三河挙母藩2万石下屋敷

墨田区本所1〜横網2丁目(下屋敷)

挙母藩の地図

挙母(ころも)藩は中屋敷と下屋敷がご近所にありました。

隅田川沿いの土地は昔からの隅田川の氾濫で自然に堤が出来て、
高台になっているのでしょう。墨田区の荒川氾濫ハザードマップによると、
横網一丁目から吾妻橋の区役所までの川沿いは
洪水時0.5m未満のまあ安全地帯となっています。あとは皆1〜5mに水没です。
ですからこの地帯は徳川以前から人が住んでいて、
本所開拓による碁盤の目とは違う地形になっています。
その本所開拓をした奉行の徳山五兵衛の屋敷が挙母藩中屋敷の北にありました。
(2,743石取り。屋敷2,517坪 抱地535坪)


現在の三河挙母藩下屋敷跡地
挙母藩下屋敷のあったあたり

 '10/03/30  左横網二丁目 右側は本所一丁目
左:割烹吉葉 突き当たりが隅田川と高速道路
この道路から右側(北)が挙母藩下屋敷のあったところ

 安政三年時のデータ
言葉あんない
藩名 三河挙母(ころも)藩 2万石(譜代)
初代藩主 三宅康貞(やすさだ)
安政三年時 藩主
(1856)
内藤家六代 内藤政文(まさふみ) 
官名 山城守
居城地 愛知県 豊田市小坂本町 内藤家以前は陣屋
江戸上屋敷 三田四国町(港区芝三丁目)
江戸中屋敷 本所御竹蔵ウシロ(墨田区石原一丁目) 4,001坪
江戸下屋敷 本所石原大川端(本所1〜横網2丁目) 999坪

 豊田市は愛知県西部の西三河地区にある都市。1958年商工会議所から市名変更の請願が出されました。理由は「挙母」は読めない、また小諸と間違いやすいということで、市を二分する議論の末、1959年豊田自動車の本社があるため「豊田市」となったのです。

藩史
三宅家時代
 慶長九年(1604年)武蔵瓶尻(みかじり)から三宅康貞が一万石で入部。
以後康勝まで四代にわたり在封したが、寛文四年(1664年)三河田原に転封。
    ↓
 幕府領
    ↓
本多家時代 
 天和元年(1681年)陸奥石川から本多忠利が一万石で入封。本多家は三代忠央(ただなか)の時、遠江(とおとうみ)相良に転封。
    ↓
内藤家時代 
 寛延二年(1749年)上野国安中より内藤政苗(まさみつ)が入部。以後七代文成(ふみしげ) まで続き、明治維新を迎えました。

こぼれ話矢作川
矢作川の洪水
 藩史だけを見ても藩内の矢作川の氾濫は15回もあり、 そのため凶作に苦しんだ農民による年貢減免を求める一揆が起きています。
 宝暦二年(1752年)に「飯野八兵衛騒動」、
 天保七年(1836年)に「加茂一揆」が起きています。
 また低地にある挙母城への浸水を避けるため、安永九年(1780年)、お城を高台の童子山に移転しました。73メートルの高台からは七つの国が見回せるので、七州城(しちしゅうじょう)と呼ばれました。(三河、尾張、美濃、信濃、遠江、伊勢、近江)
 城跡は現在、公園や美術館になっていて、残された石垣の上に鉄筋コンクリートの櫓が再建されています。

七州城三河は徳川家の本拠地。
 江戸幕府ができますと、徳川家の有力な武士は大名として日本各地に分散していきました。よく江戸三百藩と申しますが、じつに三河出身の大名は123家です。
 一方、三河は親藩、譜代大名、天領、旗本領と細かく分割されました。挙母藩もそのうちの一つです。
 豊田市には自動車のトヨタの本社があります。お城の近くです。
←七州城


参考文献: 藩史大事典(雄山閣)・復元江戸情報地図(朝日新聞社)・江戸三百藩(人文社)
  Wikipedia contributors, "豊田市," Wikipedia, (accessed 8月 15, 2010).

閉じるボタン