<新聞週間代表標語 上を向く 力をくれた 記事がある>
●新聞販売店
まだ薄暗い夜明けの道。見渡す限りのがれきの中、原付きバイクで、高台にぽつり、ぽつりと残る家に新聞を置いていった。
「それまでと違って、家と家の間の距離がものすごく長いんですよ。言葉にならないね。あの時の気持ちは」。福島県南相馬市で毎日新聞、スポーツニッポン、福島民報を販売する「藤原新聞店」の経営者、藤原広幸さん(50)は振り返る。藤原さんは東京電力福島第1原発事故の発生直後、物資の届かなくなった市内に、たった1人で新聞を配り続けていた。
南相馬市は津波で市内の建物の1割にあたる5966棟が破壊され、640人が死亡、23人が行方不明のままだ(10月12日現在)。さらに大半が第1原発の30キロ圏内で、多くの市民が避難を余儀なくされた。
3月15日に屋内退避指示が出た。街から人の姿が消え、藤原新聞店も16日にやむなく休業。藤原さんもいったん避難する。だが、翌日、販売店の様子を見に戻って驚いた。休業を知らせる店先の張り紙に、赤いボールペンでこんな書き込みがあった。
「新聞が配送されてるなら、外に置いておいてください。読みたいです。情報が欲しいのです」
数日後、友人が必死の形相で店に来た。「何で新聞配んねんだ。それがお前の仕事だろ!」。25歳の娘が津波で流されて見つからないという。行方不明者の情報は新聞が頼りだったのだ。
「求められている」。強く感じた藤原さんは、腹を決めた。
市内に新聞配送のトラックは来ない。北に約15キロ離れた相馬市で弟が経営する新聞販売店から新聞を持ってくることにした。弟の店も津波で配達員が流されるなど被害は深刻だったが、ガソリンをかき集めて3月25日、南相馬市で他紙より1カ月以上早く配達を再開した。
最初の1週間は1人だった。早朝、相馬で配達した後、南相馬に移動し、人がいる家を探して夕方4時ごろまで走り回った。「今日の新聞です」「ありがとうな」。がれきの中に残った家の玄関先で、おじいさんがボロボロと涙を流した。
契約者かどうかは構わなかった。ボランティアのつもりで、全国紙を求める人には毎日新聞を、地元紙を求める人には福島民報を渡した。
4月に入ると店に新聞が届くようになり、避難していた従業員も少しずつ戻ってきた。購読の申し込みが相次ぎ、4月末には両紙合わせて2000部以上を配るようになっていた。コンビニエンスストアで1日1000部売れた日もある。その間、藤原さんは地元の話題が載るインターネット掲示板を観察していたが、新聞が行き渡るようになると、書き込みが急に増えた。情報源として新聞が頼られていることを実感した。
だが、出口の見えない不安が残る。津波や避難で顧客は激減。夜、国道6号を車で走ると、海側の暗黒に胸がふさがる。かつては住宅の明かりがともっていた場所だ。放射線への不安から、散り散りになった家族も多い。
「普通の生活に戻りたい。それだけが希望です」と藤原さん。ただ、震災を通じて実感したのは「新聞の復権」だったという。「触った時の『紙のぬくもり』って、大事だと思いましたね。待ってるお客さんがいる限り、配り続けますよ」【日下部聡】
毎日新聞 2011年10月17日 東京朝刊