンスと汗の匂いと、そしてナベリウス自身の体臭を混ぜたかのような甘い匂いが充満していた。
 互いの舌で唾液を交換すると、くちゅくちゅ、と扇情的な音がする。それが限りなく官能を高めていった。
「……ナベリ……ウス」
 それからしばらくして、ナベリウスはゆっくりと顔を離した。
「どう? 落ち着いたでしょう?」
「おまえ……どういうつもりだ」
 その問いかけに返事はなかった。
 ただ。
「――夕貴一人で背負う必要はないのよ」
 母親のように、姉のように、恋人のように――諭されるだけ。
 俺の髪を優しく撫でたナベリウスは、はにかんだように笑ったあと、言った。
「わたしも一緒に背負うから」
 その一言を聞いた瞬間――瞳からは涙が溢れた。
 ――夕貴の面倒を見るのはわたしなんだから。
 ――わたしが夕貴を守ってあげるから。
 ふと、そんなナベリウスの言葉を脳裏で反芻した。
 嗚咽が漏れそうになって、お礼の言葉が口をつきそうになる。
 しかし、それの受け取りを拒否するかのように、ナベリウスは俺の唇に吸い付いた。
 ただのキスじゃなくて――どこまでも官能的なディープキス。
 唇と唇を合わせるだけじゃなくて、舌と舌を絡めて、唾液を啜りあって、相手の口腔内を犯すかのような――ディープキスだった。
 これはきっと、性交ほど密には繋がらないけれど、性交よりも遥かに気持ちがいい。
 人肌の体温に触れているだけで、あれだけ不安だった心が安らいでいく。
 きっと、ナベリウスは知っていたんだろう。
 孤独がもたらす”寒さ”を打ち消すには、誰かと触れ合うことが一番の近道だって。
 肉体的というよりも、精神的に満たされていく感覚。
 母親の胎内でたゆたう子供になったような錯覚。
 自分を受け止めてくれる人がいる、という事実。
 自分を守ってくれる人がいる、という真実。
 情けないことだけど、女々しいことかもしれないけど――俺という男は、ナベリウスという女にだけは頭が上がらないみたいだ。
 ありがとう、と口にすることはしない。
 だって、ありがとう、と口にする必要はないんだ。
 そんな他人行儀な台詞を交わすほど、俺たちの距離は離れていない。
 ――もしかすると、これも俺の中に流れるという悪魔の血の影響なのかもしれない。
 ナベリウスを初めて見たときから、妙な既視感があって、不思議と懐旧の情をかきたてられることも少なくなかった。
 どうして俺は、ナベリウスを追い出さなかった?
 どうして俺は、あっさりとナベリウスを受け入れた?
 ……やっぱり俺も、本当のところでは悪魔なのかもしれない。
 第一、悪魔ってやつは怖くて不気味で悪いやつのことを指すだろう。
 にも関わらず――ナベリウスのことを女神のように美しいと認識している時点で、俺はおかしくなっているに違いないのだ。
 ――それから俺たちは。
 日がすっかりと沈んで、あたりの民家から明かりが消えるまでの間、ずっとベッドの中で寄り添っていた。



**** 



「彩ー? 次の講義に遅れるよー?」
 遠くのほうで友人が手を振っている。
 あと五分ほどで二限目が始まるからか、無数の学生たちが大学のキャンパス内を慌しく右往左往している。
 その慌しく右往左往するうちの一人が、櫻井彩だった。
 ――彩は、大学に入ってからの数週間程度の記憶を失くしていた。とある朝、ベッドの上で目覚めると、大学の入学式以降のことが思い出せないことに気付いたのだ。
 もちろんパニックに陥った彩だが――高校のころから親しくしている親友に相談することで事なきを得た。
 記憶がない、というのは何とも胡散臭いような気がして、親友にも言えなかった。
 ただ幸いにも、もともと彩は抜けているところがあって、小さな物忘れの類も少なくなかった。だから改まって親友に『櫻井彩が大学に入学してから今まで起こった出来事』を聞いても、特に不思議には思われなかった。むしろ「やっぱり彩って要領が悪いよね」とからかわれたぐらいだ。
 人見知りの気がある彩は、どうやら大学で新たな友人を増やすことはあまりしていなかったらしく、人間関係という面では記憶を失っていても大丈夫そうだった。
 ただし勉学のほうは頂けない。ただでさえ勉強が苦手な彩である。およそ数週間程度の講義内容だとしても、それを忘れてしまったことが、彩にとってハンデになるのは想像に難くない。
 普通ならば、記憶を失った人間は頭の心配でもして病院に駆け込むところだろうが、彩は違った。
 むしろ彩が感じていたのは、生まれ変わったように清々しい気分。
 なにか不浄なるモノが抜け落ちたかのように身体が軽く、頭がスッキリしていた。だからこそ病院にも行かなかったし、パニックに陥ったものの、それほど心配はしなかった。
 ……それに。
 彩の兄が、とある夜に彩の部屋を訪れて謝罪したのだ。泣きながら土下座した彼は、これまでの行為を心から反省していた。だから都合のいいことかもしれないが、いつかと同じように仲のいい兄妹に戻りたいと。
 もちろん――許した。
 だって彩は気付いていたからだ。兄が彩のことを愛しているという事実に。ただの情欲ではなく、心の底に届かない想いがあったからこそ、兄は彩に乱暴した。
 それを完全に許せるわけじゃないが、もう過ぎ去ったことをいつまでも持ち出すのは愚の骨頂だ。元はと言えば、兄の想いを理解していたのに、男性を誘惑するような薄着の格好で、兄に勉強を教えてもらっていた彩も悪い。
 紆余曲折はあったものの、彩は円満な家族を取り戻した。兄と一緒に、大好きだったお母さんの墓参りにも行った。
 母の墓前でも土下座して「彩を、お母さんの大事な娘を傷つけて、本当にすいませんでした」と泣き出した兄には、さすがの彩も対処に困ったものだが――
「うん、いま行くからー!」
 友人に手を振るものの、足の遅い彩は中々追いつくことができない。
 それに痺れを切らしたのか、
「もう先に行って席を取ってるからねー! 早く来なさいよー!」
 友人は苦笑したあと、次の教室に一足先に向かってしまった。
 冷たいなぁ、と思わないでもないが、まあ本質的なところでは彩が悪いのだし、文句を言うのは筋違いだろう。
 それに最悪、履修人数が多い科目では席が確保できず、教室の後ろのほうで立って講義を受けなくてはいけないこともある。大学は学生の自主性に任されているので、講義をサボる人間が多い。だから稀に、ほとんどの学生が真面目に講義を受けに来た場合、人数があぶれるという事態が発生するのだ。
 そういう意味では、席を確保するというのは大事だ。友人には感謝せねばなるまい。
 さて。
 それじゃあ私も急がないと――そう彩が思考したときのこと。
 前方から一人の男の子が歩いてきた。
「ぁ――――」
 ――ドクン、と心臓が跳ねる。
 女の子のように綺麗な顔立ちをした彼は、
 ――暴れる鼓動が痛い。
 周囲の視線を集めながらも、
 ――身体が熱くなる。
 どこか涼しげな眼をしたまま、
 ――視界が霞んでいく。
 ゆっくりとした足取りで、彩に近づいてくる。
 やや長めの黒髪と、透き通るような色白の肌。身長は170センチメートルほどで、体格は細めだろう。その少年は、パッチリとした二重瞼を退屈そうに細めており、気だるそうにポケットへ手を突っ込んで、わざとらしいぐらい男らしく振舞っている。
 おかしい。
 あの男の子と会うのは初めてのはずなのに、どうしてこんなにも心が痛むのか。
 張り裂けそうな胸の痛みは、どこか恋に似ている。
 ――ふと、目が合った。
 胸の前で両手を握って、震える身体を必死に抑えながらも、瞳を潤ませる彩と。
 足を止めて、驚きに目を見開いている少年と。
 なにか言わなければいけない。
 このまま離れ離れになりたくない。
 もしかすると、これが運命の出会いというやつなのかもしれない――そんなメルヘンチックなことさえ彩は考えた。
 さらに言うなら――これが一目惚れというやつなのかもしれなかった。
 本当に。
 ただ本当に。
 一瞬、一目見ただけなのに何かを確信した。
 私は、この人のことを――
「……あ、あのっ!」
 勇気を出して、ようやく紡いだ言葉は、しかし半ば裏返り気味のものだった。
 恥ずかしさのあまり、かあ、と顔を赤くした彩は、いたたまれなくて顔を俯けた。
 ――その視界の隅に、少年の足が見えた。
 彩が慌てて顔を上げたころには、目の前に少年の姿はなかった。振り返って見れば、案の定そこには少年の背中がある。
 彩にとっては運命的な出会いに思えたのだが、少年にとってはそうでもなかったらしい。
 その証拠に――あの男の子は彩になにも言わず、ただ黙って立ち去った。
 果てしない悲哀が胸に去来する。
 でも、これも仕方ないと思うのだ。
 ただでさえ人見知りの気があり、女の子にさえ自分から声をかけることができない彩だ。にも関わらず、見知らぬ男の子に喋りかけようとするなど土台無理な話だったのだろう。
 名残惜しいとは思うものの、これも運命だ。
 あの男の子のことは忘れて、自分は友人の待つ教室へと――
「――――あっ」
 そのときだった。
 本当に、そのときだった。
 もしかしたら彩の気のせいかもしれない。
 いや、きっと彩の勘違いであり、自惚れでもあるだろう。
 だって彩は、あの少年のことを知らない。
 つまりあの少年も、彩のことは知らないはずなのだ。
 まったくの他人。
 なんの繋がりもない関係。
 だから――
「――あっ、あぁ……!」
 あの少年が背中を向けたまま、右手を上げて手を振ったとしても――それは彩に向けたものでは、決してないはずなのだ。
 瞳からは涙が溢れて、どうしようもなく身体が熱くなった。
 本当に意味が分からない。
 ――どうして私は、あの男の子が気になって仕方ないんだろう?
 ――どうして私は、こんなにも泣いてしまっているんだろう?
 考えても答えは出ない。
 ただ彩は、涙が止まらなかっただけ。
「……ゆう、き……くん……!」
 嗚咽に混じって、自分の口から見知らぬ人の名前が出る。
 根拠はないけれど――彩には、その名前が、あの少年のものだと思えて仕方なかった。
 ――あの少年は。
 本当に、どうしてだろう。
 ――とっても優しくて。
 いくら考えても答えは出ない。
 ――とっても綺麗な顔立ちをして。
 見知らぬ他人とすれ違っただけのはずなのに。
 ――とっても強くて。
 私は、あの男の子のことを知らないはずなのに。
 ――そして。

 ――とっても、お母さん想いの――

 分からない。
 ちっとも分からない。
 もしかすると、彩の抜け落ちた記憶と、あの少年は関係があるのだろうか。
 いや、さすがにそれは穿ちすぎだろう。だって、もしもあの少年が彩と関係があるのなら、さきほど声をかけてくれたはずなのだから。
 竜巻にも似た感情の渦が、胸のうちで暴れまわる。
 愛しさや悲しさが入り混じって、それは彩の心に深く根付いた。しかし不思議と痛いとか辛いとは思わず、ただただ儚くて煩わしいだけだった。
 やがて講義開始を告げるチャイムが鳴り、閑散としたキャンパス内に彩は一人でぽつんと立っていた。
 涙は止まらず、愛用しているピンク色のハンカチは斑模様に染まっている。
 友人に怒られるかもしれない、とは思ったものの、どうしても講義には出る気になれなかった。
 彩は一人、静かになったキャンパス内で、どうすればこの涙が止まるのかと考えることにした。


 [零の章【消えない想い】 完]




[29805] 1-1 高臥の少女
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/26 21:54
壱の章【信じる者の幸福】



 四月も終わりに近づき、街中に咲き誇っている桜も陰りを見せ始めた、今日この頃。
 俺は自室で、誰にも邪魔されることなく趣味の時間を満喫していた。いわゆる至福の一時というやつである。
 本来ならば、色仕掛けを初めとした妨害工作に乗り出す第一人者の自称悪魔――じゃなくて、正真正銘の悪魔ことナベリウスは、ここ最近はそうでもなかった。
 日差しが温かくなってきたからか、あいつはリビングのソファとかで丸くなって「あと二時間だけぇ」とか言って、なんと昼寝にハマっているのである。
 まあ、俺にとっては好都合だ。
 今日は日曜日なのだ。休日なのだ。自由な時間がたっぷりなのだ。
 だからナベリウスの相手をしているうちに夜になっていた――という悲しい事態だけは避けたい。
 そんなこんなで俺は、自室のベッドに寝転びながら一つの写真集に目を通しているわけだった。
 これまで女優やアイドルに興味がなかった俺が、唯一応援している女優さんがいる。
 それこそが――高臥菖蒲(こうがあやめ)という少女。
 もうなんていうか、菖蒲ちゃんは凄いのである。人間の言語では表現し切れないぐらいの魅力が、彼女にはあるのだ。
 ルックスは抜群で、清楚な美少女という言葉がよく似合う。
 また、十六才という若さで映画初主演を努めた演技力も脱帽だ。
 それに加えて、グラビアアイドルも顔負けのプロポーションを誇り、その胸の大きさと来たらもう。
 清純なイメージを損なわないためか、菖蒲ちゃんは水着姿をメディアには露出しない。つい最近、発売されたファースト写真集でも、主にゆったりとした服を着て、身体のラインが浮かび上がらないようにしている。
 しかし人間、隠されたら余計に見たくなるらしく、ネット上では隠れ巨乳として菖蒲ちゃんの胸が強調されているような写真が捜索されているのだ。
 まったくもって度し難い。
 一ファンである俺としては、菖蒲ちゃんのルックスしか見ないような人は嫌いだ。
 まあ、応援するかたちは人それぞれなので、俺がとやかく文句を言う筋合いはないんだけど。
 ――そのとき。
 俺が菖蒲ちゃんの写真集を見て癒されていた、そのときであった。
 ぴんぽーん、と萩原邸のチャイムが鳴る。よく聞くと全然”ぴんぽーん”とは聞こえない気もするが、そこに突っ込むのは無粋というものだろう。
「……チっ、誰だよ。俺の至福の一時を邪魔するやつは」
 思わず本気でイラっときた。
 どうせナベリウスはソファで昼寝しているのだろうし――俺が応対するしかないか。
 菖蒲ちゃんの写真集をベッドに広げたまま、俺は玄関に向かった。




「こんにちは。まずは一つお伺いしたいのですが、ここは萩原夕貴様のお宅でよろしいのですよね?」
 玄関を開け放つと同時、そんな声がした。
 しかし俺は、言葉を失ってアホみたいに立ち尽くすことしか出来なかった。
 そう。
 真実、言葉を失ってしまった。
 一瞬ではあるが、萩原夕貴という人間のパーソナルデータすら脳内からデリートしそうになったほどだ。
 例えるならば、それは家の外に出ると世界が滅亡していた――というレベルの衝撃を十乗ほどアップさせた、正にビッグバンとも言うべき衝撃だった。
「……え、あ」
 やはり言語を瞬間的に忘れてしまったようで、色々と言いたいことがあるはずなのに、俺の口から漏れ出るのは”言葉”というよりは”音”でしかなかった。
 ぶるぶると震える指で、俺は彼女を指差す。
 そして、言った。
「――あ、あ、あ、ああ、あ、あ……菖蒲、ちゃん?」
 どうにか言葉を紡げたみたいだ。
 すべてを忘れようと、高臥菖蒲という少女のことだけは忘れないのである。えっへん。
「もしかして、わたしのことをご存知なのですか!?」
 お祈りするときのように両手を組んで、瞳を輝かせながら菖蒲ちゃんは言った。
 ――その姿は、どこからどう見ても、俺の知る『高臥菖蒲』その人だった。
 やや色素の抜けた淡い鳶色(とびいろ)の髪は、ふわふわとした巻き毛にされている。陶磁器のように滑らかな肌は、世界中で認知されている”白”という色が絶対的な偽者であると断言できそうなほどに、異彩を放つ色白だった。
 ぱっちりとした二重瞼は、まるで女性の理想が”瞳”というパーツとして具現化したかのよう。その神から授かったと言っても過言ではない瞳を、菖蒲ちゃんは眠そうにちょっとだけ閉じていて、それがまたアンバランスを生み、一種独特の雰囲気を醸し出している。
 すっきり通った鼻筋は、世界中の数学者が数十日にも及ぶ研究と会議の末に、絶対無二の角度を発見して採用させた――と言わんばかりに絶妙。
 紅くて小さな唇は、それでいてふっくらとしている。一見して口紅の類を使っているようには見えないのに、それでも温かな血の通った唇は、彼女自身の美貌を際立てるのに一役買っていた。
 身長は、公表で162センチメートルのはずなのだが、高臥菖蒲という少女が放つオーラのようなものが、彼女を実際の寸法よりも大きく見せていた。常人とは比ぶべくもないほどの圧倒的な存在感だ。
 座高を測る役目を喜んで引き受けてみたいほどに長い足は、漆黒のタイツに包まれており、その上はスカートの中に、下はローファーに繋がっている。くびれた腰は、衣服を着ているのにも関わらず、彼女が身じろぎするたびに強調されてしまい、その細さが手に取るように分かる。
 特筆すべきは、やはり胸だろう。服の胸元を大きく押し上げる膨らみは、収穫時の果実を二つ詰め込んでも、ああは行くまい。見たかぎり、彼女は少し大きめのサイズの服を着ているようなのだが、それでも胸が窮屈そうだった。まさに封印されている、と言っても過言じゃないだろう。
 豊満という言葉が裸足で逃げ出すような、もしくは辞典の”豊満”という単語の記述に『高臥菖蒲のこと』と書き足されるかのごとく、彼女のスタイルは飛びぬけていた。
 しかも、である。
 男を悩殺するようなスーパーボディをしまっているのは、なんと制服――否、黒を基調としたセーラー服であるというのだから恐ろしい。まさに鬼に金棒、プロ野球選手に金属バットとはこのことであろう。
 まだ高校一年生ということもあって、ほとんど完成している彼女の美貌は、しかし”あどけなさ”というハンデを背負っている。が、それすらも愛らしい魅力に変えてしまう高臥菖蒲は、まさに天性のスターと言えよう。
 人を惹きつける容姿――その顔立ちはやや幼さを残しているけれど、セーラー服の下に眠る抜群のプロポーションが一種のアンバランスを生み出して、食塩が甘みを引き立てるかのごとく、互いが互いの魅力を引き上げ合っている。これこそミックスアップ。男なら誰だってノックアウトである。
 ふわふわの巻き毛にされた、淡い鳶色の髪。
 どこか眠そうにちょっとだけ閉じている、二重瞼の瞳。
 清楚な雰囲気とは裏腹の、蟲惑的な身体。
 女性の人生において三年だけしか着用を許されない、高校の制服。
 ――それらを複合させた女性こそが、俺の目の前で穏やかな笑みを浮かべる、高臥菖蒲という少女であった。
 なるほど。
 やっぱり菖蒲ちゃんは、俺が思っていたとおりの女の子だったんだ。
 いやぁ、よかったよかった。
 理想が崩れることなく、むしろ現実という重みがプラスされて、より一層のファンになっちゃった。
 うんうん、やっぱり高臥菖蒲は最高だなぁ。
 同じ時代に生まれてよかったなぁ。
 さーて、じゃあそろそろ家の中に戻ろうかなぁ。
 ……ん? あれ? えっ?

「ええええぇぇぇぇぇっ――――!? 
 ま、まさかっ、モノホンの菖蒲ちゃん――――!?」

 やばい!
 あまりに驚きすぎて、”本物”という言葉を噛んじまった!
 落ち着け、とにかく落ち着くんだ萩原夕貴。おまえは出来る子だ。これまでだって幾多の苦難を乗り越えてきたじゃないか。だから成せば成る、あのナベリウスとかいう悪魔の出現にだって、なんとか対処して見せただろう。
 ――って、ダメだぁぁぁぁっ!
 どうやっても落ち着ける気がしねえ!
 さっきから心臓がアホみたいに暴れてるせいで、身体がびっくりするぐらい熱いし!
 なんだ!?
 これは一体なんなんだ!?
 菖蒲ちゃんはあれだぞ、日本中の男どもの憧れなんだぞ!?
 今時、男のあいだでは菖蒲ちゃんの名前が出ただけで異常なほど盛り上がって、指笛とか鳴るぐらいなんだぞ!?
 知らない男と初めて喋るときは「高臥菖蒲って可愛いよな」と言うだけで話題の種になって、挙句の果てには友達にまでなれるぐらいなんだぞ!?
 その高臥菖蒲が、なんで俺の家を当たり前のように訪ねて来てんだ!?
 ……いや、待てよ?
 もしかして、これってマジでテレビ局のドッキリじゃねえのか?
 ナベリウスのときとは違って、菖蒲ちゃんはモノホンの――いや違った、本物の女優さんなわけだし。
 そっか。
 そうだったのか。
 これはテレビ番組が仕掛けた罠だったんだ。
 なーんだ、分かってしまえば簡単じゃないか。
 危ない危ない、もう少しで、あの飛ぶ鳥を落とす勢いの女優こと高臥菖蒲さんが、俺を訪ねてきたのだと勘違いするところだった。 

「夕貴様。菖蒲は、貴方様に会いとうございました」

 テレビのスピーカーから聞くのとはまた違った、人の心を落ち着かせる清涼感のある声。うっわ、声が綺麗すぎて逆に鳥肌が立った。ちゃんと昨日の夜に耳掃除しててよかったよかった。
 菖蒲ちゃんは、丁重に頭を下げて、うやうやしく礼をした。
 きっと子供のころから厳しい教育を受けてきたのだろう。視線や瞼の開閉、呼吸の間隔、手や足を動かす速度や角度、果てには指先の動き一つを取ってみても、それは完璧だった。
 菖蒲ちゃんがその身に纏う気品やオーラは、生まれ持った美貌だけじゃなくて、細かな仕草からも形成されているのだ。
 ――いやっ、なに冷静に分析してんだよ俺は!?
 今のなに!?
 夕貴様って、もしかしなくても俺のこと!?
 しかも聞き間違いじゃなけりゃ、俺に会いたかった的なニュアンスの発言だったぞ!?
 ぶっちゃけた話、生の菖蒲ちゃんを一目見ることが俺の夢だったんだぞ!?
 でも握手会とかサイン会に行くのは気恥ずかしくて、そんな情けない自分に悶々とする日々を過ごしてたんだぞ!?
 それがいきなり、会いとうございました、と言われるとか……。
 もはやテレビ局のドッキリを恨むどころか、むしろお目通り叶えてグッジョブ! と礼を言いたいぐらいだ。
 まあでも、そろそろ種明かしの時間だろうな。
 今のうちに菖蒲ちゃんの姿を、この目に焼き付けておこう。

「あの、そんなに見つめられると照れてしまいます。旦那様」

 透き通るような色白の頬を、薄っすらと赤く染めて、菖蒲ちゃんは俯いてしまった。
 ぐおおおおっ、可愛いすぎるっ!
 どんだけ俺の心臓に労働を課すんだよ! そろそろ心臓麻痺とか起こっちゃうだろうが!
 つーか、ちょっと待て。
 ……旦那様って、なに?

「夕貴様? どうかなさいましたか?」

 頬を染めたまま、菖蒲ちゃんは下から覗き込むようにして顔を近づけてきた。不安そうに揺れる瞳は、図らずも上目遣いだった。
 駄目だ、本当に気を失っちゃいそうだ。
 きっと俺の顔は、熟れた林檎もびっくりするぐらい真っ赤に違いない。
 気持ちを落ち着けようと深呼吸する――が、それは菖蒲ちゃんを前にしているからか、むしろいやらしい感じの吐息になってしまった。
「……お顔が赤いようですけれど、まさか夕貴様は体調を崩されているのですか?」
 接近してくる。
 ふわり、と風に乗るようにして爽やかな柑橘系の香りがした。きっと、これは菖蒲ちゃんのものだろう。
 ――そうやって俺が冷静に考察していると、額に柔らかい何かが当てられた。ちょっとだけ冷たくて、それでいて心地いい感触だった。
 菖蒲ちゃんの、手だった。
 菖蒲ちゃんの手が、俺の額に添えられていた。
「――あ、な、にを」
「お静かに。夕貴様と添い遂げる者として、これぐらい当然の気遣いですよ」
 ちょっとだけ眠そうにしている瞳を、さらに和らげる。
 顔と顔の距離は――きっと五センチもない。
「……やっぱり熱があるみたいですね。どんどん熱くなっています。それに肌も汗ばんでいるようですし」
「いや、その……あ、菖蒲ちゃんが離れてくれれば、きっと熱も下がると思うんだけど」
 言えた。
 初めて、まともに喋ることができた。
 一人の男して――おどおどしてるだけじゃ格好がつかないもんな。
「そうですか?」
 どこか嬉しそうに笑った菖蒲ちゃんは、両手を後ろで組んだ。
「でも、ご無理はなさらないでくださいね? 夕貴様に何かあれば、きっとわたしは泣いちゃいます。いえ、わたしも倒れちゃうかも……です」
 俺から視線を逸らして、はにかむ菖蒲ちゃん。
 いや、ちょっと待ってくれ。
 ……ありえないぐらい可愛いんだけどマジで。
 念願だった菖蒲ちゃんとの対面――しかしながら、純粋に喜ぶことが出来ないのも確かである。
 だって、あまりにも謎が多すぎる。
 日本中の男の憧れである高臥菖蒲が、なぜ俺みたいな一大学生の家に訪ねてきたんだ?
 夕貴様ってなんだ?
 それより俺のことを知ってたみたいな言い方じゃなかったか?
 挙句の果てには、旦那様とか言われるし……。
 いくら考えても答えは出ない――これほどの難問に出会ったのは初めてだ。
 今の俺ならば、きっとフェルマーの最終定理のほうが簡単だと言えると思う。
 それぐらい俺の元に、菖蒲ちゃんが訪ねてきたのは意味不明にして理解不能なのだ。
「……あの、どうかなさいましたか、夕貴様?」
 じぃーと訝しげに見つめていると、世にも不思議そうな顔をして疑問を投げかけられてしまった。その際に、首をちょっとだけ傾げるところがキュートすぎて俺のハートがデストロイしそうだ。いかん落ち着け俺。
 目を合わせるのが気恥ずかしくて、俺は視線を逸らしてしまった。
 そうして見えたのは、彼女の足元に置かれたボストンバッグ。しかもメチャクチャ大きい。中身が膨らみすぎてる。まるで旅行にでも行こうとしているみたいだ。
 ……菖蒲ちゃん、どこか遠くに行くのか?
 そう思ったのも無理からぬことだろう。
 気になって菖蒲ちゃんに視線を移すも、やはり目を合わすのは無理だった。憧れの女の子と対峙しているだけでも精神が磨耗しているのに、その上さらに見つめ合えだなどと難易度の高すぎる指令である。
 目――つまり顔から少しだけ視線を逸らすのだから、必然的に、俺は菖蒲ちゃんの胸元を一瞥することになった。いや、その制服の上からでも分かる豊満な胸に見蕩れてしまったので、どちらかといえば一瞥ではなく凝視だろうか。
 つまり、それが俺の失態であり、あるいは最高の幸運だったのだ。

「――今のところFカップあります。でも、最近はまた少し胸がキツくなってきましたので、そろそろ下着を新調しなければなりませんね」

 そう言って。
 俺の手を優しく掴んだかと思うと。
 ――なんと驚くべきことに菖蒲ちゃんは、自分の胸に俺の手を誘導したのだった!
「なっ! な、な、なっ――!」
 新手の呼吸法を練習している人みたいになる萩原夕貴くんであった。
 ただでさえ菖蒲ちゃんの手は、男の俺と比べるのもおこがましいぐらい柔らかいのだ。つまり、その制服の胸元部分を大きく押し上げる膨らみの柔らかさと来たら、もう美の女神ヴィーナス様でさえ嫉妬に涙してハンカチを噛むほどだろう。
 掌に伝わってくるのは――セーラー服の布地と、その下にあるブラジャーのカップの感触。
 そして。
 俺の指先が――菖蒲ちゃんの胸を捉えた。
 これでもか、と。
 これでもか――と言外に伝えてくるように、菖蒲ちゃんは自分の手を動かした。それは同時に、俺の手も動かすことになる。まさに操り人形のごとき単調さで、俺の手は、菖蒲ちゃんに操られるがままに胸を揉みしだいた。
 ……なにこれ?
 さすがに興奮よりも混乱のほうが大きすぎる。
 しかも胸だぞ。
 手なら、まだ握手会とかでも触れるけど。
 胸は――普通なら好きな男にしか触らせないはずだ。
 それを証明するように、菖蒲ちゃんは気恥ずかしそうに俯きながら、黙々と手を動かしている。
「いかがですか? 菖蒲の胸は、夕貴様のお気に召しますでしょうか?」
 お気に召さない野郎なんてこの世にはいないに決まってるのに、菖蒲ちゃんは不安そうに瞳を揺らしながら、問いかけてくる。
 やや潤んだ瞳が、羞恥により赤く染まった頬が、半開きになった唇が、懇願するような上目遣いが――どうしようもなく扇情的に見えた。
「……ど、どうして、こんなことをするんだ?」
 揉み揉み、と相変わらず受動的ながらも彼女の胸の感触を堪能しつつ、そんな情けないことを口走る俺。
 だが返答は簡潔にして、その一言で完結していた。

「――決まっているではありませんか。わたしと夕貴様は、添い遂げる未来にあるのですから」

 この上なく嬉しそうに、菖蒲ちゃんは言う。
 一瞬だけ――彼女は視線を逸らした。その際に、やや色素の薄い鳶色の髪が揺れて、柑橘系の匂いが鼻腔をつく。ふわふわとした感じの巻き毛の長髪は、腰にまで届いており、清楚という言葉を体現しているかのようだ。
 綺麗な線を描く二重瞼の瞳が、どこか眠そうにちょっとだけ閉じている瞳が――俺を真っ直ぐに見つめる。
 そして、高臥菖蒲という名の少女は、今ここに宣言した。

「どうぞ、これからは菖蒲を好きなようにお使いくださいませ――愛しの旦那様?」

 パチリ、と。
 女優だからこそ出来るのであろう、美しいウインクを添えて。




[29805] 1-2 ファンタスティック事件
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/28 21:41
 俺こと萩原夕貴が、この人生において死ぬまでに一度は叶えたいと思っていた夢が、つい十分ほど前に達成されてしまった。
 非常に不本意というか、さすがに何者かの陰謀を疑わずにはいられないけれど、叶ってしまった夢は仕方ない。
 なんと呆気のないことだろう。
 もっと感動的なドラマとか、納得のいく理由があってもいいんじゃないか?
 前触れがなければ、余韻すらなかった。
 俺が待ち望んでいた夢は、通り雨のようにやってきて、嵐のように去っていく――と思いきや、現在進行形だった。
 まだ『目覚めたらベッドのとなりに裸の美少女が眠っていた』という事件のほうが、遥かに現実味があるような気がする。
 率直に、ともすれば単刀直入に言おう。
 つい十分ほど前に、俺の家に誰かが訪ねてきたかと思えば、なんとそれは日本中の男のハートを絶賛鷲掴み中の女優――高臥菖蒲(こうがあやめ)だった。
 もう衝撃的すぎて、一瞬だけ人間を辞めようかと思った。
 気恥ずかしいのを覚悟で告白させていただくなら、高臥菖蒲の尊顔を拝し賜ることが夢であり、高臥菖蒲と握手なんかをしちゃうのが生涯の目標だった俺である。
 もしかすると、さきほど高臥菖蒲と相見えたこと自体が夢だったのかもしれない。
 つまり俺は今、夢を見ている真っ最中みたいな。
 だって、そうでも思わないと――

「ここが夕貴様がお生まれになり、お過ごしになった空間なのですね」

 ――俺の家に菖蒲ちゃんがいるという、超不可思議現象の説明がつかないじゃないか。
 あれから俺は、玄関先では誰に見られるものか分かったもんじゃない、ということで、とりあえず菖蒲ちゃんを萩原邸に通すことにした。日本では知らぬ者のいない菖蒲ちゃんが、俺みたいな一大学生の家に訪ねている現場を目撃されたら間違いなく特大スクープとなるからだ。
 菖蒲ちゃんは、このあたりでは有名なお嬢様学校――愛華(あいか)女学院の制服を着ている以外に、中身がパンパンに詰まったボストンバッグを持っていた。明らかに女の子一人じゃ持ち運ぶのも難しそうな、巨大と称するのが相応しいバッグである。
 ふわふわと夢見心地のまま、菖蒲ちゃんをリビングまで案内した俺は、ソファで眠っていたナベリウスを叩き起こした。安眠を妨げられたナベリウスは怒っていたが、しかし菖蒲ちゃんを認めると「あれ、なんか夕貴の好きな女の子がいる」と目を丸くした。
 なんだかんだと来客用にお茶を淹れて、俺たち三人はリビングのダイニングテーブルに腰を落ち着けた。
 俺とナベリウスが並んで座り。
 その対面に、目元を和らげた菖蒲ちゃんが優雅に腰掛けている。
 ……というか、いまだに信じられねえ。
 普段テレビや本で見ている憧れの女優さんが、どうして俺の家にいるんだ。
 しかも菖蒲ちゃんは、興味深そうにリビングを見渡している。かの高臥家の一人娘ならば、それはもう大豪邸に住んでいるはずなので、こんなみずぼらしい家(ごめん母さん)なんて視野にも入らないだろうに。
 一体、菖蒲ちゃんは何が目的なんだろう?
 ――と、訝しげに見つめていると、菖蒲ちゃんと目が合ってしまった。
 じろじろと不躾な視線を送ってしまっていたはずなのに、菖蒲ちゃんは気分を害した様子はない。むしろ口元に微笑を湛えて『なにか?』といったように小首を傾げた。
 ……やべえ、可愛すぎて死にそうだ。
「ちょっと夕貴。どういうことか説明してよ。さっきから意味が分からないんだけど」
 俺のとなりで、寝癖のついた頭を気にしながらナベリウスが口火を切った。
「……なるほど。やっぱりナベリウスの差し金でもないってことか」
「当たり前でしょうが。だから早く説明しなさい」
「悪いけど、俺も説明してほしいぐらいだ。まあ端的に説明すると、さっき菖蒲ちゃんが俺の家を訪ねてきたんだよ。それで今に至る」
「……ごめん。やっぱり意味が分からないわ」
「安心しろ。俺もだ」
 アホみたいな会話をする俺たちを、菖蒲ちゃんはニコニコしながら見つめていた。相変わらず瞳を眠そうにちょっとだけ閉じながら。
 現状に対する理解が一ミリもできていない俺たちは、自然、事情の説明を求めるかのごとく、菖蒲ちゃんに視線を向けることとなった。
「――改めまして、わたしは高臥菖蒲と申します」
 そう名乗った菖蒲ちゃんは、ちらりとナベリウスを見た。
「これはこれはご丁寧に。わたしはナベリウス。好きなように呼んでくれていいからね」
「分かりました。それではナベリウス様とお呼びさせていただきますね」
 一瞬、《ナベリウス》という人間らしからぬ名前に戸惑いを見せたものの、菖蒲ちゃんは華麗に対応してみせた。
「……ところで、一つだけお伺いしてもよろしいでしょうか?」
 互いの自己紹介を済ませたあと、やや躊躇いがちに菖蒲ちゃんは口を開いた。もちろん対応したのはナベリウスだ。だって俺は、いまだ気恥ずかしくて菖蒲ちゃんと上手く口を聞けないんだもん。……おかしい、俺は男らしいはずなのに。
「いいけど――なに?」
「はい、えっと……」
 これまでマイペースだった菖蒲ちゃんは、そこで初めて口篭った。
「……夕貴様とナベリウス様は、どのようなご関係なのか、と気になりまして」
「あぁ、べつに見たまんまよ。わたしは、夕貴の母のようでいて、姉のようでいて、恋人のような女――みたいな感じかな」
 これっぽっちも見たまんまじゃなかった!
「そうなのですか。分かりました」
 しかし菖蒲ちゃんは、特に表情を変えずに理解を示した。
 普通、ナベリウスの外見年齢的に姉とか恋人ならまだしも、母の部分には疑問を持つものだと思うんだけど。
「そう? 話が早くて助かるわ。物分かりのいい子は好きよ」
「はい。わたしもナベリウス様のような、お美しい方には憧れてしまいます」
「――ちょっと夕貴、いまの聞いた? この菖蒲って女の子、かなり見所があるっぽいわよ?」
 お美しい方、というワードに反応したのか、ナベリウスが耳打ちしてきた。
 それを、相も変わらず柔和な笑みを浮かべながら見つめていた菖蒲ちゃん――の眉が、少しだけ釣り上がっているように見える。
「菖蒲でいいのよね? 事情はよく分からないけど、とにかくよろしくね」
「こちらこそ。これからもよろしくお願いしますね、この野郎」
 瞬間。
 萩原邸のリビングに満ちていた暖かな空気が、一瞬にして凍ったような気がした。
 狐につままれた顔をするナベリウスとは対照的に、菖蒲ちゃんは目元を和らげたまま上品に腰掛けている。
 ……えっと、なんか菖蒲ちゃんの口から、その清楚な佇まいに似つかわしくない言葉が吐き出されちゃったような気がするんだけど。
「……ねえ菖蒲。いま、なんて言ったの?」
 勇気を出して問いかけるナベリウス。その顔は笑っているけれど、若干引きつっていた。
「あっ、すみません。声が小さかったようですね。では繰り返しますが――これからもよろしくお願いしますね、この野郎――これでよろしいでしょうか?」
 やっぱりだ。
 ハーブの音色のごとき壮麗な、あるいは水のせせらぎのごとき清涼な、菖蒲ちゃんの声。
 しかしながら、その口から飛び出したのは『この野郎』という美少女の正反対に位置しそうな言葉であった。
「……えっと、どうして『この野郎』なのか説明してくれない? わたし、なにも悪いことしてないよね?」
 さすがのナベリウスも困惑気味である。
 気持ちは分からないでもない、というより俺のほうが困惑しているのは間違いない。
 菖蒲ちゃんは、二重瞼の瞳を眠そうにして微笑みながらも、おっとりとした様子で答える。
「はい。わたしとしても不本意だったのですけれど、ナベリウス様が三分の一ほどわたしの敵であるということが判明しましたので、ちょっぴりと敵意を明示させていただきました」
 ふわふわの巻き毛の髪を、上品な所作で耳にかけて、菖蒲ちゃんは続けた。
「夕貴様の母上様に当たる方は、わたしにとっても母上様同然です。また、夕貴様の姉上様に当たる方は、わたしにとっても姉上様なのです。ですから、ここまでは最大限の敬意を表せるのですが」
「……なるほどね。恋人は無理、と」
「恐れながら、仰るとおりです。もしもナベリウス様が、夕貴様の恋人であられるのなら……わたしにとっては敵なのです」
 積もりたての雪のような頬を、小さく膨らませながら。
 高臥菖蒲という少女は、ここに来て初めて拗ねて見せたのだった。
「ふうん、そうなんだ。つまり菖蒲は、夕貴のことが好きだと言いたいわけね」
「好き――というよりも、結ばれる運命にある、と言ったほうが自然かもしれません。夕貴様とわたしは、将来的に添い遂げる運命にあるのですから」
 何の臆面もなく、菖蒲ちゃんは宣言する。
 やはりと言うべきか、ナベリウスが耳打ちしてきた。
「……ねえ夕貴。この子、ちょっとだけ頭がおかしいんじゃないの? なんだか電波を受信してるっぽいわよ?」
「他人事みたいに言ってるけど、おまえも十分に電波塔だったからな」
「電柱ぐらい?」
「東京タワーだボケぇ!」
 思わず椅子から立ち上がって、ツッコミを入れてしまった。
 いつものようにナベリウスと中身のないやり取りをしていると、くすくすと楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
 視線を向けると、菖蒲ちゃんが口元に手を当てて笑っていた。
 不思議だ。
 なんだか菖蒲ちゃんの笑っている姿を見ていると、それだけで満ち足りた気分になる。
 この女の子が微笑んでくれるのなら、もうなんでもいいや――そんな打算的なことさえ考えてしまう。
 高臥菖蒲という少女は、本当に、どこまでも人を惹きつける。
 きっと俺は、その姿を人込みの中に見失ったとしても、数瞬後には菖蒲ちゃんを見つけ出せると思うのだ。
「とても仲がよろしいのですね、お二方」
 頬を薄っすらと染めて、菖蒲ちゃんは言った。
「まあね。わたしと夕貴は、ご主人様と奴隷の関係だからね」
「――誤解を招くような言い方すんなやっ!」
「べつに誤解を招いてないでしょ? ほら、わたしと一緒にお風呂入ったじゃない。それに夕貴ったら、わたしの胸まで揉みしだいたものね。それらを強制されたわたしは、夕貴の奴隷ゆえに従うしか……従うしか道が……!」
 ナベリウスは両手で顔を覆って、わざとらしい嗚咽を漏らした。どこからどう見ても嘘泣きである。
 まあ、こんな三文芝居に騙されるバカなんていないけどな。
「……な、ナベリウス様? そのお話、詳しく聞かせて頂いてもよろしいでしょうかっ?」
 いたー!
 完璧に騙されてる人がいたー!
 菖蒲ちゃんは、ハラハラドキドキするアクション映画を見るときのように両拳を握って、ずいと身体を乗り出した。
 そういえば菖蒲ちゃんは、テレビで見るかぎり天然と称しても差し支えない女の子だった。いや、天然というよりは純真といったほうが正解かもしれない。
 つまり菖蒲ちゃんは、あまり疑うことを知らない生粋のお嬢様なのである。
「ええ、たっぷりと聞かせてあげるわ。でも、その前に一つ聞いてもいいかしら?」
「……? はい、わたしに答えられる範囲であれば構いませんが」
「じゃあ遠慮なく聞くけど――さっき菖蒲が言ってた、夕貴と添い遂げる運命、ってなに?」
「そのままの意味ですよ。わたしと夕貴様は、夫婦(めおと)となる未来にあるのです」
「ふうん。ちなみに、その未来とやらは、どうやって知ったの?」
「決まっているではありませんか――未来を視たのです」
 瞬間。
 すこし前と同じように、やはりリビングの空気が凍った気がした。
 今度こそナベリウスの顔は完璧なまでに引きつっている。今にも「病院行ってきたほうがいいんじゃない?」と言い出しそうだ。
 ……まあ、ぶっちゃけた話。
 俺もちょっとだけ菖蒲ちゃんの頭を心配してしまったのは否定できない。
「――そうですね。信じることができない、というのも当然の反応だと思います」
 困惑する俺とナベリウスを交互に一瞥したあと、菖蒲ちゃんは頷いた。
「まずは事情を説明しようと思います。それが夕貴様に対する、せめてもの償いですから」
「事情を説明してくれるのは嬉しいけど、俺に償いって……?」
 どこか悲しそうに目を伏せる菖蒲ちゃん。
 長い漆黒のまつ毛が陰を落とす姿は、なんとも言えない憂いを湛えていた。
 しかし、その”償い”とやらは言いにくいことなのか、菖蒲ちゃんは話題を変えるように笑みを浮かべた。
「それでは順を追ってお話させていただきます。夕貴様とナベリウス様はご存知でないでしょうが、わたしは学生という身分の他に、女優さんという肩書きを持っていまして」
「あぁ、それなら知ってるわよ? だって夕貴が、菖蒲の大ファ――」
「――ファンタスティック! いやぁ、俺ってファンタスティックって単語の響きが好きなんだよなぁ!」
 椅子から立ち上がって、意味不明な感じに場を濁してみた。
 いや、だってさ。
 なんか恥ずかしいだろ?
 いずれ知られてしまうだろうけど、なんか他人の口から「この子は、あなたのファンなんです」と言われるのは気恥ずかしくて仕方ないのだ。
「……? ちょっと夕貴。あなた、頭がおかしくなったんじゃないでしょうね」
「そんなわけねえだろ。俺はファンタスティックが大好きだったじゃねえか!」
「…………」
「なっ!」
「……まあ、そんなような気がしてきたわ」
 渋々といった体で、ナベリウスは頷いた。どうやら俺の意図を察してくれたらしい。
 ……でも、さすがに誤魔化すのが下手すぎたと思う。
 これは菖蒲ちゃんにバレてしまったのでは――
「言われてみれば……確かに夕貴様の仰るとおりです! ファンタスティックという言葉は、他の言葉とは一線を画すと思います!」
「ええぇぇぇっ!? マジで!?」
 口から出任せだったのに!
 ついでに言えば、もちろん俺にはファンタスティックという言葉に思い入れはない!
 菖蒲ちゃんは興奮に頬を赤く染めて、含蓄ありげに頷いている。しかも小声で「ファンタスティック……ファンタスティック」と何度も呟いて確認していた。
 もう俺は泣きそうだった。
 なんて健気な女の子なんだろう、なんて純真無垢な女の子なんだろう、と。
「――さすがですっ、夕貴様! ”ファンタスティック”の素晴らしさをご教授してくださるとは、菖蒲、感激です!」
 どこか誇らしげに、満面の笑みを浮かべて菖蒲ちゃんは言った。
 あまりに美しすぎる笑顔。
 ちょっと嘘を言ってしまったけど――この見る者を癒すような微笑みを見られたのだから、まあ良しとしよう。
「今度、記者の方に好きな言葉を尋ねられた際は、もちろんファンスティックです、と答えますね」
「――いや、それは止めてくれっ!」
 日本中の男たちの好きな言葉がファンタスティックになっちまう!
 高臥菖蒲という少女の影響力は、もはや全国レベルなのだ。
「……分かりました。夕貴様がそう仰られるのであれば、菖蒲は従います」
 不満そうに唇を尖らせる。その菖蒲ちゃんの姿が可愛らしくて、俺は胸が温かくなるのを感じた。
 この話の脱線――これからは『ファンタスティック事件』と呼ぼう――の原因を作ったのはナベリウスである。これからはもう余計なことを言わないようにと睨んでやると、ナベリウスは呆れた顔で首を縦に振った。
 ここにアイコンタクトは成立。
 とりあえず俺とナベリウスは、まあ世間一般の人が認知してる程度には高臥菖蒲という女優のことを知っている、みたいな感じの”設定”になった。
「話を戻しますが、先も言いましたとおり、わたしには未来が視えます。……いえ、正確には未来を予測できる、と言いましょうか。これはわたし特有の能力ではありません。【高臥】という家系に生まれた女児が、先天的に発現する異能のようなものなのです」
「……高臥家っていうと、日本でも有数の資産家だったよな」
「はい。【高臥】は、いくつかの分家と共に一つの大きなグループを形成しております。その資産力は、かの大家である如月家に次ぐと言われているそうです」
 菖蒲ちゃん曰く――如月家は、とりあえず相当な金持ちで、あらゆる方面に事業を展開させて、挙句の果てには流通や小売や外資とかその他諸々まで仕切るほどの力を持った家系らしい。
「我が高臥家は、如月家や、有能な高官を輩出することで知られる高梨家と比較すれば見劣りします。しかし、その差を埋めるものが【高臥】の人間にはありました」
 それが――未来を予測する力とでも言うのか。
「もう夕貴様とナベリウス様もお気付きでしょう。我ら【高臥】は、未来というある種究極の情報を垣間見ることによって栄えました。
 高臥宗家の直系、それも女児のみが発現するこの力は、歴代によって千差万別です。夢として未来を視る者がいれば、虫の知らせのような形で数時間先の未来を予知する者もいます。ちなみに、わたしは後者に当たりますね」
 いつもテレビで見るときと同じように。
 おっとりとした、どこか聴く者を惹きつける口調で菖蒲ちゃんは言う。
「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず――その孫子の兵法にあるとおり、【高臥】は科学という分野が発達するよりも以前から、未来予知という能力について研究してきました。
 もっとも、まだ若輩者のわたしには小難しい話は理解できませんし、専門家の方の視野を以てしても不明瞭な部分が多く見えるようです」
「……アインシュタインの相対性理論によれば、時間は相対的なものに過ぎない――つまり本来存在しないということになる。この考え方から考察すると、時間という概念は人間の幻想に過ぎず、未来も過去も存在しない。ただ”今”という時間が連続しているだけのはずだ」
 要するに、未来という不確かな情報を予測することは不可能ということになる。
「なんだか頭の良さそうなこと言っちゃって。そういえば夕貴って、学校の成績がよろしいんだっけ? 菖蒲にいいところを見せるチャンスじゃない」
 銀髪の悪魔が「ヒューヒュー!」とか言って囃し立ててきたが、もちろん無視した。
「――そうですね、夕貴様の仰るとおりです。しかし、それは理論の一つに過ぎません。事実として、わたしたちが未来予知を可能としているのですから、やはり何かしらの理屈があるのでしょう。
 例えば【高臥】には、量子力学という観点から見た仮定の理論があります。脳細胞の活動には、量子的な情報作用があるのではないか、という説ですね」
 現在、高臥家において最も有力な仮説が次のようなもの。
 近親婚――それは現代だからこそ禁忌とされているが、古来の日本では数多くの例が見られた。血統を重んじる名家であればあるほど、近親婚を是とする傾向にある。
 高臥家も、古くは近親婚を厭わなかった一族。
 近しい遺伝子を持った者同士の子は、実は一代限りで言えば問題はないのだ。奇形児が産まれる確率も全くと言っていいほど変わらない。
 しかし、それを繰り返せばどうなるか。
 一組の兄妹が兄妹を生み、その兄妹がまた兄妹を産み――そうすることによって、普遍的な人間とはどこか違った人間が産まれることがある。
 しかし高臥家の場合、それは突然変異とも言うべき変化だった。
 脳細胞には量子的な情報作用があるのでは――という説がある。
 そして高臥の女児は、上記の近親婚を繰り返したことによって、先天的に脳細胞の量子的な情報作用が常人よりも強まったのではないか――これが現在、高臥において有力とされている”未来予知”の仮説。
「量子脳理論か。あまり詳しくはないけど、たしか著名な学者達によって提唱されたアプローチだったよな」
「……夕貴様の仰る通りです。しかし、驚きました」
 両手を胸の前で組んだ菖蒲ちゃんは、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。しかしどちらかというと、その豊満な胸のほうが誇らしげだった。
「驚いた? どうして?」
「いえ、正直に告白すると、わたしって小難しい話が苦手なんです。今お話したのも、すべて父と母からの受け売りです。……わたし、勉学以外の知識は疎いものですから、夕貴様が多方面の知識に秀でていらっしゃることに喜びを感じたのです」
「ふふん、まあね。夕貴は昔から努力してたからね。このナベリウスちゃんの鼻も高いってものよ」
「……なんでおまえが威張るんだよ」
 俺に憧憬の眼差しを向けてくる菖蒲ちゃんと、腕を組んでうんうんと頷いているナベリウス。わりとシュールな光景だった。
 つまるところ、”未来予知”の完全な解明は出来ていないってわけだ。
 いまの現代科学では、どうやっても解明できないブラックボックス――それが未来を予測する力である。
「でも菖蒲ちゃん。未来予知って言っても、さすがに十年以上先のことは視れないだろ? どうして俺と結ばれるって思ったんだ?」
 これは純粋な疑問だった。
 先の菖蒲ちゃんの発言から察するに、彼女は数時間先――あるいは数日先程度の未来しか予測できないはずなのに。
「……そんな。”菖蒲ちゃん”だなんて……夕貴様ったら」
 しかし俺の問いもどこ吹く風。
 柔らかそうなほっぺたを桃色に上気させた菖蒲ちゃんは、両手で頬を押さえて、いやいやするように首を振った。
「あっ、ごめん。いつもの癖で呼んじまった。……えっと、菖蒲さん、でいいかな?」
 やべえ。
 この調子で行けば、友達になるのも夢じゃないんじゃ……?
 いや、それを言うなら俺と菖蒲ちゃんは結ばれる運命に――って、よく考えたら、これってとんでもないことじゃないか?
「……菖蒲ちゃんのほうが可愛いと思います」
 と。
 俺が”菖蒲さん”と呼んだことが気に食わなかったのか、菖蒲ちゃんは瞳を半眼にして、ぷいっと顔を逸らした。
「じゃ、じゃあ菖蒲ちゃんって呼んでもいいのか?」
「そう呼んでくださるのなら本望です――しかし、ここは敢えて”菖蒲”と呼んでください」
「どうして?」
「決まっているではありませんか。わたしと夕貴様は、添い遂げる未来にあるのですよ? 妻をちゃん付けする夫は、まずいないと思います」
 なるほど。
 まあ理に適っている――のか?
 どちらにしろ、俺もちゃん付けされるのは大嫌いだし。そう考えると、なんだか”菖蒲ちゃん”と呼んでたことに罪悪感が……。
「……でも」
 ちらちらと俺のほうを見ながら、
「……時々、本当に時々ですよ? わたしがいっぱい頑張ったり、夕貴様のお役に立てたりしたのなら、そのときはご褒美として”菖蒲ちゃん”と呼んでください」
「そんなのが褒美でいいのか?」
「はい。菖蒲は、夕貴様からの褒美を拒むような愚かな女ではありません」
「……まあ、じゃあ菖蒲って呼び捨てにするけど、本当にいいんだな?」
 こくり、と菖蒲ちゃんは頷いた。
「なんか悪いな。それなら俺も”夕貴様”じゃなくて夕貴って呼び捨てにしてもいいぜ」
「――そんな! 呼び捨てになんて出来ません! 夕貴様は、わたしの夕貴様なのです!」
 ずいっと身体を乗り出して、顔を近づけてくる菖蒲ちゃん。その胸元では、大きな膨らみがこれでもかと自己主張しており、彼女の動作に従って揺れる揺れる。
 爽やかな柑橘系の香りがして、その女の子特有の甘い体臭に頭がくらくらした。
「わ、分かったから落ち着いてくれ。もう好きなように呼んでくれていいから」
「そうですか? では、遠慮なく夕貴様とお呼びさせていただきますね」
 小首を傾げて微笑む菖蒲は、とにかくご機嫌な様子だった。
「――さっきからイチャイチャしてるところ悪いんだけど、とっとと話を進めてくれない?」
 不意にナベリウスの横槍が入った。
「はあ!? べつにイチャイチャなんてしてねえよ!」
 俺ごときが高臥菖蒲と恋愛関係になっていいわけがねえだろうが!
「……そうですか。菖蒲としては、夕貴様とイチャイチャしているつもりだったのですが、どうやら夕貴様は違ったようですね」
 まずい。
 菖蒲、どこからどう見ても拗ねている。
 なんだ、この収束のつかない事態は。
 ナベリウスを思いっきり睨んでみると、なにを思ったか銀髪の悪魔は、ぐっと親指を立ててサムズアップしてきた。
 いや、ぜんぜん上手いことしてねえだろおまえ……。
 それから俺は、可愛らしく拗ねる菖蒲を宥めて、一仕事を終えたみたいに満足げな笑顔を浮かべるナベリウスを怒る、という、なんとも器用な仕事を同時にこなした。
 俺の苦労が報われたのか。
 脱線に脱線を繰り返した話は、ようやく元の軌道に乗った。

「――高臥の女児は、あるとき決まって予知夢を見るのです」

 菖蒲の話によると、高臥直系の女児は平均して十代後半の年齢に差し掛かると、何年も先の未来を夢として視るという。
 この”予知夢”は、今のところ100パーセントの確率で起こっているらしく、しかも外れたことがないらしい。挙句の果てに、その”予知夢”とは自分が将来添い遂げる相手と幸せに暮らす未来を垣間見るというのだ。
 ”未来予知”という異能と同様、詳しい原因は分かっていない。適当に理論付けるなら、女性としての本能や遺伝子が、より優良な男性の遺伝子を求めた……といったところだろうか?
 ただこれまでの歴史を鑑みると、高臥直系の女児が予知夢で視た相手は、例外なく高臥家を繁栄させるに最も適した相手だった。
 他の有名な名家と比べると地力で劣っていた高臥家は、この予知夢に従うことによって、金融、鉄道、外資、芸術、政界などに影響力を持つ家系と繋がり、あらゆる方面に事業を展開させるだけの力を持つに至った。
 現在の高臥宗家には菖蒲しか子供がいない。
 完璧なまでの一人っ子。
 疑いようもなく一人娘。
 そして。
 一人娘の結婚相手は――高臥家の跡取りということになる。
「……それって、本当の話なのか?」
「はい。菖蒲は三年ほど前に視たのです。夕貴様と幸せに暮らす未来を」
「……それって、絶対に外れないのか?」
「はい。菖蒲の母も、当初は”予知夢”に逆らったそうです。しかし運命に翻弄されるかのごとく父と出会い、愛し合い、結婚したと」
「……マジかよ」
 もちろん俺としては、菖蒲に憧れていた――いや現在進行形で憧れているのだから、異論などあるわけがないのだが。
「ちなみにさ、その菖蒲が視たっていう未来で、俺たちは何をしてたんだ?」
 純粋な疑問として、そう聞いてみたのだが。
「――そ、そのようなことを口にすると、菖蒲は恥ずかしすぎて死んでしまいますっ!」
 なぜか頬を真っ赤にして、両腕で身体をかき抱く菖蒲だった。
「えっ、恥ずかしいことをしてたのか?」
 うーん。
 お揃いのシャツを着て、ペアルックで街を歩く……とかかな。
「ですから、言えません! ムチとローソクとロープを使うだなんて――あっ、失言でした。今のは忘れてください」
「はあぁぁぁぁっ!? 俺、菖蒲に何してたんだ!?」
「いえ、本当に忘れてください。……菖蒲も悪いのです。菖蒲が上手くご奉仕できないばかりに、夕貴様は……ぅぅっ!」
「――だから俺は何をしたんだっ!?」
 ここまで気になることも珍しい!
 本当に未来というものが存在するのなら、
 もしも菖蒲が視た未来が実現するのなら、
 ……俺は、いったい彼女に何をするんだろう?
 正直、想像するのも恐ろしいんだけど。
 いや、パニックになるな萩原夕貴。ここで冷静さを失ってしまうと、また話が脱線するじゃないか。
 菖蒲の発言も気になるところではあるが、他にも聞いておかなければならないことがある。
「――ところで菖蒲。さっきから思ってたんだが、あのバカでかいボストンバッグはなんだ?」
 相変わらず菖蒲ちゃんを”菖蒲”と呼び捨てにするのは慣れないが、でも優越感のほうが大きくて、気にならなくなってきた。
 日本中の男が憧れる女の子が、いま俺の家にいて、俺のことを夕貴様と呼んでくれて、呼び捨てを許可してくれて、しかも将来は添い遂げる未来にあるときた。まあ最後のは、本当かどうか分からないけど。
「あのバッグには、菖蒲の衣服や日用品が詰まっているのです」
「なんで? やっぱり旅行でも行くのか?」
「いえ、その……実はですね」
 珍しく口籠ったかと思えば、菖蒲は上目遣いで俺を見てきた。その愛らしさと来たら、もう強烈である。なんでもお願い事を聞いてしまいそうだ。
 しかし次の瞬間。
 俺は、なんでもお願い事を聞いてしまいそうだ、と思った自分を後悔するのであった。

「わたし――高臥菖蒲は、本日を持って【高臥】を出ました。ですから、これからはよろしくお願いしますね」

 何の臆面も躊躇いもなく。
 菖蒲は――そんなことを言った。
「はあ!? ちょっと待て、まったくもって意味が分かんねえぞ!」
「そう仰る夕貴様のお気持ちも分かります。でも、わたしは家出しちゃったんです。恥ずかしながら、お父様があまりにも頑固でして――」
 ――菖蒲が言うには。
 予知夢を見た菖蒲は、俺の存在を数年前から知っていたわけであって、その想いは日増しに強まっていったそうだ。それは恋慕というよりも『とにかく会ってみたい』という感情だろう。
 しかしながら、せめて高校を卒業するまでは男と会うことは許さん、と父親に窘められ続けてきた菖蒲は、つい昨日、とうとう父親と大喧嘩して、家を飛び出してきたというわけらしい。
「――つまり、夕貴様に追い出されてしまうと、わたしは野宿しか方法がなくなるのです」
 瞳を潤ませて、鼻を啜る菖蒲。
 女の子が野宿――そんなことが許されるわけがない。第一、菖蒲は知らぬ者のいない日本屈指の美少女である。街を歩けば、どこぞの馬の骨とも知らない男にナンパされまくるに違いない。
「わたし、言いましたよね? 事情を説明することが、夕貴様に対する、せめてもの償い――と」
「ああ、確かに言ってたな。それがどうし……ま、まさか」
「――はい。わたしを家に泊めてくださる、せめてもの償いです」
 そんな伏線いらねー!
 しかも菖蒲に悪気がない分、タチが悪すぎる!
 呆然と大口を開ける俺と、話に飽きたのか何度もあくびを噛み殺しているナベリウスを交互に見て、菖蒲は――
 ――高臥菖蒲は、続けた。

「これからよろしくお願いしますね、夕貴様、ナベリウス様。三人力を合わせて、ファンタスティックな生活を送りましょうね」

 ……だからさ。
 ファンタスティックは止めようぜ、菖蒲ちゃん……。




[29805] 1-3 寄り添い
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/09/30 17:03
 とりあえず今日は――そんな打算的な言い訳のもと、高臥菖蒲(こうがあやめ)は萩原邸に一泊することになった。
 今朝までは写真集に編纂された菖蒲ちゃん……いや、菖蒲の写真を眺めることしか出来なかったのに、いきなり同じ屋根の下で眠ることになるとは誰が予想できたであろうか。
 まあ幸いにして、萩原邸には空いている部屋がいくつもある。中でも客間は、常日頃から掃除が行き届いており、いつ何時でもお客さんを案内することが出来る。
 ちなみにナベリウスのやつが陣取っているのは一階の客間であり、その一つとなりの客間を菖蒲に宛がった。
 ……そうだ、案ずることはない。
 俺の部屋は二階にあるので、そもそも菖蒲とばったり会うような機会は訪れないはずだ。生理的に欠かせないトイレも、一階と二階に一つずつ存在するので心配無用。まあ二階に風呂はないけど。
 つまり俺が一階に下りなければ、基本的に菖蒲と接触を持たなくて済む。
 ちなみにナベリウスのやつが、菖蒲に萩原邸の勝手を教える手筈になっている。要するに、萩原邸の間取りだとか、風呂の使い方とか、そういった生活する上で必要になる知識を菖蒲に説明する役目を担ってくれたのがナベリウスであった。
 自室のベッドに腰掛けている俺は、壁にかかっている時計を見た。時刻は午後九時。お外は真っ暗。いい具合に夜である。
 ナベリウスと菖蒲は晩飯を食ったようだが、俺は遠慮しておいた。だって、もう一度でも顔を合わせてしまったら、思わず携帯のメールアドレスとか聞いちゃいそうだし。あの高臥菖蒲との連絡手段を確保するなど、おまえは何様なんだって話だ。
 まあ俺は、みんなが寝静まってから一人でおにぎりでも食おう。
 とにかく急場凌ぎということで菖蒲を泊めてしまったが、これが連日続くとなると何かしらの対策を講じねばならない。
 もしも俺と高臥菖蒲が同棲している、という事実が雑誌などの情報媒体を介して広まってしまえば、菖蒲本人と彼女の両親に申し訳が立たない。
 菖蒲は家出したとのことだが――さすがに一度、菖蒲を説得するべきだろう。あるいは高臥の人に連絡を取ってみるのもいいかもしれない。
 ……でも、今日は本当に夢のような日だ。
 菖蒲ちゃん――いや、菖蒲は俺が想像していたとおりの女の子だった。とにかく清楚で、純真で、裏がなくて、ちょっぴり天然で。
 高臥家の一人娘ゆえに厳しい教育を受けてきたからか――菖蒲は大人びていて、心の底から感心してしまうぐらい礼儀正しい。
 だからだろう。
 菖蒲がたまに見せる拗ねた表情が、とても可愛らしいと思う。
 俺には気付かれない程度に頬を膨らませたり、小さく唇を尖らせたり、そんな取り繕っていない生の感情が好ましく思えて仕方ないのだ。
 俺は今朝、ベッドの上に開きっぱなしにしていた高臥菖蒲の写真集を見た。
 様々なアングルで映り、色々なポーズを決めて被写体となっている菖蒲は、今が盛りと咲き誇る花のような笑顔を浮かべている。
 その笑みは、大衆に向けたものだ。この写真集を買った者だけに送られる笑みであり、この写真集を買った者にしか送られない笑みだ。
 でも――今日は違った。
 今日の菖蒲は、俺だけに笑ってくれた。
 それが嬉しくて嬉しくて仕方ない。きっと今日という日を、俺は死ぬまで忘れないと思う。
「……風呂、入るか」
 この幸せな気分が心を熱くしているうちに、体のほうも温めておきたかった。
 のろのろとした足取りで立ち上がった俺は、あまり足音を立てないように気をつけながら、一階に位置する脱衣所に向かう。
 しかし予想に反して、一階には誰の姿もない。もしかすると、もう二人とも自室に篭っているのだろうか。
 うっかり風呂場で顔を合わせてしまう、という事態だけは避けたい。
 菖蒲が入浴しているところに遭遇する……それはイコールで、理性の崩壊だ。そのとき俺は、菖蒲に襲い掛かる自信がある。
 注意深く脱衣所を伺ったが、誰もいないようだった。電気は消えているし、人の気配もしない。
 ひとまず安心した俺は、素早く脱衣所で服を脱ぐと、温かな湯気の立ち込める風呂場に入った。
 ――その瞬間、恥ずかしながら強い興奮を覚えた。
 もちろん、風呂場の中には誰もいない。
 それでも俺はドキドキしてしまったのだ。
 率直に言うと、風呂場には甘い匂いが充満していた。これは間違いなく俺が使っているボディーソープの匂いだ。そしてナベリウスは生意気にも自分用のボディーソープを持っていて、それしか使わない。
 つまり俺が入浴していないのに、この匂いがするということは……。
 菖蒲が、俺のボディーソープで身体を洗った――ということだろう。
 もっと言うなら、萩原邸の風呂場には、さきほどまで菖蒲が入っていた――ということになる。
 ちょっとだけ想像してみる……と、すぐに顔が熱くなって息苦しくなってきた。
 それを誤魔化すように首を振った俺は、風呂イスに腰掛けて頭を洗うことにした。
 熱いシャワーを浴びながら、ふと思った。
 ……そういや、この風呂イスに菖蒲が座ってたんだよな。
 もうなんていうか、ハンパじゃないぐらい動悸が激しい。
 ここまで変態チックなことを考えてしまう自分に失望した。
 でも、やっぱり仕方ないとも思うんだ。
 今までずっと憧れていた女の子が、俺の家の風呂を使ったんだぞ? もう興奮じゃなくて、感動するレベルだろう。
 このまま風呂場に篭っていたら、さらに変なことを考えてしまいそうだったので、俺は手早く体を洗ってしまおうと決意する。
 いつもの二倍に相当するスピードで体を綺麗にした俺は、本当ならばすぐに上がるのが正解なのだろうけど、落ち着くためにも湯船に浸かっていくことにした。
 どことなくいつもと違う感じのする入浴。
 普段は心の落ち着くこの時間が好きなのに、今はひたすらにドキドキしている。
「……はあ」
 自分に呆れて、ため息が漏れた。
 現実から逃避するつもりで、俺は湯船に顔をつけた――ところで思い出した。
 ……そ、そういえば、このお湯に、さっきまで菖蒲が浸かってたんじゃ……。
「――ぶっ!」
 なに思春期のガキみたいなことを考えてんだよ俺は!
 慌てて顔を上げたからか、鼻に水が入ってしまった。気のせいか、さっきよりも心臓の鼓動が早い。
 このままでは本当におかしくなってしまいそうだったので、名残惜しいことこの上なかったのだが、俺は自室に引き上げようと風呂場を出た。
 ……なんていうか。
 女の子を想って心を乱すのは、初めての経験だ。胸が張り裂けるように痛くて、それでいてどこか温かい。
 その感情の正体を看破できないまま。
 最後に胸いっぱい息を吸い込んでから、俺は足早に脱衣所をあとにした。



 部屋に戻ると、敵地から帰還したかのような安心感があった。
 風呂でさっぱりしたばかりなのに、廊下を走って階段を駆け上がったせいか、体が汗ばんでいる。
 まあ俺の服装は、上はタンクトップ、下はジャージという開放的なものなので、すぐに汗も引くだろうけど。
 用心のために――ナベリウスや菖蒲の侵入を阻止するために――部屋の鍵を閉めておくことにした。普段は開けっ放しなのだが、今日は特別である。
 重い足取りでベッドに腰掛けて、タンクトップの胸元をぱたぱたと扇ぐ。
 ……それにしても。
「あぁ、腹減ったな」
「よろしければ、菖蒲がなにかお作りしましょうか?」
「――えっ?」
 耳元で声がした。
 澄み渡る朝露のように澄んだ声が、真後ろから聞こえてきた。
 最高に嫌な予感がしたが、それでも確かめないわけにはいくまい、俺は亀の歩みが光速に見えるんじゃないかという最遅(さいち)の速度で振り向いた。
 果たして――そこにいたのは。
「あ、菖蒲……ちゃんっ!?」
「いけませんよ、夕貴様。わたしのことは”菖蒲”と呼び捨てで構いません、と言ったではありませんか」
 教師のように人差し指を立てて、菖蒲は柔らかく笑った。
 ふわり、と漂ってくるのは爽やかな柑橘系の香り――それと合わせて、俺が使っているボディーソープの匂いが、菖蒲の身体から漂っていた。
 ふわふわとした巻き毛は、きっと生まれつきの髪質なのだろう。その証拠に、風呂上がりだというのに、菖蒲の髪はゆるやかなウェーブを描いている。
 きちんとドライヤーで乾かさなかったのか、腰にまで届く鳶色の長髪は、しっとりと濡れていた。
 白純(しらずみ)の肌は、まだ幾分か火照っているようで、頬を中心に紅潮している。剥きたての卵のようにツルツルとした肌だ。
 菖蒲は、花をあしらった淡いピンク色のパジャマを着ていた。胸元を押し上げる双つの膨らみが苦しいのか、上のほうのボタンは外されている。……おかげでチラチラと谷間が見えて、目の保養どころか、網膜上にブラクラのごとく菖蒲の姿が焼きついてしまいそうだった。
 ――いや待て。論点がズレてる。
「えっと、なんで、菖蒲がここに……?」
 やや体を後ろに逸らしながら問う。
 だって菖蒲は、ベッドの上に女の子座りしながら両手をついて、上半身を前傾させているのだ。おかげで、俺が後ろに下がらないとキス出来そうなぐらい距離が近い。
「……俺の間違いじゃなけりゃ、部屋の鍵は閉まってたはずだよな。どうやって入ってきたんだ?」
「普通に入りましたよ? 鍵もかかっていませんでしたし」
「そんなはずは――」
 言いかけたところで気付いた。
 ……なんか知らないけど、部屋の片隅にあるクローゼットの戸が開いている。まるで今さっきまで誰かが入っていて、つい今しがた誰かが出てきたと言わんばかりに。
 菖蒲に視線を向けると、彼女は小さく頷いた。
「――はい。失礼ながら、クローゼットにお邪魔させていただきました。とってもオシャレな服ばかりで、菖蒲は感動しました」
「いや、まあ服のセンスは横に置くとして――どうしてクローゼットに?」
「夕貴様が部屋の鍵をお閉めになる――と分かっていたからです」
 当たり前のように。
 当然だと言うように、菖蒲は目元を和らげた。
 綺麗に線の入った二重瞼の瞳は、やっぱり眠そうにちょっとだけ閉じていて、それが菖蒲の笑みをより印象的に見せている。
「俺が鍵を閉めると分かっていた……って、まさか」
「はい――予知っちゃいました」
 これが彼女の癖なのだろうか――さきほどと同じく教師のように人差し指を立てて、菖蒲は言った。いやまあ、そんなキメ台詞っぽく言われてもって感じだが、菖蒲なので許そう。
 ただ一つ、看過できない点がある。
 ちょっと声に出すと失礼なので、心の中で叫ばせていただくとしよう。
 ――しょうもないことに予知能力使うなや! しかもクローゼットに忍び込むとか、小学生のかくれんぼか!? めちゃくちゃ可愛いからって調子乗ってんじゃねえぞコラぁっ!
 よし、これで俺の心に蓄積していたストレスは消滅した。
「つーか、人が部屋の鍵を閉めることさえ予知できるっていうなら、俺のプライバシーがないのも同然じゃ……」
「ご心配なく。夕貴様にはご説明していませんでしたが、わたしの能力は一族の中でも強いほうではないらしくて、さほど応用も利かないのです」
 菖蒲曰く。
 彼女の持つ予知能力は、虫の知らせのようなかたちで、数時間先から数日先までに起こる一つの事象を予測するものだという。
 言ってしまえば、日常のふとした瞬間に神様からお告げを受け取るようなものだ。
「しかしながら、わたしが予知するタイミングには、多少の法則性があるようなのです。これまでの経験上、リラックスしているときや身の危険が迫ったときなどには大抵、何らかの予知をするのですけれど」
「……なるほど。たしか現在、高臥家で最も有力な仮説が、量子脳理論を元にした仮説だったよな。
 菖蒲がリラックスしたとき、あるいは身の危険が迫ったときに予知することが多い……とすると、つまり脳細胞の活動が活発化してるときに予知能力が発動するってことか?」
 すこし気になって思考していると、ふと視線を感じた。
 顔を上げて見れば、そこには何だか幸せそうな顔をした菖蒲がいた。
「……なんだ?」
「あっ、いえっ、何でもありませんっ。失礼しました」
「気になるな。俺に言いたいことがあるなら隠さず言ってくれていいぞ。つーか、そっちのほうが俺も嬉しいし」
「……では、遠慮なく言わせていただきますが、夕貴様は女の子のように綺麗な顔立ちをしていらっしゃるのですね」
「ぐっ――!」
 まさか菖蒲にまで指摘されちまうとは……!
「それに肌もお綺麗ですし、髪だって艶やかですし……。夕貴様は殿方なのに、わたし、嫉妬してしまいそうです」
 目に見えて分かるぐらい肩を落とす菖蒲は、どうやら落ち込んでいるようだった。
 それを見ているうちに、なんだか頭を撫でてあげたくなってきた。どちらかといえば他意はある。
 もちろん俺は、自然な風を装って女の子のあたまを撫でる、という技術を持ち合わせていない。
 だから、ちょっと手を上げて、やっぱり下ろして……みたいな怪しい行動を取る羽目になった。
 情けなさ全開ではあるが、どうしても頭を撫でてあげたいと思う気持ちが果敢にも前面に出ており、退却を命じても言うことを聞いてくれない。このままでは戦死である。
 しかし。
 やはり菖蒲は、最高に気の利く女の子だったようだ。
「……ん」
 きっと俺の意図を察してくれたのだろう。菖蒲は子供がおねだりするように、瞳を閉じて頭を差し出してきた。
 ここで「いいのか?」と聞くほど、俺は無粋じゃない。とにかく勇気を振り絞ろう。夕貴だけに。
 生唾を飲み込んだ俺は、意を決して菖蒲の頭に手を乗せた。
 色素の薄い鳶色の髪は、ほんのりと湿っている。まるで掌に吸い付いてくるようだった。
 壊れ物を扱うかのような手つきで、菖蒲の頭を撫でてみる。
 すると、菖蒲は気持ちよさそうに息を吐いた。リラックスしている証拠だろう。
 心臓が口から飛び出そうなほどの緊張が体を襲う。しかし不思議と、菖蒲に触れているだけで心が落ち着いた。
 憧れている少女に触れる、という緊張は。
 憧れている少女に触れた、という歓喜によって打ち消された。
「……不思議です。夕貴様に頭を撫でられると、自分でも驚くほど心が落ち着きます」
「俺も……菖蒲に触れているだけで、言い残すことがないぐらい満足だ」
「……本当でしょうか。菖蒲は夕貴様をお慕いしておりますが、夕貴様は菖蒲のことを――あら?」
 そこで菖蒲は何かに気付いたらしく、俺の肩越しにその何かを見るような仕草をした。
「これは、もしかして……」
 ベッドの上を四つんばいの体勢で移動した菖蒲は、俺の背後にあった一つの本を――いや、写真集を手に取った。
 ――そう。
 何を隠そう、それは高臥菖蒲のファースト写真集である。
 ……しまった、菖蒲が忍者みたいに突如現れたものだから、隠すのを忘れてた。
「夕貴様? これは一体、どういうことでしょうか?」
 写真集を手に持ち、出来の悪い教え子を詰問する教師のように、菖蒲は瞳を鋭くした。
 それにしても、自分の写真集を腕の中に抱える女優さんを見るのは、かなりレアなんじゃないだろうか。
 二人ともベッドの上で。
 なぜか正座している俺と、女の子座りをしている菖蒲。
「……いや、実は」
「実は? 夕貴様も殿方ならば、大きな声ではっきりと仰ってください」
「……実は、俺って……その、昔から、菖蒲ちゃんの……大ファンで」
「…………」
「いつも、菖蒲ちゃんが出演するテレビを見て、やっぱり可愛いなぁ、って思ったり……えっと、映画もシアターで見たし……写真集も、初版のやつを買ったし……」
「…………」
「だ、だから……!」
 こうなったら腹を括って、正直に告白するしかない。
「――俺は、昔から菖蒲ちゃんに憧れてました!」
 場の雰囲気もあって、なぜか頭(こうべ)を垂れながらのカミングアウトとなった。
 しかし、いくら待っても菖蒲ちゃんは何も言わなかった。もしかして気持ち悪いと思われてしまったんだろうか。
 そろ~りと視線を上げてみると――
「…………」
 ただ。
 菖蒲は、ただ顔を――それこそ耳まで真っ赤にして、気恥ずかしそうに俯いているだけだった。
 自分の身体を両腕で抱くようにして、唇をかみ締め、羞恥に耐えるようにして俺から視線を外している。
「……本当ですか?」
「え?」
「……本当に、夕貴様は……わたしのことを……」
 菖蒲の熟れた桃のように紅潮した頬が、やけに目立って見えた。
「ああ。べつに、嘘とかじゃないけど……」
「…………」
 俺が訥々と答えると、菖蒲はさらに、かあ、と頬を赤くした。
「……ずるいです、夕貴様」
「え?」
「ですから、夕貴様はずるいです……」
 言って。
 赤く染まった顔を隠すかのように、菖蒲は俺にしなだれかかってきた。
 腕の中には――菖蒲の柔らかな身体がある。
 顎のすぐ下には――菖蒲の頭があって、ほのかなシャンプーの匂いがする。
 俺の胸板には――菖蒲の胸がくっついていて、弾力のある膨らみが形を変えていた。
 それは、ほとんど抱き合うような格好。
「っ――あ、菖蒲!?」
 咎めるような口調になったのも当然だった。
 高臥菖蒲という少女は、俺みたいな平凡な大学生が触れていい存在じゃない。
 女優という職業に就いている以上、日本中の男を魅了している以上、やはり大多数の人間は、菖蒲に異性と触れ合ってほしくないと願っているだろう。
 それなのに。
 菖蒲は自分から――俺に触れてきた。
「……きっと」
 俺の胸に顔を埋めながら、菖蒲は言う。
「このようなことを、人は奇跡と呼ぶのでしょうね――」
 彼女がどのような心境で”奇跡”という言葉を口にしたかは分からない。
「……ずっと、夕貴様とこうしたいと、菖蒲は思っておりました」
「ああ――俺も思ってた」
 でも、それは俺だけじゃない。
 みんな思ってる。
 みんな、高臥菖蒲と触れ合いたいって思ってる。
 そのうちの数万、あるいは数十万分の一が俺だっただけの話。
「……夕貴様ならば、わたしを救い出してくれるかもしれない。あの陽だまりのような未来において、わたしのとなりで微笑んでくれた貴方様ならば、わたしを助けてくれるかもしれない――そう夢想せざるを得ませんでした」
 恐る恐るではあるが、俺は菖蒲の背中に手を回していた。
 抱きしめた身体は、テレビや本で活躍している姿よりも遥かに小さく感じて、どこまでも庇護欲をかきたてられる。
「救い出すって……?」
「……いえ、これは少々、大げさな物言いでした。夕貴様を勘違いさせてしまったようですね。ただ、菖蒲は弱い女なのです。すぐに挫けてしまうような、夕貴様には相応しくない女なのです」
「どういうことだ?」
「…………」
 菖蒲が言うには。
 数時間先、あるいは数日先程度の未来しか知ることが出来ないとはいえ、それは生きる上で大いに彼女の役に立ったという。
 例えば、数日先に予定されている学校の試験問題が視えたり、その日の登校中に水溜りに足を踏み入れる未来が視えたり――ありとあらゆる情報を、菖蒲は予知として知ってきた。
 しかし、菖蒲は小学生のときに、これまでとは一風変わった事象を予知した。
 それは――人の死に関わる予知。
 小学校の担任の先生が『長期休暇の際、趣味の登山中に遭難してしまい、そのまま還らぬ人となる』という未来を菖蒲は知った。
 当然、先生を助けようとした。何度も何度も呼びかけて、忠告して、お願いした。
 けれど、未来は変わらなかった。
 小さな子供が口走る『誰かの死ぬ未来』は、周囲の人間にとって戯言と同じだった。
 未来を垣間見ても、それを共感してくれる人間がいなければ、なにも変わらない。
 誰かの死は、その本人の理解と協力がなければ回避できない。
 菖蒲曰く――人の生死に関わる予知は、これまで四度ほど経験したらしいが、一度も回避できた試しがないという。
 菖蒲は中学生の頃、街中ですれ違った老人が『階段で足を踏み外し、頭を打って死亡する』という未来を唐突に予知したこともある。もちろん声をかけて、なんとか未来を変えようとしたらしいが、結局は無理だった。
 どうして菖蒲の声に耳を貸さないんだ――そう思うのは、俺が彼女の能力を存知しているからだろう。
 ちょっと考えてみれば分かる。
 見知らぬ少女に、いきなり『貴方は死ぬ未来にあります。ですから、わたしの言うことに従ってください』と教えられても、普通に詐欺だと疑うだけだろう。
 きっと菖蒲は――大勢の人に自分の言葉を信じてもらいたいがために、芸能界に足を踏み入れたんだ。有名になりさえすれば、嘘のような言葉にも説得力が付加すると思って。
 学校のテストが視える、水溜りに嵌ってしまう――そんな些細な予知ならば、簡単に変えられる。
 しかし未来は、それが自分以外の大多数の人間に影響を及ぼす事象であればあるほど、軌道を修正することが困難になるはずだ。
 もっと簡単に言えば――自分自身の未来を変えることは容易だろうけど、他人の未来を変えることは想像以上に難しいんだろう。
 しかも菖蒲は、か弱い女の子だ。
 高臥という名家に生まれたとしても。
 類稀なる美貌を有していたとしても。
 女優という肩書きを持っていたとしても。
 それでも――菖蒲は一人の女の子なんだ。
 どうでもいい他人の死を救えなかったことを、こうして後悔するぐらい――純真な女の子なんだ。
 これまで予知した誰かの死。
 一人目は救えず、二人目も救えず、三人目は菖蒲が声をかけようかと迷っているうちに死んでしまい、四人目は声をかけることもしなくなった。
 本来であれば相談相手として最適であるはずの菖蒲の母は、歴代の中でも強力な予知能力の持ち主。
 菖蒲は、自分の意思で予知するタイミングを選べない。
 しかし菖蒲の母は、自分の好きなタイミングで予知することが出来るし、その予知する事象の方向性すらも操れるという。
 噛み砕いて言うと――菖蒲が予知能力に振り回されているのに対し、菖蒲の母は予知能力を完全にコントロールしているのだ。
 不幸中の幸いは――人の死を予知すること自体が少ないことか。
 それでもいつ他人の死を垣間見るのかと思うと、菖蒲は強烈な不安に駆られるというのだ。

 ――例え、誰かの死を予知しても、それを回避することが出来ないのなら。
 そんなの、崖から落ちる人間に手を差し伸べないことと、何が違うのか――

 ……おかしな話だよな。
 本来なら信じるべきはずの未来を、信じることが恐いなんてさ。
 菖蒲ほど、未来を信じるために生まれた女の子はいないってのに。
 だって菖蒲は――
「でも、わたしは笑っていました。何年後かも分からない未来において、夕貴様と一緒に――貴方様のとなりで、菖蒲は心の底から笑っていたのです。
 わたしは、自分に嫉妬しました。未来の自分に嫉妬しました。あんな純粋な笑みを浮かべることが出来る自分に、嫉妬したのです。
 菖蒲は、夕貴様と会う日を糧にして生きてきました。夕貴様ならば、わたしを助けてくれるかもしれない。この暗闇から、わたしは救い出してくれるかもしれない――だって、未来のわたしは、確かに救われていたのですから」
 菖蒲が俺を慕うのも――恐らく恋愛感情とは少し違う。
 現在の菖蒲は独りで泣いていて、未来の菖蒲は俺と一緒に笑っていた。
 だから、彼女の「お慕いしております」という言葉は、言ってしまえば期待の裏返しなのだろう。
 考えてみれば当然の話。
 俺たちは、まだ出会ったばかりなのだ。だから、いきなり菖蒲が俺を好きになるはずがない。そんな三流恋愛ドラマみたいな都合のいい筋書きがあってたまるか。
 確かに菖蒲は、萩原夕貴のことを未来のパートナーとして、友人以上の感情は抱いているかもしれないが、それは間違いなく恋人未満。
 今こうして、菖蒲が俺に抱きしめられても文句を言わないのは――俺ならば何とかしてくれるかもしれない、と菖蒲が考えているため。
 要するに、この抱擁によって菖蒲は不安な未来から護られているような錯覚に陥っているんだ。
 翻って、俺が菖蒲に身体を求めたとするなら――きっと彼女は拒否するだろう。
 もしかしたら抵抗しないかもしれないが、それは愛情ある性交とは程遠い、俺に護ってもらう代金を支払うための交わりになってしまう。
 そんなの、絶対にイヤだ。
 菖蒲が打算的に身体を差し出すのを想像するだけで、本気で吐き気がこみ上げてくる。
 これまで、菖蒲の口にする”未来”は誰にも信じてもらえなかった。
 そしていつしか――信じることを拒否して、未来から目を背けて、逃げる道を選んだ。
 本当に何の脚色も、装飾も、誇張もなく、ただありのままの事実を述べるなら。

 ――菖蒲は、怖いんだ。
 ――未来を信じることが、怖いんだ。

 つまりは、それだけの話。
「……だったら」
 正直な話、俺には何もできない。
 それでも。
「せめて俺だけは――菖蒲を信じてやる。世界中の人間が菖蒲の言うことを否定したとしても、俺だけはお前の未来を信じてやる」
 抱きしめる。
 強く、強く抱きしめる。
 そうでもしないと、菖蒲が消えてなくなってしまいそうだったから。
 そうでもしないと、菖蒲の嗚咽が聞こえてしまいそうだったから。
 ……俺の胸で、彼女が泣き止んでくれればいいけど。
 菖蒲の頭に顔を埋める――すると、女の子特有の甘い匂いが胸いっぱいに広がった。
 心のうちに芽生えた感情は、愛しい、と思うそれじゃない。
 ただ――護ってあげたい。
 ちっぽけな俺に何が出来るのかは分からないが、それでも護ってあげたいのだ。
 もしかすると――菖蒲が『萩原夕貴が部屋の鍵を閉める』なんて下らない予知をしたのも、すべては『自分の悩みを誰かに聞いてもらいたい』という無意識下での願望があったからこそ、俺と二人きりで話し合える場を設けるために、予知能力が発動したんじゃないだろうか。
 そして菖蒲にとって、自分の悩みを打ち明けることが出来るのは――菖蒲自身が『添い遂げる者』として予知し、この人ならば自分を支えてくれるのではないか、と思う相手――つまり俺だった。
 しばらくして、菖蒲は糸が切れた人形のように眠りに落ちた。心情を吐露して安心したのか、それとも単純に泣きつかれたのか――恐らく両方だろう。
 俺はベッドに菖蒲を寝かせたあと、電気を消して、部屋から出て行った。今日だけは客間で寝よう。
 最後、ベッドで眠る菖蒲に声をかけた。
「……おやすみ。菖蒲ちゃん」
 彼女流に言うのなら――それは褒美。

 ――わたしがいっぱい頑張ったり、夕貴様のお役に立てたのなら、そのときは――

 だから俺は、約束を守っただけ。
 これまで一人で頑張ってきた菖蒲に、ご褒美をあげただけ。
 ……それに菖蒲は、ずっと昔から俺の役に立ってくれてたんだ。
 だってさ。
 数年前、高臥菖蒲という少女を初めて見たときから。
 
 ――菖蒲ちゃんは、いつも俺の心を温かくしてくれていたんだから。



[29805] 1-4 お忍びの姫様
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/10/01 14:30
 どれほど突飛な事態に巻き込まれようと、それが日常を疎かにしていい理由にはならない。
 例えば、俺の家には高臥菖蒲という女優が一時的に滞在しているが、だからといって、学生の本分は学業であるという事実は変わらないのだ。
 つまり平日の朝になれば俺は大学に、菖蒲は高校に向かう。ちなみにナベリウスのやつは萩原邸でお留守番である。
 今のところ、俺の周囲で目立った変化はない。
 しかし、このまま平穏無事では済まないだろう。
 なにせ菖蒲は家出したのだ。
 清楚な美少女として知られる女優が、かの高臥家の一人娘が、家出したのだ。
 だから今頃、高臥さんの家では大騒ぎの真っ最中だろうし、警察に捜索願が出される可能性だって十分にある。
 今日、最低でも明日には、菖蒲と本格的に話し合ったほうがいいだろう。
 菖蒲を説得して家に帰すか、もしくは高臥家に直接連絡して指示を仰ぐか、まあ二つに一つだろうが。
 ……でも、このまま菖蒲を放っておくつもりは毛頭ない。
 未来が視えるというのは、なにもいいことばかりじゃないのだ。未来が視えてしまうがゆえに、未来を恐れるようになった女の子がいるんだから。
 だから、せめて俺だけは、菖蒲を信じてやりたい。
 これから何が起こるのか――未来を予知できない俺にはそれが分からないのだけど、菖蒲が言う未来ならば、俺は信じてみたい。
 ……まあ目下のところは、菖蒲の家出問題をどうするか、だよなぁ。

「……ふーん。なあ夕貴。それが本当なら、わりと冗談じゃ済まないぜ」

 その声には、意味ありげな、どこか忠告にも似た響きがあった。
 俺と玖凪託哉(くなぎたくや)は、一限目の講義を受けるために、大学のキャンパス内を歩いていた。
 雑多な学生たちが、スクランブル気味に通路を横断していくせいで、人ごみの密集率が実際の人数よりも多く感じられる。それぞれの行きたい教室が違うものだから、こうなるのも必然なのだろうけど。
 俺は悩んだ末に、友人である託哉に現状を相談することにした。
 ――この玖凪託哉という男は、一見チャランポランな野郎に見えて、まあ実際もチャランポランな野郎なのだが、その実は思慮深い一面を持っていたりする。
 予想に反してと言えば失礼だが、託哉は友人の相談事を鼻で笑って一蹴するような友情に疎い男じゃないのである。
 女好きであろうとも、男との付き合いも大事にする――それが玖凪託哉だった。
「夕貴ちゃんも運がねえなぁ。押しかけてきた女が、よりにもよって高臥菖蒲――いや、【高臥】の人間かよ」
「誰が夕貴ちゃんだ。それにしても意外だな。託哉なら、もっと疑ったり騒いだりするかと思ったんだけど」
 高臥菖蒲が俺を訪ねてきた――そんな冗談にしか聞こえない話を、託哉はあっさりと信じた。
 ……いや、正確には、女の子が押しかけてきたと話したところまでは興奮していたが、その女の子が高臥菖蒲と聞いた途端、託哉は難しそうな顔をしたのだ。
「はっはー、まあ細かいことは気にするなよ。とにかく、だ。憧れてた女優と仲良くなれるかも――なんて中途半端な気持ちなら、【高臥】と関わるのは止めとけ」
 あくびをかみ殺しながら、託哉は言う。
「場合によれば、夕貴が考えてる以上に面倒なことになるかもしれないぜ?」
「…………」
 脱色した前髪の隙間から、冷たい光を宿した瞳が見える。
「……中途半端な気持ちなんかじゃねえよ。自分でもよく分からないけど、俺は菖蒲のことを護ってやりたいって思うんだ」
「ふーん、まあ夕貴は気持ち悪いぐらい高臥菖蒲のファンだったもんなぁ。もしかしてアレかい? 高臥菖蒲に、あなたと私は結ばれる未来にありますー、みたいなことを言われたりした?」
 心の底を見透かされたような気がして振り向くと、託哉は人懐っこい笑みを浮かべた。
「あれ、まさかビンゴだったりする?」
「……おまえ、なにか知ってるのか?」
「いんや、今のは嘘から出た真ってやつさ。オレは少なくとも、夕貴の役に立つような情報は何一つとして知らねえよ」
 どことなく含みを持った言い回しだった。
 俺の役に立つような情報は知らないのなら――俺の役に立たないような情報ならば、託哉は知っているのだろうか。
 そう思い、追求しようとしたところで、遠くのほうが騒がしいことに気付いた。
 俺たちが通う大学は、よりよい生活環境や職場環境などを実現するために、いわゆるコンビニエンスストア店舗と業務提携を結んでおり、その結果としてキャンパス内にコンビ二があったりする。
 コンビニの目の前にはセラミックブロックを敷き詰めた大きな広場があり、そこにはベンチが複数設置されているだけではなく、大学内でも数少ない喫煙スペースが存在する。
 どうやら、その広場のほうでちょっとした騒ぎが起こっているらしい。人のざわつく気配というのは、言葉にしなくても分かるものだ。
「またカップルが痴話喧嘩でもしてんじゃねえの?」
 冗談げに託哉が言う。
 そんなまさか――と笑い飛ばしたいところではあるが、俺たちが大学に入学したばかりの頃、実際にカップルの大喧嘩を広場で見かけたことがあった。
「なあ夕貴。どうせ一限目が始まるまで時間あるし、見に行ってみないか?」
 趣味が悪いな、とは思ったが、やはり多少は興味を惹かれるわけで。
「ああ。行ってみよう」
 萩原夕貴くんが野次馬に成り下がった瞬間であった。
 俺と託哉は、人込みに逆らうようにして広場のほうに向かった。託哉に聞きたいことがあったのだけど、なんだか真面目な話をするような雰囲気でもなくなったので、後回しにすることにした。
 広場の人口密度は、いつもよりも明らかに増していた。さらに言うなら、集まっているのは女よりも男のほうが多い気がする。
 すれ違う男たちは、みんな揃って感心したような、あるいは感嘆したような顔をしていた。それはどこか、街中でとびっきりの美人を見かけた男の反応に似ている。
 やがて、広場を賑わせた原因を見つけた瞬間。
 ――俺は、自分の観察眼が捨てたものではないと思い知ったのだった。
 周囲には俺と同い年ぐらい――つまり二十歳前後の男たちが群がっていて、口々に小声で何かを言い合っている。また、男より数は少ないものの、女の姿もそれなりに見られた。
 この広場に集まった大学生たちに共通しているのは、全員が”それ”を目で追っていることだろう。
 若者たちの視線を独占した”それ”は――俺にとって見覚えのある制服に身を包んだ女の子だった。
 黒を基調とした制服は、間違いなく愛華女学院指定のセーラー服。
 女子高生が大学キャンパスを闊歩するだけでも相当目立つのに、それが天下の愛華女学院の生徒ときた。これは騒がれないほうがおかしい。
 しかも、である。
 説明するのも馬鹿らしくなってくるのだが、その女子高生さんは変装のつもりなのか、目深に帽子を被っており、口元をサージカルマスクで隠している。
 今時、花粉症にかかっている人でも、あそこまで分かりやすい防御はしないと思う。
 とは言ったものの、その下手な変装が功を成しているのは否定できない。彼女は目立ちまくる代償として、その正体を誰にも知られることなく、ここまでたどり着けたのだから。
 セーラー服の上からでも、女の子らしい丸みを帯びた身体が手に取るように分かる。胸元で強く自己主張する双つの膨らみは、男の心をさらっていくには十分すぎた。
 どれほど変装していようとも、いくら顔を隠していようとも、彼女の本質は変わらない。事実、ハッキリと顔が見えないはずなのに、広場に集まった男女は彼女に見惚れていた。
 ……つーか、何してんだよ菖蒲。
 ここで正体がバレたら大変なことになる。もしかしたら一限目の全講義に出席する生徒数が、半分以下にまで落ちるかもしれない。
 ただ不幸中の幸いにも、菖蒲が愛華女学院の生徒であるという事実は伏せられているので、周囲の大学生たちは、菖蒲を只者ではないと確信しながらも、彼女を女優である『高臥菖蒲』と結びつけることができないようだった。
「……なあ夕貴ちゃん。もしかしてこれって、噂をすればってやつか?」
 もはや託哉に突っ込む気も起きず、俺はゆっくりと首を縦に振った。
 満を持して変装している菖蒲は、どうやら誰かを探しているようで、キョロキョロとあたりを見渡している。
 注目されるのには慣れているのだろう、自分に視線が集まっていることを不思議には感じていないようだ。
 ……うーん、この状況をどう乗り切るべきか。
 菖蒲が探しているのは間違いなく俺のはずだ。もちろん名乗り出てあげたい。だって、菖蒲がちょっと不安そうに見えるんだ。やっぱり大学内で一人は心細いんだろうな。
 しかし、ここで名乗り出るのは自殺行為だ。俺にまで注目が集まってしまう。
 どうしよう、どうするのが正解か――俺がそう考えていたとき。
 事件は起こった。

「――あっ、夕貴様っ!」

 口元をマスクで覆っているせいで、その声はくぐもっていたが、それでも十分に澄んだ音色だった。
 ――否、あまりにも澄みすぎた声だった。さすがは女優。声の通りがハンパない。
 その証拠に、菖蒲の声は広場に響き渡ってしまい、ただでさえ人目を惹いている現状を、さらに酷くする結果となった。
 好奇的な色を多く含んだ衆人環視の中、菖蒲は親を見つけた子供のように弾んだ歩調で、トコトコと俺のほうに歩いてきた。
 えっ、夕貴様ってあいつのこと? みたいな感じの視線が最強に痛い。
 しかも託哉のやつ、面倒に巻き込まれるのが嫌なのか、いつの間にか離れた距離にまで移動してやがるし。
 思いっきり託哉を睨んでみると、頑張れ夕貴ちゃん、と口パクで応援されてしまった。誰が夕貴ちゃんだ。
「――探しましたよ、夕貴様」
 そうこうしているうちに、菖蒲が俺の目の前まで歩み寄ってきていた。
 周囲の学生たちのざわつく気配がする。
 さっきまでは俺も野次馬の一人だったのに――今は俺が当事者の一人になってしまっていた。
 向かい合う俺と菖蒲を中心にして、まわりには隠し切れない好奇心を滲ませた学生たちが溢れかえっている。
「もうっ、駄目ではありませんか。お弁当を忘れて行ってしまわれるなんて」
 言って、菖蒲は学生鞄の中から何かを取り出す仕草をした。
 やがて姿を現したのは、青い風呂敷に包まれた弁当箱である。ちなみに、これを用意してくれたのはナベリウスだ。もちろん菖蒲の分もある。
 そういえばリビングに置きっぱなしにしたまま、持って行くのを忘れてたっけ。
「……あ、ありがとう。おかげで助かったよ」
 なんとか笑顔を浮かべてみたものの、きっと俺の顔は引きつっていたと思う。
 それを持ち前の純真さゆえに気付いてくれない菖蒲は、ずいっと身体を寄せてきた。
 教え子を叱る教師のように人差し指を立てて、いいですか、と菖蒲は言った。
「これぐらい当然です。だって、わたしは夕貴様のものなのですよ?」
 なんでよりにもよって、そんな言い回しをするんだ……。
 菖蒲が「わたしは夕貴様のもの」と言った瞬間、男の学生たちが露骨に不愉快そうな目をしやがった。
 それと合わせて広場の喧騒が強くなる。まさに菖蒲に夕貴を注いだかのごとく――ちがった、火に油を注いだかのごとくだった。
 これは撤退するのが無難かもしれない。
「あー、君。とりあえず俺とあっちに行こうか」
 すると、菖蒲は不服そうに瞳を細めた。きっとマスクの下では、頬が膨らんでいるんだろう。
「……夕貴様? どうして”君”などと他人行儀な呼び方をするのですか? 夕貴様は、わたしの旦那様なのですよ? ですから、もっと菖蒲のことを――っ!?」
「――よしっ、あっちに行こうねー!」
 愛想笑いを浮かべながら、菖蒲の手を取る。こうなれば強制連行だ。これ以上この場にいたら、菖蒲は確実にボロを出してしまう。
 ただでさえ、”菖蒲”という名を明かしてしまったのだ。まあマスクをしているおかげで声がくぐもっているし、まわりの学生たちも、あの高臥菖蒲がこんなところにいるわけがないと無意識下で否定しているからか、ギリギリ正体はバレていないようだが。
 ……普通、芸能人が大学のキャンパス内にいるとは想像しないよな。
 俺は菖蒲の手を取って、ほとんど競歩に近いスピードで歩き出した。
 後ろのほうからは「……ゆ、夕貴様? 菖蒲の気のせいかもしれませんが、なにやら手が繋がっているような……」と間の抜けた声が聞こえてきた。
 握り締めた手は、力加減を間違えば折れてしまうんじゃないかと思うほど小さくて、柔らかい。すこし汗ばんだ菖蒲の掌は、とても触り心地がよく、吸い付いてくるようだった。
 憧れの人と手を繋いだ――という感動も、さすがに今だけは味わう余裕がない。
 がむしゃらに広場から離れるうちに、俺たちはいつしか大学の近所にある公園に辿り着いていた。どうも、ここ最近は公園に縁があるようだ。
 さすがに運動が過ぎたのか、春先だというのに身体は熱を持ち、微かに発汗を始めている。
 菖蒲が公園に着いて最初にしたことは、マスクを外すことだった。
 そういえば――半ばパニックに陥っていたせいで忘れていたが、マスク装着時は酸素摂取量が激減する。つまり普通に運動するときよりも、遥かに呼吸が苦しくなるのだ。
 菖蒲の顔は赤く火照っており、額や首筋には汗が浮かんでいる。息苦しかったからか、瞳は潤んでおり、かなり辛そうな表情だった。
 しかし、さすがに公園と言えども人の目があるので、菖蒲は帽子だけは被ったままにしていた。
「……夕貴様? 一体どういうことなのか、説明してくださいますよね?」
 菖蒲の顔は笑っているけれど、その声には明らかな棘があった。
「いや、えっと、ごめん」
「菖蒲は賢くありませんので、ごめん、だけでは分かりません。夕貴様は、一体なにに対して謝っていらっしゃるのですか?」
「だから、その……菖蒲を”君”って呼んだこととか」
「そうですね。本当に、そうです。あのとき、菖蒲が心の中で泣いていたことを、夕貴様はご存知ないでしょうけれど」
 うわぁ、拗ねてる。
 でも正直な話をすれば、俺は菖蒲の拗ねている姿が嫌いではないので、逆にもっと拗ねさせてみたいとか思ってしまう。
「えっと、あとは……勝手に手を繋いだこととか……?」
 女の子はデリケートな生き物だから、これは怒っているだろうなぁ、と思っていたのだが。
 しかし。
「……いいです。それは、特別に許して差し上げます」
 そう言って。
 菖蒲は赤くなった頬を隠すかのように、ぷいっと顔を背けたのだった。
「そうか。でも本当に悪かったな。俺がもっと菖蒲を気遣ってやれればよかったんだけど」
「いえ、思い返せば菖蒲も軽率でした。人込みの中に夕貴様のお姿を見つけた途端、つい舞い上がってしまって」
 しゅん、と肩を落として、菖蒲は俯いた。
「謝らなくてもいいって。元はと言えば、弁当を忘れていった俺が悪いんだから。菖蒲は学校を遅刻してまで、俺に弁当を届けに来てくれたんだろ? だから、俺が”ありがとう”って言って終わりだ」
 そう微笑みかけると、菖蒲は何度かぱちくりと大きく瞬きをしたあと、つられたように笑った。
 ――結局、俺は一限目の講義を欠席することになった。そうすると菖蒲も「では、わたしもお供しなければなりませんね」と意味の分からない理論を発動し、遠まわしに学校を欠席する意思を表した。
 軽く雑談しているうちに腹が減った俺たちは、公園のベンチで二人並んで弁当を食べることにした。
 すこし遠くのほうでは小さな子供たちが天真爛漫に走り回っており、それを離れた場所から何人かの女性――恐らく母親だろう――が見守っている。
 菖蒲は相変わらず帽子を被ったままだった。
 常識的に考えれば、セーラー服に帽子という組み合わせは合わなくて当然のはずである。しかし菖蒲の着こなしのせいか、不思議と違和感なく見れてしまうのだった。
 それにしても、なんていうか。
 ただ並んで、飯を食って、談笑しているだけなのに――どうして俺は、こんなにも満ち足りた気分になっているんだろう。
 菖蒲がいちいち微笑むたびに、俺も嬉しくなって、つい笑ってしまう。そうすると菖蒲もまた笑って、俺も再び笑うのだ。
 こんな透明感の溢れる笑顔、初めて見た。
 何の裏もない、あらゆる打算が排斥された――子供のような菖蒲の笑み。
 ……でも、今は楽しそうに笑っていても、菖蒲は不安を抱えているんだよな。
 もう自分一人で、未来を信じるのは怖い――そう菖蒲は言った。
 これまで俺の知らないところで、菖蒲は密かに涙を流してきたのだろうか。
 テレビや本でしか菖蒲を見る機会がなかった俺は、彼女が楽しそうにしている姿しか見たことがなかった。
 でも、菖蒲と触れ合える機会ができて、初めて知ったんだ。
 昨日の夜――俺の部屋に菖蒲が訪ねてきて、色々と話をして、ようやく思い知ったんだ。
 菖蒲は、今まで未来に救われるのと同時に、未来に惑わされてきた。
 その結果、菖蒲は信じるべきはずの未来を恐怖するようになった。
 ……おかしな話だ。
 菖蒲ほど、未来を信じるべき女の子はいないのに。
 まさに菖蒲は、未来を信じるために生まれてきたような女の子なのに。
 だって――

「見ーつけた。勝手に出ていっちまうから、探すのに苦労したぜ」

 そのとき、軽薄さを隠そうともしない声が聞こえてきた。
 俺はため息をつきながらも、そいつに向かって文句を言う。
「……おまえが俺を見捨てたのが始まりだろ、託哉」
「いやぁ、悪い悪い。あとで女性用のウィッグをプレゼントするから許せ、夕貴ちゃん」
「――それって嫌がらせじゃねえか! あと夕貴ちゃん言うな!」
 相変わらず変なところで掴みどころのない奴である。
 託哉は、俺の『夕貴ちゃんと言ったことを訂正して謝罪しろ』攻撃を華麗に捌いたあと、菖蒲に向き直った。
「……ふーん、確かに本物の高臥菖蒲だな。あぁ、でも【高臥】なだけマシか」
 面倒くさそうに頭を掻いて、託哉は言った。
 その脱色した前髪から覗く瞳は――どこか冷たい光を宿している。
「はじめまして、高臥菖蒲さん。
 さて、いきなりだが言わせてもらおうか。実はオレは、ずっと前から君のことを警戒していた。なぜだか分かるかい? まあ分からないだろうな。とにかく君は危ない。危ないからこそ、オレが一夜を共にして、ずっと君のことを見守ってあげようと思うんだよ。前口上が長くなったが、なにが言いたいのかと問われれば、オレはこう言うだろう」
 托哉は、菖蒲の前に片膝をつき、
「――オレは高臥菖蒲さんの大ファンなんだよぉぉぉぉっ!」
 身振り手振りを交えて、そう宣言した。
 結論。
 やっぱりコイツは真性のアホだった。




 妙なことになった。
 大学の近所にある公園にて、俺と菖蒲が弁当を食っていたら、友人を見捨てて保身に走ったはずの託哉が現れたのだ。
 常日頃から女の尻ばかり追いかけている託哉にとって、高臥菖蒲という少女は、まさに至高のご馳走に見えることだろう。
 相も変わらず歯の浮きそうな――いや、もはや歯がロケットのごとく飛んで行きそうな台詞を延々と述べる託哉は、これ幸いにと菖蒲を口説きにかかっていた。
 ……なんか、面白くない。
 認めるのは癪だが――玖凪託哉という俺の友人は、三枚目っぽい言動とは裏腹に、わりと整った顔立ちをしている。
 しかも身長は俺より五センチ以上高く、ガタイだって悪くない。その容姿には女々しいパーツが一つもなく、精悍という言葉がよく似合う。まあ髪を明るめに脱色しているものだから、一見してナンパな野郎に見えることは間違いないんだけど。
 託哉は誰に対しても積極的に声をかける。それは良く言えば人懐っこいが、悪く言えば遠慮がない。
 しかし、初めは戸惑い気味だった菖蒲も、いつの間にか託哉と打ち解けていた。
「――というわけで菖蒲ちゃん。夕貴のことなんか放って、オレと一緒に天国にでも行かないかい?」
「託哉様のお誘いは嬉しいのですが、丁重にお断りさせていただきます」
「ぐはっ……! せめてもう少しぐらい考えてくれても……!」
 わざとらしく吐血する仕草をした託哉は、やはりわざとらしく口元を拭った。もちろん血が出ていなければ、涎さえ垂れていないけれど。
「ちなみに理由を聞いてもいいかい? どうしてオレが駄目なんだ?」
「託哉様が駄目――というよりも、わたしが駄目なのです」
「君が駄目なわけないだろう!? 菖蒲ちゃんが駄目なら、この世でオッケーな女の子がいなくなるじゃないか!」
「……いえ、そういう意味ではなくて」
 こほん、と咳払いして、菖蒲は続けた。
「わたしが、夕貴様じゃないと駄目なのです」
 そう言った菖蒲の頬は、ちょっとだけ赤くなっていた。
 思わず心が温かくなる。自然に口元が緩み、笑みがこぼれた。
 なんとなく菖蒲を見つめていると、彼女は俺をちらりと見た。そして目が合った瞬間『しまった!』というような顔をして、菖蒲はそっぽを向く。そのまましばらく見つめていると、また菖蒲はそろ~りと俺のほうを見て、やはり目が合った瞬間にそっぽを向かれてしまう。
 温かなお湯に浸かっているような、あるいは極上のマッサージを体験しているかのような、なんとも言えない気持ちのいい感情が胸に溢れた。
 ふと気付くと、託哉が瞳に涙を浮かべながら俺を睨んでいた。よほど菖蒲に誘いを断られたことが悲しかったのだろうか。
「……なんだよ託哉」
「ふーんだっ! 夕貴ちゃんなんてもう友達じゃないもんねー!」
 普段の俺なら”夕貴ちゃん”と呼ばれて怒るところだが、しかし今だけは怒りが沸いてこない。
 それぐらい俺の心は澄み渡っているのだ。
「おまえは子供か。駄々を捏ねるみたいに言うなよ」
「うるさいもんねー! 夕貴の言うことなんて聞かないもんねー! 夕貴は女の子みたいな顔をしてるんだもんねー!」
「あーはいはい。俺は女の子みたいな顔してるなー」
 今だけは、どんなことを言われても怒らないのである。
「やーい、やーい! 夕貴のお母さんはでべそー!」
「――んだとコラぁ!? 俺の母さんがでべそなわけねえだろうがっ! むしろ世界へそ選手権でも優勝できそうなぐらい綺麗なへそをしてるわボケぇ!」
 だめだ、母さんの悪口に反射的に反応してしまった。
「まあ。夕貴様と託哉様は、仲がよろしいのですね」
 ガキみたいな口論をする俺たちを一歩引いて眺めていた菖蒲が、口元に手を当てて上品に笑った。
「――誰がこんなやつと!」
 偶然か必然か、その否定の声は機械で合成したかのようにハモっていた。
 それがまた、俺と託哉は仲がいい、と菖蒲に思わせたのだろう。どこか嬉しそうに菖蒲は笑顔を見せた。
 すると不思議なことに、俺と託哉もつられて笑ってしまうのだった。
 この高臥菖蒲という少女は、ただそこにいるだけで周囲の人間を惹きつける。
 大げさな物言いかもしれないが、この場は菖蒲を中心に回っているような気さえするぐらいだ。
 よく芸能人にはオーラがある、というような話を聞くが、それは真実だと、菖蒲を見ていれば強く思うのだ。
 高臥菖蒲が支持されているのは、その清楚なルックスや、純真な性格や、女子高生にしては飛びぬけたプロポーションだけでは決してない。
 口には出来ない、真似しようとしても出来ない、後天的には身につけることの出来ない――そんな”何か”が菖蒲にはある。
 言ってしまえば、それは女優としての資質なのだろうし、もっと言えば人の上に立つ器というやつなのかもしれない。
 頭の隅で、ぼんやりとそんなことを考えながら、俺たちは取り留めのない話に興じていた。
 ――そして、俺がそれに気付いたのは、菖蒲が不自然に言葉を詰まらせたからだった。
 談笑していたはずの菖蒲は、しかし不機嫌そうに瞳を細めて、遠くのほうを見つめている。
 その視線の先を追ってみる――すると公園の外に、明らかに一般人には縁のなさそうな黒塗りの車が停まっていた。
 公園内にいる主婦たちは、一瞬その高級車に注目したものの、やはり我が子を見守るほうが大切なのか、すぐに視線を戻した。
 怪訝に思う俺と託哉に挟まれているかたちの菖蒲は、珍しくため息をついた。
 やはり――あの高級車は、菖蒲と関係があるのだろうか。
 胸中に立ち込める不安を紛らわせるためか、菖蒲はそっと俺の服の裾を握ってきた。
 それに目を取られ、菖蒲を護ってあげたい、と再認識した俺が顔を上げると、ちょうど車から一人の男性が降りてくるところだった。
「……参波(さんなみ)」
 ぽつりと菖蒲が言った。
 それを聞いた託哉が目を見開き、次の瞬間には無感情に瞳を細めた。
 予想通りと言うべきか、高級車から降り立った男性は、一直線に俺たちに向かってくる。
 彼は見るからに高価そうなスーツに身を包んでいた。遠目でも分かるほどの高い身長が、またスーツとよく合っている。
 その所作の一つ一つは非常に洗練されており、手足はもちろんのこと、指先までが測ったようにピンと伸びている。
 特筆すべきは背筋か。
 彼は、まるで背中に定規でも当てているのではと疑うほど背筋が垂直だった。
「――ご無沙汰しております、菖蒲お嬢様」
 俺たちの眼前で停止した彼は、ぴったり九十度で頭を下げて、うやうやしく礼をした。
 それは、きっと三角定規よりも美しい直角だったと思う。 
「……参波。まさかお父様に言われて、わたしを連れ戻しに来たのですか?」
 菖蒲は腕を組み、やや権高に疑問を口にした。
 その物言いが板についているあたり、菖蒲はこの男性と親しい間柄なのだろう。
「仰るとおりでございます――と言いたいところではありますが、違います」
 言って、彼――参波さんは顔を上げる。
 参波さんは、社会人の見本のような身なりだった。品のいいスーツを嫌味にならないように着こなし、顔には拘りのありそうな銀縁の眼鏡をかけている。年の頃は、大体三十半ばぐらいだろうか。
 間違いなく大企業に勤めていらっしゃるような装い――と言いたいところではあるが、なぜか参波さんは、カラスの濡れ羽のような黒髪をオールバックにしていた。
 しかも、参波さんの右目付近――ちょうど眉のあたりから頬の上部にかけてまで――には瞼を通過するようにして大きな切り傷が入っている。
 社会人として完璧なまでに整った風貌は、しかし髪型と切り傷が与える暴力的な迫力によって、参波さんという男性を只者ではないように見せていた。
「違う……? その心は何ですか、参波」
「そのままの意味です。私には――いえ、重国(しげくに)様には、お嬢様を連れ戻す意思はございません」
 今のところはですが、と参波さんは付け足した。
「……お嬢様。こちらの方が、例の?」
 参波さんの目が、俺を捉える。
「はい。貴方には説明するまでもないでしょうけれど、このお方が萩原夕貴様です」
「……ふむ」
 萩原夕貴という人間の価値を計るように、参波さんは俺の足先から頭のてっぺんまでを観察した。
 ……あまり気分のいいものじゃないな。
 そう感じたものが、無意識のうちに俺の表情に出たのだろう。参波さんは黙って頭を下げた。
「――これは失礼を致しました。萩原夕貴様の気分を害してしまったようですね」
「いえ、頭を上げてください。僕は何とも思っていませんから」
 俺の許しが出たからか、参波さんは面(おもて)を上げた。
「寛大な処置痛み入ります。
 では、遅ばせながら自己紹介を。私は、参波清彦(さんなみきよひこ)と申します。現在は【高臥】において家令を努めさせていただいております。以後、お見知りおきを」
「ご丁寧にありがとうございます。僕の名前は、萩原夕貴。今は大学で経済学を学んでいます」
「はい、存じております。しかし夕貴様。私には丁寧語を使用せずとも構いませんよ。普段通りのお言葉でどうぞ」
 そう言われても、はい分かりました、と簡単には頷けない。
 俺の躊躇を読み取ったのか、菖蒲が口を開いた。
「夕貴様。参波の言うとおりです。だって、夕貴様と菖蒲は添い遂げる未来にあるのですよ? つまり長い目で見れば、参波は夕貴様に仕えることにもなるわけです」
「……いや、そうは言われてもなぁ」
「お嬢様の仰るとおりでございます。夕貴様、どうか私に対しての丁寧語は控えるようお願い申し上げます」
 頭を下げる参波さん。
 そこまで言われたら、逆に丁寧語を使うことが失礼にも思えてきたな。
「……分かった。これからは普通に話すよ。でも、その代わり、夕貴様って言うのは止めてくれないか?」
「畏まりました。では、夕貴くんと」
 俺としては、目上の方にタメ口を利くのは逆に落ち着かないんだけど――丁寧語を使ったままじゃ、参波さんずっと頭を下げてそうだもんな。
「……はい、これにて一件落着です。夕貴様と参波は、今のうちから仲良くするのが正解ですからね」
 嬉しそうに両手を合わせて、菖蒲は続けた。 
「参波。こちらの方は夕貴様のご友人で、玖凪託哉様です」
 紹介された託哉は――どこかふてぶてしい態度。
 紹介された参波さんは――怪訝に眉を歪めていた。
「参波だぁ?」
「玖凪ですと?」
 不機嫌そうに足を組みなおす託哉と、不愉快そうに眼鏡をくいっと上げる参波さん。
「おいあんた。もしかして漢数字の”参”に、津波の”波”って書いて参波じゃねえだろうな」
「そういう君こそ、まさか漢数字の”玖”に、朝凪の”凪”で玖凪じゃないだろうね」
 互いの問いに、互いとも答えなかった。
 それでも二人は、自分の知りたい答えを得たように見えた。
「けっ、相変わらず主体性のない人たちだねぇ。あんたらは、とうとう《十二大家》の一つにまで取り入ったのかい?」
「人聞きの悪いことを言う。私たちは、己の信ずる方に仕えているだけだよ。君たちと違ってね」
 ピシリ――と空気が軋むような音が、聞こえた気がした。
 なんだか分からないけど、止めに入ったほうがよさそうなことだけは確かだ。
 しかし、俺が仲裁するよりも数瞬早く、二人は顔を背け合った。
「……さて、話が逸れましたね。まさか夕貴くんのご友人が、あの玖凪だということには正直驚きましたが」
 眼鏡をくいっと上げた参波さんは、それでは本題に入りましょう、と言った。
「――単刀直入に申し上げます。夕貴くん、お嬢様をお願いします」
「は?」
 いきなり頭を下げて、菖蒲を頼まれてしまった。
 まったくもって単刀直入じゃない。だって意味が分からないし。
「噛み砕いて言えば、お嬢様をしばらくの間、夕貴くんの自宅に泊めてあげてほしい、ということですね」
 いや、それ噛み砕けてないような。だって意味が分からないし。
 ――参波さんの説明によれば。
 菖蒲の父親である高臥重国さんは、経営者としては他に類を見ないほど優秀な方で、それと同じぐらい厳格なのだそうだ。
 しかし重国さんは、まわりにはバレていないと思っているそうだが、超がつくほど菖蒲のことを溺愛しているという。
 だからこそ菖蒲が予知夢を見ても、高校を卒業するまでは、と制限を設けて娘を手放そうとしなかった。
 結果として――菖蒲は束縛にも似た過保護に嫌気が差し、父親に反発した挙句、家出という強行手段に出てまで俺の家に来たというわけである。
 ここからが本題。
 娘に泣きながら「お父様なんか、大っ嫌いです!」と言われた重国さんは、まわりにはバレていないと思っているそうだが、この世の終わりを目前にしたかのような勢いで落ち込んでいるらしい。
 家出した菖蒲の行方は、高臥の持つ組織力を駆使することによって、すぐに判明した。
 ならば、どうしてすぐに菖蒲を連れ戻さないのか――という疑問が残るわけだが、これはひとえに菖蒲の母親である高臥瑞穂さんが、重国さんを『いい機会だから』と説得したから。
 高臥家直系の瑞穂さんと、婿養子として高臥に入った重国さん。
 この二人の間に偏った発言力の差はないそうだが、それでも【高臥】の保有する未来を垣間見る力が絶対だと理解しているのは、正統な血を引く瑞穂さんのほうだった。
 歴代の中でも稀有な能力を持つ瑞穂さんに説得されたなら、さすがの重国さんも覚悟を決めないわけにはいかない。どちらにしろ菖蒲と重国さんは、親子史上初と言ってもいいぐらいの大喧嘩をしたのだから、しばらくの冷却期間は必要となってくる。
 まあ紆余曲折があったわけだが、とりあえずは様子見ということで、しばらくの間、菖蒲が俺の家に滞在することは黙認されるということだ。
 ちなみに女優業のほうは生活が落ち着くまで一時的に休止――まあ元々、菖蒲がメディアに露出することは少なかったし、女子高生にもなって学業も本格化してくるのだから、その措置は自然かもしれない。女優はアイドルとは違って融通も利くらしく、例えドラマや映画の出演依頼が入ったとしても、一身上の都合があればキャンセルすることも出来る。
 また、菖蒲が俺と同棲している――というスクープが人目に触れないようにするためのシステムはすでに構築されている。
 というのも、高臥家が該当地域における各社報道局、新聞社、雑誌社などにコネクションを持っており、必要とあらば情報を握りつぶせるからだという。つまり、圧力をかけるってことだ。
 参波さんはハッキリと口にしなかったが、その発言の節々から察するに、【高臥】はその気になれば検察や行政のほうにも手を回せるようで、大抵のスクープや特ダネ程度ならばあっという間に葬れるらしい。

「決して言葉にはしませんが――重国様は、夕貴くんに期待しているのです」

 重国さんは、目に入れても痛くないほど菖蒲のことを可愛がってきた。
 しかし娘は、いずれ男の元に嫁がなければならない。
 息子が結婚するときは『おめでたい』と素直に思うものだが、娘が結婚するときは『取られてしまった』という気持ちが胸のうちで燻るのは、やっぱり父親だからなのだろうか。
 それでも重国さんは「菖蒲が視て、選んだ男ならば信用してみよう」と断腸の想いで決意し、菖蒲が萩原邸に滞在することを許可した。
 すべての話を聞いて、俺は思った。
 あれ、なんか俺が菖蒲と結婚することが前提になってねえか? と。
「……つまり、しばらくの間、菖蒲を預かって欲しいってことか」
「端的に言えば、そうなります。私としても、これは重国様が子離れをするいい機会だと思うのですよ」
「…………」
 俺の知らないところで、話が飛躍しすぎているような気がする。
 ナベリウスの場合は――あいつが母さんの知り合いで、俺の父親とも仲がよくて、なにより悪魔という繋がりがあるからこそ、当たり前のように居候しているわけだが。
 でも菖蒲は、客観的に見れば赤の他人なんだ。いくら本人が『萩原夕貴と結ばれる未来にある』とは言っても、今のところは他人なんだ。
 付き合ってはいないから、恋人同士じゃない。
 血が繋がってないから、親類同士じゃない。
 もちろん菖蒲と同居することは素直に嬉しいし、考えるだけで楽しそうだなと思う。
 でも常識的に考えて、知り合ったばかりの――しかも年頃の女の子と同棲するのは、道徳的に問題があるように思えるのだ。
 俺だって健全な男だし、なにかの間違いで、菖蒲に欲情して襲い掛かってしまうことだってあるかもしれない。
 そう考えると、自信を持って『菖蒲を任せてください』とは言えないのだ。
「……夕貴様は、菖蒲と一緒にはいたくないですか?」
 優しく、ともすれば遠慮がちに、菖蒲が俺の手を握ってきた。
 菖蒲の瞳は悲しそうに揺れていて、俺が拒否の言葉を吐き出せば、その瞬間に泣き出してもおかしくはなかった。
「……いや、そんなことはない。菖蒲と一緒にいるのは凄く楽しいよ。だからこそ――」
 だからこそ。
 容易に頷くことが出来ないのも、確かである。
「……菖蒲は、夕貴様をお慕いしております。それだけでは、駄目でしょうか?」
 駄目だ――と口にするのが、ある意味では正解なのかもしれない。
 そうすれば菖蒲は高臥家に戻り、安全で、贅沢で、恵まれた環境の中で学業に励むことができる。
 俺の家にいれば、ナベリウスという銀髪の悪魔がいるし、なにより間違いが起きないとも限らない。
 それでも。
 俺は思い出していた。
 昨日の夜、菖蒲が泣いていたことを。
 あんなに澄んだ笑顔を浮かべる菖蒲が、今にも消えそうな儚さを身に纏い、辛そうな表情をしていたことを。
 それを知って。
 あの菖蒲が俺だけに見せた弱さを知った上で――彼女を放っておくことができるのか?
 そんなの、女々しい男のすることじゃないか?
 菖蒲のことを護ってやりたいって、そう思ったあのときの俺は嘘だったのか?
 道徳とか、性欲とか、そんなちっぽけな鎖に縛られただけで迷う程度の想いだったのか?
 いや、違うよな――
「――分かりました。俺が責任を持って、菖蒲を預かりたいと思います」
 言って、参波さんに向けて頭を下げた。
 一度決意してみると、さっきまで悩んでいた自分がバカに見えてきた。
 さりげなく横を確認すると、菖蒲が何度も頷きながら、瞳を拭っていた。その涙が、悲しいからではなく、嬉しいからであるといいけど。
「……やはり、ですか。夕貴くんならば、そう言ってくれると思っていました」
 参波さんは、最初から俺の答えを知っていたような口ぶりだった。
 それを疑問に思って尋ねてみると、
「夕貴くんは、お嬢様が選んだ方ですから」
 と、参波さんは笑った。
 ――聞くところによると、参波さんは菖蒲が生まれるよりも前から高臥家に仕えていたという。それゆえに参波さんと菖蒲の両親は、上司と部下というよりも、もはや友人のような間柄らしい。
 つまりこの人は、十六年間もの間、菖蒲のことを見守ってきてくれたのだ。
 参波さんにとって、菖蒲は娘のような存在であり。
 菖蒲にとって、参波さんは第二の父親のようなものなのだろう。
 相変わらず定規を当てたみたいに真っ直ぐ背筋を伸ばしながら、参波さんは公園内で遊ぶ子供たちを見つめていた。
 もしかすると――公園を走り回る少年少女と、幼き日の菖蒲を重ねているのだろうか。
「……素晴らしい」
 鉄棒で戯れる幼い少女二人を見つめながら、参波さんが呟いた。
 確かに、小さな子供が遊ぶ姿って、なんか尊い感じがするよなぁ。
 俺にその素晴らしさを再認識させてくれるとは、さすが参波さんである。
「それに比べて菖蒲お嬢様は……はぁ」
 うんうん、と俺が頷いていると、参波さんは菖蒲を見つめながらため息をついた。
「……参波、どこを見ているのですか?」
 菖蒲は警戒心をあらわにしたまま、両腕で胸を隠した。
「いえ、他意はないのです。ただお嬢様の成長した胸を見ていると、私は残念でなりません。幼いころのお嬢様は、それはもう天使が顕現したのかと本気で信じるほど愛らしかったというのに」
 確かに、菖蒲の幼少期といったら、常軌を逸するほど可愛らしかっただろう。
「しかし、今のお嬢様を見ていると反吐が出そうになりますね」
「えっ?」
 俺の気のせいじゃなければ、参波さんの口から紳士らしかかぬ言葉が漏れたような。
「まったく、あの天使のようになだらかだったお嬢様の胸も、今となっては……はぁ」
「……参波? 夕貴様の前で、失礼な発言をしてはいけませんよ?」
 菖蒲は優しげに微笑んではいるが、その眉は微かにつりあがっていた。密かに怒っているようである。
「夕貴くん――どう思いますか?」
 なぜだか分からないが、参波さんは俺に話を振ってきた。
「どう思いますかって、言われても……」
 なんの話だ?
「ふむ、分かりませんか。ならば、あれを見てください」
 参波さんは――鉄棒で遊ぶ女の子たちを指差した。
「あの小さな身体、なだらかな胸、丸みを帯びていない体つき……最高だと思いませんか?」
「――ぶっ!」
 なにも飲んでないのに咽せてしまった。
 ま、まさか参波さんは……!
「ロリコン、なのか……?」
「ふっ、あまり褒めないでくださいよ夕貴くん。照れるではないですか」
 銀縁の眼鏡をくいっと上げて、参波さんは朗らかに笑った。実にいい笑顔である。
 でも俺は、朗らかに笑えないのでありました。
「さ、参波さん! さすがに子供に手を出すのはまずいだろ!」
「参波ではなく、きよぴーとお呼びください」
 どうやら幼女の話をするときは、参波さんではなく、きよぴーと呼ばなくてはいけないらしい。
「安心してください。幼女とは、手折るものではありません。ひたすらに慈しんで、愛でるものなのです。分かりますか? 愛でるものなのです。
 それなのに昨今ときたら、幼女に性的興奮を催すような下賎な輩が増えているというではありませんか。まったくもって度し難い。いいですか、幼女とは興奮するものではなく、癒されるものなのです。そこを間違えてしまった者こそが、ロリコンではなく、犯罪者と呼ばれるのですよ」
 急にロリコン講座を開かれても対応に困るんだけど。
「――もうっ、参波! 夕貴様に変なことを吹き込まないでください!」
 そのとき。
 まさに救世主のごとく、菖蒲がきよぴーを――じゃなかった、参波さんを止めてくれた。
「むむ、ここにはおっぱいお化けがいることを忘れていました。では夕貴くん、この話はまた後ほど」
「さ、ん、な、み? あまり、わたしを怒らせないほうが賢明ですよ?」
 何気なく横を見て――俺は思わず息を呑んだ。
 いちおう菖蒲は笑っているのだが、さっきからひっきりなしに頬の筋肉が痙攣しており、今にも爆発しそうである。噴火寸前の火山があるとすればそれだ。
 でも、やっぱり菖蒲と参波さんは仲がいいんだなぁ、と思う。もう兄妹のような趣さえ感じられるぐらいだ。
 二人は、しばらく仲睦まじい口論をしていた。と言っても、菖蒲が怒って、それを参波さんが華麗に受け流していただけだが。
「――さて、では私は戻ります。こう見えても時間が押しているものでして」
 腕時計を見つめながら、参波さんが言った。
 菖蒲はよほど怒っているのか、腕を組んだまま、そっぽを向いている。
 恐らく慣れっこなのだろう、参波さんは気にした様子もなく、黙って翻った。
 参波さんは俺と別れの挨拶を交わすと、そのまま振り返ることなく歩き始めた。相変わらず背筋を真っ直ぐ伸ばしたまま。
 ――その最後。

「――玖凪の。なにを企んでいるのかは知りませんが、お嬢様と夕貴くんに手を出すことだけは許しませんよ」
「――はん、あんたに言われるまでもねえよ参波の。夕貴はオレのダチだし、それにダチの女に手を出すほどオレも落ちぶれちゃいねえさ」

 参波さんと託哉は、そんな嫌味を交換し合っていた。
 一体、この二人はどういう関係なんだ? 少なくとも良好な間柄ではなさそうだが――いや、それを言うなら今日が初対面のようだったのに、どうして互いのことを知っているような口ぶりなのだろうか。
 黒塗りの高級車に乗り込む参波さんを眺めながら、俺はそんなことを考えていた。



[29805] 1-5 スタンド・バイ・ミー
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/10/03 17:48
 父親と大喧嘩をした菖蒲は、家出という強行手段に走った挙句、俺の家を訪ねてきた。
 まあ紆余曲折があったわけだが、菖蒲は一時的にうちで預かることになった。
 高臥において、宗家直系の女児が視る予知夢は絶対とされている。
 つまり高臥の人たちは、俺と菖蒲が結ばれると信じきっているんだ。
 だから萩原邸に――健全な若い男子である俺がいる家に、菖蒲が滞在することが許可された。
 高臥家当主――つまり菖蒲の父は、娘が男と口を利くのもよく思わないぐらい菖蒲のことを溺愛しているという。
 その事実を鑑みれば、彼が、菖蒲を俺に預けたのは特例中の特例であると分かる。
 菖蒲のことが何物にも代えがたいほどに大切だから、本来であれば男と触れ合う機会を与えない。
 でも、やっぱり娘の想いを無碍にするのも忍びなく、なにより娘が選んだ男ならば信じてみよう、という葛藤と決意が俺の知らないところであったからこそ、現状が確立された。
 一時的に、と設けられた菖蒲の滞在期間は一週間程度なのか、あるいは一ヶ月か、それとも数ヶ月にも及ぶのかは分からない。
 とりあえず俺に言えることは、菖蒲の日用品が圧倒的に足りていないという危機的状況だけである。
 家出の際、巨大なボストンバッグに荷物を詰め込んだ菖蒲だったが、いくら詰め込んでもそれはバッグである。持ち運べる量など高が知れてる。
 数日程度の外泊ならば大丈夫だろうけど、それ以上となると買い足す必要性が出てくる。
 やっぱり女の子は男と違って、色々と入り用なものが多いみたいだ。
 現代社会において、なにかを欲さんとするのなら、まあ大体は金を払った売買が主流だろう。
 つまり、買い物である。
 菖蒲の日用品や衣服が足りなくなったのなら買い足せばいいだけの話。
 というわけで早速、俺と菖蒲は街に繰り出していた。
 ちなみに文字通りの意味で”早速”である。
 とある公園にて、参波清彦さんという方から話を聞いた俺たちは、すぐさま萩原邸に帰った。
 菖蒲が萩原邸に滞在する期間が延長されたのならば、それに見合った日用品を調達しなければならない。本来ならば休日の朝から買い物に出かけるのが正解なのだろうけど、まあ今はまだ昼頃なので、そう大差はない。善は急げとも言うし。
 聞くところによると、すでに参波さんが愛華女学院に『菖蒲を欠席させる』という旨を伝えていたらしく、俺が心配していた無断欠席の恐れはないらしい。
 菖蒲の風評が落ちることは『高臥菖蒲』の一ファンとして嫌だったので、この参波さんの配慮は嬉しいばかりである。
 託哉は残りの講義を消化するために大学に向かった。しかも粋なことに、俺の出席を代わりに取っておいてくれるというのだ。あいつは天才か。
 菖蒲と二人きりというのは緊張するので、ナベリウスも買い物に付き合わせるつもりだったのだが、あの銀髪の悪魔はいらないところで空気を読むのがお得意らしい。
「あぁ、わたしはパス。今日は見たい昼ドラがあるし」
 とか何とか、アホみたいに人間くさい台詞を残し、ナベリウスはリビングのソファに沈んでいったのだった。
 そんなこんなで俺は、かの女優『高臥菖蒲』と、なんとも恐るべきことに二人きりでデート。
 いや、買い物をするという事態に直面したのであった。

「夕貴様! そこです、そこ! そこですってばー! 早く、早くっ!」

 未曾有と言っても過言ではないほどに興奮した、菖蒲の声。
 激しい運動をしているからか、その頬は薄っすらと紅潮しており、瞳には隠しきれない歓喜が滲んでいる。
 上下に運動している菖蒲の胸元では、男性の視線を強く惹きつける蟲惑的な双つの膨らみが揺れていた。
 どうやら菖蒲は、もう我慢できないらしい。
 ならば俺も焦らすのは止めて、そろそろフィニッシュと行こう。
 最後の瞬間に備えるため、指先に神経を集中。
 どんな反応も見逃さぬよう、これでもかと目を見開く。
 限界まで溜めた力を解き放ち、俺は俺のために、なにより菖蒲のために最後まで一直線に駆け抜けた。
 ――その結果。
「やりましたっ! さすが夕貴様です! やっぱり夕貴様は、菖蒲の夕貴様です~!」
 俺が額の汗を拭っていると、そんな愉悦に満ちた声が聞こえてきた。
 よほど嬉しいのか、菖蒲は俺のとなりで両拳を握って、瞳を輝かせていた。
 実に女の子らしい仕草ではあるが、基本的に落ち着いた物腰の菖蒲にしては珍しくもある。
「喜んでくれるのはいいけど、あまり騒ぎすぎるなよ。菖蒲は有名人なんだから」
 口では説教をしつつも、菖蒲の笑顔を見れたことが嬉しかった。
 俺はクレーンゲーム機の筐体から、今しがた手に入れたばかりの戦利品を取り出す。
 その宇宙人をモデルにデザインしたようなぬいぐるみは、若い女の子の間ではそこそこ流行っているらしく、菖蒲も多分に漏れずファンだという。
 ――元はと言えば、繁華街にある中規模のゲームセンターの入り口付近で、このクレーンゲーム機の筐体を見つけたことが始まりだった。
 例の宇宙人のぬいぐるみ――アニーくんと言うらしい――を認めた菖蒲は、しかし口に出して「あれが欲しい」とは言わなかった。
 ただ一瞬立ち止まって、プレゼントのねだり方を忘れた子供のような表情を浮かべるだけ。
 どうしたんだろう、と訝しむ俺に気付いた菖蒲は、すこしだけ寂しそうに笑って「行きましょうか」と言った。
 しかし、そこで黙って頷くほど俺は鈍い男じゃない。
 なにも言わず――ここで何も言わなかったのが個人的なポイントである――クレーンゲーム機の筐体に歩み寄った俺は、これまた黙って財布を取り出し、硬貨を投入するという男業を披露した。
 戸惑う菖蒲に向けて「これ、プレゼントしてやるよ」と笑いかけたときの俺は、間違いなく人生でベストスリーに入るぐらい輝いていたと思う。
 初めは遠慮していた菖蒲も、すぐに応援に回ってくれた。やっぱり彼女は出来た娘で、ここで遠慮すると逆に男の面子を潰してしまうと理解してくれたのだ。
 結局、一回目は失敗し、二回目も失敗し、三回目にしてようやく宇宙人のアニーくんを手に入れたわけである。
「菖蒲って、それが好きなんだよな?」
「はい! だって、とっても可愛いではありませんか~!」
 菖蒲はアニーくんを胸元に抱きしめて、頬をすりすりした。
 『高臥菖蒲』のファンである俺を差しおいて、あの谷間に挟まり、あの柔らかそうなほっぺたに触れるとは――アニーくん許すまじである。
「まあ可愛いといえば可愛いな。でも……」
「……でも?」
 きょとん、と小首を傾げて、俺を見つめてくる菖蒲。
 ――でも、君のほうがもっと可愛いよ。
 なんてキザな台詞を言ってみようとしたのだが、よく考えるとこれは寒すぎるような気がして、直前で踏み止まった。
 こういう芝居じみた台詞をさらっと口にして、それは冗談だったかのごとく二人で笑いあって、話を広げていくのが理想なんだけど――俺には敷居が高すぎるか。
「いや、なんでもない。そろそろ行こうぜ」
 言うが早いか、俺は歩きだした。
 身長差があるものだから、俺たちが真っ直ぐに見つめあうと、自然、菖蒲は上目遣いのようなかたちになる。
 それがまた下手な刃物よりも殺傷性の高い武器だったりするのだ。
「……夕貴様? お顔が赤いようですけれど」
 小走りで追いついてきた菖蒲が、腕の中にアニーくんを抱きしめながら、そう言った。
「えっ、そんなに顔が赤いか?」
「はい。それはもう林檎さんみたいに」
 言って、菖蒲が身を寄せてくる。数秒に一回は肩がぶつかるほど距離が近い。
 菖蒲の近くにいるから顔が赤くなってしまうのに――それに気付かない菖蒲は、むしろ俺を何らかの病原菌から護ろうとするかのように、近づいて離れようとしない。
 平日と言えども繁華街には人が多く、様々な商店や娯楽施設が所狭しと並んだ空間には、祭りに似た喧騒が満ちている。
 しかし、行き交う人間の全員が、菖蒲の正体には気付かない。
 巧妙な変装をしているわけでもないのに、みんな菖蒲のことに気付かない。
 女優さんである本人曰く、
「勘違いをなさっている方も多いですが、実は大した変装をせずとも、みなさん意外とお気づきにならないものなのですよ」
 とのこと。
 ちなみに菖蒲の服装は、フリルのついた白のチュニックと、ややダメージの入ったショーパンに、黒のニーハイソックス、そしてローファーという組み合わせだった。もちろん帽子を目深に被ることも忘れない。
 別名『清楚・オブ・清楚』という異名を、俺が勝手につけるぐらい清楚なイメージを持つ菖蒲にしては、やや大胆なファッションである。
 それを指摘すると、
「そうなるようにコーディネートしましたから」
 と言っただけではなく、
「では逆にお聞きしますが、夕貴様は菖蒲の普段着をどのようなものだと想像していましたか?」
 そう問い返されてしまった。
 ここまで来れば単純な話。
 一般的に清楚な美少女として知られる菖蒲は、テレビや雑誌でもお嬢様然とした服を着ていることが多い。
 その映像を脳内にインプットしているお茶の間の俺たちは、もちろん菖蒲の私服も清楚な感じなんだろうなぁ、と勝手に補完してしまっている。
 しかし予想に反し、菖蒲の私服は年頃の女の子のように大胆なものだ。なによりショーパンとニーハイソックスという組み合わせは、その美脚を惜しみなく披露するのと同時に、ふとももの一部分まで露出することになる。
 もしも菖蒲を見て、女優として活躍する『高臥菖蒲』を思い浮かべたとしても、その大胆な服装の演出する扇情的な雰囲気が、一般人の知る清楚な菖蒲とかけ離れているせいで、みんな『公』と『私』に隔たれた菖蒲を結びつけることができない。
 つまり繁華街にいる大勢の人たちは、菖蒲を見ても『高臥菖蒲にどことなく似ている少女』という認識しか持たない。いや、持てない。
 菖蒲の持つ清楚なイメージとは裏腹の、蟲惑的なプロポーションをフルに生かした大胆なファッション。そして目深に被った帽子が、菖蒲の顔立ちを一瞥しただけでは正確に判別できないようにしている。
 菖蒲曰く、サングラスやマスクで人となりを隠し切らないのがポイントらしい。
 あえて『帽子を被る』という変装だけに留めておき、菖蒲の顔を少しだけ判別させる余裕を与えておく。それは、嘘の中に真実が混ざれば見分けがつきにくくなるのと同じ理屈。芸能人は騒がれないように顔を隠すもの、という一般的な常識を逆手に取った方法。
 いわば、変装しないことこそが菖蒲流の変装――ということだろう。
 要するに――今の菖蒲は、『高臥菖蒲によく似た美少女』というレッテルを意図的に作り出し、それを己に貼り付けることによって、周囲の目を欺いているのだ。
 でも、やっぱり気分がいいものじゃないのは確か。
 だって、すれ違う男たちが菖蒲に見蕩れてばっかりなんだ。
 彼女の眠そうにちょっとだけ閉じた二重瞼の瞳が、目深に被った帽子によって隠れているとしても、やっぱり柔らかそうな唇と、その蟲惑的な体つきだけは隠し切れない。
 中には露骨に口笛を吹いたり、菖蒲を指差したりする男もいて、俺の胸中には誇らしい気持ちと、なんとも言えない危機感のようなものが混在していた。
 言ってしまえば、菖蒲をみんなに見られることが嫌だったのである。……これは、さすがに自分でも女々しいと思うけど。
 もしかしたら勘のいいヤツが菖蒲の正体に気付くんじゃないか、と終始ドキドキしっぱなしだったが、現状を鑑みるかぎりは大丈夫そうである。
 俺は菖蒲に案内されるがままに、近場のスーパーマーケットやら薬局、洋服店、雑貨店などを回った。
 女の子の買い物が長いという都市伝説みたいな話は、実は真実なのだと俺は思い知った。菖蒲は品選びをする際に、追い詰められた棋士のごとく長考する。思わず俺が先に「参りました」と投了しそうだった。
 そこそこ膨れ上がった荷物は、もちろん俺が持った。さほど重くはなかったし、なにも買わない俺はせめて荷物運びぐらいするべきだと思ったのだ。
 もちろん菖蒲は「わたしも持ちます」と遠慮したのだが――
 実は、そういうときの菖蒲を引き下がらせる必殺の呪文がある。

 ――俺たちは未来のパートナーなんだろ? 

 これである。
 この三秒ちょっとで発声できるセンテンスの効果は絶大。
 なにせ俺がこの台詞を口にすると、菖蒲はほっぺたを赤くして「……それなら、仕方ありませんね」と俯きがちに同意してくれるのだから。
 どうやら自分が言うぶんには平気でも、俺から言われるのは気恥ずかしくてたまらないようだ。
 ただし、この呪文は俺自身にも少なくないダメージをもたらすので、用量・用法には注意が必要だったりする。
 男の俺が思いつくかぎりの日用品などはあらかた買い込んだわけだが、菖蒲には最後にもう一つだけ買いたいものがあるらしかった。
 もちろん反対はしなかった――だって、この買い物が楽しすぎて、終わらせるのがもったいないような気がしたからだ。
 ――が。
 とある店先に菖蒲が足を止めた瞬間、俺はこれが女の子の買い物であるということを思い出したのだった。
「……なあ菖蒲。まさかここって」
「はい夕貴様。ご覧のとおりです」
 くるっと振り向いた菖蒲は、頑なに手放そうとしないアニーくんなるぬいぐるみを抱きしめたまま、花のような笑みを浮かべた。
「――ここは、いわゆるランジェリーショップというところですね」
 その言葉を聞くと同時、背中に嫌な汗が伝うのを自覚した。
「……だ、だよな」
「はい」
「女の子が下着を買う店だよな」
「はい」
「女の子のためだけにある店だよな」
「はい」
「男には関係ない店だよな」
「はい」
「じゃあ俺はあっちのほうでジュースでも飲んでるべきだよな」
「いいえ」
 と。
 そこで菖蒲は流れを止めて、ゆっくりと首を横に振った。
「実はですね。せっかくの機会ですから、夕貴様には菖蒲の下着を見繕っていただこうと思いまして」
「…………」
 この子、正気か。
 店先に突っ立っているだけでも不審者呼ばわりされそうなのに。
 というか、菖蒲と一緒でなければ、すでに不審者扱いされていると思う。
「い、いやぁ、べつに俺は必要ないんじゃないか? あれだろ、店内には下着に詳しい従業員のお姉さんとかいるんだろ?」
「いますよ。それがなにか?」
 小首を傾げながらの上目遣い。もはや魔法のような破壊力である。
 菖蒲は、女の子の上目遣いが男にとってどのようなものか、ということを理解していないのだ。
「なにかって――だからそのお姉さんに見繕ってもらえばいいんじゃないか?」
「そうですね。夕貴様の言には一理あります」
「だろ? じゃあ、そういうことで」
「――でも逆に言えば、夕貴様の言には一理しかありません」
 引き返そうとした俺の正面に回りこんで、菖蒲は教師のように人差し指を立てた。この癖って、なんか子供が背伸びしているみたいで、ちょっと可愛らしく見える。
「いいですか? 夕貴様は、菖蒲の夫になるのですよ? 菖蒲は、夕貴様の妻になるのですよ? つまり菖蒲の下着は、わたし自身の好みではなく、夕貴様の好みによって選定されるべきなのです」
「なんでだ? べつに俺が菖蒲の下着を見る機会なんてないだろ?」
「それを、菖蒲に言わせるのですか?」
 いじわるをされた子供のように頬を膨らまして、菖蒲は真っ直ぐに見つめてきた。
「とにかく、菖蒲は夕貴様に下着を見繕ってほしいのです。夕貴様がお選びになった下着を身につけていないと、菖蒲は夜、夕貴様とお喋りできません」
「えっ、それってどういうことだ?」
「深い意味はないですが――べつに、いざというときのために準備をしているとかではありませんよ?」
「意味が深すぎるっ!」
「確かにちょっぴり意味深な発言だったかもしれません。まあマリアナ海溝程度でしょうけれど」
「アホか! 自分から世界最大の深度と認めてどうするんだっ!」
 菖蒲は周囲を伺ったあと、内緒話をするように顔を寄せてきた。その鳶色の髪からは爽やかな柑橘系の香りが、蟲惑的な身体からは俺が使っているボディーソープの匂いが、それぞれ漂っていた。
「それに、菖蒲にはどうしても下着を買わないといけない理由があるのです」
「理由、か。……もしかして壊れちまったとか?」
「いえ、違います。しかし、その下着が菖蒲にとって機能性を発揮しないという意味では、夕貴様の言うとおりでもあります」
「もったいぶった言い回しだな。つまりどういうことなんだ?」
「……なるほど。夕貴様は、あまり女性の下着に詳しくないようですね。それは良いことですよ」
 よく分からないが、俺が女の下着に詳しくないことは、菖蒲にとって嬉しいことであるようだった。
「女性が下着を買い換える理由は様々ですが、突き詰めれば二つの理由に絞れてしまうのです」
「なるほど。まあ一つは、下着が壊れたり、破れたりしたときだよな。あとは失くしたとか」
「正解です。では、もう一つは?」
「うーん……」
 とりあえず真剣に考えてみたが、一向に見当はつかなかった。
「はい、時間切れです」
 ぬいぐるみのアニーちゃんを抱きしめたまま、菖蒲は続けた。
「もう一つの答えは――女性の胸が大きくなったとき、ですね。ちなみに今回、菖蒲が下着を買い換える理由がこれです」
 そういうことか。
 俺の胸は大きくなんてならないから、壊れる以外の理由で下着を買う必要性が思い浮かばなかった。
 ――いや待てよ?
 ということは菖蒲の胸って、以前より大きくなってるってことか?
「……夕貴様。視線がえっちです」
 宇宙人のぬいぐるみで、菖蒲は胸を隠すようにした。それにしても大活躍のアニーちゃんである。
「悪い。べつにそういう意味で菖蒲を見たわけじゃなかったんだ」
「そう言われるのも女として複雑ですが――まあいいでしょう。ただ真面目な話をすると、ここ最近、菖蒲の胸は少しだけ成長したようでして、そろそろ新しいのを買い換える必要があったのです」
「なんか女の子って大変だな」
「はい、夕貴様の仰るとおりです。胸が大きくても疲れるだけですし、毎晩マッサージは欠かせませんし、なにより集まる男性の視線に気疲れしますし」
 マッサージか。
 やっぱり女優という容姿を売りにする肩書きを持っているだけあって、ルックス面における向上心は必要不可欠なものなんだろうな。
「参考までにお聞きしますけれど、夕貴様は大きい胸と小さい胸、どちらがお好きですか?」
 密かに答えるのが気恥ずかしい質問である。
「……まあ、俺は大きい胸が好きかな」
「なるほど。ちなみに芸能人に例えますと?」
「そうだなぁ、芸能人で例えると『高臥菖蒲』みたいな――って!?」
 しまった!
 いつも友達とかと会話する延長線上で答えたものだから、その本人の胸こそが俺の理想だと暴露してしまった。
 すこし自信のなさそうな顔をしていた菖蒲は、俺の言葉を聞いて瞳を輝かせた。
「――菖蒲の胸が夕貴様のお気に召すというのは、本当なのでしょうかっ!?」
「あ、ああ。本当だから落ち着いてくれ」
「つまり夕貴様の理想は、Fカップのバストというわけですね!?」
「……まあ、たぶん」
 違う。
 俺の理想はFカップのバストではなく、高臥菖蒲のバストなのだ。
 それにしても菖蒲ってFカップだったんだな。公式プロフィールにはスリーサイズが記載されていないので知らなかった。
「あっ、でも、夕貴様がお好きなのは菖蒲の胸だけなのでは……」
 そんなはずはない。
 むしろ全てが好きだ。顔も、身体も、雰囲気も、性格も、とにかく全部が好きなのだ。
「一応、バストが87センチ、ウエストが56センチ、ヒップが85センチなのですが、夕貴様はどうお思いになられますか?」
「いや、どうって言われても基準が分からないからなぁ。つーか、女の子がさらりと身体の秘密をバラすなよ」
 女子高生で――いや、高校一年生の十六歳で、その身体は凄すぎないか?
 菖蒲の顔は、まだ幾分かあどけなさを残しているから、その顔と身体のギャップがまた魅力の一つになっている。
「なるほど、夕貴様は基準が分からないと仰るのですね」
「そういうことだ。だから俺が下着を見繕うことは出来ないよな。あっちでジュースでも飲んでるべきだよな」
「――いいえ、夕貴様が下着を見繕うことは出来ます」
 そう言って、菖蒲は俺の手を取った。
「簡単な話ですよ。要は、夕貴様が適当に下着を選んでくだされば、それを菖蒲が試着いたしますので、あとは夕貴様自身が見て確認すればいいのです」
「下着を試着したところを見る――ってことは、下着だけの姿になった菖蒲を見ろってことか!?」
 俺の詰問もどこ吹く風。
 未来の旦那候補の手を引いて先導していた菖蒲は、顔だけ振り向かせて、肩越しに俺を見た。
「――大丈夫ですよ、夕貴様。菖蒲の水着姿を見るようなものと思えば、ノープロブレムではないでしょうか?」
「どこがだ!? 問題ありまくりだろ! 水着と下着は全然違うじゃねえか!」
「そうですか? 『水』と『下』が違うだけですのに」
「そういう意味じゃねえよ! とにかく菖蒲、これはノープロブレムじゃない!」
「……あぁ、そういうことですか」
 うんうん、と含蓄ありげに頷いた菖蒲は、ちょっとだけ閉じた二重瞼の瞳を細めて、柔らかく笑った。
「つまり、モーマンタイということですよね」
「バカっ、言い方の問題でもないっ!」
「……? えっと、それは……あぁ、今度こそ把握いたしました」
 困ったような顔をしたのも一瞬――すぐに菖蒲は答えに行き着いてくれたようだった。
「やっと分かってくれたか。じゃあ」
「はい夕貴様。菖蒲としたことが、ファンタスティックの素晴らしさを差し置いてしまうとは、軽率の極みでした」
「――ファンタスティックはもう忘れろぉっ!」
 そうして。
 俺の可哀想な叫びだけを繁華街に残したまま、萩原夕貴くんはランジェリーショップに連れ込まれたのであった。




 俺は子供のころ、母さんに女装させられたことがあった。
 そのときはとにかく恥ずかしくて、精神が一秒ごとに磨り減らされるような、あるいは俺一人が別世界に迷い込んだかのような遊離感を味わった。
 そして俺は今、その忌まわしき幼少期を思い出さずにはいられない状況に陥っている。
 四面楚歌、という言葉すら生温い。
 単騎で敵地に乗り込んだとしても、これほどの疎外感は体験できないであろう。
 まさに地獄――そして、ある意味では天国とも言える場所に俺はいた。
 そう。
 何を隠そう、女性専用のランジェリーショップである。
 女性の、女性による、女性のための専門店ことランジェリーショップである。
 パッと見た感じだと、この店は二階建ての構造らしく、下着の他にも多種多様な品揃えがあるようだ。店内はシックな雰囲気に満ちており、照明もどことなくピンク色を帯びている気がする。俺の偏見かもしれないが、店自体はわりと高級感を漂わせていて、ちょっとお金に余裕のある人が訪れるような店に見えた。
 こういうランジェリーショップは、実は男子禁制というわけではないらしいが、それでも男が入ってはいけないという暗黙の掟が、自然と成立している気がする。
 その証拠に、お客さんは全員女の子――しかも年頃の、ちょうど菖蒲と同い年ぐらいの少女ばかりである。最年長っぽい女性でも、二十歳前後だった。
 俺の視界が許すかぎり見渡してみても、瞳に映るのはショーツやブラジャーが七割ほどを占めている。残りの三割は、ビスチェやキャミソール、そしてストッキングやニーソックスといったものだった。
 さっきから俺は菖蒲の後ろに隠れるようにして歩いているのだが、それでも店にいる女の子たちが興味津々な目で俺を見てくる。
 店内にいる唯一の男――それを理由に変な言いがかりをつけられては堪らないので、俺はずっと俯きながら歩いていた。
 でも気のせいじゃなければ、俺を観察する女の子たちの目には、嫌悪ではなく好意的な色があるように感じられた。
 菖蒲に聞いたところ、恋人に連れられて一緒に下着を買いにくる男性も珍しくはないという。とは言ったものの、それは稀なパターンで、大抵は女の子同士で下着を買いに来るらしい。
 男には分からない感覚だが、女の子は下着や水着を選ぶという行為自体を楽しむ生き物である。男同士で下着を買うなんざ何の罰ゲームなんだって話だが、女の子は実にキャッキャウフフしながら下着を選ぶ。
 菖蒲に誘われるがままに、俺はランジェリーショップで何かと戦っていた。
「夕貴様のお気に召すようなものはありましたか?」
 そのとき、俺の前を歩いていた菖蒲が振り返った。
 年頃の女の子で溢れかえっている店内においても、やはり菖蒲は目立っていた。ほとんど憧れの眼差しを向けられていると言っても過言ではない。それほど菖蒲のルックスは飛びぬけており、その優れたプロポーションは数多の女性に劣等感を受け付けるに相応しいものだった。
 帽子から伸びる鳶色の髪は、ゆるやかなウェーブを描いて菖蒲の背に流れている。おかげで菖蒲が振り向くたびに髪が舞って、爽やかな柑橘系の香りが周囲を彩った。
 ランジェリーショップとは言っても、べつにいい匂いが満ちているわけじゃない。普通に卸したての服のような匂いや、あるいはお客さんとして訪れた女の子がつけている香水の香りがする程度。
 人工的な芳香で満ちた店内。
 だからかもしれないが、菖蒲の身体から流れてくる女の子の匂いを、俺の鼻腔は強く捉える。
 基本的に菖蒲は香水をつけない。だから菖蒲からは、いつもほのかな石鹸の匂いか、菖蒲が持参してきた柑橘系の果実の成分を含ませたシャンプーの匂いか、あるいは俺が使っているボディーソープの匂いしかしないのだ。
 あまり香水類が好きではない俺にとって、菖蒲の匂いは心地いい。でもドキドキしてしまうという意味では、心臓に負担をかけているかもしれないが。
「いや、お気に召すも何も、どんな下着があるのか分からないし……」
「……? えっと、下着ならば、夕貴様の目の前にありますけれど」
 きょとん、と小首を傾げる菖蒲。
 確かに俺たちが足を止めたのは、数えるのも億劫になるほどのブラジャーがかけられた棚の前なので、どんな下着があるか確認しようとすれば簡単なのだが。
「それは分かってるけどな。でもなんか、男の俺がこれを見てもいいのかって思うんだよ」
「ご心配なく。世の中には男性一人でランジェリーを買っていくような方もおられますから、菖蒲と一緒にいる夕貴様は、さして奇異な目で見られたりはしませんよ」
「まあ、確かに思っていたよりは大丈夫そうだけどさ」
 もしかしたら従業員のお姉さんに止められるんじゃないか、と思ってたからなぁ。
 でも俺と目が合った店員さんは、みんな頭を下げて「いらっしゃいませ」と言ってくれる。
 つまり俺は、この店にいても大丈夫というわけだ。しかしそれは法的に大丈夫なだけであって、俺の精神は刻一刻と磨耗している真っ最中だ。
 俺が興奮と葛藤の狭間で戦っていると、背中がざわつくような気配がした。気になって振り返ってみる。
 すると少し離れた陳列棚のあたりで、菖蒲よりもニ、三歳は上であろう美人系な顔立ちをした女の子二人が、俺を見てヒソヒソと何かを言い合っていた。なんか凄く楽しそうな、あるいは機嫌のよさそうな顔で、ずっと俺のことを見ている。
 ……もうマジで帰りたい。
「なあ菖蒲。あの子たち、俺のことが邪魔なんじゃないか? ずっと内緒話されてるんだけど」
「大丈夫ですよ。あの方たちは、きっと夕貴様のお美しい顔立ちに見蕩れているだけでしょう」
「そんな馬鹿な。少女漫画の見すぎなんじゃないか、おまえ。俺はお美しい顔立ちなんてしてねえじゃねえか。むしろ男らしさに溢れてるだろ?」
「そうですね、夕貴様は男らしい方ですね。もちろん菖蒲は、夕貴様から溢れる男らしさに気付いていますよ。ですから下着を選んでくださいね」
「えっ、ちょっと投げやり過ぎないか!?」
 まるでワガママを言う子供を嗜める母親みたいな口調というか。
「夕貴様の気のせいですよ。菖蒲は、しっかりと夕貴様の魅力に気付いていますから」
 口元に手を当てて、菖蒲は上品に笑った。
 その楽しげな笑顔を見て、俺は毒気が抜けてしまった。
「……なあ菖蒲。やっぱり俺が下着を選ばないと駄目なのか?」
「もちろんです。それに夕貴様は、すこし難しく考えすぎている節がありますね」
 菖蒲の癖――教師のように人差し指を立てて、彼女は続けた。
「わたしに似合う下着、わたしの好きそうな下着、わたしの苦手とする下着――そのようなことは一切考慮せずとも構わないのです。ただ菖蒲は、夕貴様が菖蒲に着せたいと思う下着を選んでくだされば、それで満足なのですから」
「いや、それは違うだろ。これは菖蒲の下着なんだぜ? だから菖蒲が好きなやつを選ばないと駄目だろ」
「いいえ、それも違います。だって、菖蒲が下着を見せる相手は、夕貴様だけなのですよ? ですから、夕貴様がお好みの下着を選んでくだされば万事解決です」
「うーん、俺のお好みって言ってもなぁ……」
「とにかく、菖蒲は夕貴様がお選びになった下着でなければ試着しませんし、買うこともしません」
 いい加減、業を煮やしたのか。
 菖蒲はちょっぴり拗ねた様子で顔を背けた。
「……どうしてもか?」
「どうしてもです。絶対です。夕貴様が選んだものじゃないと駄目です」
 この調子だと、俺が折れるまで菖蒲は梃子でも動かなさそうだ。
「それに、こう見えても菖蒲は女の子ですので、お慕いしている殿方の好みは把握しておきたいのです」
 要するに、俺が選んだ下着から、萩原夕貴という人間の性癖――じゃなくて、好みをリサーチしたいってわけか。
「念のため、もう一度だけ聞いておくけど――本当に俺が選んでいいんだな?」
「はい――あっ、ですが夕貴様。例の透けてるショーツとか、布地の小さなブラジャーは止めてくださいね? 菖蒲はまだ高校生ですので、いささか早すぎるかと」
「例のってなんだ!? 俺にはそんなマニアックなものを選んだ記憶はねえぞ!」
「そうですね。現在(いま)の夕貴様は、そう仰いますよね。ですが未来の夕貴様は……ぅぅっ!」
「だから俺は何をしたんだっ!?」
「いいんです、もういいんですよ夕貴様。菖蒲は頑張ります。菖蒲も夕貴様に満足していただけるまでご奉仕いたしますから、今はいいんです」
「よくねえよ! 断っておくが、俺に特殊な性癖はねえからなっ!?」
「……分かっております。そう言って、夜は菖蒲のことを調教なさるのですよね。ですが夕貴様、さすがに牝犬や淫乱女は言いすぎだと思うのです」
「おい菖蒲っ! ちょっと一回マジでおまえが視た未来を教えてくれっ! じゃないと母さんに顔向けができん!」
 菖蒲は物憂げに瞳を伏せ、どこか諦めの境地に達したような顔をしていた。
 言っておくが、俺は健全な男だ。
 もちろん年相応に女の子の身体に興味はあるけど、決して世間様から蔑まれるような性癖は持っていない。
 まあ性癖ってほどじゃないけど、あえて言うなら――胸の大きな子が好きかな。あと髪が長くて、清楚で、スタイルがよくて、純真で、いい匂いがして、優しくて、ちょっぴり天然で、いつも微笑んでるような女の子がいい。
 ちらりと誰かさんを見る。
「どうしました、夕貴様?」
 すると菖蒲は、きょとん、とした顔で小首を傾げた。
 まあ。
 本当に、自分でもびっくりするが――俺の理想のすべてを兼ね揃えた女の子が、すぐそばにいるんだけどさ。
 憧れていた女の子と一緒に買い物ができるだけではなく、これからしばらくの間、一つの屋根の下で暮らすなんて、最高の幸運だろう。
 しかもその女の子は、女優として広く知られるほどのとびっきりの美少女ときた。もはや奇跡としか言いようがない。
 ずっと菖蒲のそばにいたいと思う。
 菖蒲が俺から離れていかないかぎり、彼女と一緒にいたいと思う。
 俺の家で、ナベリウスや母さんと笑いながら、ずっとこの幸運をかみ締めていたいと思うのだ。
「いや、なんでもない。とにかく俺が下着を選べばいいんだろ?」
「えっ――ああ、はい。夕貴様のお好きなものを選んでいただければと」
 なんだか清々しい気分だ。
 今の俺ならば、どんな試練にだって耐えられる……はずだ。
 意を決して、棚にかけられている数多のブラジャーと対峙する。女の子が直接身につけている下着はいやらしく見えるが、陳列棚に並べられている下着には不思議と興奮しない。
 しかしブラジャーをじろじろ見るのが気まずいのは確かだ。さっきから遠くのほうで、俺と菖蒲のことを見ている女の子たちが沢山いるし。
 ……それにしても、こうして下着を眺めていると、色々と面白い発見がある。
 今まで俺は、女の子の下着なんてせいぜい色が違うだけ、と単純に考えていた。
 でも実際は違った。
 女の子の下着は、多種多様なんて言葉じゃ言い表せないぐらいの種類や数がある。
 素材からしてコットン、ナイロン、ポリエステルと分かれているし、デザインだってレースやフレア等がある。
 もっと根本的なところで言えば、ブラジャーの種類にはフルカップ、三分の四フルカップ、ハーフカップ、バルコニー、プランジ、ジェットセット、ストラップレス、アンダーワイヤード、ノンワイヤードがある。さらにショーツの種類にはスタンダード、ヒップハンガー、ミニショーツ、ストリング、サニタリー、ロング丈があったりする――と菖蒲が説明してくれたが、俺には横文字が多すぎて何がなんだか分からなかった。
 とにかく可愛らしいタイプの下着を選べばいいだろうか。でも菖蒲は清楚だから、基本的には白色、もしくは暖色の下着がいいよな。……いや、待てよ? あえて黒とか紫みたいな妖艶な色合いの下着を選んで、菖蒲の持つ清楚な雰囲気とのギャップを楽しむというのも悪くないんじゃないか?
「あの、夕貴様? さきほどから菖蒲と下着を交互に見ていらっしゃるようですが、なにを考えているのですか?」
 ちょっぴり警戒したような顔で、菖蒲はその豊満な胸を隠してしまった。
 それを見て、ふと思い出すことがあった。
「……なあ菖蒲。そういえば胸の大きな女の子用の下着って、あまりないんじゃなかったっけ?」
「そうですね。確かに夕貴様の仰るとおりです。ですが最近は、菖蒲のようにはしたない胸をした女性のために、選ぶ楽しみを満喫できる程度には種類も充実しております」
「なるほどな――でも菖蒲、いまの言葉は取り消してくれ。自分の胸を、はしたないとか言うな」
 せっかく完璧な胸だってのに。
 思わず鼻の下を伸ばしてしまうぐらいの巨乳だが、かといって気持ち悪いほど大きくはない――つまり絶妙な胸である。
 この間の夜、菖蒲のパジャマから覗く谷間を見たときに思ったが、その豊満さに似つかわしくない張りがきちんとあったし、これっぽっちも垂れていなかった。
 だめだ、つい『高臥菖蒲』のファンとして棘のある物言いになってしまった。
「……夕貴様がそう仰られるのであれば、訂正いたしますが」
 俯きがちに、菖蒲は続ける。
「実を言いますと、菖蒲はあまり自分の身体が好きではないのです。中学生の頃まではコンプレックスを持っていましたし」
「コンプレックス? 菖蒲が?」
 意味が分からない。
 これほど恵まれた身体をしているというのに、なにが不満なのか。全体的に細身の身体は、しかし肉付きがよく、とても柔らかそうだ。というか実際に菖蒲を抱きしめた俺からすると、男を欲情させずにはいられない触り心地だったように思える。
「夕貴様もご存知かと思いますが――菖蒲を見た男の人は、いつもニヤニヤと笑うのです。きっと、わたしの身体がどこかおかしいのでしょう。そうでないと、菖蒲が注目されることの説明がつきません」
「……なるほど」
 あえて菖蒲を勘違いさせたままにしておこうと思った。
 さすがに自分が人よりも美しい容姿をしていることは自覚しているだろう。でも、その蟲惑的なプロポーションは男好きする、とは教えなくてもいいはずだ。
 とりあえず菖蒲の身体はおかしくない、と本人に言い聞かせ、曖昧な顔で菖蒲が頷いてくれたとき――俺たちに声がかけられた。

「いらっしゃいませ。なにかお探しですか?」

 振り向くと、そこには人のよさそうな笑顔を浮かべた女性が立っていた。名札をつけているところを見ると、この店の従業員さんだろうか。
 彼女は、淡いブラウンに染めた長髪を後頭部で結ってアップにし、やや露出の高いオシャレな洋服を着ている。全体的にぴったり目のコーディネートであり、身体のラインが強調されている。菖蒲ほどではないが胸も大きく、恐らくではあるがナベリウスと同じぐらいありそうだった。
 年齢は二十代半ばぐらいで、年若い少女には出せない女の色気のようなものが漂っている。菖蒲も蟲惑的なプロポーションをしているが、この店員らしき女性はそれがさらに顕著だ。
 ちなみに託哉が好きそうな、かなりの美人さんである。
「こんにちは、緋咲(ひさき)さん。ご無沙汰しております」
 そのとき、菖蒲が礼儀正しく頭を下げた。
「はーい、こんにちは菖蒲ちゃん。えーっと、大体三ヶ月振りぐらいかな? すこし見ない間にずいぶんと綺麗になったわねえ」
「そうでしょうか? 確かに髪が伸びましたし、すこしだけ胸も大きくなりましたけれど」
「ううん、違う違う。そういうのじゃなくて――」
 悪戯っ子のような流し目で、この店の従業員――緋咲さんは俺を見た。
「――恋。してるようだしね?」
 あはは、と楽しそうに笑って、緋咲さんは前髪をかきあげた。
 わりと親しげに話しているようだが、この二人は知り合いなのだろうか。
「ねえねえ菖蒲ちゃん。この可愛い顔した男の子、紹介してよ」
「だ、駄目ですっ! 夕貴様は、わたしの旦那様なのです! いくら緋咲さんでも、夕貴様に手を出すことは許しません!」
「あっはー、これは本気みたいね。まさか天下の女優『高臥菖蒲』に、男ができるなんて思ってもいなかったけどさ」
 さばさばとした口調の緋咲さんは、真白い歯を見せて笑いながら、菖蒲の頭を撫でた。
 菖蒲は唇を尖らせていたが、緋咲さんに頭を撫でられるのは嫌いじゃないらしく、複雑そうな顔をしながらも、どことなく嬉しそうだった。
「夕貴様、ご紹介します。こちらの方は、肆条緋咲(しじょうひさき)さんと言いまして」
「そうそう、肆条緋咲(しじょうひさき)。夕貴くんの好きなように呼んでくれていいからね。緋咲ちゃんでも、お姉さんでも、おまえでも――あっ、夕貴くんさえよければセフレでもいいわよ?」
「もうっ、緋咲さん!」
「あっはー、これはびっくりだ。菖蒲ちゃんが怒ったところなんて今まで見たことなかったのに。でも、ねえ? 夕貴くんの話題になった途端、すぐに怒っちゃうなんてさ」
 相変わらず悪戯っ子のように笑って、緋咲さんは俺に向き直った。
「はじめまして、夕貴くん。もう一回、自己紹介しとこっか。
 あたしは肆条緋咲。短大出てすぐだから――まあ五年近く、この店で働いてる計算になるかな? 菖蒲ちゃんとは、この子が初めてブラジャーを買いに来たとき以来の付き合いでね。ずっと菖蒲ちゃんには贔屓にしてもらってるってわけよ」
 せっかくお金持ってるんだから、もっといい店に行けばいいのにねえ――と緋咲さんは付け加えた。
 でも、きっと菖蒲がこの店に通い続けるのは、緋咲さんがいるからだと思う。
 まだ会ったばかりだけど、それでも俺は緋咲さんに好印象を抱いていた。年上の女性だからか、包み込むような母性というか、人を安心させるような包容力があるのだ。
「なるほど、そういうことだったんですか。どおりで菖蒲と仲がいいと思いました」
「あっれー? 名前で呼び合うような仲なんだ。そういえば夕貴くん、いっぱい荷物持ってるし、もしかして二人で買い物してたの?」
「まあ、そうですね。男が荷物を持つのは当然ですし」
「ふーん。女の子みたいに綺麗な顔してるくせに、よく言うじゃん。あたし夕貴くんのこと気に入ったよ。菖蒲ちゃんに飽きたら、あたしんとこにおいでよ。お姉さんがいっぱいサービスしてあげるからさ」
 緋咲さんは身体を前傾にし、胸元を指で引っ張って、なかなか立派な谷間を見せつけるようにしてきた。
 ここで言い訳させていただくと――女は本能的に男性の下半身を、男は本能的に女性の上半身を見てしまうという通説がる。つまり俺が緋咲さんの胸に見蕩れてしまったのは男として当然であり、むしろ俺は本能という鎖に囚われた哀れな犠牲者とも言えるはずだ。
 しかし。
「夕貴様? どこを見ているのですか? まさか、他の女性の胸に見蕩れていた、なんてあるわけがないですよね?」
 菖蒲が俺の腕を引っ張って、自分の胸元で抱くようにした。おかげで豊満な胸の谷間に、俺の腕が挟まってしまう。
 その感触は、緋咲さんの色香に惑わされた俺を解き放つのに十分すぎた。
「あっはー、夕貴くんを取られちゃった。それにしても二人、仲がいいね。身体に触れることに躊躇はなさそうだし。……んー、ということは、もうエッチしたんだ?」
 なんて大らかな人なんだ。
 俺は菖蒲の胸が気になって答えることができず、菖蒲も頬を真っ赤にして俯いているだけだった。
「……なぁるほど。まだセックスはしてないんだ。面白くないなぁ。二人とも早くしなよー? エッチって、病み付きになるぐらい気持ちいいんだから。……あれ、ということは? つまり夕貴くんは、まだ童貞ってこと?」
「大らかすぎるにもほどがあるわっ!」
 思わずツッコミを入れてしまった。
「ふむふむ、その反応から察するに、二人とも経験なしと。いいねえ、青春だねえ。やっぱり若者はこうじゃないと。あっ、言っておくけど、あたしはまだ25歳だからね? ギリ若者だからね?」
 むっと眉を寄せて、ここだけは譲れないと緋咲さんは注釈を入れた。
 やや発言が大らかすぎるものの、緋咲さんは男受けしそうな女性だと思う。かなりの美人だし、性格は明るくてさばさばしてるし、なにより下ネタも大丈夫そうだ。
 緋咲さんのトークは、俺に苦笑をもたらし、菖蒲を不機嫌にさせた。
 菖蒲は俺の腕を抱いたまま、ずっと離れようとしない。ちょっとでも緋咲さんが俺に近づけば、菖蒲は小動物のように威嚇するのだった。
「ありゃりゃ、怒らせちゃったみたいね。機嫌を直してよ菖蒲ちゃん。もう夕貴くんに手を出さないからさ」
「……本当ですか? 絶対ですか? 神に誓いますか?」
 瞳を半眼にし、じとーとした目をする菖蒲。
「もちろんよ。お得意様の男に手を出すほど、あたしも困っちゃいないわよ。こう見えてもモテるんだよねー、あたしって」
 前髪をかきあげて、緋咲さんは続ける。
「それで? 今日はどんな用なのかな。もしかして、また胸が大きくなっちゃった?」
 こくりと菖蒲が頷くと、緋咲さんは目を見開いた。
「えっ、ほんとに? また大きくなったの? そろそろ成長が止まりそうな感じだったんだけどなぁ」
「大きくなった、とは言っても、本当に少しだけです。ただ最近、わずかに違和感のようなものがありまして」
「まあ菖蒲ちゃんほど胸が大きかったら、すこしのズレでも違和感は出るよねえ。Fカップのバストともなると、必然的に肩紐が太くなるし、それに合わせて肩も凝るだろうからね。ブラのサイズ感、ワイヤーの角度、カップの形状、パッドの有無または硬さや大きさ――そういった要素を組み合わせて厳選し、自分に合うブラジャーを探していくのが女の子の宿命。そして、そのお手伝いをするのがあたしの仕事だからさ」
 緋咲さんは、ブラジャーが陳列した棚を指差した。
「言ってくれれば、あたしが菖蒲ちゃんぴったりのやつを見繕うよ? そういえば菖蒲ちゃんって、胸が大きいことを気にしてたっけ?」
「はい、多少は。胸が大きいと、苦労することが多いですし」
「だよねだよね。可愛いブラジャーは中々ないし、ぴったり目のシャツを着ると胸が強調されて人目につくし、バストに合わせた服を着るとお腹のところがダブダブになって太って見えるし、電車とか乗ると痴漢に合いやすいしね。その反面、利点と言えば、胸で挟んで男を気持ちよくしてあげることぐらいだよねー?」
 ニヤニヤと笑いながら、緋咲さんは俺を見た。もちろん視線を逸らした。反応すると負けのような気がしたからだ。
「まあ最近は、胸を小さく見せるブラジャーとかもあるけどね。菖蒲ちゃんさえよければ、そういうのを試着してみてもいいんじゃない?」
「いえ、緋咲さんの提案はありがたいのですが……」
 そこで菖蒲は言葉を止め、さりげなく俺を一瞥した。
 一瞬、怪訝に眉を歪めた緋咲さんは、しかし何かに気付いたようで、ははーん、と意地の悪そうな笑みを見せた。
「なーるなる。これもまた青春の一ページってわけね。だったら、お姉さんは菖蒲ちゃんと夕貴くんのために、あえて引き下がるとしましょうか」
「あの、わたしはまだ何も言っていないのですけれど」
「口にしなくても分かってるわよー。どうせあれでしょ? 菖蒲ちゃんは、夕貴くんに下着を選んでほしいんでしょ?」
 このとき。
 きっと顔を赤くしたのは、菖蒲じゃなくて、俺のほうだったと思う。
「彼氏連れの女性客も珍しくないしねえ。まあ、そういうお客さんは、大抵いやらしい感じの下着を買っていくんだけどさ」
 相変わらず発言の随所に下ネタが含まれているような気がするが、華麗にスルーした。
 それから緋咲さんは、新発売された商品から、最近の流行まで、俺と菖蒲に色々な情報を教えてくれた。参考になる意見をしっかりと残してくれたあたり、なんだかんだ言っても彼女は仕事をきっちりこなす人なのだろう。
 とりあえず――俺が好きなデザインのものを選び、そのブラジャーの中で菖蒲のサイズに合ったものを緋咲さんが探し出し、それを菖蒲が試着する――という流れになった。
 しかし自慢じゃないが、女性の下着なんて母さんのしか見たことがなかった俺である。どうせなら菖蒲に可愛らしい下着を見繕ってやりたいが、それに必要なセンスを研ぎ澄ましたことのない俺にとって、今回のミッションは厳しいものがある。
 あまり迷いすぎても優柔不断な女々しいやつと思われそうなので、ほとんど直感に任せて選ぶことにした。
 萩原夕貴プロデュースの第一弾は――ピンク色を基調とした、フロントホックのブラジャーである。
 早速、緋咲さんが菖蒲に合いそうなサイズのものを探し出し、それを菖蒲へ渡す。
 やや畏まった様子で、菖蒲は試着室の中に入り、ゆっくりとカーテンを閉めた。

「いやぁ、楽しみだねえ夕貴くん。君、菖蒲ちゃんのあられもない姿を見物するんでしょ?」

 試着室の前で、俺と緋咲さんは並んで立っていた。ちなみに手荷物は緋咲さんに預かってもらっている。
 カーテンの向こうからは微かな布摺れの音がして、菖蒲が服を脱いでいるのが分かる。
「まあ見ますけど。でもちょっとだけ見たら、すぐに顔を背けますんで大丈夫だと思いますよ」
「なんで顔を背けるの? じっくり見ちゃったらいいじゃない」
 緋咲さんは腕を組み、近くの壁に背中を預けた。
「言っておくけど夕貴くん、覚悟してたほうがいいよ? 菖蒲ちゃんって、すっごくいやらしい身体してるんだから。肌は抜けるように白くて、胸とか腕には血管が透けて見えるのね。手足はスッとしてて細長いし、そのくせ肉付きがいいから、触ってるほうが気持ちよくなっちゃうしさ。はっきり言って、菖蒲ちゃんの裸を見て興奮しない男は、もう病気と見て間違いないわね」
「裸じゃなくて、ちゃんと下着を穿いてます。それにこれは下着の試着なんですから」
「あっはー、そうやって自分に言い聞かせてないと、女の子みたいな顔した夕貴くんでも、さすがに男の部分が出てきちゃうんだ?」
 この人、いらないところで鋭いな。油断はできそうにない。
「……まあ、今は菖蒲の着替えを待ちましょう。俺のことはいいじゃないですか」
「そうだね。そういうことにしとこうか。でも、もし夕貴くんが溜まってるって言うんなら、いつでもあたしが相手してあげるよ? 夕貴くんみたいに綺麗な顔した男の子って、超タイプだったりするんだよねー」
 あはは、と相も変わらず笑う緋咲さんの頬は、微かに紅潮していた。その赤みは、羞恥ではなく興奮によるものだろう。
 下品な言い方をすれば、欲情した女の顔、だと思う。

「緋咲さん? 夕貴様には手を出さない、と先ほど約束しましたよね?」

 カーテンの向こう側から、やや尖った菖蒲の声が聞こえてきた。
 それに気を取られた俺と緋咲さんは、ほとんど反射的に試着室のほうを見た。
 すると、その振り向きをきっかけにしたかのように、ゆっくりとカーテンが開いていく。
「……夕貴様、どうでしょうか」
 自信のなさそうな菖蒲の声。
 しかし、その開放された試着室の中を見たとき――性別の違う男である俺ですら、その菖蒲の身体を見て人間としての自信を失う結果となった。
 現れたのは――ブラジャーとショーツのみを身に纏った、あられもない姿の高臥菖蒲。
 俺が選んだのは、ピンク色を基調としたフロントホックタイプのブラジャー。それと合わせて、ショーツもピンク色で統一されている。
 まだ踏まれていない深雪のごとき純白の肌は、ここまで視線を惹きつけるという意味では、もはや暗示に似た力を有しているように思える。
 余分な脂肪など一切ない磨き抜かれた身体には、しかし必要とされる部分にしっかりと筋肉がついている。緋咲さんの言ったとおり、肌の上からでも青白い血管が透けて見えて、それがやけに艶かしく見えた。
 色素の薄い鳶色の髪は、やわらかくウェーブを描いて、肩や背中にかかっている。洋服ではなく、肌とコントラストさせることで、ここまで髪があでやかに映えるとは予想外だった。
 かたちのいい鎖骨も、小さなへそも、くびれた腰も、その全てがそれ単体でも輝けるだけの魅力を兼ね揃えている。
 それらの中でも一際とんでもない部位は――やはり乳房だろう。
 谷間、と形容することが失礼にも思えるほどの、くっきりとした双つの膨らみ。菖蒲が身じろぎするたびに、その胸は上下左右に揺れてしまう。
 フロントホックのブラジャーを選んだのは、ある意味では大正解だったのかもしれない。
 前面部分にある留め金――あれを外した瞬間、きっとこぼれるようにして胸が弾けるのだろう。あの留め金を外せる男がいるとするなら、そいつは宇宙で一番の幸せ者に違いない。
 確かに緋咲さんの言ったとおり、菖蒲はいやらしい身体をしている。女性として美しいのも確かだが、それ以上に蟲惑的――もっと簡単に言えば、エロいのだ。
 女の子として――いや、人間として最上級の美しさ。
 菖蒲がメディアに素肌を、水着姿を露出しなかったのは正解だろう。この完成された身体を一度でも見てしまえば、生涯に渡って劣等感に苛まれることは想像に難くないからだ。
「夕貴様?」
 見蕩れていると、本人が小首を傾げて声を上げた。
 菖蒲が顔を俯けているのは、気恥ずかしいというよりも、己の身体に自信がないからだろう。まあ菖蒲は自分の魅力を理解していないだけなのだが。
「あ、ああ。悪い、ちょっとぼんやりしてた」
「あっはー、夕貴くんったら嘘ついちゃってさ。ほんとは菖蒲ちゃんに見蕩れてただけのくせに」
「ちょっ――緋咲さんっ!」
 余計なことを言わないでくれ、と緋咲さんを睨んでみる。しかし、緋咲さんは悪戯っ子のように笑うだけだった。
「……見蕩れる? あの、それはつまり、菖蒲の身体が夕貴様のお気に召した、と解釈してもよろしいのでしょうか?」
 不安そうに身体を丸めて、俺から視線を逸らして、菖蒲は言う。
「……まあ、そう解釈してもいいぜ」
 かくいう俺も、菖蒲を真正面から見つめることができず、そっぽを向きながらの発言となった。
「そうだ菖蒲ちゃん。どうせなら色々とポーズを取ってみてよ。なんかキメポーズとかあるんでしょー?」
「ポーズ、ですか? どうしてもと望まれるのでしたら、わたしなりに努力してみますが」
 言って、菖蒲はその場でポーズを取り始めた。胸元を強調してみたり、くびれた腰を強調してみたり、背中を向いて滑らかな背中を見せてみたり――そのすべてが扇情的な格好だった。
 本気で鼻血を出しそうになった俺は、動悸の激しい胸を押さえながら、菖蒲に背を向ける。
 そんな俺と菖蒲を、緋咲さんはニヤニヤした目で見つめて「じゃあ、次いってみよー」と明るく言ったのだった。



[29805] 1-6 美貌の代償
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/10/05 02:06
 菖蒲の身体は、とにかく美しかった。
 女性的な美は当然として、人間としての美も兼ね揃えた――まさに完璧という言葉が相応しい身体。
 全体的に肉付きがよく、どこかムチムチとした触感がありそうなのに、手足はこれでもかと細長い。
 透き通るように――いや、本当に透き通った色白の肌は、その下に青白い血管が薄っすらと見えて、とにかく艶かしかった。柔らかそうなふとももや二の腕、そしてお腹や胸に、血管が透けているのだ。
 その腰の細さに見合わない大きな胸も、ほどよいラインで成長を止めている。バストのかたちもよく、重力の法則を無視するかのように、ややツンと上を向いていた。
 緋咲さんの言ったとおり、菖蒲はいやらしい身体をしている。男の本能を刺激して止まない、この女だけはどうしても抱いてみたいと思わせるような、そんな蟲惑的なプロポーション。
 いくら美貌や演技を売りにする女優であっても、菖蒲ほど優れたルックスは稀だろう。
 そんな菖蒲のあられもない姿を見るのは、彼女の一ファンである俺としては最高の幸福だったけれど、一人の男としては致命的な毒であった。
 女の子の身体を見るだけで、ともすれば心臓発作のように動悸が激しくなるなど誰が想像できよう。
 興奮して鼻血が出る、というのは漫画などで使い古されたお約束のパターンだが、俺はそれをリアルに再現しそうになった。
 緋咲さんの指示により、下着だけを纏った菖蒲は扇情的なポーズを取って、俺にアピールしてきた。
 距離にして一メートルもないところに――雪原のようにきめ細かな半裸の身体があって。
 菖蒲は頬を赤らめながら、どこか物憂げに潤んだ瞳で、俺を見つめてきて。
 その天国のようで地獄にも似た時間は、およそ一時間ほど続いた。
 結局、菖蒲は三着の下着を購入することに決めた。しかも全部、俺が選んだやつだ。他にも可愛い下着があるんじゃないか、と勧めてみても、菖蒲は「夕貴様の選んだ下着が一番可愛いのです!」と意気地になって否定した。
 最近気付いたことだが、基本的には落ち着いた物腰の菖蒲も、たまに頑固――いや、子供っぽくなるときがある。
 これまでを振り返って見ると、菖蒲から聞き分けがなくなるときは、その大部分が俺絡みの案件なんだけど――まあ偶然だろう。
 購入する下着が決まると、俺はひとまず先に店を出た。さすがにあのファンシーな雰囲気には辟易していたし、店内にいた女の子たちの視線にも参っていたからだ。
 突き抜けるような青空には、白い綿菓子みたいな雲がいくつも寝そべっていて、とても気持ちよさそうだ。
 まだ菖蒲が出てくるまでは時間がありそうだったので、俺はトイレに行っておくことにした。女の子と二人きりで買い物なんて初めてだったので、トイレに行くタイミングが分からず、わりと我慢していたのだ。
 近場にあったトイレが清掃中だったので、ランジェリーショップからしばらく歩いた先のコンビニで用を済ませる運びとなった。
 思っていたよりも時間がかかってしまった。
 菖蒲には一言も断りを入れていない。だから急いで戻らなければ、彼女を心配させてしまうかもしれない。
 なにより、菖蒲が一人でぽつんと立ち尽くす姿なんて見たくないのだ。絶対に。
 繁華街の人込みを縫うようにして、俺はランジェリーショップまでの道のりを急いでいた。
 そして。
 遠目に菖蒲の姿を見つけた瞬間――俺はトイレに向かったことが失策だったと激しく後悔した。
 そう、菖蒲は美しい少女だ。男を惹きつけて止まない、蟲惑的な身体の持ち主でもある。しかも菖蒲は、その優れたプロポーションを生かした扇情的な格好をしている。
 目深に帽子を被り、白のチュニックとショーパンを纏い、ニーハイソックスで脚を覆った菖蒲は――男から見れば絶好の、最上級の餌だ。
 考えてもみろ。
 菖蒲ほどの女の子が、一人で所在なさげに立っていたら――どうなる?
 となりに男はおらず、連れの友人もおらず、ただ一人で周囲をキョロキョロと見回していれば――どうなるんだ?
 決まってる。
 綺麗な花であればあるほど、それは人に摘まれてしまうんだ。
 つまり。
 美しい女がいれば、男は声をかけずにはいられない――という実に簡単な話。
 ランジェリーショップの店先で佇立している菖蒲の前には、逃げ道を塞ぐようにして三人の男が立っていた。そのポジション取りや、立ち居振る舞いを見るに、男たちは相当にナンパ慣れしているようだ。
 幸い、まだあまり注目はされていないようだが、これ以上目立つとなると、菖蒲の正体が周囲に露見することも考えられる。それだけは避けたい。
 見たところ――菖蒲は目立った抵抗をしていなかった。ただ俯いて、顔を隠すようにしているだけ。声を発しようともしないのは、やはり自分が女優の『高臥菖蒲』だと看破されたくないからだろう。
 そんな菖蒲の態度を、気弱な女、あるいは押せば堕ちそうな女と見たのか――どんどん男たちの行動はエスカレートしていく。
 無意識のうちに舌を打ちながらも、俺は駆け足で菖蒲の元に向かった。
 近づけば近づくほど、やたらと気のよさそうな男の声が聞こえてくる。菖蒲を褒める声が七割、これから遊びに行こうと誘う声が二割、さりげなく自分たちを鼓舞する声が一割といったところか。
 だめだ、マジでむかつく。
 こいつら、菖蒲が嫌がってることを理解できてねえのか。
 自分たちが楽しければ、女を無理やり誘ってもいいのか。
 ――なにより俺は、ああして菖蒲が男に言い寄られてしまう状況を作り出した、俺自身に憤慨していた。
 奥歯をかみ締め、拳を固く握りながら、俺は両者の間に割って入った。

「待てよ」

 言いたいことはいっぱいあったのに、言葉になったのは一つだけだった。
 あまり喧嘩は好きじゃないし、誰かと対立するのも出来れば避けたいのだけど、今だけは保身を考える余裕はない。
「――ゆ、夕貴様っ?」
 背後から菖蒲の声が上がる。その悲痛と驚愕に満ちた声を聞いて、俺はさらに菖蒲の身体を背中で隠すようにした。
「……チ」
 舌打ちがあがる。
 露骨に不愉快そうな顔をする、三人の男。
 一人は、陽気そうに笑う優しそうな顔立ちの男。ただし目が笑っていない。こういう表情をしたやつこそが一番危ないのだと、俺は知っていた。
 一人は、肥満体型が目立つ男。腹回りには脂肪がついているが、それと同じだけ筋肉も見受けられた。顔の表面を、にきび跡やほくろが覆っている。こんなときでも糖分が欲しいのか、手にはジュースの入った紙コップが握られていた。
 一人は、長い金髪が特徴的なホスト風の出で立ちをした男。この三人の中でも整った顔立ちをしている。さきほどまでは下心を隠して笑みを浮かべるだけの余裕はあったくせに、今はゴキブリでも見るような目で俺を観察している。
 三人とも俺より背が高く、ガタイもいい。
 なにより俺が怒気を垣間見せながら割り込んだのに、彼らには狼狽する気配すらない。それは、誰かと争うことに慣れている人間特有の度胸と言える。
 どうやらこの男たちは、ただ女に声をかけて回るだけのチャラチャラした連中とは一線を画すようだ。
「はぁ? おまえなにしてんの?」
 威嚇するかのような剣呑とした声。
 口火を切ったのは、長めの金髪をしたホスト風の男だった。時間のかかりそうな、整髪料をふんだんに使ったヘアースタイルをしている。こういう男は大体プライドが高く、ナルシストであることが多い。その証拠に、暇さえあれば手で髪を弄っている。きっと神経質でもあるんだろう。
 今にも詰め寄ってきそうな金髪の男の視線を真正面から受け止めて、俺は堂々と顔を上げた。
「なにしてんの、じゃねえだろ。女の子一人に、おまえら三人でなにやってんだよ。この子が嫌がってるのが分かんねえのか?」
 本来ならば――丁寧語で対応して、相手の気を逆撫でしないように意識して、穏便に事を運ぶのが理想なんだろうけど――そんなの冗談じゃない。
 エゴだと言われてもいい。頭の悪いやつと罵られてもいい。
 ただ、これだけは言える。
 俺の大切な女に言い寄る野郎なんて、どこのどいつだろうが敵なんだ。
「その子が嫌がってるぅ? おいおい、おまえこそ見て分かんねえ? おまえが来るまで、俺らは楽し~くお喋りしてたの」
 金髪ホスト風の男が、そう言って。
「そうだ! その女の子には、俺たちが最初に目をつけたんだ! 関係のないおまえは、どっか行けよっ!」
 肥満体型の男が、ジュースを飲み込んだあと、そう続けて。
「あはは、そゆこと。いやいや、ごめんね。キミ、女の子には困ってなさそうだし、今回は譲ってよ」
 陽気でチャラチャラした男が、これで話は終わりだと言わんばかりに締めくくった。
 もしかして、こいつら俺がナンパの同業者だと勘違いしてるのか?
「……そうか。言ってなかったっけ」
「あ?」
 怪訝に眉を歪め、権高な目で睨んでくる男たちを順番に眺めたあと――俺は菖蒲の肩を抱いた。
 これでもかと密着した体勢。頬と頬がくっつくほどの近距離。ふわり、と風に乗るようにして、淡い柑橘系の香りが鼻腔を掠めた。
「――こいつは俺の女なんだよ。つまり、あんたらは人の女に手を出したってわけだ。どっちが引き下がるべきなのか、分かるよな」
 腕の中に抱いた菖蒲の身体は柔らかくて――小さい。どうしようもなくか弱くて、儚い。
 だから。
 誰かがこの子を護ってやらなければならない。
 誰かがこの子を救ってやらなければならない。
 未来を視ることのできない俺には、不確定で量子的に枝分かれした無数の未来が、今後どうなるか分からないけれど。
 それでも――現在(いま)という時間において、この『高臥菖蒲』という女の子を護るのは俺の使命なんだ。
 ……いや、格好つけた言い回しをしても仕方ないか。
 俺はただ、憧れている女の子を、自分の手で護ってやりたいだけなんだから。
 これみよがしに菖蒲の肩を抱く。それは俺たちの距離と密着度合いを考慮すれば、抱擁と言ってもいいかもしれない。横目に見れば、菖蒲は顔を真っ赤にして俯いている。彼女はなにかを言いたそうに俺をチラチラと見ているが、目が合った途端に唇を引き結んで、やはり俯いてしまう。
 それにしても――こんなかたちで、公衆の面前で菖蒲を抱きしめるなんて思ってもみなかった。
 だが本当の問題は俺と菖蒲ではなく、男たちのほうだ。
 狙っていた女を――まずお目にかかれないほどの美少女を、よこから出てきた男に抱かれたのが許せなかったのか。
 なんとか穏便に済ませてやろうかな、と我慢をして言葉による攻撃に留めていた男たちの空気が変質した。
 険悪な雰囲気が増し、暴力的な緊張が生まれる。それはどこか、張り詰めた糸にも似ていた。
 人間は、殺意や敵意には敏感なもの。
 例え、それが自分に向けられていなくとも、自分の存在する空間に放たれた悪意には誰だって警戒するものだ。
 ランジェリーショップの店先で、俺たちの間に流れる一触即発の空気を感じ取ったのか。今までは足を止めずに行き交っていた人々も、少しずつだが集まり始めているようだった。
 ……まずいな。
 あまり注目を浴びるのは上手くない。菖蒲を護るということは、菖蒲の正体を護ることと同義。ちいさな喧嘩一つが、『高臥菖蒲』という女優の悪評にも繋がりかねない。
 その場の勢いで「菖蒲は俺の女」と言ってしまったが――それは状況を俯瞰して見れば悪くない選択肢だろう。
 ナンパとは、女性がフリーであることが前提。もし女の身体だけが目当てだったとしても、それを阻止しようとする男(おれ)と争ってまで、事を荒立てようとは思わないはずだ。
 つまり頭のいいヤツならば、これで引き下がってくれるはずなのだが――
「……やっべ、おれ久々にキレそうだわ」
 やっぱり。
 何事も楽観視するのはよくないらしい。
 神経質そうなセットをした金髪を指で弄りながら、ホスト風の男が前に出る。
 いつ殴り合いになっても構わないように、菖蒲の身体を開放し、俺の背後に回す。
 菖蒲は何かを言いたそうにしていたが、俺は人差し指を唇に当てて『静かに』とジェスチャーをした。声を発することによって菖蒲の正体がバレる可能性も少なくないからだ。
 心配したような、いつ泣いてもおかしくないような菖蒲――その頭を帽子の上から撫でてやり、俺は男たちに向き直った。
「おいおい、そんなことでキレんなよ。俺は俺の女を抱いただけじゃねえか。文句はないはずだろ?」
「あー、出た。ほら出た。それだ。俺はよぉ、そのスカした口調にキレそうなんだよ。え? なに? 余裕のつもり? 女の前だから格好つけたいわけ? 女みたいな顔してるくせに、なに調子に乗っちゃってんの?」
 女みたいな顔――その一言は、俺という火に油を注ぐだけだった。
 菖蒲に手を出されたことだけが怒りの原因だったのに、今はちがう。
 馬鹿にされて反論の一つもしないほど、俺は出来た人間じゃない。
「調子に乗ってねえよ。自分の女を抱くのは当たり前だろうが。それに文句をつけるってことは、つまりおまえたちが俺に嫉妬してるってことだろ」
 俺が言い終わるや否や、肥満体型の男が一歩前に出た。やはり手には中身の入ったジュースを持ったまま。
「そ、そういう口調が調子に乗ってるっていうんだ! おまえ何様のつもりなんだよ!」
 その語彙の足りない煽り文句に続くようにして、陽気でチャラチャラした男が言った。
「あんさぁ。キミ、本当に止めといたほうがいいよ? おれらの顔、見たことない? このあたりじゃ結構有名なんだけどなぁ」
「知るかよ。成功率ゼロパーセントのナンパ師みたいな宣伝で売ってるのか? だったら悪いな。見たことも聞いたこともない」
 もしも『緊張』が、張り詰めた糸なのだとしたら――あと幾許もしないうちに、その糸は断ち切れてしまうだろう。そう思わざるを得ないほど、この場の空気は険悪だった。
 金髪のホスト野郎が、拳を握り締めながら前に出た。
「ちょー無理だわ。おれ無理だわ。マジで無理だわ。なあ健太、陽介。もうコイツ殺してもいいよな? 海斗には止められてんけど、暴れちゃってもいいよな?」
「こんなことでキレんな。さっきまでは長そうな舌で長広舌を振るってたくせに。人の女が羨ましいからってよ」
 仮に。
 仮にだが『緊張』が糸だとして、それを断ち切るハサミを『敵意』だとするなら。
「――てめえぇぇぇぇっ! まじぶっ殺すぞコラぁぁぁぁーっ!」
 その金髪の男が響かせた咆哮こそが、『緊張』という糸を切断するハサミだったのだろう。
 振り返って仲間に許可を取っていた金髪のホストみたいな出で立ちの男が、ほとんど遮二無二に殴りかかってきた。
 すでに周囲には人だかりが出来ている。誰も喧嘩を止めようとしない。暴力とは、それが己の身に降りかからないかぎりは一種の娯楽として機能する。格闘技という種目にファンがつき、試合に観客が押し寄せるのがいい証拠。
「――夕貴様っ!」
 背後で菖蒲が声を荒げた。
 それを手で制し、離れていろと指示する。
 素早く間を詰めてきた男は、腕力だけに任せた殴打を繰り出してきた。
 とても格闘技を習っているようには見えない動き。しかし男の拳は、迷うことなく俺の顔面に向かってきた。躊躇いもなく相手の急所に攻撃できるということは、すなわち暴力を振るい慣れている証。こいつらがこの界隈で有名なのは、もしかしたら本当なのかもしれない。喧嘩が強ければ、多少は囃(はや)されるものだ。
 腕の振りだけに任せた一撃は、足腰の力を伝えていない分だけ威力が低くなり、隙も大きくなる。それはつまり拳を振るっているのではなく、拳に振るわれている状態に近い。
 余裕は見せても、油断を見せてはならない。前者は敵に焦りを生み、後者は敵を勢いづかせる。しかし、この二つの要素は上手く計算することができれば、それは勝利に繋がるプライマーとなる。
 攻撃を回避する、上手く距離を取る、攻撃をヒットさせる、相手の武器を奪う――そうして一つ一つの局面を丁寧に繰り返してやることで、戦況は自然とこちら側に傾いていく。
 金髪の男は、暴力を振るうことには慣れていても、暴力をコントロールすることに関しては素人だ。
 こういう輩には正面から抵抗せず、相手の力を受け流すようにして戦ったほうがいい。
「――死ねやクソ野郎ぉぉっ!」
 俺に向けて、力任せのパンチが振るわれた。やや横から襲いくるような、フックに近い殴打だ。
 選択肢はいくつかある。
 敵の攻撃を防御するか。
 バックステップでもして、攻撃を回避するか。
 ――いや、その二つは上手くない。防御しても回避しても、結果は一つ前の局面に戻るだけ。
 俺は姿勢を低くして、男の腕の下を掻い潜るようにして――前進した。
 ひゅん、と空気を切り裂くような音がする。それと同時、攻撃に失敗した男の身体が傾いだ。重心を定めておらず、軸足も無視していたら、そうなるのは当然。
 男の背後に移動した俺は、すぐさま腕を極めにかかった。
 しかし、相手も喧嘩慣れしているだけのことはある。俺が関節に加える力から逃れようと、男はほとんど無意識のうちに重心をずらし始めた。
 それに俺も抵抗――しない。むしろ応援してやる。
 人間は関節を極められると、本能的に重心をずらして痛みから逃れようとする。
 だから、その肉体の反射とも言うべき動作に、俺からも力を加えてやることで――
「――うわっ!?」
 相手はバランスを崩して、面白いぐらい簡単に転ぶのだ。
 顔立ちには似合わぬ間抜けな声を上げて、男はひっくり返った。
 それだけならばよかったのだが――金髪の男は、肥満体型の男とぶつかってしまった。ここで問題は、肥満体型の男が紙コップのジュースを持っていたことだ。
 不運とは、ドミノのように連続するものである。
 ぶつかった衝撃により、肥満した男は紙コップから手を離してしまう。しかも宙を舞った紙コップが落下地点に選んだのは――金髪の男の、頭の上だった。
 ジュースは、まだかなり残っていたらしい。
 その証拠に、あれほど整髪料で固めていたセットは跡形もなく崩れ、金髪の男のプライドをズタズタに引き裂いた。
 くすくす、と周囲から笑い声が上がる。
 しりもちをつき、頭からジュースを被った男を見て、俺たちの様子を遠巻きに見守っていた大勢の人たちが失笑したのだ。
 あれだけ神経質そうに髪を弄っていた男にとって、今の自分を笑われるのは最大の恥だろう。
 これで引き下がってくれればいいのだが――
「……殺してやる」
 金髪の男が、ポケットから何かを取り出した。
 それは――どこからどう見ても折りたたみ式ナイフだった。
 周囲で笑っていた人たちも、男がナイフを取り出したのを見て表情を一変させた。慌てて逃げ出す者もいれば、警察に電話をかけようとしている者もいるし、中には俺に「逃げろ!」と叫んでくれる人もいた。
 それにしても、こんな公衆の面前で刃物を取り出すとは。
 ……こいつ、俺が思っていた以上に狂ってる。頭が悪いのか、それとも荒事が日常茶飯事なのか。
 どちらにしろ俺に出来ることは少ない。だが、それだけに目的がはっきりしているのも事実だ。

「はーい、ストップストップ。キミたち、ちょーっと血の気が多すぎるでしょ」

 そのとき。
 よく響く女性の声が、半ば恐慌状態に陥っている場に響き渡った。
 視線が集中した先は――ランジェリーショップの入り口、自動開閉ドア。そこに立っていたのは、淡いブラウンの長髪をアップにした女性、肆条緋咲(しじょうひさき)さんだった。
 面倒くさそうに頭を搔きながら、緋咲さんは俺たちの間に割って入った。
「なんだてめえはぁ!? 俺はよぉ、いま最高にキテんだよぉ! その女みてえな顔した野郎をぶっ殺してやらなきゃ気が済まねえんだ! 邪魔しやがったら、てめえ犯してやるからなぁ!」
 まずい。
 怒りの矛先が変わった。
 俺が慌てて緋咲さんを護ろうとしたとき――その必要はないとでもいうように、緋咲さんは肩越しに俺を見て、小さくウインクをした。
「あっはー、最近の若者は怖いわねえ。でも残念。あんたみたいな外面(そとづら)だけ気にするチンケな男に、あたしを満足させるのは無理よ。それに、あんたは顔でも、この子に負けてるよ」
 言って、緋咲さんが腕を組んできた。
「大体さあ、ここって女の子が下着を買うお店の前なんだよねー。もう少し暴れる場所を選んでくれたのなら、あたしも干渉しないんだけど、さすがに今回のケースは無視できないでしょ」
「んだと――!?」
「あっ、ちなみに言い忘れてたけど、もう警察には連絡したよ。交番自体はこの繁華街にあるからさ。おまわりさんが来るまで、あと数分ってところじゃないかな」
 つまり緋咲さんの余裕は、すでに犯罪の抑止力たる警察を呼んであったからなのか。
「まあ、あんたたちがどうしてもって言うなら、この子の代わりにあたしが相手をしてあげてもいいよ。こう見えても、ちょっとだけ剣道とかやってたからさ。あんたがハンデをつけてくれるっていうなら、いい勝負が出来るかもね」
 飽くまでも緋咲さんは余裕を崩さない。もしかして、この人はある意味で大物なんじゃないだろうか。大人っぽい感じの美人だし、スタイルはいいし、なにより下ネタも豊富だし。
 金髪の男はナイフを構えたまま、俺たちを怨めしそうな目で見つめていた。しかしリスクを計算するだけの冷静さは残っているようで、数瞬の躊躇の後ナイフをしまい、身を翻した。
 圧倒的な敵意の篭った瞳――人を呪い殺せそうな目で、金髪の男は最後に俺を睨んだ。
 なにか言い残すかと思ったが、予想に反して、男たちは最後まで無言だった。ただ時折こちらを振り返りながら、繁華街の人込みに紛れるようにして走り去っていった。
「――夕貴様、お怪我はありませんか!?」
 俺が男たちの背を見つめていると、菖蒲が大きな声を上げながら駆け寄ってきた。
 さすがは女優――発声がしっかりしているからか、その声は繁華街に強く木霊した。
 ――ふと、金髪の男が振り返った。ちょうど菖蒲が大声を発したのと同じタイミングだったが……まあ正体を気付かれてはいないだろう。
 そうこうするうちに男たちの姿は消えて、この場には俺と菖蒲と緋咲さんの三人だけが残った。喧嘩が終わったことを察した周囲の人たちは、名残惜しそうな気配を見せながらも、やがては散り散りになっていった。
「んー、なんだか呆気なかったねえ」
「それより緋咲さん。本当に警察呼んだんですか?」
「いや、呼んでないわよ。ただでさえ女の子は喧嘩嫌いなんだし、これで客足が遠のいたりしたら嫌でしょ。一従業員としては、あまり面倒を大きくしたくないからさ」
 つまり警察を呼んだ、という話はブラフだったってわけだ。
「なにより――菖蒲ちゃんがいるんだから、警察沙汰にするわけにはいかないでしょ?」
 俺から離れて、緋咲さんは明るく笑った。
「――夕貴様ぁ!」
 腕を強く引っ張られる。
 力を抜いていた俺はよろめいてしまった。そして胸の中に、菖蒲が飛び込んでくる。
 ……その小さな身体が、震えていた。
 男たちに言い寄られても、気丈な態度を崩さなかった菖蒲。
 逃げ出すこともせず、ただ俯いてじっとしていた菖蒲。
 名前も知らない男たちに口説かれる恐怖は、女の子にとって身の危険を想像せずにはいられないのだろう。
「大丈夫か? あいつらに、何もされなかったか?」
 菖蒲を優しく抱きしめながら、菖蒲の甘い匂いを感じながら、なるべく優しく問いかけた。
 返答はなく。
 ただ菖蒲は小さく、何度も頷くだけだった。
「ごめんな。俺がちゃんと店先で待っていれば、こんなことにはならなかったのに」
「……いいえ、夕貴様は悪くありません」
 嗚咽の混じった声で、菖蒲は言った。ちょっとだけ泣いてしまったようだ。
 このままいつまでも菖蒲を抱きしめていたかったが、さすがに公衆の面前ということもあるので、そうもいかない。しかも緋咲さんがニヤニヤしながら俺たちを見てるし。
「――なあ菖蒲。一つ聞いてもいいか?」
 ゆっくりと離れたあと。
 帽子を目深に被りなおしている菖蒲に、俺は声をかけた。もう彼女は泣き止んでいて、いつもの柔らかい笑みを浮かべている。
「はい? 菖蒲に答えられるものならば、なんなりとお答えいたしますが」
「そっか。じゃあ聞くけど――あの男たちに声をかけられたとき、どうして店の中に逃げ込まなかったんだ?」
 これだけが謎だった。
 いくら菖蒲が抵抗できずとも、目の前にランジェリーショップがあるのだから、そこに逃げ込めばよかったのだ。そうすれば男たちも追えなかっただろうに。
「……えっと、あの」
 すると、菖蒲は頬を赤くして、俺から視線を外した。
「……店の前で待っていないと、その……夕貴様に、菖蒲を見つけてもらえないのでは、と思いまして……」
 つまり。
 俺を待っていたからこそ――俺を待ち続けていたからこそ、店先から動こうとしなかったってことか。
 菖蒲は気恥ずかしそうにしながら、もじもじと身体を揺らしていた。しかも時折、『お、怒られないかな?』というような感じで俺のほうを見てくる。
「……意外と馬鹿だな、菖蒲も」
「ご、ごめんなさい」
 しゅん、と身体を小さくする菖蒲。
「ああ、違う違う。べつに怒ってねえよ」
「……本当ですか? 夕貴様は、菖蒲のことを嫌いになったのでは」
「だから違うって。むしろ、より一層『高臥菖蒲』のファンになった」
 慰めるように頭を撫でて――やろうとしたのだが、菖蒲が帽子を被っているせいで無理だった。
 だから、代わりに肩にかかっていた髪の毛に触れた。そのまま宝物を扱うつもりで梳いていく。鳶色の髪は、絹を束ねたかのようにさらさらしていた。猫っ毛なのだろうか、髪の一本一本が細い。
 俺の言葉を聞いて、菖蒲は目元を柔らげた。そして恐る恐る俺に近づいてきて、となりに並んでくる。どうやら菖蒲の定位置は、本人曰くそこらしい。
「いやぁ、青春だねえ。若いっていいねえ。でもあたしがいるんだから、もうちょい自重してほしかったかなぁ」
 わざとらしく拍手をしながら、緋咲さんが含みのありそうな目で俺を見てきた。
「……言っておきますけど、俺は緋咲さんには怒ってるんです」
「ありゃりゃ、どうして?」
「どうしてもなにも――さっきの金髪の男は、いざとなれば女にだって手を上げたでしょう。それぐらい緋咲さんにだって分かってたはずです」
「まあね。だって彼、あたしのことを犯すとか言ってたし。でもあたし的には、夕貴くんにだったら何されてもいいんだけどなー」
 冗談交じりの、さばさばとした口調。
 でも俺は、それを冗談としては受け止められなかった。
「ふざけないでください。言っておきますが、俺は怒ってんだ」
「あっはー、怖い顔だねえ。もしかして夕貴くんってば、あたしがピンチになったら助けてくれたりした?」
 そんなわけないよねー、と苦笑する緋咲さん。
 返す言葉なんて、もちろん決まってる。
「――なに当たり前のこと言ってんですか。俺は女の子を見捨てるほど恥知らずな男じゃない」
 言ってから、これは格好をつけすぎかな、とも思った。
 緋咲さんは大きく目を見開いて、じっと俺のことを見ている。それは、いつもペースを崩さない彼女にしては珍しい。
「……あたし、本当に夕貴くんのこと気に入っちゃったよ」
 とても楽しそうな、とても嬉しそうな笑顔を緋咲さんは浮かべた。
 ――結局、緋咲さんは「もう危ないことはしないよ」と約束してくれた。それと同時に「あたしが危なくなったら、夕貴くんが助けに来てくれるもんね」と約束させられてしまったけど。
 仕事に戻る緋咲さんを見送り、帰路につく俺たちは逆に見送られた。
 一つ厄介な問題があったけど、まあなんとか解決できたことだし、とりあえずは良しとしよう。
 今日からしばらくの間、菖蒲と一緒に暮らす生活が始まるんだ。しかもナベリウスという核弾頭が萩原邸には設置されているのだから、締めてかからないと色んな意味で危ない。
 俺は明日から訪れるであろう、新たな日々に想いを馳せながらも、菖蒲と二人並んで帰路を辿った。



****



 男たちは憤慨していた。
 このままでは絶対に済まされない。自分たちは舐められたら終わりだ。力を誇示することこそが生き甲斐であり、畏怖されることこそが生きている価値なのだから。
 確かに、あの女性的な美しい顔立ちをした男は、自分たちより強い。それは認めよう。
 だが復讐する機会と手段がないわけじゃない。
 長い金髪と、ホストのような出で立ちが特徴的な男――新庄一馬は、一つの事実に気付いていた。
 帽子を目深に被った、類稀な美少女。
 一馬は、彼女に「どこかで会ったことあるよね?」と問いかけたが、それは本心から出た声だった。あの少女を見たときから、言い知れぬ既視感があったのだ。
 そして、やはり一馬は間違っていなかった。
 あの女は――女優の高臥菖蒲だ。
 いつも仲間内で話題に上り、いつか抱いてみたいと夢見ていた少女だ。
 可憐な顔立ちもそうだが、なにより男の情欲をかきたてて止まない蟲惑的な身体が――堪らない。
「おい、海斗に連絡しろ」
 一馬は夢想していた。
 これこそが最大の復讐になるのだと、そう信じて疑わなかった。


 ――ここに、一つの悪意がカタチを成した。
 




[29805] 1-7 約束
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/10/07 23:40
 
 あの日――菖蒲が俺の家に訪ねてきた日。
 今にして思えば人生の分岐点だったのではないか、と思うほど唐突な出会いの日から、すでに一週間が経過していた。
 さすが高臥家のお嬢様なだけあって、菖蒲は他者と上手く共存する術を知っている。自己主張を忘れず、自分の意見はしっかりと口にして――それでいて引くべきところはきっちりと弁えており、決して相手を不快にさせない。
 俺が想像していた以上に――この奇妙な共同生活は円満に進んでいた。

「ねえ夕貴。菖蒲のこと、好き?」

 俺のとなりで、コップに注がれた牛乳をごくごくと飲んでいたナベリウスが言った。
「はあ? いきなり何を言い出すんだよ」
「あれ、好きじゃないの?」
「……どうかな。憧れてるのは間違いないけど」
「ふーん。なんだか釈然としないわね」
 煌びやかな銀髪をかき上げながら、ナベリウスは残りの牛乳を飲み干した。
 そのかたわらで、俺は調理に勤しんでいた――現在の時刻は午後九時であるのだから、もちろん夕食は終わっている。ゆえに俺が作っているのは夕食ではなく、夜食やデザートに分類されるものだった。
「でも、あの子――菖蒲はいい子よ。夕貴のお母様とすこしだけ似てる。まあ、あっちのほうが若干子供っぽいような気がしないでもないけど」
「違う、母さんは子供っぽいんじゃない。母さんは、いつまでも子供心を忘れない人なんだ。そこを間違えるな」
「はいはい。そういうことにしといてあげるわ」
 言って、ナベリウスは冷蔵庫にもたれかかりながら、リビングのほうを見た。萩原邸はカウンター型キッチンという、リビングとキッチンが隣接しているような造りになっているので、料理をしながらでも家族と親しむことができる。
 風呂上りの菖蒲はピンク色のパジャマを纏い、首にはタオルをかけて、やや火照った身体を冷ますように窓際のあたりにいた。開けた窓から入り込む夜風が、そのふんわりとした鳶色の長髪を柔らかく揺らしている。
 毎朝のように水遣りを担当したがる菖蒲のことだ、きっと庭にある花壇――そこに咲き乱れる、色とりどりの花を見つめているのだろう。
「それにしても、いきなり知らない女の子と同居なんてどうなることかと思ったけど、意外と上手くいってる感じね。まあ、未来予知なんて胡散臭い能力をどこまで信じていいものかは分からないけれど、あの子が夕貴と結ばれるっていうなら、それはわたしにとって喜ばしいことかなぁ。どこぞの馬の骨には夕貴ちゃんをやれないし」
「素晴らしくツッコミどころが満載だが――とりあえず俺を夕貴ちゃんって言うな」
「あ、そこから突っ込むんだ。やっぱり図星?」
「違うわっ! てめえが俺の輝かんばかりの男らしさにケチつけてくるから怒ってんだよっ! ついでに言わせてもらうが、いきなり知らない女の子と同居ってシチュエーションは、どこぞの銀髪悪魔のときにもう経験済みだボケ!」
「うっわ、つまり夕貴って……中古?」
「――新品だっ! まだ封すら切ってない状態に決まってんだろ! 返品だって余裕でこなすわ!」
「ふーん。でも男で新品って、あまり褒められたことでもないわよ?」
「えっ、それってどういう意味だ!?」
「答えを知りたければ、今晩にでも菖蒲の寝室に潜り込むことね。わたしの見立てでは、きっと菖蒲はドMよ」
「……そ、その根拠は?」
「よくぞ聞いてくれました――まあ考えてもみなさいな。菖蒲が言ってたでしょ? わたしは未来で、夕貴にアブノーマルなことをされてましたって」
「まあ言ってたな。で、それが?」
「はーあ、夕貴は鈍いなぁ。ちょっと見方を変えれば分かるでしょうに。……あぁ、その前に一つだけ確認しておくけど、夕貴には特殊な性癖なんてないよね?」
 ここは――紛れもない正念場だ。俺の潔白を証明せねばなるまい。
「そんなものあるわけがない、と母さんに誓う」
「神様じゃないんだ?」
「いや、神様なんぞ目じゃない。神様に誓う、という使い古された定型句が原型としたら、その最上級が、母さんに誓う、だ」
「……あっ、そう」
 なぜか呆れた顔をするナベリウス。
 俺はおかしなことなんて言ってない、よな?
「とにかく、夕貴に特殊な性癖はない、と仮定して話を進めましょうか。まあ、ここからは簡単な話なんだけど、夕貴に女の子を虐めて喜ぶ趣味がないとすると、じゃあ、どうしてそういうプレイに発展したか、ってところに論点が移動するでしょ? 夕貴が望んでもいないのに、恐らくは恋人か夫婦である二人の間に、そういったアブノーマルなプレイ様が降臨なさったってことは」
「……ま、まさか」
「そう、だからわたしは菖蒲がドMだと仮定したのよ。単刀直入に言いましょうか。つまり、あの子が時々口走る不吉な未来は、すべて菖蒲の性癖が発端となっていたのよっ!」
「――な、なんだってぇぇぇぇっー!?」
 キッチンにて、アホみたいな漫才を繰り広げる俺たちだった。
 さて、あまりナベリウスに構っている時間もないので、手早く本分に戻るとしよう。
 牛乳と卵と砂糖をボウルに入れて、ハンドミキサーを使ってかき混ぜる。そうして完成した黄色い液体に、四分の一カットしておいた食パンを浸していく。
 フライパンにはバターを入れておき、満遍なく油分と塩分が溶け切ったことを確認すると、さきほどの食パンを弱火で焼いていく。表面を黒くしてしまっては見栄えが悪いので、きつね色になった段階で裏返して、しっかりと両面に熱を通すことが大切だ。
 出来上がったものを皿に載せる。用意したのは、もちろん三人分。好みはあるだろうが、俺の独断でちょっとだけシロップをかけておく。
 ――これで、フレンチトーストの完成である。
 慣れれば十五分とかからない程度の手間で、喫茶店で注文するのと変わらない味が楽しめる。俺の知るレシピの中でも、フレンチトーストは特に簡単なほうだ。
 ついでだから三人分の紅茶も入れて、それをリビングのダイニングテーブルに持っていく。その一連の流れを見守っていたナベリウスが、じゅるり、とわざとらしく涎を垂らしていた。
 夕食のときと同じように。
 もう一度だけ、俺たちはテーブルに腰掛けていた。位置関係は以前と変わらない。俺とナベリウスが並んで座り、その対面に菖蒲が腰を落ち着けている。
 差し出されたフレンチトーストを物珍しそうな目で見つめて、菖蒲は恐る恐るといった風に黄金色のパンを口に運んだ。
「……美味しい」
 それが菖蒲の第一声だった。
 目に見えて喜ぶでも、子供のように笑うでもなく。
 ただ一言――美味しい、と菖蒲は言った。
 その反応が嬉しかった。
 本当に美味しいものを食べた人間の反応というのは、実に分かりやすい。大袈裟なリアクションを取るパターンもあるが、それはテレビ番組のように『味を楽しめない他者に、味覚を視覚化・聴覚化して伝える』必要のあるときだけ。
 心の底から『美味しい』と思ったときは、味覚に神経を集中させるため、身振りを交えて味を表現する余裕などないのだ。まあ理論上の話ではあるが。
 菖蒲は、その小さな口でフレンチトーストをもう一口だけ齧った。
「……美味しいです。これ、夕貴様がお作りになったのですよね?」
「ああ。誰でもできる超簡単なレシピだけどな」
 これは謙遜じゃなくて、本当である。
 第一、菖蒲は仮にもお嬢様なのだから、普段からもっと美味しいものを食べてるはずだ。だから料理人でもない俺が作ったフレンチトーストごときに、そこまで感動するのは理に合わない。
「はーあ、夕貴ちゃんは女心が分かってないなぁ」
 はむはむ、と口を動かすナベリウスが、俺の疑問を見透かしたように視線を向けてきた。
「きっと、世界一の料理人が、最高級の食材を使って、最高峰の技術を以て調理した料理よりも、菖蒲はこのフレンチトーストのほうが美味しいって言うわよ」
「なんで? 言っておくけど、俺は鳥骨鶏の卵すら使ってねえぞ」
「チッチッチ、甘いわね。まったくもって夕貴は分かってない」
 そこで一瞬溜めるように、ナベリウスは紅茶を口に含んだ。
「女の子って生き物はね――理屈じゃないのよ」
 無駄に格好いい台詞だった。
 いつにも増して母性を感じるというか、大人びて見えるナベリウスの顔。
 その口周りがシロップで汚れてさえいなければ、きっと俺は素直に感動できたと思う。
 しかし、ナベリウスの言葉が正しいものであると証明するように、菖蒲はとても幸せそうな顔でフレンチトーストを頬張っていた。
 菖蒲の口は小さいから、なんだか頑張って食べているようにも見える。小動物みたいに頬を膨らませて――とまではいかないけれど、それに近い状態だ。
 ふと菖蒲と目が合う。
 口に食べ物が入っている状態では喋れないのだろう――菖蒲はぱちくりと大きく瞬きをして、俺に視線だけで『なにか?』と問いかけてきた。
「いや――本当に美味いのかなぁ、って思ってさ」
 ぶんぶんっ、と何度も首を縦に振る菖蒲。きっと『当たり前です!』と言っているのだろう。
「そっか。ならよかった。菖蒲の口には合わないかも、と心配してたから」
 不思議そうに小首を傾げる菖蒲。たぶん『と、仰いますと?』みたいな感じのことを言いたいのだと思う。
「菖蒲は高臥家のお嬢様だろ? だから俺が作ったフレンチトーストなんかで大丈夫かなって」
 今度は、むっ、と眉を歪めて視線を鋭くする。どこからどう見ても、菖蒲は不機嫌そうだった。恐らく『いくら夕貴様でも、その発言だけは聞き捨てなりません』と強く怒っているんだろう。
「……悪い。ちょっと自虐が過ぎたみたいだ。菖蒲が美味しいって思ってくれたんなら、それだけでいいよな」
 俺が自嘲気味に笑いながらそう言うと――菖蒲はニコリと微笑んで、一度だけ頷いた。
 その柔らかな笑顔には、人間を応援するパワーがあると思う。
 嫌なこと、辛いこと、悲しいこと、泣きたいこと――そういう負の感情を吹き飛ばすだけの何かが、菖蒲の笑顔にはある。
「ふーん、まさに以心伝心ね」
 そのとき――最後のフレンチトーストを惜しむようにちびちびと食べていたナベリウスが、俺と菖蒲を交互に見た。
「言葉にしなくても互いの言いたいことが分かる――それこそが人間関係の行き着くところでしょ?」
 つまり――
 親友。
 恋人。
 夫婦。
 家族。
 俺と託哉が分かり合っているように、俺とナベリウスが支え合っているように、俺と母さんが通じ合っているように。
 俺と菖蒲も――また。
「でも、俺だってナベリウスの言いたいことは、言葉にしなくても大体分かるぜ」
「へえ、じゃあ言ってみなさいよ」
 夕貴にはわたしの心を読むのは十年早いわよ――と言わんばかりに得意げな顔をするナベリウス。
 その鼻っ柱を叩き折ってやるために、俺は自分の分に取っておいたフレンチトーストを進呈した。
「――さっきから、俺の皿を物欲しそうな目で見すぎなんだよ、おまえは」
 くすくす、と菖蒲が上品に笑う。
 ナベリウスは目を丸くしたあと、ちょっぴり頬を赤くして、こほん、と咳払いした。
「……ふん。まあ夕貴がお腹いっぱいって言うなら、わたしが食べてあげてもいいわよ」
「そうか。じゃあ、お腹いっぱいじゃないから俺が食うな」
「あぁ~! ごめん嘘だからぁ~!」
 宝物を奪取するハンターのように、ナベリウスは皿を抱きかかえて離そうとしない。
 それを見て、俺と菖蒲は笑った。
 そんな俺たちを見て、ナベリウスは笑った。
 ――萩原邸のリビングに、幸せそうな三つの笑顔が咲き誇った。



 フレンチトーストを食べ終わったあと、俺たちはそのままリビングで寛いでいた。
 ただし俺と菖蒲は、リビングと庭を繋ぐウッドデッキに腰を下ろして夜風に当たっているので、正確にはリビングではなく、庭で寛いでいるといったほうが正解かもしれない。
 ちなみにナベリウスのやつは、だらしくなくソファに身体を横たえて、バラエティ番組に夢中になっている。どうも、今夜のナベリウスは笑点のハードルが低いらしく、ことあるごとに笑い声が響いてくる。
 誰かの笑い声には、無条件で人を落ち着ける効果があると思う。
 それが知り合いの声であるのならば、なおさらだ。
「夕貴様は、お料理が上手なのですね」
 真正面を見つめながら、菖蒲がぽつりと呟いた。
 俺はあぐらをかき、菖蒲は三角座りをしている。ウッドデッキに並んで腰を落ち着けているものだから、俺たちの視線は交わることなく、二人して夜の帳が下りた庭を見つめていた。
「得意なわけじゃないぞ。人並みにできる程度だ」
「それでも料理をなさる殿方は素晴らしいと思います。菖蒲はあまり料理に造詣が深くありませんので、その……」
 膝の間に顔を埋めて、菖蒲は口元を隠してしまった。
「そうなのか? 俺としては一度、菖蒲の手料理を食ってみたいんだけど」
「夕貴様がそう仰られるのでしたら、菖蒲は努力いたしますが……」
 聞くところによると――菖蒲は母親やお手伝いさんに料理を教わったことはあるが、定期的に練習はしていないらしく、いささか自信がないという話だ。もちろん包丁を初めとした料理器具の使い方は理解しているし、基本的な味付け、初歩的なレシピなども記憶しているだろう。それでも他人に満を持して料理を振舞えるか、と聞かれると、菖蒲は一抹の不安が残るというのだ。
 でも、そんなのは関係ないと思う。
「それでも俺は食ってみたいな。一度でいいから菖蒲の手料理を食べてみたい」
「……本当ですか?」
 立てた膝の上に顔を横向きに載せて、菖蒲が俺を見てくる。よほど自信がないのか、もしくは不安なのか――微妙に瞳が潤んでいた。
 こういう女の子らしい仕草を見ると、なんだかドキっとしてしまう。
 俺は体が熱くなるのを自覚しながらも、平静を装って答えた。
「ああ。菖蒲が作ったものなら、どんな料理だって喜んで食うよ」
 それは本心からの言葉だった。
 菖蒲は目元を和らげる。
「……菖蒲は、夕貴様のそういうところに惹かれます」
「そういうところ?」
「はい。夕貴様はとても優しくて、温かくて、強くて、賢くて――なによりお美しいです。時々、菖蒲ごときが夕貴様と触れ合ってよろしいものかと、頭を悩めることさえあります」
「それは過大評価しすぎだろ。前から思ってたが、菖蒲は俺のことを持ち上げすぎている感があるな」
「そうでしょうか? 夕貴様こそ、自身を過小評価しすぎているように思います。菖蒲は、夕貴様ほどお美しい方を初めてお見受けしましたけれど」
「……あのな。念のために注意しておくが、男に”美しい”とか”可愛い”ってワードは禁句なんだよ。だから俺のことを間違っても”お美しい方”なんて言わないでくれ」
「……分かりました。夕貴様がそう仰られるのであれば」
 どこか釈然としない様子の菖蒲だった。
 ちょっぴり拗ねてしまったのか、菖蒲は俺ではなく庭のほうを見つめていた。その視線の先を辿ってみると、やはりと言うべきか、菖蒲は花壇に植えられた花に心を奪われているようである。
 そういえば、と思った。
「なあ菖蒲。あの花――知ってるか?」
 指差した先にあるのは、美しい紫色をした花。ちょうどこの時期から開花を始める花。そして俺がとある理由から大好きな花でもある。
 しかし菖蒲は、あの花の名前が分からないようだった。まあ夜ということもあって庭も薄暗く、花びらの色がよく視認できないので、知っていたとしても答えを当てるのは難しいかもしれない。
「あれはな、アヤメ科アヤメ属の多年草なんだ」
「なるほど、アヤメ科アヤメ属の多年草なのですね。……えっ、あの、夕貴様?」
「どうした?」
「……アヤメ、ですか?」
 まるで合わせ鏡という現象を初めて知った子供のように、菖蒲は目を丸くした。
「ああ。あれはアヤメっていう花だ。誰かさんと同じ名前だな。そして俺が大好きな花の一つでもある」
「……もう、夕貴様ったら」
 頬を赤くした菖蒲は、口元に手を当てて笑みをこぼした。
「そういえば菖蒲っていう名前は、誰がつけたんだ?」
「確か――お父様だったと思います。名前の由来などは聞いていないのですけれど」
「……そっか。お父さんがつけたのか」
 とすると、菖蒲の父親は、本当に菖蒲のことを大切に思っているのだろう。
 きっと菖蒲の父は――重国(しげくに)さんは、【高臥】の長い歴史を鑑みた上で、自分の娘に”菖蒲”という名前を授けた。それは祈りでもあるし、願いでもある。
 名は体を表す、という言葉がある。
 つまり重国さんは、あの健気に咲き乱れるアヤメの花のように――菖蒲にいつまでも強く在って欲しかったんだろう。
 なによりアヤメという花には――
「あの、夕貴様」
「……ん? どうした?」
「いえ、その……ですね」
 じっと見つめてきたかと思えば、もごもごと口ごもって顔を俯けたりと、菖蒲はとにかく落ち着きがない。
 しかし、とうとう意を決したのか。
「……実は、一つだけお願いがありまして」
 流れるような鳶色の髪を耳にかけて、菖蒲は訥々と呟いた。
「お願い? ……まあ、下着を見繕ってくれ、みたいな感じのやつじゃなかったら何でも聞くぞ」
「いえ、それはまた今度です」
「次もあるのかっ!?」
 慌てて振り向くと、菖蒲は「当然です」と頷いた。どうやら決定事項のようである。
 こほん、と咳払いをして、菖蒲は続けた。
「……夕貴様のお作りになったフレンチトースト、とても美味しかったですよね」
「そう言ってくれるなら、作った俺としても嬉しいよ」
 まあレシピ自体は母さんに教えてもらったんだけど。
「……夕貴様のお作りになったフレンチトースト、とても美味しかったですよね」
「そう言ってくれるなら、作った俺としても――あれ?」
 おかしいな。
 気のせいじゃなければ、会話がループしているような。
「……夕貴様のお作りになった」
「いや、もう分かったから。一度美味しいって言ってくれただけで十分だって」
 俺が苦笑すると、菖蒲は曖昧な顔をしながら右手で頭を抱えた。くしゃり、と鳶色の長髪が乱れる。
 ふと、閃くことがあった。
「……もしかして、またフレンチトーストを食べたいのか?」
 外れて元々で言ってみた。
 すると菖蒲は、ぱあ、と瞳を輝かせて、何度も何度も、それこそ子供みたいな笑みを浮かべて頷いた。
「はいっ! 夕貴様さえよろしければ、是非!」
 今からわくわくが抑えきれないようで、菖蒲は忙しなく髪を弄っていた。
「もちろんいいに決まってんだろ。そんなのお願いにも入らねえよ。もし菖蒲さえよければ、俺と一緒に作ってみるか?」
「え――?」
「だからフレンチトーストだよ。一緒に作ってみないか?」
 俺としては自然な発想だったのだが、菖蒲には寝耳に水だったようだ。
 菖蒲は――笑ったかと思えば肩を落として、気恥ずかしそうに頬を赤くしたかと思えば『駄目だ駄目だ!』と自分を引き締めるように首を振って、幸せそうにはにかんだかと思えば乙女チックに人差し指を付き合わせる――という、なんとも理解できない行動を見せた。
 本当に――なんていうか。
 上手く言葉には出来ないけれど、この子は、俺にとっての特別なんだろう。
 母さんやナベリウス、そして託哉とも違った――特別。
 女優の『高臥菖蒲』。
 ずっと憧れていた女の子。
 高臥宗家の一人娘にして、未来予知という異能を受け継いだ人間。
 そして――未来に助けられ。
 同時に――未来に翻弄されてきた少女。
 俺だけは菖蒲の言う未来を信じてやりたい。
 それがどんなに悲しくて、酷くて、辛くて、泣きそうで、信じるに値しない結末だったとしても。
 菖蒲が視た未来ならば――俺は信じてみたいと思うのだ。
 この日の夜。
 俺と菖蒲は、一つの約束を交わした。
 子供の頃のように、小さな唄を口ずさんで、指切りを交わした。
 もう一度、フレンチトーストを作ってやるという約束。
 今度は、二人でフレンチトーストを作ろうという約束。
 それは換言すれば――明日も、あさっても一緒にいようという契約に他ならない。
 俺たちの間に交わされた約束を見届けた証人はいないけれど。
 ――それでも夜空には、まるで俺と菖蒲の未来に広がる闇を切り裂くように、大きな満月が咲いていた。



****



 六人の男たちは、真実この街において知られた存在だった。
 初めは誰構わず喧嘩を仕掛けることで有名だった。暴力を誇示することに満足できなくなった頃には、裏で恫喝を繰り返して、学生や社会人から金銭を巻き上げる効率性の良さに味を占めた。
 しかし警察にマークされるようになってくると、隠れて悪事を楽しむようになった。表立って発散できないストレスは、停まっている高級車を荒らしたり、マフラーを改造したバイクで暴走することによって、周囲の人間にストレスを転換させるという方法を用い、晴らしていった。
 これといった目的があったわけではないが、いつしか男たちは街でも畏怖の対象になっていた。いわゆるアウトローを気取る少年少女たちは、男たちを恐れ、敬い、礼儀を尽くすようになった。
 娯楽を消費する人間が、そのかたちを変えない在り方に飽きを覚え、次の娯楽を求めるように、男たちが繰り返す悪事はすこしずつエスカレートしていった。
 女をナンパするだけであったのが、いつしか女をレイプすることに変わり。
 クスリを楽しむだけであったのが、いつしかクスリを売りさばく側に変わり。
 彼らにとって、女をナンパするのは単なる暇つぶしだ。本当に欲しいと思った女がいれば、声をかけるだけに留まらず、夜道で襲撃して身柄を確保し、集団で乱暴を働くのが当たり前。
 また、クスリに手を出したことが、ある意味では男たちに革命的とも言える変化をもたらした。
 あるとき、とある暴力団の構成員が、男たちの評判を聞きつけ、接触してきたのだ。
 男たちと暴力団の間に交わされた密談は、そう難しい話ではない。要約すれば、自分たちがケツを持ってやるから、おまえたちは若者を中心にクスリをさばけ、ということだった。
 本来であれば抑止力として機能する警察は、しかし暴力団がバックにつくことで、男たちの敵ではなくなった。
 暴力団と警察は、表裏一体。
 暴力団は――小さな悪事を警察に摘発させて点数を稼がせてやったり、表の権力だけでは解決できない問題を裏の力で解決してやったりと、警察側に利益をもたらす。
 その代償として、警察は暴力団に関わる多少の悪事を見逃してやったりするなどして、相互の損益を打ち消すような関係を築いている。
 だが、いくら水面下で癒着しているとは言え、クスリをさばくのはリスクの高い行為であり――それを知っているからこそ、暴力団は男たちをライブベイトに見立てることにした。
 裏の協力関係にある暴力団でも、さすがに悪事の決定的瞬間を警察に補足されてしまえば一巻の終わり。
 そこで男たちが緩衝材として選ばれた。いざとなれば、とかげの尻尾のように男たちを切れば、暴力団にまで罪が言及されることはない。悪事の現行犯(・・・)さえ摘発すれば、警察は表面上は満足してくれるのだから。
 相互に利益を生み、損益を消すとはいっても、互いに疎ましいと思っていることは不変の事実。さすがの警察も、違法薬物が蔓延する、という事態を静観するほど腐ってはいない。
 これが現実――しょせん国家権力は抑止力であり、正義ではない。警察が内部に孕んだ闇は、組織に利益をもたらすのと同時に、切り離すことのできない問題も抱えた。それは汚職を汚職で上塗りするような、決して明るみには出来ない文字通りの闇だった。
 しかし、それは男たちにとって関係のない話。
 男たちは悪事の延長線上として――暴力団からクスリを買い取り、それを学生たちでも手が届くぐらいの良心的な値段で売りさばいた。
 これまで万引き、ひったくり、カツアゲなどをバイトとしてきた男たちにとって、クスリの売買はこれまでとは比べ物にならない利益を生みだした。
 また、暴力団がバックについたことで、街でアウトローとして名の知られた者たちですら、男たちに敬意を払うようになった。
 事実、男たちは突出した暴力を持っていた。それは喧嘩の強さだけではなく、危機に陥れば躊躇いもなく刃物を振り回すような、ある種の省みない暴力だった。
 加えて、男たちは警察に摘発されるような下手さえ打たなければ、将来的には暴力団組織に迎え入れられることが約束されている。
 いい大学を出て、一流企業に勤めることが表のエリートならば。
 まさに男たちは、裏のエリートとも言うべき道を歩んでいたのだ。
 ――だが、そんな生活にも、いつしか飽きがくる。
 暴力団がバックについた――そう言えば聞こえはいいが、実際は都合のいい犬として飼われているだけ。
 確かに男たちは順風満帆に見えるかもしれないが、それはいつ破滅を迎えるとも知れない、一寸先の見えないレールの上を走っているのと同義のはず。
 現状を楽しみつつも、漠然とした不安を抱きながら、男たちは欲望の赴くままに日々を過ごしていた。
 ――そんなときだ。
 男たちの一人――荒井海斗の耳に、今までとは趣が違う情報が入ってきたのは。
 本来、六人の男たちに序列はないし、本人たちも友人だけは大切に扱う人種だったゆえに上下関係も定めていなかったが、男たちは自然と海斗をリーダーとして扱っていた。
 理由はあまりない。ただ海斗がアウトローにしては頭のキレる男で、喧嘩の強さも一人だけ抜けていたからだろう。
 しかし、海斗は仲間の一人――新庄一馬からもたらされた情報に、数日の間、頭を悩まされていた。
 苦悩、ではない。
 むしろ――大きな利益を生むにはこの情報をどう活用するべきか、という一点だけを寝ずに考えていた。
 男たちが、ここまで警察に捕まらずやってこれたのは、すべて海斗の的確な判断があったからこそ。 
 だが、その海斗をして、仲間の一人である新庄一馬からもたらされた情報は扱いづらいものだった。
 曰く――女優『高臥菖蒲』について。
 一馬を含めた数人の仲間が、これまで築き上げた情報網を駆使することによって判明した、高臥菖蒲の住所。
 決定的な情報は、愛華女学院に在学している女生徒の一人によってもたらされた。その女生徒は資産家の娘ではあるが、火遊びを求めてクスリに手を出し、今となっては薬物欲しさに男たちに股を開くような、都合のいい存在になっている。
 彼女が言うには、今年の一年生――つまり愛華女学院の新入生として、高臥菖蒲が入学してきたとのことだった。
 その情報を基点として探していくうちに、男たちはついに掴んだ。
 高臥菖蒲が、あの忌々しい女性的な顔立ちをした男と同棲していることも掴んだ。
 金髪にホストのような装いがトレードマークの新庄一馬は、高臥菖蒲を使って、とある男に報復がしたいと海斗に進言した。
 しかし、それだけではもったいないと海斗は思う。
 例えば――高臥菖蒲が年頃の男と同棲している、というような話を、より過激に脚色して、雑誌社などに売り込むのも手の一つだ。でも、そうすることの報酬は微々たるものだろう。まだクスリを売りさばいたほうが金は稼げる。
 ならば、どうするか。
 ――ひたすらに頭を悩ませた結果、海斗は覚悟を決めた。
 男たちのために。
 自分のために。
 なにより――もう終わらせるために。
 そう、終わらせるためにだ。


 ――ここに男たちは覚悟を決める。
 それが無謀だということを理解しているのは、六人の中でもきっと海斗だけ。
 それが成功すると思っているのは、海斗を除いた五人だが。
 それが失敗すると思っているのは、五人を除いた海斗だけだった。
 復讐、金銭、色欲、娯楽、興奮――そして諦念。
 六つの思惑が交差した結果、ここに一つの犯罪行為が生まれる。
 海斗は言う。
 かの女優『高臥菖蒲』を――してみせよう、と。
 誰が知ろう。
 この男たちの選択こそが――【高臥】のみならぬ、日本の表社会の経済を混乱させ、裏社会に未曾有の大抗争をもたらすような、最凶の悪手であると。
 



[29805] 1-8 宣戦布告
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/10/08 12:25

 愛華(あいか)女学院は、日本でも有数の由緒正しいお嬢様学校である。
 英国のパブリックスクールを原型に創設された愛華女学院は、明治初期には淑女を教育するに相応しい現場という触れ込みで周知のものとなり、一躍その名を轟かせた。
 古めかしくも落ち着いた雰囲気を持つ学生寮、壮麗でありながら温かみのある校舎、連綿と受け継がれてきた伝統、社交界でも通用するような子女を育て上げる情操教育など、愛華をお嬢様学校と呼称するに値するだけの要素は枚挙に暇がない。
 昭和中期までは、聖書について学ぶ授業や、特定の曜日におけるミサも取り入れられていたが、第二次世界大戦の終戦をきっかけに大規模な見直しがなされ、宗教的な概念は排除されることになった。
 それでも愛華が、淑女を教育するに適当な現場であることは変わらない。
 かの女学院が掲げる教育理念は、子供を清く正しく育て上げたいと願う親にとっては魅力的に見えたのだろう。事実、愛華は県内でも上位に位置する偏差値を誇ったし、部活動にも積極的で、いくつかのクラブは全国大会にもよく名を連ねた。
 また、入学する生徒は、一般的な水準よりも裕福な立場にあることがほとんどだった。例えば資産家、政治家、官僚、芸能人、経営者などを親に持つ子供が、全校生徒の実に半数近くを占める。
 とは言ったものの、愛華は独自の奨学金制度を持ち、定められた基準を満たした人間であれば、家柄に恵まれずとも入学することができる。
 この場合、定められた基準とは、相対的に見た偏差値が高い、あるいは部活動において優れた成績を収めたパターンなどが該当する。また、学生寮も完備されているので、地方の出身者を受け入れやすい環境が整っていた。
 愛華を卒業したという事実は、学歴が重視されなくなりつつある現代社会においても少なくない利点を持つので、こぞって娘を入学させようとする親も多い。
 あらゆる側面から見ても、愛華女学院は日本でも有数のお嬢様学校という結論で落ち着く。
 今年入学した生徒の中にも、やはり政財界や芸能界にコネクションを持つ家系の出が多く見受けられた。
 しかし、”特別”であることが”普通”となりうる愛華の中において、一際”特別”な女生徒が、今年の新入生には一人いた。
 老若男女を惹きつける美貌。
 他を凌駕して余りある出自。
 愛華女学院という枠の中でさえ、やはり彼女――高臥菖蒲は”特別”と認識されていた。
 もちろん、その類稀なる美貌や人気を妬む女子も多かったが、一度でも菖蒲と接すれば、禍根の種は消えていくのだ。
 菖蒲は、本物だった。
 偶然美しく生まれただけでも、偶然【高臥】という名家に生まれただけでもなく。
 菖蒲が持って生まれた魅力は、周囲を惹きつけて止まない、まるで太陽の光のようでさえあった。
 モデル、女優、俳優などが物珍しくない愛華においても、入学当初から有名人であった菖蒲は、瞬く間に人気者となり、輪の中心に置かれることが当たり前となった。
 菖蒲の人気ぶりを示すエピソードの一つとして、クラス委員を決めるホームルームでは圧倒的な他薦によって学級委員を任されそうになった。しかし、菖蒲は辞退した。学級委員は、他の委員会よりも拘束される時間が長い。女優という職業柄、菖蒲はクラスに時間を割くだけの余裕はなかった。
 だが、生徒の全員が何かしらの委員に所属しなければならないという決まりがあったため、菖蒲は保健委員会に入った。一度に全校生徒が委員会に入るわけではなく、春から夏、秋から冬という二学期制に分かれて、委員が交代する仕組みだ。
 なぜ保健委員会に入ったのか――と聞かれると、菖蒲は首を傾げざるを得ない。ただあえて理由を挙げるとするなら、幼少の頃から親しい二年上の先輩が保健委員会にいたからだろうか。
 その日は――保健委員会の召集があり、いつもよりも遅い時間に下校することになった。
 普段は参波清彦の運転する車で登下校していた菖蒲も、この日だけは徒歩で帰路についていたのだが、その理由は大きく分けて、三つある。
 一つは、菖蒲が萩原家に居候しているため。
 一つは、清彦が菖蒲の父を出迎えに遠方に出ているため。
 一つは、徒歩で通学している姫神千鶴と一緒に下校するため。
 本来、菖蒲は女優という肩書きさえなければ、車よりも徒歩で通学することを好む少女。父がどうしても、と言うので車による送迎を受け入れていたが、この日だけは三つの条件が重なり、菖蒲も歩いて下校する運びになった。
 なにより、久しぶりに馴染みのある先輩と会ったのだから、菖蒲は下校する僅かな間でも、言葉を交わす時間に当てたかった。
 熟れた鬼灯のような夕焼けが空を赤く染め、その芸術的とさえ言える美しい光景に黄金色の雲が混じることにより、世界は神がかり的な魅力を手に入れていた。
 紅と紫が入り混じった、どこか幻想的な色合いの空。
 彼方に沈んでいく太陽を見つめながら、菖蒲は久しぶりの徒歩を楽しみつつ、のんびりと人道を歩いていた。
 すでに馴染みある先輩とは別れて、今は一人きりだ。
 菖蒲は黒を基調としたセーラー服の他に、黒縁の伊達メガネをかけている。いつもは背中に流している髪も、今は後ろで一つに結っていた。あまり目立ってはいけない菖蒲は、こうして地味な少女を装うことによって、人の目から逃れている。
 人とすれ違うときは、なるべく顔を俯けて、目が合わないようにするのも処世術の一つ。目とは、最も感情を訴えかける部位。人間が思っている以上に、視線に含まれた情報量は膨大なのだ。
 そういえば――こうして一人きりになるのはずいぶん久しぶりだ、と菖蒲は思った。
 菖蒲の周囲にはいつも人が集まる。外出するときも、父が護衛の者をつけろと決まりごとのように言う。高臥の本邸には住み込みの家政婦が大勢いて、菖蒲の世話をしてくれた。
 もちろん誰かと一緒にいることは嫌いじゃない。むしろ菖蒲は、孤独よりも集団を好む少女。
 それでも、たまには一人きりになりたいのだ。菖蒲だって。
 恐らく――菖蒲にかかる負担やプレッシャーは、周囲の人間が考えている以上に大きい。
 だから、今だけは。
 こうして幾つかの要因が重なり、偶然にも菖蒲が一人になる状況ができたときぐらいは、放っておいてほしい。
 まだ菖蒲が売れ出したばかりの頃、これといった変装をせずに出かけたことがある。当時の菖蒲は、芸能人である、という自覚が薄かったのだろう。結局、サインや握手、そして記念撮影を求めるファンに囲まれてしまい、満足に外出を楽しめなかった。
 実家では過保護とも言える扱いを受け、外に出れば菖蒲を慕う人たちに囲まれる。
 そして一人になれたとしても――ふとした拍子に、フラッシュバックのように未来を垣間見てしまい、憂鬱とした気分になることが多い。
 もしかすると、自分には心を落ち着ける暇などないのでは、とネガティブな考えに至ったこともある。
 しかし、今はちがう。
 あの萩原夕貴という少年と、ナベリウスと名乗る美女と共同生活を送るようになってからは、ちがった。
 不思議なことに――彼らと一緒にいるだけで、菖蒲は癒されるのだ。
 夕貴と一緒にいるだけで、菖蒲は嬉しくて、楽しくて、幸せになる。
 夕貴に触れるだけで、菖蒲は心が浮ついて、そわそわして、身体が熱くなる。
 そして、夕貴に抱きしめられるだけで――菖蒲は不安な未来から護られているような気分になって、心の底から休まるのだった。
 夕貴から宇宙人のぬいぐるみをプレゼントされたとき、もうこれを家宝にしようと密かに決めた。
 夕貴に褒めてもらうだけで、あまり好きではなかった自分の身体が愛しく思えた。
 極めつけは――菖蒲が三人の男たちに声をかけられた際、夕貴が身を挺して護ってくれたことだ。
 肩を抱かれて「こいつは俺の女だ」と断言された瞬間、菖蒲は嬉しさのあまり踊りだしそうになった。夕貴は男性だが、どこか女性を思わせるいい匂いがして、それはアロマのように菖蒲の心を落ち着ける。
 しかも夕貴は、菖蒲から見れば野獣に等しい男たちを赤子の手を捻るようにあしらった。空手を習っていたとは聞いていたが、それでもあそこまで卓越しているとは思っていなかった。 
 萩原夕貴は素晴らしい少年だが、やや自分を過小評価している点だけは頂けない。
 正直に告白すれば、菖蒲は初めて夕貴と出会ったとき、その美貌に息を呑んだ。ここまで美しい男性がいることに愕然とし、同時に嫉妬もしたぐらいだ。
 女優という職業柄、世間で騒がれている俳優や男性アイドルとも顔を合わせたことはある――しかし菖蒲には、容姿を売りに活躍する彼らよりも、夕貴のほうが魅力があるように思えた。
 ――早く、帰りたい。
 ――夕貴の顔を見たい。
 ――夕貴の照れた顔、笑った顔、拗ねた顔が見たい。
 自分でも心のうちに去来する感情の正体がいまいち分からないが――それでも菖蒲は、一人よりも夕貴と一緒にいるほうがいい、とだけは断言できる。
 そちらのほうが、心が休まる。
 これから続くであろう夕貴たちとの共同生活を想像するだけで、菖蒲は遠足を控えた子供のように心が躍るのだ。
「……ふふ」
 自然と笑みがこぼれたので、口元に手を当てる。
 ここが人気のない住宅街でよかった、と菖蒲は胸を撫で下ろす。一人で思い出し笑いをするところを誰かに見られていたら、きっと今頃、恥ずかしくて居ても立ってもいられなかっただろう。
 まったくの無音というわけではないし、遠くから人の喧騒やけたたましいロードノイズが聞こえるが、菖蒲の周囲は閑散としている。まったくの無人だった。
 ただし車は通るようで、ふと排気音が耳に届いた。どうやら後方から車が接近しているらしい。邪魔になってはいけないと思い、端に寄って、歩くスピードを落とす。
 視界の端に、なにか白い物体が見えた。それは大型のワゴン車。菖蒲しか歩行者はいないのに、きちんとスピードを落として徐行している。恐らく運転ルールをしっかり守るような善人が搭乗しているのだろう。
 ――と、なぜかワゴン車は、菖蒲がいた地点を通り過ぎてから十メートルほど進んで、停止した。
 このあたりに商店はないし、なにかトラブルが起きたようにも見えないのに、その白い大型車は停車したのだ。
 怪訝に思いながらも、菖蒲は変わらぬ速度で歩く。
 行儀がいいことではないと理解していたが、通りすがりにワゴン車の中を覗いてみた――しかし窓には低透過率のスモークフィルムが張られており、外からでは内部の様子が伺えない。
 菖蒲は小さく首を傾げて――そのまま足を進めた。多少おかしな点が見受けられたとしても、その小さな違和感は、菖蒲に危機感を与えるほどのものではなかった。
 むしろ菖蒲は、やっぱり歩いて帰るのは色々な未知があって面白い――と満足したぐらいだ。
 そのとき、人工的な物音がした。
 同時に、慌しくも素早い複数人の気配。
 菖蒲は直感的に、さっきの車から人が降りてきたのかな、と思った。
 あまり褒められたことではないと分かっていたが、胸に巣食う好奇心に負けて、菖蒲は肩越しに背後を見た。
 もう少しだけ――

 もう少しだけ振り返るのが早かったのなら、未来は変わったかもしれないのに。

 菖蒲の視界に飛び込んできたのは、いつか見た男たちの姿だった。金髪ホスト風の男と、陽気そうな男。また、その後ろで彼らを見守るようにして、短く刈り込んだ髪にサングラスをかけた男がいた。
 彼らの行動は迅速だった。
 あらかじめ計画していたことを伺わせる、大胆で緻密で迷いのない動きだった。
 金髪の男が、数秒にも満たない間に菖蒲の身体を拘束して、口元に布を当てる。布は市販のハンカチらしく、清潔な匂いがするところから察するに、薬品の類は塗布されていない。
 あまりに突然の出来事ゆえに、菖蒲の理解は追いついていなかった。大声で助けを求める、という選択肢が浮かばず、ただ疑問の声を上げるだけ。それも口元の布が吸収した。
 陽気そうな男が、手に持っていた黒い物体を、菖蒲の身体に押し当てる。 
 瞬間、全身に体験したことのない激痛が走り、菖蒲は声にならない悲鳴を上げた――が、やはりそれすらも布がかき消した。
 ビクンと一際大きく身体が痙攣して、菖蒲がかけていた黒縁の伊達メガネが地面に落下していった。
 威力を強化した高電圧式スタンガン――それが菖蒲の自由を奪ったものの正体。
 電極から発した電気ショックは皮膚から神経に伝わると、全身の神経網を駆け巡って、あらゆる筋肉を硬直させる。
 それでもスタンガンを食らった人間が気絶することはない。
 感電後は十数分ほど放心状態になり、身体に力は入らないが、絶対に気絶はしない。意識を奪うほど強力なスタンガンは、もはや殺傷性の高い武器だ。本来、スタンガンは護身用であり、人体に害がないよう設計されている。
 迸るような激痛と、感電による放心のせいで、菖蒲の身体は人形のように脱力していた。
 ずるずる、と地面に倒れこみそうになった菖蒲は、もやがかかった意識の中で、金髪ホスト風の男が自分の身体を支えたのを見た。
 彼らはアイコンタクトだけ交わすと、二人がかりで菖蒲を持ち上げ、運搬を開始。素早くワゴン車まで到達すると、後部座席に菖蒲を寝かして、男たちも車に乗り込む。
 ――ここまで経過した時間、実に二十秒。
「やっべ、俺ら天才的じゃね?」
「つーか、菖蒲ちゃんの身体が柔らかすぎてビビった」
「あ、分かる、それめっちゃ分かるわぁ。しかも、ありえねえぐらいいい匂いすんぜ」
 長い金髪を整髪料でセットしたホスト風の男が顔を近づけてきて、菖蒲の匂いを嗅いでいく。
 抵抗も反抗もできなかったが――菖蒲には意識がある。
 夕貴以外の男性に触れられた、というだけで、瞳には涙が滲んだ。

「――やめろ。大事な人質だ」

 鋭い一言が、浮ついていた車内に緊張を呼び戻した。
 菖蒲が重い瞼を薄っすらと開いてみると、そこには髪を短く刈り込んだ男が座っていた。側頭部のあたりに何本かのラインを入れた髪型をしており、どこか他の男たちとは違う雰囲気を纏っている。その瞳は鋭く、一見して只者ではないと伺わせるだけの何かが彼にはあった。
「悪い、海斗。ちょっと調子に乗っちまった」
 金髪ホスト風の男が頭を下げる。
 もう一人の陽気そうな男は車を運転しているようで、菖蒲の視界には見当たらない。
「いや、べつに俺も怒っちゃいない。でも、ここからが正念場だってことは忘れるなよ」
 髪を短く刈り込んだ男――海斗は、菖蒲が持っていた学生鞄から携帯電話を取り出した。
「一馬。まずはこの携帯電話に登録されている、高臥家に関係する番号を全てコピーしろ。なるべく急げよ。終わったら、携帯からバッテリーを抜いてくれ」
「オッケー、ばっち分かったぜ。でも海斗、なんでバッテリー抜くんだよ?」
「携帯にはGPSがあるだろ。電波が受信できなかったらGPSは使えないからな。そのための用心だ」
「へー、さっすが海斗。豆知識王って呼ばれるだけのことはあるわ」
「そんなの初めて聞いたぞ――とにかく無駄話はいいから、早くしてくれ。番号をコピーし終わったら、適当に郊外を走りながら高臥家に電話をかける。さすがに何の準備もなく逆探知は出来ないと思うが、まあ念を入れるに越したことはないしな」
 終わりのない夢を見ているような気分で、菖蒲は男たちの会話を聞いていた。
 幸い、彼らは菖蒲に危害を加えるつもりは今のところないようだ。金髪ホスト風の一馬と呼ばれた男は、さきほどから菖蒲の身体を物欲しそうに眺めているが、手は出してこない。きっと海斗という、リーダー格に位置するであろう彼に止められているからだろう。
 聞くところによると、この大型のワゴン車は男たちが盗んだもので、あと数時間もしないうちに廃棄する腹積もりらしい。
 菖蒲の耳に、男たちの会話が飛び込んでくる。
 ――身代金の要求。
 ――金の使い道。
 たまに意識が途切れるものだから、彼らの思惑を明確に把握できたわけではないが、それでも菖蒲は大体の見当を立てていた。
 ――これは、誘拐だ。
 自然に発生した悪意ではなく、どうしようもなく人為的かつ故意的に発生した悪意だ。
 女優としての菖蒲か、高臥家の一人娘としての菖蒲か、あるいは女としての菖蒲を欲したのかは分からない――それでもこれは誘拐に他ならなかった。
 事態を理解した途端、恐怖よりも怒りがこみ上げてきた。
 ……どうして。
 視界が霞み、溜まっていた涙が瞳の端から雫となって流れていく。
 ……どうして、こうなる未来を予知できなかった?
 それが悔しい。
 役に立たない未来、どうでもいい未来、そして――見たくもない未来は何度でも垣間見るのに。
 どうして――本当に回避したい未来だけは視えなかったのか。
 高臥家は、未来を予測することによって栄えたはずなのに。
 流れた涙は頬を伝い、乾いたシートの上に吸い込まれて湿った跡になった。
 菖蒲は思う。
 せめて自分が未来の視えない、ただの女の子だったのなら――こんな悔しい想いをすることもなかったのに。
 人々は未来を素晴らしいものだと謳い、信じるに値するものだと豪語するが。
 ――そんなの、嘘だ。
 どうして未来を信じることができる。
 こんなもの、人を惑わすだけではないか。
 こんなもの、人を裏切るだけじゃないか。
「……ゆ、う……き……さ、ま」
 男たちには聞き取れない小さな声で、菖蒲はその名を呼んだ。
 このようなときでも――夕貴のことを思えば、救われた気持ちになれるから。
 男たちに誘拐されても、肝心なときに未来が味方をしてくれなくても、夕貴だけは心を温かくしてくれる。
 だって、あの少年は言ったのだ。
 菖蒲を護る、と。
 菖蒲の言う未来を信じる、と。
 世界中の人間が菖蒲の言うことを否定したとしても、俺だけはお前の未来を信じてやる――そう言ってくれたのだ。
 だから諦めない。
 あの少年が味方をしてくれるのならば、菖蒲は諦めない。
 何年後かも分からない未来において、一緒に笑ってくれた夕貴さえいれば――
「――ぁ」
 そのときだった。
 神経が麻痺しているのにも関わらず、菖蒲の身体が震え、瞳からは大粒の涙がとめどなく流れていく。
 ありえない。
 信じられない。
 悪夢、という言葉さえ生温い。
 これが嘘だとすれば、神様は性格が悪いなどというレベルじゃない。
 ――菖蒲が未来を予知するタイミングには、多少の法則性がある。それは主に、リラックスしているときや身の危険が迫ったときだ。
 だから、いま菖蒲が一つの事象を予知したとしても、なんらおかしなことではない。
 事実、菖蒲は悪意的な思惑を持った男たちに身柄を拘束された現状において、その生まれ持った異能――”未来予知”を発動させた。
 いきなり脳裏に情報が流入する感覚は、どこか天命を授かった巫女のようでもある。実際、まだ”未来予知”という概念が生まれていなかった古い時代では、高臥家はこの異能を『神からのお告げ』だと捉えていたという。
 幼い頃、敬愛する母から伝え聞いた話を、なぜか菖蒲は唐突に思い出した。
 しかし――認められない。
 こんな悲しい未来など、認めていいわけがない。
 これが神のお告げだと言うのなら、菖蒲は今後一生、神頼みなどしないと、神ではない何者かに誓うだろう。
 もしも――この未来を受け入れてしまうと、あの未来と矛盾することになる。
 そう、矛盾だ。
 本来ならば、菖蒲がこの未来を予知した時点で、どうしようもなく矛盾している。
 だから回避しなければならない。
 絶対に修正させないといけない。
 きっと、この未来を変えるためだけに自分は生まれてきたのだ――そう、菖蒲は思う。
 ああ、きっと簡単だ。
 今までとは違って、驚くほど容易に未来は変わる――はずだ。
 だって約束してくれた。
 夕貴は、菖蒲の言う未来を信じると、そう約束してくれたのだから。
 ……もう一度だけ、前を向いてみよう。
 ただし、菖蒲が信じるのは『未来』ではなく『夕貴』だ。
 夕貴が――菖蒲の言う未来を無条件に信じてくれるのなら。
 菖蒲は――夕貴が信じてくれた未来だけを信じる。
 ゆえに、変えてみせよう。
 だって。

 ――”萩原夕貴が死ぬ”――

 そんな未来は、絶対にありえてはいけないのだから。
 高臥の予知夢が絶対の的中率を誇っていることを鑑みれば、菖蒲と夕貴は結ばれるという運命にあり――必然的に、夕貴は数年以上はなにがあっても死なない、ということになるはず。
 にも関わらず、菖蒲は視てしまった。
 ――夕貴が死ぬ。
 という、認められようはずもない、最悪の未来を。
「へい海斗、高臥っぽい感じの番号は全部コピーしたぜ」
 金髪ホスト風の装いが特徴的な、新庄一馬の声がした。それと同時に、バッテリーを抜かれた菖蒲の携帯電話がシートに放り投げられる。
 鋭い瞳で車内の様子を確認した海斗は、やけにゆっくりとした所作で携帯のボタンを押したあと、それを耳に押し当てた。
 海底を彷彿させるような静寂の中、微かなコール音と、海斗のコンセントレーションにも似た深呼吸だけがあった。
 ――直後。
 コール音が途切れ、通話口から人の気配が漏れた途端。
「――こんにちは。高臥菖蒲さんを預かっている、とでも言えば分かってくれるか? とりあえず初めまして、悪人です」
 そんなふざけた宣戦布告が、海斗の口から高臥関係者に伝えられたのだった。




[29805] 1-9 譲れないものがある
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/10/10 20:58
 午後七時過ぎ。
 これでもかと鮮烈だった夕焼けも、さすがに時の流れには勝てないらしく、気付いた頃には日が沈み、墨染めされたような空が広がっていた。まだ地平線の彼方は微かに赤みを帯びているものの、すでに夜と言っても差し支えない暗さである。
 萩原邸のリビングには、俺とナベリウス――そして玖凪託哉の姿があった。今日は久しぶりに託哉が夕飯を食っていく予定で、それは今朝、朝食の席で伝達済みの事項である。
 つまり、今現在リビング――というか萩原邸にいない菖蒲も、今日は託哉がお邪魔することを知っているわけだから、いつもより早めとはいかずとも、普段通りの帰宅を心がけるはずなのだが。
 基本的に、菖蒲は約束を守る女の子だ。責任感も強い。仮に自分の都合を優先しなければならない状況に直面したとしても、それを俺たちに連絡もしない、というのはまずありえない。
 でも現実として、菖蒲の姿はこの萩原邸になかった。
 まだ――帰ってきていないのだ。
 すでに下校時刻は過ぎているはずなのだが、菖蒲は帰ってきていない。俺の知るかぎり、菖蒲は部活の類には入っていない。だから午後七時を過ぎても帰宅しないのは、やや不自然に思える。
 忙しなく室内を歩き回る俺に、ナベリウスと託哉は「心配しすぎだ」と苦笑したが――夜も深まった今となっては楽観視する者もいなく、リビングは嫌な沈黙で満ちていた。
 何度か菖蒲の携帯にも電話してみたけれど、どうやら電源が切られているようで、無機質な合成音声が対応してくれただけだった。
 不安そうな俺の顔色を読み取った託哉は、やけに人懐っこい笑みを浮かべて、俺の背中をバシンと叩いた。
 それは、きっと託哉なりの激励。
 密かに気が利くやつなのだ、こいつは。
 親友の笑顔に元気をもらった俺は、じゃあ腰を落ち着けて菖蒲を待つとしようかな、と一時間ぶりに笑みをこぼした。
 すると、俺の不安が杞憂であったと証明するように、来客を告げるチャイムの音が鳴り響いた。
 経験上、この時間に客が訪ねてきたことはほとんどない。もちろん例外もある――が、このタイミングでチャイムが鳴るということは、まず間違いなく菖蒲が帰ってきたのだろう。 
 慌てて腰を上げて、駆け足で玄関に向かう。
 菖蒲には合鍵を渡してあるので、本来ならば彼女がチャイムを鳴らす必要はないのだけど――それを疑問に思う余裕もなく、俺は口端が緩むのを自覚しながら、一応は来客を迎える姿勢で、玄関扉を開いた。
 ひんやりとした外気が肌に触れる。
 いくら春だと謳っても、それが冬の延長線上に位置する以上、六月、七月と経るまでは目立った気温の上昇はない。
 日差しの恩恵がある昼間は暖かくとも、アスファルトに溜まった熱が霧散していくだけの夜は、なかなか身に堪える寒さだ。
 部屋着ということもあり、特に防寒を意識していない俺にとって、夜はあまり歓迎できたものじゃない。
「……えっと」
 だが本当の問題は寒気ではなく、もっと他にあった。
 見慣れたはずの玄関先に広がった光景を見て、俺は間抜けな反応をしてしまう。
 とりあえず確定して言えることは――どこをどう見回しても、そこに菖蒲の姿はない。
 代わりに、萩原邸の門扉の向こう側、公共道路上には闇よりも濃密に塗装された漆黒の車が二台、停車している。
 周辺には気配を断つようにして、ダークスーツに身を包んだ長身の男たちが見受けらた。姿勢を正し、両手を背で組んだ彼らは、その不動の佇まいから見て、軍部や警察を通して専門的な訓練を受けた者であると推測できる。
 なにより俺の視線を奪ったのは、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる一人の男性だった。恐らく四十代前半ぐらいの彼は、老いを伺わせない豊かな髪をくしで撫でつけ、新品のように卸したてのスーツを着こなしている。
 彫りの深い整った顔立ちは、永遠に解けない命題に挑む哲学者のように気難しい形相を見せていた。不愉快そうに歪んだ眉と、忌々しそうに細められた瞳が、その印象をより一層強くしている。
 闇さえ恐れおののくような濃密な気配。
 対峙した者に是非もなく降伏を促すような存在感。
 もしも、人の上に立つべき人間がいるとすれば、それはきっとこの男性を指すのだと――そう瞬間的に悟ってしまうほど、彼はこの場の支配者として君臨していた。事実、周辺に控える黒服の男たちが、彼を絶対的な”王"だと認識し、敬っていることが空気から感じ取れる。
 ふと微かな既視感。
 ――なんとなく、この人の顔を見たことがあるような気がする。
 ほとんど呆然としている俺の眼前で、その男性は足を止めた。

「――お前が、萩原夕貴か」

 それは質問というよりも、断定だったように思う。
 明らかに訪問者としては異質の団体――本来であれば警戒をするのが正解で、礼儀を尽くすのが間違いなんだろうけど、俺は自然と敬語で対応した。
 無作法を働くことは、すなわち死に繋がると。
 そんな非現実的な想像も現実的に思えるほど、俺はこの状況に飲まれてしまっていた。
「……はい。僕が萩原夕貴で――っ!?」
 不自然に言葉が途切れる。
 瞬間的に聴覚が停止。
 目の前で火花が散ったような感覚。
 ぐらりと揺らぐ視界。
 自分の意思とは裏腹に、俺は転倒――それに遅れて、鈍い痛みが左頬に発生した。
 殴られた――そう気付いたのは、俺が無様に尻もちをついてから、たっぷり十秒は経った頃だった。
 倒れたときに歯で口腔内を切ったのか、舌に鉄の味が広がる。
 地べたに這い蹲り、口元を手で拭う俺を、先の男性が憤怒の色が滲んだ瞳で見下ろしていた。
 暴力を振るうことには慣れていないのだろう――彼の拳は人体を殴ったことによる衝撃に耐え切れず、皮膚が裂けて血が滴っていた。
「――重国様。彼には手を出さないと、私に約束してくださったはずでは」
 いつか公園で聞いた、参波清彦さんの声。
 濡羽色の髪をオールバックにし、右目のあたりに大きな切り傷を残した参波さんが、俺たちの間に割り込むようにして立っていた。参波さんは品のよさそうなスーツと銀縁の眼鏡が印象的な紳士――だが、その表情には余裕がない。
 そして。
 出会いがしらに俺を殴り飛ばし、参波さんが頭を垂れて礼儀を尽くした男こそ――高臥家の現当主にして、女優『高臥菖蒲』の父。
 およそ常人とは比ぶべくもない威圧と存在感を持つ彼は――名を高臥重国といった。
 俺が重国さんを見た瞬間、なんともいえない既視感を抱いたのは、彼の顔立ちがどことなく菖蒲に似ていたから、だろう。
 ……なるほど。
 彼が高臥家の当主であるのなら、この要人を警護するように敷かれた、密かでありながら物々しい警備にも頷ける。
 でも、どうして俺が殴られなきゃいけないんだ?
 それに重国さんと言えども、常時これほどの人数を動員しているのは不自然に思える。高臥家には敵が多いのか、あるいは何らかの非常事態なのか。
 ふらつく足に鞭を打ち、俺は壁を支えにしながら立ち上がった。
「……あなたは、菖蒲の父親ですか?」
 正直に言えば、いきなり殴られたことに少なからず腹を立てていたけど、相手が菖蒲の父親なら怒鳴ることもできない。
「高臥、重国さんですよね?」
「俺の名を口にするな。虫唾が走る」
 友好的に歩み寄ったはずなのに、重国さんは不服そうに瞳を細めた。その眼光には、己に歯向かう者のことごとくに服従を強制するような力がある。
 気圧された俺は、知らずのうちに一歩退いていた。
「……さて、夕貴くん。不躾な訪問に謝罪を申したいところではありますが、状況が状況だけに時間もありません」
 重国さんは汚らわしいものを見るような目で俺を見ている――だから代わりに、参波さんが事情を説明してくれるようだ。
「単刀直入に事実だけをお伝えするなら――お嬢様が、誘拐されました」
 ”誘拐”という単語が出た瞬間、重国さんが辛そうに顔を歪めたのが印象的だった。
「……え、誘拐?」
 復唱した。
 あまりにも現実味がなくて。
「はい。菖蒲お嬢様が、誘拐されました」
 参波さんも復唱する。
 それが事実だし――そう口にするしか、表現の方法がないからだろう。
 誘拐。
 菖蒲が誘拐された。
 誰に?
 どうして?
 たった四文字の言葉を満足に飲み込めず、俺は夢見心地のまま参波さんの顔を見ていた。
「重国様。彼に説明しても?」
「……お前の好きにしろ」
 主の許可を得た参波さんは、呆然とする俺に事の顛末を話し始めた。 
 ――本日午後五時四十五分頃、高臥関係者のもとに『菖蒲を誘拐した』と犯人から電話があった。【高臥】には犯罪に対応するためのマニュアルが用意されており、それに従って対処を開始。五分と経たない間に、【高臥】の宗家や分家の人間にも情報の伝達が完了。
 【高臥】に繋がる連絡番号は、それ相応の地位につく人間か、各位関係者にしか知らされていない。ゆえに犯人が連絡手段を確保している時点で、これは悪戯ではなく”犯罪”であると断定。
 また、電話を受け取った者が、犯行声明の一部始終を録音していた。【高臥】は早急に手を回し、犯罪心理学などに長けた複数の専門家に、音源を分析を依頼。幸いなことに、犯人は変声機すら用いておらず、解析は容易だった。
 ”声”には人間の心理状態が現れる。訓練を積んだプロフェッショナルの人間ならば、犯人の声から犯行当時の心理や、相手の性格、年齢、身長、体重などを読み取れる。
「結論から言えば、犯人グループは二十代前後の若者です。人数は、恐らく六人。暴力団とも繋がりがありました。裏では傷害事件、恫喝、薬物の売買、集団での性的暴行などを繰り返していたようですね。不良行為と呼ぶには、やや悪質に過ぎると言ってもいいでしょう」
 今回の件は、その不良行為の延長線上でしかない――だからこそ誘拐自体は大胆ではあったものの、それは綿密というには繊細さに欠け、計画的というには穴が目立ちすぎた。
 犯人たちは若者なりに計画を練ったみたいだけれど、それも【高臥】という家系の持つ財力、権力、組織力を前にすれば、風の前の塵に同じ。
 犯人は、走行する車内から電話をかけたという。恐らく逆探知を警戒していたんだろう。移動しながら電話することによって、位置を特定させないという寸法。
 しかし技術とは日々進化しているのだ。
 今では全ての電話回線がデジタルで管理されており、電気通信事業者を経由することによって即座に参照が可能になっている。つまり逆探知は、犯人グループが思っている以上に簡単ってことだ。
 街中から集めた目撃情報や、街中に仕掛けられた監視カメラの映像を統括した結果――犯人グループの男たちの身元が判明した。
 事件を聞いた菖蒲の母、高臥|瑞穂(みずほ)さんは異能を使い、事件の行く末を視た。
 その結果、”菖蒲が死ぬ”ことだけは絶対にないらしい。これは【高臥】側にとって、不幸中の幸いと言える。
 恐るべきは【高臥】という家系の力か。
 つまり、その男たちは運が悪かったのだ。高臥一族を敵に回した時点で、そいつらの負けは確定していた。第一、日本における誘拐事件の検挙率は限りなく百パーセントに近いのだから。
 だが。
 参波さんから、犯人グループの容姿や特徴を聞いた瞬間――俺は一週間ほど前の出来事を思い出し、同時に後悔した。
 ほぼ間違いなく――菖蒲を誘拐したのは、あの三人組の仲間たちだろう。復讐にしろ報復にしろ、菖蒲を誘拐するだけの動機があいつらにはある。
 でも、ちょっとした諍い――というより逆恨みか――を理由に、”誘拐”という犯罪行為に手を染めるとは、頭が悪いにもほどがある。
 菖蒲の身柄を拘束されている以上、高臥家は後手に回らざるを得ない。
 しかし、それは犯人側が専門的な訓練を受けている場合の話だ。今回の相手は、たかが喧嘩に慣れた程度のアウトロー気取りが数名だけ。
 それなら積極的に救出作戦を展開できるらしいが――
「分かるか。何の力も持たないお前が粋がった結果が、これだ」
 参波さんの説明が終わった途端、重国さんが口火を切った。
「俺が、粋がったから……ですか?」
「そうだ。お前も知らぬ存ぜぬで通すほど愚かではあるまい。思い当たる節があるだろう」
 俺のせい。
 俺が粋がったせい。
 例えば――あの繁華街で、菖蒲があいつらに絡まれていたとき、もっと冷静に対処できていれば、こんなことにはならなかったんじゃないか?
 相手を逆撫でせずに、俺が耐え忍んでさえいれば――あいつらも気が済んだんじゃないのか。
 菖蒲を口説かれたことや、俺の顔立ちを馬鹿にされたことに腹が立って、これでもかと反論してしまったけれど。
 もっと大局を見据えて行動していれば――菖蒲が誘拐されることはなかったのでは、と今更ながらに思ってしまう。
 少なくとも、俺があの男たちに動機を与えたのは間違いない。
 ――きっと、重国さんは繁華街で起きた騒動を知っているんだ。
「お前は言ったな。”俺が責任を持って、菖蒲を預かりたいと思います”と」
 重国さんはポケットから小さなボイスレコーダーを取り出した。
『分かりました。俺が責任を持って、菖蒲を預かりたいと思います』
 聞こえてきたのは、他の誰でもない俺の声。
 いつかの公園で、参波さんに頭を下げて言い放った一言。
 菖蒲を溺愛しているという重国さんのことだ――俺という人間の覚悟を知るために、参波さんに会話の一部始終を録音させていても何らおかしくはない。
 ふと参波さんに視線を向けてみると、彼は申し訳なさそうに頭を下げた。主の命令とはいえ決まりが悪いんだろう。
「あの菖蒲が、あそこまで頑なに自分の意思を曲げず選んだ男だ。俺も期待はしていたが――結局はこの様だ。確かに、菖蒲をあらゆる脅威から護るのは個人の力では不可能と言ってもいい。それでも、お前の家に居候することを許した途端、俺の娘は悪意に巻き込まれてしまった。これは偶然か、必然か――どちらにしろお前が菖蒲を護れなかったという事実に変わりはない。いや、あいつも見る目がない。このような使えない男を選ぶとは」
「……あなたに、俺の何が分かるんですか」
 一方的に罵倒されることに耐え切れず、気付けばそんな反論をしていた。
 重国さんが不愉快そうに舌を打つ。
「つまらん。己のことを知りもせず、知ったような口を叩かれたくないと言うわけか」
 と。
「――萩原夕貴、十九歳。母子家庭。前科なし。幼少の頃から多方面に秀でた才を持ち、世間では『天才少年』、『神童』などと称される。九歳の頃、高柳書道祭と呼ばれる十四歳以下を対象とした書道コンクールにて圧倒的な支持と評価を受け、最優秀賞を受賞。その作品は、現在も学習センターのロビーにて展示。十四歳の頃、ひったくりの現行犯を独力で逮捕。警察から感謝状を授与――」
 重国さんは、スーツのポケットに手を入れたまま諳んじる。
「十五歳の頃、偏差値だけで見れば県内でも五指に入る進学校に入学。入試を首席で通過。それにより入学式の新入生答辞を勤める。入学以後、三年間に渡って学年首位の成績を維持。十七歳の頃、全国空手道選手権大会において、個人・団体の部それぞれで好成績を収める。翌年、同大会の個人の部で準優勝、団体の部で優勝。今年の春、高校の教諭から国立大学の受験を薦められるも、地元の私立大学に入学。現在は母親と二人暮し。大学では主に経済学を専攻している――これで満足か?」
 どうでもよさそうに。
 学校のテストを受けるために、仕方なく一夜漬けで覚えた知識を披露するように――重国さんは言った。
「俺は血筋、家柄、経歴では人を選ばん。その者が英雄と呼ばれていようが俺には関係ない。つまり、貴様の経歴など、俺にとっては判断材料にもなりはしない。仮にお前が地球を救うほどの偉業を成していたとしても、それは考慮に値しない。今回のケースは、菖蒲がお前を選んだという事実があったからこそ、黙認することにしたが――それも限界だ。お前ごときに菖蒲を任せるわけにはいかん」
 ……甘かった。
 俺は、この人をみくびっていた。
 娘を溺愛する父親としか聞いていなかったから、もっと人情に溢れた人だと想像していたが――実際は違った。
 きっと重国さんは、必要とあらば社会的底辺に位置する人間でも雇用するし――逆に必要なければ、それが英雄だろうが総理大臣だろうが見向きもしない。
 人間の本質を見て、判断する。
 かつて聖徳太子が定めた冠位十二階と同じように――家柄や経歴といった”上辺のもの”に捉われることなく、重国さん自身が判断する。
 もはや俺と交わす言葉さえ持ちたくないのか、重国さんは翻って歩き出した。
「――参波。菖蒲を任せるぞ」
「心得ております」
 それだけで意思疎通は成立したのか、うやうやしく礼をする参波さんを一瞥し、重国さんが車のほうに向かう。
 その背を見つめながら、俺はかたわらにいる参波さんに問いかけた。
「……参波さん。菖蒲を任せるって、どういうことだよ」
「そのままの意味ですよ、夕貴くん。お嬢様を救出するために少数精鋭の臨時作戦本部が敷かれましたが、その陣頭指揮および実働部隊を担当するのが私です」
 とある深刻な事情があり、警察に協力は仰げない。
 そこで参波さんを含めた十数名ほどのメンバーで、菖蒲の身柄を確保し、犯人グループを制圧するというのだ。
 詳しい話は知らない。
 参波さんの能力は分からないし、勝算があるのかも不明だし、そもそもで言えば、どうして警察に協力を依頼できないのかが分からない。
 しかし、話を聞いた俺は、逡巡する間もなく決意を固めていた。
「――夕貴? 新手の宗教が勧誘でもしてるの? さすがに遅すぎるわよ」
 背後からナベリウスの声。
 恐らく、なかなか戻ってこない俺を気にして彼女もやって来たんだろう。
「悪い、ナベリウス。あとで話すから」
「はい? えっ、ちょっと、夕貴――」
 俺は振り返ることなく告げると、恥も外聞もなく、ただその場で頭を下げた。

「――お願いします! 俺も一緒に連れて行ってくださいっ!」

 夜空に響き渡るほどの声量。
 萩原邸を包囲していた黒服の男たちが俺に注目し――門扉の向こう側に立つ重国さんの背中が、ぴたりと止まった。
 迷いなく走り出した俺は、重国さんの背後に立つと、もう一度、頭を下げて懇願する。
「――どうか、俺にチャンスをくださいっ!」
 重国さんは振り返ってもくれない。
 俺の言葉では、この人の心を震わせることができない。
 それでも――俺はアスファルトの路面を見つめながら、ひたすらに叫んだ。
「……下らん。お前が犬死しようと俺の知ったことではないが、素人に参波の邪魔をさせるわけにもいかん。黙って家にいろ」
「嫌だ! それだけは聞けない!」
「威勢だけはいいな。だが、過剰な威勢を振りまく輩は往々にして恥知らずと相場が決まっている。確かに、世の物事には総じて例外が存在するが、お前がその例に漏れるようには到底見えん。負けた上に吼える犬など、目障り以外の何者でもない。なにより――俺の娘を護れなかったお前に、いまさら何が出来る?」
「菖蒲を助けます」
「……なに?」
 そこで重国さんは振り返る。
 俺は顔を上げて、真正面から重国さんと対峙した。
 押し潰されそうなプレッシャーに抵抗しようと拳を握り、奥歯を噛み締め、腹には力を入れる。
「貴様――菖蒲を助ける、と言ったのか?」
「助けます!」
「口先だけなら何とでも言えるが――なぜお前は、菖蒲を助けようとする」
「約束したからです!」
「約束?」
「菖蒲を護ってやるって、あいつと約束したんだっ!」
「…………」
 値踏みするような視線を感じる。
 足先から頭のてっぺんまで――まるで解剖されているような錯覚に陥るほど、重国さんは俺を観察する。
 負けちゃいけない。
 一ミリでも圧されちゃダメだ。
 重国さんの持つ、圧倒的な存在感が何だ?
 俺が一方的に罵倒されようと――それが何だ?
 恥知らず。
 頭が悪い。
 見込みがない。
 俺ごときに菖蒲を任せるわけにはいかない、だって?
 そんなもん知るか。
 いくら頭を下げてでも、情けない男だと思われても、俺には護らなきゃいけないものがあるんだ。
 どうしても果たしたい約束があるんだ。
 絶対に、絶対に、絶対に護ってやりたい女の子がいるんだ……!
「……つまらんな。菖蒲も見る目がない」
 とうとう完全に見限られてしまったのか、重国さんは俺に背を向けた。
「待ってくれ! 頼むから俺を――!」
「知らん。貴様がどうなろうと興味はないし、それは【高臥】の管轄外だ」
 やっぱり――俺は無力なのか。
 どうあっても大切な人を護れないのか。
 でも約束したんだ。
 菖蒲の言う未来を信じてやるって。
 あいつを護ってやるって。
 一緒にフレンチトーストを作ろうって。
 そう――約束したんだ。
 だから俺は、こんなところで諦めるわけには――!
「……もう一度だけ言おう。俺は、お前のことなど興味はないし、それは【高臥】の管轄外だ」
「え……?」
「だから、お前が勝手に参波についていこうが、お前が勝手に菖蒲を救おうと無駄な努力をしようが、俺には何の関係もない」
 それだけ。
 突き放すような一言。
 でも、今の俺には――神の言葉よりも、ありたがい一言だった。
 黒塗りの高級車に重国さんが乗り込むと、すぐさまエンジンがかかり、静かなマフラー音を立てて車が動きだした。
 走り去る車に向けて――俺はもう一度だけ頭を下げて、叫んだ。
「――ありがとうございます!」
 恐らく車内は防音が効いているだろうが、それでも不思議と、俺の声は重国さんに届いたような気がした。
 ここに一つの光明が差した。
 ”菖蒲が死ぬ”という未来は否定されているとしても、それは”菖蒲が五体満足”とイコールにはならない。もちろん人質は丁重に扱うことが前提だが、それでも何かの拍子に乱暴されないとも限らない。
 女優である『高臥菖蒲』に憧れを抱く男は少なくないだろうし――なにより男って生き物は、情欲に流されやすい。
 しかも菖蒲をナンパしていた奴らが犯人だ。元から菖蒲の美貌に目が眩んでいた男たちなのだから、下手をすれば性的な暴行に走る可能性もある。それだけは絶対に避けたい。
 俺は新たな決意を胸に、菖蒲を救い出すことを誓って――


 ――今このときを以て、高臥菖蒲の救出作戦が展開することとなった。



[29805] 1-10 頑なの想い
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/10/12 16:02
 高臥菖蒲は、自身を取り巻くあらゆる要素に対し、辟易していた。
 男たちによって身柄を拘束される際、スタンガンの電気ショックを浴びせられた菖蒲は、あれから数時間経った今となっても、その影響を色濃く残している。
 確かに、あの痺れにも似た激痛は、もう残滓すらない――が、激しい運動をした直後のように筋肉が引きつっており、プラスマイナスを総合して考慮すれば、身体的なコンディションは褒められたものではない。
 なにより高熱を発したときのように意識が朦朧としていて、ふとした瞬間に、深い奈落にも似た睡魔が菖蒲を誘ってくる。それは、微熱を煩ったまま徹夜明けを迎えた人間の体調に近いかもしれない。
 加えて、厳重とは言えないまでも身体を拘束されているせいか、精神的な部分にも少なくない摩擦があった。
 もっと言うなら、しばらく水分も摂っていない。水分が不足すると、眠気や脱力感、頭痛などを引き起こすが、それも菖蒲の倦怠感の一端を担っていると思われた。
 最後にもう一つだけ加えて言うなら、卸したての制服が汚れてしまったこともショックだ。この愛華女学院の制服には思い入れがある。あの多忙な父が、何とか時間を作って入学式に顔を出してくれた。一緒に写真を撮った。制服姿を褒めてくれた。だから、この黒を基調としたセーラー服が汚れてしまうのは、同時に思い出を汚されたような気がして、菖蒲は心にダメージを受けるのだった。
 あれから――ワゴン車で輸送されている途中に気を失ってしまったので、菖蒲は自分が誘拐された直後からの詳しい経緯が分からない。
 ただ、気付いた頃、菖蒲はこの見知らぬ部屋で軟禁されていた。
 男たち曰く、この建物は元々は倉庫だったらしい――とは言ったものの、どこぞの所有者の趣味が高じて、内部は音楽スタジオに改造されている。今となっては管理もずさんで、これといった防犯機能も施されておらず、侵入することは容易だった。
 しかも、拠点として利用するには十分すぎるほどの設備が整っており、その無駄な利便性が男たちに目をつけられる原因となった。
 具体的には、かなりの大きさを誇る音楽スタジオの他に、仮眠や休憩を取れる住居スペースや、本格的な調理が可能なキッチンスペース、さらにトイレやシャワールームも完備されている。
 ただし、元が音楽スタジオを目的としているだけあって防音がしっかりしており、菖蒲がいくら叫んでも助けは来そうになかった。ちなみに音を漏らさないようにするためか、小窓の一つもない。
 つまり室内は、完全と言っても相違ないほどの暗闇。念のためか、蛍光灯には電源を入れない腹積もりのようだ。男たちが用意していた大きめのランプだけが、かたちのない闇を削る唯一の勢力だった。 
 ところで菖蒲は、どうやら住居スペースに監禁されているらしい。本棚やデスク、パイプ椅子に簡易ベッドなどの家具が見受けられるからだ。
 菖蒲の両手は、頑丈そうな手錠によって繋がれている。それも手を背中側に回すようなかたちで拘束されているので、体幹バランスが上手く取れない。いちおう歩き回れる程度の自由はあるが、尋常ではない気だるさが身体に停滞しているので、菖蒲はぼんやりと座り尽くすしかなかった。
 ただ、現状の把握もままならない菖蒲が、一つだけ胸を張って言えるのは――居心地の悪さだけは饒舌に尽くしがたいということ。
 それは監禁されているからでも、誘拐されたからでもない。
 男たちは皆、別室のほうで待機している――けれど、菖蒲は一人で放置されているわけじゃなかった。いわゆる”見張り役”が同室に一人いるのだ。
 そして、それこそが菖蒲の気を滅入らせる最大の要因でもあった。

「――ね、ねえ。菖蒲ちゃんは、好きな食べ物とかあるの?」

 どこか媚びた声が、癪に触って仕方ない。
 ベッドにもたれかかって座り込む菖蒲を、部屋の端から見つめる男がいた。彼は肥満体型の体をパイプ椅子に預けており、さきほどからスナック菓子をボリボリと食べている。
 自分から”見張り役”に志願したという彼は、坂倉健太という名前で、かつて菖蒲をナンパした三人組のうちの一人だ。
「じゃあさ、好きな動物とか、いるのかな?」
 こういった意図の掴めない質問を、健太は飽きずに繰り返す。
 もちろん菖蒲には答える義務も義理もない。むしろ自分を誘拐した連中と同じ空気を吸うのも嫌だった。
「……それにしても、菖蒲ちゃんって、本当に可愛いよねえ。俺、ずっとファンだったんだよ」
 卑下た笑み。
 いやらしい視線が、菖蒲の身体を蛇のように這い回る。特に健太が注目していたのは、制服の胸元を大きく押し上げるバストだ。まくれたスカートから覗く、白くて健康的な脚にも欲情の滲んだ目が向けられている。
 健太が劣情を催していることは、この部屋で二人きりになったときから菖蒲も気付いていた。
 それでも逃げ出すことはできないので、じっと俯いて耐えるしかない。
「そういやぁ、菖蒲ちゃんの写真集も買ったよ。でも俺的には、もっと露出して欲しかったんだけどなぁ。水着とか着る予定ないの? もったいないよ。せっかく、そんな身体してるのに」
 スナック菓子の油がべっとりと付着した唇に、淫らな笑みが浮かぶ。
 健太は、顔の皮膚にニキビ跡やほくろが見られ、お世辞にもルックスがいいとは言えない。
 菖蒲は外見で人を選ばないようにと普段から心がけているが、露骨な下心を向けてくるような相手だけは昔から苦手だった。
「菖蒲ちゃん。俺、君のファンなんだよ? せっかく写真集を買ってあげたのに、ファンの声を無視するっていうの?」
 そう促されると、菖蒲も反応せざるを得なかった。
 しかし素直に喜ぶことはできず、菖蒲は顔を逸らしたまま沈んだ声で礼を言う。
「……ありがとう、ございます」
「うっほー、可愛い声だなぁ。やっぱり俺、菖蒲ちゃんが世界で一番可愛いと思うよ。顔は見たことないぐらい綺麗だし……それに、身体だって」
 健太の視線に含まれているのは、色欲。
 ゾクリ、と背筋を何かが這い上がったような気がして、菖蒲は身体を震わせた。
「ところでさ、菖蒲ちゃんって――処女だよね?」
 それは少なくとも、これまで面識のなかった女性にぶつける質問ではない。
「ねえ、処女だよね?」
 問いを重ねる健太の瞳は、インクで塗りつぶされたように黒く淀んでいて――菖蒲は無意識に息を呑んだ。
 ゆっくりとパイプ椅子から立ち上がった健太が、指についたスナック菓子の粉を舐め取りながら、菖蒲のほうへ向かってくる。
「まさか菖蒲ちゃん――あの男と、ヤッたりしてないよね?」
 あの男とは、まず間違いなく夕貴のことだろう。
 この坂倉健太という男は、恐らくという注釈はつくものの、自分の容姿にコンプレックスを持っている。そして、ルックスの優れた同性を好ましく思っていない節もある。
 これまでの会話(とは言っても、健太が一方的に喋っていただけだが)から、そのことに菖蒲は気付いていた。
「俺、ずっと信じてたよ。菖蒲ちゃんはまだ汚れてないって。そうだよね?」
 ――菖蒲は”女優”という、ある種の有名人だ。だからファンレターの類はたくさん送られてくるし、中には常軌を逸したとしか思えない『プレゼント』も、少なからずだが存在する。
 そういったファンの人たちは、大体が菖蒲の『処女性』や『恋愛経験の有無』を追及するような手紙を送ってくる。どうやら日本人は清楚な女性を好む傾向にあるらしく、実際に清楚な雰囲気を持つ菖蒲は、意味の分からない期待を寄せられることが多いのだ。
 この健太という青年は、きっとそれに当てはまるタイプの人間だと、菖蒲は見抜いていた。
 湿気を多く含んだ闇の中――ランプの光源が頼りなく揺れる室内に、健太の足音が響く。
「……私に、近づかないでください」
 ベッドのそばに腰掛けていた菖蒲は、警戒した面持ちで言う。しかし健太は止まらず――
 数秒と経たない間に、菖蒲の眼前には健太の顔があった。
「怯えた顔も可愛いなぁ」
「――っ!? 離してくださいっ!」
 健太は膝をつき、菖蒲と目線を合わせる。間近で彼の脂ぎった顔を見て、菖蒲は全身の毛が逆立つのを感じた。
 大きな手が、菖蒲の肩を掴む。そのまま健太は、せっかく捕らえた女性特有の柔らかな肌を逃がすまいと、握力を強めた。
「……菖蒲ちゃん、めちゃくちゃいい匂いがするんだね。それに、こんなにエロい身体して――」
 健太は火照った顔で、荒い吐息を連続して吐き出す。
「――もう我慢できない。菖蒲ちゃん、俺……!」
 さすがに抵抗しないわけにはいかなかった。
 垢と汗が混じったような醜悪な臭いが、菖蒲の鼻腔を刺激する。逃げ出そうと足掻いてみるが、健太の力は予想以上に強く、抵抗する余地もない。
 手錠により手を背中側で繋がれた菖蒲は、それゆえに大した回避行動も取れず、ほとんど人形として扱われるような感じでベッドに押し倒された。
 ……夕貴様!
 そう、菖蒲が心のなかで思考し、現実逃避しようと瞼を閉じた瞬間、状況は変わった。

「健太。その子には危害を加えるなって――俺、言ったよな?」

 剣呑とした声。
 歪みが生じていた空気を矯正するような、鮮烈な声。
 あれだけ猛っていた健太の動きが止まる。彼は菖蒲をベッドに押し倒したまま、見るからに狼狽した様子で、乱入してきた第三者を認めた。
「……か、海斗」
 取り繕うように笑いながら、健太が立ち上がる。さきほどまでは菖蒲が弱者の立場にあることを利用し、欲情し、居丈高な態度だったはずなのに、今となっては肥満体型の体が実際の寸法よりも小さく見えた。
 この住居スペースとして確立された部屋に姿を見せたのは、荒井海斗という青年。短く刈り込んだ髪、側頭部に入ったライン、精悍な顔立ち、鋭い眼差し。男たちの中でも一際目立つ海斗は、暴力的な迫力というか、一種の凄味のようなものを身に纏っており、それは仲間であるはずの坂倉健太をも威嚇して余りあるものらしかった。
「――ったく。健太は女を見ると人が変わるな。おまえがどうしてもって言うから見張り役を頼んだが、それは間違いだったみたいだな」
「……わ、悪い。でも菖蒲ちゃんが」
「そんな顔すんなって。べつに俺は怒っちゃいないさ。ただ、その子を傷つけるのはまずい。交渉は対等に行わなけりゃだめだ。おまえだって、せっかく手に入れた現ナマがボロボロだったら嫌だろ?」
 わたしはお金と一緒ですか、と菖蒲は嫌な気分になった。
 海斗は苦笑しながら、部屋の片隅にあるパイプ椅子に腰掛ける。
「そういうわけで、見張り役は俺が代わる。そろそろ予定してた時刻だしな」
 嫌な汗をかいていた健太は、海斗の怒りを買っていないことに安心したようだった。
 そうして、見張り役は交代する運びとなる。
 部屋を出る際、名残惜しそうに菖蒲の身体を舐め回すように見つめてから、健太は退室していった。
 菖蒲は深々と安堵のため息をつき、両手を拘束されている不自由さに苦労しながらも、ベッドの上で身体を起こした。
「悪かったな。あんたも女だ。さすがに怖かったろう」
 足を組んでパイプ椅子に腰を落ち着けている海斗は、携帯電話を操作しながら、菖蒲のほうを見ずに呟いた。
 やはり返答する義理はないので、菖蒲は沈黙を貫く。ベッドに押し倒された際に乱れた長髪を、手で整えることも出来ないのが歯痒い。
「もう一度だけ言っておくが、俺たちはあんたに危害を加えるつもりはない。高臥さんが身代金をたんまり支払ってくれたら、無事に解放してやるさ。まあ、俺たちが捕まっても、あんたは自由の身だがな」
「……成功すると、思っているのですか?」
 本当は口も聞きたくなかったのだが、どうしても疑問が晴れず、気付けば菖蒲はそんな質問をしていた。
 携帯の液晶を見つめていた海斗が、その鋭い眼差しを菖蒲に向ける。
「わたしを誘拐した目的は、あなたの発言から推測するに、きっとたくさんのお金なんだと思いますが……」
「それがどうした?」
「どうしたって――お金が欲しいから、という理由だけで、こんな犯罪行為を計画したのですか?」
 海斗は、値踏みを計るように菖蒲を凝視した。
「……なるほど」
 そして笑う。
「やっぱり、あんたはテレビで見たとおりの女だ。礼儀正しい。それに美人だしな。まあ高臥家の一人娘ってだけのことはある。俺みたいな不良――いや、もう犯罪者か。とにかく俺みたいなやつにも、しっかりと敬語で対応してくれる」
 ”犯罪者”というワードを口にするとき、海斗が自嘲気味に唇を歪めたのを、菖蒲は見逃さなかった。
「でも、俺たちとあんたじゃ住む世界が違うんだ。なあ? あんたはお嬢様だもんな? なんの苦労もせず、恵まれた環境の中で、贅沢に暮らしてきたんだもんな。だから、金のありがたみも知らないし――金のために行動を起こす人間の心理が、分からないんだ」
「……わたしだって、お金の大切さを理解しています」
「いいや、理解していないな。現代社会において、金ってのは大雑把に分けて、二つの側面を持つ。その両方を理解しているのが俺たちで、その片方しか知らないのがあんただ」
 紡ぐ言葉を持てない菖蒲を一瞥し、海斗は続ける。
「確かに、金ってのは人の夢を叶えるだろうよ。でも、それと同じぐらい――金は、人の夢を壊すんだ」
 これまで金銭に困ったことのない菖蒲には、金というものがどれだけ大切で、どれだけ人の夢を阻害するかが分からない――と、海斗は言う。
「例えば、こんな話をしようか。
 俺の親父は、一つの夢を抱いて、田舎から単身で上京した。そして、寝る間も惜しんで働いた。汗水垂らして、ギャンブルも恋もせず、ただがむしゃらに働いた。その一日の給料は、あんたがテレビでちょっと喋っただけで貰えるギャラよりもずっと低いさ。それでも、親父は死ぬ気で働いたんだ。
 そんでまあ、努力ってのは、たまには報われることもあるらしい。田舎を飛び出して十年近く経った頃、ようやく親父は自分の工場を手に入れた。それが親父の夢だったんだってよ。笑っちまうだろ? 小っさな工場を仕切ることが、親父がガキんころから抱いてた夢だってんだからよ」
 心底愉快そうに海斗が笑うたび、パイプ椅子のさび付いた結合部が耳障りな音を立てた。
「当時は景気もよかったらしいからな。親父の工場も軌道に乗って、娯楽に傾倒するだけの余裕もできた。親父が話そうとしなかったから詳しくは知らないが、その時期に親父とお袋は出会ったんだそうだ。そんで馬鹿みたいに意気投合した二人は、当然のように交際を始めた。
 でも、仕事人間だった親父は恋愛に疎かったし、お袋もいいとこのお嬢様だったから、加減ってものを知らなかったんだろうな。ろくに避妊もしなかった結果、お袋は俺を身篭っちまった。お袋の実家は大した資産家らしくてな。もちろん結婚は反対された。んで、結局は駆け落ちっていうか、お袋が実家と縁を切ったことによって、二人はめでたく結婚。俺を出産。夫婦は順風満帆ってわけだ」
 はじめは事務的だった口調も次第に高揚し、いつしか海斗の言葉には感情が乗っていた。
「しばらくして妹も生まれて、俺たち家族は順調そのものだった。でも、幸せって長く続かないのが世の摂理なんだよな。泡が弾けるような好景気も、いつしか終わって、不景気の波に変わっちまってた。その煽りをモロに食らったのが、親父の工場だ。
 あれは、俺がまだガキん頃だ。今でも憶えてる。あっけなく他人の手に渡った工場を見つめる、親父の目を。死ぬほど働いて得たものが、一瞬のうちに崩れていくんだ。あんたに分かるか? 分からねえよな? 金に困ったことのないあんたには」
「それは!」
「いや、いい。分からなくて当然だ。こればっかりは仕方ない。誰だって生まれは選べないもんな。金持ちのあんたにも、あんたなりの苦労があるんだろう」
 それでも、と。
 それでも――恵まれた菖蒲には分からない不幸がこの世にはあるのだ、と海斗は告げる。
「金ってのはよ、確かに夢を叶えると思うさ。欲しいものが買えるし、したいことができる。今時、どんな不細工だって、金さえ持ってりゃ大層な美人がいくらでも寄ってくる。
 だが、それと同じぐらい、金は夢を壊すんだ。例えば、詐欺まがいの手順で借金の肩代わりをしちまった人間を見てみろよ。クソみたいな大金を積まなきゃ手術も受けられない人間を見てみろよ。結局、金がなけりゃ人は生きていけないんだ。いくら綺麗事を言っても、それだけは変わらねえんだよ」
 気付いた頃には、菖蒲が加害者で、海斗が被害者だ、という雰囲気が構築されつつあった。
 もちろん、それは雰囲気の話であって、現実は逆の立場になるが、菖蒲の心に居たたまれない感情が芽生えたことも確かである。
「話は戻るが、工場を失った親父は荒れたよ。生きる気力を失ったんだろうな。新しい職を探すこともせず、毎日のように酒を飲んでた。それでもギャンブルには手を出さなかったから、借金がかさむようなことだけはなかった。
 そんな家族を支えたのがお袋だ。お袋も元はお嬢様だったからな。早朝から夕方まで、慣れないパートで少ない金を稼いで、家計をやり繰りしてくれたよ。俺はガキなりに新聞配達なんかをやってた。妹には苦労させたくなかったし――なにより俺の頑張ってる姿を見れば、親父も目を覚ますんじゃないかって夢を見てたからな。
 でも、親父は終わってた。俺たちが汗水垂らして働く姿を見ても、親父は酒を飲みながらテレビ中継の野球に怒鳴り散らすだけだった。
 そんな親父に愛想を尽かしたお袋は、とうとう妹を連れて出ていっちまった。お袋は俺も連れて行こうとしたが、俺は親父を見捨てることが出来ず、こっちに残ったよ。んで、それ以来、お袋と妹とは連絡を取ってない」
 海斗の話は、まるで不幸を題材にした物語のように現実味がない――と、菖蒲は思っていた。
 それだけ、この二人の価値観は違っているのだ。
「俺は昔から空手をやっててな。自分で学費を稼ぎながら、なんとか時間を作ってトレーニングに打ち込んだよ。おかげで学業のほうはボロボロだったが、それでも空手は楽しかったし、俺の生き甲斐だった。……でもよぉ。やっぱ人生って上手くいかねえんだよなぁ」 
「……なにが、あったのですか?」
「はっ、聞いたら笑っちまうぜ? なんせ、あのクソ親父が酒代欲しさに、俺に空手を止めてバイトの時間を増やせっつーんだよ。おかげで俺たちは大喧嘩さ。でも、腐っても親父だ、実の父親を殴ることも出来ない俺に、親父は――」
 ガラスで出来たボトルで、海斗は足を思いきり殴られた。砕けた破片は皮膚を深く切り裂き、一部の神経を僅かに傷つけた。
 結果として――海斗は、右足を高く上げることができないようになった。日常生活に支障はないが、今までと同じように空手を続けることができなくなって――
「そんで、俺は学校を止めて、街でアホみたいに喧嘩に明け暮れた。そうして俺は、あいつらと出会った。クスリは売るし、女はまわすし、どうしようもないクズの集まりだが、それでも俺たちは仲間だ。俺とは毛色が違うが、みんな、あんたには想像もつかないような過去を持ってる。金こそが力だって、みんな分かってるんだ」
「……話は分かりました。でも、こんな大それた犯罪が、成功するとお思いですか?」
 菖蒲としては、精一杯の反論をしたつもりだった。
 しかし。
「成功――しねえだろうなぁ」
 予想に反し、海斗は苦笑を浮かべて首を振った。
「では、あなた方は、どうしてわたしを誘拐したのですか?」
「身代金を頂くために決まってるさ。もちろん成功する見込みが限りなく低いってのは分かってる。それでも何十億って金をせしめることができれば――いや、それが成功しなければ俺たちは終わりなんだ」
 海斗は、自分たちのグループが長くないと予想をつけている。
「健太は見境なく女を犯っちまうしよぉ……達樹はクスリにハマっちまってるしよぉ……一馬はキレるとすぐ刃物を振り回すしよぉ……」
 このままでは、遠くない未来に海斗たちは破滅を迎えるだろう。
 それに――海斗のグループは、将来的に暴力団の傘下に加入することが表向きは決まっているそうだが、それも嘘だという。
 実際は海斗だけしか気に入られておらず、勧誘もされていない。海斗以外のメンバーは、全員使えないと見なされており、頃合を見て切り離される予定とのことだった。
「……でもよぉ、そんなの出来ねえだろ。どれだけ腐っていても、あいつらは俺の仲間なんだよ。クズで、頭が悪くて、喧嘩っ早い奴らだが、それでも俺にとっちゃかけがえのないダチなんだよ」
 だから――海斗は覚悟を決めた。
 なにか人生の転機となりうるような、革命的なきっかけが必要だった。
 例えば――誘拐。
 途方もない大金を奪いさえすれば、あとはどうにでもなる。今の時代、金さえ積めば爆弾でも拳銃でも手に入る。もちろん密航や密輸だって、裏社会とのコネクションが多少あれば、世間の人間が思っている以上に簡単だ。
 菖蒲と引き換えに数十億という金を手にして、【高臥】の力が及ばない欧州か、もしくは欧米のほうに逃げる――というのが海斗の計画。
 もちろん不可能に近いということは分かっている。
 しかし、その不可能を可能にしなければ――自分たちは変われないのだと、この破滅にしか続かないレールから降りることができないのだと。
 そう、彼は菖蒲に告げた。
「だからよぉ、あんたには悪いが、せいぜい利用させてもらうぜ」
 言って、海斗が携帯を耳に押し当てる。どこかに電話をかけるらしいが、この場合、海斗たちが連絡を取ろうとする相手は、恐らく【高臥】だけだろう。
「向こうがあんたの無事を確認したがってたからな。すこしだけ会話させてやるよ」
 その一言を最後にして、室内には静寂が戻った。



 ****



 あれから俺たちは、参波さんの部下が運転する車で、犯人グループが潜伏してると思しきアジトに向かっていた。
 こんなかたちで例の高級車に乗るとは思わなかった。居住性を重視した広い車内には、クッションの効いたソファや小さなテーブルがあり、窓にはスモークフィルムが張られている。参波さん曰く、車体は防弾仕様で、ちょっとやそっとの攻撃ならば余裕で耐えられるとのこと。
 実は、あれから色々と事態は変わっていた。
 まず俺たちの話を聞きつけたナベリウスが「菖蒲の危機なら、わたしも手伝おうかな」と、寒気さえ覚えるほどの真面目な顔つきで名乗り出てくれた。しかし、間違いなく百人力どころか一騎当千に違いないナベリウスは、この車内にはいない。
 と言うのも、ナベリウスの代わりに――なぜか託哉のやつが、一緒に来ることになったからである。
 理由は分からないが、元々、参波さんはナベリウスの同行には否定的だった。結局、いつまでも話は平行線だったのだが、それを見かねた託哉が「じゃあ、オレがナベリウスさんの代わりってことで、どうだ?」などとふざけたことを言って――しかも、それを参波さんが了承したというのだから始末が悪い。
 きっと俺の知らない思惑やら事情があるのだろうけど、こうも不確定要素が多いと気分が悪い。
 託哉に問い詰めようにも、こいつは車内のソファに寝転んで、のんきに居眠りをしているので、交わす言葉さえ持てなかった。
 結局、俺は参波さんと二人で話し合いながら、目的地への到着を待っているというわけだった。

「――【高臥】は、他の家系とは、あらゆる面において一線を画するのです」
 
 どうして警察に協力を要請しないのか――そう問いかけた俺に、参波さんは躊躇うような気配を見せたものの、事情を明かしてくれると言った。
 そして同時に、協力を要請しない、のではなく、協力を要請できない、とも。
「この日本という国には、表社会において、裏社会において――その力を畏怖され、畏敬され、崇拝され、神聖視される十二の家系が存在します。
 【高梨】、【九紋(くもん)】、【鮮遠(せんえん)】、【朔花(さくばな)】、【如月】、【姫楓院(きふういん)】、【斑頼(まばらい)】、【哘(さそざき)】、【月夜乃(つくよの)】、【高臥】、【御巫(みかなぎ)】、【碧河(あおがわ)】――この合わせて十二の家系は、私たちの世界では、俗に《十二大家(じゅうにたいけ)》と呼称されます。夕貴くんも、いくつかの家名は聞いたことがあるでしょう」
 例えば、高梨家は有能な高官を輩出する、いわゆる政治家の家系として有名だ。
 参波さん曰く、高梨家は古くから政界に根付く一族で、その規模は内政や外交にも深く関与するほどだという。
 他にも日本における華道最大の流派を誇る姫楓院家。医療方面に大きな力を持つ碧河家。そして表社会の経済を動かす、高臥家や、如月家。
 また、《十二大家》は、古くから容姿に恵まれた人間、突出した能力を持つ人間などが交わり続けてきたため、先天的に優れた人間が生まれやすい傾向にあるのだという。
「この十二の家系は、表と裏の社会に途方もない力を持ちます。出る杭は打たれる、ということわざがありますが、《十二大家》はあまりにも出すぎた杭です。もはや一介の資産家や政治家が、太刀打ちできる道理はありません。同時に、この十二の家名を持つ人間に手を出すことは、私たちの世界において最も犯してはいけない禁忌でもあります」
「……でも参波さん。じゃあ、今回のケースはどうなるんだ? 菖蒲は、その……誘拐、されただろ?」
「ですから、それが問題なのです。元々、お嬢様が実名のままデビューなさったのは、【高臥】という家名を盾にするためだったのです。お嬢様が高臥家の人間と知れば、どのような悪党だろうと、まず手を出そうとは思いません。この国において、《十二大家》に牙を向くことは、すなわち死に直結するのですから」
 ――だからこそ、まずいのだ。
 裏社会において、任侠と仁義の世界を仕切っているのは【哘(さそざき)】。つまり日本で起こった暴力団絡みの事件は、元を正せば【哘】に責任が帰結する。
 今回、菖蒲を誘拐したやつらは裏で暴力団と繋がりがあった。
 構図を明確化するのなら――【哘】が、【高臥】の人間に害を成した、ということになる。
 ただでさえ双方の家系は、表社会の【高臥】と、裏社会の【哘】とに住む世界が分かれているのに――【哘】の管轄する人間が、【高臥】の一人娘に手を出したとなれば、それはもうすいませんでしたでは済まされない。
 俺なんかでは想像もつかないような数多くの利権が複雑に絡み合っているせいで、一つの小さな歪みが、日本全体に壊滅的な影響を与えることだってある。
 今回の場合、【高臥】は【哘】が直接的には関与していないことを理解している。だから秘密裏に事を済ませて、事態が明るみになることを回避しようとしている――そうしなければ、比喩でも何でもなく、日本がどうなるか分からないから。
 警察を頼れないのもそのため。警察と暴力団は表裏一体。警察にもたらされた情報は、必ず【哘】に回る。緘口令を敷いたとしても、やはり人の口に戸は立てられない。
 だから【高臥】は総力を挙げて、身内だけで救出作戦を展開することにした――
「しかしながら、今回の作戦には【高臥】の人間は一人も参加していません。すべて《参波一門》の息がかかった人間です」
 要するに――信頼できる、ということか。
 一通り話をした俺と参波さんは、今度は菖蒲を救出し、犯人グループを殲滅するための作戦について話し合った。まあ話し合いとはいっても、俺が一方的に情報を叩き込まれていただけだったのだけれど。
 現地到着まで残り十五分と迫った頃、参波さんの携帯に着信があった。
 犯人グループから高臥関係者にかけられた電話は、すべて参波さんの元に回線が接続される仕組みになっている。
 そして案の定、電話は犯人グループからのものだった。
「――はい。あなた方の要求どおり、こちらのほうで身代金を用意いたしました」
 通話口から微かに漏れてくる男の声を聞いて、俺ははらわたが煮えくり返るような錯覚に陥った。
 こいつらのせいで。
 こいつらが菖蒲を――傷つけたんだ。
 そう思うと、自分の無力さや迂闊さを呪うと同時に、これまで感じたことのない怒りが心を侵食するのが分かる。
「夕貴くん」
 ソファに腰掛けたまま、膝の上で両拳を握っていた俺に、参波さんが電話を渡してきた。
「……参波さん、これ……?」
「いいから、出てみてください。私から言えるのは、それだけです」
 犯人と交渉中のはずだが――俺が代わってもいいんだろうか?
 あいつらの声を聞いた瞬間、口から罵声が飛び出さないとも限らない――むしろ怒鳴ってしまう自信がある。
 それでも参波さんが促すので、俺は渋々といった体で、携帯電話を耳に当てた。
「……もしもし」
 口にしてから、なんとなく間抜けな第一声だな、と思った。少なくとも菖蒲を誘拐したやつらに言う台詞ではない。

「――夕貴様、ですか……?」

 だが。
 俺の鼓膜を震わせたのは、汚らわしい男の声ではなく。
「……あ、菖蒲か?」
 思わず涙が出そうになった。
 菖蒲が無事でいてくれたことが、この世の何よりも奇跡に思えて、神様に土下座してやりたい気分になった。
 言いたいことは沢山ある。
 おまえを助けてやる、とか。
 あいつらに酷いことはされてねえか、とか。
 護ってやれなくてごめんな、とか。
 しかし――俺が何かを言うよりも早く、菖蒲は悲痛な声で、それを告げた。
「……夕貴様。菖蒲の一生のお願いを、ここで使います」
 それは子供がよく口にする、相手に頼みごとをするときの枕詞として使われる決まり文句だが、この状況下では、やけに真摯な言葉として聞こえた。
「……ああ、分かってる。俺に助けてほしいってんだろ? だって約束したもんな。おまえの言う未来を信じてやるって」
「はい。約束しました」
「それなら話は早い。おまえが無事だって知れただけで百人力だ。もう怖いものなんてない。だから」
「いいえ」
 と。
「一生のお願いですから……来ないでください」
 呟く声が――震えていた。
「どうか、お願いですから……」
 重ねる声が――泣いていた。
「夕貴様だけは……!」
 失いたくない、と。
 そんな未来は見たくない、と。
 菖蒲は何も言葉にしていないはずなのに、なぜか俺には、彼女の言わんとすることが理解できた。
 もちろん俺には未来を視ることはできない。他人の心を読むこともできないし、そもそもで言えば、女の子の気持ちを読むのも下手だ。
 それでも――分かってしまった。
「……視たのか?」
「…………」
「俺が死ぬって……視たんだよな?」
「…………」
 その沈黙が、暗に肯定を示していた。
 これまで菖蒲が、人の死を視ても、その未来を回避できなかったのは――誰も菖蒲の言葉に耳を貸さなかったから。
 つまり菖蒲の言うとおりに従えば、未来は変わるはずなのだ。垣間見た未来を修正することによって【高臥】は栄えたのだから。
 かつて菖蒲の話を聞いた俺は、彼女の言葉に耳を貸さないやつは馬鹿だな、と思った。もちろん、それは”未来予知”という異能を存知している俺特有の発想だ。
 一度でもいい。
 菖蒲が視た”誰かの死”が、一度でもいいから回避できれば――きっと菖蒲は前を向ける。どうやっても未来は変えられない、という妄念を崩せる。頑張れば未来は変わる、という希望にすりかわる。
 それでも。
「……悪い、菖蒲。そのお願いだけは、聞けねえよ」
 通話口の向こうで。
 彼女の嗚咽が、より一層の激しさを増した。
「……そん、な……どうして、ですか! 夕貴様は、約束してくれたではありませんか! ……わたしの、未来を、信じてくれるって……」
「ああ、言ったよ」
「……なら、どうしてですか……どうして、夕貴様は……夕貴様も……!」
 わたしの言うことを聞いてくれないんですか――と。
 菖蒲は失望に染まりきった声で、希望を捨てようとしない俺をなじった。
 でもよ。
 仕方ねえんだ。
 これだけは譲れない。
 俺という人間の命。
 菖蒲との約束。
 憧れている女の子のお願い。
 ――そんな下らないチンケなもんより、俺には遥かに大事なもんがあるから。
 それは。
「……悪いな。でも菖蒲は、一つだけ勘違いをしてるよ」
 狼狽する気配が伝わってくる。
 俺は携帯電話を強く握り締めながら、想いを吐露した。

「――俺は。
 自分の命よりも。
 おまえとの約束よりも。
 憧れてる女の子のお願いよりも。
 ずっと、ずっとおまえのほうが大切なんだよ、菖蒲――」

 だから聞けないんだ。
 菖蒲との約束を守ることは、菖蒲のお願いを聞くことは――転じて、菖蒲自身を護れないってことだから。
「……バカ」
 小さな、罵倒。
「……夕貴様なんて、大嫌いです」
「そっか。俺は菖蒲のこと、大好きだけどな」
 不思議と笑みがこぼれた。きっと向こうでも、菖蒲が笑っていると、そう信じたい。
 ――そうして電話は途切れた。元々、人質の無事を知らせることが、この電話の目的だったのだろう。
 もう何が正しくて、何が間違っているのかも分からない。
 もしかすると、これまで菖蒲が予知した”誰かの死”は、俺みたいな自惚れ野郎にこそ降りかかるのかもしれないけれど。
 それでも、いいんだ。
 どんな未来だって、そんなのは跳ね除けてやる。
 菖蒲を悩ませる未来なんて、俺があっけなく変えてやるんだ。


 ――なあ、待ってろよ、菖蒲。
 絶対に、何があっても、おまえのことを助けてやるから――



[29805] 1-11 救出作戦
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/10/14 23:04


 犯人グループのアジトとして特定された場所は、俺たちの街からしばらく車を走らせた先にある漁港だった。
 より正確に言うなら、漁港と隣接するかたちで存在する倉庫街の一角に、犯人たちが潜んでいるらしい。
 この倉庫街は、主に海貨業者や漁業就業者たちが利用している。しかし棟の一部は、個人や企業に貸し与えるためのトランクルームであり、陸で仕事をしている人間も頻繁に寄りつくという。
 犯人グループが立て篭もっている倉庫は、管理人の趣味により音楽スタジオとして改造されている。要するに、一般的な倉庫よりも防音に特化しているということだ。
 音を遮断するという必要上、壁は厚く、小窓の類は一切設けられていない。入り口は、正面に一つ、裏に一つの計二つ。犯人の逃走経路を潰しやすいのは利点だが、侵入経路が限定されているのは難点。
 つまり、犯人を取り逃がす可能性は限りなく低いが――攻略戦を展開するのも、また面倒ってことだ。
 俺たちは黒塗りの高級車から降りたあと、参波さんの指示に従い、移動を開始した。
 ずっとソファで眠りこけていた託哉は、こんなときなのにも関わらず、のんきに欠伸をかましていた。こいつがどうして俺たちと一緒に来たのかは分からないし、参波さんがどうして託哉の同行を許可したのかも不明だ。きっと参波さんには、彼なりの考えがあるのだろうけれど、俺にはいまいち意図が掴めない。
 犯人グループのアジトから、直線距離にしておよそ百メートルほど離れた位置に、俺たちは待機していた。

「――封鎖班、観測班、救護班の連携完了を了解。以後、私の指示があるまで、そのまま待機」

 参波さんは、大型のトランシーバーで部下と連絡を取っている。
 トランシーバーは通信機同士で直接電波をやり取りするので、電話機と基地局との間で電波を送受信し合う携帯電話よりも、この場合は確実なのだろう。携帯電話は周辺一帯の周波数を少しいじるだけで使えなくなってしまう。よって、盗聴・妨害される可能性の低いトランシーバーは、今回のようなスポットミッションには最適と言える。
「おもしれーぐらい大掛かりだな。なんか男として、血が滾るっつーか、不謹慎な言い方をすればワクワクする感じだよな」
 俺のとなりにいる託哉が、普段とまったく変わらないおどけた口調で言った。
「おまえな……」
「なんだよ夕貴ちゃん。言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいじゃん」
「……いや、なんでもない」
 本当ならば文句の一つぐらい言いたかった。
 菖蒲が誘拐されたってのに、どうしてそんなに余裕でいられるのか。俺なんて、この戦場を思わせるような独特の緊張感に苛まれて、胃の中のものを戻しそうだっていうのに。
 参波さんが直々に許可したぐらいだから、託哉がこの場にいることには少なからず意味や理由があるのだろうけど――俺には分からない。
 いまは菖蒲を助ける、ということしか頭にない。
 その助けをしてくれる者は総じて味方だし、その邪魔をする奴は総じて敵だ。
 託哉は「美少女に危ない真似をさせちゃ駄目だろ。つーわけで、俺が代わるわ」などとふざけたことを言って、ナベリウスの代理として、この救出作戦に参加した。
 つまり助力を買って出てくれたというわけで、そういう観点から見れば、託哉は俺たちの味方という認識で間違いないが――
「なあ託哉。おまえ、格闘技の経験とかあったっけ?」
「いんや、自慢じゃないが喧嘩すらあまりしたことがない」
「…………」
「そんなオレに比べて、夕貴は空手やってたから腕に覚えはあるよなー。なんせ全国二位の腕前だもんなー」
「……俺のことはいいんだよ。それよりおまえ、喧嘩もしたことないなら、大人しく家に帰ったほうがいいんじゃないか? 無理言って連れてきてもらった俺が言うのも何だが、足手まといはごめんだぞ」
「うーん、まあ大丈夫じゃない? こう見えてもオレ、とっても恐ろしい殺人鬼って呼ばれたこともあるんだよーん」
「こんなときに冗談はいらねえよ……」
「あ、バレた?」
 これっぽっちも気負っていない様子の託哉は、にしし、と人懐っこい笑みを浮かべて頭を搔いた。
 こいつは間違いなく俺の親友なのだが、たまに掴みづらいというか、いまいち把握しきれないところがある。なにを考えているのか分からない、と言ったほうが近いかもしれない。俺はその曖昧な部分を、きっと託哉が馬鹿だから俺の常識では計れないのだろう、と勝手に解釈している。
 この緊迫感漂う状況において、託哉の奔放さが疎ましいのは確かだが――それと同じぐらい、託哉の無邪気さが俺の緊張を紛らわせてくれているのも否定できない。
 ほどよい緊張は悪いものではない。緊張という名の刺激は、人間の五感を研ぎ澄まし、鋭敏にさせる。それは緩んだ筋肉を引き締め、警戒心を増幅し、次の一手を素早く打つためのキーとなる。
 転じて、過ぎた緊張は人間の体を縛る鎖となってしまう――これまで何度か大舞台に立ったことがある俺は、それを経験から理解していた。
 そういう意味では、託哉がこの場にいることは決して無駄じゃなかった。こいつがとなりにいるだけで、俺はプレッシャーに呑まれることなく、軽口を叩く余裕を失くさずにいる。もしかしたら参波さんも、それを計算に入れていたのかもしれない。
「――夕貴くん、玖凪の。どうやら早速、仕事のようですよ」
 トランシーバーを通じて部下から情報を得たのか、参波さんが口火を切った。
「仕事って、どういうことだい? 参波さんよ」
 と、託哉。
「観測班より『キャッスルから人間一人が外出するのを確認した』と緊急連絡が入りました。外見の特徴から照合した結果、対象をプリンスの一人と確認。プリンセスを連れていないところを見ると、恐らくは長丁場になると判断して、食料調達にでも出たのでしょう。どうやら私たちに補足されていることを知らないようです」
 ちなみに――”キャッスル”は犯人グループのアジトを指し、”プリンス”は犯人グループそのものを指し、”プリンセス”は俺たちが救出するべき対象である高臥菖蒲を指す。
「舐められたものです。暴力団と繋がりがあるとは言っても、彼らは裏社会のことを知らなさすぎる。私たちの情報収集能力を侮ってもらっては困りますね」
「おいおい、参波の。あんたらに気にする体裁なんてあったのかい?」
「それはもう。なにせ、裏では力が全てでしょう?」
 参波さんはスーツのネクタイを緩めながら、口端を歪めた。彼はこんなときでもスーツを華麗に着こなしている。オールバックの髪型と、右目のあたりに入った大きな切り傷が、この闇に呑まれた漁港と嫌に合っていたけれど、それも銀縁の眼鏡が生み出すインテリな雰囲気が、なんとか参波さんを堅気のように見せている。
「……参波さん。つまり、これはチャンスってことか?」
 俺が躊躇いがちに問うと、彼は頷いた。
「察しがいいですね――夕貴くんの言うとおり、これはチャンスです。まずは危機感の足りない”プリンス”から、お話を伺うとしましょうか」
 要するに――食料調達に出たと思しき男から、犯人グループの内情や、アジトの内部構造、そして菖蒲の様子を尋問しようということ。
 ……それにしても、一つのミスが勝敗を決しかねないこの状況下において、単独で外出するとは迂闊すぎるにもほどがある。あの男たちには危機感がないのか、もしくは自分たちの位置が特定されているとは想像していないのか。まあ両方だろうな。
 晴れ渡った夜空の下、月明かりに照らされた漁港の中を俺たちは移動する。今ばかりは月光も疎ましく思えたが、僅かに残った宵闇に身を隠すようにして――俺たちは気配を殺しながら、間抜けなプリンス様に接触するのだった。




 結論から言うと――俺たちは目下の目的を成し遂げた。
 つまり犯人グループの一人を補足し、襲撃し、拘束したというわけである。それを成し遂げたのは、当然のように参波さんで、俺と託哉は見ているだけだった――否、俺たちが行動しようとするよりも早く、すべては終わっていた。
 いかなる歩法か、足音どころか震動すら立てずに”プリンス”の背後まで忍び寄った参波さんは、躊躇うことなく相手の喉に一撃を見舞った。無力化された”プリンス”は、うめき声を発することも出来ず、その場に転倒し、意識を喪失。
 俺たちが拘束した男は、かつて菖蒲をナンパした三人組の一人だった。筋肉と脂肪が半々ぐらいの肥満体型の男。顔の表面にはニキビ跡やほくろが目立つ。あのとき、紙コップのジュースを持っていた男である。
 少しはダイエットをしたほうがいいんじゃないか、と文句を超えて説教してやりたくなる重い体を引きずり、俺たちは物影まで移動。
 身動きできないように拘束されて寝転ぶ男に、参波さんがバケツ一杯の水(さっき参波さんの部下が持ってきた)を勢いよく顔面にぶっかけると、水分が気管に入ったような反応と共に、男が目を覚ました。
 両手両足を縛られている肥満体型の彼は、どうやら状況を飲み込めていないようで、呆然とした顔で虚空を見つめていた。
 それは間抜けと笑うに相応しい姿だったが、菖蒲に危害を加えたこいつらを前にして浮かべる笑顔など、あいにく俺は持ち合わせていない。
「私の声が聞こえますか」
 参波さんが声をかけるも、男は反応を示さない。
 しかし男は、参波さんを見て、託哉を見て――そして俺を見た瞬間、ようやく事態を理解したようで、一気に冷や汗をかき始めた。
「――お、お前っ! あのときの!」
「騒がないでください。また、私の許可なく声を発することを禁じます」
「まさか菖蒲ちゃんを取り戻しに来たのか!? い、言っとくけど、菖蒲ちゃんはお前なんかのものじゃなくて、俺のものなん……」
「騒ぐな、と言いました」
 ゾッとするほど冷たい声。
 同時に、ポキッ、と小気味よい音がした。
 男の背後に回った参波さんが――指を、折ったのだ。
 その耐え難い激痛により、男は『騒ぐな』という命令を無視して絶叫したのだが、参波さんが男の口元を布で抑えて声を封じたので、くぐもった呻き声しか漏れなかった。
「見かけによらず荒っぽいねえ、参波の」
「荒っぽいっていうか、これは……」
 託哉は感心したような声色だったが、俺はそうもいかなかった。
 躊躇いもなく人間の指を折る――なんて、まず間違いなく俺にはできない。
 この肥満体型の男は、もはや『犯罪者』であり【高臥】の敵であることは確かだが、それを踏まえたとしても、俺は『骨を折る』というレベルの攻撃を簡単には行えない。そこまで徹しきる覚悟を作るには、少なくとも一瞬では無理だ。
 参波さんは――手馴れた様子だった。
 【高臥】の家令であり、家人のボディーガードも務めているという参波さんは、卓越した戦闘技術と、人を壊す覚悟を、当たり前のように備えていた。
「本来ならば爪を剥いでもよかったのですが――専門的な器具がなければ、効率よく痛みを与えることができませんから、今は『骨』で代替させていただきます」
 瞳に涙を浮かべて悶える男を見下ろし、参波さんは告げる。
「もう一度だけ忠告しておきます――私の許可なく、声を発するな」
 その宣告には、もはや暗示にも似た強制力が内包されていた。
 男は壊れたおもちゃのように、何度も首を縦に振る。こいつも暴力団と繋がりができる程度にはアウトローを気取っていたのだ。弱肉強食という摂理を、いちおう理解しているのだろう。
「私の指示に従えば、命までは取らないと約束しましょう。ただし、私の指示に背けば、その違反した分に見合っただけのペナルティを科します。よろしいですか?」
 ブリザードに直面したように体を震わせながら、男が頷く。
「ご理解いただけて結構です。ではお聞きしますが、あなたは坂倉健太さんで間違いありませんか?」
 高臥家の組織力か、あるいは参波さん独自の情報網により、男たちの身元は割れている。これは、その確認だろう。
 男は戦々恐々としながら頷いた。
「……は、はい」
「ふむ、それでは次にお聞きしますが――」
 そうして参波さんは、次々と男から情報を聞き出していく。
 暴力を背景にしているとはいえ、淀みなく尋問を進めていく参波さんは、明らかに馴れた様子だった。相手を脅すだけではなく、時には慰めるような優しさを見せ、恐怖という殻に閉じこもっていた男の心を開いていく。
 犯人グループ内の情報を漏らすことには若干の躊躇を見せたものの、それも長くない沈黙だった――参波さんを前にして、坂倉健太は閉ざす口を持たない。
 ぺらぺらと必要なことから不必要なことまで喋ってくれたのは結構だが、話を聞けば聞くほど、俺はこいつらに失望の念を抱いてしまう。
 確かに――それはアウトローが考えたにしては練られた計画だったが、【高臥】という家系を敵に回すとなれば話は別だ。
 男たちの計画は、せいぜい『一般人に警察が味方したぐらいの戦力』が相手ならば、まあ運がよければ成功するんじゃないか、という程度のものでしかない。……と、酷評はしたが、警察を相手取れるかもしれないレベルの計画を立てているあたり、こいつらのリーダーは油断ならない男なのかもしれない。
 犯人グループのアジト――”キャッスル”は、音楽スタジオ、居住スペース、キッチンスペース、シャワールーム、トイレと少なくない空間があるらしい。
 まだ俺たちに包囲されていることも知らない彼らは、思い思いに寛いだり、交代で睡眠を取ったりしているようだ。誘拐を実行したときは極度の緊張に包まれていたらしいが、時間が経っても追っ手が来ないことに気付き(まあ気付かせていないだけだが)、今は金の使い道について談笑する余裕さえあるという。
 菖蒲は居住スペースに監禁されているが、見張り役は一人だけ。
 表と裏の入り口には鍵をかけているものの、特にバリケードを築くこともしていない。
 他にも男たちの持つ武器、道具などを事細かに聞き出し、”キャッスル”のレイアウトも聴取した。
「……おまえら、よくそれで誘拐なんかしたな」
 無謀としか言いようのない計画に呆れて、俺はかぶりを振った。
 まあ――アウトローとしては失敗なしの人生だったらしいので、こいつらは不良行為に躊躇いはないし、成功するとしか考えていない。
 自信とは厄介なものだ。過剰な自信は、分析能力の欠如に繋がり、情報の正確性を見失い、誤った意思決定と戦略に信頼を寄せてしまい、結果として高いリスク負担をしてしまう。こういった輩の行動は、大体がリスク・リワード・レシオに基づいていない。
 俺の発言が気に食わなかったのか――坂倉健太は参波さんに向ける目とはまた違った、どす黒く濁ったような目で俺を見た。
「……うるさい。お前なんかに、菖蒲ちゃんを渡すもんか」
「え?」
「――うるさいって言ったんだ! どうせお前、菖蒲ちゃんとヤリまくってんだろ!? いいよなぁイケメンは! 菖蒲ちゃんだって、しょせんは顔のいい男にしか興味はないんだ! 菖蒲ちゃん、普段は清楚に振舞ってるけど、夜になると男に喜んで股を開くような淫乱に違いないんだ!」
 参波さんは何も言わなかった。
 だって――それよりも早く、俺が坂倉健太の胸倉を掴み上げていたから。
「てめえ……菖蒲の悪口言ってんじゃねえよ」
 殴るどころか、殺してやりたい気分だった。
 でも無力化されている男に暴力を振るうほど、俺は喧嘩が好きじゃない。
「一つだけ聞くぞ。おまえら、菖蒲には何もしてねえだろうな」
 自分でも驚くほど底冷えした声。
 ひっ、と息を呑んだ坂倉健太は――俺から視線を逸らした。
「……な、何もしてない、けど」
「正直に言えよ。人間の嘘なんて分かりやすいもんだ」
「……お」
 そして彼は、小さな、小さな声で呟いた。
「……お、犯そうと、した」
 このとき――こいつをぶん殴らなかった俺は、自分で言うのもなんだが、よく耐えたと思う。
「――ち、違うんだ! 確かに菖蒲ちゃんに、その……しようとしたけど、結局は何もしなかったから、俺は悪くない!」
「じゃあ……菖蒲は無事ってことか?」
「無事だよ! 無事だから、もう放してくれ!」
 言われて、俺は坂倉健太を解放した。
 菖蒲に乱暴しようとしたこいつは許せないけど――菖蒲が無事だってことが分かっただけで、俺はもう何でもいいような気がしたんだ。
 ――作戦に必要な情報は、もう全て得た。
 なおも言い訳を繰り返す坂倉健太を参波さんの部下に引き渡し、俺たちは本格的な救出作戦を展開するためにブリーフィングを開始。
 元々、参波さん一人で犯人グループは制圧できる目算だったので、俺と託哉は過ぎた戦力というか、むしろ邪魔者になってしまうかもしれない。
 遠まわしに――参波さんは俺に『夕貴くんの手を煩わせるまでもなく、私が単独でお嬢様を連れ戻してきますよ』というようなことを言ってくれた。それは俺を足手まといと見なしての言葉ではなく、純粋に俺の身を案じてくれた上での発言。
 それでも、俺は頭を下げて、参波さんに懇願した。
 菖蒲を助けるって――約束したんだ。
 あいつの言う未来を信じてやるって――誓ったんだ。
 だから、俺は行かなきゃならない。
 一時間ほど前、車の中で菖蒲と電話したとき『萩原夕貴が死ぬ』という未来を視たと、彼女は言っていた。
 一生のお願いだから――来ないでください、と。
 でも逆に言えば、これはチャンスだと思うのだ。
 今回の『犯人グループ制圧および高臥菖蒲の救出作戦』を無事に成し遂げることができたならば、それはすなわち――菖蒲の視た未来が変わった、ということになる。
 俺が生きて、あいつを助け出すことができれば。
 あいつの見ている前で、あいつの視た未来が変わったということを、俺の生存という事実によって、示すことができれば。
 それは、最高の結末だと、俺は愚考するのだ。
 考えてみりゃ簡単な話だと思う。
 だってさ、俺は将来、菖蒲と結ばれる未来にある男なんだぜ? 高臥直系の女児が視る”予知夢”が絶対の的中率を誇っていることを鑑みれば、俺は菖蒲と添い遂げるまでは何があっても死なないってことになるはずだ。
 ……つーか、いまさら思ったんだけど、俺って本当に菖蒲と結ばれるのかな?
 俺ごときが、あんな可愛い女の子と相思相愛になっちゃってもいいのか?
 いや、それよりも問題は、未来の俺と菖蒲が、なにやらアブノーマルっぽいプレイ様をしてたっぽいことである。
 ふとナベリウスの言葉が脳裏をよぎった。

 ――わたしの見立てでは、きっと菖蒲はドMよ――

 思い出すのも赤面するような台詞だが、確かにナベリウスはそんなことを言っていた。
 基本的に、あの銀髪悪魔は勘が鋭く、なんだかんだ意味不明な発言を繰り返すわりには間違ったことは言わない。
 つ、つまり……菖蒲は、本当に……?
 普段はめちゃくちゃ清楚な美少女なのに、夜になると……みたいなことがあるのか?
 ――だめだ、落ち着け萩原夕貴。鎮めろ。心頭滅却すれば火もまた涼しだ。鎮めるんだ。これからが本番なんだ。緊張を解くにはまだ早い。
 救出作戦の概要は、至極単純なものだった。
 表口と裏口から同時に”キャッスル”へ侵入。俺たちの包囲にすら気付いていない”プリンス”は、突然の襲撃に混乱すると予想されるが、そのパニックに乗じて犯人グループの制圧に乗り出す。時を同じくして、”プリンセス”の身柄を確保する。
 以上が、大まかな作戦内容。
 優先順位としては、何を置いても”プリンセス”の救出が先頭にくる。菖蒲さえ助けてしまえば、あとは何とでもなるし、どうにでもなる。
 ”キャッスル”内部は明かりをつけず、ランプのみを光源としているらしく、月光に照らされた漁港よりも室内は薄暗いと思われるが、それを事前に理解していれば、あらかじめ目を闇に慣らしておくことで対処できる。
 ここで問題は、突入メンバーの編成だ。
 菖蒲が監禁されている居住スペースは、裏口から入ってすぐの位置にあると坂倉健太が証言した。
 それを踏まえて、参波さんは――託哉が表口から、俺と参波さんが裏口から、という異色の構成を告げた。
 いや――このメンバーなら、どのような編成になっても異色なのは違いないのだが、それでも喧嘩すらしたことがないと自白する託哉を一人にさせるのは、いささか無理がありすぎるような気がする。
 参波さんの戦闘技能は、間違いなく俺よりも遥かに上だ。それは、さきほど坂倉健太を捕える際の一連の動きを見ていれば分かる。
 また、自分で言うのも自惚れであるような気がして憚られるのだが、俺は喧嘩は好きじゃないけれど、対人戦闘ならば自信がある。相手が悪魔とかなら苦戦どころじゃ済まないが、タバコや酒を嗜む不健康なアウトロー程度だったら、例えナイフを持たれたって何とか対処してみせる。
 こう見えても、俺はちょっとだけ空手で名を馳せていた。だから参波さんのように、躊躇いもなく相手の骨を折るのは無理でも、躊躇いもなく相手を行動不能に追い込むぐらいならばいけるはずだ。
 でも託哉は――どうなんだ?
 作戦は長くても二分かからない、と参波さんは予想している。つまり速攻で奇襲をかけて、一瞬で犯人グループを無力化するだけの格闘能力が要求されるわけだ。
 かくいう俺も、参波さんに言わせれば『ギリギリでつれていけるレベル』だという。むしろ俺が菖蒲と懇意という事実がなければ、参波さんも無理をして同行を許可したりはしなかっただろう。
 それでも、参波さんは迷わず言うのだ。
 ――表口は、玖凪託哉に任せます。
 と。
 まるで託哉を一つの戦力として認めているかのように。
 分からない。
 一体どういうことなのか。
「託哉、おまえ……大丈夫なのか?」
「もちろんさ。オレが死ぬわけないだろ? むしろ夕貴ちゃんは、オレが犯人たちを殺さないように心配しとけよ」
 もう作戦開始十分前だ。
 そろそろ託哉が表口のほうに周り、俺と参波さんが裏口のほうに周らなければいけないため、これが託哉を説得できる最後のチャンスだった。
 相変わらず微塵も緊張していないような託哉に、俺は言う。
「……おまえは女好きで、アホで、バカで、玖凪とか変な名前してて、いつも俺のことを夕貴ちゃんって言って、挙句の果てには俺の母さんを口説こうとするぐらいどうしようもないやつだけど――」
「オブラートに包まれていない事実が耳に痛いっ!」
「だけど――おまえは俺の親友なんだよ」
「…………」
 普段は人懐っこく笑顔を浮かべている託哉が――無感情に瞳を細めた。
「菖蒲を助けることができても、犯人グループを制圧することができても――おまえが死んじまったら意味がないんだ。だから」
「大丈夫。オレは死なねえよ」
 そう笑って、託哉は身を翻した。
「まあ、夕貴は菖蒲ちゃんを助けることだけに集中しとけばいい。オレはそれまで時間を稼ぐぐらいのことはしてやるよ」
 明るめに脱色した髪を風に遊ばせながら、託哉は漁港の闇に消えていった。
 俺は参波さんに促され、指示されていた位置に着く。
 ”キャッスル”は防音機能に特化した建築方式だ。遮音性能はその材料の重さや厚さに比例する。事実、”キャッスル”の壁は容易には突き破れない。
 それに比べて、表口と裏口のドアはアルミ製で、壁に比べるとそれほど厚くはないし、重くもない。
 常人ならば突き破るのも難しい扉だが――参波さんによれば、こんなの障害にもならない、という話だ。
 参波さんは最後の定期連絡を、トランシーバーを通じて行っていた。

「――封鎖班、観測班、救護班の連携完了を了解。突撃班のバックアップは不要です。今回の作戦には、《玖凪一門》の助力が確認されています。よって、制圧自体は容易でしょう。むしろ救護班は、犯人グループの人間を死なせないようにしてください」

 ……なにか、見逃してはいけない違和感があったが、俺はそれを『作戦開始前の緊張』ということで片付けた。
 作戦開始スタート位置についた俺は、まだ春先なのにも関わらず、全身を伝う嫌な汗を不快に思いながらも、デジタル時計を眺めていた。
 もう俺と参波さんの間に会話はない。必要な情報や注意点はすべて叩き込まれた――だから、あとは各自で作戦開始を待ちながら、コンセントレーションに集中するだけ。
 そして。
 デジタル時計が午後九時を指した瞬間――ここに菖蒲の救出、および、犯人グループの制圧という、一つの作戦が開始したのだった。





[29805] 1-12 とある少年の願い
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/10/16 15:48

 ――作戦開始の合図は、各々が持つデジタル時計の表示だけだった。
 《十二大家》の一つである【高臥】が関与しているわりには、不気味なほど静かな開幕とも言える。
 犯人グループの潜伏先である通称”キャッスル”を攻略する上で、表口からの侵入を任された玖凪託哉は、自宅の敷居を跨ぐような気軽さで突入した。
 アルミ製の扉を思いきり蹴破って、気配を殺すこともなく堂々と乗り込む姿は、暴力が吹き荒れるであろう場に相応しいとは思えない。
 薄暗い室内に飛び込むのと同時、託哉は左右から微かな殺気を感じた。
 もとより防音に特化した音楽スタジオだ――風の入り込む隙間のない、空気の停滞した空間の中ならば、どんな些細な”乱れ”だって感じ取れる。
 待ち構えるようなかたちで表口に潜んでいた二人の男。彼らが振り下ろした細長い角材を、託哉はそのまま前進することによって回避した。
「――おいおい、そんなもんで殴られたら痛いどころじゃ済まねえぞ」
 呆気なく室内に潜り込んだ託哉を見て、男たちが舌を打つ。
 どうやら自分たちの襲撃はバレていたらしい、と託哉は察した。
 恐らく、坂倉健太がアジトを出たまま帰ってこないことを怪訝に思い、向こうも最悪の事態を想定していた――そんなところだろう。
 喧嘩に明け暮れ、手には武器を持った二人のアウトローを前にして、託哉は丸腰のままだった。
「それにしても無茶したよなぁ、あんたら。【高臥】に手を出すとか、社会的に抹殺されてもマジで文句言えないぞ」
 まるで大学の友人に語りかけるような託哉の言葉を、男たちが悪意によって濁す。
「――うるせえ! 黙って聞いてりゃ、なに舐めたクチ聞いてやがる! てめえ、サツの回しもんじゃねえだろうな!?」
 不良行為の延長線上として”誘拐”という犯罪に手を染めた彼らにも、多少の危機感はあるらしい。事実、いきなり乱入してきた託哉を見て、男たちは過剰なまでに殺気立っている。
 高臥菖蒲という人質を盾にしているのだから、高臥家が警察に連絡する可能性はあるかもしれない、とは予想していても、いまの託哉が見せたような能動的な襲撃をかけてくるなど、犯人グループは夢想だにしていなかったのだろう。
 託哉は、参波清彦から聞いていたデータと、彼らの身体的特徴を照らし合わせた。《参波一門》は託哉にとっていけ好かない連中ではあるが、その腕だけは一流だ。情報は限りなく正確。託哉を迎え撃った男たちは、富永聡史と大久保達樹の両名と見て間違いない。
 今にも噛み付いてきそうな狂犬を連想させる聡史はともかくとして、達樹のほうは日頃から薬物を常用していそうな気配がある。目の焦点や呼吸の度合いを見れば、その人間が真っ当か否か、託哉にはすぐに分かる。
 まさか警察の人間だと疑われるとは思っていなかったので、託哉は失笑した。
「おまえ眼科行ったほうがいいんじゃねえ? こんな髪を明るく脱色した警官とか、実在するなら見てみたいわ」
「――黙れっ! ぶっ殺すぞコラぁぁぁぁっ!」
 獣のような咆哮を上げて、二人の男が左右から挟みこむように襲い掛かってくる。
「うぜえ」
 しかし。
 これまで人を傷つけることはあっても殺すことだけはできなかった男たちが、この極限の状況においてようやく持つに至った”本物の殺意”を、玖凪託哉が否定する。
「さっきからよぉ――誰に意見してんだ、てめえ」
 冷たい声。
 およそ人としての感情など内包されていない、冷え切った声。
 次の瞬間――乾いた破壊音と共に、木の破片が中空に撒き散らされた。それは角材が砕かれた証拠。死神の鎌のように跳ね上がった託哉の足が、男たちの首ではなく、手に持っていた武器を破壊した、というだけの簡単な話。
 勢いよく撒かれた木の破片は、託哉にとって服を汚すゴミに過ぎないが、男たちにとっては視界を遮る目潰しに等しい。網膜に向かって迫りくる破片を見て、男たちは反射的に瞼を閉じた。
 続いて振りぬかれた託哉の拳が、男たちの一人――富永聡史の鼻を砕いた。脳髄に響く強烈な痛みと、滝のように流れ出る血。それは聡史から戦意を奪い、意識さえも揺らす。
 断末魔は好きだが、許可もなく叫ばれるのは鬱陶しいので、託哉は聡史の声を封じることにした。喉に向けて貫手を放ち、みぞおちに向けて膝蹴りを打つ。呼吸を助ける役割を果たす横隔膜にもダメージを入れたので、これでしばらく満足に声も出せない。
 そうこうしているうちに、もう一人の男――大久保達樹が、託哉の無防備な背中に拳打を繰り出した。それをサイドステップでかわした託哉は、伸びきった達樹の腕を掴み取る。
 ここで肝心なのは力点と支点が作用する部分――そこを見極めば、人間一人を転倒させるぐらい赤子の手を捻るよりも簡単だ。
 あっけなく地面に転がる達樹。
 その腕を関節に負担がかかるように極めつつ、託哉は上から思いきり体重を乗せた。すると耳障りな音を立てて、達樹の腕に通っていた骨が折れる。
「……チ」
 情けない悲鳴を上げる達樹が鬱陶しかったので、黙らせるためにも、その頭を全力で踏みつけた。それがあまりにも強い力だったせいか、大口を開けていた達樹は、前歯二本を地面にぶつけてしまう。からん、と乾いた音を立てて、見た目のわりに健康そうな歯が託哉の足元に転がってきた。
 レトロゲームよりも面白みのない工程と結末に、託哉は失望を禁じえない。
「はぁ? なんだこりゃ」
 託哉が動き始めてから十秒と経たない間に、男たちは地に伏し、赤黒い液体を垂れ流すだけのアタッチメントになった。
 瞳に涙を浮かべて、何とか謝罪を口にしようとする達樹の頭を踏みつけ、託哉は続ける。
「てめえら、こんな様で【高臥】を敵に回しやがったのか? マジで冗談は止めてくれ。これ以上つまんねえギャグ見せられると、手元が狂って、おまえらを殺しちまいそうだ」
 もう勝負はついているが――それでも託哉の手は止まらない。頬についた返り血を拭いもせず、ガタガタと震える男たちに向けて、なおも執拗に攻撃を加えていく。
「ただでさえ《参波》のせいで苛立ってんのに、今年の春から《壱識(いちしき)》の小娘までが、この街に入り込んでるっていうじゃねえか。マジやってらんねえわ。だからよ、こんな下らねえ害虫駆除に手を貸す暇なんざねえんだ、オレは」
 その言葉どおり――もともと託哉は、この作戦に関与するつもりなど毛頭なかった。
 しかし、萩原夕貴という少年の願いを叶えるには、託哉が手を貸してやる必要があった。
 いくら高臥重国の許可が出たとはいえ、実戦訓練を積んでいない夕貴の協力を許すほど、参波清彦はお人よしじゃない。
 この脆弱な犯人グループを制圧し、人質である高臥菖蒲を救出するのは、清彦一人の力でも可能だった。ただし、それは萩原夕貴という『足手まとい』がいなかったら、という条件があってこそ。空手を学び、卓越した格闘能力を有していたとしても、実戦を知らない夕貴が一種の不確定要素である事実は変わらないのだから。
 そんな裏の事情があったからこそ、託哉はこの作戦に参加した。
 犯人を制圧し、菖蒲を救出するのに必要な力が十だとして、清彦一人でノルマを満たしていると仮定した場合――夕貴という存在が入ると、恐らく数字は五にまで落ちる。それでは駄目だ。だから、数字を再び十にまで押し上げるには託哉が力を貸すしかなかった。
「……殺さねえように手加減するのは難しいんだ。ちょうどいい機会だし、お前らをその練習台にでもさせてもらうわ」
 絶望に染まった顔で、何とか少しでも遠くに逃げようと床を這う男たちを見下ろし、託哉は無感情に瞳を細める。
 ――夕貴と清彦が裏口から侵入し、各々の戦闘を繰り広げていた頃、託哉はおもちゃで遊んでいた。



 表口から《玖凪一門》の人間が襲撃するのと時を同じくして、参波清彦は萩原夕貴を伴い、裏口から侵入を開始した。
 作戦が失敗するとは微塵も思っていない――それでも清彦が、いくつかの不安要素を見据えていたのは確かだ。
 例えば、萩原夕貴の同行に関して。
 実を言うと――清彦の本心としては、夕貴の同行に否定的だった。
 夕貴が武道を習い、確かな実績を表の舞台で残しているとしても、それは裏社会では何の武器にもならない。少なくとも、清彦一人のほうが作戦の成功率は高い。それは夕貴本人も気付いている事実だろう。
 そして、最大の不安要素は――玖凪託哉だ。
 もちろん彼が、清彦と比肩しうる戦力であるのは間違いない。むしろ小細工なしに衝突すれば、殺されるのは清彦のほうかもしれない。年の功による経験や鍛錬してきた時間の差を考慮すれば、まあ何とか互角以上には戦えるかもしれない、といったところか。
 それでも清彦にとって、託哉は絶対的な不安要素だった。【高臥】にしてみれば、犯人グループを生け捕りにしたいというのが本音。実力が拮抗した相手ならばデッド・オア・アライブでも致し方ないが、アウトロー数人を無力化する程度ならば、死をちらつかせなくとも可能のはず。
 しかし託哉は――否、《玖凪》の名を冠する人間は、そういった損得勘定が頭にない。人殺しに寛容的で、肯定的。生かして捕えることが可能な相手であっても、託哉はなるべくなら殺そうとする。
 つまり清彦が心配しているのは、この作戦が成功したあとのことだ。犯人グループを制圧しても、捕えた相手が死体と化していたら意味がないのだから。
 薄暗い倉庫の中を駆けながら、清彦は作戦終了までの流れを脳裏で反芻する。
 第一に、菖蒲の救出。
 第二に、犯人グループの制圧。
 第三に、玖凪託哉の暴走を阻止。
 この全ての目的を同時にフォローするためには、夕貴に菖蒲の救出を担当させるのが最も摩擦のない選択だった。清彦が菖蒲のところに向かってしまうと、夕貴を危険に晒す可能性が高くなるし、なにより託哉のほうにまで目がいかなくなる。
 坂倉健太の話によれば、表口付近に二人、裏口付近に二人、菖蒲の見張りが一人とのことだった。
 事実、清彦と夕貴の前に立ちはだかったのは、金髪ホスト風の男と、陽気そうな男の二人。恐らく前者が新庄一馬、後者が高橋陽介だろう、と清彦は当たりをつけた。
 現状、作戦はスムーズに進んでいる。どのような状況だろうと臨機応変に対応できるように、プランは優先度の高いものを”A”として、最悪の事態を想定した”E”まで考え、夕貴と託哉に伝えていた。しかし今のところ状況はプラン”A”のまま進んでいる。
 清彦としては『表口に三人、菖蒲の見張りに二人』や、『菖蒲の見張りに二人、裏口に三人』という異色の構成だった場合を心配していた。どんな幸運な事態だろうと、それが清彦の予想していなかったものならば、忌避はしても歓迎はできない。
 戦闘という行為は、その勝敗の九割近くが戦う前から決まっている――これが参波清彦の持論だった。
 予定していたとおり、新庄一馬と高橋陽介の二人を清彦が引き受け、夕貴は菖蒲の監禁されている居住スペースへと向かう。
 しかし、清彦たちがどうしても菖蒲を助けたいのと同様に、犯人側はどうしても菖蒲という人質を奪取させたくないというのが本音。
 夕貴が居住スペースに向かっていると判断した男たちは、清彦に見向きもせず、夕貴を排除しようとした。
「――てめえ! そのツラぁ忘れてねえぞ!」
 長い金髪を整髪料によってセットし、ホストのような装いをした一馬が吼える。聞けば彼は、大衆の前で夕貴に恥をかかされたらしく、その逆恨みにも似た私怨が、今回の事件を引き起こしたそもそもの発端だという。
 菖蒲を助けようと、無我夢中で居住スペースに向かう夕貴の背に、一馬がナイフを振り下ろそうとする。
 ――が、それを見逃すほど、参波清彦は優しい人間ではなかった。
「ぐっ――あぁ……!?」
 直後、男たちの足が止まる。
 夕貴の行動を阻害しようとしていた一馬と陽介は、混乱と苦渋が混じった声を上げると共に、まるで子供のように片足でケンケンをした。
 それを一瞥し、清彦は告げる。
「ふうむ、どうやら君たちに対する認識を改める必要がありそうですね。私たちの襲撃を感知してなお、童心に返る余裕をお持ちとは」
 銀縁の眼鏡を外し、スーツの前ポケットにしまう。
 その憮然とした様子の清彦を見て、一馬は解せないと声を荒げた。
「……て、めえ……なに、しやがった!?」
 一馬と陽介の利き足から滴り落ちる、赤い血。
 突如として機動力の要となる足にダメージを受けた彼らは、その原因を作ったであろう清彦に視線を向ける。
 少なくとも清彦は、拳銃も、ナイフも――いや、武器を所持しているようには見えない。つまり丸腰である清彦に遠距離攻撃を受けたという事実が、彼らを混乱の渦に突き落としているのだろう。確かに清彦は、これといった武器を手に持っていなかった。
 ――表向きは。
「なにをした、と言われても困ってしまいますね。もっとご自分の目を信用なさってはいかがですか?」
「あぁ!? ふざけたこと言いやがって! マジでぶっ殺すぞ、てめえっ!」
「ふむ――まあ大声を張り上げることによって相手を威嚇したい、という君の意図は掴めるのですが、正直、耳に悪いので止めていただけますか? それと語彙力も不足しているように思います。何か不都合があればすぐ『殺す』と口にするのは、頭の悪さが露呈するので止めたほうがよろしいかと」
 飽くまで冷静に返す清彦の言葉は、しかし男たちを逆上させるだけ。
「おい陽介! こいつに地獄見せんぞ!」
 そう一馬が促し、陽介が足に流れる鋭い痛みに耐えながら金属バットを構えた瞬間――ようやく彼らは気付いた。
 足に――なにか小さな物体が突き刺さっている。
 一馬と陽介は、それを反射的に投げナイフだと看破し、すぐさま引き抜こうとした。しかし肉を抉った刃物を取り出すのは、一般の人間が想像しているよりも遥かに大きな苦痛を伴う。
 どうしてナイフを投擲されたことにも気付かなかったのか――そんな不可解な感情を滲ませながら、ようやくナイフを引き抜いた彼らは、血に濡れた刀身を見るのと同時、すべてを理解した。
 ――本来であれば銀色に輝くはずの刃が、闇のように黒く塗りつぶされている。それも刀身だけではなく、取っ手さえも真黒に塗装されていた。
 確かに――この月光も届かぬ室内と、この影がカタチを成したような投擲ナイフならば、男たちに気取られずに攻撃することが可能かもしれない。
 それでも男たちは、不可解だ、分からない、と顔を歪ませる。
 突入した瞬間から今の今まで、清彦はずっと丸腰だったはずなのに――と。
「まだ裏社会の入り口でイタズラをする程度なら可愛げがあったのですが――君たちも運がない。よりにもよって、菖蒲お嬢様に手を出すとは」
 もう一度、清彦の手から黒塗りのナイフが放たれた。刃渡り五センチほどのそれは殺傷性こそ低いが、獲物の動きを封じるには最適。
 一切の予備動作を排除した投擲運動は、警戒していたはずの一馬と陽介でさえ気付けなかった――さきほどナイフを引き抜いたばかりの箇所に寸分違わず、二本目のナイフが刺さる。まるで吸い込まれるが如く。
「――私は”抜いていい”と許可していないはずですが」
 身悶える二人を見据えて、清彦は言う。
「……お、まえ……どうやって――っ!?」
 声を荒げた新庄一馬は、そこで言葉を失う。
 今度こそは見逃さない――と注意していた一馬の目を潜り抜けて、清彦が再びナイフを握っていたからだ。
 男たちにしてみれば手品のように見えるだろうが、実際は何のことはない仕掛けである。ただスーツの袖口に仕込んでいた刃物を、次から次に取り出しているだけの話。
 ――裏社会において、全身に仕込んだ暗器を用いて戦うことで知られる《参波一門》に生を受けた清彦にしてみれば、これは呼吸するに等しい動作。
 慈悲もなく放たれた投げナイフが、男たちの利き腕に刺さった。相手の重心や、筋肉の微妙な発達の違いを見れば、普段から使っているほうの腕や足を見抜くのは容易。そして、それを真っ先に潰すのは《参波一門》の定石であり、常識だった。
 ところで清彦は、よく人から「定規を当てたように真っ直ぐな背筋」と言われるが――それはある意味、この上なく的を射た発言だった。
 清彦の姿勢がいいのは『紳士の嗜みとして』ではあるが、元はと言えば、それは礼儀作法のために身につけたものではない。
 孫の手で背中を搔くように後ろへ手を回した清彦は――そこから一つの暗器を取り出した。
 常時、背中に『定規を当てるように』して隠していた『仕込み杖』。携帯するための刀。殺傷力こそ本場の日本刀に劣るが、相手に気取られることなく持ち運ぶには最適だ。
 何の装飾もない質素な白鞘から刃を引き抜く――さきほどまでの投げナイフとは違い、仕込み杖の刃は月光を吸収するような銀色。
 清彦を丸腰だと思っていた男たちにとって、いきなり敵が長柄の武器を取り出したという事実は、戦意を消失させるに相応しいものだった。
 それでも金髪ホスト風の新庄一馬と、陽気そうな高橋陽介は、最後の意地でナイフと金属バットを構えた。【高臥】の一人娘を誘拐した彼らは、犯罪に手を染めたのだから、この場を乗り切らないと文字通り人生が終わる。だから一馬と陽介には、逃亡や謝罪といった逃げ道は残されていない。
 投げナイフの刺さった足を庇いながらも駆け寄ってくる男たち。
 清彦は迎え撃つのではなく、むしろ衝突するように自らも接近した。
 
 横薙ぎに一閃する刃が、一馬のナイフを叩き折り。
 返すように一閃した刃が、陽介の手から金属バットを奪い去った。

 驚愕する二人は、隙だらけを越えて動かぬ的に等しい。
 その場で回転した清彦は、一馬の腹に回し蹴りを叩き込み、そのまま勢いを殺さず、陽介の足を仕込み杖の刃で浅く切り裂いた。
 迸る激痛に耐え切れず、彼らは絶叫。
 しかし声を張り上げることは、すなわち肺にあった空気を全て吐き出すということでもある。肺が空っぽの状態で息が吸えなくなると、気を失ったほうが遥かにマシだと思えるほどの苦痛が訪れる。
 足を押さえて蹲ろうとする陽介の腹に、清彦は拳打を繰り出した。あまりにも的確にツボを抑えた拳は、横隔膜に強いダメージを与える。目を見開いた陽介は、口端から唾液を垂れ流しながら、その場に崩れ落ちて痙攣する。これで一時間はまともに動けないだろう。
「――陽介! くっそ、てめえ!」
 さきほど蹴られた腹を押さえながらも立ち上がった一馬が、神経質そうにセットされた金髪を振り乱しながら叫ぶ。
 返す言葉は持たず、低姿勢を維持したまま清彦は疾走。
 長い金髪を乱暴に掴んだ清彦は、近場にあったコンクリートの壁に一馬の頭を打ち付ける。顔面に衝撃を受けた一馬は、鼻血を出しながら悶絶した。
 清彦は、右手にあった仕込み杖を捨てると、袖口から投げナイフを一本取り出す。時を同じくして、左手で一馬の手を掴むと、それを近くにあった木製のテーブルに載せた。
 そして、テーブルに一馬の手を縫いつけるように、清彦はナイフを振り下ろす。
「ぐっ――ああぁああぁ、あああぁぁぁぁぁっ!」
「大の男がみっともない。私は顔の肉を切り裂かれましたが、声一つ上げませんでしたよ」
 そう言って、清彦はずり下がった眼鏡を上げようとした――が、そういえば胸のポケットにしまったままだったことを思い出し、ため息とともに眼鏡を装着。
「それと」
 仕込み杖の刀身を白鞘にしまい、それを背中に戻してから、清彦は言った。
「――口の聞き方には気をつけたほうがいい。”てめえ”と言われる度に、貴様を殺そうと我慢するのが大変だった」
 反論する声は皆無。
 もう新庄一馬と高橋陽介の二人には、戦意も、敵意も、殺意もなかった。ただ《参波一門》という戦闘のプロフェッショナルによって与えられた未曾有の激痛に身悶えることしか、今の彼らにはない。
 ――その他を寄せ付けぬ圧倒的な暴力によって、日本の裏社会に広く名を轟かせる零から玖の漢数字を冠する家系は、俗に《武門十家(ぶもんじっけ)》と呼ばれる。
 《武門十家》は、純粋な名声こそ《十二大家》に劣るものの、それぞれの家系が特異かつ特殊な格闘術を継承しており、裏社会において悪名的なネームバリューを持つ。
 よって《参波一門》を知らなかった時点で、この男たちは”ひよっこ”なのだ――
「これは――まずいですね」
 閉鎖された空間に生じた暴力的な”乱れ”を感じ取るのは、そう難しいことではない。
 この音楽スタジオに改造された倉庫の中――表口のほうから、過剰なまでの”乱れ”を清彦は感じた。恐らく玖凪託哉が、犯人グループの一部を制圧してなお執拗に攻撃を加え続けているのだろう。
 菖蒲の救出に向かった夕貴は――どうやら無事のようだ。誰かと争っている気配こそするものの、状況は夕貴のほうが圧倒的に有利で、間もなく決着もつきそうだった。空手で全国二位にまで上り詰めた実力は本物らしい。
 一呼吸の間だけ思考に時間を費やした清彦は、まず託哉を止めることにした。犯人は全員生かして捕えたいというのが【高臥】および《参波一門》の総意。
 ――そうして歩み去る清彦は、新庄一馬の目に狂った光が宿っていたことに気付いていなかった。



****



 菖蒲が監禁されている居住スペースに立ち入った瞬間、俺という侵入者を排除しようと横合いから拳が飛んできた。
 回避は間に合わない――咄嗟に右腕を盾にすることにより、なんとか顔面へのダメージを防ぐことができた。顔には顎や目を始めとした人体急所が密集しているので、何を差し置いても守らなくちゃいけない。
 防御した右腕に重たい衝撃が伝わり、骨の髄まで痺れが走る。これは間違いなく武道を嗜む人間の攻撃だ。
 一方的な展開になることだけは避けたい――とりあえず抵抗の意を示すために、俺は攻撃が飛んできた方向に向かって闇雲に拳を繰り出した。
 手応えは、ない。
 でも相手が飛びのいたような気配があった。
「――あの体勢から反撃するとか無茶苦茶だな、おまえ」
 呆れたような、それでいて、どこか褒め称えるような声。
 ほとんど真っ暗と言ってもいい室内に満ちた闇を、小さなランプの明かりが所在なさげに削っている。薄ぼんやりと浮かび上がる視界には、簡易ベッドや本棚、デスク、チェアーなどが見受けられた。
 そして。
「……夕貴、さま」
 ぽつりと漏れたのは、幽霊を見たかのような声。
 簡易ベッドの近くに――菖蒲の姿があった。
 両手を手錠によって繋がれ、身体や制服に埃を被り、美しい鳶色の長髪は乱れていたが――それでも菖蒲は、気弱そうに明かりを放つランプよりも、光っているように見えた。
 明らかに憔悴した面持ちの菖蒲は――無事だった。
 確かに清潔とは言えない様子ではあるけれど、あいつらに何かをされた痕跡はないし、ちょっとだけ眠そうにした二重瞼の瞳も、まだ力を失っていない。
 無事。
 菖蒲が、無事。
 俺は悪魔の血を引いているとかナベリウスのやつが言っていたが、それでも今だけは言わせてほしい。
 神様、本当にありがとうございます――と。
 すぐさま菖蒲に駆け寄りたいというのが本音だけど、そう上手く事が運ぶはずもない。
 俺と菖蒲を隔てるようにして、一人の男が立っている。精悍な顔立ち、短く刈り込んだ髪、側頭部に入ったライン、鍛え抜かれた身体、なにかを為そうとする意思に満ちた瞳――ただ一目見ただけだが分かった。こいつが坂倉健太の言っていた、犯人グループのリーダーである荒井海斗だと。
 ……ちくしょう、手の届く距離に菖蒲がいるってのに!
 歯噛みする俺とは対照的に、荒井海斗は泰然とした笑みを浮かべる。
「なるほど。おまえが一馬の言ってた萩原夕貴か。確かに女みてえな顔してやがる」
「んなもん知るか。そこを退け」
「おいおい、女しか目に入らないってか? さすが全国空手道選手権大会で名を馳せた男は違うな」
「……なんで、それを知ってる」
「さあな。でも一度でいいから、お前と闘り合ってみたかった。夢は親父に潰されちまったが、それでもお前をぶっ倒すことができりゃあ、俺もいくらか救われるよ」
 言って、荒井海斗は構える。
 明らかに空手か、それに準ずる武道に通じている者の構えだった。
「勝手に救われてろ。俺は空手になんか興味ねえよ。ただガキなりに強さってのを求めて適当な武道に手を出したら、それが空手だっただけの話だ」
 小さい頃は――母さんを護るに相応しい男になろうと必死だった。
 子ども扱いされることが嫌だった。
 誰かに褒められても嬉しくなかったし、誰かに褒められるために頑張ってきたんじゃない。
 ただ、母さんを護りたい。
 そう願って、努力して、手に入れた今の強さが――俺の誇りだ。
 この力があれば、菖蒲を護れると俺は確信している。
 未来は変わる。
 俺が死ぬなんて未来は、あっさりと変わるんだ。
 菖蒲の見ている前で――俺は生きて、あいつを救ってやるんだ。
 第一、俺ほど男らしいやつが死ぬなんて、世界にしてみれば途方もない損失だろうし。
 ふと、菖蒲を見つめてみる――すると彼女は、今にも泣きそうな目で俺を見ていた。見守ってくれていた。
 それに笑顔で頷いて、俺は荒井海斗に向き直る。
「行くぞ」
 と、海斗が言って。
「勝手に来いよ」
 そう、俺が返す。
 ――言い終わるが早いか、海斗の姿がブレたように見えた。
 予想していたよりも遥かに洗練された動き。これほどの腕前ならば、現役の頃はさぞかし有名だったはずだが、俺は『荒井海斗』という名前を聞いた覚えがない。
 一息の間に接近してきた海斗が、鋭い呼気を吐き出しながら、拳を繰り出してきた。獣のように荒々しく、機械のように正確無比な、理想的と言ってもいいほどの拳打。
 それを回避せず、防御せず、俺は――俺も、パンチを繰り出してやった。
「――っ!?」
 驚きの気配。
 互いの顔面に拳がクリーンヒットした衝撃で、俺たちは同時にたたらを踏んだ。
 一瞬、気が遠くなる。
 それでも俺は菖蒲を救うため、海斗は菖蒲を奪わせないため――それぞれ違った目的のために顔を上げる。
「……お前、馬鹿だろ」
 口から血の混じった唾を吐き出して、海斗が笑う。
「うるせえ。てめえこそ馬鹿だろうが」
 真似したつもりは微塵もないが、俺も口から血の混じった唾を吐き出し、笑ってやった。自分たちでもなぜ可笑しいのか分からないが、不思議と笑みがこぼれるのだ。
 いまの俺には遠回りする余裕なんてない。多少、傷ついてもいい。ただ真っ直ぐに、菖蒲の元に向かいたい。
 立ちふさがる障害物が壁だろうが人だろうが――あるいは拳だろうが関係ない。全部、真正面からぶっ潰してやる。
 互いに距離を保ち、タイミングを計る。
「……?」
 冷静に海斗の姿を観察していると、微かな違和感に気付いた。
 武道において重心は基本であり、それを効率よく動かすのが軸足だ。
 体重を乗せた足を”実の足”、体重を浮かせた足を”虚の足”と呼ぶ。”実の足”に十の体重を乗せた場合、”虚の足”の体重は零にする。スムーズに攻撃の動作に移るためには、この”虚実”を併せ持った状態を維持するのが前提。
 にも関わらず、海斗の重心が微妙にズレているというか――そう、アンバランスなのだ。まるで片足を庇っているような動き。かつて俺は、大きな怪我を負った人間が、リハビリ明けに練習に顔を出したとき、あんな動きをしていたことを道場で見た記憶がある。
 ……なんとなくだけど、分かってしまった。
 きっとこの荒井海斗という男は、選手生命に関わるような大怪我を負い、表の舞台に立てなくなったんだ。
 本来であれば手加減の一つもしたいところだが――それは荒井海斗にとって、侮辱にしかならないだろう。
 むしろ今は、菖蒲を助けるためならば、どんな卑劣なことだってできる気分なんだ。
 だから――全力で行かせてもらう……!
 素早く駆け寄った俺は、大きく身体を捻り、腰を限界まで使った上段回し蹴りを仕掛けた。相手の側頭部を狙いとして、海斗という男の存在さえも刈り取るつもりで、手加減なしの蹴りを放つ。
 回避は間に合わないと悟ったのか、海斗は左腕を上げて防御に徹して――瞬間、確かな手応えが、互いの身体を駆け抜けた。
 海斗は苦痛に顔を歪めながらも、俺の脚を払いのけて、攻撃に転じる。
 その動きを観察する――いまの海斗は、右足が”実の足”、左足が”虚の足”という状態。
 よって、何らかのアクションに出るためには、海斗は右足を”虚の足”、左足を”実の足”に変えるようにして重心を移動させる必要がある。
 だが。
 一連の動きを見ていて何となく分かったが、海斗は右足に重心を乗せることに抵抗感がある。恐らく、かつて怪我をしたとき、右足を庇うように生活していた影響が無意識のうちに出ているのだろう。
 俺の思惑どおり――海斗は右足から左足に重心を移動させながら、拳打を放った。
 しかし、シフトウェイトに齟齬が生じ、維持しなければならないはずの”虚実”に微かな綻びが発生した。
 それは転じて、この確かな武道の才を持った荒井海斗という男に隙をもたらし、純粋な才能だけならば劣る俺に絶対的な好機を生んだ。
 迫りくる拳をいなし――俺自身は完璧な”虚実”を併せ持ちながら、海斗に反撃する。
 だが右足に重心を乗せることに抵抗感を持つ海斗は、効率よく”虚実”の変換ができない。いま現在、彼は左足に体重を乗せ、右足を浮かせている状態。それが攻撃の姿勢だとすると、右足に体重を戻すことが防御の姿勢なのだが、過去に負った何らかのトラウマが、海斗のシフトウェイトを阻害する。
 ――勝敗は、あっさりと決した。
 躊躇いもなく骨を折ることはできないが、躊躇いもなく海斗を戦闘不能に追いやった。
 荒い息をつきながら、大の字になって床に寝転ぶ海斗に、俺は告げる。
「……強いな、おまえ」
 すると、海斗は精悍な顔立ちに似つかわしくない、きょとん、とした目をしたあと、満足げに笑った。
 それはどこか、長いマラソンを走り終えた人間の顔に似ていた。
「……ありがとうな」
 なぜか。
 海斗は礼を言った。
 まるで、こんな自分と決闘してくれたことを感謝するように。
 できるなら――この荒井海斗という男と、本当の大舞台で、正々堂々と、互いの体調が万全のときに試合してみたかったと。
 俺は、そう思った。
 肺に溜まった熱い息を吐き出し、菖蒲に向き直る。
 全てをやり遂げたような満足感が身体を包む。
 菖蒲を護ってやることができた。
 重国さんがくれたチャンスを生かすことができた。
 なにより――菖蒲の視た”萩原夕貴の死”という未来を、菖蒲の見ている前で変えてやることができたんだ。
 ゆっくりと歩き出そうとした俺は、菖蒲が何かを叫んでいることに気が付いた。
「――ゆ、っ――さま――し――!」
 なぜか耳が遠くなって、よく聞こえない。
 水の中に潜ったときのように視界がおぼつかず、ぐらぐらと脳が揺れる。
 背中が燃えるように熱い。まるで焼けるように。灼熱が迸る、という表現がぴったりの、熱。
 足が揺らぎ、真っ直ぐ立つことができず、俺は顔から地面に倒れてしまった。
 鈍い痛みが頬に生じ、俺は顔を歪める――が、やはり背中の熱さのほうが気になって、他のことにまで思考が回らない。
 遠くのほうでは菖蒲が瞳からしとどに涙を流しながら、必死の形相で声を張り上げている。
 一体、菖蒲は何が言いたいんだろう? もっとはっきり喋ってくれたらいいのに。
 ああ――それにしても背中が熱い。
「一馬! てめえ何してやがる!」
 怒声が聞こえた。
 荒井海斗の怒声。
 驚愕に目を見開いた海斗が、部屋の入り口に立つ誰かに向けて、菖蒲と同じように叫んでいる。
 俺は背中に走る熱に耐えながらも、ゆっくりと顔を上げた。

「……ひ、はは、ひゃはは、くっあはははははははははっ!」

 耳障りな笑い声。
 そこに立っていたのは――鼻血を出し、右手にナイフで貫かれたような穴を開け、全身に掠り傷を負った、金髪ホスト風の男。
 一馬と呼ばれたそいつは、なぜか手に刃物を持っている。
 しかも、驚くことに刀身の部分が血で真っ赤だ。一体、あれは誰の血なんだろう。一馬の鼻血が付着した、と考えるには、ちょっと無理があるよな。
「――なあ海斗! オレぁやってやったぜ! そうだよなぁ!? オレたちゃ犯罪者なんだもんなぁ!? 邪魔するやつぁ片っ端からぶっ殺してやりゃいいだけの話じゃねえか!」
 高笑いしながら、一馬は嘯いた。
 まったく、殺すとか物騒なことを言うやつだ。誰がてめえなんかに殺されるもんか。菖蒲が見ている前で暴力を振るうのは気が引けるけど、ちょっと俺が黙らせてや――
「……ぐっ、が――!」
 立ち上がろうとした瞬間、尋常じゃない痛みが身体を駆け抜けた。それは鎖のように全身を縛りつけて、萩原夕貴という人間の自由を奪っていく。
 なんだ。
 なんだってんだ。
 困惑する俺の指元に、どこかで見たことがあるような赤い液体が流れてきた。トマトジュースのようにも見えるが、ちょっと鉄のような臭いもするので、まあ血が妥当だろう。
「――夕貴様! イヤです! こんなの、イヤぁぁぁぁっ――!」
 今まで聞いたこともないような菖蒲の、絶叫。
 髪を振り乱し、目からボロボロと涙をこぼし、菖蒲は俺に駆け寄ろうとする――しかし腰が抜けたのか、上手く立つことができないようだった。
 おかしい。
 未来は変わったってのに、どうして菖蒲は泣いてんだ。
 菖蒲には涙なんて似合わない――だから俺が拭ってやる。いや、まあ確かに菖蒲の泣き顔も可愛いとは思うんだけど、あの子には太陽みたいな笑顔のほうが映えるんだ。
 すでに俺の周りには、小規模の血溜まりが広がっていた。血の脂のせいで手が滑って、なんだか気持ち悪い。
 ……ああ、そっか。
 自分でもなぜなのかは分からないけれど、唐突に悟った。
 背中が熱いのも。
 上手く立てないのも。
 血が流れるのも。
 菖蒲が泣いてるのも。
 海斗が怒声を上げたのも。
 一馬が狂った目で高笑いしてるのも。

 ――俺が刺された。

 そう考えれば、すべて納得がいくじゃないか。
 敵であるはずの海斗が怒っているのは、きっと一馬が刃物を使ったからだろう。俺たちは初対面だが、それでも海斗という男は何があろうとも喧嘩に拳以外の凶器を用いることはないはずだ、と俺は理解していた。
 血液が大量に抜けたからか、身体が寒い。歯の根が合わず、カチカチと音がする。それなのに背中だけが異様に熱かった。
 視界が霞む。猛烈に眠い。気を抜けば瞼が落ちそうだ。こんな睡魔、今まで味わったことがない。でもこの眠気に負けてしまうと、俺はもう二度と目覚めることができないような気がする。
 ……嘘だろ?
 俺、こんなところで死んじまうのか?
 まだ何もしてねえじゃねえか。
 これまで密かに考えてきた、母さんに親孝行する計画も、まだ何も実現してねえだろうが。
 櫻井彩の秘密を――背負っていくんじゃないのか。
 お母さんと会えない女の子の分まで、俺が母さんを護ってやるんじゃないのかよ。
 第一、ナベリウスはどうすんだ?
 あの銀髪悪魔は――あんなアホみたいな女と一緒に暮らせる男は、俺ぐらいしかいねえだろ。
 それに菖蒲は?
 ここで俺が死ねば――菖蒲はどうなる。
 菖蒲の見ている前で、最悪の未来が実現してしまえば――あの子は、きっと壊れる。
 そんなの。
 ……イヤだ!
「く――そ、っ――」
 立ち上がろうとするが、体から力が抜けていく。出血と共に、運動に必要な熱と体力が削られていく。
 なんとか菖蒲に手を伸ばすが、それが届くはずもない。
 見ていて悲惨なぐらい涙を流す菖蒲を慰めてやりたくて、お前が泣く必要なんてないんだよ、と抱きしめてやりたいけれど――その資格を神様が奪っていったのかと思うぐらい、俺の体は動かない。
 諦めるわけにはいかない。
 ここで俺が諦めちまったら、菖蒲は二度と未来を信じることができなくなる――それだけは許せない。だから俺は文字通り死ぬ気で立ち上がろうとする。
 それでも――無理だ。
 精神や根性で何とかなる領域を遥かに超えた問題。
 懸命に『菖蒲の視た未来を変えてやろう』と足掻く俺は、きっと無様という言葉を見事に体現していて、笑ってしまうぐらい格好悪いだろうが、それでも諦めることはできない。
 だってさ。
 約束したんだ。
 菖蒲を護ってやるって。
 菖蒲の言う未来を信じてやるって。
 なにより、俺自身に誓ったんだよ。
 菖蒲が視た『萩原夕貴の死』という未来を、あっさりと変えてやるって。
 だから俺は、こんなところで死ぬわけには――
「…………え」
 そのときだった。
 俺の目に――絶対に見たくなかったものが飛び込んできた。
 きっと、その光景は、これから萩原夕貴という人間の心に焼きついて、生涯消えることはないだろう。

 ――それは。
 ――何とも残酷で、悲しい光景。
 ――あれだけ俺に向かって泣き叫んでいた菖蒲が。
 ――なにかを諦めたように、顔を俯けた。
 ――もう俺は助からない、と見切りをつけたように。
 ――やっぱり私の未来は変わらないんだ、と理解したように。

 菖蒲のあんな顔だけは――見たくなかった。
 絶望に泣き崩れていた菖蒲が、もはや感情を映すこともなく、壊れた人形のように俯き、呆然とする姿なんて。
 未来を信じることを諦めた姿なんて――絶対に見たくなかったんだ。 
「……ざ、けんじゃ……ねえ」
 言っただろうが。
 俺の命よりも。
 おまえとの約束よりも。
 憧れてる女の子のお願いよりも。
 ずっと、ずっとおまえのほうが大切なんだって――そう、言ったじゃねえか。
 なのに、どうしてそんな顔すんだよ。
 そんな簡単に諦めんなよ、馬鹿野郎!
「……お、れ……は、おま、……え、を……!」
 護ってやりたいんだ。
 お前の言う未来を信じてやりたいんだ。
 そうだ。
 俺は死ぬのが怖いわけでも、命が惜しいわけでもない。
 ただ、菖蒲の視た未来を変えたいだけ。
 そのために『俺が死ぬ』という未来を変えなければならない。
 そうじゃないと菖蒲は――駄目になっちまう。
 菖蒲のためならば、俺は神様だろうが悪魔だろうが何にでもなるし、運命だろうが未来だろうが変えてみせるし、奇跡だって起こしてみせる。
 未来ってのは凄いんだ。
 未来ってのは素晴らしくて、信じるに値する最高のもんなんだよ。
 だから――未来を視てしまうがゆえに、未来を恐れるようになった菖蒲を放っておくことはできないんだ。
 信じてほしいんだ。
 未来を、信じてほしいんだ。
 菖蒲は誰よりも未来を信じるべきだ。そう父親からも望まれた証を、あの子は持ってる。
 そんな菖蒲には不幸ではなく――幸福こそが似合うと。
 菖蒲が信じることを止めないかぎり、幸福はいつまでもあの子と共にあるのだと。
 そう。
 俺は思うんだよ。
「――っ、ぅっ、ぁ――!」
 キィン、と耳鳴りがする。
 あぁ、なんだか頭が痛い。
 心臓が疼く。
 背中だけじゃなくて全身が燃えるように熱い。
 耳鳴りが酷すぎて、海斗の怒声も、一馬の高笑いも耳に入らない。
 マジでなんだってんだ、この耳鳴りは。
 もしかして――これが死んじまう前兆だってのか。
 ……そんなの、許せるもんか。
 だって。
 だってよ。
 俺が死んじまったら――菖蒲の視た”人の死ぬ未来”が現実になっちまったら。
 あの子は。
 高臥菖蒲は――今度こそ駄目になっちまう。
 ……なあ神様。
 奇跡でも何でもいいからよ。
 俺に力をくれよ。
 生きたいわけじゃねんだ。
 怖いわけでもねえんだ。
 ただ俺は、菖蒲の悲しむ顔を見たくないだけなんだよ。
「――っ、あ――!」
 鼓膜を侵すような耳鳴り。
 心臓が熱い。
 何がどうなってるのか分からない。
 それでも――これだけは言える。
 俺は菖蒲の悲しむ姿なんて絶対に見たくないんだ。


 ――だからさ、菖蒲。
 お前の視た未来は、俺がこの手で変えてみせるよ――



****



 音響機器が共鳴したときに発生するような、大きな不快感を伴う高音が鳴り響く。
 音楽スタジオに改造された倉庫にいる人間は当然として、漁港の各所で待機していた《参波一門》の者たちですら、その異常を感じ取った。
 鼓膜を侵し、脳そのものを揺らすような耳鳴り。
 それは明らかに生理的な現象によってもたらされたものではなく――なにか人為的な、外部からの影響が人体に浸透した結果、発生したものだと誰もが気付いていた。
 意識を揺らすほど強烈な耳鳴りは、もはや”耳鳴り”というよりは、一種の災害に違いない。
 音楽スタジオにいた玖凪託哉は、予想外の衝撃に顔を歪め、その場に膝をついた。
 暴走する託哉を止め、菖蒲の元に向かおうとしていた参波清彦は、長年愛用していた眼鏡のレンズにヒビが入ったのを見た。
 絶望していた高臥菖蒲は、脳裏に響く甲高い音に意識を奪われつつあった。
 キィン、と響く、果てしない高音。

 ――それは、
 ――とある少年の願いがカタチとなった、
 ――どこまでも純粋な、
 ――ハウリング。

 漁港の闇に紛れるようにして事態を見守っていたソロモンの序列を持つ大悪魔は、心底複雑な気持ちで重い腰を上げた。
「……まずいわね」
 潮風に揺れる長い銀髪を指で押さえ、一度だけ夜空に浮かぶ満月を見上げる。
 漁港を包み込んだ膨大な波は、俗に『Devilment Microwave』と呼ばれる。日本語に直訳するとDマイクロ波。『悪魔の所業』を意味するデビルメントを冠したマイクロ波は、人体の大小の筋肉に軽微の痙攣をもたらし、耳鳴りを起こす。
 少量のDマイクロ波は人体に何の影響も及ぼさない。しかし悪魔が《ハウリング》という異能を行使する際には、それこそ膨大なDマイクロ波が必要になる。つまり、この耳鳴りは、誰かが《ハウリング》を発露させたということなのだが――
 絶対零度を司る彼女は、もともと静観に努めるつもりだったので、この耳鳴りには関与していない。
 消去法に準ずると、自然、誰が《ハウリング》を行使したのかはすぐに分かる。
「――夕貴」
 祈るように呟く。
 確かに、かの少年が悪魔として覚醒する可能性は十分にあった。しかし、それは何かの弾みで傾くほど軽い天秤ではない。十九年もの間、人間側に傾いていた秤なのだ。恐らく瀕死の傷を負ったとしても、萩原夕貴の内にある秤は微動だにしなかっただろう。
 死という絶対的な壁に直面しても動かないはずの天秤が――動いた。
 いまの自分では不可能な何かを為すために、夕貴は人間ではないものに目覚めてまで、その願いを叶えようとしている。
 それ自体は、彼女にとっても悪いことではない。むしろ喜ばしいといってもいいだろう。悪魔として覚醒することにメリットはあっても、デメリットはないのだから。
 これから先、恐らく――あの少年が歩む道には幾多の苦難が待ち受けている。ゆえに己の身を護るだけの力は必要になってくるはずだ。
 ただ、不用意に《ハウリング》を行使するのは自殺行為だ。
 《悪魔祓い》や《法王庁》にはDマイクロ波を感知する術があるし、彼女の同胞であるソロモンの悪魔たちは総じてDマイクロ波を知覚する能力を持つ。つまりDマイクロ波を大量に放出することは、いらぬ外敵をおびき寄せる原因にもなる。
 だから、一刻も早く少年を止める必要があった。
 迷いはない。
 肩にかかった銀髪を手で払ったあと、彼女は疾走した。悪魔と称するに相応しい身体能力で、宵闇に包まれた漁港を駆け抜ける。《参波一門》の敷いた包囲網を掻い潜り、目的地である倉庫の上空数十メートルにまで跳躍すると、天に向かって手をかざす。
 全方位に指向性のないDマイクロ波を垂れ流すだけの少年とは違い、彼女のコントロールは完璧だった。指向性を持ったDマイクロ波は、中空に一本の巨大な氷槍を生み出す。
 ソロモン72柱が一柱にして、悪魔の序列第二十四位に数えられる彼女は、今度こそ主人を護るため、舞台に上るのだった。



****



 不思議な感覚だった。
 痛みも、熱も、恐怖も、不安も、震えも――消えていく。
 全身を鎖で縛り付けられた挙句、重い鉛でも乗せられてるんじゃないか、と疑うほど微動だにしなかった体は、確かな活力を取り戻し、立ち上がることさえ可能にしていた。
 背中にあった刺し傷が治癒していく。
「――なんだぁ!? こ、こりゃあ何なんだよオイっ!?」
 狂った光を目に宿し、これでもかと高笑いをしていた新庄一馬は、激しい耳鳴りに恐怖し、死の淵から蘇った俺に困惑しているようだった。
「てめえ、なんで立てんだよっ! オレがこの手でぶっ刺してやったはずだろうが!?」
 じりじりと後退りながら、一馬が悪魔でも見るような目で俺を見る。
 その瞳に浮かぶのは、畏怖の色。理解の範疇を超えた何かと出会ってしまったとき、人はこんな顔をすると思う。
 狼狽する一馬が煩わしかったので、ちょっと口を閉ざしてくれないかな、と念じてみた。
「――ぎ、あっ、ぎゃあああぁぁああぁぁあぁぁぁっ!?」
 聞くに堪えない悲鳴が上がる。
 どうしたんだろう、と思って見てみれば、一馬が目、鼻、口、耳から血を流して悶絶していた。毛細血管でも切れたのか、顔から血の涙や鼻水を垂れ流している。
 それと同時に、俺の足元に広がっていた液体であるはずの血溜まりが、数え切れないほどの弾丸という固体となって、一馬の体を穿っていく。まるで血液が意思を持ったかのように。
 近場にあったナイフや金属片すらも見えない糸に操られるように動き出し、一馬の全身を斬りつけ、傷つけていった。
 俺は内から溢れる破壊衝動を抑えるように、血に塗れた左手で顔を覆った。指の隙間から覗く景色は、それこそ阿鼻叫喚。
 血液が凶器となり、金属が武器となった光景は、まさしく悪魔の描いた地獄絵図に他ならなかった。

 血液を変化させて、金属に作用する。
 まるで――ありとあらゆる鉄分を支配するように。

 あぁ、それにしても耳鳴りがひどい。
 何も考える気が起きない。
 そんな俺でも、菖蒲の無事だけはしっかりと確認していた。彼女は耳鳴りに耐え切れず気を失ったようだ。大丈夫、命に別状はない。血液の流れを見れば一目瞭然だ。いまの俺ならば、菖蒲の体調を菖蒲本人よりも正確に把握することが出来る。
 だから。
 菖蒲を護りきるためにも、悪意を持つ人間は排除しなければならない。
「――たっ、が、ぎい、す、けっ、ぐっ――た、た……す、け……てく、ぎいぃぃぃ――!」
 血まみれになった体を丸めて、一馬が朱色の涙を流しながら懇願する。
 その姿に、思わず失笑した。
 ……こいつ、俺を殺そうとしやがったくせによく命乞いができるよな。
 果たして――俺はどうするべきなのか。
 こいつを助ければいいのか。
 こいつを殺せばいいのか。
 ……分からない。
 あまりにも耳鳴りがひどすぎて正常に思考が働かない。
 もういいや。
 考えるのは面倒くさい。
 とにかく菖蒲を護ればいい。
 菖蒲を傷つけるヤツは排除すればいいんだ。
 そうするのが手っ取り早いよな、きっと。
 ぼんやりとした頭で決定を下した俺は、一馬に向けて歩き出そうとして――足が動かないことに気がついた。
「――っ?」
 強烈な冷気を感じる。
 よく見れば、俺の足が凍っていた。それも膝のあたりまで満遍なく、俺の動きを封じるように。
 ――直後、倉庫そのものを揺らすような衝撃が走る。まるで神が鉄槌を下すように、天から何かが落下してきた。土埃が舞い、視界を覆いつくす。常温だったはずの倉庫に流れ込む、針のように冷たい冷気。
 天井を突き破るようにして現れたのは、軽自動車ほどはありそうな巨大な氷槍。無骨にして威厳に満ちた氷の刃。
 それを見て、俺はなぜか胸が温かくなるのを感じた。

「――止めなさい、夕貴。それ以上は貴方のためにならないわ」

 子供を叱責する母親のような声。
 氷槍から遅れること数秒、破壊された天井を通して、見慣れた女性が降りてきた。着地の際、ふわりと銀髪が舞い踊り、月光を反射する。
 彼女は――ナベリウスは、呆然とする俺を認めると歩み寄ってきた。
「……大丈夫よ。もうここに敵はいないから」
 そう言い、俺の頭を自分の胸元に抱くようにして、ナベリウスは諭す。
「夕貴は頑張ったわ。だから、もういいのよ」
 優しく髪を撫でられる。
 トクン、トクン、とナベリウスの胸から聞こえる音が、俺の心を落ち着けていく。人肌の体温は、どうしてこうも心地いいのか。ナベリウスに抱きしめられると、あれだけ煩わしかった耳鳴りが、ゆっくりと収まっていった。
「――ぁ、ぐっ!」
「安心しなさい。何があっても、わたしが夕貴を護ってあげるから。そうでしょう? ねえ、ご主人様?」
「ナ、ベ……リウス」
「喋らないで。いまは気持ちを落ち着けることに専念しなさい。まずは深呼吸を」
 言われたとおり、俺は大きく息を吸って、吐き出す。
「……うん、もう大丈夫そうね」
 俺から身体を離して、ナベリウスは笑った。
 その笑顔を見た途端、まるで憑き物が落ちたように体が軽くなった。これまでのことが悪い夢だったかのよう。自分でも驚くほど視界や意識がクリアになっていく。きっと近視の人が初めてコンタクトをつけたとき、こんな感じなんだと思う。
「……その、ナベリウス。俺は」
「はいストップ」
 人差し指を俺の唇に当てて、彼女は言う。
「もっと大切なことが今の夕貴にはあるでしょう?」
「……ありがとう」
 悪いな、とは言わなかった。
 きっとナベリウスが求めているのは謝罪じゃなくて、感謝だと思ったから。
 ナベリウスの気持ちを無駄にはできない――俺は彼女に背を向けると、部屋の端で倒れている菖蒲のもとに向かった。両手を手錠で繋がれているものの、目立った外傷はない。あえて言うならば、手首の皮を擦りむいているぐらいか。
 冷たいコンクリートに伏した菖蒲の身体を抱きかかえる。
 腕に伝わってくるのは、確かな温もり。
 こんな無力でちっぽけな俺でも、なんとか護ることのできた女の子の重みだった。
「……菖蒲」
 優しく揺さぶりながら、そう声をかける。
 それはアヤメという花にちなんだ名前。
 父親から与えられたという、未来を信じる者に相応しい名前。
「……ん、ぁ――」
 悩ましげな吐息が漏れる。
 綺麗に線の入った二重瞼が震えたかと思うと、春を迎えた花のように開いていく。
 何度かぱちくりと瞬きをする菖蒲は、まだ意識がはっきりしていないようで、ぼぉーとした目で俺を見ている。
「……よう」
 上手い言葉が見つからず、当たり触りのない発言になった。
 すると、それがきっかけだったのかは分からないけれど、生気のなかった菖蒲の瞳に力が戻っていく。
 大きく見開かれた瞳には涙が滲み、溢れ、透明色のしずくが頬を伝っていった。
「……夕貴、様……ですよね?」
「ああ」
「本当に……夕貴様、ですよね?」
「ああ」
 とめどなく流れる涙。
 身体を起こした菖蒲が、俺の胸元に飛び込んでくる。
「これは、夢じゃないですよね? 菖蒲は、信じても、いいのですよね……?」
「当たり前だろ。疑ってどうすんだよ」
 こんなときに。
 こんなときに――気の利いた台詞をさらっと言えたら、きっとモテるんだろうけどなぁ。
 今まで女の子と付き合った経験がないから、この場に相応しい言葉が思いつかない。
 とにかく菖蒲に泣き止んでほしいと思い、そのために色々と思考を巡らせてみたが、どうも適当な言葉が出てこない。
 だから、まあ。
「菖蒲」
 名を呼ぶと、彼女は顔を上げた。
 見つめあう。
 視線が交錯する。
 ナベリウスが空けた天井の穴から、柔らかな月明かりが菖蒲を祝福するように降り注ぐ。埃や汗で汚れているはずなのに、彼女は美しかった。
 ただし、瞳から伝う涙だけは頂けない。いやまあ誤解のないようにもう一度だけ言っておくと、泣いている菖蒲も可愛いんだけど、やっぱりこの子には笑顔のほうが似合うと思うんだよ。
 菖蒲の涙を止める一言。
 それは。
「――どうだ菖蒲。おまえの視たつまんねえ未来なんか、俺があっさり変えちまったよ」
 しまった。
 わりと男前な言い回しのつもりだったのが、実際に口に出すと、なんかスベってるような気がしてきたというか、ただの勘違い野郎が言いそうな台詞に思えて、微妙に後悔してきた
 俺は優しげな笑顔を浮かべつつ、内心では『どうしよかな、言い直したほうがいいかな』と密かに悩んでいた。
 そのとき。
「……いいです」
 菖蒲は涙に濡れた瞳を和らげて、俺の胸に顔を埋めたあと、小さな声で言った。
「……わたしが夢で見たあの未来さえ外れなければ、いいんです」
 それは高臥菖蒲という少女が視た――果てしなく遠い未来の、夢。
 この男らしさだけが取り柄の俺みたいなやつにできることは少ないだろうけど――それでも、こんな俺でも、せめて女の子の涙ぐらいは止めてあげたいと思うのだ。
 俺は一人、菖蒲の小さな体を抱きしめてやりながら、この子が泣き止むその時まで、胸を貸してあげようと心に誓うのだった。 




[29805] 1-13 添い遂げる者
Name: テツヲ◆c49d9b75 ID:366fa69a
Date: 2011/10/19 22:23
 高臥菖蒲の救出及び犯人グループの制圧を目的とした作戦は、まあ紆余曲折はあったものの、無事に終わりを告げることになった。
 誘拐を企てた六人の男たちは、それぞれ入院が必要になるほどの怪我を負っていたが、命に別状はないという。
 もしかすると、あいつらは社会的に抹殺されるんじゃ……? と、俺は微妙に心配していたのだが、どうやら高臥重国という人の器は空よりも大きく、海よりも深いらしい。
「貴重な労働力を無駄にはできん。菖蒲に危害を加えたことは許せんが、かといって奴らを抹殺しても利は生まれん。あの男たちには【高臥】監視の下、社会に貢献できるような立派な人間になるよう矯正してやる。当然、罪を償わせ、しかるべき罰を与えたあとでな」
 要するに、真っ当な人間に仕立て上げてやるから覚悟してね、ということだ。
 重国さんが大見得を切ったのだから、あいつらが社会復帰する頃には悪事の”あ”の文字も出ないぐらい人格が変わってしまっているかもしれないが――
 それでも将来、愛する人を見つけて、子供をもうけて、孫の顔でも見たとき――いまの自分があることに感謝する日が、きっと来ると思うのだ。
 これは参波さんから伝え聞いた話だが――彼ら六人には、共通して凄惨な過去があったという。
 夢を断たれた者、妹を強姦された挙句に殺された者、恋人が不慮の事故で死んだ者、借金を遺して両親が蒸発した者、子供の頃から聞くに耐えない陰湿なイジメに晒されてきた者、母に捨てられ孤児として育った者。
 心に負った傷に差異はあれど、誰しもが例外なく性根を捻じ曲げられるほどの辛い過去を生きてきた。
 偶然にも彼ら六人は出会い、仲間となり、それまで溜まったストレスを発散するように悪事を働いてきた――その結果が、今回の事件だ。
 もちろん同情するつもりは一切ない。
 それでも。
 純粋に、絶対に、一から十まで完全な憎悪を彼らに向けられるか、あいつらに対して一片の情けもないか――と聞かれると、俺は首を傾げざるを得ない。
 彼ら六人の中でも、俺が一番印象に残っている男が――荒井海斗。
 海斗の父親は、一年ほど前に亡くなっている。詳しい話は分からないが、複雑な家庭の事情があったみたいだ。
 でも海斗は一人じゃない。彼には生き別れた母親と妹がいる。そして今回、海斗が逮捕されたことを機に、面会というかたちで家族は顔を合わせた。これまで海斗の荒れた生活を知らなかった母親と妹は、涙を流しながら、まだやり直せる、一緒に暮らそう、と言ったのだそうだ。
 いつの日か。
 綺麗な顔で前を向き、薄暗い曇天ではなく、晴れ晴れとした青空を見上げることができるようになった海斗と、もう一度だけ相見える日が来たのなら。
 そのときは、菖蒲を誘拐しやがったことに対して苦言を並べたあと、二人で酒でも飲んでみるのもいいかもしれないと。
 俺は、そう思うのだ。
 そういえば――と、何かのついでのように振り返るのも可哀想な話なのだけれど、俺の親友こと玖凪託哉くんは、驚くべきことに無傷のようだった。
 喧嘩したことがない、とか言ってやがったくせに、託哉は犯人グループのうち二人も生け捕りにした。
 本人曰く「いやー夕貴ちゃんにも見せたかったなー。オレの華麗なる戦闘振りを。まあぶっちゃけ、不意をついた挙句、ラッキーパンチが当たっただけなんだけどね。てへっ」とのこと。誰が夕貴ちゃんだ。
 とにかく託哉が無事でよかった。あんな軽薄な野郎でも俺の友人には変わりない。でも武器を持った男二人を無力化するほどのラッキーパンチが炸裂するとか、託哉はもう明日あたりに死ぬんじゃないだろうか。運を使い果たした的な意味で。
 さて。
 これで事件は、一端の終結を迎える。
 男らしいことだけが取り得の俺みたいな大学生には荷が重過ぎる事件だったけれど、過ぎ去ってみれば一瞬だった。自分が何をしたのかもあまり憶えていない。
 でも、それでいいと思う。
 菖蒲が無事だったのなら――それで、いいと思うんだ。



 事件の二日後。
 萩原邸のリビングには俺と、菖蒲と、そして重国さんの姿があった。
 すでに夜の八時を回っているので、窓の外は暗く、心地のいい静けさが住宅街には満ちている。いわゆる一家団欒の時間というやつで、この時間に出歩くような人は、まあ少数派だろう。
 数日前までは大規模な人数を動員していた重国さんも、事件が解決してしまえば多少は自由の身となるらしく、今日は車の運転手が一人と、黒服のボディーガードが二人の、計三人しか連れていなかった。参波さんは諸々の事後処理に追われていて、この場にはいない。
 俺と話がしたい――そう、重国さんは言った。
 ナベリウスに席を外してほしい、と改まって告げたところを見ると、どうやら大切な話のようだ。その証拠に、重国さんはスーツを、菖蒲は学校の制服を着ている。わざわざ正装しているぐらいだから、少なくとも世間話ではないだろう。
 リビングのダイニングテーブルに腰掛ける俺の真正面に重国さんが座り、そのとなりに菖蒲が座っているという構図。
「まずは礼を言おう」
 口火を切ったのは重国さんだった。
「参波から話は聞いた。おまえは俺の娘を救出するのに一役買ってくれたそうだな。やはり菖蒲の見る目は正しかったというわけだ」
 これは褒められている……のか? 
 重国さんと話をするだけでも緊張するのに、感謝と賞賛の言葉まで重ねられると、ひたすら恐縮してしまう。
 俺は小さく頭を下げて、なるべく気丈に言った。
「ありがとうございます。僕が役に立てたのかは分かりませんが、菖蒲を助けることができたのは自分でも誇れる結果だと思っています」
 顔を上げると、菖蒲と目が合った。
 ――誘拐されたことにより憔悴していた菖蒲も、病院で点滴を受け、一晩ぐっすり眠ると、なんとか元気を取り戻した。
 事件自体は、およそ午後六時に発生し、午後九時半には決着という早期解決だった。つまり事件の解決が早かった分だけ、菖蒲にかかる負担も軽減されたわけだ。まだ目の下に隈があったり、笑みに力がなかったりはするけれど、日常生活に支障をきたさない程度の活力をいまの菖蒲は持っている。
 俺と重国さんが大切な話をしている、と分かっているからか、菖蒲は余計な口を挟もうとしない。
 それでも俺と目が合うたびに、菖蒲は温かな笑顔を送ってくれる。
 なぜか誘拐事件が発生する前よりも、菖蒲が俺を見る目には熱が篭っているような気がしなくもないが――まあそれは差し迫った案件でもないので棚上げしておくことにする。
 でも、こうして並んで見ると、やっぱり菖蒲と重国さんは似ていると思う。
 雰囲気という点では、清楚で柔らかな物腰の菖蒲と、威圧的で存在感のある重国さんなので、あまり似ていないのだが、なんというか、顔立ちに面影があるというか、とにかくこの二人は親子なんだなぁ、と納得する何かがある。
 実を言うと、事件解決から今日まで、菖蒲は高臥の本邸にいた。療養に専念していたというわけである。
 そして、およそ三十分ぐらい前に、重国さんは菖蒲を伴って萩原邸を訪れた。
 そのとき俺が驚いたのは、重国さんが過剰なまでに菖蒲を心配していたことだ。玄関の段差とかでも手を差し伸べたり、歩くときは常に菖蒲の肩に手を回していたりと、初対面で殴られた俺としては、重国さんが見せる心配りに驚愕せざるを得なかった。
 父親がいない俺としては――すこし菖蒲が羨ましい。
 ぼんやりと思考を巡らせていた俺は、重国さんが声を発したことにより我に返った。
「さて、萩原夕貴。次に、お前を使えない男と呼んだことを詫びよう」
「……お父様? 夕貴様に、そのような暴言を口になさったのですか?」
 重国さんの服を引っ張って、ちょっと不機嫌そうに菖蒲が言う。
「ああ、確かに言った。しかし」
「もういいです。お父様の言い訳など聞きたくありません」
 ぷいっ、とそっぽを向く菖蒲。
 珍しく困ったような顔というか、まるで飼い主に捨てられた子犬のような顔をした重国さんは、俺の視線に気付くと、こほんと咳払いした。
「……話が逸れたな。そろそろ本題に戻ろう」
 相変わらず不機嫌そうに顔を背けた菖蒲の様子をちらちらと伺いながら、重国さんは――

「お前が菖蒲を助けてくれたことには礼を言おう。しかし今後、菖蒲は【高臥】の本邸で生活させる。お前たちの逢瀬も認めん。異論はあるか」

 ――承諾できようはずもない事柄を、決定事項のように告げるのだった。
 俺が反論しようとするよりも早く、バンっ、と鈍い音がリビングに木霊した。それは菖蒲がテーブルを叩いて、椅子から立ち上がった音。
「――お父様! そんな話、わたしは聞いていません!」
 顔を真っ赤にして憤る菖蒲とは対照的に、重国さんは鷹揚と構えている。
「瑞穂に言われなかったか。淑女たる者、みだりに声を荒げるものではないと。母の忠告は聞くものだ」
「ここでお母様を引き合いに出すなんて卑怯です! わたしが聞きたいのは、そんなことじゃなくて……!」
「菖蒲。これは決定事項だ。覆す気はない」
「そんな……! わたしは!」
「俺が決めたことだ。覆らん」
「……お父様は、なにをお考えになっているのですか」
 力なく着席した菖蒲は、俯いたまま搾り出すように問いかける。
「決まっている。娘を幸せにするためだ。お前に幸福を与えるためならば、俺は手段を選ばん。それだけ言えば分かるだろう」
 唇を噛み締め、菖蒲は沈黙。
 恐らく――反論するだけ無駄だと悟ったのだろう。
 いまの重国さんは、もはや父親ではなく、高臥家当主の顔をしている。こうなった重国さんは、例え愛する娘の意見でも――いや、愛する娘の意見だからこそ、耳を傾けない。
 だから重国さんの真意を聞くのは、俺の役目だった。
「菖蒲を幸せにするため、と言いましたよね。僕には菖蒲がここに滞在したいのか、高臥家の本邸に帰りたいのかは分かりませんが」
「――わたしは」
 遮るようにして、菖蒲は言う。
「夕貴様と、一緒にいたいです――」
 涙で潤んだ瞳。
 それは明らかに重国さんの決定を悲しんでいる姿だった。
 しかし、菖蒲の悲哀に暮れる顔を見ても、重国さんの言葉は変わらない。
「萩原夕貴。確かにお前は娘を救ってくれた。それは認めるし、感謝もしよう。だが、お前が俺の娘を危機に晒した、という事実は変わらん」
「……それは」
「これまでの経歴を見れば、お前が優秀な男だということは分かる。しかし、俺が欲するのは英雄ではなく、菖蒲を任せるに相応しい男だ」
 つまり。
 俺は菖蒲を任せるに相応しい男じゃないと――そう重国さんは言いたいのだ。
「……わたしは、夕貴様以外の殿方と結ばれるぐらいなら、生涯独り身を貫きます」
「滅多なことを言うものではない。男が女を幸せにするのが義務ならば、父には娘の幸福を願う権利がある。お前に相応しい男は、俺が見つけよう。だから頑なになるな」
「……お父様は間違っています。第一、高臥直系の女児が見る予知夢は絶対だと仰ったのは、お父様とお母様ではありませんか。わたしは夕貴様と添い遂げる未来を視たのです。だから――」
「確かに、【高臥】の予知夢は外れた試しがない。しかし何事にも例外は存在する。お前を不幸にする未来など、俺が絶対に変えてみせよう」
 重国さんの意思を変えることができるのは、重国さんが認めた男だけ。
 そして、俺は認められなかった。
「帰るぞ、菖蒲。まずは落ち着いた環境で、身体を癒すことに専念しろ。精神的にもダメージは残っているはずだ。この場にいても、お前の心労は募るばかりだろう」
 椅子から立ち上がった重国さんは、菖蒲の手を引いて、半ば無理やり連行しようとする。
 菖蒲は髪を振り乱して抵抗するが、重国さんは握力を緩めない。
「嫌です! お父様、離してください! わたしは夕貴様のお側にいたいのです!」
「一時の感情に流されるな。俺はお前のためを思って言っているんだ」
「わたしのためを思うのでしたら、今すぐこの手を離してください! わたしは――高臥菖蒲は、夕貴様と添い遂げる未来しか歩みたくありません!」
 断固として父の決定に逆らう菖蒲を見て、重国さんは苛立たしげに舌を打ち、
「いい加減にしろ。もっと柔軟な思考を持て。いいか、菖蒲。お前が視たという、この男と添い遂げる未来など――」
 
 ――絶対に信じるな。

 俺を失望させる一言を、口にしたのだった。
 その言葉を聞いた瞬間、俺は勢いよく椅子から立ち上がっていた。
 父親の決定であるのなら、それは赤の他人である俺が否定していいものではないと――そんな賢明かつ臆病な考えに至っていた俺は、しかし、もう黙っていることはできそうにない。
「おい、その手を放せよ」
 目上の人間に、菖蒲の父親に、高臥家の当主に――俺はそう言った。
 重国さんは菖蒲の手を掴んだまま、ゆっくりと振り返る。その眼差しは鋭く、明らかに不愉快そうだった。
「――今、なんと言った」
 恐ろしいまでの威圧感。
 それでも俺は堂々と胸を張る。
「聞こえなかったのか。その手を放せって言ったんだよ」
「小僧――誰に口を利いているのか、分かっているんだろうな」
「当たり前だろ。俺はあんたに話しかけてんだよ、重国さん」
「いい度胸だ。一応聞いておくが、それは俺が誰であるのか知った上での言葉なのだろうな?」
「知らないわけねえだろ。知らなかったら、こんな口は利けねえよ」
「よく言った。この高臥家当主、高臥重国に」
「――違うだろうがっ! 俺は高臥家の当主様なんかと話してねえよ!」
 重国さんの名乗りを聞いて、俺は心底失望した。
 視界が赤く染まる――それほどの憤怒が湧き上がってくる。この抑え切れない怒りを発散するために、この馬鹿な男の目を覚ますために、俺は腹の底から叫んだ。
「俺が話してるのは――”菖蒲の父親”としてのあんただろうが!」
「…………」
 息を呑む気配。
 重国さんのとなりでは、菖蒲が瞳に涙を浮かべて俺を見ていた。
「さっきから黙って聞いてりゃ独りよがりなことばっかり言いやがって! あんたみたいな男が、どうして娘を幸せにできんだよ! なにより――!」
 なにより。
 俺が泣きそうなぐらい悲しかったのは。
「自分の娘に”菖蒲”と名付けたあんたが――どの口で未来を信じるなって言えんだよっ!」
 そうだ。
 重国さんは誰よりも未来を信じてるはずなんだ。
 重国さんは誰よりも菖蒲の未来を案じているはずなんだ。
 高臥家の歴史なんて知らないし、”未来予知”という異能がどこまで正確なのかも分からないけれど。
 それでも――重国さんは娘を愛している。
 その何よりの証拠が、”菖蒲”という名に他ならない。
「あんたの言うとおり、俺には何の力もねえよ! 自分で言うのも馬鹿みたいだが、俺みたいな男は菖蒲に相応しくないだろうさ! ああ、認めてやる! 俺は無力で、情けなくて、恥知らずな男だ! それに比べて、あんたは憧れちまうぐらい優秀で格好いい大人だよ! だから――」
 そんなあんたが。
 人の上に立つべき人間が。
 菖蒲をここまで育ててきた人が。
 自分の娘に”菖蒲”という名を授けたあんたが……!
「――俺の今後の一生を賭けて、お願い申し上げます! 俺はどうなってもいいんです! だから、どうか――」
 みっともなく。
 恥も外聞もなく。
 俺はその場に土下座して、フローリングの床に額を擦りつけながら、懇願した。

「どうか……菖蒲が信じる未来を、奪わないでやってください……!」

 せっかく『未来は変わらない』という妄念を突き崩すことができたんだ。
 だから、前を向いた娘を否定するようなことだけは――しないであげてほしい。
「……そんな……止めてください、夕貴様……!」
 駆け寄ってきた菖蒲が、俺の肩を掴んで体を起こそうと促してくる。
 でも、それに逆らうように、俺は土下座を続けた。
 重国さんが許してくれるまでは絶対に頭を上げないと――そう心に決めていたから。
「夕貴様、お願いですから……菖蒲のために、そんなことをしないでください!」
 すすり泣く声。
 菖蒲が思わず泣いてしまうほど、いまの俺はみっともないってことなんだろうな。
 でも悪いな、菖蒲。
 おまえのお願いは聞けないよ。
 誰にだって譲れないものがあるように、萩原夕貴という男にとっても譲れないものがある。
 だから俺は頭を下げ続けるよ。
 ……果たして、俺が土下座を敢行してから、どのぐらいの時間が経ったのか。
「つまらん」
 この嫌な膠着を破ったのは、他の誰でもない重国さんの声だった。
「……見る目がない」
 自嘲気味に呟いた重国さんは、わずかに苦笑すると、なにも言わず踵を返した。
 俺が慌てて顔を上げると、そこにはもう重国さんの姿はなく――代わりに、さきほどまではきっちりと閉めていたはずの廊下に通ずる扉が、所在なさげに揺れていた。
 しばらくして、萩原邸の外から車の排気音が聞こえてくる。遠ざかっていくロードノイズを聞いて、俺はほとんど直感的に、重国さんが帰ってしまったんだと理解した。
「……どうなってんだ?」
「さあ……どうなっているのでしょうか?」
 俺と菖蒲は顔を見合わせて、氷解しない疑問を突きあう。
 もう俺との逢瀬は認めない――そう断言していた重国さんが、菖蒲を残して帰ってしまったという事実。
 これが意味するところは、きっと一つだけだろう。もしも俺に自惚れが許されるのならば、自分に都合よく物事を湾曲して捉えていいのならば、やっぱり答えは一つしかない。
「……あー、その、おかえり?」
「あっ、はい……えっと、ただいま?」
 それは何とも締まらない、共同生活再開の合図だった。



 重国さんのお許しが出てから三日後の夜。
 まあ厳密に言うと、重国さんは何も言わずに立ち去ってしまったので、果たして本当に菖蒲の滞在が許可されたのかは分からない。しかし、あれから重国さんがアクションを仕掛けてくるようなこともないので、黙認されている、と考えるのが自然っぽい感じではある。
 もともと菖蒲の衣服や日用品は、萩原邸の客間に置きっぱなしだったので、共同生活を再開するのに支障はなかった。
 午後九時過ぎ。
 俺はやや遅めの風呂から上がったあと、キンキンに冷えた缶のコーラを手に、自室のベッドに腰掛けていた。やっぱり風呂上がりには炭酸飲料が合うと思うのだ。異論は認めない。
 手持ち無沙汰となったので、テレビをつけて適当にチャンネルを回してみる――すると、液晶の中に見慣れた顔が映った。これは満を持して視聴せねばなるまいと思った俺は、音量を二割増しぐらいに上げて、リモコンをベッドに放り投げた。
 それは大御所のバラエティ番組。キャリアのある司会を中心に、ひな壇に座っている芸人やら女優やら俳優やらアイドルが面白可笑しくトークするというもの。何人かのレギュラー人はいるが、基本的には毎回ゲストが変わる仕組みだ。
 ……やっぱり可愛いなぁ。
 うんうん、と再認識しつつ、俺はぐびりとコーラを呷る。
 テレビに映っていたのは――『清楚・オブ・清楚』の異名を勝手に俺がつけた女優『高臥菖蒲』さんだった。菖蒲は白を基調とした衣装を着て、行儀良く椅子に座りながら、司会者の話を聞いている。
 テレビ中継の野球を見るおっさんのように画面に食いつく俺。
 ――そのときである。
 芸人の一人が「菖蒲ちゃんだって年頃の女の子なんだから、彼氏の一人や二人ぐらいいるんじゃないの~?」とかアホなことを言い出しやがった。そこそこ好きな芸人だったが、俺はいまこいつのことが嫌いになった。異論は認めない。
 もちろん菖蒲は否定するが、スタジオは『菖蒲のような美人に彼氏がいないわけがない』というムードなので、追求の手は止まない。
 それを見ていた俺は、応援しているチームの選手がエラーを起こして相手チームに一点を取られてしまったような気分に陥った。
「……けっ、菖蒲ちゃんに彼氏がいるわけねえだろうが」
「そうですね。まったくもってそのとおりです」
 ふと耳元で声がした。
 恐る恐る振り返ってみると、そこには淡いピンク色のパジャマを着た菖蒲が立っていた。
「――なっ! なっ、なっ!」
「なすび?」
「びっ、びっ、ビーカー!」
「カエル?」
「るっ、るっ、ルビー……って、なんでしりとりが始まってんだ!?」
「奇遇ですね。菖蒲も疑問に思っておりました」
「そのわりには冷静じゃねえか! ……いや違う、いまは無駄話してる場合じゃない。俺が本当に聞きたいのは、なんでここに菖蒲がいるのかって話だ! だって、ほら、そこにっ!」
 と、テレビの液晶を指差す萩原夕貴くん。
 風呂上がりなのだろう――薄っすらと湿った鳶色の髪を手櫛で梳きながら、菖蒲は言う。
「あぁ、それは前に収録していたものですね。当時は忙しかったので正確な日取りは思い出せませんが、数週間か、あるいは数ヶ月前に録ったものではないかと」
「へえ、そうなんだ……」
 テレビにいる菖蒲と、俺のとなりにいる菖蒲を交互に見る。もちろん、どちらを見ても俺の視界には『高臥菖蒲』しか飛び込んでこないのだが、だからこそ混乱するというか、とても不思議な気分になるのだった。
 菖蒲が女優だということは理解していたが、こう、テレビに映っている彼女と、現実に俺のとなりにいる彼女を見比べると、より現実味が増すというか。
 今日は部屋の鍵を閉めていなかったので、菖蒲は普通に入ってきたようだった。
 しかし、無断で部屋に入ったことを咎めておいたほうが、この子のためになるかもしれない。
「あのな菖蒲。おまえも分かっていると思うけど、念のために言っておくぞ。人様の部屋にノックもなしに入るのは駄目なんだ。行儀の悪いことなんだ。ナベリウスの部屋とかならともかく、ここは男の部屋だ。しかも夜、女の子がお風呂上がりの姿で男の部屋にやってくるとか、色々と勘違いされても文句は言えないぞ」
「……勘違いなさっても構いませんのに」
 可愛らしく唇を尖らす菖蒲。おまえは小鳥か。
 ――いや、落ち着くんだ萩原夕貴。心の中でツッコミを入れてどうする。とにかくあとで耳掃除をしよう。そうだ。耳掃除をするんだ。じゃないと俺は勘違いをしてしまう。間違った勘違い野郎になってしまう。それだけは避けたい。
 あまりに意味深な菖蒲の発言を聞いてしまった俺は、昂ぶる本能を鎮めるために何度も深呼吸する。
「……んしょ」
 と、男の胸にハート型の矢が刺さること間違いなしの愛らしい掛け声と共に、菖蒲が俺のとなりに腰掛けてきた。
 ふわりと柑橘系の香りが鼻腔をくすぐる。まだ幾分か髪が湿っているので、シャンプーの香料も強めに残っているのかもしれない。
 菖蒲は俺が愛用しているボディーソープを密かに使っているらしいが、なぜか俺よりも、菖蒲の身体のほうが甘い匂いがする。ちくしょう裏切りやがったなボディーソープの野郎。今度からちょっと多めに使っておまえの消費を早くしてやるぜ。ふん、後悔しても遅いからな……とかアホな考えが浮かんでしまう。
 俺たちは、菖蒲の出演しているバラエティ番組を見ながら、何をするわけでもなくベッドに腰掛けていた。
「……?」
 突然、ぱたぱた、と音がしたので、横目でとなりを見てみた。
「――ぶっ!」
 思わず口に含んだコーラを吐き出しそうになる。
 恐らく風呂上がりで身体が火照っているからだと思われるが、菖蒲は服の胸元をぱたぱたと仰いで、僅かばかりの風を欲していた。パジャマのサイズがすこし小さいのか、第一ボタンは外されていて、豊満な谷間がばっちり見えている。しかも肌が汗ばんでいるせいで、ありえないぐらい色っぽい。
 ――臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前。
 よし、これでもう俺は大丈夫だ。悪しき感情は封印してやった。
「え」
 しかし試練は絶賛続いているようで、次の瞬間、俺は思わず大口を開けて固まってしまった。
 なんというか事実を口にするのも憚られるのだけれども、それでも現実を見ろと言われて、俺に身に降りかかった出来事を端的かつ率直に説明するのであれば、なぜか風呂上がりで火照った体を持て余しているはずの菖蒲が俺にしなだれかかってきたというか、肩と肩がくっついちゃってるというか、まあ、とりあえずそんなところである。
 上はタンクトップ、下はジャージ、そんなラフという言葉を極めたような服装の俺は、剥き出しの肩や二の腕に、菖蒲の柔らかい身体の感触を感じた。
 やばい。
 そろそろ本格的に勘違いしてしまいそうだ。
 必死に封じている男の部分が狼さんとなって顕現しそうだ。
「……あの、夕貴様?」
「な、なんだっ? 断っておくが、俺は勘違いなんてしてないぞっ?」
「勘違い、ですか? よく意味が分かりませんが……ただ夕貴様と添い遂げる者として、菖蒲は常に貴方様のお側で、貴方様を見守りたく思います」
「貞淑だな。まあ菖蒲らしいけど」
「未来の妻としては当然かと。愛する殿方を支えるのは女の喜びなのです。夕貴様のお子も早く授かりたいですし」
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」
「えっと、どうして急に九字をお切りに?」
「気にしないでくれ。俺の中に潜む、邪悪な欲望を吹き飛ばすためだ。臨、兵、闘、者、皆、陣――」
「……我慢なさらなくても構いませんのに」
「あー耳掃除しよ。なんか今日は耳の調子が悪いなー。むしろ頭の調子がおかしいのかもなー。明日あたり病院でも行こうかなー」
 もう限界だった。
 あと数分でもこの場にいれば、俺は菖蒲を押し倒してしまうだろう。
 だから醜態を晒す前に立ち去るのが吉だ。自分でも馬鹿だとは思うが、菖蒲の前では格好をつけたい俺がいる。
 とりあえず部屋から出て、水風呂にでも入ろう――そう決意し、立ち上がった俺は、しかし強い力で腕を引っ張られ、ベッドに引き戻された。
 からん、と中身のないコーラの空き缶が床に落ちる。
「――ぁ」
 その吐息にも似た声は、どちらのものだったか。
 俺たちは見つめあった体勢のまま――固まっていた。
 交わる視線の位置関係が、常時とは違う。普段は正面から交差するはずの視線は、いまは上と下から交わっている。
 ベッドに寝転んだ菖蒲と。
 その上に覆いかぶさるような体勢の俺。
 不可抗力か、あるいは偶然という名の介入者があったとは言え、俺が菖蒲を押し倒していることに変わりはなかった。
 倒れた衝撃で、菖蒲のパジャマは乱れてしまっている。はだけた胸元から見えるかたちのいい鎖骨が、やけに艶かしく見えた。腹部のほうもまくれ上がっており、小さなへそが顔を覗かせていた。
 なにより顔と顔の距離が近い。互いの吐息が肌で感じ取れるレベル。
 風呂のせいか、あるいは男に押し倒されたからか――菖蒲の体はぽかぽかと温かくなっていて、女の子特有の甘い匂いが強くなった。
「――あ、その、ごめん」
 謝罪の言葉を口にするが、体は動かない。それは純粋に、もっとこの体勢で菖蒲を味わっていたい、という俺の下種な感情がもたらした行動だった。
「……わたしは」
 抵抗どころか、身じろぎ一つしなかった菖蒲が動く。
 ぷるぷると果実のように瑞々しい唇から目が離せない。
「夕貴様を、お慕いしております」
 まるで願い事を口にするように、菖蒲は想いを吐露する。
「菖蒲はおかしいのです。夕貴様を想うだけで、菖蒲の身体は熱に浮かされたように熱くなります。夕貴様に触れられると、菖蒲の心は浮き足立ちますのに、それと同じぐらい胸が苦しくなるのです」
 言って、彼女は物憂げに瞳を伏せる。
「どうか、菖蒲に慈悲をください。こんなはしたない女に夕貴様が失望なさるのも無理からぬことですが、それでも」
 そこから先を、菖蒲は口にしなかった。
 ――ただ。
 本当に、ただ、としか言いようのない自然さで。
「……ん、ぁ」
 俺たちは――キスをした。
 どちらかと言えば人見知りで奥手の俺が、ここまで大胆な行動に出ることができたのは、ひとえに雰囲気の力が大きいと思う。
 甘くて、切なくて、胸が痛くなるような――雰囲気。
 柔らかい身体を組み敷きながら、俺は菖蒲の唇を愛撫する。柔らかな唇を互いの唾液で濡らすのは、何とも心を昂ぶらせる行為だった。
 ソフトなキスに満足できなくなった俺は、おっかなびっくりと舌を伸ばし、菖蒲の唇を割った。菖蒲は未知の感覚に一瞬だけ身体をびくつかせたが、すぐに自分の舌を伸ばし、俺のそれと交わらせた。
 ――ふと気付く。
 俺の位置から見えるテレビにはバラエティ番組が映っていて、もっと言えば、液晶には女優『高臥菖蒲』が映っている。
 果てしない優越感が胸に去来した。
 芸人や俳優たちが媚びた声で話しかけても、菖蒲は柔らかな笑顔で受け流すだけ。
 誰もが手の届かないはずの女の子が――いまは俺の腕の中で、その見事な肢体を震わせている。
「……菖蒲」
 少なく見積もっても、数分間はキスしていたと思う。
 気付いた頃には、バラエティ番組は終わってしまっていた。
「……いいのか?」
 鼓動がうるさい。
 自分でも何を言ったのか分からないほどの興奮と緊張。
 それでも。
「はい」
 菖蒲は潤んだ瞳で、小さく頷いた。 
「……どうか、夕貴様の手で、菖蒲を女にしてください」
 それは俺の背中を押すに十分な一言だった。
 テレビを消し、部屋の電気を消し――ベッドにもつれ込むと同時、菖蒲の身体を愛撫する。
 交わす言葉は多くなかったけれど、声として伝えなくとも互いのことが分かるぐらい、相手を求め合う。
 ――その夜。
 果てしない想いに突き動かされるように、俺たちはひたすらに愛し合った。


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