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福島第1原発:浪江→東京…望郷の念、断ち難く

都営住宅に身を寄せる阿久津敬一さんと妻サト子さん。「この年で東京に住むとはね」と声をそろえた=東京都練馬区で、竹内良和撮影
都営住宅に身を寄せる阿久津敬一さんと妻サト子さん。「この年で東京に住むとはね」と声をそろえた=東京都練馬区で、竹内良和撮影

 東京電力福島第1原発事故で福島県浪江町の阿久津敬一さん(73)、サト子さん(70)夫妻が東京に避難し7カ月になる。一時帰宅のたびに測る自宅の放射線量は上がり、近くで避難生活を送る2人の孫は都内の学校になじみ、次第に東京を離れにくくなっている。東京の人波のなかで、先の見えない生活が続く。【竹内良和】

 ◇頼みの長男、体調崩し急逝

 警戒区域となった浪江町で材木店を営んでいた。店舗兼自宅は第1原発から約9キロ。震災直後に、長男と次男一家と一緒に東京の親戚宅に避難した。

 4月下旬、夫妻と長男は、江東区の国家公務員宿舎に身を寄せた。20階の部屋のベランダに出ると、あまりの高さに目がくらんだ。

 敬一さんは、高卒後の1年間、同区の材木会社に勤めていた。リヤカー付きの自転車で材木を配達。坂道でペダルが重くなると、後ろから見知らぬ人が押してくれた。東京の町が人情にあふれていた時代だった。

 当時、海だった場所にはマンションが建ち並び、貯木場もなくなった。今は猛スピードで自転車に追い抜かれ、びくびくして道を歩く。「自転車を押してくれる人なんていないんだろうな」。無性に寂しくなった。

 福島の新鮮な食材が楽しみだった。東京のスーパーで買う野菜は風味がないと感じる。鮮度の落ちた生魚が嫌で、魚は干物としめさばしか食べなくなった。「いい色のがあった」。サト子さんがやっと見つけた新鮮なシジミは日本橋のデパ地下に並んでいた。小パック一つで600円。手が出なかった。

 5月下旬。夫妻が慣れない東京暮らしを送るなか、隣室の長男(45)が急逝した。体調を崩して2年前に帰郷するまで、最高裁の書記官をしていた経験から、東電との交渉もこなしてくれていた。避難後、持病の薬を飲んでいなかったという。

 激務の日々でも、東京からサト子さんの好きなクラシックのチケットを何度も送ってくれた。「お母さんの夢は年を取ったら東京にクラシックを聴きに行くことなの」。幼いときに聞いた母の言葉をずっと覚えていてくれた孝行息子だった。「避難のストレスもあっただろうね」。サト子さんは涙をこぼした。

 9月、近くに次男夫妻と2人の孫が避難している練馬区内の都営住宅に転居。長男の遺骨を携えていた。「かわいがってくれたおじいちゃん、おばあちゃんの墓に納めたい。でも浪江だと墓参りできない。どうしようもないんだよね」

 次男は7月から親戚の居る相馬市を拠点に材木店を再開。夫妻は蓄えの多くを再開資金に充てた。膨大な書類を前に、東電への賠償請求は進まない。都営住宅の退去は来夏に迫っているという。

 避難直後は「帰宅の日」を待ちわび、テレビにかじりついていた。一時帰宅するたびに計測する家周辺の放射線量は上がり続けている。部屋は雨漏りでカビだらけ。「もう帰れない」。テレビはほとんどつけなくなった。

 次男の子2人は都内の高校と小学校に入った。学校になじんだ孫の笑顔をみるたびに「しばらく東京は離れられないな」と思う。でも、古里への思いは簡単に断ち切れない。

 サト子さんが青果店に寄ったときのこと。店主から「うちは福島の野菜なんか仕入れてないよ。怖くて食えないからね」と声をかけられた。腹が立った。家族に話すと、次男は「『福島の野菜を買いに来た』って言ってやればよかったのに」。

 「郷土愛って不思議なもんですね」。サト子さんは苦笑いを浮かべていた。

毎日新聞 2011年10月16日 11時09分(最終更新 10月16日 11時50分)

 

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