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No41583 の記事


■41583 / )  疑うという“信頼”(上)・ベアトリーチェは捕まりたい
□投稿者/ Townmemory -(2010/03/06(Sat) 08:21:02)
http://blog.goo.ne.jp/grandmasterkey
     いくらか、こみいった話を。


    ●赤を「信じない」けれど、作者を「信頼する」

     わたしは、
    「赤字で言われたことの中には明確な(意図的な)嘘がまじっている」
    「このゲームはノックス十戒には準じていない」
    「赤字やノックスは、存在しないルールを存在するかのように誤認させるトリックだ」
     という考えを主張しています。


     Ep5の中に、「探偵小説は、作者と読者の間に信頼関係があってこそ成立するジャンルだ」といった主張が語られています。
    「Ep1〜4のベアトと戦人の間には、恋愛に似た信頼関係があった」といったことも語られました。
    「ベアトは、俺に解いて欲しいと願って、解けるようにこのゲームの謎を生み出した」
     という赤もありました。

     このことを引いて、
    「ベアトの赤字は信じるに足る、ということが示されたのではないか」
    「信頼のツールとしてノックス十戒は適用できるのではないか」
     というご意見を複数の人からいただいています。


     わたしは、相変わらず「赤で真実でないことを言える」と思っていますし、「このゲームはNo Knoxだ(ノックスに準じていない)」と考えています。
     でも、「探偵小説は作者と読者の信頼関係を前提としたものだ」というのは、その通りだと思っています。このあたりは竜騎士07さんの本音らしきものが出たシーンだと思います。
     ベアトと戦人のあいだには、ほとんど共犯にも似た信頼関係があったと思います。ベアトは戦人に解いてほしいと願って謎を生み出していたとも思います。

     でも、それでありながら「ベアトの赤字は事実でないときがある」と思っているのです。

     わたしの中では、これらのことはまったく矛盾をきたしていないのです。
     そのことについて、いくつか例を出して説明してみたいと思います。


    ●きちんと疑ってあげるという信頼

     わたしは、ちょっと感覚が変なのかもしれないのですが、恋人に嘘をつかれてもわりと平気なのです。
     ウソをつく権利は誰にでもある、というのが、わたしの基本的な考え方です。人には嘘が必要なときもあります。
     だから、わたしに対して嘘をつく権利があってもいい。そんな考え方です。

     ただ、わたしは、けっこう嘘を見抜くのが得意なほうだと自分で思っています。じっさいにどのくらいの打率なのかは判断する方法がないので、ひょっとしてうぬぼれかもしれません。でも、わりと「見抜き」の腕前はいいほうなんじゃないかな、と勝手に思っています。嘘はきちんと見破ってあげたい、というのが、わたしのスタンスです(めんどくさい人ですね)。

     この、
    「一方が嘘をつく」
    「他方が、それを見破る」

     というやりとりって、それ自体が「愛の確認」じみていないかな、ということを言いたいのです。

     相手のことを良く知るから、相手に興味があるから、そして、相手に対して「愛がある」から、見破れるのです。

     このことを、さらに一歩進めて、こう言いたいのです。

    「相手の愛を確かめるために、嘘をついてみる」
     そういうアクションは、ありうる。成立しうる考え方ではないだろうか。

     だとしたら、
     この場合の、「愛」は、「あいつは嘘なんかつかないはずだ」と、額面どおりに受け止めることではありません。
     逆説的ですが、
    「きちんと疑ってあげること」
     が、信頼を示すことであり、「見破ってあげること」が、愛を示すことなのです。

    「きちんと疑ってあげるという信頼」

     これをキー・フレーズとして、設定したいと思います。


    ●「つかまえてごらんなさい」という「信頼」

     おおむかし、何十年か前の少女漫画や恋愛ドラマには、こんな類型的なシーンがあったそうです。

     お花畑か、波打ち際といったムードのいい場所を、恋人同士が歩いている。
     女の子がとつぜん、
    「ウフフ、つかまえてごらんなさーい!」
     といって、笑いながら走り出す。


     この類型的場面では、女の子は、男から逃げだそうとするのです。
     これを見て、
    「女の子は、男のことが嫌で、一刻も早く彼の手から逃れたいのだな」
     と「額面通りに」受け取る人って、どのくらいいるのでしょうか。

     もちろん、そんな解釈は、あきらかに間違っています。
     女の子の発しているメッセージは、
    「私を追いかけて、つかまえてほしい」
     です。
    「つかまえてほしい」だから「逃げる」のです。逃げなかったらつかまえてもらえませんからね。

     この場面では、女の子は、彼氏が自分をつかまえてくれることを確信しています。
    「彼は、わたしを逃がさないよう、きちんとつかまえてくれるはずだ」
     と、彼を「信頼」しているのです。
     だから、安心して逃げられる。愛を試すことができる。彼の愛を試して、彼がきちんと自分を抱き留めてくれることを確認して、みちたりた気持ちになれるのです。

     そして、男の子のほうは、逃げ出した女の子を、きちんと追いかけてつかまえてあげるべきなのです。それが「彼女の信頼に応える」ことであるわけです。

     もし、逃げ出した女の子を、男がまったく追いかけず、つかまえるそぶりも見せなかったとしたら、きっと女の子のほうはひどく傷つき、ショックを受けるでしょう。それは信頼への裏切りであり、「あなたの愛を表現してみて」という要求に男が応えなかったということだからです。

     この例の場合、
     女の子が逃げ出すというのは、「応えてくれることを信頼したうえで愛を試す」ことであり、
     それをつかまえてあげることが、「愛に(信頼に)応える」ことであるのです。

     波打ち際で女の子が「ウフフ、つかまえてごらんなさーい」と逃げだし、男の子が「こいつーう、アハハハ」といって追いかける。
     これは「信頼関係」のやりとりである、というのが、わたしのいいたいことです。

     つまり……
    「妾をつかまえてごらんなさい」
    (私の嘘を見破ってごらんなさい、そして私の正体を言い当ててごらんなさい)
     といって、蝶のようにひらひらと逃げていたのがベアトリーチェで、

     それに対して、あれやこれやと難癖をつけて、なかなかまともには謎に挑もうとしなかった(ベアトリーチェを見破ってやろうとしなかった、彼女を追いかけてあげなかった)のが、Ep5までの戦人くんであった……

     というのが、わたしの基本的な受け取り方であるのです。右代宮戦人くん、しょうもない人ですね。

     わたしの理解のしかたでは、
    「ベアトリーチェは、戦人に謎を解いてもらいたいから、本当のことを言ったはずだ」という受け取り方は、
    「少女は、彼につかまえてほしいから、“逃げない”
     というのに相当します。

     でも、それだと、信頼が確認されないのです。

     愛を確認したいのなら、
    「少女は、彼がきっとつかまえてくれると信頼して、“逃げる”」
     べきなのです。
     だから、
    「ベアトリーチェは、きっと戦人が見破ってくれると信頼して、嘘をついた」
     この解釈のとき、むしろ「嘘が介在するからこそ」信頼関係がある、といえるのです。

     この場合、「ベアトリーチェをきちんと疑ってあげること」が、「信頼を示すこと」になるのです。

     ここには、金蔵翁が提唱していた「分の低い賭けに勝ってこそ、大きな配当が得られる」という確率魔術の影響もあるのかもしれないですね。
    「波打ち際で、ふざけて逃げる」のをつかまえるかつかまえないか、というのは、たいした賭けではありません。
     だから、それで確認される信頼や愛は、その程度のものです。
     が、
    「塔の上に幽閉され、悪い伯爵との結婚を迫られ、しかも命まで危ういクラリスを、危険を冒して大アクションのすえにルパンはさらうことができるかできないか」
     というチャレンジによって確認される信頼と愛は、波打ち際の他愛ない例とは、おのずとレベルが異なっているはずです。

     あとは、ベアトリーチェが、
    「ちょっとしたミステリークイズが戦人に解けるか解けないか」
     というレベルの信頼や愛を要求していたのか、
    「設問自体が卑怯だから、ほとんど正答不可能な謎を、それでも戦人が解けるか解けないか」
     というレベルで確認されるものを求めていたのか、そういう「程度の評価」をどこに置くかという問題になります。わたしは後者をとっているわけです。


    ●「作者を疑う」という信頼

    「ベアトリーチェを疑ってあげること」「彼女を見破ろうとしてあげること」が、信頼の行為なのだというお話をしました。
     ここでの「ベアトリーチェ」を「作者」に置き換えても、そのまま通用すると思うのです。

     わたしは、竜騎士07さんという人を、「ミステリー作家」だと認識しています。
    (そうでない人には、この項は意味がないかもしれないですね、すみません)

     ミステリー作家によく似た職業に「手品師」があります。どちらもトリックを駆使して、観客の頭の中に誤認を発生させ、それをエンタテインメントとして提供する仕事です。

     手品師への信頼というのは、「タネも仕掛けもありません」という常套句を額面通りに真に受けて、
    「ああ、タネも仕掛けもないんだ」
     と思うことでしょうか。

     違います。それはほとんど侮辱に近い。
    「不思議なことが起こった。タネも仕掛けもあるはずなのに、それがまったく見破れない。凄い」
     というのが、手品師への正しい尊敬のありかたです。
     タネと仕掛けと不断のトレーニングの成果を駆使して、とても不思議な現象を見せてくれるにちがいない。
     というのが、「手品師を信頼する」ということであるはずです。

     この話の「手品師」を、「ミステリー作家」に置き換えても、同じだと思うのです。

    「このお話のこのへんは、疑わないで真に受けてあげるのが、作者への信頼というものだ」
     という態度は、ミステリー作家への侮辱になりうる、とわたしは考えています。

     ミステリー作家への信頼とは、
    「いや、ここにだって騙しが入ってるかもしれない。油断できない。ひっかけてくる可能性がある」
     というように「きちんと疑ってあげる」ことではないでしょうか。

    「この作家は手なんか抜いてないはずだ。わたしたち読者をあなどらず、あらゆるアイデアと方法を使って、全力でわたしたちを騙しにきているはずだ」
     という「構えていてあげる」ことが、作家へのリスペクトであり、「信頼」である、とわたしは強く思うのです。

     作者インタビューから根拠をひっぱってくるのは好きではないけれど、そのものズバリの言及を見つけてしまったから、やむをえず、引用します。
     Ep2で描かれた、嘉音の光の剣や、紗音のバリアの描写を見て、「推理不能なファンタジーだ」と受け取った人と、「描写のトリックだ」と受け取った人の差についての話題です。

    竜騎士07:地の文の信憑性まで作品の仕掛けとして信じられるかどうかというのは、結局のところ筆者と読者の信頼関係で決まるのだと思います。だから「竜騎士07は『Fate』(編注:TYPE-MOONのノベルゲームシリーズ)が好きだから、単純にこういう要素を入れたのだろう」と考えた人はシンプルにファンタジーと受け取り、「これはトリックで、竜騎士07がオレたちを騙そうとしている」と、地の文に仕掛けがあると信頼してくれた人はマジカルバトルを乗り越えた。
    (【うみねこ対談】『EP3』は当初の予定よりも大幅に難易度を下げています(電撃オンライン))
    http://gameinfo.yahoo.co.jp/news/dol/107667.html


    「筆者と読者の信頼関係」というズバリのキーワードを口にした上で、竜騎士07さんは「作者が騙そうとしている」という受け取り方を「信頼」の態度であるというのです。


    ●愛しているからヱリカは見破る

    「きちんと疑ってあげるという信頼」
     という、逆説的なフレーズを思いついたとき、連想したのはヱリカのことでした。
     Ep6では、ヱリカの過去の恋愛の顛末が明かされました。

     いい加減にしろよ、俺のこと愛してんなら信じろよ。それができないなら、お前はもう俺のこと愛してないんだよ。
    (略)
     つかさ、そこまで俺が信用できないんなら、もう俺たちは終わってんだよ。


     これってちょっと、「赤字を信じられないってことは、作者との間に信頼を結ぶ気がないってことじゃないの?」というのに近いかもしれない、なんて思っちゃったのです。

     ヱリカが恋人の浮気を問い詰めたのは、ヱリカが相手を愛していないからでしょうか。
     逆です。
     愛しているから疑って、
     愛しているから見破ったのです。

     愛してなかったら気づきません、責めもしません、私だけを見て欲しいと願いもしません。
     つまり、愛してなかったら追いかけてつかまえはしない。愛しているから嘘を見破り、愛しているから離れつつある恋人を追ってつなぎとめようとした。

     でも、忌避されてしまった。ヱリカは「波打ち際で走り出した恋人を、つかまえてあげた」のに、それは恋人の望むことではなかった……。たぶん、あつくるしい束縛だと受け取られたのでしょうね(可哀想に)。
     ヱリカの恋人だった男にとっては、愛はそういうものではなかった。もしくは、この男は、愛や信頼について、その確かめ方について、なにもわかっていない男だった。


     ベアトリーチェと古戸ヱリカ。この2人の魔女は、
    「追いかけて欲しくて逃げたのに、つかまえてもらえなかった女の子」
     と、
    「愛のために恋人をつかまえたら、憎まれてしまった女の子」
     というふうに、対比で見ることができそうなのです。

    「逃げて、つかまる(つかまえる)」
     というやりとりを、「愛の確認行為」とみるとき、2種類の「不成立のかたち」をあらわしたものが、ベアトリーチェと古戸ヱリカであるといえそうです。「逃げる」側と「つかまえる」側、両側から見た「不成立」を描いている、とみるのですね。

         *

     この話の延長上に考えを進めたら、古戸ヱリカに関して、いくつか気づいたことがありました。
     次回、そのことについて書きます。

    (続く)
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