三河挙母藩2万石中屋敷

墨田区石原1丁目

挙母藩の地図

三河挙母藩の中屋敷は横網町公園のまん前の石原一丁目にあり、
その北側には本所奉行の徳山五兵衛の屋敷がありました。
御竹蔵と蔵前の御米蔵は当時の地盤の良いところに造られたものであり、
隣接する石原も同様徳山五兵衛さんは本所開拓にふさわしい土地を賜ったことになります。

初代本所築立(つきたて)普請奉行には
万治三年(1660年)に徳山(とくのやま)五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政が命じられました。
両人とも名前が重政で同じですね。
山崎四郎さんは1000石取り、徳山五兵衛さんは2743石取りの高級旗本です。
仕事は旗本・御家人の宅地割りと堀浚えです。
堀を掘って、その土で湿地帯を埋めたんですね。
本所奉行は約60年続き、享保四年(1719年)に完了していますが、
八代目に梶川与総兵衛頼照(よりてる)という人が
本所奉行になっています(元禄九年・1696年)。
この人は忠臣蔵で浅野内匠頭を「殿中でござる」と
取り押さえた人ですね。
本所奉行は合計29人の人がなりましたが、他には知った人はいませんでした。
徳山五兵衛さんの屋敷は2,517坪。

徳之山稲荷
徳之山稲荷
徳之山稲荷は徳山五兵衛の屋敷にあったお稲荷さんと五兵衛さんとを
合祀して町の守り神にしたものです。
徳山五兵衛重政の孫徳山五兵衛秀栄(ひでいえ)が火附盗賊改方の職にあったとき、
時の大泥棒日本左衛門の捕縛を命ぜられました。
結局京都で自首して処刑されましたが、どういう訳かここに首洗いの井戸と碑が残っています。


石原1丁目付近

  '10/06/6 
蔵前通りより南方面の三河挙母藩中屋敷跡あたり


 安政三年時のデータ
以下は12番の挙母藩下屋敷と同じ
言葉あんない
藩名 三河挙母(ころも)藩 2万石(譜代)
初代藩主 三宅康貞(やすさだ)
安政三年時 藩主
(1856年)
内藤家六代 内藤政文(まさふみ) 
官名 山城守
居城地 愛知県 豊田市小坂本町 内藤家以前は陣屋
江戸上屋敷 三田四国町(港区芝三丁目)
江戸中屋敷 本所御竹蔵ウシロ(墨田区石原一丁目) 4,001坪
江戸下屋敷 本所石原大川端(本所1〜横網2丁目) 999坪

藩史 No12番の挙母藩下屋敷と同じ  挙母藩下屋敷を見る


参考文献: 藩史大事典(雄山閣)・復元江戸情報地図(朝日新聞社)・江戸三百藩(人文社)・
  墨田区史 前史/墨田区

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