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挙母祭り(ころもまつり)
挙母祭りと挙母神社の由来
挙母祭りの山車の起源は「江戸時代の初めころ」と伝えられています。記録にも「飾り車五輌(神明町、東町、中町、本町、西町)と笠鉾(竹生町)、獅子(南町)が出」とあります。その後、寛延2年以降、この地を治めた内藤氏によって「獅子、笠鉾」も飾り車への転換が図られ、安永7年の記録には「北町(現喜多町)の飾り車が加わり八輌となった」と記されています。その後、町民文化の爛熟期である文化、文政年間を経て、現在の山車の形になったと考えられています。なお、この時代は下町八町でしたが、矢作川の氾濫等、時代の変遷により現在は下町五町と樹木三町とに分かれていますが、山車八台は昭和39年に愛知県の有形民族文化財に指定されています。
挙母祭りの行われる挙母神社は明治初期まで「子守大明神」と言われていました。創建年代は不明ですが社伝によれば、源義経の臣、鈴木重善(善阿弥)が大和吉野を出発して矢作まできたとき、義経が奥州で戦死したことを聞き、当地(衣=挙母)に隠れ住み、のち、吉野から「子安社」を歓請捧持した分神を祀ったのが現在の挙母神社です。
山車の保存と組み立て
多くの山車は普段は解体され保存されています。山車の素材は欅、樫、紫檀、黒檀等の上材が使われており、各町では土蔵作りの「山車蔵」を作り大切に保管してきました。しかし、これらの山車蔵も時代と共に損傷が激しく、各町では山車を後世に伝えるためこれらの山車蔵を建て直し保存につとめています。なお、山車を飾る大幕も劣化が激しく近年、各町では新調したものを使用し、旧幕は保存してあります。
山車の組み立ては、どの町でも祭りの1〜2週間前に行います。図面などなく経験と勘により行われ、釘は使わず木製のツメや麻ひもを使って組み立てられていきます。
「試楽」、「本楽」
挙母祭りは毎年10月の第3土・日の2日間に渡って行われ、一日目を「試楽」(しんがく)、二日目を「本楽」(ほんがく)と呼びます。
試楽では各町の山車はそれぞれの町と地区を曳き廻します。樹木地区では午前中三町曳きを、続いて午後より町内曳き。下町地区では午前中に町内曳きを済ませ、午後より五町曳きを行います。夜はこの地方独特の行事「七度まいり」が行われます。
本楽は挙母神社最大の行事の一つ、神社への曳き込みの日です。朝10時、各町の山車は順序に従い神社前に集合します。神社の中では南町の獅子(一角の珍しい獅子頭)による御祓いが行われ、神社内が清められます。合図と共に綱元、梶方にピンと緊張が走り、若衆は気勢を上げ山車は一気に境内に駆け込みます。山車の曳き込みを終えると宮司を中心とした神事が行われ、この後、御輿の渡御(巡行)となります。御輿は天狗面をを付けた猿田彦を十名の白丁が守り、神官や供奉員と共に約6kmに及ぶ巡行に出ます。
そして午後4時前、御輿が神社へ戻ると挙母祭り最大の行事、山車の曳き出しです。境内一杯の人並みがかき分けられ、先頭の華山車(はなぐるま)の大役を受ける一番の山車の綱が引き伸ばされると、この瞬間を待ち望んでいた観衆から大きな拍手とどよめきが起き、各町の山車はピリピリとした緊張感に包まれます。号砲一発「行くぞっ」の声と共に華山車の木輪がグリッと前に出ると、山車に携わる者・観客を問わず興奮のるつぼ化していきます。紙吹雪が乱舞するなか名物・大銀杏をぐるりと周り、大鳥居から神社前の狭い道路にと続けざまに山車を操る難関ばかりの曳き出しです。そして一台また一台と八台の山車が神社を離れ、それぞれの町に戻ると祭りも終わりをむかえます。人々はこの興奮も冷めやらぬ今、来年の祭りに思いを馳せるのです。
七度まいり
試楽の夜に行われるのが「七度まいり」です。高張提灯を先頭に挙母神社に向かいます。鳥居前に集合したあと、神殿まで進み拝礼し鳥居まで戻る。これを七回続けるのですが四回目からはそれまで整然と進んでいた様子が一変します。特に若衆を中心とした一団が高張提灯を中心に集まり「オイサッ、オイサッ」の掛け声と共に揉み合い出します。だんだんと熱気を帯びた一団は興奮し「けんか祭り」になったこともありました。なお、七度まいりは珍しい風習ですが、いつ頃、どうして始まったのかは不明です。
愛知県豊田市の「挙母まつり」を詳しく紹介しているYuk!さんのページ。
他にも豊田市に関する様々な情報が入手可能。
相互リンク
各町の山車
本楽【曳き出し】(1992年)の様子です。再生にはApple QuickTime Playerが必要です。