![](/contents/069/784/305.mime4) | 「疑うという“信頼”(上)・ベアトリーチェは捕まりたい」 no41583 という記事の、直接的な続きです。(上)をあらかじめ読まないと、理解できない場所があるかもしれません。
●真偽が分からないから苦しい
ヱリカは、「浮気をしていない、ヱリカを愛している」という恋人の主張を論破し、しりぞけたようです。 でも、ヱリカが本当にしたかったことは「論破」ではないはずです。 ヱリカは相手に、浮気を認めさせたいのではなく、 「私はあなたをこんなに愛しているのだ、それを認めて欲しい」 「私のほうを向いてくれることで、それを表して欲しい」 と願っていたはずなのです。 外面的には、「恋人の浮気を詰問する」という行動を取ったわけなのですが、そこにこめられている感情は、 「愛して欲しい」 であったにちがいないのです。
ヱリカが、恋人に求めていた答えは、 「浮気をしていたことを認める。その上で浮気相手とはきれいに別れ、ヱリカだけを愛すると約束する」 といった落としどころだったであろう、と思います。
ところが、恋人の答えは、 「浮気なんてしてねぇ〜よ、おまえのことは愛しているし」 でした。 (状況からいって、たぶん)
ヱリカから見れば、浮気をしているというのは物証のある確実なことなのです。ということは、彼のこの答えは、 「俺は今後も“ふたまた”を続ける」 という宣言であるも同然です。
だからこれでは、たとえ「愛している」というセリフを聞いても、額面通り受け取ることができません。この答え方では、ヱリカは「ちがうでしょう、浮気をしているでしょう!」という詰問をやめることができないのです。
彼は「愛している」と言っているのに、それを真実として受け取ることができない。 そういう状況が発生しています。
欲しくてたまらない「愛している」という言葉。なのに、その言葉の「真偽」が判定できない。
古戸ヱリカは、きっと、「真偽が判定できない言葉」に苦しめられたのです。
ドラノールも言っていますが、彼の「愛している」という言葉を、ヱリカは真実とは思えない。でも彼は、それ以上の「真実を証明する方法」を持ち合わせていません。 古戸ヱリカは、「その真実」が欲しくてたまらないはずなのに、それを真実だと思うことができずにいる。
もし、人間の世界に赤い文字があったら、赤い字で「愛している」と言って、それで真実になるのに。
だからヱリカは、こんなことを言うのでしょう。
「………私は今、幸せです。………仮とはいえ、真実の魔女になれて。 ……今の私は、もう、赤くない言葉に苦しめられなくて済むのだから。」
ヱリカは、「赤」に強く執着しているような印象があります。 人間の世界には、真実が保証される赤い文字はありません。 ヱリカにしてみれば、魔女の世界の赤い文字にこめられた「疑問を抱く必要がない信頼性」は、救いのように感じられた……のかもしれません。
真実の「赤」さえあれば、真偽不明の言葉に煩悶することはないのです。
●古戸ヱリカの「か弱い真実」
ドラノールは、2回にわたって、「古戸ヱリカのか弱き真実」のことを口にします。
…………あなたのような男が世界にいてくれたナラ。 どのような傲慢からも、か弱き真実を守ってくれたに違いナイ。 もっともらしい一つの真実が、か弱き真実たちを駆逐し、唯一の真実であると語る横暴から、……本当の真実を守ってくれたに違いナイ…!! (Episode5)
「……傲慢を、お許し下サイ。……私は、守らねばと思いマシタ。……あなたがどんなか弱い真実で生き、それをよりもっともらしい虚実の横暴で虐げられてきたか察したとき。……あなたを守りたいと思いマシタ。」 (Episode6)
たとえば。 疑う余地がないとされる赤い文字が「力強き真実の言葉」だとしたら、赤い文字を使うことができない人間たちの主張はすべて、「か弱き真実の言葉」といえます。
Ep5でドラノールは、戦人を見て、「か弱き真実の守護者だ」という感想を抱きました。 このとき戦人が何をしていたかというと、 「赤い文字を使えないがために、殺人犯の汚名を着せられそうになっていた夏妃を、たった1人で守り抜いた」 のでした。
「自分は犯人ではない」という夏妃の主張は、赤い文字を使うことの出来ない「人間のか弱き真実」でした。 だからたとえば、「ヱリカを愛している」という恋人の主張は、赤い文字を使うことのできない「人間のか弱き真実」であるといえます。
ところが、その「彼氏のか弱き真実」を、嵐のような論証でボコボコに打ち砕いたのは古戸ヱリカその人だったわけです。 古戸ヱリカは、か弱い真実どころか、それを打ち砕く「横暴な真実」の側じゃないのか? という疑問が生じます。
でも、ヱリカと恋人のエピソードを読み直してみると、以下のようなことが言えそうなのです。
「そんなに疑うってことは、おまえは俺を愛してないんだろ」という「青」 を、ヱリカもまた、つきつけられている。
人間であるヱリカは、この「青」を赤で斬ることができません。
「ヱリカは彼を愛している」のです。それが真実であるにも関わらず、真実性を証明できないため、「真実でない」ことにされてしまいました。 それで、「お前が俺を愛さないなら、俺もお前を愛するのをやめる。別れよう」という論法が発生し、ヱリカは振られてしまうのです。
「私はあなたを愛している」 という「か弱い真実」は、 「お前はもう俺のこと愛してないんだよ」 という、もっともらしい横暴な真実に打ち負かされてしまったのです。
たぶん、ヱリカが「か弱い真実で生き」てきたというのは、これひとつのことではないと思います。 これに類することが、いくつもあったのだろうと推測します。 守りたい小さな真実が、ヱリカにも、いくつもあった。それらは、より強くてもっともらしい「大きな真実」に押しつぶされてしまった。 その繰り返しが、今のヱリカを作ったのだろうと想像します。
●ヱリカが落ちた「真実しかない」地獄
ヱリカは、自分の体験した地獄は、ラムダやベルンが経験した地獄よりも深い、と言っています。 彼女の経験した地獄とは、 「ただ、真実があった」 というものである、と語られます。
その真実に「耐える」力を持ち得たから、ヱリカは「真実の魔女」であるのだ、とヱリカ本人が言っています。
でも、「ただ、真実がある」ということが、どうして「地獄」なのだろう? この問題を、これまでの話の延長上で考えてみます。
*
ヱリカの願望は、 「恋人が、私を愛してくれている」 という「真実」があってほしい、というものでした。(と、思います)
だから、恋人が浮気をしていないか気にして、確かめようとしたのです。
確かめた結果、彼が浮気をしている証拠が84点、発見されました。
それを発見したのは、ヱリカです。 「彼は浮気をしている」という結論を導いたのは、ヱリカです。 俺は浮気をしていない、という「か弱い主張」を打ち負かし、「あなたは浮気をしている」という力強い真実を打ち立てたのは、ヱリカでした。
つまり……。 「恋人が、私を愛してくれている」という真実が欲しくてたまらなかったのがヱリカなのに、 「恋人は、私以外の人を愛している」という真実を打ち立てることで、それを蹂躙してしまったのはヱリカ本人なのです。
地獄というのは、これじゃないかな……と思ったのです。
ほんとうに大切にしたい「小さなか弱い真実」を、打ち負かして泥にまみれさせてしまう「より強力な真実」。それをどうしても自分自身で発見してしまうこと。
必ず自分で見つけてしまうので、小さな願いを打ち負かす冷酷な「真実が、いつもある」こと。
たぶん、古戸ヱリカは頭が良すぎるのです。それが、きっと、彼女の地獄の正体です。
頭の回転がにぶければ、冷酷な結論にたどり着くのを、えんえん引き延ばして遅らせることができます。 あまりたくさん考えない人は、「思考停止」することで、いやな感じがする方向にはものごとを考えない、ということができます。
でも、目が良すぎ、感覚が鋭すぎ、頭の回転が速すぎる古戸ヱリカにはきっとそれができない。自分でも「あっ」と思った瞬間には、もう「否定的な、冷酷な真実」にたどり着いている。
こうして、彼女が手に入れたい「か弱き真実」たちは、常に、必ず、いつも、より大きく強い別の真実によって駆逐される。 それはまさに「ただ、真実があ」る世界です。 冷酷な事実だけが常にあることによって、 「願いはひとつも叶わない」世界である。 そう言えると思うのです。 それは地獄かも知れない。
ベルンカステルの地獄は「奇跡が起これば、願いが叶う(脱出できる)」ものでした。 ラムダデルタの地獄は「絶対の意志があれば、願いが叶う(脱出できる)」ものでした。
古戸ヱリカの地獄は「願いは、叶わない」ものかもしれません。 必ず冷酷な真実が立ちはだかるので、「願いは叶わないのだ」という条件。それに「耐える」ことが真実の魔女の資格なのだとしたら、 「彼女は、まだ地獄から抜け出ていない」 のかもしれない。 地獄から決して抜け出せないという事実を受け入れることができる。それに耐えることすらできる。 そんな力が彼女にあるのだ、と仮定すると、 「いまだに地獄がトラウマになっているベルンカステルを、少しヱリカは見くだした」 という描写にも、納得がいくような気がします。
ヱリカは、主ベルンカステルに愛されたいと願っています。 でも、ヱリカは、ベルンカステルが自分のことをゴミ程度にしか思っていないという「真実」を、ちゃんと知っているはずです。知っていて、それに耐えているのです。
●自分の声に、耳をふさぐことはできない
Ep6では、真里亞とヱリカの対決が描かれます。 真里亞は、 「クラスにはヱリカみたいなことをいう男子がいっぱいいる。そんな言葉にくじけているようでは魔女にはなれない」 という意味のことを言いました。
真里亞が大事に守りたい「か弱き真実」は、 「魔女ベアトリーチェは“い”る。魔法はほんとうに“あ”る」 というものです。 彼女はきっと学校で、「そんなものいない、魔法なんてない」という横暴な真実に、毎日さらされ続けているのでしょう。 彼女は日々、それに「耐えて」いる。だからヱリカは「グッド、根性は悪くないです」と、真里亞を部分的に認めるのだと思います。
けど、真里亞には悪いけれど、「他人から突きつけられる真実」に耐えるのは、そう難しいことではないのかもしれない。 聞こえてくる声には、耳をふさげばいい。耳に入ったとしても、とりあわなければいい。「お歌を歌うから、何も聞こえない」。反発心を支えにすることもできます。 たとえすべてを論破されたとしても、「それでも私はこの弱い真実を信じるのだ」と言いつづければ良い。
初期の戦人は、「密室トリックとかはひとつも説明できないけれど、それでも魔法なんてありえないんだ」と居直りのように主張していました。その態度が正解なのです。それで十分、彼の「魔法なんてない」という真実を守ることができます。
でも戦人は、Ep3での「ベアトリーチェってやつを、魔法ってものを、ちょっとぐらい認めてやってもいいかな……」という「自分の心」には、まったくの無防備でした。
「恋人は私以外の人を愛しているんだ」という強力な真実は、ヱリカ本人が見つけ出し、組み上げたものなのです。 耳をふさいでも、自分の声は聞こえます。「自分の考え」を、考えないでいることはできません。横暴な真実も「ヱリカの真実」なのです。そこから目を背けたり、「とりあわないでいる」ことはできない。 相反するふたつの真実を、ひとりの人間が同時に持ち続けることは、困難です。 よって、どちらか一方が必ず選ばれ、どちらかは捨てられるさだめになります。 (何だか家具の決闘みたいだ) 強い真実のほうが勝つので、か弱い真実は、「真実の座」を失います。 ヱリカの本心が望んでいたのは「か弱い真実」のほうだったのに、それはどんどん、奪い去られていく。
(この推理における)ヱリカの世界では、「温かい、か弱い真実」は常に敗北し、「冷酷な強い真実」が常に勝利します。
それが何度も何度も繰り返された結果、古戸ヱリカは、「そういう世界観を受け入れた」のだろうな、と想像します。
「より強い、より冷酷な、揺らぎのない真実」が、常に勝利するのだ。 そういう世界観のもとで、彼女は生きるようになった。そうでなければ生きていけない、というべきかもしれません。「か弱い」側を完全に断念し、「強い」ほうに意識的に属することで、彼女はようやく生きていくことができる……。
古戸ヱリカがそういう内面を持つのだとしたら、 「魔法がある」なんていう、今にも壊れそうな弱々しい真実を、だいじにだいじに持っている真里亞みたいな少女に出会ったら、そんな真実は断固として破壊しなければなりません。 自分が断念してしまったものを、他人が持っているべきではないからです。 自分の真実が「強く、正しい」ことをきちんと証明しなければ、世界観がゆらいでしまうからです。
ドラノールが疑問に思った、「なぜ真里亞の幻想をむきになって破壊するのか」「そこには負の感情が感じられる」ということの答えはこれではないかな、というのが、ひとまずここでの結論です。
●矛盾した願望を並列させる世界
「相反するふたつの真実が存在したとき、“か弱い”ほうは常にうち捨てられ、強いほうが“唯一の真実”となる」 という冷酷な世界観を「受け入れさせられ」、そのことに耐えてきた古戸ヱリカ。 そういう人物解釈をしました。
この世界観は、先にも書きましたが、「家具たちの決闘」に酷似しています。
「相反するふたつの願望を、ひとりの人間が同時に持ってしまったとき、どうなるか」
という状況を、執拗に描いているのが『Ep6』なのかもしれません。
だから、 「相反するふたつの真実(クローゼットの中/ベッドの下)が、両方同時に、等価に存在していい」 というゲーム盤に、彼女は涙したのかもしれません。わたしは初読のとき、「泣くほどのことかな」という印象だったのですが、今回の人物解釈にしたがえば、少し納得がゆくのでした。
●赤文字再び
わたしたちの世界に「赤字」があったらどうなるだろう、と、ふと考えてみました。
ヱリカは、赤字が使えなかったから、自分の愛を相手に納得させられなかった。ヱリカの恋人は、赤字が使えなかったから、自分の愛をヱリカに納得させられなかったのです。赤字さえあれば、すべてが問題なかったような気がする。
でも本当にそうだろうか?
誰かから、赤い字で「あなたを愛しています」と言われたら、わたしはそれを信じるだろうか。 どうもピンとこないのです。 「字を赤くするかどうかで済ますんじゃなくて、もっと他のことで表わしてよ」 って、わたしは言いそうな気がする。
赤字を使って、それを言われるということは、 「白い字で“あなたを愛しています”と言われても、そう額面通りには受け取れない」 という状況が発生しているはずです。 そういう気持ちでいるとき、「字が赤いから、“あなたを愛しています”には信憑性があるな」という判断になるかなあ。
そうは思えないのです。 「コトバでしかない」のは、白も赤も変わらないからです。
ベアトリーチェは、戦人のことを愛していたらしいのです。でも彼女は、「あなたを愛しています」なんて、赤い字で決して言いませんでした。 戦人は「赤は真実を語る」と信じているのですから、赤で「愛してる」と言ってしまえば、いくつもの事柄が、スムーズに運ばれたはずなのです。 でも彼女は、そんなことはしなかった。
わたしは個人的に、赤字を信じてない、という立場の人なのですが、それとはちょっとニュアンスの違う話だと思って下さい。 ものごとの真実性とは、文字が赤いか白いかといった「外部からの保証」に左右されるべきではない。 ……といったことを、わたしの皮膚感覚は訴えかけています。
(了)
八城十八(猫顔)のアイコンが実装されなかった……カナシイ。
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