特別番外編  「ワンコひみつの訓練所」


 まず断わっておかねばならないことだが、池澤真琴(いけざわまこと)巡査はただのアホンダラでもなければ、万年ヒラ巡査を決めこむ税金泥棒でもない。
 悔しいことに……とても腹立たしいことに、彼は警察官としては、ある種の天才なのだった。
 たとえば、今朝も通勤途中のコンビニで、指名手配中の殺人犯をひとり身柄確保し、さらに電車に乗って移動中、痴漢の被疑者を警察署に引っ立ててきた。警邏として街に出れば、空き巣、放火魔、銀行強盗……偶然にしろなんにしろ、よくもまあこいつの目の前に、ノコノコと現れる犯罪者が多いものだ。
 むろん、管内での検挙率は他者を寄せつけないぶっちぎりの一位。それを、数ヶ月も続けている。貰い受けた賞状など、ちり紙交換にだしたいほどだ。
 その上、見目麗しい外見の持ち主で、警察官採用ポスターやパンフレットのモデルまで引き受ける始末だ。男社会の警察で、八面六臂の大活躍、なおかつモデルとしても引っ張りだこのルックスの持ち主とくれば、普通なら、同性からの妬みそねみで足を引っ張られ、万年巡査に縛りつけられてるのだ、と思われることだろう。
 池澤が、所轄の署員に限らず被疑者にも被害者にも愛されるのは、明るくお人好しで、裏表のない性格だから、ということではもちろんなかった。
「へぇ……。それじゃ、おかねもちなんですね」
「まぁ、そんなもんですね。毎月振りこまれるお金のうち、生活費を除いた一千万は、信託に預けておしまい、みたいな」
 スーツ姿の被疑者は、鉛筆をなめなめ調書を取る池澤には目もくれず、懐から櫛を取りだすと、横の壁にはめこまれた四十センチ四方の鏡でヘアスタイルを整えはじめたのだった。
「痴漢の現行犯で逮捕された被疑者のくせに、ずいぶんデカイ態度だな」
 等々力潤一(とどろきじゅんいち)は、粗末なパイプ椅子に腰かけ、秘密の恋人が犯罪を前に奮闘する様子をマジックミラー越しに睨んでいた。
「あの年で、IT関連会社をいくつも経営する青年実業家――いわゆるヒルズ族ってヤツです。世の中カネでどうにでもなると思ってる、しょうがない連中です。しかし池澤巡査、ずいぶん大物を捕まえてきましたね」
 と、潤一に応えて控えの係官が身を乗りだす。
「大物なのか?」
「しっぽを掴んでやろうと、地検がずっと狙ってた男ですからね。逮捕と聞いて、色めき立ってますよ」
 男が身だしなみを整えるために向かいあっているのは、単なる鏡ではなく、捜査部門以外の警察官が取調室内をのぞいて、自白の強要などの問題行為がないかをチェックするための設備だった。音声の方は、天井に取りつけられた集音器で、鼻息だって聞き洩らすことはない。
「え? 新タクって……タクシーですか?」
 その言葉に、集音器を通じて、被疑者のかすかな嘲笑が聞こえた瞬間、潤一の眉間の皺がさらに深くなった。
 池澤は、人の非をとがめて捕らえることがオリンピックの種目にあったなら、間違いなく金メダリストである。だが、どういうわけか、捕らえたあとの取り調べとなるとからっきしなのだ。
 人間が大好きで、人を疑うことがあまり得意ではない男が、調書を取り、証拠をそろえ、検察に押送する、なんてことが、簡単にできるはずはない。
 被疑者は笑いをかみ殺しながら、
「いえ、あの、市場に投資して収益を得るタイプの。……お巡りさんは株とかに興味あります? 絶対儲かる情報教えちゃうんだけど……」
「ああ、カブトガニなら、俺の田舎にウジャウジャいましたよ」
 あまりのボケッぷりに、被疑者の男が仰けぞった。
「手に負えなさそうな大物なんか捕まえてくるな!」
 潤一も我慢の限界だった。パイプ椅子を蹴立てて立ちあがり、取調室の扉を蹴っとばすようにして開けると、右手で調書、左手で池澤のシャツの襟を引っ掴み、 「失礼」と一声かけてから飛びだした。



首根っこを掴んだまま、廊下を引きずっていき、手近な喫煙コーナーに飛びこむと、衝立で隠された奥のソファに突き飛ばす。
 池澤は、ユデダコのようになった潤一の顔を、ニヤニヤしながら見あげた。
「もう、等々力さんってば、真っ赤になっちゃって、せっかちなんだからぁ……。夜まで我慢できないんですか?」
「ああ、我慢ならんな!」
 手にした調書には、ばっちり 「カブトガニ」と書きこまれている。それを、グシャグシャばりばりと引きちぎって、一センチ単位で切り刻む。それでも怒りは収まらない。歯ぎしりしながらくずかごに投げこんで、さらに上から革靴でギューギュー踏みつけた。
 池澤が誰からも愛される、その理由は、雲一つない、群青色の秋の青空のような、清々しいほどのバカだからだ。
「ああっ。なっ、何するんですか等々力さんっ、せっかく上手に書けたのに……俺の調書……」
「これ以上、恥をかかんですむように隠滅してやったんだ、ありがたく思え」
「今日の等々力さん、なんだかすごく怖いよ……」
 とたんに眦を下げ、情けなさそうな顔をする。
 ……ばかものめ。そんな可愛い顔したってダメだ。
「何人被疑者を引っ立ててきても、お前の書く調書ではひとつも立件もできん。公判維持のためには、書類とも格闘しなければならないんだぞ。……なあ、池澤。なぜ、そんなに躍起になってるんだ?」
「……偉くなりたいんだもん」
「またそれか。署長賞も総監賞も、巡査の昇進には影響しないのは知ってるよな?」
 池澤は俯いて唇を噛んだ。どうやらよく知らなかったようだ。
「巡査から出世したいのなら、まず昇進試験にパスしなければならん。褒賞が生きてくるのは、警部補より上だ」
「そんなぁ……。俺、いつか特別昇任してもらえる日がくるかもって、頑張ってきたのに……」
 がっくりと肩を落とし、ソファの上で膝を抱えこむ。キツいお灸を据えられた大きな犬みたいで、たまらなく哀れを誘う。ああ、なんと世の中は誤解と偏見に満ちているのだろう。こうやって叱り飛ばすたびに、女性警官は潤一を冷血漢の人でなしだとなじりつくし、池澤に弁当やオヤツの差し入れが増えるのだ。
「昇進、させてやろうか?」
「……それってもしかして、コネ?」
 黒目がちな大きな目が、きらっと光る。
「バカ者っ。俺のような優秀な警視正の力をもって横車を押しても、どうにかなるほど昇進試験は甘くない。だから、正々堂々と試験を受けて合格すればいいんだ」
「なんだ。……やっぱり無理じゃんか……」
 がっくり肩を落とす池澤を、潤一は凍りつくような冷たい眼差しで一瞥すると、
「だからこの、T大を首席で卒業した俺自らが、個人レッスンしてやろうと言ってるんだ」


 
 池澤の首根っこを掴んで自分の部屋に連れ帰ると、ダイニングの椅子に座らせ、逃げられないように隣に腰かけた。背後に見える窓は、夕暮れの光でオレンジ色に染めあげられている。もうすぐ、夜と昼とが交代する時間だ。
「等々力さんが先生なんて、なんか……キャラにあわないっす。部下をいびる姿ならしょっちゅう見てるけど」
 右手で握った四十センチの定規で、左の掌をパシン、パシンと打ちながら、
「あれはいびってるのではない。スパルタ的教育指導だ。現に俺は、大学時代にやった家庭教師のバイトで、我が母校であるT大に何人もブチこんでやったんだ。開成や浦和では、T大合格請負人として俺の存在は伝説を通り越して神話になっているんだぞ」
「でっ、でも、等々力さんの生徒って、みんな成績のいい子でしょう?」
「確かに。俺に回されたのは進学校のお坊ちゃんお嬢ちゃんばかりの、楽な仕事だったが……俺に、家庭教師の奥義を教えてくれた友人は、ヤンキーをT大に捩じこんだほどの実力の持ち主だった」
「ヤンキー?」
「そうだ。ただ机に向かって教えるだけじゃ、ああいう連中は覚えないからな。椅子に縛りつけて、間違えるたびに自動車のバッテリーを改造した装置で、電気ショックを与えていたそうだ」
 その後、彼はヤンキーの教え子にお礼参りをされ、半年ほど入院する羽目になったがな。ビビらせるには充分だろう、と池澤の顔をちらりと眺めた。
「……おい、貴様、何を見ている」
「等々力さんの顔」
 そんなの脅し文句などものともせず、いつのまにか、池澤の引き締まった腰が半分、潤一の座る椅子にずれてきていた。
 そして、ぴったりと寄り添うと、両頬に掌を添えた。美術品のような秀麗な顔立ちが間近に迫ると、とたんに、どきんと潤一の鼓動が跳ねあがった。
 こんな関係になっても、この迫力のある美貌には、まだ、慣れない。
「俺の大好きな、等々力さんの顔。ちっさいね。手の中にぴったり収まる……」
 吐息がふれあった。
 マズイ。このままではこいつのペースに乗せられてしまう。そしていつものようにドンブラコと流されて、行き着く先はきっとベッドの中だ。
「痛っ! 痛ッ」
 さらに密着を深めようとにじり寄ってきた太ももを、定規で打ち据えながら後ずさる。
「ええい暑苦しいやつだ。真面目にやらんか」
「いいじゃん。ちょっとぐらい……」
 しょぼんと肩を落とす池澤の隣で、えっへん、と腕を組んで見せると、警察官昇級試験の問題集を手に取る。そのとき、ページの間から、フライヤーが滑り落ちた。
 そこには、タバコと進入禁止の標識が描かれていた。おなじみの記号である。
「法学四法に入る前に、まず、軽く一般常識の問題だ。池澤、ここに書いてある『NO SMOKING』とは、どんな意味だ?」
「うっと、『私は横綱ではありません』かな?」
「……」
 潤一は素早く高校時代に使っていた地図帳を開き、群馬県と長野県にまたがる道路を指さすと、
「じゃあ、この道路。これはなんと読む?」
「山の中だから、一日中山道、かな? 大変だよねー、朝も昼も山道なんて」
「……旧中山道って読むんだよ」
 驚いた。この形のいい頭蓋骨につまっているのは、脳味噌ではなく美味しいマルコメ味噌のようだ。
 しかし怯んでいる潤一ではなかった。昇任試験のテキストをさっとどけると、下から素早く中学一年用の英語のワークブックを取りだし、広げて見せる。
「えいご?」
「昇任試験には四択のほかに論文も面接もある。バカをだだ漏れにしている今の状況で、誰がお前を巡査部長になどするものか」
「ええーっ」
「じゃあ、先に数学をやるか?」
「……英語でいい」
「英語がいいです、だろ?」
 と言いながら、二つのマグカップに温めたコーヒーとミルクを注ぎ、片方にはたっぷりと砂糖をいれて、池澤に手渡した。
 それを両手で抱えこむようにして、ようやく彼はワークブックに向かう。
 静かだった。時折、池澤が走らせる鉛筆の音と、夕刊を配達する新聞配達のバイクの音、そして、淡々と文法を説明する潤一の声のほか、冬の夕暮れの静けさがしばらく続いた。
「ねえ、等々力さん」
 と、できの悪い生徒の声が静寂を破った。
「このページ、全部正解だったら、俺のお願い一個だけ聞いてくれる?」
 潤一が顔を近づけ、大きな手の下をのぞきこむと、池澤は下から掬いあげるような目をした。
「ああ、もちろんだとも。ただし、ひとつでも間違いがあったら、キツーイおしおきだぞ」
「いいっすよ」
 それで決まり、とでもいうように、池澤がワークブックを差しだす。
 だが、回答欄に景気よくマルをつけていた潤一は、ページの中程で手を止めた。
「池澤、貴様は中学一年の英語もできんのか……」
「うん?」
「ほら、ここの……単語を使った自由作文。あれほど説明したのに、be動詞が抜けてるじゃないか。なによりテキストに品性がない。いつもシモのことばかり考えおって……」
「シモ?」
 池澤は首をひねった。
「だーかーら、貴様のMy penisがlargeなのはわかってる。だからbe動詞のisを主語のあとに挿入しろと……」
「……」
「isを……」
 池澤の頬の肉が、にゅーっと持ちあがった。
「俺、My pen イズ largeって書いたんだけど」

 ドカーン!

「俺ペニスなんて書いてないのにさ! うわぁ、エッチだ。シモのことばっかり考えてるのは、等々力さんのほうじゃん! そういうの、なんていうか知ってる? エッチスケッチサンドイッチ。お風呂に入ってアッチッチーって言うんだよ」
「エッチエッチ言うな! そもそもpenとisをくっつけて書く方が悪いんだ! こんなのK合塾の模試なら零点だ」
「言ーっちゃお言っちゃお。明日みんなにしゃべっちゃおーっと。T大出なのに、こんな問題もできなかったって。嫌だなー恥ずかしいなー。いっつもヤーラシーこと考えてるんだね、等々力さんて! エッチ」
「くっそぉ……告げ口なんて貴様、卑怯者のすることだぞ」
 椅子から立ちあがって、言っちゃお言っちゃおと踊りながらさわぐ池澤の口を手で塞ごうとして、あっという間に逞しい両腕に抱きしめられる。いつになく真剣な顔が間近に迫って、またもや胸がドキン……と鳴る。不整脈か?
 くそっ、三人称も単数も動詞にSも、何もわからないくせに、このキラキラ光る目はなんだ。
「手じゃなくて、違うところで塞いでよ。そしたら俺、黙るよ」
 長い睫が縁取る瞼を、ゆっくりと下げて、池澤は桜色の唇を突きだした。
 ……あー、はいはいわかったよ。
 潤一は胸のポケットから、オヤツ用のグミキャンディーを取りだすと、適当に折り曲げて唇に押しつけてやる。角度を変えて何回か押しつけるうちに、肉厚で形のよい唇が上下に開き、真っ白い歯で指を噛まれる。
「痛い、離せ。バカ池澤」
「……等々力さんて、嘘つきだしズルイ。手癖がとくに悪い」
「聞き捨てならん侮辱だな。頭脳プレイが得意だと言ってくれないか。知能と器用さは正比例の関係にある。現に俺の母校のT大では、米粒にブドウ糖の三種の構造式を書くなど朝飯前だ……うわっ、貴様、なにをする」
 数ある潤一の欠点の中でも最悪なのが、この高慢ちきなところである。だが、その高慢ちきぶりを発揮しているとき、自分でも知らずに隙を見せる。その一瞬を突いて、池澤は潤一の両手首を掴んで、ネクタイで後ろ手に縛りあげてしまった。
「うむ、さすが。逮捕術では署内ナンバーワンの池澤巡査だ」
「こんなことで感心しないでよ。……ほら、ちゃんと、唇にチュウして。チュウ」
「ふんっ」
 鼻息も荒く、潤一は池澤の唇を噛んだ。勢いこんでいたので、やけに高い鼻とぶつかる。
「いてっ」
「唇はくっついたからな。これでいいだろ」
「こんなのプロレスの頭突きじゃん。チョーパンっていって、キスじゃないよ」
「知るか、バカ者。いいからとにかくこれを早くほどけ。貴様、服務規程違反で処罰対象にするぞ」
「うるさいなあ、もう」
 潤一の細い頤が乱暴に鷲掴みにされ、掬いあげられた唇が塞がれた。
 歯を食いしばって、拒絶のポーズをとり続ける潤一の歯列を、親指がこじ開ける。
 その爪の大きさや、力強さ、さっきまで食べていたグミキャンディーの人工的な香りを舌先で感じて、ゾクッと背筋に戦きが走る。
「やめ……」
 なおも覆い被さってくる顔から逃れようとして、食器棚と冷蔵庫の角に追いつめられる。耳朶を、ビックリするぐらい白い歯が噛んでいて、鋭い痛みに身を竦ませる。
「どうせなら、こっちを食わせてくれればいいのにさ」
「いた……い。いけざ、わ……」
 俺の耳朶はグミキャンディーじゃないぞ。
 甘噛みされている、その被虐的な快感に、潤一の頬はぼうっと上気してくる。いつもは青ざめたような瞼にも赤みが差し、長い睫がふるふると震えはじめる。
 その無意識の様子がどれほど池澤を奮い立たせるのか……不幸にも、潤一はまったく知らなかった。
「じゃあ、こっちむいて。じゃないと……ほんとに食べちゃうよ」
 ずーんという重い衝撃が、背筋から生まれてくる。
 みっともない姿になる前に、引きはがさなくては。たったこれだけの刺激で、俺の体は感じはじめてるじゃないか……。
「んうっ……?」
 胸に違和感を感じ、桃色になった潤一の唇からか細い悲鳴が漏れた。唇を池澤の巧みな舌先に蹂躙されていたので、シャツのボタンが外されていたのにも気づかなかった。
 鎖骨からしっとりと汗ばむ潤一の肌。その、象牙色の胸元を飾る赤い宝石の頂点を、採点に使っていたサインペンがクリクリと弄っていたのだった。
「あ……っ。き、さま……。それは、なんの真似だ……」
「ちっちゃいおっぱい、可愛いね。こうすると、すっごく美味しそうだよ。ね、見てみる?」
 池澤の右手のサインペンが、乳首の先端をちろちろと掃く。敏感な中心を刺し貫く勢いで突く。くすぐったさともどかしい感覚が、徐々に下半身に送り込まれていき……。
「……んっ……は、ぁっ……」
 鼻から、イヤになるほど甘い吐息が漏れた。
「等々力さん。あんたやっぱり、インランだな……ホラ」
 その部分は、すでに軽く持ちあがり、布を押しあげていた。
「ズボンの上からでも、こんなにくっきり浮きあがって……形がわかっちゃうね」
「ちちち、違う。これは……その……」
 意地悪な指がジッパーを掴んで引きおろした。熱を持ち、主張しはじめたそこから手を振り払おうと身を捩らせたのに、そんなわずかな抵抗を嘲笑うように、池澤は布の上から潤一を捉えてしまったのだった。
「……っ」
 布越しに昂ってくる感触に気をよくしたのか、唇を噛んで震える潤一に、屈託なくにんまりと笑ってみせる。
「あれ? 変な音がするよ……ぐちゃぐちゃって。まさか先走りじゃないよね。まだ、チューしかしてないのに……」
「む……むね……」
「ええ? 胸? ペンで赤く塗られただけで、それで感じちゃってるの? やーだなー、等々力さんて、どこまでエッチなんだろ」
 思いだした。こいつはベッドの中では王様になるんだ。それも頭の悪い、エロいことが大好きな、サディストの暴君に。
 ――サディストの、暴君。
 その言葉に、胸が、締めつけられるように苦しくなった。同時に、柔術訓練の際に寝技をかけられ、失神したときのような、なんともいえない揺曳感のようなものに全身が犯されていき……。
「だっ、ダメだ! まだ勉強しなくちゃだろが」
 と、池澤の顔を睨みつけた。かつては警視庁一の魔王、ヘルマン・ゲーリングの生まれ変わりとまで呼ばれた潤一である。その眼力に怯まぬ警察官はいない……はずだったのに、この男ときたら、怯むどころか涼しい顔をして手を動かし続けているのだった。
「そんな潤んだ目で怖い顔してもダーメ。ほらほら、硬くなってるのは等々力さんだよ」
「う……」
「俺の、正解だったんだから、ワークにマルつけてよ」
「ぺ、ペンを……貸してくれ。それと、手を……」
 だが、池澤はしれっとした顔でグミを口に放りこむと、もっちゅもっちゅと噛んでいる。
「T大出の割にアタマ悪いよね。ペンなんかなくても、マルつけられるじゃん」
「ど、どうやって……」
 サインペンの先が、またもや、つん! と乳首をつついた。
「おっぱい。真っ赤だよ」
「は、うぅ……」
「正解は正解でしょ。ほら、早く」
 潤一に言い返す余地は無かった。口の中で熱いほど溜った唾液を飲む、ゴクリという音がやけに大きく響いた。
 怒りと屈辱と、そして甘い痺れに支配され、のろのろとテーブルの上に上体を伏せる。ページの一番下、単語を組みあわせて文章を作りましょう、と書かれてある場所で、上体を動かした。
「……ッ」
 冷たい紙の感触が、直に乳首を伝わって、思わず声が漏れそうになるのを、唇を噛みしめて怺える。膝ががくがくと震えた。
「勉強の時間なんだから、真面目にやってよね」
 池澤の冷たい声に、頭が支配されてしまう。
 羞恥と快感への期待に、すでに全身がうっすらと汗ばんでいて、滑らかな皮膚がワークブックのページに貼りついた。腕を背後で縛られたこの状態で、ダイニングテーブルの上で体を動かすのは一苦労だ。
 と、同時に、下着が着衣ごと膝の下まで引きずりおろされた。
 そのとき偶然に触れた指の熱さを感じ、さっと背筋が粟立った。今日、池澤の皮膚に直接触れたのは、この指と唇だけだということに慄然とする。
 あとは、紙とペンだけ……たったそれだけで、爆発寸前にまで昂らされている。
 こいつは、この点にかけても、マジモンの天才だ……。
「さ、さわるな!」
 これ以上触れられたら、本当に、おかしくなってしまう……。
 双臀を、揉みこむように摩る両手から逃れようと身を捩り、キッと睨んだ。
「俺は……真面目に、教えてやってる……んだ、ぞ……。……不真面目なのは、き、さまの……ほうだ……」
「ふうん」
 つんとした痛みとともに、尖ったもので、すぼまりが刺激される。異様な感触に、首をぐっと捩って戦慄した。池澤の手に握られていたのは、先ほどのサインペンだったのだ。
「真面目にやってるんだ、これで?」
「さ、触るな……あ、はぁ……ッ」
 冷たくて、尖った先端は少しだけ柔らかな素材でできていて、その穂先が潤一の花弁を一枚ずつなぞる。たったそれだけの刺激なのに、下肢が、勝手にくねくねと踊った。
「俺、等々力さんの体には、どこも触ってないよ。ホラ、だからちゃんとマルつけて」
「ああっ、……ああっ」
 あんな細いもので、なぞられただけで腰をくねらせて悶える。なんて淫らな体なんだろう。イヤになる。
 ついに潤一の両脚からがっくりと力が失われ、崩れ落ちるようにテーブルに伏せる。走ったわけでも怒鳴ったわけでも熱いわけでもないのに、眼鏡のレンズは曇り、白い背中はびっしょりと汗をかき、シャツを湿らせて貼りつけていた。
 太ももの内側を、汗の玉が滴り落ちる。
「あれ?」
 池澤の声に、揶揄いがまじった。
「ここから、何か垂れてるじゃないか」
 潤一の奥を弄っていたサインペンが、狭い道をなぞり、足の間でじっと緊張する双嚢を、意地悪くつついた。今にも裂けそうなほどぱんぱんに膨らみ、じっとりと湿っている。
 ペンの先が、つーっ……と茎を辿り、熟した杏のようになった先端にたどり着く。
「ひ……うっ、……く……、み、るな……」
「このトロトロ、なあに? どんどんでてくる。床に水たまりができちゃうよ」
「や、やだ……し、知らない……」
 たったそれだけの言葉を絞りだすのに、潤一はハアハアと息を乱した。みっともない変化を隠そうと、勝手に開いてしまう膝を捩りあわせる。どうしたって信じられない。認めることなんかできない。年下の男……しかも部下の手で、自由を奪われ、人間ですらない道具で、こんなに悶えさせられてるだなんて。
「等々力さん、俺が床にご飯粒落とすとすんごく怒るよね、床を汚すなーって。……じゃあ、栓、しちゃおうか?」
「せ、栓?」
 針先のようなサインペンの先端が、潤一の蕾に彫られた浅いグランスにつぷっと埋って、潤一は白い喉を仰け反らせた。両脚をつま先まで突っ張らせながら、髪を振り乱す。
「やぁぁあっ!」
 電流のような感覚、それは痛みではなかった。火のような痺れに全身が包まれたと思ったとたんに、限界まで引きつらせていた内股の筋肉が緩んだ。軸の中の道がだらしなく開き、熱い雫がどっと溢れたのを感じた。
 円錐状の異物に、誰にも触らせなかったその部分を押し拡げられて、どろどろになるほど感じてしまったのだ。
「ひっ……。も……やめてくれ……」
 白濁した液が、重みのある雫となって、ペンの軸にたっぷりと纏わりついている。それを鼻先に突きつけながら、池澤は鼻で笑った。
「なにこれ……もしかして、イッちゃった?」
「く……」
 顔なんかあげられなかった。潤一はテーブルに伏せたまま荒く息を吐いた。いつのまにか零れていた唾液が、合板のテーブルに水たまりを作っていた。
「……あ、いけね。もうこんな時間じゃん」
 わざとらしく、池澤が時計を見あげる。
「俺遅番だし、明日は等々力さんも早いんだよね。どう? いっぱいでたみたいだし、満足した?」
 そうやって焦らして、困らせるつもりなのだとわかっていても、潤一はもう、どうにもならないところへ追いやられていた。
 さてと、としらじらしい顔をして立ちあがると、池澤がキッチンペーパーを掴んだ。肩で息をする潤一には目もくれず、ペンと手を簡単に拭う。
「や、だ……」
「なに、それ。やだって言うからやめたのにさ」
「や……めるの、やだ……」
「ん?」
「さいご、まで……。頼む……から……」
 屈辱的な言葉を呟いてるのに、放った場所がまたもや力を得てくるのを感じる。
「最後までって……等々力さん、イッたばっかじゃん。あれでいいでしょ」
 確かに、性器の中だけでうず巻いていたうねりはすっかり解消していたが、体の奥底には、別のどうにもならないもどかしさのようなものが生まれていた。
 ひとりで慰めることしか知らなかった頃なら、簡単にやり過ごせたはずだった。だが、今は違う。意識すればするほど、そのもどかしさにフォーカスしてしまい、身悶えるような切なさに切り替わってしまう。
 潤一は、知ってしまったのだ。この餓えと渇きの原点は、奥……そこがどうにもならないほど疼くことを。そこを、どうにかして欲しくて、もみくちゃにされるようなうねりに身も心も翻弄されてしまうことを。そのためなら、どんなエッチで恥ずかしい要求にも、悔しそうな顔をして、涙をうかべ、唇を噛みしめながら応じてしまうことを。
「欲張りだね。もっと、いっぱい、イきたいの?」
 潤一はやりきれない勢いに首を横に振った。汗ばんだ髪が、ぱさぱさとテーブルを叩いた。
「……くっ」
 目の前に、先ほど潤一を狂わせたサインペンが投げだされていた。
 こんなペンなんかじゃない、もっと大きくて熱いもので、いじめて欲しい。めちゃくちゃにして欲しい。二十四時間の昼夜勤務が終わるまで池澤を待っていたら、きっと気が変になってしまうだろう。
 睨むように見つめる視線の先で、池澤がサインペンを手に取った。
「そんなにじっと見て……これが欲しいんだ」
「ちが……っ」
「違わないよ、ほら」
 つん、という痛みとともに、そこにそれが突き立てられた。
「あそこ、キャップに噛みついてるよ」
 滑らかな流線形のキャップは、さしたる抵抗も見せず、潤一の体内に埋めこまれてゆく。指よりも細い、しかも肉体ではないものが挿入されただけなのに、目の焦点があわなくなるほど気持ちよかった。甘い刺激がそこを中心として止めどなく拡がり、全身を浸した。
「……あ、ほん、……とに、ちがうん、だ……。ひ、あぁッ。うごかす、な……あぁ……」
「ふうん、じゃあ、ここに何を入れてほしいか、言ってみて」
 テーブルの上に上半身を伏せたまま歯を食いしばり、首を横に振る。すると、池澤はペンを操作して、潤一の秘密の場所をそっとくすぐった。くすぐりながら、そこを、まじまじと観察していた。
「こんなにヒクヒクして、すごいことになってるな……。サインペン、気にいったみたいだね」
 冷たくて硬い、ちゃちな無機物なのに、全身の筋肉が強張るほどの衝撃が、そこから生まれでる。
「い……っ、イ、ヤ……。はぁ……ッ。だ、め……」
 少しだけ残った理性をかき集めて、急激に上りつめようとする意識を引き戻す。だが、それも長くは持ちそうになかった。
 こうやって、とろ火であぶられて焦らされてた潤一が、チョモランマより高いプライドをかなぐり捨てて、自ら男を求めるように仕向けているのだ。
 ひとたびベッドに入ると、恐ろしいほど老獪な手練手管で、潤一の身も心も思いのままに操ってしまう。この人心掌握術は、どんなネゴシエイターでも敵うまい。
 これほどの能力を、捜査活動に振り向ければ、希代の名刑事として名前を残せるだろうに……。
「ここに……挿入するのは、isじゃなくて……何?」
「……っ」
「言いなよ。太いのが欲しいって。熱くて、堅くて、美味しいもの、ここにぶっ挿して欲しいって」
 唇を噛んで、ゆるゆると頭を振る。太ももと膝ががくがくと震えてしまって、力が入らない。高まりは全身に波及して、今やどこに触れられても辛いほど敏感になっていた。
「ふうん。じゃあ、ペンだけでいってみる? いいよ……わかった。文房具とだってエッチしちゃう変態なんだってところ、見せてよ」
「や、やだ……」
「ん? 何がイヤなの? ほら、気持ちいいでしょ」
 ペンの先端で、内部の隆起を擦りあげられるだけで、両脚がひくひくっ、と震えてしまう。うねるように押し寄せる快感に視界が滲む。だけど、足りない。いつも潤一を刳る、あの残酷なまでの逞しさがない。
「あ……うゥ……っ。……が、欲しい……」
「聞こえない。大きな声で言って」
 ぴしゃっと、ふっくらとした白いふくらみを掌が叩いた。
「う……く……っ。お前の……、ここに……太いの……」
「太いのが欲しいの? にんじん? キュウリ? 冷蔵庫の中、見てみる?」
 こいつは、本当に、サディストだ……。悔しくて、よりいっそう唇を強く噛みしめる。これほど屈辱的な扱いを受けているのに、頭の中がぼうっとして、何も考えられない。 
「ちがう……。熱いの……っ。硬くて、長くて、お……おいしい……池澤の、ください……」
 ダイニングテーブルの上に上体を伏せ、自ら尻を高く差しあげ、足を大きく開いてねだる。自分がどれほどみっともなく、惨めな姿をさらしてるのか、よくわかっていた。だが、今は、それが欲しかった。そしてひたすら屈辱を感じていた。屈辱と欲望のどちらが強いということはできなかった。等分だった。
 硬くて細い異物でぐずぐずになるまで責められた襞が、震えながら待ち望んでいる。
「しょうがないな……」
 池澤が少し、体を離し、ひやっと風が起こった。背後でジッパーを下げる音が聞こえてきて、膝からも腰からも力が抜けた。
 そしてだしぬけに、まったくだしぬけに、充分に育ちあがったそれが、入り口をつついた。すっかり敏感になった肉に、先端がわずかに埋った。
「んくぅっ!」
 ぞくりと、全身が溶けて崩れそうな愉悦が潤一を襲う。襞が、ようやく与えられた獲物に絡みつこうとしたとき、池澤は無情にも腰を引いた。
「エッチ」
 乱暴に抜き取られて、口惜しいとばかりに腰が追いかけた。刺激されたことで触発されて、プライドなど粉々に砕け散りそうだ。
「そんなに、欲しい?」
 こんな生殺しの状態には耐えられそうもない。太く熱く、逞しくて長い、残酷な形をした肉棒で、下腹の奥をめちゃくちゃに突いて欲しくて、ねだるように唇が動いた。
「欲しい……欲しいッ。早く……っ。い、れて……」
「欲張りだな」
 肉体以外のもので弄られて、とろけているとばかり思っていたその部分は、むしろ緊張に堅く強張っていて、赤く塗られた肉壁を巻きこむようにして入ってきた池澤に、痛みさえ覚える。
「あ、はぁ――ッ」
 強く突きこまれる雄大な体積が痛くて、苦しくて、顎を仰け反らせて悶えてるのに、その部分だけは嬉々として絡みついてしまう。
 ああ、俺の体って、こんなにエッチなんだ……。
 羞恥と官能、痛みと愉悦が、ひとつの体の中でない交ぜになって、ゆっくりと潤一を引き裂いてゆく。
 まるで熱湯の中に投げこまれたみたいだった。わななく唇はもう、自分の意志ではどうにもならないところにきていた。
「んぁ……っ!」
 気持ち、いい……。
 堪らなかった。目を閉じて、上体を仰け反らせながら、男の形をたっぷりと味わった。生々しい挿入感、強引に押し拡げられる感覚、この刺激なしでは二晩と過ごせない。ずっ、ずっという音とともに、彼が、奥に分けいってくる。そう感じただけで、背筋が、ぞくぞくっと粟立った。
 浮かんだ汗で冷された背中、背筋、肩胛骨と、池澤が口づけを落としてゆく。それがまるで焼きごてのように熱く感じられたときには、潤一は立て続けに達していた。太ももの中程あたりを、ねっとりと熱い体液がしたたり落ちてゆく。
 全身が、池澤に屈服した瞬間だった。
「あ、いっちゃった。まだ半分も入ってないのに、いけない子だな」
 中途半端な状態で、池澤は潤一から勢いよく引き抜きながら、テーブルの上に投げだされていた定規で、尻たぶを叩いた。
「俺のお願い、聞いてくれる約束だったよね」
「なっ……」
 首を捩り、背後の池澤の顔を見あげる。はあはあと漏れる喘ぎは、啜り泣きのようだった。
「そんな顔しちゃっても、ダメ」
 池澤は屈託なく笑いながら、汗で貼りついたシャツを捲りあげ、潤一の胸に手を伸ばす。爪を立て、力をこめて抓られたというのに、何も含んでいない窄まりが、きゅっきゅっと痙攣する。
 そこに、先走りで濡れた亀頭を押し当てながら、
「ここでたっぷり愉しませてもらうよ。俺が満足するまで、今夜はずっと奉仕するんだ。泣いても、わめいても、いいって言うまで、やめてあげない」



「ふん」
 出勤してきた池澤の制服の両袖には、真新しい斜め一本線の袖章が縫いつけられていて、朝日に眩いほど銀色に燦めいていた。
 袖口を掴んで、嬉しそうに上体を振り回す彼から、潤一はぷんと顔を背けた。 
「あれっ? どうしたんすか。せっかく俺が巡査部長に昇進できたっつうのに、ごきげんななめ」
「貴様もほかの凡百のノンキャリアと同じ、昇進ごときにウツツを抜かす男だったと知って失望してるんだ」
「なに怒ってんの? 俺の膝の上で等々力さんが教えてくれたから、頑張れたのにさ」
「膝の上は余計だっ!」
 広い額を人差し指で弾くと、イテッと言いながら額を押さえて蹲った。
「俺もついに巡査部長か……。これで、少し、等々力さんに近づいたっすよ」
「近づく……とは、どういう意味だ?」
 鋭く睨みあげる潤一の前に立つと、耳元に唇を寄せ、囁きかけた。
「ずんいち……」
 眉間に、かすかな皺が寄ったのを見て、池澤はふんわりと微笑んだ。
「ほらね。等々力さんは、下の名前で呼ばれるの、ヤなんでしょ」
「違う、これは……」
 愛する男と相思相愛の関係になって、……本当は、それが、嬉しくて、くすぐったくて、照れくさいだけなんだ。だが、無駄にプライドの高い潤一は、そんな本音など言葉にできず、ましてや表情にすることもできず、ただ怖い顔をして睨みつけるだけしかできないのだ。
 不器用で、臆病な自分がイヤになる。だが、その欠点をも、池澤は包みこんで愛してくれている。抱かれるたび、それを感じるからこそ、潤一は戸惑うのだ。
 組織に生きる男なら、どんな理由があれ頂点を極めてみたいと願うだろう。潤一も男だから、一度上りかけた階段なら、頂点を極めるまで上りつめてみたい、という気持ちが、痛いほどわかる。だから、彼の将来を応援してやりたいと思う。
 だが、いつまでも、側に置きたい。自分だけの、おばかで可愛い部下として、独占していたいという気持ちも、同時に存在する。
 心が、真っ二つに引き裂かれる。
「だからね、うんとうんと偉くなって、俺も警視正になるっす。同僚だったら、等々力さんを下の名前で呼んでもいいっすよね? イヤじゃないっすよね?」
「……なぜ、そこに拘るんだ」
「ずんいち、って綺麗な名前だもん。俺、大好き。だから、呼びたい。毎日、毎晩、なにかあるたんびに、呼びたい。そんだけ」
「それだけ……?」
 ただ、それだけの理由で。目の奥がかーっと熱くなったが、顔を背けることができなかった。 
 怜悧そのものの切れ長の目を潤ませる潤一に、池澤は丸みのある頬をプクッと膨らませて、テヘッと笑いかけた。桜色の唇も、マシュマロみたいな耳朶も、どこもかしこもみんな、神様が丹精込めて作りあげたかと思うほどの美しさに輝いている。
 その、秀麗な美貌に手を滑らせる。子供っぽい、やけに高い体温に、愛しさが溢れだす。
 なんて可愛い。なんて愛しい。俺はこの部下を支配してるんじゃない。彼の――虜囚なんだ。
「ずんいちはやめろ。俺の名前は、潤一だ。ちゃんと呼ぶって約束してくれるなら……」
「ううん?」
「貴様が警視正になるのを待っていたら、俺はジジイになってしまうだろが。だから、……名前なんか……いつ、呼んでくれても……」
 丸い頬が、ぽやんと赤くなったのを見て、しまったと思った。一度口から吐いた言葉は、かき集めて飲みこみ直すことなんかできない。
「じゅ、じゅ、じゅ……。じゅんい……」
「いやっ、ちがう、今はダメだ。二人でいるときに限る」
「二人って、この部屋俺たち二人っきりだよ」
「二人っきり、というより、はっ、裸でいるときなら、いいことにしよう」
「そういえば慰安旅行は温泉だったよ」
「もうひとつ条件を追加だ。裸で、ベッドにいるときだけ、ということにする」
「なんだ。それじゃ、いつもと変わらないじゃん」
 尖らせた唇が、可愛らしくて愛しい。その唇が、すぐ目の前に近づいて、潤一は唇を受け止めるために目を閉じた。
 そのとき。
「等々力警視正殿。池澤巡査の昇進試験について、書類をお持ちしました」
 事務の職員が、扉をノックした。その声に、弾かれたように池澤から離れる。
 潤一はクリアファイルに挟まれた書類を受け取ると、無言で目を通した。
「池澤真琴巡査部長……筆記試験、満点……?」
「ああ、それか」
「まさかカンニングしたんじゃないだろうな? これは、不正を疑われる点数だぞ」
 ぎょっとして潤一がつめ寄る。
「まっさかぁ。そんなことしなくても、俺、勘鋭いから、三択とか四択ならだいたいいつも九十点ぐらい取れるんだよ」
「なっ……」
 なんだってぇ……?
「じゃあ、俺があれほど苦心して教えたのは……ぜんぜん関係なかったのか……?」
 愕然とし、頭の中がふらっとして、潤一は側にあったソファに倒れこんだ。嫌な気分で口の中が酸っぱくなる。
 確かに、思い当たるフシはあった。池澤は昇進試験をパスし、巡査部長になったが、それが例の個人レッスンのおかげかと問われたら、はなはだ疑問だった。
 潤一が主導権を握って、スパルタ式T大合格術を伝授するのは最初の十数分だけで、そのあとは、朝まで続く 「おべんきょうをがんばったごほうびの時間」に充てられていた。
 おかげで無数のエロい遊びと、気絶してしまうほどの快感を得られる体位をいくつも教えこまれたが、肝心の昇進試験の勉強は……。
「関係なくないよ、おかげで等々力さん、縛られてエッチするとめちゃくちゃ感じるのがわかったじゃん」
 その潤一を追って、池澤もソファに這いあがった。
「泣きながら俺におねだりする顔……可愛かったぁ……」
 どうせこの中身の少なそうな頭の中には、羞恥で真っ赤になりながら池澤に翻弄される裸の潤一がびっしり浮かんでいるのだろう。その妄想で、にやにやと笑みを浮かべているところがまた、なんとも憎たらしい。
 おまけに唇を突き出して目を閉じ、いつものようにキスをねだっているのがさらにムカツク。口づけののかわりに潤一は、無駄に繊細で、無駄に高い鼻先を、人差し指でピン! と弾いた。

おわり