|
豊田市は愛知県西部の西三河地区にある都市。1958年商工会議所から市名変更の請願が出されました。理由は「挙母」は読めない、また小諸と間違いやすいということで、市を二分する議論の末、1959年豊田自動車の本社があるため「豊田市」となったのです。
藩史
三宅家時代
慶長九年(1604年)武蔵瓶尻(みかじり)から三宅康貞が一万石で入部。
以後康勝まで四代にわたり在封したが、寛文四年(1664年)三河田原に転封。
↓
幕府領
↓
本多家時代
天和元年(1681年)陸奥石川から本多忠利が一万石で入封。本多家は三代忠央(ただなか)の時、遠江(とおとうみ)相良に転封。
↓
内藤家時代
寛延二年(1749年)上野国安中より内藤政苗(まさみつ)が入部。以後七代文成(ふみしげ) まで続き、明治維新を迎えました。
こぼれ話
矢作川の洪水
藩史だけを見ても藩内の矢作川の氾濫は15回もあり、 そのため凶作に苦しんだ農民による年貢減免を求める一揆が起きています。
宝暦二年(1752年)に「飯野八兵衛騒動」、
天保七年(1836年)に「加茂一揆」が起きています。
また低地にある挙母城への浸水を避けるため、安永九年(1780年)、お城を高台の童子山に移転しました。73メートルの高台からは七つの国が見回せるので、七州城(しちしゅうじょう)と呼ばれました。(三河、尾張、美濃、信濃、遠江、伊勢、近江)
城跡は現在、公園や美術館になっていて、残された石垣の上に鉄筋コンクリートの櫓が再建されています。
三河は徳川家の本拠地。
江戸幕府ができますと、徳川家の有力な武士は大名として日本各地に分散していきました。よく江戸三百藩と申しますが、じつに三河出身の大名は123家です。
一方、三河は親藩、譜代大名、天領、旗本領と細かく分割されました。挙母藩もそのうちの一つです。
豊田市には自動車のトヨタの本社があります。お城の近くです。
←七州城 |