| ☆EP6ネタバレ警報☆ 以下、約30行のネタバレ改行後にそのまま載ります(伏せ字ではありません)。ご注意下さい。
ネタバレ改行中
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●紗音嘉音問題
わたしは、ep6発表前までは、
・嘉音は存在しない架空の人物である。 ・嘉音は、朱志香が創造した幻想存在である(さくたろうのようなもの)。 ・嘉音と紗音は同一人物ではない(一人二役ではない)。
という推理を持っていました。 (犯人特定→「朱志香=ベアトリーチェ」説・総論からご覧下さい http://blog.goo.ne.jp/grandmasterkey/e/a5cfe5f7d2304036197da08f756ba93e )
「ヱリカを含めても島の総数は17人である」と言明されました。これをOKだとすると、「金蔵と同様に、いると見せかけているけれど実はいない人」 が、もう1人、いなければなりません。
その「1人」とは、嘉音でよろしいと思います。
そして、わたしはこれまで、「嘉音は朱志香による幻想」だと思ってきたのですが、推理を修正し、 「嘉音は、紗音が創造した幻想存在である」 (紗音にとってのさくたろうのようなもの) というかたちに、考えをあらためたいと思います。
箇条書きにすると以下のようになります。
・嘉音は存在しない架空の人物である。 ・嘉音は、紗音が創造した幻想存在である(さくたろうのようなもの)。 ・嘉音と紗音は同一人物ではない(一人二役ではない)
以下、説明を加えます。
●どうして家具の恋は実らないのか
「譲治・紗音ペア」と「朱志香・嘉音ペア」。 どっちか片方の恋しか実らないことになっているので、決闘でもして決めたまえ。 そういう話になっていきます。
嘉音と紗音は、自分たちで、こういう条件を設定しています。
・嘉音が勝ったら、お嬢様を愛し、姉さんも大切にする。 ・紗音が勝ったら、嘉音と島を忘れて、ここを永遠に出て行く。 ・嘉音「姉さんがここを辞めることがあったとき、自分も辞めると決めていました」
これは、彼女と彼の「意志」であるように描かれていますが、どうしてもそうならざるをえない「条件」だと考えたらどうでしょう。
整理しましょう。
・紗音は、島を出て行くことができる。 ・紗音は、嘉音を忘却することができる。 ・嘉音は、紗音が仕事を辞めて出て行ったとき、自分も辞めて出て行かねばならない。 ・嘉音は、朱志香を愛するので、島から出ていかない。 ・島から出ていかない嘉音が、紗音を大切にするためには、紗音が島から出ていってはならない。
この条件から考えると、 「主=紗音」「従=嘉音」 であるとするほかはないのです。 同格の存在ではありえない。
嘉音だけが仕事を辞めて島を出て行き、紗音は島に残る、という状況が、この「条件」からは決して導けない。 紗音が島から出ていくとき、まるで紐がくくってあってつながってるみたいに、嘉音も島から出て行かねばならない。
すなわち。決して同格ではないのだから、「一人二役」ではない。 1人の人物が、紗音と嘉音を使い分けていて、今後どっちか片方だけにしなければならない……といったことでは「ない」。
また、嘉音が主体であり、紗音が彼の幻想であるといった結論もほぼ導けない。嘉音が紗音のことを忘れて幸せになるという条件がない(逆はある)。 朱志香は来年以降、大学進学で島を出る見込みにある。にもかかわらず、嘉音は「島を出て、朱志香と幸せになる」という未来図を描かない。
以上のような思考をたどり、その結果。
・嘉音は、紗音が創造した幻想存在である。 ・紗音が勝負に勝ったとき、譲治と一緒に島を出て行き、「お人形遊び」からは卒業するので、「お人形」である嘉音のことは忘却される。(嘉音は存在しなくなるので、嘉音と朱志香の恋は実らない) ・嘉音が勝負に勝ったとき、嘉音が恋を育み続けるために、紗音は嘉音を存在させつづけなければならない(お人形遊びを卒業してはならない)。そのためには島にいつづけなければならないので、譲治について行くことはできず、紗音と譲治の恋は実らない。
●嘉音の依り代
紗音はもともと、だめな使用人だったのですが、細かくメモを残すようにしてから、忘れっぽさという欠点を克服しました。
この「メモ」が、さくたろうにおけるぬいぐるみに相当するものじゃないかな、という想像です。
嘉音は、紗音とちがって、仕事はしっかりできる子です。 そして「メモ」は、仕事がしっかりできるようになりたい、今のだめな自分を変えたい、という、紗音の「願い」がかたちになったものです。
若い紗音のやわらかい心は、いつしかそのメモを核にして、自分を励まし、支え、助言してくれる、「もう1人の理想の自分」をつくりあげたんじゃないかな。
だめな自分とは全く違う人。 それは、自分ではないものになりたいという願望。 だから、本当の自分とは正反対に。
皮肉屋で。 攻撃的で。 ハッキリとものを言う、 男の子。
そんなキャラクターが、生まれた。
自分が、仕事でミスをしそうだという予感があったとき、嘉音くんに、 「気をつけてよ姉さん」 と言ってもらう。 紗音は、 「わかってますっ」 と、ちょっとむくれながらも、気持ちをあらためて仕事を再チェックする。 「まったく姉さんはドジなんだから」 「最近はそうでもありませんっ」
内面でそんな自己対話をしながら、紗音は「しっかりした女の子」になっていったんじゃないかな。
●共有された幻想
両目でものを見ないと立体感は出ません。
ゲームマスターになったバトラ卿が、自分の好み通りのベアトリーチェを幻視してはみたものの、そのベアトリーチェは自分が許したセリフしかいわない、自分の想像の範囲内のことしかいわないので、幻滅する。 そういうくだりがありました。
幻想存在が生き生きと活動するためには、 「自分には想定できなかったようなこと」 を、言ったり、したりしてくれなければならないのです。
自分ひとりでお人形を動かしていても、自分の想定範囲内でしか動かない。
つまり。 紗音ひとりで嘉音を動かしていても、嘉音という幻想存在は、あれだけ生き生きとしたキャラクターには絶対にならないだろう、と考えられます。
ではどうすればいいのか。 お人形遊びをしたことがあれば、それはすぐわかるんじゃないかな。
「自分が創造したお人形を、他の人に動かしてもらうこと」です。
他の人が、自分では想定もしなかった行動原理でお人形を操ってくれるとき、予定調和は崩れ、そこには意外性が発生します。 まるで本当の人間のような肌触りが生まれる。 ペラかった存在に、はじめて、立体感が生まれるのです。
思えば、さくたろうという幻想も、ベアトリーチェやワルギリアが「共有」してくれたおかげで、あのだぶだぶした人のような姿を手に入れたのでした。
幻想は、誰かに共有されたとき、はじめて立体的な存在になる。 と考えましょう。
だとしたら、嘉音という幻想存在を、「認め」て、共有してくれたのは、やっぱり朱志香じゃないかな。
嘉音は、紗音が作り出したオリジナルキャラクターだけれど、そのキャラクターを朱志香も共有している。 朱志香も、嘉音というお人形を動かすことができる。 朱志香が嘉音を動かすとき、紗音は意外性を感じて惹かれ、紗音が嘉音を動かすとき、朱志香は意外性を感じて惹かれる。それこそ、恋してしまうくらいに。
紗音がみた嘉音。 朱志香がみた嘉音。
そのふたつの嘉音が重なり合わされるとき、 「右目で見た像」と「左目で見た像」が重なったときのように、存在は立体化される。
だから、より厳密にいえば、 「嘉音は、紗音が創造した幻想存在である」という答えは、ほとんど不正解なのです。 もちろん、 「嘉音は、朱志香が創造した幻想存在である」という答えも、不正解。
より正確な答えは、そのふたつを重ね合わせたもの。 「嘉音は、紗音が創造し、朱志香が承認した、共有幻想である」
これで、良いのじゃないかな。わたしは、この答えで満足できます。
●ベアトリーチェの復活
さらにいえば、ベアトリーチェも、きっとそう。 戦人が望んだベアトリーチェを、雛ベアトが共有する。 雛ベアトが、ベアトリーチェという幻想存在を共有し、その幻想を動かすとき、意外性によって立体化され、「戦人が望んだベアトリーチェ」がそこにあらわれる。
●「ふたつの真実」と、作者・八城十八
古戸ヱリカは、最後の局面で、「真実がふたつある」という境地を発見します。
「クローゼットに人が隠れている」と答えれば、「ベッドの下に隠れている」が正解になる。 「ベッドの下に人が隠れている」と答えれば、「クローゼットに隠れている」が正解になる。
どっちか片方が真実だ、と思うかぎり、絶対に正解できない。 それはあたかも、 「右目で見た世界が本物なのか」「左目で見た世界が本物なのか」 という問いにひとしい。 ふたつの答えを重ね合わせたものが、ほんとうの真実なのです。
さて。 これまでわたしは、「立体感」「立体視」と言いつづけていますが、このキーワードを作中でほのめかした人たちがいます。 ひとりは、右代宮縁寿。 もうひとりは、八城十八です。
縁寿はこう言います。
私なりの見方は、すでにしている。 でもそれじゃ、片目で見ているに過ぎない。 私と異なる見方も受け入れ、視点を増やさなければ、真実を立体視は出来ない。 それが、私の解釈する、“愛がなければ視えない”、だ。
八城十八は以下のように言います。
あなたに視える真実と、私に視える真実を重ねなさい。 あなたが片目でものを見るように、私もまた片目で見ている。 私もあなたを得て初めて、両目で真実を視ることが出来るのだから。
つまりこういうことでしょう。
縁寿は、縁寿なりの真実にたどり着いている。 それはたとえるなら、右目で見た世界のようなもの。 「クローゼットに人が隠れている」という解答のようなもの。
八城十八は、八城十八なりの真実にたどり着いている。 それはたとえるなら、左目で見た世界のようなもの。 「ベッドの下に人が隠れている」という解答のようなもの。
どちらかが正解で、どちらかが不正解だ、と認識するかぎり、絶対に正答できない。
ふたりが出した、ふたつの解答を、つきあわせ、重ねあわせたとき、初めて立体的な真実が見えてくる。
だから、八城十八という作者は、右代宮縁寿という読者を必要とするのです。
作者・八城十八が描いた物語は、それ単体では、八城十八がひとりで演じるお人形遊びのようなもの。 それを、右代宮縁寿に読んでもらう。 自分の編んだ物語を、縁寿の解釈で朗読してもらう。 自分が作り上げた人形を、縁寿に手渡して、縁寿にあやつってもらう。
そこに意外性が表れ、豊かなノイズが入り込み、物語は立体的になる。 作者自身ですら気づかなかった「この物語の意味」が示唆されることすらある。
八城十八は、途中で原稿を縁寿から取り上げ、 「あなたの考えを言わなければ、続きは読ませない」 などという所行にでます。
それはある意味、当然の行動なのです。 八城十八は、自分の真実が、片目で見た真実でしかないことを認識しています。
だから、他人が編み上げる真実が欲しい。
同じ材料を与えられた右代宮縁寿が、自分とは異なるどんな真実を編み上げるのかが見たい。 そのふたつの真実をつきあわせて、差異をたしかめたい。
ふたつの真実をつきあわせたとき、その狭間に見えてくるものが、「立体的な真実」であるだろう。八城十八が求めているものはそれなのです。 そして、右代宮縁寿も、原稿の続きを読めば、自分とは異なる真実とのつきあわせを行なうこととなり、自然に八城十八と同じものを手に入れることになるでしょう。
●作者・竜騎士07さんの片目の真実
この、八城十八と右代宮縁寿との関係性を、 「作者・竜騎士07とわたしたち読者」 の関係性にそのままうつしかえて見る。これはごく自然な連想でしょう。
ならば、 竜騎士07さんは、自ら、 「私の提示する真実は片目で見た真実でしかない」 ということを、認めていることになります。
「あなたたち読者がいなければ、私でさえ、真実に到達できない」
と、彼は言っているにひとしい。 (という解釈はできる)
「だから、この材料から手に入るあなたがたの真実を私に教え、私に立体感を与えてくれ」 という要望のようにも見えますね。推理して欲しい、その推理を知りたい、という要望のようにみえます。
ちょっと話がずれますが、少し関係ある別の話をします。
作家さんや、漫画家さんのインタビューなどを見ていて、 「キャラが勝手に動いてしまう。楽な部分もあるけど、思い通りにもならない」 ということをおっしゃっているのを、読んだことがないでしょうか。
もし、キャラが勝手に動くのであれば、それは、「意外性」を作者ひとりで生み出せるということ。「豊かなノイズ」を「共有者」ぬきで生み出せるということになるじゃないか。 そういう主張が可能のようにも思えます。
でも、それは違うのです。
ひとりだけで作った、誰にも見せない作品のキャラクターが、「勝手に動き出す」ことって、たぶんないのです。
あれは、「読者が観測したキャラクター」を作者が再観測することで、立体感が出るからなんです。 世の中に、その作品を解き放ったことで、キャラクターが共有され、自分が想定もしなかったような、新たなイメージが増殖する。 作者が設定したキャラクターと、読者が認識したキャラクターの間の、ささやかなズレ。そのズレが立体感として感知されるのです。
つまり「キャラが勝手に動く現象」は、読者がキャラを共有し、そのキャラでお人形遊びをしてくれた結果、発生するのです。
竜騎士07さんは、同人出身の作家です。 同人誌の世界というのは、まさに、「キャラクターイメージの自動増殖装置」だといえます。
同人出身の竜騎士07さんが、「イメージと真実の、増殖と変形」「それにともなうフィクションの立体化」ということに意識的であるのは、ほとんど当然といえます。
作品とは、作者の手の内にあるのでも、読者の手の内にあるのでもない。作者と読者の立ち位置のちょうど中間にある空間の立体視なのです。
●ゼパルとフルフル、性別問題
悪魔ゼパルと悪魔フルフル。 どっちか片方が女の子で、どっちか片方が男の子だ、という条件が与えられています。 これは、当てようと思っても、絶対に当たりません。 あなたが、「ゼパルが女の子」と決め打ったら、「フルフルが女の子」が正解です。
これも、右目と左目のリドル。立体視の問題。
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