ガチ勢としての終わり
思えば去年の6月、運よくレートが2000を超え、ニコ生を始めたその日からすべてが始まった。天鳳に全てを注ぎ込むような毎日を過ごしてきた。大学から帰ったらまず天鳳を打ち、深夜2時から朝8時まで配信をしたあと短い睡眠を取り、また大学へ行く。そんな生活をしていた。
僕にとってそれはそれで非常にやりがいがあるものだった。サークルでの飲み会や合宿、俗にいう「リア充」な生活、そんなものよりずっと楽しく、充実した毎日だった。確かに周囲の普通の学生達からみれば僕の毎日は理解できないものだろう。実際に誰かに会うわけでもなく、PCに向かって話しかけているようなものなのだから。
僕が麻雀、天鳳をやりこんだ理由はわからない。なんというかそのゲーム性に惹かれたんだろう。高校時代から麻雀はやってはいたけれど、本格的にやりこんだのはニコ生を始めてからだ。
配信を始めて、様々なこと、様々なひととの出会いがあった。いつの間にか消えてしまったひとももちろんいるし、放送当初から今までずっと配信に来てくれるひともいる。その出会いがあったからこそ、僕はこうして天鳳を打ち続けている。
様々な麻雀に触れてきた。鳴き麻雀、面前麻雀、読みを重視した麻雀・・・その全てが魅力的に映っていたし、それを僕は理解しようと必死だった。打牌を考える、その理由を考えるのが楽しくて仕方がなかった。それは一場面に2時間も討論したり、4時間以上同じ牌譜を見続けたりすることに現れていたと思う。理解したくて、上達したくて仕方がなかった。なによりもそれを一番においていた。
よくこんなことを言われた。「はーつさんはよく一場面にあれだけ時間を費やせますよね。僕ならあれほど熱意を持って考えるのは無理です」 繰り返すけれど、僕にとってはまったく苦痛でなかったし、楽しいくらいだったからこの指摘は僕にとってはふーんという感じでそのときは何も思わなかった。
だけど今このことで思うのは、麻雀に対してあれほど熱意があることは珍しいんだな、ということだ。当事者である僕がこういうことを言うのはおかしいかもしれないけれど、麻雀というゲームにおかしいくらいに熱中する、これがマイノリティで価値があったからこそ、コミュニティも大きくなったし、リスナーの方々もついてきてくれたのではなかったのかな、と思う。
麻雀に対しておかしいくらいに熱中すること、周囲を省みずに麻雀だけを見続ける、いわば麻雀中毒者、それがガチ勢だと僕は思う。
別に麻雀中毒がいけないことだとは思わない。何かに熱中するのは良いことだと思うし、それがあって初めて充実した毎日というのはおくれると思うからだ。
そう、強くなるため、上達するため・・・天鳳位を目指すため。
それが僕の全てだった。こうして文章にしてしまうと片腹痛いのは承知だし、バカだなあと思われるのもわかっている。だけどこういうバカバカしいくらいの熱意が無ければ麻雀に入れ込むことはできない。なぜか? それは麻雀が、結局は娯楽であり、遊びであり、運ゲーだからだ。
「麻雀は運ゲー、娯楽」こんな当たり前のことを僕はわかっていたようでわかってはいなかった。ただわかっていなかったからこそ僕はガチ勢であったのだと思う。
口ではわかっているといっておきながら、僕はそうではないと思っていた。どこかで麻雀でなんとかしてやろうと思っていた、「どこかで麻雀は実力ゲーで、努力して強くなれば、それが確実に結果として現れる」そんなことを思っていた。
僕の日記を読んでいる人なら承知だと思うけれど、麻雀は200戦単位で不調を引くのは当たり前のゲームだ。また1000戦単位で自分の実力以上の結果が出ることもしばしな起こりうる。
1000戦での変動順位は「0.058」 鳳南で0.05といえば大きな差だ。2.40ならほぼ天鳳位クラスだが、2.45なら並の8段クラスだ。
1000戦・・・こうして文字にしてみれば簡単だが、莫大な時間を必要とする。そう、そこまで莫大な時間をかけたとしても麻雀は運ゲーの範囲を出ないのだ。
こうしたことを僕はわかっていたつもりだった。しかし、ある日僕は自分に対して疑問を抱いてしまった。「こんな運ゲーを果たしてこのまま突き詰めるべきなのか・・・」と。ある意味では自分自身がやってきたことに対する冒涜に近いかもしれないこの問いは、度々僕のなかで生じてはいたのだけれど、そのときまでは僕の麻雀への狂気とも似た感情がそれを消し去り続けていた。ある意味で
僕は麻雀が運ゲーということに対して目を背けていたのだ。
第三者からすればあまりに認識が甘い、というように思われるのかもしれない。麻雀をやるからにはこんなことは当然だろう、と。しかし言葉として発するからといって、それを理解しているということにはならない。言葉と理解には溝がある。
今回、僕はこの問いに対して向かいあうことになった。
麻雀の限りないギャンブル性を受けいれることが果たして自分にできるのか、と。
僕の答えは「ノー」だった。
自分なりに良く考えたつもりだ。でもどうしても割り切ることができなかった。200戦での不調が当たり前なら、50戦、20戦なんて少数では何が正解なのかはわからない。たとえ正解を選んでいるにしても結果がついてくるとは限らない。その結果までどれほどの時間、試行回数が必要なのだろう?
麻雀は抽象化するのが難しいゲームだ。よって厳密に答えを出すことは困難であり、今のところは不可能だろう。とするならば正解は個人の主観でしかない。そしてその主観は本当に正解なのかはわからない。不調を引いたら正解は正解でなくなるリスクが常にある。そんな状態でどうやって正解を導くというのだろう?
もちろんこれらをわかったうえで、麻雀をやり込むことは結構だと思うし、それはそれで否定はしない。これは僕の意見であり結論だから何か普遍性があるわけでもない。運ゲーということを受け入れて麻雀を突き詰める生き方もありだろう。
僕は麻雀というゲームを受け入れるだけの器量、そして覚悟がなかったということ。
このことを悟った瞬間、僕のなかで何かが消え去った。それは事実だ。
別に天鳳を引退するつもりはないし、これですぐ何かが変わるということでもない。だけど僕はもうガチ勢と呼ばれるほどの熱意は無くなった。
残念だけれどこれが約一年半、麻雀をやり込んでたどり着いた結論だ。でも今までやり込んできたことが無駄だったとは決して思わない。様々な人と出会ってきて、様々な経験をした。いずれもあの日あのとき、ニコ生を始めなかったら決して経験できなかっただろう。
あるリスナーの方がこんなコメントをしてくれた
「一歩進むことは何かを諦めること。諦めることが成長に繋がる」
どんな選択にも得るものと失うものがある。失ってきたものは多いけれど、それを乗り越えて、これからの人生の成長の糧にしていければいいな、と思う。
長文すみません>< ここまで読んで下さった方本当にありがとうございました。
僕にとってそれはそれで非常にやりがいがあるものだった。サークルでの飲み会や合宿、俗にいう「リア充」な生活、そんなものよりずっと楽しく、充実した毎日だった。確かに周囲の普通の学生達からみれば僕の毎日は理解できないものだろう。実際に誰かに会うわけでもなく、PCに向かって話しかけているようなものなのだから。
僕が麻雀、天鳳をやりこんだ理由はわからない。なんというかそのゲーム性に惹かれたんだろう。高校時代から麻雀はやってはいたけれど、本格的にやりこんだのはニコ生を始めてからだ。
配信を始めて、様々なこと、様々なひととの出会いがあった。いつの間にか消えてしまったひとももちろんいるし、放送当初から今までずっと配信に来てくれるひともいる。その出会いがあったからこそ、僕はこうして天鳳を打ち続けている。
様々な麻雀に触れてきた。鳴き麻雀、面前麻雀、読みを重視した麻雀・・・その全てが魅力的に映っていたし、それを僕は理解しようと必死だった。打牌を考える、その理由を考えるのが楽しくて仕方がなかった。それは一場面に2時間も討論したり、4時間以上同じ牌譜を見続けたりすることに現れていたと思う。理解したくて、上達したくて仕方がなかった。なによりもそれを一番においていた。
よくこんなことを言われた。「はーつさんはよく一場面にあれだけ時間を費やせますよね。僕ならあれほど熱意を持って考えるのは無理です」 繰り返すけれど、僕にとってはまったく苦痛でなかったし、楽しいくらいだったからこの指摘は僕にとってはふーんという感じでそのときは何も思わなかった。
だけど今このことで思うのは、麻雀に対してあれほど熱意があることは珍しいんだな、ということだ。当事者である僕がこういうことを言うのはおかしいかもしれないけれど、麻雀というゲームにおかしいくらいに熱中する、これがマイノリティで価値があったからこそ、コミュニティも大きくなったし、リスナーの方々もついてきてくれたのではなかったのかな、と思う。
麻雀に対しておかしいくらいに熱中すること、周囲を省みずに麻雀だけを見続ける、いわば麻雀中毒者、それがガチ勢だと僕は思う。
別に麻雀中毒がいけないことだとは思わない。何かに熱中するのは良いことだと思うし、それがあって初めて充実した毎日というのはおくれると思うからだ。
そう、強くなるため、上達するため・・・天鳳位を目指すため。
それが僕の全てだった。こうして文章にしてしまうと片腹痛いのは承知だし、バカだなあと思われるのもわかっている。だけどこういうバカバカしいくらいの熱意が無ければ麻雀に入れ込むことはできない。なぜか? それは麻雀が、結局は娯楽であり、遊びであり、運ゲーだからだ。
「麻雀は運ゲー、娯楽」こんな当たり前のことを僕はわかっていたようでわかってはいなかった。ただわかっていなかったからこそ僕はガチ勢であったのだと思う。
口ではわかっているといっておきながら、僕はそうではないと思っていた。どこかで麻雀でなんとかしてやろうと思っていた、「どこかで麻雀は実力ゲーで、努力して強くなれば、それが確実に結果として現れる」そんなことを思っていた。
僕の日記を読んでいる人なら承知だと思うけれど、麻雀は200戦単位で不調を引くのは当たり前のゲームだ。また1000戦単位で自分の実力以上の結果が出ることもしばしな起こりうる。
1000戦での変動順位は「0.058」 鳳南で0.05といえば大きな差だ。2.40ならほぼ天鳳位クラスだが、2.45なら並の8段クラスだ。
1000戦・・・こうして文字にしてみれば簡単だが、莫大な時間を必要とする。そう、そこまで莫大な時間をかけたとしても麻雀は運ゲーの範囲を出ないのだ。
こうしたことを僕はわかっていたつもりだった。しかし、ある日僕は自分に対して疑問を抱いてしまった。「こんな運ゲーを果たしてこのまま突き詰めるべきなのか・・・」と。ある意味では自分自身がやってきたことに対する冒涜に近いかもしれないこの問いは、度々僕のなかで生じてはいたのだけれど、そのときまでは僕の麻雀への狂気とも似た感情がそれを消し去り続けていた。ある意味で
僕は麻雀が運ゲーということに対して目を背けていたのだ。
第三者からすればあまりに認識が甘い、というように思われるのかもしれない。麻雀をやるからにはこんなことは当然だろう、と。しかし言葉として発するからといって、それを理解しているということにはならない。言葉と理解には溝がある。
今回、僕はこの問いに対して向かいあうことになった。
麻雀の限りないギャンブル性を受けいれることが果たして自分にできるのか、と。
僕の答えは「ノー」だった。
自分なりに良く考えたつもりだ。でもどうしても割り切ることができなかった。200戦での不調が当たり前なら、50戦、20戦なんて少数では何が正解なのかはわからない。たとえ正解を選んでいるにしても結果がついてくるとは限らない。その結果までどれほどの時間、試行回数が必要なのだろう?
麻雀は抽象化するのが難しいゲームだ。よって厳密に答えを出すことは困難であり、今のところは不可能だろう。とするならば正解は個人の主観でしかない。そしてその主観は本当に正解なのかはわからない。不調を引いたら正解は正解でなくなるリスクが常にある。そんな状態でどうやって正解を導くというのだろう?
もちろんこれらをわかったうえで、麻雀をやり込むことは結構だと思うし、それはそれで否定はしない。これは僕の意見であり結論だから何か普遍性があるわけでもない。運ゲーということを受け入れて麻雀を突き詰める生き方もありだろう。
僕は麻雀というゲームを受け入れるだけの器量、そして覚悟がなかったということ。
このことを悟った瞬間、僕のなかで何かが消え去った。それは事実だ。
別に天鳳を引退するつもりはないし、これですぐ何かが変わるということでもない。だけど僕はもうガチ勢と呼ばれるほどの熱意は無くなった。
残念だけれどこれが約一年半、麻雀をやり込んでたどり着いた結論だ。でも今までやり込んできたことが無駄だったとは決して思わない。様々な人と出会ってきて、様々な経験をした。いずれもあの日あのとき、ニコ生を始めなかったら決して経験できなかっただろう。
あるリスナーの方がこんなコメントをしてくれた
「一歩進むことは何かを諦めること。諦めることが成長に繋がる」
どんな選択にも得るものと失うものがある。失ってきたものは多いけれど、それを乗り越えて、これからの人生の成長の糧にしていければいいな、と思う。
長文すみません>< ここまで読んで下さった方本当にありがとうございました。