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〈昭和史再訪〉瀬戸大橋開通

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瀬戸大橋の途中にある与島パーキングエリアは、週末になると壮大な景色を楽しむ人でいっぱいだ=香川県坂出市

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1988年4月11日朝日新聞朝刊

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香川県立東山魁夷せとうち美術館の東山敏昭館長

■昭和63年 四国と本州を陸続きにした“夢のかけ橋”

 1988(昭和63)年4月10日午前4時38分、営業客車として最初に瀬戸内海を渡る「マリンライナー2号」が香川県のJR高松駅を出発した。

 一番列車を運転したJR四国の元運転士、宮崎宗久さん(71)は瀬戸大橋に入る前の坂出駅で歓迎を受け、花束を贈られた。いざ発車する時、乗り遅れた客がいたのか、エアブレーキが自動的にプスンとかかって驚いた。「ホームは人であふれていてお祭り騒ぎ。橋に差しかかると歓声があがった。島が眼下に見えて不思議な気がした」と話す。

 約40分後に岡山県の児島駅に着き、JR西日本の運転士に引き継いだ。「日本列島が一つにつながったんだなあと実感した」。3月には青函トンネルも開通していた。

 列車が渡った「瀬戸大橋」は、塩飽(しわく)諸島の島づたいに連なる六つの長大橋とこれらをつなぐ高架橋の総称。道路と鉄道の2階建て構造で、全長9368メートル。世界最長の道路鉄道併用橋だ。建設費に1兆1200億円をかけた。

 建設の契機となったのは、55年に起きた国鉄宇高連絡船「紫雲丸」の沈没事故。修学旅行中の小中学生を含む168人が死亡した惨事だった。

 香川県は57年、架橋計画に着手した。「もう夢でない瀬戸大橋」。こんな見出しを掲げた65年発行の県広報誌を編集したのは、後に県瀬戸大橋対策室長も務めた佐々木昌幸さん(83)。「東京大学工学部の模型実験の様子を自ら撮影してグラビアページをつくった。四国と本州をつなぐ“夢のかけ橋”の有用性を伝えなければという思いだった」

 ルート選定にあたって自治体の誘致合戦が激化。香川県では72年11月に「瀬戸大橋架橋促進預貯金運動」が始まった。預貯金を積み上げることで、工事費となる旧本州四国連絡橋公団の公団債を金融機関が引き受けやすくするためだった。「県民の熱意で架けよう瀬戸大橋」と呼びかけ、75年3月末までの目標額300億円に対し、400億7700万円が集まった。

 しかし漁業補償交渉が難航する中、着工予定日を5日後に控えた73年11月20日、瀬戸大橋を含む本州四国連絡橋の着工が突然、延期された。石油危機に伴う総需要抑制策だった。佐々木さんは翌年、県の企画部瀬戸大橋地元担当課長補佐になった。「係長から昇格したものの、『延期になったから仕事はないぞ』と同僚に言われた。ただ、着工までに解決しなければいけない課題が山積みで、結果的によかったのかもしれない」

 その後、77年11月に着工が正式決定。翌78年10月10日、坂出市で起工式が開かれた。「万歳三唱しながらうれしくもあり、地元対策や補償問題を考えると大変でもあり、という心境だった」と言う。

 坂出市内で農業を営む井上まき子さん(63)が橋の話を初めて耳にしたのは中学1年のとき。「必ず橋はかかるという先生の言葉を大人になっても覚えていた」。神戸市で働く娘は列車で帰省する。「船に比べ、霧や風で足止めされる心配がなくなった。橋は空気のように自然な存在」

 だが、企業誘致などの経済効果は期待に届かず、観光産業も開通時の熱気は冷めた。橋の中間に位置する与島のレジャー施設「瀬戸大橋フィッシャーマンズ・ワーフ」は11月末で休業する。

 坂出市の人口は開通当時の6万人台から、10年後に7万人を超えると期待されたが、現在は約5万5千人。同市瀬戸大橋対策室課長補佐を務めた渡辺基彦さん(67)は「坂出を橋下のまちにしてはいかんと頑張ってきた。便利にはなったが、まだ橋を上手に使いこなせていないのではないか」と言う。(青山祥子)

   

■車の通行台数 一日5万4千台

 本州四国連絡橋は瀬戸大橋に続き、1998年に神戸淡路鳴門自動車道、99年に瀬戸内しまなみ海道が開通した。海難事故が多発し、架橋誘致運動が活発化したことを受け、59年に建設省の調査が始まり、この3ルートに絞り込まれた。

 本州四国連絡高速道路の調査では、本州と四国間の1日あたりの車の通行台数はフェリーしかなかった84年の1万6951台に対し、2010年は約3.2倍の5万4042台に増加。JR四国が販売する瀬戸大橋線の定期券利用者数は1991年以降、1日片道あたり2千人を超え、通勤・通学者も増えた。一方で巨額の建設費などを返済するための地元負担が問題になっている。

  

■証言・香川県立東山魁夷せとうち美術館館長の東山敏昭さん(64)

 櫃石島(ひついしじま)(香川県坂出市)の出身です。東山魁夷画伯の祖父が生まれ育ち、瀬戸大橋の橋脚となった島の一つです。東山画伯は自身のルーツである島をたびたび訪れ、「暮潮」(1959年)を描きました。

 自然を描く画家だった東山画伯は、架橋事業に複雑な思いがあったようです。本四連絡橋問題検討小委員会の委員を務め、橋の色に瀬戸内海の風景と調和するライトグレーを提案。瀬戸大橋にも採用されました。

 瀬戸大橋ができるまで、島の交通手段は船だけでした。欠航も多く、病気になると医者が間に合わない不安がありました。島の家で火事があり、消防船が到着したときには燃え落ちていたこともありました。

 水道と電気も通っていなかったので、井戸水と自家発電機を使っていました。電気を長時間使うことができず、ランプやろうそくの明かりで高校受験の勉強をしました。

 橋ができて便利になりましたが、島の発展にはつながりませんでした。漁業の島だったので、橋を生かして商売する発想がなかったのでしょう。逆に治安への不安から、島民以外は島に降りられないようにゲートをつくってもらいました。

 島を出る若者が増え、人口は減りました。いまは島の外に住む子や孫が帰省しやすいように、通行料金やゲートの運用を改善してもらいたいと考えています。

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