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No39076 の記事


■39076 / )  【EP6ネタバレ注意】Ep6幻想祝福論・虚実境界線は引けない
□投稿者/ Townmemory -(2010/01/19(Tue) 15:52:46)
http://blog.goo.ne.jp/grandmasterkey/
     ☆EP6ネタバレ警報☆
     以下、約30行のネタバレ改行後にそのまま載ります(伏せ字ではありません)。ご注意下さい。










     ネタバレ改行中












     ネタバレ改行中












     竜騎士07さんは「虚実」という単語を独特の意味でつかいます。これは辞書的には「虚構と現実」「ウソのこととホントのこと」「実体のないこととあること」。つまり文字通り「虚と実と」という意味なのですが、竜騎士07さんはほぼ「虚構」の意味で使うようです。「否定されなければ、虚実すらも、真実」という言い回しが典型的ですね。

     さて、本稿でも以後、「虚実」ということばを使いますが、これは辞書通りの意味だと思って下さい。つまり「虚構」の意味ではなく、「虚と実と」という意味です。


    『うみねこ』という物語において、「虚と実と」の境界線って、いったいどこに引けばいいんだろう、というお話をこれからしてみます。

         *

     そもそも『うみねこ』は
    「魔女が犯行をやったのか、人間が犯行をやったのか」
     という設問から始まっているわけで、つまりはじめから、
    「どっちが虚でどっちが実なのか」
     というのを問う物語であったわけです。

     その後、いくつもエピソードが公開されて、いくつもの論点が追加されていきました。
     それらも、つきつめれば、「虚実の境界がどこにあるのか」を問うものだったんじゃないかな、という気がしてきたのです。

    『うみねこ』の難しさって、
    「どっからどこまでが確かな情報なのか、わからない」
     ということにつきると思うのです。

     エピソードが進むにつれ、現実的だと思えていた領域に、どんどん幻想的なものが侵食してきている。


     例えば。

     下位世界のキャラクターであるヱリカが、上位世界の情報を持ったうえで行動しているかのように描かれたり。

     猫箱の外なのだから、現実的なことしか起こらないはずの1998年の世界で、縁寿が、現実的には存在しないはずのベルンカステルに出会ったり。

     現実的に起こっている殺人事件が、上位世界では「ゲーム」として扱われ、これはいったいゲームであるのか、それとも現実の事件であるのか、ごっちゃに思えてきちゃったり。

     下位世界の駒キャラたちが、上位世界(らしき場所)に呼ばれて、
    「今から親たちを殺しておいで。大丈夫これはゲームで本当じゃないから」
     みたいなことを言われたり。


     そういうのを見るたびに、わたしなんかは、
    「えっ、こっち側のこのへんって、現実じゃなかったの?」
     と、わりあい素直にビックリしていました。

         *

     そのへんのビックリの、最たるものが、今回Ep6での、八城十八の登場でした。
     小説家・八城十八先生は、「Ep3以降のお話は私が書いてネットに流したものだ」と言い出しました。

     それならば、
     Ep3以降の展開は、八城十八が勝手にこねくりだして作ったもので、ベアトリーチェと戦人のはげしい推理合戦などは、「実際には起こっていない」ことなの?
     わたしたちは、どこでどうやって、というのはさておいて、とにかく一応「見たエピソードは、何かの形で、起こったこと」だと認識してきた(そういう人が多数だろう)と思うのです。
     でもそれが「第三者の創作」であるのなら、Ep3以降にはベアトリーチェの意図は介在していないということになるの?

     と思っていたら、今度は、「八城十八の正体は、魔女フェザリーヌ」ということが示唆されました。
     魔女フェザリーヌは、ベアトリーチェのゲーム盤をのぞき見ることができる立場らしいです。
     ということは、Ep3以降の物語は、やっぱりベアトリーチェがきちんと起こしたことであって、それを忠実にフェザリーヌが「書き写した」ものであるのか? それを「伊藤幾九郎なにがし」という名義で発表した、ということなのか?

     と思っていたら、次には「魔女フェザリーヌとは、八城十八が書いた偽メッセージボトルに登場する架空の人物である」という情報が追加されるのです。Aだと思ったらB、Bだと思ったらA。コインの表を裏返したら裏。裏をまた裏返したら表。


     そもそも、Ep6の縁寿は、「Ep4で描かれた新島や六軒島の顛末」に関する記憶を持っているという、不可解な状況です。
     Ep6の縁寿は、「ほとんどの場合で、八城十八には会えない」という、平行世界的な認識すら持っているのです。
     ということは、「いるはずもないベルンカステルに、1998年の縁寿が出会う」というシーンが幻想であるのと同じように、「会えたはずのない八城十八に1998年の縁寿が出会う」というシーンも幻想なのであろうか。これは特に無理のない想像です。

     でも、「ほとんどの場合で、八城十八には会えない」ということは、
    「すべての場合で、縁寿は八城十八に会見を申し込んでいる」
     と見なせます。
     縁寿が八城十八に会見を申し込むためには、「伊藤幾九郎が書いた偽書メッセージボトル」が評判になってないといけないので、やはりEp3以降はネットに流されていないと困るのです。ということはやはり八城十八という人物はいる……?


     この堂々巡り。
     頭のいい右代宮縁寿は、たった一言で要約してみせるのです。

    「あんたがフェザリーヌなの? フェザリーヌがあんたなの?」

     素晴らしい。そういうことなのです。
     八城十八が現実で、フェザリーヌが幻想なのか。
     フェザリーヌが現実で、八城十八が幻想なのか。

     どっちが虚でどっちが実なのか。

     はっきりしてほしい。

     これを「はっきりしてほしい」と思うのは、読んだ人の素直な実感でしょう。

     しかし、この物語は、それをはっきりさせない。
     それどころか、むしろ、
    「はっきりさせない、というのが、このお話のコンセプトです」
     ということを、Ep6で明確に打ち出してきた。そんなふうに感じるのです。

         *

     縁寿が別れ際に放った、
    「八城十八がフェザリーヌなのか、フェザリーヌが八城十八なのか」
     という問い。
     これは、「八城十八が物語を創作したのか、それとも、フェザリーヌが実際にその目で見聞きした現実を、八城十八の創作だという建前で公表したのか」という意味に受け取って、かまわないと思うのです。
     八城十八はそれに答えませんでした。

     八城十八がそれに答えなかったことによって、
    「その虚実は、永遠に確定されないことが明言された」
     というふうに、わたしは受け取りました。

     これもまた、「左目と右目のリドル」だと思うのです。

     古戸ヱリカが到達した認識。
    「クローゼットの中に人がいる」のか、
    「ベッドの下に人がいる」のか、
     どっちか片方だ、と思った瞬間、真実はその手をすり抜け、決してつかむことができなくなる。

    「八城十八とフェザリーヌ、どっちが虚でどっちが実なのか」

     これもまた、「クローゼットとベッド下のジレンマ」だと思うのです。
     どっちか片方に決めようと思うかぎり、真実はその手をすり抜けていく。

     どっちか片方には決められない。
     だから、両方を、こう、「もやっと」つかんだ気になるしかない。

     ここからここまでが現実で、ここから先は幻想……というような、境界線は「引けない」。
     引けそうになってしまったら、「引かさない」ように煙幕が張られる。

     この作者は、どこからが虚でどこからが実なのか、という問いに対して、
    「どっちかには決められない物語」
     を描こうとしている。
     そういう強い意志を、わたしは感じるのです。

         *

     同じことを言い換えますが、
     八城十八とフェザリーヌの例にしろ、下位世界と上位世界のことにせよ、

    「どこからが現実でどこからが幻想なのかが、意図的にぼやかされている」

     ということなんだと、わたしは思います。

     境界線が隠されている、というよりは、
    「作者にすら、どっちかハッキリとは決められないような構造がつくられている」
     と受け取るのが妥当だと思います。

    「現実と幻想の境界線なんて、いったい誰が決められるというの?」

     という着地点(主張)にむけて、物語構造がつくられている。
     そういう受け取り方です。

    「ここからここまでがハッキリした価値のある現実で、ここから先は意味のない作り事(幻想)です」
     というような線引きをしちゃうのって、「愛がない」のではないの……?
     という物語が、「うみねこ」なのではないか。
     そういう構造が感じられるのです。

     だから、「ベッド下」という推理が幻想なのか、「クローゼットの中」という推理が幻想なのかは、「線引きができない」という主張がなされる。
     ゼパルが男の子なのか、フルフルが男の子なのかという「線引き」はなされない。

     どうしても線を引きたければ、読んだ人が勝手に引けばいい。
     決めたければ、決めればいい。
     でも、決めなくても、べつにかまわない。
     右目で見た世界。
     左目で見た世界。
     どっちが「本当の」世界なのかなんて、決めなくてもいっこうにかまわない。でも、どうしても決めたい人は好みで決めたらいい。

     ラムダデルタという多世界転移能力を持った超人がほんとうにいて、その人がベアトリーチェを魔女の位に引き上げてくれたのか。
     それとも、ベアトリーチェの中の人が、「ラムダデルタという架空の超人」を夢想して、その人によって魔女認定してもらえたという「夢を描いた」のか。

     その区別は、きっと、永遠に断定されない。そう思うのです。

     どこからが現実で、どこからが虚構なのか。
     それは、「決められない」が答え。
     それを絶対に決められないような世界構造を作ろう、というのが趣旨であるのだろう、とわたしには思えるのです。


     でも、どうしてこの物語は、その断定をしないのだろう。虚実の線引きを、断固として拒否する、その理由はなんだろう。


     それは、この物語が、
    「現実は優位であり、虚構は劣位である」
     という、世間の思いこみに対する、反旗だから。

     というふうに、わたしは、読みました。
     というか、そういう反旗であってほしいとわたしは願望します。


     この物語の構造においては、現実を虚構化することができ、虚構を現実化することができます。
     そういう条件下においては、「現実は優位、虚構は劣位」というひきくらべは、まったく意味をなさなくなるのです。

     そもそも、「現実と幻想の区別を、はっきりさせたい」という欲求は、「現実には価値があり、幻想はそれほどでもない」という無意識の基準線に基づくものではないでしょうか?
     その無意識のひきくらべに、痛烈な一撃を食らわせたい。
     そういう趣旨があるのだとしたら、理解できそうじゃないでしょうか。


     Ep6では、「六軒島の爆発事故」が、はじめて明言されました。
     各エピソードで、必ず爆発事故が起きて全滅するのだとしたら、ボトルメールさえ発見されれば「実際には殺人事件が起こっていなくても全然かまわない」。
     だとしたら、いったい、事件は起こったの? 起こっていないの?
     6エピソードあるうちで、どの事件が起こって、どの事件が起こっていないの?

     それを確かめたいという欲求がある。
     なぜなら、ほんとうにあったことと、まやかしのウソッパチを選り分けたいから。
     それは、素直な、自然な感情です。

     だけど、見方によっては、そこにあるのは。
     起こってないなら、それはウソゴトだ。
     という、一種の差別意識。

     たとえば、Ep3というお話が、実際には存在しない虚構だとしたら、それを読んだことで我々が感じた恐怖とか怒りとか、悲哀とかは、価値を減じてしまうのか?

    『フランダースの犬』を見て自然に流れた涙は、『フランダースの犬』の物語がフィクションであることをもって、価値を減じるのか?

     虚構の経験に価値がないというのなら、「他人の体験を聞いて、それを自分のことのように共感する」能力にも価値がないってことになります。
     だって、「他人から聞いている」時点で、「他人に起こった現実」と「他人に起こったという設定で語られる虚構」との区別は、本質的には存在しないですからね。
    (そう、まるで、秀吉の武勇伝のように)


     もう一度。
     この物語は、「人間による殺人事件」という現実的解釈が、魔女幻想によってじわじわと侵食されていく物語です。
     なんと、あの右代宮戦人君は、6エピソードを消化した結果、「人間犯人説」なんてものを、たったひとことも口の端にのぼせることのない人になってしまいました。
     それで良いのです。

     そして、『うみねこのく頃に』は、
    「この物語は幻想に決まっています」
     という前置きから始まるのです。

    『うみねこのく頃に』という幻想を見ている、現実のわたしたち。
     ほんとうに、その境界線は明確なのか?
     わたしたちが、彼らを見ているのか。
     彼らが、わたしたちを見ているのか。
     古戸ヱリカは誰に向かって「いかがですか、皆様方」と語りかけたのか。

     わたしたちが、鏡を見ているのか。
     鏡が、わたしたちを見ているのか。
     鏡を叩いて割ってみても、それは永久にわからない。なぜなら、鏡の向こうにいるわたしも、鏡を殴りつけるからです。

    『うみねこのく頃に』は、魔女幻想が現実を侵食する物語。
     その現実、とは、作中の現実にかぎらないと思います。
     我々が、自分の手を触って、肉体を感じる、この現実そのものすら、侵食されうる。
     そういう構造が――つまり「魔法儀式」が、組み立てられていると思います。

     われわれは、鏡のこちら側を現実、鏡の向こう側を幻影だと思い込んでいます。
     この、「鏡」が「虚実の境界線だ」という思いこみ。
     それを、こなごなに割ってみせる物語。
    「鏡砕き」の儀式魔法。
    『うみねこのく頃に』は、そんなふうに、ある意味において、虚構世界の悪魔たちが現実に攻め込んでくるための魔法陣そのものなのでは? という、ちょっと先走ったような推理なのです。


         *


     先ほど、
    「どうしても虚実の境界線を引きたければ、読んだ人が勝手に引けばいい」
     というつきはなした言い方をしました。

     けれども。
     これは見方を変えれば、
    「この手にペンを持って、好きなところに線を引ける自由」
     ということにもなると思うんです。

     わたしは先ほど、「この物語はあえて、なにひとつ確定的ではない」ということを言いました。
     それは言い換えれば、
    「何が確かなものなのか、好きに決めて思い込むことだってできる」
     という「可能性」でもあるんだと思うのです。

     わたしはこの物語は、「確定的なことと不確定なことを選り分けて真実をさぐる」物語では「なく」、
    「なにひとつ確定的ではない世界の中で、自分(あなた)という人はいったい何を真実として選び取りたいのか」
     という「意志を問う」お話なのだ、というふうに受け取っています。


     大好きだから、何度も引用するのですが、Ep5のこのセリフです。

    「あぁ、そうだ。俺の真実に関係なく、お前の真実も同時に存在する。……それが、この世界だ」
    「ここでは、想像の数だけ真実があっていいんだ。それを、誰も一方的に否定してはならない…!」


     これは我々にも適用されていいと思うのです。

     うみねこという物語には、「それぞれの人が選び取ったものを尊重したい」という姿勢があるように思うのです。
     同じお話を見ているのに、それぞれが想像する「真相」がまるでちがう。
     その違いを「良いこと」として扱いたい。
     そんなケハイがするのです。
     同じアニメを見ているのに、そこから派生した同人誌の内容は、それぞれまるで違う、みたいなことです。

     何度もこの例を出しますが、竜騎士07さんは、同人出身の作家です。
     原作というひとつの物語から、同人誌という「無限の」偽書がひろがっていくさまを、肌身で感じてきた経験をもつ作家なのです。

     そんな竜騎士07さんには、
     生み出されゆく無限のヴァリエをよろこびたい、
     祝福したい、
     そんな気持ちが、ひょっとしてあるんじゃないかな? という勝手な想像なんです。

     だから、インタビューなどを見ていると、「オフィシャル的にこれが正解で、これ以外は不正解です」みたいなことをハッキリさせたくないという姿勢があるように、わたしなどは感じる。
    「赤字が本当に真実であるか」は、竜騎士さんは「はっきりさせない」。
    「ノックスがほんとうにゲームに適用されているか」は「はっきりさせない」。
     その姿勢のあらわれの最たるものが、「犯人は誰、とハッキリさせて終わるような終わり方にはしないつもり」という趣旨の発言になっていく……。そういう解釈です。

     卑近な言い方をすれば、「なるべくぼやかしたものにしておくから、そのへんは好きなように決めて空想したり同人誌作ったりすればいいじゃん」って感じ。

     前にも別の記事で例に出しましたが、Ep2の文化祭で朱志香が扮装するのは「東方シリーズ」の魔理沙というキャラクターです。東方シリーズの中でも、最も二次創作設定の多いキャラのひとりだと思います。
     ニコニコ動画の東方ファン動画などでは、「アリス(という女の子)からすごく好かれている」という二次設定がものすごく人気で、たぶん、そうじゃない設定の動画を探す方がかなり難しいんじゃないかな。東方の原作者ZUNさんは「そんな設定はない。むしろアリスは魔理沙が嫌いだ」という趣旨の発言さえしている(そうな)のですが、にもかかわらず、ファンから自然発生した二次設定のほうが圧倒的に支持されているのです。たぶん、これが二次設定だということを知らない人ってかなりの割合にのぼるはず。

     これってうみねこ風に言えば、
    「そんな設定はない」という反魔法の毒すらも克服して、ファンたちが錬成した「黄金」
     なのじゃないかな、という気がします。
    『うみねこ』という物語からは、
    「そういうユーザーたちの錬金術を、言祝ぎたい」
     という意志が、なんとなく、感じられるような気がするんだけど、どうでしょう。


     なにひとつ確定的ではないという「無限」。
     その中から好きに選び取っていいという「黄金」。

     それを自覚し、みずからの幻想をつむぎはじめたとき、わたしたちひとりひとりが「無限と黄金の魔女」なのだ……というようなこと。
     そういう受け取り方をすれば、虚構が攻め込んできて、魔女幻想に支配されるというのも、あながち悪いものでもないな、というフィーリングなんです。
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