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No27531 の記事


■27531 / )  カケラ世界6・ラムダデルタの正体
□投稿者/ Townmemory -(2009/06/24(Wed) 01:06:47)
http://blog.goo.ne.jp/grandmasterkey/
     最終回です。

     カケラ世界1・ep1が最初に起こった no27036
     カケラ世界2・ep2〜4を実在させる方法 no27141
     カケラ世界3・上位戦人の正体 no27220
     カケラ世界4・魔女の後見と、平行世界 no27377
     カケラ世界5・すべてが正解になる no27474


    ●ラムダデルタの正体

     なんで、こんな話を始めたかというと、これまでふりまわしてきた極論をふまえないと、私が考える「ラムダデルタとベルンカステルの正体」に言及できないからなんです。

     ラムダデルタとベルンカステルは、航海者である、と作中で定義されてます。
     わたしたちユーザー(うみねこ読者)は、航海者と同等の存在である、とわたしは仮定しました。

     ここで、びよーんと飛躍させて下さい。
     ラムダデルタとベルンカステルって、「わたしたちユーザーそのもの」なのではないの?
     と思ったのです。

     いや、でもそれだと、ちょっとうまく説明できない部分が出てきますから、こう言い直すことにします。

     ラムダデルタとベルンカステルは、「ユーザーが抱く2種類の欲望」の擬人化である。

     ユーザーが抱く2つの欲望とは、何なのか。
     それは、
    「このハラハラドキドキの夢物語がずっと続いてほしい」
     という欲望と、
    「主人公がかっこよく勝利するエンドを見て、痛快さを感じたい」
     という欲望です。

     うみねこに限らず、どんなフィクションを楽しむ場合でも、この2種類の欲望は、常にユーザーは持っているのではないかな。

     ラムダデルタは、ゲームが引き分けのまま、ずーっと永遠に続くことを願っています。戦人が勝ちそうになったらベアトが巻き返し、ベアトが巻き返したら戦人がまた逆転する、という展開を永遠に続けてほしいと言っています。
     それって、わたしたちユーザーが抱く、
    「この物語が終わらないでほしい。どんでん返しにつぐどんでん返しで、いつまでもハラハラしていたい。この夢にいつまでもおぼれていたい」
     という感情と、同じものではないだろうか。

     ベルンカステルは、戦人が勝つほうに賭けています。戦人の勝利を望んでいます。
     それって、
    「主人公が目的達成できるといいなあ、ハッピーエンドが見れるといいなあ」
     というわたしたちの欲求を擬人化したものが、彼女だからではないでしょうか。

    「いやあー、うみねこ面白いなあ、何度でも読みたいなあ、ずっと読んでたいなあ」
     と思うとき、わたしたちはラムダデルタで。
    「ああ、戦人が負けそうだ。がんばれ、戦人。ベアトリーチェに勝って見せてくれ」
     と思うとき、わたしたちはベルンカステルで。

     わたしたちユーザーって、その2つの欲望のあいだを、常にいったりきたりしているんじゃないかな、と思われたのです。
     その欲望に、人のかたちを与えたものが、ラムダとベルンなんじゃないかな、と思います。

     ベルンカステルのTIPSに、
    「時に貴方であり、貴方の唯一の友人でもある」
     と書いてあります。

     わたしたちが戦人の勝利を望んでいるとき、ベルンカステルはわたしたちです。
     わたしたちが夢の続きを望んでいるとき、ラムダデルタはわたしたちで、つまりベルンが唯一の友人です。
     そういう意味に取ることができそうです。


     そして。
     この2人は、「ベアトリーチェの勝利は、ぜったいにない」と断言している2人です。
     これってどういう意味なのか。わりと疑問ですよね。

     いままでの議論をふまえて、その延長上で考えると、
    「わたしたちユーザーの中に、“ベアトリーチェの完全勝利”というカケラを真剣に望んで観測したい人がいないから」
     ではないか、と思うようになってきたのです。

     戦人の完全勝利を望んでいる人、これはいっぱいいるでしょう。
     戦人とベアトが、部分的で不完全な勝利を得て、それぞれの落としどころに落ち着く、という結末を想像している人も、これはわりあいいるでしょう。
     この話って終わるの!? と思ってる人もいると思う。
     でも、ベアトが完全勝利し、戦人が完全敗北する、という結末を想像しているユーザーって、ほぼいないんじゃないかな。
     パターン的に、そんなのないだろうと思ってる。
     ちらっと思っても、まじめにそんなカケラを観測しようとは、思わない。

     観測されないカケラが、存在することはない。
     だから、ベアトリーチェが勝つほうには誰も賭けない。
     そういう、整合のさせかたができそうです。


    ●ラムダデルタにかけるチェックの一手

     推理としては、ここまででも充分だと思うのですが、勢いで、もう少し勇み足をしてみたいと思います。

     この一連の書き込みは、
    「ラムダデルタにチェックをかけたい」
     という、わたしの欲望にもとづいて、始められました。

     そもそもなんで、そんな欲求を持ったかというと、
    「犯人は朱志香で、朱志香はループ記憶を持っている。そしてラムダデルタの檻に囚われている。ゲームが始まるたびに、親族を虐殺して自殺するという運命を強要されている」
     という、ろくでもないカケラを、わたしが個人的に観測してしまったからです。

     ひどい話です。
     そして、このひどい話は、わたしが観測して、「これが真実だ」と確信してしまったので、存在します。

     竜騎士07さんが、朱志香をここから助け出す方法を考えてくれるのなら、それを待って、「ああ、よかった」と思えばいいわけですが。
     どうも、考えてくれない可能性のほうが高そうだ。

     ということは、わたしが観測してしまったカケラの中で、朱志香は永遠に親族殺しと自殺をしつづける、それが永久に続く。ということになります。
     少なくとも、わたしの想像力の中で、朱志香はそのような状態でありつづけます。

     それはかわいそうすぎる。
     竜騎士07さんにお願いできないのなら、わたしが助け出す方法を考えるしかありません。
     わたしが、
    「朱志香(=ベアトリーチェ)は、ラムダデルタの檻から救い出される」
     というカケラを観測してあげさえすれば、彼女は過酷な運命から解放されます。

     朱志香ちゃん、いや、朱志香でなくても、それ以外の任意の犯人でも良いわけですが、つまり「ベアトリーチェ」をつかまえて逃げられなくして、過酷な運命を強要しているのは、ラムダデルタです。
     なので、ラムダデルタを攻撃し、追い詰め、敗走させることができれば、殺人の無限ループは消滅します。

     そのために、ラムダデルタの正体を知ろうと思いました。
     そしたら、「ラムダデルタはわたしの欲望である」という解を導いてしまいました。

     たぶん、「わたし」とか「ユーザー」が、物語に介入して操作しないかぎり、ラムダデルタは絶対に、「ベアトリーチェの幸福」を観測しません。
     では、介入すれば良い。
     読者であり航海者である「わたし」「わたしたち」が、傍観者であることをやめて、「ゲームのプレイヤー」となること。
     そして、ラムダデルタ&ベルンカステルと対決すること。
     ラムダが勝ってもベルンが勝っても、ベアトリーチェに救いはないんです。
     だったら、ラムダでもベルンでもない「第3の航海者」があそこに立って、ベアトリーチェの利益を後見してやるしかない。
    「第3の航海者」が、ラムダデルタ的結末でも、ベルンカステル的結末でもない、「第3の結末」=ベアトリーチェの幸福を導き出してやるしかない。

     結論としてはそうなるんですが、抽象的すぎますね。
     なので、言い換えることにして、こんな解を用意しました。

    「わたし」が、自分の中からラムダデルタ的欲望を排除すること。
     ぶっちゃけ、
    「ラムダデルタ的欲望(終わるなという願い)の敗北を観測すること」
     ただしそれは、「ベルンカステルの勝利」というかたちをとってはならない。なぜならベルンカステルは戦人の勝利に、つまりベアトの不幸に張っているのだから。

         *

     そして。
     ラムダデルタは、この物語が続いて欲しいという欲求なのだから、
     ラムダデルタの負けを望む、ということは、
    「この物語が終わることを、わたしが強く望む」
     ということです。

     それは、極論すると、「自ら死を望む」というのにすごく近い。

    「うみねこ」という物語が閉じれば、この物語世界における「わたし」「わたしたち」は消滅するからです。
    (ベルンカステルも、カケラの海の中でうっかり死んだり生き返ったりしてる、とTIPSに書いてあります)

     物語を読む、というのは、実は、単に外から眺めているのではないのです。
     わたしたちは、外から眺めているように見えて、実は、仮想的に内部に入り込んで、それで周囲のできごとを見回している。
     物語を読むとき、常に、物語世界には「仮定された自分」がいるのです。

     でも、物語世界が「終了」すれば、その仮定された自分も、存在できなくなります。
     大好きだった本やドラマやアニメが最終回になったときの、
    「あーあ、終わっちゃったなあ」
     という感慨の正体は、それです。
     その感慨の何割かは「仮想的な自分の死」に関する感慨なんです。

     物語が閉じた。物語の中にいた仮の「わたし」もいなくなった。

     でももっと単純な説明として、「ラムダデルタはわたしたちの一部分なのだから、ラムダの消滅を望むのは、自らの一部を自分で殺すようなものだ」でも良いです。

     これは極論で、単純化されているけれど、わりあい、「フィクションを楽しむ」ことにおいて常につきまとう本質的な問題のような気がしてきています。

    「架空のキャラクターが死ぬ」という運命を回避するために、読者の仮想的な死を必要とする。
     なんて言うと、生け贄的で、魔術的ですね。
     まるで悪魔との取引のようです。あなたが死ねば、あの子の死の運命も消えるよ。ということですからね。フィクションというのはそもそも魔術的ではあるんですが。



     このことを、「うみねこ」風に表現すると、こうなるのです。

     ベアトリーチェが不幸なのは、ベアトリーチェの不幸を観測する「わたし」がいるからだ。
    「わたし」が死ねば(消滅すれば)、ベアトリーチェの不幸は観測されなくなり、ベアトリーチェは不幸でなくなる。

     これが、わたしの編み出した、「ラムダデルタにチェックをかける方法」でした。

     しかし、うすぐらい結論だ。誰か別の明るい解答を考えてくれませんか。


    (以上です。お疲れさまでした!)
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